[ゲーム][PS2] 悪代官
爆笑地獄へようこそ「悪代官」の連鎖する笑い
「悪代官」は笑えるゲームだ。
それも、洗練され機知に富んだ、なんて形容からはほど遠い、くだらなくてばかばかしくてひどい方面の笑い。
こんなものに笑ってしまうなんて、と、自分の品性を疑ってしまうような、そんな笑いだ。
だが、何が笑いを誘うのか、どんな人なら笑えるのか、といったことを追求してみると、意外なほど多様な笑いの源泉が絶妙にくみ合わさっていることがわかる。これは、ただの笑えるゲームではない。そんな単純なものではないし、だからこそ、誰もが笑えるようなものでもなかろう…と、腹筋が痛くなるほど笑い転げつつ思った。
そういうわけで、まずはどんな笑いがあったのかを挙げていこう。
■よいではないかよいではないか:悪代官という造型に潜む笑い
まず何よりも、悪代官という造型に内在する滑稽さが挙げられる。時代劇のパターンが作り出す笑い、とも言えるだろう。山吹色の菓子を越後屋やら大黒屋から受け取り、「おぬしも悪よのう」と密談し、善良な町娘を「よいではないか」と帯回しする。一つのドラマに限定して見れば、わかりやすく表現された悪事に過ぎないが、時代劇というパターンが踏襲されるドラマにおいて、悪代官もまたパターンだ。ゲーム「悪代官」はこのパターン上の悪代官が主人公であり、当然、パターン化されたお約束が繰り返される。特に顕著なのはムービーでの密談やミニゲームであろうか。
が、考えてみて欲しい。彼らのパターン化された悪事は、最後に誅せられる。所詮は勧善懲悪の文脈の中でのみ繰り広げられる悪事でしかない。いかに非道なことを行おうが、視聴者には結末が見えている。だからこそ、悪代官というパターンは滑稽なのだ。開発者の言う「愛される悪代官」は、このパターン化された世界の住人なのである。
ところが「悪代官」は、この結末を持たない。天誅を下しにやってくる者達を返り討ちにするゲームなのだから。天誅を下されない悪代官など、滑稽でもなんでもない、単なる悪人ではないか。(妥協して悪代官を「悪事を働く代官」と考えても、ゲーム後半の主人公はどう見ても代官の仕事をしていない)
悪代官というパターンに滑稽さを加味していた要素が除かれ、パターン化されたいくつかの行為が切り取られた。だが、そうやって切り取られた帯回しやら密談やらには、一つの問題がつきまとう。
それで面白いの?
そう、これだけでは面白くないのだ。
少なくとも、何度も見てその都度笑えるようなものではない。
■もー、時代劇とかじゃないだろコレ:メタな時代劇パロディとしての笑い
そこで。
時代劇のパターンを切り取っただけでなく、時代劇という枠も外してしまう。次なる笑いの源泉は、そこにある。まがりなりにも時代劇の見かけでありながら、平気で時代劇にはありそうにないものを取り入れる。時代考証が変とかそんなレベルではない(むろん、時代考証なんてされているわけがない。新撰組と水戸黄門と金さんと赤穂浪士が同じ時代なわけがあるもんか)。大黒屋の携帯の着メロが「悪代官」のタイトル画面で流れる曲だとか、そんなレベル。それ自体のおかしさというよりは、それが時代劇の中にあることが誘い出す笑いだ。
前掲の台詞は、あるステージの敵襲撃時の悪代官のものなのだが、これほどこの珍妙な事態を言い当てた表現もなかろう。第一に、この台詞が発せられる状況がまさに「時代劇じゃない」という点。少なくとも、誰もが知っている時代劇では普通ピラミッドは舞台にはならないし、ファラオのマスクの呪いだのミイラだのは、どう考えても時代劇の語彙にはない。
第二に「時代劇"とか"じゃないだろ」という言い回しそのものが、いわゆる時代劇口調とはほど遠いものであるということ。
第三に、この台詞が悪代官自身によるツッコミであること。たぶんこの舞台だとわかった瞬間にプレイヤーが心のどこかで入れていたであろうツッコミを、時代劇の登場人物が時代劇の中で行うという、メタな視点に立った台詞なのだ。
つまりこの台詞が発せられること自体が「時代劇とかじゃない」わけだ。まるで、ほりのぶゆきの漫画そのまんま。時代劇を舞台にしつつ、時代劇というシチュエーションを笑うパロディが展開されている。
■誰かに似ていますが、気のせいです:時代劇とは無関係に用意された笑い
もちろん時代劇から離れたところで笑わせるギャグには事欠かない。たとえば密談の部屋は、どんな状況にあっても同じ部屋である。「この部屋は変わらんのう」「サービスにござりまする」と毎回繰り返されるのだが、これが徹底されまくる。宿場町の路上に畳。長崎の洋館の奥に畳。ピラミッドの片隅にも、畳。
あるいは、いくらなんでもそりゃなかろう、と脱力するような罠や用心棒や武器の説明(たとえば、「オクタン価を高めることで燃焼時間を伸ばすことを実現した」油壷・竹や「近づくと、中にひそむシキガミが自爆する」火吹土竜(地雷)・竹など)。
時代劇にとどまらないパロディも豊富だ。ガンダムネタ、タイタニック、どう見ても鈴木宗男(気のせいらしいが)な北方堂店主。天井突きミニゲーム(天井が動いたら槍で天井を刺し、曲者をしとめる)で、槍を逃れた忍者がとる「命」のポーズ。
あとさき考えてないっぽい駄洒落(岩を転がす罠「岩石の母」が「仕掛け槍」「落とし穴」「油壷」なんていうわかりやすい名の罠の間に混じっている)。列挙すればきりがないが、狙って仕掛けられたと見えるギャグが、つくづく豊富だ。
■位はアニサキス:意図せざる逸脱による笑い
そして、これらの笑いの源泉をベースに燦然と輝くのが「逸脱」の笑いである。
こういう方向で笑わせようというのがわかっても、その方向がとんでもなく桁はずれていて常人の理解可能な範囲を越えてしまう、そんな場面が普通に見られるのだ。「意図せざる」と書いたが、もしこれが計算ずくだったら驚嘆を禁じ得ない。
たとえばステージクリア時に表示される「位(くらい)」。普通であれば、費用や時間などから算出されるランキングが表示されるところだ。だがこの「位」は何をどう表しているのか、さっぱり理解不能なのだ。「ドケチ兵法」がどうやら再利用可能な罠を多用した時に出やすいかな(いや、そうなのかはわからんけど)、というのはわかる。連鎖で瞬殺して「風林火山」なんてのも。やっとのことでクリアして「アニサキス」だの「便所蠅」だのと言われるのもまあ、ヘタレな倒し方だったのかなあ、と脱力しつつも納得できる。
だが「狐ニュース」「無敵村」「人気空母」「留守番王者」「オヤジっ子」などとなるともはや何がなんだか。中でも「宇宙漁船」なんて、どうやって思いついた言葉だろう?いくら星1つとか1つ半にしても理解不能である
駄洒落にしても、常人の理解を越えるひねりっぷりが散見される。茶運人形がガンダムネタらしいということに思い至っても(「茶運人形転甲」の解説に「ヒゲはない」とあるのを見て初めて転=ターン、甲(十干の一番はじめ)=Aと気づいた…)、性能と名前の元ネタにまるで関係がないので気づきにくいし、気づいてもだからどうだと言われると困る。
気づいた人はニヤリ、てな洒落っ気を意図していたのだとすれば、かなりの程度失敗しているんじゃないかとさえ思われる。というか、ここまでひねって何をしたかったのか、既に見えなくなってしまっているのだ。
むしろ、気づいてしまったがゆえに笑うどころかかえって脱力してしまい、その自分の脱力っぷりにさらにかえって笑ってしまうことの方が多い。おそらく初めに狙っていたであろうポイントとは完全にはずれたところで、笑いが起きてしまうのである。
■すべてが笑いに
そして、そんな逸脱っぷりを笑えるようになれば、「悪代官」はとたんに隅々まで笑えるゲームになる。システムやグラフィックのヘタレ加減も、むちゃくちゃな罠の仕様も、ゲームバランスの悪さも、すべてが笑いのネタに見えてくるのだ。
トラップを仕掛ける舞台が毎回変わるのに全景がわからず、どこから敵が来るのかもわからないことも、
橋の上に落とし穴を仕掛けられるのも、
ステージの進行と難易度がさっぱり対応していないのも、
新撰組が38人も出てくるのにほとんどは瞬殺できてしまうことも、
時折処理落ちするのも、
1スロットのメモリーカードしか認識しないことも、
スタート画面でしかロードができないことも、
微妙に間違っている箇所もある地獄名も、
取説のミスプリントまでも、すべてがギャグに思えてきてしまう。笑えないところがないほどに。こうなってしまうとあとは笑いの連鎖にはまるだけである。
この段階に到達できるかどうかの岐路は、「インターネット殺人事件」のレビューにある究極のテーゼを受け入れられるかどうかだろう。
曰く「人は紙」。 個人的に、これは名言だと思っている。
木と紙でできている日本家屋よりもはるかに燃えやすい人体。敵も用心棒も悪代官本人も、炎にちょっと触れただけで引火し、逃げまどう。…服に火がついているというならわかるが、ほぼ裸同然の力士でさえ同じように引火する。炎は逃げまどう人々の近くにいる人に燃え移る。ふすまや障子や畳は無事なのに、人だけが炎の洗礼を受ける。さながら戦場のごとく地雷(火吹土竜)や爆弾(裂け樽)が炸裂しまくる板張りの廊下をものすごい勢いかつ無傷で突破する驚異の水戸のご老公にだって火はつく。この世界に存在する以上、紙という宿命からは逃れられないようだ。
冷静に考えれば地獄絵図だ。むろん、こういう「ひどい」笑いを「クレイジータクシー」や「ポスタル」などの洋ゲー的なものになぞらえるのも可能なのだが、それが意図されているにしてはあまりに、人が燃えやす過ぎる。あまりの燃えやすさに笑い転げ(その隙に悪代官自身にも引火していることもよくある話だ)、それどころか燃えているところを利用して罠の連鎖を狙ったり、逃げまどう安い用心棒を導火線がわりにしてしまえるようになれば、もうはまったも同然である。
人が死ぬとか殺すとか残酷とか、そういう感情を呼び起こすにはあまりに燃えやすい人々。罠という点で比較されやすい「刻命館」シリーズとは、あまりに重みが違う。罠を仕掛けて敵を倒すという点では共通しているものの、「刻命館」シリーズと「悪代官」には相当の隔たりがある。そもそも、どこで何を仕掛けていつ発動させるかという戦術を練らなくてはならない前者と、あらかじめ消耗品の罠を全部仕掛けておかねばならない後者とでは、仕掛けようもかなり異なってくる。さらに「刻命館」シリーズの敵は、生きている人として描かれている。主人公を狙ってくる動機や事情(子供の病気を治すために賞金を…とか)が示されており、だからこそそんな相手を殺してしまう「悪」がプレイヤーに課せられる。その行為を正当化するための状況が作り出され、かつ、敵を罠にはめて殺すペナルティ(選択次第で陥る絶望的状況や、トラップ使用の代償としての使用者の生命)が用意されている。「悪代官」にはそれはない。だって、紙だから。
この域まで行ってしまうと、もはや時代劇であるかどうかということも、罠を仕掛けるゲームかどうかということも、どうでもよくなる。すべてをどうでもよいほどに置き去りにして笑いの彼岸にかっ飛んでいったゲームなのだ。
恐らくは、こんなものになってしまうことなど、誰も意図していなかったのではなかろうか。時代劇の滑稽な悪役を主人公にしてふんだんにギャグを盛り込み、笑わせようという意図は感じられるのだが、結果的にできあがったものは、おそらく意図しないところでまで笑わせるものになってしまったように見えるのだ。たぶん、悪代官を題材にした笑い(ほりのぶゆき風味)を真摯に追求してみたら、予想の斜め上を行くおかしさに結晶してしまったのではないか。
それでいて、やはり「悪代官」は時代劇なしにはありえないゲームだったという点は取り逃がしてはならないだろう。ほりのぶゆきの時代劇ギャグが時代劇の舞台でこそおかしさを増すものであったのと同じように、「悪代官」は時代劇のある世界ではじめて成り立つ笑いなのだ。時代劇によらない笑いがどれだけあったにしても、結果的に時代劇がいかにどうでもよくなったにしても、出発点に時代劇がなければ(そして時代劇を笑う素地を持ったプレイヤーが立ち会わなければ)、笑いの連鎖はスタートすらしなかったのである。
02.09.14
沢月亭
http://www.sh.rim.or.jp/~mia/ToHeart.html