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1975年1月2日木曜日

[機器][ゲーム] マグナボックス社/エポック社テレポン~テレビゲーム登場










[機器][ゲーム] エポック社テレポン~テレビゲーム登場
日本のテレビゲームの歴史
History of Japanese Videogames
ニンテンドウ64,プレイステーション,そしてドリームキャスト・・・。
今でこそテレビゲームの発進地は日本ですが,創成期,テレビゲームの開発が盛んだったのはやはり海外でした。
アメリカで産声をあげたテレビゲーム,その第1号機を発売したマグナボックス社と技術提携を結び,日本ではじめて家庭用テレビゲームを発売したのは,玩具メーカーの大手・エポック社です。
このテレビゲームは「テレビテニス」という名前で,昭和50(1975)年9月,定価19,500円で発売されました。
この頃のテレビゲームはもちろん白黒。画面を左右に飛びかうボールを,2人のプレイヤーがパドルを使って互いに打ち合うという,「ポンテニス」ゲームといわれるものでした。
テレビテニスはポンテニスの中でもさらに初期のもので,かんたんなゲームサウンドは奏でたものの,得点表示はできませんでした。
構造は電子工作の延長とでもいうもので,LSIは使われず,すべてICで構成されていました。また,ノイズ対策が完璧ではなかったため,なかなか安定したゲーム画面を見ることができなかったようです。
テレポン(1975年?・エンテックス社)...
残念ながら,わがオデッセィにはテレビテニスがありません。
これはまったく同じゲームが遊べるテレポンです。
こうして記念すべき国産テレビゲームが売り出されたのですが,その売れ行きはパっとしなかったようです。
テレビテニスを売るおもちゃ屋にしても,デパートの玩具店にしても,現在のようにテレビを置いてデモンストレーションするというような光景はほとんど見られなかったため,アピール度が弱かったのです。
また,¥2,000くらいの価格のおもちゃが主流だった当時としてはかなり割高に感じられたのでしょう
エポック社では約30,000台を出荷したと当時の業界誌にはありますが,実際に売れたのはそれより少なかったようです。
■第一次テレビゲームブームの光と影
テレビテニス以降,しばらくはどのメーカーもテレビゲームを発売していません。
理由はいろいろ考えられますが,とにかく高いこと,ゲームの種類が少ないこと,独自のテレビゲームをICで組むということは,技術的にもたいへん難しかったことなどが考えられます。
それから1年ほどたった1976年夏,東京は秋葉原の電気街が発信源となって,にわかにテレビゲームのブームがおこりはじめていました。
アメリカの半導体メーカー・ゼネラルエレクトロニクス(G.I)社が,いままでICでつくっていたゲームを集積し,さらに数種類のポンテニスゲームが遊べるゲームLSIを開発したのです。
そのゲームLSIとパドルなどのパーツがキットセットになったものを電気屋さんが店で組み立て店頭にならべたところ,これが飛ぶように売れはじめたのです。
それからの勢いはすさまじいものでした。とにかくテレビゲームが売れまくり,キットセットでは足りなくなってきたため,海外から完成品を輸入するようになってきましたが,より効率的に,日本国内で回路を組み,独自でテレビゲームを組み立て発売する会社があらわれました。
ゲームLSIも次々とあたらしいものが開発され,遊べるゲームも4種類から6種類,8種類とどんどん増え,白黒から美しいカラー,多彩なゲームサウンドとどんどん強化されていきました。
この1977年の一大ブームを俗に「第一次テレビゲームブーム」と言います。
ゲームLSIを採用したテレビゲーム ・・・テレビテニスに比べていっきにゲーム性がアップしたポンテニスです。
G.I.社が開発したAY-3-8500というLSIは,4種類のポンテニスと2種類の射撃ゲームが遊べました。これにいくつかの部品をつけるだけで,テレビゲームができてしまうのです。
バンダイ,トミーといった玩具大手はもちろん,ナショナル(松下),日立などの大手家電メーカーから小さな町の下請工場までありとあらゆる企業がテレビゲームを作りまくり売りまくりました。
オデッセィが調べただけでも,この1977年に発売されたテレビゲームは50種類以上という空前絶後の数になります
この異常な数にはわけがあります。テレビテニスの頃,各社がテレビゲームをつくらなかった理由を覚えていますか。それは技術的,コスト的に問題があったためです。 ところが,このゲームLSIを使ったテレビゲームは,作ることがたいへん簡単で,効率がよく,しかも安いのです。
だから,どんなに小さな会社でも,それなりのテレビゲームをつくって発売できたわけです。しかし,これには落とし穴がありました。どのメーカーも既存のゲームLSIを使っているだけで,自らゲームを考えようとしないのです。
だから,あたらしいゲームがほとんど現れず,しかも出たら出たでよくばった高価な値段をつけたため,やがて1年ほどでブームはしぼんでしまいました。当然のことと言えるでしょう。
第一次テレビゲームブームの頃のある電気店 ・・・
テレビゲームの火付け役は,おもちゃ屋ではなく電気店だったのがミソ。お店にならぶテレビにテレビゲームを接続してデモンストレーションをおこなったところ,順番待ちがでるほどの大盛況だったそうです。
よく見ると,AY-3-8500タイプのテレビゲームのようですね。(「電気店」1977年4月号より<電波新聞社>)
■エポック社と第二次テレビゲームブーム
そんな,あぶくブームの中,独自に研究と努力を重ね続けていたメーカーがありました。エポック社と任天堂です。
そしてこの2社がその後のテレビゲーム業界の幹となってゆくわけです。
ブームが完全に終わった1978年,エポック社はNECと共同開発したテレビ野球ゲームを発表しました。
これはゲームLSIではなく,1チップマイコンを搭載したまったく新しいテレビゲームです。
そして社会現象となったインベーダーブームが到来,エポック社は¥16,500という誰でも買える価格でテレビベーダー(1980年)を発売しました。
インベーダーゲームのような複雑な内容を家庭用に移植しようとすると,マイコンシステムが必要で,それはたいへん高価なテレビゲームでしかできないことでした。ここで,エポック社は,テレビ野球ゲームで採用した1チップマイコン技術を使い,これを安く実現したのです。
それまでたいへんな開発費をかけてきたといわれる同社の努力が実を結んだ結果といえるでしょう。このテレビベーダーは子供たちに大いに歓迎され,いよいよ本格的なカセット方式を採用したテレビゲーム・カセットビジョンが登場します。
カセットビジョンのヒットにより再びブームが再熱した日本のテレビゲーム市場は,やがて本格的なマイコンシステムを搭載したテレビゲームが登場しはじめます。
1983年から1984年にかけて登場したテレビゲームは約25種類以上。第二次テレビゲームブームの到来です。
そのどれもが当時静かなブームを呼んでいたホビーパソコンの機能に片足をつっこんだパソコンタイプ・テレビゲームでしたが,この戦国時代を統一したのが,パソコン機能をすべて排除した純粋なテレビゲーム,任天堂のファミリーコンピュータだったのです。
■テレビゲームのリーダー・任天堂
任天堂は第一次テレビゲームの時でも,すぐれたテレビゲームを発売していました。
発色がよく,音もきれいで,ゲーム内容も豊富な「カラーテレビゲーム15」「カラーテレビゲーム6」がそれです。
その後も「レーシング112」「ブロック崩し」を発売。海外のゲームLSIに頼らず,独自で開発したゲームで,その後,電子ゲームの「ゲーム&ウォッチ」シリーズを大ヒットさせています。このヒット期間中に”10年先まで遊べるテレビゲーム”の開発に着手,¥15,000という破格の値段に,大ヒットゲーム「ドンキーコング」をひっさげて登場したファミリーコンピュータはあっというまに,日本のみならず,世界中で大ブームを巻きおこしました。
美しいフルカラー52色,3重和音のゲームサウンド。アップル系列の68系MPU。アーケードゲームをつくったデザイナー,技術者たちが”おもしろいゲームを遊べるハード”を徹底的に研究してつくったこのスペックは,私たち遊び手だけでなく,ゲームソフトをつくる側の人たちにとっても,すばらしいハードでした。
家庭用ゲーム機において,ともすれば今まで二の次であった”ソフト”部分をみつめ,それがこれからの時代の重要な要素になることを早くから考えていた任天堂は,新世代テレビゲームのリーダーとなり,以降の市場を引っ張っていくのです。
この後はみなさんご存知の通り,ファミコンブーム,マリオブーム,ドラクエブームと続き,プレイステーション,サターンという新世代機にいたるまで,任天堂が世界のテレビゲームの中心として活躍していきます。

オデッセィ
http://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/history/index.htm