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1979年8月5日日曜日

[機器] NEC PC-8001








NEC PC-8001





























PC-8001
正式名称 PC-8001
発売日 1979年?月?日
定価 168000円
CPU μPD780C-1(Z80コンパチブル)
クロック 3.9936MHz
CPU ROM μPD2364C(64Kbit/チップ) 24KB実装
RAM μPD416-3(16Kbit/チップ) 16KB
CRTインタフェース コントローラ μPD3301D(CRTコントローラ)
μPD8257C-5(DMAコントロール)
スクリーン構成 80x25,80x20,72x25,72x20,
40x25,40x20,36x25,36x20
文字構成 8x8dotマトリクス
グラフィック機能 160x100dot
カラー機能 8色(黒、青、赤、マゼンダ、緑、シアン、黄、白)
カセットインタフェース FSK方式(1200Hz,2400Hz) 600ボー
プリンタインタフェース セントロニクス社製プリンタ仕様準拠パラレルインタフェース
キーボード ソフトウェアスキャン JISキーボード
電源 電源電圧 AC100V±10% 50/60Hz
消費電力 20W
使用条件 使用温度 0℃~35℃
使用湿度 20%~80%
保存温度 -15℃~60℃
外形寸法 440x265x80mm
重量 4kg



周辺機器/内蔵パーツ
型番 名称 分類 標準価格 対応機種 寸法 (mm)
W×D×H
重量
(kg)
消費電力
(W)
備考
PC-8001mkII-01 漢字ROMボード 内蔵パーツ ¥32,000 PC-8001mkII / mkII SR µPD23256×8
PC-8005 増設メモリパック 内蔵パーツ ¥24,500 PC-8001 / PC-8011 µPD416-3×8, 150nS
PC-8006 増設メモリパック 内蔵パーツ ¥14,000 PC-8001 / PC-8011 PC-8005 増設メモリパック の価格改訂版
µPD416-3×8, 150nS
PC-8011 拡張ユニット 拡張ユニット ¥148,000 PC-8001 430 × 295 × 75 4.5 20 (Typ)
PC-8012 I/Oユニット 拡張ユニット ¥84,000 PC-8001 430 × 320 × 150 7.0 15 (Typ)
PC-8012-01 ユニバーサルボード 内蔵パーツ ¥4,800 PC-8012 / PC-8013 基板寸法 (mm): 220 × 85 カードエッジコネクタ 72 ピン
回路自作用
PC-8012-02 32K RAMボード 内蔵パーツ ¥43,000 PC-8012 / PC-8013
PC-8012-03 音声認識ボード 内蔵パーツ
ユーザーインターフェース
¥98,000 PC-8012 / PC-8013 基板寸法 (mm): 220 × 95 (SPU/DCU) 140 g (SPU)
120 g (DCU)
特定話者の音声を認識して判別可能
60 語まで登録可能
2 スロット占有
音声分析ボード(SPU)+ 距離計算ボード(DCU)の2枚構成
リモートスイッチ付マイクロフォン付属
PC-8012-04 音声録音再生ボード 内蔵パーツ ¥72,000 PC-8012 / PC-8013 / PC-8801 基板寸法 (mm): 220 × 95 190 g 約 30 秒(254 音節)までの音声を記録
録音用マイクロフォン付属
PC-8012-05 音声認識ボード 内蔵パーツ
ユーザーインターフェース
¥64,000 PC-8012 / PC-8013 / PC-8801 基板寸法 (mm): 220 × 95 200 g 特定話者の音声を認識して判別可能
128 語まで登録可能
音声認識用マイクロフォン付属(リモートスイッチ付)
PC-8013 I/Oユニット 拡張ユニット 430 × 320 × 150 PC-8012 + PC-8012-02
PC-8021 80桁ドットインパクトプリンタ プリンタ ¥165,000 ドットインパクト方式
PC-8022 40桁サーマルプリンタ プリンタ ¥98,000
PC-8023 ドットマトリックスプリンタ プリンタ ¥153,000 ドットインパクト方式
10インチ, 9ピンヘッド, 英数カナ: 100cps
PC-8023-C ドットマトリックスプリンタ プリンタ ¥198,000 ドットインパクト方式, ビットイメージ出力対応
10インチ, 9ピンヘッド, 英数カナ: 100cps
PC-8023-01 インクリボンカートリッジ サプライ ¥1,500 PC-8023 / PC-8024 / PC-8027
PC-8024 ドットマトリックスプリンタ プリンタ ¥128,000 429×285×124.3 8.5 20 (静止時)
180 (Max)
インパクトドットマトリックス方式
10インチ, 9ピンヘッド, 英数カナ: 180cps
PC-8024-02 JIS第一水準漢字ROMボード 内蔵パーツ ¥30,000 PC-8024
PC-8027 ドットマトリックスプリンタ プリンタ ¥89,000 378×110×305 6.0 12 (静止時)
80 (Max)
インパクトドットマトリックス方式, 縦型ハンディタイプ
10インチ, 9ピンヘッド, 英数カナ: 105cps
PC-8027-02 JIS第一水準漢字ROMボード 内蔵パーツ ¥30,000 PC-8027
PC-8031 デュアル片面倍密ミニディスクユニット ディスクユニット ¥310,000 5 インチ 1D ドライブ×2 基搭載
PC-8032 拡張用デュアルミニディスクユニット ディスクユニット ¥268,000 PC-8031 / -1W / -1V / -2W 5 インチ 1D ドライブ×2 基搭載
PC-8031-1W デュアル片面倍密ミニディスクユニット ディスクユニット ¥198,000 5 インチ 1D ドライブ×2 基搭載
PC-8032-1W 拡張用デュアルミニディスクユニット ディスクユニット ¥178,000 PC-8031 / -1W / -1V / -2W 5 インチ 1D ドライブ×2 基搭載
PC-8031-1V シングル片面倍密ミニディスクユニット ディスクユニット ¥168,000 5 インチ 1D ドライブ×1 基搭載
PC-8031-FD1 増設用ドライブ 内蔵パーツ ¥78,000 PC-8031-1V 5 インチ 1D ドライブ×1
PC-8031-2W 両面倍密デュアルミニディスクユニット ディスクユニット ¥288,000 5 インチ 2D ドライブ×2 基搭載
PC-8034-2W Disk BASIC システムディスク / 接続用フラットケーブル付属
PC-8032-2W 拡張用両面倍密デュアルミニディスクユニット ディスクユニット ¥249,000 PC-8031 / -1W / -1V / -2W 5 インチ 2D ドライブ×2 基搭載
PC-80S31 ミニフロッピィディスクユニット ディスクユニット ¥168,000 25 (Typ) 5 インチ 2D ドライブ×2 基搭載
ハーフハイト
PC-80S31K 薄型ミニフロッピィディスクユニット ディスクユニット ¥108,000 5 インチ 2D ドライブ×2 基搭載
ハーフハイト
PC-80S32 拡張用ミニフロッピィディスクユニット ディスクユニット ¥155,000 PC-80S31 5 インチ 2D ドライブ×2 基搭載
ハーフハイト
PC-8033 PC-8031 用 I/O ポート インターフェース ¥17,000 PC-8031 シリーズ
PC-8034 Disk BASIC システムディスク ソフトウェア ¥5,000 PC-8031 / -1W 5 インチ 1D
PC-8034-1V Disk BASIC システムディスク ソフトウェア ¥5,000 PC-8031-1V 5 インチ 1D
PC-8034-2W Disk BASIC システムディスク ソフトウェア ¥5,000 PC-8031-2W 5 インチ 2D
PC-8035 ミニフロッピィディスク 2枚組メディア サプライ ¥3,500 5 インチ 1D
PC-8036 ミニフロッピィディスク (10枚組) サプライ ¥18,200 5 インチ 1D
PC-8036-2 ミニフロッピィディスク (10枚組) サプライ ¥18,800 5 インチ 2D
PC-8037-1W N80-Disk BASIC システムディスク ソフトウェア ¥7,000 PC-8031-1W 5 インチ 1D
PC-8037-2W N80-Disk BASIC システムディスク ソフトウェア ¥7,000 PC-8031-2W 5 インチ 2D
PC-8037SR-1W N80SR-Disk BASIC システムディスク ソフトウェア ¥7,000 PC-8031-1W 5 インチ 1D
PC-8037SR-2W N80SR-Disk BASIC システムディスク ソフトウェア ¥7,000 PC-8031-2W 5 インチ 2D
PC-8041 12 インチグリーンディスプレイ ディスプレイ ¥49,800 蛍光色:緑
水平同期周波数:15.75 kHz
コンポジット入力
PC-8042 12 インチカラーディスプレイ ディスプレイ ¥109,000 水平同期周波数:15.75 kHz
デジタル RGB 入力
ドットピッチ:0.63mm
JC-1210
PC-8043 12 インチ高解像度カラーディスプレイ ディスプレイ ¥219,000 水平同期周波数:15.75 kHz
デジタル RGB 入力
ドットピッチ:0.31mm
JC-1202DH
PC-8044 家庭テレビ用カラーアダプタ インターフェース ¥13,500 RFモジュレータ
PC-8044K 家庭テレビ用カラーアダプタ インターフェース ¥13,500 RFモジュレータ
PC-8045 ライトペン ユーザーインターフェース ¥60,000
PC-8045K ライトペン ユーザーインターフェース ¥45,000
PC-8046 9 インチグリーンディスプレイ ディスプレイ ¥35,800 270×261×255 4.7 26 蛍光色:緑
水平同期周波数:15.75 kHz
コンポジット入力
JB-902M
PC-8047 12 インチアンバーイエローディスプレイ ディスプレイ ¥46,800 360×330×296 6.7 30 蛍光色:イエロー
水平同期周波数:15.75 kHz
コンポジット入力
JB-1202M
PC-8048 12 インチカラーディスプレイ ディスプレイ ¥88,000 378×413×307 11.7 67 水平同期周波数:15.75 kHz
デジタル RGB 入力
ドットピッチ:0.63mm
JC-1202D
PC-8048K 12 インチカラーディスプレイ ディスプレイ ¥67,800 378×413×307 11.7 67 水平同期周波数:15.75 kHz
デジタル RGB 入力
ドットピッチ:0.63mm
JC-1203D
PC-8048N 12 インチカラーディスプレイ ディスプレイ ¥59,800 378×413×307 水平同期周波数:15.75 kHz
デジタル RGB 入力
ドットピッチ:0.63mm
JC-1204D
PC-8049 12 インチ高解像度カラーディスプレイ ディスプレイ ¥188,000 378×413×307 11.7 67 水平同期周波数:15.75 kHz
デジタル RGB 入力
ドットピッチ:0.31mm
JC-1204DH
PC-8049K 12 インチ高解像度カラーディスプレイ ディスプレイ ¥158,000 378×413×307 11.7 67 水平同期周波数:15.75 kHz
デジタル RGB 入力
ドットピッチ:0.31mm
JC-1205DH
PC-8049N 12 インチ高解像度カラーディスプレイ ディスプレイ ¥158,000 368×368×322 10.0 65 水平同期周波数:15.75 kHz
デジタル RGB 入力
ドットピッチ:0.31mm
JC-1206DH
PC-8050 12 インチグリーンディスプレイ ディスプレイ ¥46,000 蛍光色:緑
水平同期周波数:15.75 kHz
コンポジット入力
JB-1203M
PC-8050K 12 インチグリーンディスプレイ ディスプレイ ¥39,800 360×330×296 6.0 30 蛍光色:緑
水平同期周波数:15.75 kHz
コンポジット入力
JB-1204M
PC-8050N 12 インチグリーンディスプレイ ディスプレイ ¥29,800 25 蛍光色:緑
水平同期周波数:15.75 kHz
コンポジット入力
JB-1205M
PC-8052 14 インチ高解像度カラーディスプレイ ディスプレイ ¥118,000 402×422×352 12.8 65 水平同期周波数:15.75 kHz
デジタル RGB 入力
ドットピッチ:0.36mm
JC-1401DF
PC-8053 14 インチ高解像度カラーディスプレイ ディスプレイ ¥198,000 402×422×352 12.8 69 水平同期周波数:15.75 kHz
デジタル RGB 入力
ドットピッチ:0.31mm
JC-1401DH
PC-8054 14 インチカラーディスプレイ ディスプレイ ¥65,800 水平同期周波数:15.75 kHz
デジタル RGB 入力
ドットピッチ:0.50mm
JC-1402D
PC-8054K 14 インチカラーディスプレイ ディスプレイ ¥65,800 水平同期周波数:15.75 kHz
デジタル RGB 入力
ドットピッチ:0.50mm
JC-142D-1
PC-8058 12 インチ高解像度カラーディスプレイ ディスプレイ ¥99,800 368×368×322 10.0 65 水平同期周波数:15.75 kHz
デジタル RGB 入力
ドットピッチ:0.63mm
JC-1201DF
PC-8062 RS-232C ケーブルユニット インターフェース ¥18,700 PC-8001 本体内の IC ソケットに接続
TTL ⇔ RS-232C レベル変換機能
PC-8062-01 ターミナル用ファームウェア 内蔵パーツ ¥6,500 PC-8001 本体内の ROM ソケットに実装
PC-8001 を無手順ターミナルとして使用するための ROM
PC-8064 ネットワークインターフェースボード 内蔵パーツ ¥110,000 PC-NET 用
PC-8087 N80-Disk BASIC システムディスク ソフトウェア ¥8,000 PC-8881 8 インチ 2D
PC-8087SR N80SR-Disk BASIC システムディスク ソフトウェア ¥8,000 PC-8881 8 インチ 2D
PC-8091 カラーディスプレイ用ケーブル インターフェース ¥1,860
PC-8091K カラーディスプレイ用ケーブル インターフェース ¥1,860
PC-8092 モノクロディスプレイ用ケーブル インターフェース ¥420
PC-8093 CMT 用ケーブル インターフェース ¥840
PC-8094 プリンタ用ケーブル インターフェース ¥4,950
PC-8095 PC-8011 用 RS-232C ケーブル インターフェース ¥7,500 PC-8011 D-SUB 25 ピン
PC-8096 PC-8011 用 IEEE-488 ケーブル インターフェース ¥8,000 PC-8011
PC-8097 GP-IB (IEEE-488) インターフェースセット インターフェース ¥56,000 PC-8011
PC-8097mkII GP-IB インターフェースボード 内蔵パーツ ¥68,000 PC-8011
PC-8098 PC-80S31 用ケーブル インターフェース ¥7,500
PC-8104 PC-8012 ユーザーズマニュアル マニュアル
PC-8106 PC-8011 ユーザーズマニュアル マニュアル
PC-8108 PC-8012-03 ユーザーズマニュアル マニュアル


ソフトウェア
型番 名称 区分 標準価格 対応機種 メディア 備考
PCS-101-1W CP/M Ver. 2.2 OS ¥65,000 FD 5" 1D




[機器] NEC PC-8001
PC Watch
大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」
ビル・ゲイツとの密会、サードパーティ戦略。いま振り返る「PC-8001」成功物語
大河原 克行
2019年8月5日 06:00
PC-8001
NECのPC-8001が、1979年に誕生してから、今年はちょうど40年を迎える。
NECパーソナルコンピュータは、それを記念した新製品を、本日発表する予定だ。まだ個人でコンピュータを所有することが夢と思われていた時代に登場した「パーソナルコンピュータ」のPC-8001。この製品が、日本のパソコンの歴史を開いたといっても過言ではない。
果たして、PC-8001は、どのようにして生まれたのだろうか。
このほど、「NECパソコンの父」と呼ばれる渡邊和也氏と、PC-8001の開発をリードした後藤富雄氏の2人にインタビューをする機会を得た。
40年という歳月を経たいま、2人に当時の様子を振り返ってもらった。
PC-8001名前の由来
NECのPC-8001は、同社初のパーソナルコンピュータとして、1979年に誕生した。
1979年5月8日に、名称は未定としながら、リリースで発表。同年5月16日から開催された第3回マイクロコンピュータショウに初展示して話題を集め、同年9月には、大きな注目のなかで販売が開始された。
PC-8001の名称は、パーソナルコンピュータの頭文字である「PC」とともに、前身となったトレーニングキットのTK-80(※TK-80は、搭載していたIntel 8080相当のCPUであるμPD-8080ADから名称をつけた)の「80」の流れを汲み、さらに、「翌年に控えた1980年代を迎えることを意識したものだった」(渡邊氏)という。
NECでは、パソコン本体をPC-8001と呼び、あわせて発売した周辺機器にもPC-8001と共通の型番を付けた。拡張ユニットが8011、拡張ボックスが8012、ドットインパクトプリンタが8021、FDDユニットが8031といった具合だ。これらをファミリーとしてPC-8000シリーズと呼ぶことになる。型番を4桁にしたのは、これらのファミリー商品にも同様の型番を展開する意図があったからだ。
ちなみに、PC-8001の開発コードネームは「PCX-1」だ。
「Xというのは、クエッションマークという意味だった」(渡邊氏)という。
「NECパソコンの父」と呼ばれる渡邊和也氏
日本最初ではなかったが、圧倒的な売れ行き
だが、PC-8001は、日本で最初に登場したPCではない。
1977年8月には、精工舎が国産パソコン第1号となるSEIKO 5700を発売し、同年9月には、ソードがM200を発売。さらに、1978年5月には、日立製作所がベーシックマスター・レベル1を発売、同年12月にはシャープがMZ-80Kを発売している。
また、海外からはAppleIIや、CommodoreのPET-2001、Tandy Radio ShackのTRS-80といった御三家と呼ばれたPCがすでに日本に輸入されていた。PC-8001の発売以降も、IBM、三菱電機、富士通、松下電器(現パナソニック)などが市場に参入。群雄割拠の時代がまたたくまに訪れたのだ。
渡邊氏は、「PC市場への参入が遅れたのは、それまでのトレーニングキットでなく、コンピュータというかたちで商品化するのに際して、少しでも多くのユーザーの声を取り入れようと努力しようとしたことが背景にあった」と語る。
また、後藤氏は、「PC-8001は、役に立つものを作ることを前提に開発した。そのため、FDDユニットやディスプレイも同時並行で開発した。そしてカラー化にも取り組んだ。それらの開発に時間がかかったのが理由」とする。
PC-8001の開発をリードした後藤富雄氏
だが、「他社が先行してもまったく焦りはなかった。TK-80で培ったサードパーティーの存在や、全国に広がる販売網があった。これは、大きなメーカーであっても、一朝一夕では作り上げられるものではない」と渡邊氏は語る。
結果として、PC-8001は、後発ではあったものの、渡邊氏の言葉通り、発売後には、圧倒的ともいえる売れ行きをみせた。
業界団体である日本電子工業振興協会(現在の電子情報技術産業協会)が発表した1980年度のPC出荷実績は、年間でもわずか11万台。だが、PC-8001は、1983年までに累計出荷で25万台を販売。この数字からも、圧倒的なシェアを誇ったことがわかるだろう。実際、PC-8001は、これだけ多くのメーカーがPCを投入するなか、約40%のシェアを獲得。その後のNECのPC事業発展の土台を作った。
デファクトスタンダード採用こそがPC-8001成功の理由
なぜ、PC-8001は成功したのだろうか。
先に触れたように、TK-80の成功をベースにしたサードパーティーの存在と全国に広がる販売網の強みが、他社との競合において、大きな力を発揮したのは確かだ。だが、その一方で、渡邊氏は、「デファクトスタンダード(事実上の標準)と、ユーザーフレンドリーにこだわったことが成功の要因」と自己分析する。そして、「これらの取り組みの多くは、非常識といえるものばかりだった」と続ける。
たとえば、デファクトスタンダードの発想は、いまでこそ常識であるが、40年前にその重要性に気がついていた人はひと握りに過ぎなかった。
むしろ、いまや常識となっているCPUや基本ソフト(OS)といったことでさえ、他社の技術を使うという発想が異例だった。他社の技術を使うことは、その企業に技術力がないことを示すものであり、技術者自身も格好悪い、恥ずかしいという意識を持っていた。
だが、PC-8001の開発においては、NECは、最初からデファクトスタンダードを最優先に考え、そこにこだわった。他社の技術を活用する「恥ずかしさ」は、最初から持ち合わせていなかった。
そのデファクトスタンダードのこだわりの1つが、Microsoftが開発したBASICを採用したことであった。
当時、NEC社内でも、PC-8001向けに独自のBASICが開発されていた。NECの技術者である土岐泰三氏が開発した通称「土岐BASIC」と呼ばれるものであり、いまでも渡邊氏は、「高い性能を誇る優れたBASICであった」と評価する。
しかし、渡邊氏は、結果としてMicrosoftのBASICを選択した。それは、デァクトスタンダードに最も近い基本ソフトであると判断したこと、さらに、PC-8001の高い評価を決定づける要因となった、ある仕組みに対応するためだったといえる。
じつは、PC-8001に携わったメンバーは、いまでも年1回、『80会』と称して、数十人が集まっている。渡邊氏は、「その会合に、毎年出るたびに、その時のことを土岐さんに謝っている」と笑う。だが、自社開発のBASICを採用しなかったという異例の判断が、その後に成功につながっている。
ダーティーコンピュータのPC-8001
その仕組みとはなにか。それを説明する際、渡邊氏は、「PC-8001は、ダーティーコンピュータと呼ばれていた」という話を必ず切り出す。
なんとも悪役的な響きだ。だが、むしろ、渡邊氏自らが、この名前を好んで使っていた節がある。
このどきっとするような名前の裏には、当時、シャープのPCであるMZ-80Kが「クリーンコンピュータ」と呼ばれていたことへの対比がある。
シャープのMZ-80Kは、PC-8001よりも先行し、1978年12月に発売されていた。このPCを「クリーンコンピュータ」とシャープが銘打った理由は、電源を入れるたびに基本ソフトを外部からローディングし、内部のメモリRAMに記憶するという仕組みを採用していた点にある。RAMであるから、電源を切るたびに記憶内容は消されてしまうことになる。これは、当時のコンピュータとしては一般的な仕組みでもあった。基本ソフトをローディングするまでは、まっさらの状態であり、これを称して、「クリーンコンピュータ」と呼んでいたのだ。
一方で、PC-8001は、基本ソフトをあらかじめROMに書き込んでおく仕組みを採用した。ROMであるため、電源を切っても記憶内容は保持される。そのため、電源を入れれば、ローディング作業が不要で、すぐに動作するというメリットが生まれるのだ。
「RAMがまっさらになるMZ-80Kがクリーンコンピュータならば、ROMに基本ソフトが書き込まれたPC-8001は、ダーティーコンピュータだ」。渡邊氏は、そう言って、自らダーティーコンピュータを名乗ってみせた。
だが、すぐに使える環境は多くのユーザーに喜ばれた。PC-8001以降、これがパソコンの主流となっていったのは当然でもあった。
「世の中の人たちは、ダーティーコンピュータの方を選んでいる。どうやら、ダーティーコンピュータは、クリーンコンピュータに勝ちそうだ」。
当時の渡邊氏の予測は見事に的中した。
じつは、ダーティーコンピュータの仕組みも、当時としては、非常識なものであった。基本ソフトには、必ずバグがあり、ROMに基本ソフトを書きこんでしまうと、その修正がきかないという欠点があったからだ。クリーンコンピュータで採用したローディング方式であれば、それを回避できる。基本ソフトはしばしば修正するのはそれまでの常識であり、修正ができないPC-8001の仕組みはまさに非常識であったのだ。
渡邊氏は、「だからこそ、こなれていて、バグが少ない、MicrosoftのBASICを採用することが大切だった」と語る。
工場出荷時点で、基本ソフトをマスクROMに書き込むには、時間とコストがかかる。また、バグが見つかるたびにマスクROMを修正していてはビジネスにはならない。バグが少ないことが第一の条件となっていたのだ。
MicrosoftのBASICは、すでにTRS-80やPET-2001にも採用され、かなりこなれた基本ソフトになっており、バグの修正もかなり進んでいると判断できた。渡邊氏がデファクトスタンダードにこだわり、独自のBASICではなく、MicrosoftのBASICを採用したのは、そうした理由が背景にあった。
そして、渡邊氏にはこんな考えがあったことも明かす。
「PC-8001は、デバイス部門から生まれたPCであり、もし変更が必要となれば、無理をしてでも、短時間でROMの変更ができるという立場上の自信があった。デバイス部門でなければ、こんな無鉄砲なことはできなかったかもしれない」。
ユーザーフレンドリーとデファクトスタンダードとの両立を目指した上での非常識な判断が実現したものだったのだ。
ビル・ゲイツとの対談でデファクトスタンダードの重要性に気づく
NECがMicrosoftのBASICに辿り着くうえでは、当時、アスキーの副社長を務めていた西和彦氏との出会いが見逃せない。アスキーは、1978年から、MicrosoftのBASICの国内販売代理店契約を締結。日本のPCメーカーに売り込みをかけようとしていたところだった。
「最初に西さんと出会ったのは、米シリコンバレーのCompuTakerという会社。私は、TK-80の発売を前に、チップにどんな応用ができるのかを探っているときだった。お互いに、なんでこんなところに日本人がいるのかという思いだった」と渡邊氏は振り返る。そのときには名刺交換をしただけで別れたというが、帰国後、西氏から連絡があり、MicrosoftのBASICの採用を勧められたという。
「西さんの話を聞くと、Microsoftのいいことばかりを言う(笑)。しかし、それを見る機会がない。それならば、実際に見てみようと思い、Microsoftを訪れることにした」。
だが、当時のMicrosoftは、まだ12人程度のベンチャー企業。日本を代表する名門企業のNECが、Microsoftを訪ねるために海外出張をするといった申請が通るはずはなかった。
渡邊氏
そこで、渡邊氏は、一計を案じた。
1978年11月に、米ロサンゼルスで開催された「WCCF(ウェストコーストコンピュータフェア)」の視察を理由に、Microsoftへの訪問を画策したのだ。渡邊氏は、わずか1日だけWCCFを視察。翌日には、渡邊氏の足は、Microsoftに向かっていた。
このとき、Microsoftの本社があったのは、いまのワシントン州シアトル(レドモンド)ではなく、ニューメキシコ州アルバカーキー。渡邊氏は、西氏からの紹介状を携えて、単身で空港に降り立った。空港を出ると、田舎の空港には場違いともいえる赤いポルシェが1台。そのドアが開いて、若き日のビル・ゲイツ氏が、渡邊氏に「ハイ!」と声をかけてきたのだ。
「こんな田舎の空港に日本人が降りるはずがない。だから、面識がなくても、すぐにわかったと、ビルは言ってくれた」と渡邊氏。スピード好きで知られるゲイツ氏の運転で、砂漠のなかを赤いポルシェは疾走していったという。
このとき、渡邊氏は、ゲイツ氏と、共同創業者であるポール・アレン氏とともに、照明が暗い店で、大きなサイズのステーキを昼食に食べ、その後、オフィスがあった小さな建物の2階で、約2時間にわたって話をしたという。そこで、ゲイツ氏が語ったのが「デファクトスタンダード」の重要性であった。
デファクトスタンダードの重要性に気がついていた渡邊氏とゲイツ氏はすぐに意気投合し、NECは同じ方向性と考え方を持ったMicrosoftのBASICを採用することに決めたのだ。
そして、渡邊氏がMicrosoft BASICの採用を決めた理由は、同時に「ユーザーフレンドリー」な基本ソフトであったことが見逃せない。
「技術的に高度であることよりも、ユーザーフレンドリーである使い勝手の良さを選んだ。その点では、すでに米国において多くのPCに使われ、ユーザーの意見が多く反映されたMicrosoftのBASICは、その実績からも、世界で最もユーザーフレンドリーなものだと判断できた」とする。
これを渡邊氏は、「手垢のついたソフトウェア」と表現した。土岐BASICが「新品のソフトウェア」であり、ユーザーの使い勝手についての評価が皆無であったのとは状況が大きく異なっていたのだ。
一方で後藤氏は、「Microsoftは、どんな機能が欲しいのかということを私たちに何度も聞いた。ユーザーの声を聞いて進化をさせてきたのがMicrosoftのBASICの特徴であった。そのときに、Microsoftはさまざまな機能を用意してくれたが、マスクROMに書き込める容量が限られていたため、すべてを取り入れることはできなかった。だが、出力フォーマットを決めることができるなど、オフコンで実現していたような機能までをBASICで書くことができた」と指摘。ユーザーフレンドリーと、それを支える多くの機能と先進性があったことが、MicrosoftのBASICの最大の特徴であると述べた。
非常識を常識に
しかし、採用を決めた渡邊氏だが、日本に帰ってから、社内の上層部を説得するという大きな難関が待ち受けていた。
先にも触れたように、独自性を持った自社開発の技術を採用することが常識だった時代に、他社のソフトウェアを、重要な部分に採用することへの反発は当然のことだった。しかも、その相手が、吹けば飛ぶような12人の米国のベンチャー企業である。名門企業であるNECが取引する相手としては相応しくないというが上層部の意見であった。
とくに、反対をしたのが、大型コンピュータを担当していた部門の出身者であった。渡邊氏たちがやろうとしていることが、これまでの大型コンピュータの常識では考えられなかったからだ。
だが、渡邊氏たちは、逆に、大型コンピュータの過去の経験やスキルが、PCには通用しないことを知っていた。
大型コンピュータ事業の経験者たちは、過去の経験やスキルに頼りにし、ましてや「コンビュータを遊びに使うなど、不謹慎極まりない」という発想を持っていたほどだ。真正面から話をしても、意見が食い違い、不毛な議論が繰り返されるだけである。渡邊氏は、理解を得るためにさまざまなアイデアを考えた。
「これからの時代は、優れた技術だけでは勝つことができない。デファクトスタンダードが主流になる。それを理解してもらうために、社内では、人と人のコミュニケーションを行なうための言語を例にあげた。当時、言語学としては、エスペラント語がもっとも優れた言語とされ、それが世界共通の言語としては最適だと言われていた。だが、実際には言語学的には不十分とも言われる英語が世界共通の言語として利用されている。優れたものを採用しても、それが少数派にしかなれないのであれば価値がない。コンピュータの言語もそれと同じであるということを訴えた」。
このたとえ話は、社内に多くの理解を生んだ。これをきっかけに、社内に広がっていた「常識」という壁を突破。その結果、MicrosoftのBASICが採用され、これをベースとした「N-BASIC」がPC-8001に搭載されたのだ。
そして、PC-8001の成功を見た競合他社は、その後、MicrosoftのBASICを続々と採用。まさに、MicrosoftのBASICはデファクトスタンダードの道を歩むことになったのだ。
「非常識を続けていくと、それが常識になる」と渡邊氏は笑う。そして、「時代が大きく変わるときには、過去の経験はまったく役に立たないことを、このとき嫌というほど経験した」とする。また、「新たなことに対して、まだ、みんなが気づかないうちに自由に暴れ回ったからこそ、NECがリードできた」とも語る。これらの経験は、いまの時代にも通用するものだといえる。
過去の経験を活かしたPC-8001
PC-8001がデファクトスタンダードにこだわった理由には、半導体を販売するデバイス部門での経験が生きている。TK-80もPC-8001も、デバイス部門から生まれた商品だ。
かつてNECは、Intel 8080を徹底的に解析して、CPUを開発していた。当時は、知的財産権についてもおおらかで、NECもIntel互換CPUを開発していたのである。
そのとき、NECの技術者は、独自のピン配列を採用したCPUを開発した。IntelのCPUに比べて、ピンの配列は効率的であり、使いやすいものになっていた。性能面でも高い評価を得ていたCPUだ。しかし、NECはこのとき42ピンという独自のハードウェア設計を採用した。Intelの40ピンに比べて、2ピン多いのである。だが、結果として、これが裏目に出た。NECのCPUのために独自の基板設計が必要になるため、性能が優れていても、それをわざわざ採用するメーカーがないのだ。性能が高くても、独自性が強いと失敗することを、NECのデバイス部門は、すでに経験をしていた。
この経験が、PC事業にデファクトスタンダードの考え方を持ち込むきっかけを作ったともいえる。
もう1つ、PC-8001が取り組んだ非常識が、オープンである。これは、TK-80の経験が活きている。
TK-80では、マイコン用の応用ソフトウェアは、NECが供給するには限界があると判断し、サードパーティーやユーザーの協力が必要であると考えていた。そこで、TK-80に関する技術的情報を公開していくことが重要であるとし、マイコンの販売拠点として設置したBit-INNなどを通じて、技術情報を提供。配線図や使用部品などの諸元についても提供した。
ちなみに、Bit-INNは、TK-80の発売時に、戦略的拠点としてオープンしたものだ。それに関する記事はここに掲載している(関連記事:パソコン発祥の地がアキバから消えた)。
だが、こうした技術情報を公開することは、社内でも問題視された。技術情報はメーカーにとって根幹の部分であり、情報が流出すれば、他社に真似される温床にもなりかねないと判断されたからだ。
しかし、オープン化した結果は想定したような問題は起こらず、TK-80の普及を後押しした。TK-80で動作するソフトウェアが増加。これが、TK-80の販売を増やした。さらに、マイコンチップそのものの販売増加にもつながったという。
後藤氏
後藤氏は次のように振り返る。
「半導体の販売手法は、メモリとプロセッサを使ってもらうための情報はいくらでも出すというものであった。そうしなければ、私たちが、メモリやプロセッサを使っているすべての現場の面倒を見なくてはならなくなる。TK-80でオープンの手法を取り入れたのは、この経験がある。デバイス部門でなければできなかった発想ともいえる」。
このオープン戦略は、その後のPC-8800シリーズやPC-9800シリーズでも踏襲された。
当時のPCは、メーカーごとに動かせるソフトウェアが異なっていた。そのため、NECのPC向けのソフトウェアが増えるから、ハードウェアが売れる。ハードウェアが売れるから、さらにソフトウェアが増えるという好循環を繰り返し、NECのPC事業を揺るぎないものにしていったのだ。
ある日、NEC社内の別部門の社員が、エレクトロニクス専門誌にTK-80のカラー写真が掲載された広告を持って渡邊氏のもとに駆け込んできた。
「TK-80の写真が掲載されているこの広告は、あなたたちが出したものなのか」と渡邊氏に聞き始めた。広告を出した覚えがない渡邊氏は、それを否定すると、今度は、「ほかの会社が、TK-80の宣伝をするはずはない」と言い出した。
よく見ると、その広告は、TK-80向けの電源装置の広告であった。そこにTK-80が大きく写っていたのだ。
渡邊氏が出した広告でないことがわかると、駆け込んできた人は、次にはこんなことを言い始めた。
「TK-80の写真を無断で掲載してもいいのか。先方にクレームをつけた方がいいのではないか」。
もちろん、渡邊氏はクレームをつけなかった。
「お礼こそ言え、クレームなんてありえない」。
じつは、これが、TK-80のサードパーティー製品の第1号であった。開発したのはアイ・シーという会社だ。同社社長の藤沢博光氏が日立出身であったという点も、いまから考えればユニークな関係だ。
それまでにはなかったサードパーティーのいきなりの出現に、それが及ぼす影響や役割を、渡邊氏のチーム以外は、まったく理解できていなかった。だが、渡邊氏は、その重要性をしっかりと理解していた。
その後、TK-80に対応した製品が続々とサードパーティーから発売された。
それにより、NECは、TK-80を発売しただけにも関わらず、電源装置やカセットインターフェイスなどの周辺機器、「TK-80で遊ぶ本」や「マイコン応用プログラム集」といった応用ソフトウェアまで揃い、TK-80が活用される分野が一気に広がっていった。
1977年に発売されTK-80用の「マイコン応用プログラム集」。最初のサードパーティーソフトウェアだ。カセットテープで提供されている
じつは、新聞広告に関しては、別のエピソードがある。PC-8001の発売後、競合メーカーの1社が、新聞広告上で、ソフトウェアは自分たちで作り、自分たちで供給すると宣言したのだという。
このときにも、渡邊氏のもとに駆け込んできた人がいた。
「こんなことを言っているが、自社でソフトウェアを開発せずに、サードパーティーにソフトウェアを開発してもらっているPC-8001は大丈夫なのか」。
当時、ソフトウェア開発会社のことは「ソフトハウス」と呼んでいた。メーカーというには規模が小さく、数人が集まって、事業をスタートさせたばかりの企業も多かった。大手企業の論理では、どんな会社かわからない小さな会社に、アプリケーションソフトの開発を任せていては不安だということが背景にあった。
だが、渡邊氏はこともなげにこう語った。
「どんなにがんばっても10本作れればいいでしょう。そのうちに限界がきますよ」。
実際、それは現実のものになった。自社開発を宣言した競合他社がアプリケーションソフトの品揃えに苦労しているのを尻目に、PC-8001用のソフトウェアは、瞬く間に数百本に増えていった。
このように、PC-8001の事業は、TK-80で成功したサードパ―ティー戦略が、成長を支えたともいえる。
成功したサードパーティー戦略
じつは、TK-80のサードパーティー戦略は、見方を変えれば、PC-8001の製品化を後押しするトリガーになったということもできる。
TK-80によって、サードパーティーが誕生し、NECマイコンショップ会というマイコンだけを販売する販売ルートが同時に確立され、それが、「情報化ニーズ」という当時の社会現象を顕在化させようとしていた。
「すでに新しい産業構造が出現し、成長をはじめている。この牽引を支えてきた主役はNECである。つまり、TK-80の上位機種を出さないのは『社会悪』であり、大メーカーには許されないことである」。
マイコンという情報化ツールを中心に、新たな産業構造が生まれるなかで、サードパーティーや販売店からこうした声が高まってきたのだ。
「このとき、『社会悪』という言葉を使われたのには本当に驚いた」と、渡邊氏は笑いながら当時を振り返る。
だが、それによって、渡邊氏は初めて「社会責任」ということに気がついたという。
「社内事情に振り回されている場合じゃない。強い意志を持ち、社会の要請に応える形で、PC事業を開始することにした」と、その言葉が、自らのビジネスを次のステップに踏み出すきっかけになったことを示す。
TK-80は、もともとNECの半導体の拡販のためのツールとして商品化されたものだ。しかし、それが新たな仕組みを作り、PC時代の到来とともに、一気に成長しようとしていた。そして、その取り組みの結果、PC-8001によって、いまのPC産業の基本構造が作り上げられたといってもいいだろう。
だが、渡邊氏は、「この仕組みは私たちが作ったものではない。市場が作ったものだ」と謙遜する。
デバイス部門もPCに胸躍らせた
じつは、今回の渡邊氏および後藤氏の取材の場には、「PC-8001の発売時には、入社3年目のペイペイ」(本人談)という、NECパーソナルコンピュータの元社長である高塚栄氏も同席してもらっていた。
この取材のなかで、高塚氏からは、これまでに出ていなかった興味深いエピソードを聞くことができた。
それは、高塚氏が半導体の販売を担当していた時のことだった。
当時、東京・西新宿にA&Aジャパンという会社があった。TRS-80を世に送り出したTandy Radio Shackの日本における部材調達の役割を担っていた会社だ。
ある日、NECのデバイス部門に、A&Aジャパンから、マスクROMの発注があった。
「マスクROMを3パターンで3,000個欲しい」
その時代にマスクROMが多く使われていたのは、広がり始めたATMだった。それでもATM最大手企業からの受注個数ですら300個に留まっていた。その10倍の規模の発注数である。
高塚氏は、「一体、こんなに多くのマスクROMを、どこに使うつもりなのか」と疑問に思った。しかも、A&Aジャパンが言うには、「これはまだ味見の段階。良ければさらに発注したい」とまで言うのだ。
高塚氏が、調べていくうちにわかったのが、どうも、米国で発売され、大きな話題を集めているPCに、このマスクROMを使うらしいということがわかったのだ。「味見」という表現は、耐熱試験や湿度試験などのテスト用のものであり、そのために3,000台分のロットを発注してきたのだ。
「これは大変なことが起こっている」。
高塚氏は直感的に感じたという。
その後、高塚氏は、NEC社内で調達したTRS-80の実物を見る機会があったという。そこには、まだ他社製のマスクROMが使われていたが、ここにNECのロゴが入ったマスクROMが使用されることになるのかと思うと、若い高塚氏は、期待に胸が膨らんだという。
こうしたデバイスビジネスにおいても、PCの潮流を感じることができる立場にNECはいた。
NECのデバイス部門が、PCの大きな波が訪れていることを肌で感じた出来事でもあり、こうした経験も、PC-8001の開発を急ぐことになった遠因の1つになったともいえそうだ。
常識にとらわれないビジネスを
後藤氏
最後に、渡邊氏と後藤氏に、いまのIT業界にエールをもらった。
渡邊氏は、「PC市場が飽和状態にあるなかで、画期的なことをやろうとしても難しいかもしれない。だが、常識に捉われずにがんばってほしい」と語る。
また、後藤氏は、
「世の中が大きな転換期にあるときこそ、テクノロジーが貢献する場が増える。
当時、個人のためのコンピュータを目指したのがPC-8001である。AIなどの新たな技術を使って、新たなパーソナルデバイスの創出に期待している」
とした。
PC-8001の登場から40年。
歴史を作った先駆者たちは、次の歴史を生むIT業界の後輩たちにエールを送り続けている。

PC Watch
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/gyokai/1199709.html
https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1199937.html









渡邊和也氏

後藤富雄氏








パソコン黎明期
1999.8.14
1979年NECがPC-8001を発売しました。
これより日本のパソコンの歴史が始まったといっていいでしょう。そ
れまでのコンピュータのイメージは宇宙戦艦ヤマトのでヒロイン(名前忘れた)がなにやら水晶占いのごとき手つきで操作していたものか、
もしくは地球防衛軍とかそのたぐいの施設で壁いっぱいの無意味に点灯するランプの塊に、何か緊急事態が起こると紙テープを打ち出してくるものぐらいしかなかったわけで(当時の隊員は紙テープを解読していた!)、当時情報技術科の高校生だった私は学校にあるパソコン日立ベーシックマスターのカラーディスプレーに点滅するカーソルを見ながら興奮した覚えがあります。パソコンがあればなんでもできる!と当時は信じられていました。しかし有効な活用法をするにはまだまだハードもソフトもノウハウもお粗末だった。まだ手探りで模索していた時代。この時代を少しの間回想して見ましょう。ただし、もー15年以上前の話。違っている所があったらご指摘ください。

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パソコン黎明期
1999.8.23
1.パソコンの夢と現実
(1)当時はすごく興奮した
パソコンがあればなんでもできる!と当時は信じられていました。
人間は面倒な計算から開放され、自由になれると思われました。
ディスプレーに踊る文字たち。
今まで見たこともないグラフィックデモ。
パソコンの広告には夢と希望と未来がつまっていました。
しかし、その当時のパソコン(まだマイコンと呼ばれていた事が多かった)はあまりにも非力でした。
漢字はおろかひらがなさえ出ない、補助記憶装置といえば手ごろなのはカセットテープしかない時代。
フロッピーディスクは既に登場していたがうちわよりでかい8インチが主流で、本体と同等またはその何倍も高価だった。
メモリも良くて64Kバイト。オフィスとかワープロとかCADとかある訳はなく、みんな自作しないといけなかった。
というかそういう市販ソフトウェア自体ゲームソフトがほとんどであった。
マイコン入門、パソコン入門なる本もたくさん出ていましたが、じゃんけんプログラムとかほとんど役立たずの物しかなかった。
期待に胸膨らませ購入したは良いが、ほとんど使われずに埃をかぶっていたものも多いのも事実。
ハード、ソフト、使う為のノウハウの蓄積が全くなかったのです。
(2)同じパソコンで友達になれた・派閥ができた
クラスでは休み時間ともなると、マイコン、I/O、アスキーなどをみんなで眺めてはパソコンの値段や性能について、ああてもない、こうてもないとつきぬ話をしていました。
私たちは工業高校の情報技術科というコンピュータ技術者の育成を目的としたクラスだったので、
「勉強のために欲しい」
と親にねだれば割合容易に買ってもらえました。
ただし勉強の為にはほとんど使わずに専らゲームマシンとして使われるのがほとんどでした。(^^;)
まあゲームやるならゲームセンターに行けばよかったのですからパソコンを購入したのは多少プログラミングに対するあこがれもあったのでしょう。   
そのうち、一人、また一人とパソコンを購入していきました。当時、同じメーカーでも名前が違えば、ソフトウェアの互換性はないのが当たり前でした。
友達同士でゲームソフトをまわしたりするのも同じ機種の人に限られます。
そのうち同じ機種という事でだんだんと派閥が形成されはじめます。
すると違う機種同士で中傷合戦が始まったりします。
グラフィックが弱いだの、サウンドはビープ音しか出ないだの、キーボードが消しゴム状だの。
内容は他愛も無い物ですが、いまほとんどのパソコンがWindowsであることを思うと隔世の感があります。
中でもシャープのX1ターボを持っていたやつは熱狂的でした。
僕たちの目標。それはマイコンベーシックマガジン(略してベーマガ)に投稿してゲームが掲載される事。
一つ上の先輩のプログラムが掲載されて原稿料をもらった!というニュースが、クラスのパソコン少年達に伝わり、大いに盛り上がりました。
ちなみに原稿料はC万G千円だったそうです。
(3)当時重視された事
当時も今と同じくグラフィックの速さが重要視されていました。
といってもポリゴンとか2D/3Dなどという話ではありません。
BASICでのLINEやPAINT命令で画面書き換えが何秒でできるか。
一秒でDOTが何個打てるかなどというベンチマークがパソコン雑誌上で華やかに行われていました。
色が何色出るか(大体8色だった)。画面のドット数はいくつかという事も重要です。
自分でプログラムを作のですから、どんなベーシックでどんな命令があるかは注目されました。
過去の互換性などは余り重要に思われていなかったように感じました。
またカセットからのボーレート(通信速度)なども注目されていた記憶があります。
(4)Z80か6809か?
この時代、搭載されているCPUは8BitCPUがほとんどでした。
同時に処理できるビット数がたったの8bit。16bitCPUと言われるものも外部のバスは8ビットだったり、アドレスバスとデータバスが共通だったりしていました。パソコンのCPUが大型計算機と肩をならべるぐらいの処理速度を誇る今に比べると非常に低速ではありますが、みんなのCPUにかける想いは大変なものがありました。当時主流のCPUはZilog社のZ80とMotolora社の6809でした。Z80はインテルの8bitCPUである8085の上位互換アーキテクチャを持ち、バイナリレベルで8085のプログラムをそのまま実行できるものでした。ほとんどのパソコンはZ80を採用していました。一方6809はその前身である6800を更に強力に改良したものです。究極の8BITと言われていました。日立ベーシックマスターや富士通FMシリーズが採用していました。ちなみに当時はほとんどの半導体メーカーがセカンドソースといってZilog社やMotolora社にライセンス料を支払って同等のマイコンを製造していました。ですから同じ6809を搭載していてもベーシックマスターは日立製、FMシリーズは富士通製を搭載しています。日立の6809は独自の拡張命令を持っていたという話です(^^;)。80286以降はセカンドソースはなくなってしまいました。
    ここでZ80派と6809派が形成され、どちらが優れているか熱いバトルが繰り広げられたのです。
といっても、どの雑誌の記事を見ても、人の話を聞いてもほとんど同じ事を言っています。
今のCPUに比べたらずいぶん小規模ですので、ねたもすぐ尽きるわけです。
双方の主張をまとめると下の表のようになっています。
比較項目 Z80 6809
命令数 多い 少ない
アドレッシング 非力 強力
レジスタ 多い 少ない
同一クロックでの速度 遅い はやい
アーキテクチャ 8085の資産の継承 汎用機にも通じるエレガントな構成
流通量 メジャー マイナー
現在の二大CPU Pentium系とPowerPC系にしてもこの様な議論は起こらないでしょう。

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2.ゲーム花盛り
(1)パソコンはゲームマシンだった
バソコンが登場しての数年間は使い物になるアプリケーションといえばゲームしかありませんでした。
一部でCGの計算に利用が試みられましたがあまりに処理が遅すぎるし、表示もお粗末でした。
ワープロや顧客管理のアプリケーションなんかもあった様でしたが、漢字入力の壁がありました。
ビジネスを意識した製品もありましたが、現在のバソコンを使っているイメージからするとずいぶん使いにくかったようです。   
では少年達はパソコンで何をしたのでしょう。そう。それはゲームです。
それまではゲームといえばゲームセンターに行くか、家庭用のテニスゲームの様なものしかありませんでした。
ファミコンも出始めてまだそれほど出回っていませんでした。
ゲームセンターに行けばお金も使うし、補導員なんかもきたりして、あんまり長くいれなかったのです。
そこに登場したのはバソコンです。
パソコンならば心置きなくゲームに没頭する事ができます。
またそれなりにおもしろいソフトもありました。ゲームを一人が買うと友達と使いまわしたりして結構有効に使っていました。   
その頃のゲームはまさに玉石混淆。
ゲームセンターにあるのとほとんど変わらないようなものがあるかと思えば本当にお金取るのかと思うぐらいおもしろくなく、
グラフィックが雑なものもありました。
またアーケードゲームの移植物には見た目は一緒だがパソコンの速度の限界でスローモーな動きしかしないものなんてのもありました。   
ゲームセンターの影響か最初はアクション物が多かったのですが、だんだんいろいろな試みがされるようになってきました。
ゲームセンターではいかに短時間で稼ぐかが勝負なので、どうしても時間制限が出てしまいますが、パソコンの場合はその必要が有りません。
また処理速度の関係で動きの速いアクションゲームはどうしてもパソコンでは役不足です。
そこでいくらでも時間をかけてもいいゲームが出てきました。
オセロゲームなどの思考ゲーム。パズルゲーム。
アドベンチャーゲーム、シミュレーションゲーム、お色気ものの走りである野球拳ゲームなどなど。
いろいろなジャンルのゲームが確立していきました。
(2)I/Oとかベーマガとかを手で打った
インターネットはおろかパソコン通信もない頃。雑誌に掲載されているソースリストを打ち込んで、実行するのが当り前の時代でした。
今は技術誌でもない限りソースファイルが載っていることは希ですが。
当時はどの雑誌もソースリストが載っていました。
またそのソースファイルの汚いのなんのって。
遠くから見るとページ一面文字だらけ、長方形のソースなんていうのもざらにありました。
マルチステートメントバリバリです。
とにかく動けばよかったという事でしょう。
構造化コーディングなんていう言葉も知られていませんでした。   
僕たちはI/Oやマイコンベーシックマガジン(ベーマガ)のソースファイルを手で打っていったのです。
日本語を入力するわけではないので、今考えれば他愛も無い物ですがずいぶん苦労しました。
やっとのことでコーディング完了。RUN[RETURN]とするのですが出てくるのは無情な"SYNTAX ERROR ON 20"みたいなエラーメッセージです。
コンパイラでは一回のコンパイルでエラーは全部表示しますが、当時のバソコンはBASICです。
OSと区別かつかないインタープリタです。
今で言うスクリプトみたいなものです。
一回一つのエラーしか表示しません。
とにかくその行を実行しないとエラーかどうか分かりません。
大変素晴らしい環境でプログラミングしていたわけで、プログラマーとして一応生計を立てている私の原点でした。   
SYNTAX ERRORが消えたら、さらにバグをつぶしていきます。
どうもゲームをやっていて動きがおかしい所が出てきます。
大体あたりをつけておいて雑誌とディスプレーとを突き合わせておかしなところを見つけます。
時には雑誌のソースファイルがおかしいときもありましたが、それを見つけたときは何ともいえない充実感というか、わずかだけれども作者に勝ったという優越感を感じました。
(3)機械語はセーブしてからね
当時動作する言語はベーシックだけではありませんでした。
そう、マシン語です。
翻訳、エラーチェックなどのオーバーヘッドの大きいベーシックに比べてマシン語ならばCPUの真の実力が出せます。
パソコンが出た当時からBASIC+マシン語やマシン語オンリーのプログラムをよく見かけました。
我がFM-7はなかなかマシン語のプログラムを見かけませんでしたが、マシンの解析が進むと同時にマシン語のプログラムが出てきました。   
マシン語の入力のために雑誌にあった16進数入力プログラムなるものを打ち込んで、そのプログラムでマシン語を16進入力しました。
マシン語の入力はベーシックに比べて格段に単調な作業です。
ニーモニックなどに興味もなかったし、ただゲームがしたい一心で打ち込みました。
雑誌にマシン語のプログラムがある場合。必ず「実行前に必ずセーブをして下さい」との旨の文章が載っていました。
打ち込んですぐに実行するとどうなるかというとまず間違いなく暴走します。
ウントもすんともいわなくなるか意味不明の文字をだすか、ビービー鳴りまくるか、とにかくリセット以外に方法はなくなります。
私も一度セーブせずに実行して暴走しました(:_:)。
だって当時セーブといえばカセットしかなくて、FAXみたいな音を聞きながら何分も俟たなければならなかったのです。
ついついおっくうになってしまったのです。

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日本パソコン史のはじまりとも言える、NEC PC-8001の誕生を振り返る
8/5(月) 20:07配信 Impress Watch
NECパーソナルコンピュータ株式会社(NEC PC)は8月5日、NECの本格的なパソコン事業(=PC-8001誕生)が40周年を迎えるにあたり、都内で記者会見を開催し、豪華ゲストとともに過去を振り返りつつ、未来について展望をした。
【この記事に関する別の画像を見る】
冒頭では、NEC PCの代表取締役執行役員社長を務めるデビット・ベネット氏が挨拶。ちなみに折しも同氏も1979年生まれで、PC-8001とともに歳を重ねてきた。
「NECは過去に世界初の製品を継続的に投入し、日本のパソコン市場を牽引してきた。
40周年を迎えるにあたって、LAVIE Pro Mobileの40周年特別バージョンと、PasocomMini PC-8001を投入し、これを記念したい」とし、新製品を掲げた。
ちなみにLAVIE Pro MobileおよびPasocomMini PC-8001の詳細については、
別記事(NEC PC、PC-8001生誕40周年を記念した「LAVIE Pro Mobile」、細部まで再現し、BASICが動作する「PasocomMini PC-8001」)
を参照されたい。
デビット・ベネット氏のプレゼンテーション 渡邊和也氏と後藤富雄氏による振り返り
続いて、「NECパソコンの父」と呼ばれる渡邊和也氏と、PC-8001の開発をリードした後藤富雄氏、そしてPC-8001にMicrosoftのBASICを載せようと売り込んだ元アスキー社長の西和彦氏が登壇し、PC-8001登場時の背景などを振り返った。
こちらに関してもすでに弊誌で大河原克行氏がインタビューを行なっており(ビル・ゲイツとの密会、サードパーティ戦略。
いま振り返る「PC-8001」成功物語)、詳細はそちらに譲るが、時系列に簡潔にまとめると以下のようになる。
・1966年~無線通信事業部を夢見て、後藤氏がNECに入社。
ところが現実は半導体事業部へ配属され、渡邊氏のもとで働く。
しかしそこには若手を大切に育てようと思う先輩や仲間がおり、「自由に泳がせてくれた」のだという。
・1969年頃~後藤氏はLSIテスターのコントローラであるミニコンの「PDP8」を習得していたが、当時半導体開発のペースは遅く、テストする半導体が完成しないため、PDP8を実際に使う機会がなかった。そのため、PDP8の骨をしゃぶり尽くすまでに独学で知識を習得した。
・1971年~Intelからi4004が登場。
後藤氏は、ミニコンからマイクロプロセッサの時代へ突入することに将来性を感じるとともに、プログラミングの重要性を認識した。
・1976年~マイコンブームが開始。NECは当時、半導体部門しかなかったが、その半導体をより普及させようと、開発者教育のための教材としてトレーニングキットTK-80を発売。
しかしこれが開発者の枠を超えて、マニアや一般人にも広く受け入れられ大ヒットする。
・秋葉原にマイコンサービスルーム「ビットイン」を開設したところ大盛況。
マイコンショップ網も広島でスタートさせ、全国のすべての都道府県で1店舗ずつの展開を目指していたが、200店舗を超える盛り上がりを見せた。
後藤氏のプレゼンテーション
・TK-80は設計図などを公開するオープンポリシーで挑んだため、それまで存在しなかったサードパーティーが登場。
ハードからソフトまで展開を見せかつてない盛り上がりを見せる。
・そうしたなか、TK-80の上位機種を求める声がユーザーやメディアのあいだで多くなり、渡邊氏へのPC-8001開発のプレッシャーとなった(今でもそういう声が脳裏に蘇るという)。
・アスキーの西和彦氏がTK-80のマイコンキットに感動を覚えた。
そしてTK-80の空きROMソケットにBASICを載せようと企み、Tiny BASICで挑戦したが、「Tinyすぎて何もできない」ことに気づく。
・1977年~NECから「TK-80 BASIC Station」が発売されたが、「搭載されるBASIC、キーボード、インターフェイスともに最悪で、グラフィックスもなかった。渡邊氏に悪口を書いて持ってこいとまで言われた」(西氏)。
・1978年~西氏の勧めで、渡邊氏が米Microsoftを訪問し、ビル・ゲイツとポール・アレン氏と対談。デファクトスタンダードの重要性に気づく。
・1979年~NECがついにBASICを搭載した「COMPO BS/80-A」をリリースするも、「デザイン(そのデザインをした下請けのデザイナー、故人)、BASIC、キーボード、グラフィックス、インターフェイスなど、あらゆる点で気が入らなかった。それまでのPCは1人のデザイナーが顔を出してコンセプトが完成していた。アスキーからの提案をどんどんしていって、実現していったところ、NECとのコラボが実現し、PC-8001の発売にたどり着けた。
渡邊氏のプレゼンテーション
渡邉氏によれば、PC-8001の成功は「NECが(パソコン業界の)先頭に立って走ったから、先駆者がおらず自由に走れた。そしてオープンポリシーやサードパーティーなど、非常識を常識に変えたことで実現できた」と振り返る。「こうした非常識を常識に変えることを、今後もNECに期待し、コンピュータの進化につなげてもらいたい」とエールを送った。
後藤氏は「パソコンはスタンドアロンからネットワーク、モバイルへと進化し、地球規模で人間の知的能力、コミュニケーション能力を高める手段となった。NEC PCには、今後も人類が抱えるさまざまな問題の解決に向けて、コンピュータを届けてもらいたい」とした。
西氏は、「NECが社内でPC-9800シリーズを強くプッシュするようになってから、アスキーとNECの関係は薄れていった。そのためMSXを投入した経緯もあるが、今後の40年に向けて、NECとのコラボを続けていきたい」と語った。
西氏のプレゼンテーション 西氏プレゼンテーションの余談
ちなみに西氏のプレゼンテーションのなかで、余談として面白かったものを紹介しておこう。
・MSXの「MS」はMicrosoftの略なのだが、松下電器産業に企画を持っていくさいには「MSのMは松下」、ソニーに企画を持っていくさいは「MSのSはソニー」だと言ってアピールした。
・MSXの「X」は、のちの「Xbox」の名前の由来ともなっている。
・デジタルリサーチに出資し、MS-DOSのクローンのDR-DOSを開発。Ms.は未婚女性への敬称なので、Dr.はドクターへの敬称だと言い張った。
・ビル・ゲイツに半導体を作る話を持ちかけるも断られたため、CompaqとKleiner Perkinsらと「NexGen」を立ち上げ、マイクロプロセッサを開発。
その後AMDに買収され、K6、Athlon、Opteronなどへと続く。
西氏プレゼンテーションの余談 NEC PCとして今後はゲーミングPCも投入
最後にNEC PC 商品企画本部 プロジェクト「炎神(エンジン)」 総合プロデューサーの森部浩至氏が登壇し、近々投入する予定の「炎神」について語った。
PC-8001は多くのPCゲームを生み出すきっかけとなったマシンであり、そういった意味ではいまやメジャーとなっている「ゲーミングPC」の原型とも言える。そして同氏はフェニックスのビジュアルイメージと、「PC Engine」のロゴを彷彿とさせるスライドを公開し、ゲーミングPC市場に近々参入することを紹介した。
森部氏のプレゼンテーション
著名企業の著名人によるビデオレターも多く寄せられ、発表会を盛り上げた。
業界著名人からのビデオレター
歴代の製品など
40周年記念のLAVIE Pro Mobile PM750/NAA40周年記念品のPasocomMini PC-8001
PC Watch,劉 尭
【関連記事】
誕生から40年、N-BASICが動く「PasocomMini PC-8001」が降臨!開発者に聞いた ハル研究所 三津原所長&郡司氏インタビュー
【大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」】ビル・ゲイツとの密会、サードパーティ戦略。いま振り返る「PC-8001」成功物語
細部まで再現し、BASICが動作する「PasocomMini PC-8001」
NEC PC、PC-8001生誕40周年を記念した「LAVIE Pro Mobile」 ~旧NECロゴ採用。直販500台限定で「PasocomMini PC-8001」が添付

PC Watch
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/gyokai/1199709.html










懐かしのCPU♪
2011/8/8(月)午後8:54
パソコンパソコン
今日は上司さんのお陰で8時過ぎには帰宅出来ました♪
お風呂が沸くまでの時間で、おたっきーなお話しを一席。 (目標15分で記事作成!)
1973年、昭和48年生まれのがけっぷち。
人生初めて触ったパソコンがNEC初のパソコン PC-8001
このパソコンは1979年9月に発売されました。
このパソコンは日本のパソコン史に残る名機の一つとして、多くの方に愛用されたマシンとして有名です。
また、後のPC-8800シリーズ、PC-9800シリーズに続くNECパソコンの先駆けとして、
NEC初の完成品パソコンとして多くの歴史を作り上げました。
現在の「パーソナルコンピュータ」って言葉も、このマシンから始まった言葉とか。
そんなNECのもう一つの功績。
それはパソコンの心臓・脳にあたる、中央演算処理装置「CPU」の開発でした。
現在において、家庭向け・業務向けパソコンで使用されるCPUの殆どがインテル製。
1971年にインテル初のCPU i4004の発売から現在のCorei3などまで続く40年の歴史。
インテル社製CPU i4004
最初のCPUのi4004は日本の計算機メーカーだったビジコン社に搭載され、
その開発の過程は約20年前にNHKの「電子立国 日本の自叙伝」にて放送されました。
4ビットCPUから8ビット、16ビット、32ビット、64ビットと進化し続けています。
現在、テレビで拝見するパソコンのテレビコマーシャルにおいて、「インテル」って名前は必ず耳にしますよね。
この「intel inside」のロゴマークは、色々な説があって、
日本でのCM「インテル 入ってる」から全世界に広まったという説と、
元々「intel inside」だったものが、1980年代後半~1990年代前半の日本において、
「INSIDE」は「インサイダー取引」を想像させるということで、日本だけ「intel in it」になってたとか。
とりあえず、現在の「intel inside」って書かれてあれば、インテル社製のCPUが入ってることは間違いないです。 ただ、インテル社製CPUといっても色々な種類があるので、種類ごとに性能も価格も全然違ったりします。
話をNECさんに戻しまして・・・
NHKの番組「電子立国日本の自叙伝」において、インテル社サイドから、NECに対してCPUを世界に広める為に、i8008とその図面を渡されたような事が放送されていました。
その中で開発されたのが「μ」シリーズ。 (ミュー)
がけっぷち達は、「ミューコム」って発音してました。
後に、NECのPC-9800シリーズの市場標準機となったPC-9801VM2に搭載されたCPU。
それがNEC社製CPU「V30」でした。
後にV40、V50、V33やV30HLなどに派生していった、NEC製CPU。
その設計・製造技術、クリーンルームなどの設備技術はCPUとして直接互換性はありませんが、
現在の製品にも生かされています。
そんな「V」シリーズを久しぶりに目にしました。
イメージ5
(写真は10数年前のキヤノン製ファックス CF-470で使用されていた基板です。)
このV50シリーズはNECのパソコン PC-98HAなどで使用されてたものと、ほぼ同じものだと。
http://blogs.yahoo.co.jp/fffgc060/10038769.html
(上のURLは、以前作ったPC-98HAの記事です)
ちなみに、「V30」の「V」の意味は?
そう! アメリカのテレビ番組、「Visitor」の「V」
イメージ4
なわけもなく・・・・ (☆_@;)☆\(`-´メ)
NECの「V30」などの「V」は超LSIの英語訳の
「VLSI」の「V」だったりもしますが、もう一つ意味があって、
テレビドラマ「V」の意味「Visitor」(訪問者)の裏題として地球人が勝利するという意味の「Victory」(勝利)の「V」と同じ意味も持たされているとのことです。
まぁ、どっちが先か、どれが本当なのかわかりませんが。ヾ(´▽`;)ゝ
そんなCPUを作っていたNECグループ会社の一つ、
NECエレクトロニクス。
一部の製品は、日立製作所との合弁会社として、
広島県東広島市の「エルピーダメモり」という会社として現在にいたります。
また、日立製作所・三菱電機の半導体部門の合併会社として「ルネサス テクノジ」という会社がありましたが、後にNECエレクトロニクスも参加した会社として、「ルネサス エレクトロニクス」に至ります。
「ルネサス エレクトロニクス」は半導体製造会社として、部品製造から基板設計までトータルに行なっており、その製品は自動車や家庭用ゲーム機、OA機器など多種にわたります。
この度の震災で大きな被害を受けた「ルネサス エレクトロニクス」の完全復旧が、
日本の製造業復活の鍵を握っていることは、各種の報道でご存知だと思います。
広島に住むがけっぷちとしては、この会社の完全復旧を一日も早く望んでいます。<(__)>
(目標15分でしたが、20分ちょっとかかってしまいました。( ̄ー ̄)ゞ 
お風呂に入って食事をとったら、皆さんのブログを訪問しますね!!)

がけっぷち人生向上ブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/fffgc060/29217661.html




パソコン遍歴
2006/9/6(水) 午後 1:03 パソコン本体系 パソコン
はじめてパソコンのようなものを触ったのは何だったか
小学校においてあったFM7だっけ(知ってます)あと8もあったっけ8001とか6001とかまだテープメディアの時代の話
色表示も16色とかで…さすがにあんまり記憶は無いけども
なんだか6001とか欲しかった様なきもするけど結構な値段だったように思う
実際自分のものとしてキーボードが付いたものは『ファミリーべ-シック』が初めてだったかな
なんかなんでも出来そうで何にも出来ないって印象だったように思う
そんなものを欲しがっていたのでたぶんヒトよりは興味があったんでしょうね
ここで違った方向に行ってればIT長者になってたりして(笑)
ちゃんとパソコンらしきものはそこからMSXに飛びます
ソニーのHITBITだっけ「♪ひーとびとのヒットビット♪」ってキャッチが印象的でした。
これは使ったことがある記憶があるのですが所有していたのか記憶が曖昧
記憶にあるのはMSX2+でSANYOのWAVY70FDこれって高校生くらいかな。
ジャンク屋さんでFDドライブ買ってきてFD2に改造しよう足した記憶があるが…
その次は大学生の頃念願の86系だけどなぜかNECでなくEPSONのNOTE386WR
今思えばすんごい変なマシンでノートそれもかなりジャストA4サイズと当時としてはコンパクトサイズの癖に3.5インチFDDが二台も付いてたかわりダネ
勿論この頃はMS-DOSの時代3.1だったか3.3だったかFDからの起動の時代で結構使いでがあった
HDなんかは一メガ(ギガじゃないですよメガですよ)壱万円時代のチョイあとかな
その次は約10年前でしょうか
理系の学校で特に生物系はMacという印象でした先生方もMacが多くてあこがれもありAppleがPerfomaシリーズでどんどん押してきていた(値段も格段に下がった時期です)こともあり初Mac!
Perfoma5210を一年ぐらい使いましたモトローラPPCシリーズの初期ですねこのあたりに比べると68系のマシンの動きは優雅でしたね
ただこれを契機にMacもスピード競争の波に飲まれていったように思います(その結末がインテルチップへの乗り換えでしょうか)
翌年更なるスピードパワーデスクトップの拡大を求めてPowerMac8500/150に値段がこなれてたのでモデル末期だったように思います良いマシンでしたメモリーもちびちびと増やしていった記憶があります
外付けHDもつけました値段は忘れましたが2GBのものです(本体は1GBだったかな)
ウインドウズ95とかの時代です
このPM8500が今のところ自分にとっては最後のMacになってしまいました(その後友人のところから嫁いで来たiMacDV-SEがありますがこちらは嫁さんが使っていました)
最後といっても実はまだ現役でしてCPUドータボードをG3にアップグレードしSCSI接続のスキャナ(時代が時代なのでバカでかい)やMOがくっついているのでたまにお世話になっています(iMacDV-SEよりはるかに遅いですけどね)
その次にメインマシンになったのがIBMのThinkPadで安かったのでビジネスモデルではないi-seriesの1124-53Jでした内容的には240Xこと51J相当品でしたが色がガンメタで黒じゃなかったのがちょっとコンプレックスでしたね光学ドライブを搭載しないマニアックですがコンパクトな良いマシンでした
たしかOSは元々98SEだったのをさっさと2000に載せかえてメモリーもオンボードで64MB載っていて公式には192MBまでなのですが192MBという特殊なモジュールを搭載して256MBにして使っていました
かなり使い倒しましたね
途中から専門学校の講師も始めたのでこれにパワーポイントで講義してました
600系を使われていた方なんかからすると頼りないものだったんでしょうがなかなかのしっかり感とトラックポイント。このマシンのおかげでそれ以降はThinkPadにはまってしまいました(基本的に小さなPC萌えなんでしょうね)
しかし4年目くらいでしょうか半年ぐらいのうちに3度のHDのトラブルに遭いキレてしまいました
やはり本当にモバイル使用すると痛みが激しいのでしょうか
今は再生待ちで放置です
そこであこがれの黒いThinkPad(特にピーチスキンにはあこがれました)値段がこなれていたこともありX31-JHJを購入。
値段が落ちたとはいえ発売当時シリーズのトップを飾っていたモデルです。使う当ては無くても全部入りってカンジでBlueToothにギガビットイーサネットまで装備これが現在の愛機になります。
トラブルは殆どありません一時期ブルーバックの再起動があったのですがメモリ増設後は出ていません
ちなみにメモリは公式には1GBが最大ですが1GBのモジュールを挿して純正256MB+1GBで正常に機能しています
このマシンも購入後2年半くらいかな突然壊れても困るのでHDなどそろそろ対策しようと計画中なのでまた悩みながらエントリしていきます
で、今は特にPCに依存しながら仕事もしていますのでちょっと前にバックアップマシンを購入しました
ついに3台目のThinkPadですLetsNoteシリーズもよぎったのですがやはりしっかり感という意味で軽量のLetsNoteがThinkPadには敵わずThinkPadから選ぶことに
持ち運びも考えてX32の最終処分かZ60tにするか迷っていたのですがバックアップマシンであり普段は嫁さんが使うことを考えて画面が大きい方が良いかなと思いはじめてZ60mとT43で悩んで悩んで
やはりIBMの最後の設計のモバイルということでT43を購入しましたLenovoだからどうこうとは思いたくないですけどなんとなくね(X60にも惹かれましたが新しいシリーズのCPUがまだ使いこなせていないだろうということとどうせ次のOSは苦しいだろうということ、あと値段で没に)あとACアダプターが使いまわせるのがメリットでした(Lenovo60系からはコネクタも違いますから)
ただT43はHDの相性問題が色々うるさそうなのでなるべく容量のおきなモノを購入しました
いまのところはこんなカンジですね
これから先どんなすばらしいPCと出会えるのか楽しみですね

ahsiamのへや完全趣味ページ
https://blogs.yahoo.co.jp/tevahsiam/18947495.html





PC-8001のお部屋
としひこ さんの PC8001 への思い入れ(投稿ありがとうございましたm(__)m)
私が生まれて初めて触ったコンピュータはこのPC8001でした。 
コンピュータの基本はほとんどこの子から教えてもらいました。 
Basic言語,マシン語,ハードウェア,CP/Mなど骨の髄までしゃぶった といっても過言ではないかも知れません。
私が入手したのは1982年だったと思います。
既にPC8801が主流になっていた時に敢えて(ま,金がなかったのが最大の要因ですが)PC8001を選択しました。
そのおかげでゲームに散財することもなかったので,ひたすら内部解析やプログラミングに明け暮れていました。 
最初はディスク(もちろんフロッピディスクのこと)もなく,テープベースで使っていましたが,遅さに耐え切れず結局ディスクドライブを購入したものです。
当時はMicroDOSと呼んでいたLoad/Saveのみが可能なフリー(だったと思う)OSを使っていました。 
最終的には拡張ユニット(PC8012)を付けて,128KB(当時としては大容量のメモリ(笑))のカードを載せて192KBのマシンとしてCP/Mを使っていました。そのマシンでアセンブラでRAMDISKを書いたり,TurboPascal 3.0を使ったりしてました。5年は使ったでしょうか。 私にとってはコンピュータの世界にひきずりこんでくれた忘れようのない思い出のマシンです。
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しかしよる年波には勝てず,私がMacintosh Plusを購入したときに廃却してしまいました。拡張ユニットだけでもおいときゃよかったな^^
西村 健 さんの PC8001 への思い入れ(投稿ありがとうございましたm(__)m)
NECが16万8千円という,当時としては画期的な安さで発売した8ビットの名機です。なにせ,競合するほかのマシンといえば,当時は TRS-80 や PET-2001 などで,軒並みモノクロ表示で,それでも30万円前後の価格がふつうだったのです。それが,カラーが使えて20万円以下なのですから,飛びつくユーザーが多かったのも判ると思います。
まあ,カラーが使えると言っても,たったの8色ですから,フルカラーが当り前の今の環境から考えれば,問題にもならない情けなさです。ですが,当時は8色でも凄かったんです。あの憧れの APPLE-II でさえ,ハイレゾグラフィックでは6色しか出なかったんですから。
しかも,PC-8001 にはグラフィック機能まで付いていたのです。もっとも,160x100 の低解像度だったので,さすがにNECもグラフィック機能と呼ぶのは苦しいと思ったのか,セミグラフィック機能と呼んでいました。
このグラフィック機能は,CRTC の機能を使ったもので,要は1文字を 2x4 に分割したキャラクタに置き換えるものでした。
そのせいで,1ドット毎に色を設定する事はできませんでした。
色の設定は,アトリビュートエリアに対して行うのですが,かなり面倒で制限も多かったのです。
そのため,勝手に色が変わるとか,ドットを打つ時の座標計算が複雑だとか,今から考えると,ゲームを作る上ではわずらわしい部分も多かったのですが,みんな平気でした。それが普通だと思っていたからです。
それまでが40桁25行のキャラクタ画面で,しかも白黒でゲームを作っていたので,それに比べれば,まるで天国のように感じられたのです。
それに,当時のゲームは,まだそんなに解像度の必要なものは少なかったのです。(もちろん,ハイレゾリューショングラフィックは当時の憧れの言葉でしたが)。
おかげで PC-8001 には,カラフルなゲームがたくさん開発され,そのせいで PC-8001 のシェア拡大に拍車がかかったようなものです。
PC-8001 は,ゲーム以外の目的でも,ビジネス運用もきちんと考えた設計になっていました。
この当時としては画面に 80x25 文字が出せ,ちゃんとしたフルキーボードが使えるというのは,かなり画期的だったようです。
bit だか Interface だかに「端末としても充分使える,安価なマイコンが発売された」といった記事があったように記憶してます。
つまり,パソコンとしての機能より,標準的な端末になるということの方が,まず評価されたのです。
また,文字コードが JIS(ASCII) 標準になっているとか,フロッピーディスクが使えるとかの特長も,ビジネス向けには有利でした。大文字小文字がきちんと使えるのも PC-8001 が初めてだったんじゃなかったでしょうか? もしかすると,TRS-80 がすでにやっていたかも知れませんが。TRS-80 もビジネス運用には定評のあるマシンでした。
グラフィックの所に書いた CRTC のアトリビュートの機能には,グラフィックや色の設定以外にも,ブリンク(点滅)やバーチカルライン(縦線)やアンダーラインを表示でき,これを使うとキャラクタコードを組み合わせて作る表に比べ,はるかに見やすい表を画面に出力することができました。
このこともビジネス運用には有利でした。
ホビーユースでは,PC 派と MZ 派に分かれるぐらい,SHARP と NEC は競り合ってましたが,ビジネス向けでは NEC が圧倒的でした。
この頃,小規模店舗がOA化をするときは,ほとんどがPC-8001 を導入していたような印象があります。
PC-8001 の流れは,その後 PC-8801 と PC-8001mkII に分かれて続くのですが,PC-8001mkII はあまり売れなかったようで,PC8001MkIISRでラインナップは途絶えてしまいました。
PC-8801 の方は,その後の NEC の主力機種として,PC-9801 までラインナップを伸ばして行くのでした。

虎菊
http://www3.wind.ne.jp/toragiku/kopa/8001.htm
http://www3.wind.ne.jp/toragiku/kopa/88.htm
http://www3.wind.ne.jp/toragiku/kopa/pc100.htm
      
PC88ゲームライブラリ
http://www9.big.or.jp/~y-romi/library/frame1.htm








NEC PC8001 まだパソコンデスクがない時代でした
BASICの読み込みは カセットテープから 終わればSAVEもテープへ(黄色枠) プログラムのプリントアウトもドットプリンター(緑枠)へ BASICプログラムは一文字ずつ手打ちでした。

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プーーーー
ぴっ、ぽっ、ぽっ・・・ピーーーーー
ギャラギャラギャラ・・・プジーーザザーーーーピガ、ザーーーー
(-_-)
このあたりにISDNとかを使って、高速リダイヤラーソフトを発明したやつは天才だと思います^アナログ回線ですと、リダイヤルは1分間に3回までとか有りましたが、ISDNはデジタルなので、
会社のPCにソフト入れて、8回線から、順番につながるまで
リダイヤル・・・・・。
チケット取りとかやってたな^^
(-_-)
みなさま、パソ通のために電話代いくら払いましたか?
私は3万円払ったことがあります。
(-_-)
マジ、本当。13万.2カ月続いてやっちまいました。今は良い時代です。
(-_-)
MZ-2500 SUPER MZ
懐かしいですね😃
僕が初めて買ったのがMZ-700ですが
家にまだあります
(-_-)
この頃はパソコン通信て言ってたね  まだネットとかで今見たいに調べたりやホームページとか無く 文字でのやり取りでした プログラムやデータの保管はカセットテープでした

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