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2025年5月18日日曜日

[レビュー][歴史]『怪盗ジゴマと活動写真の時代』〜岡田斗司夫ゼミ




[レビュー][歴史]『怪盗ジゴマと活動写真の時代』〜岡田斗司夫ゼミ
永嶺重敏『怪盗ジゴマと活動写真の時代』〜岡田斗司夫ゼミ
2025.4.1
岡田斗司夫ゼミ/ 怪盗ジゴマと頗る非常な活弁士の時代
今日は大正時代の映画活動写真について話しします。テキストは先週も紹介しましたけども永嶺重敏著『怪盗ジゴマと活動写真の時代』ですね。この他の参考書類も色々ちょっとここに並べてあるんですけども,この辺はプレミアムの方で紹介します。
大正時代とは何かというとですね,1912年が大正元年なんですよね。で『鬼滅の刃』が大体ストーリー始まったのも大正元年あたりだし,あとタイタニックが沈没したのも大正元年(1912年)ですね。あと明治天皇が崩御し明治という大きい時代が終わったという色んなものが詰まってる時代なんですけどもですね,大正時代の分かりやすい資料っていうのはまァ資料というか『鬼滅の刃』が案外いい資料なんで,ちょっと今回使ってみようと思ったんですけども。
■ 大正時代
これ『鬼滅の刃』に出てくる浅草です。あまりに明るすぎて華やかで人が多いから第7話ですね。炭治郎が超ショックを受けるシーンなんですけど,浅草の円形で,いっぱい旗が立って,で夜も電気で赤々と輝いてるわけですね。 で炭治郎は何故この明るい浅草区にショックをうけたのかっていうと,電気があるからじゃないんですね。すでに炭治郎の村でも電気って当たり前なんですよ。もう1話で近所の村に炭を売りにくシーンで,近くの村に行ったら電線ですね,すごい高い電線が生えてて,ものすごくたくさんの電柱が生えてて,電線走ってるんですよね。で,エンディングでも電車がやっぱりこう見えてるわけですよね。で,このエンディング,これ何やってるところかというと街に向かって炭を売りに行ってるシーンですね。つまり,炭治郎の家と麓の村の間にはもう電線が走ってるんですよ。だからすでにもう村では電気が当たり前になって,もうあと何年か待てば炭治郎の住む家のあたりに電気が来てもおかしくないんですね。で「いやいやそんなこと言ってもまだまだ炭治郎が住んでる山奥の一軒家まで電気なかなか来ないんじゃないか?」っていう風に考える人いるかも分かりませんけど,これ後で話しますけども,大正時代っていうのはものすごい早さで電化が進んだ時代なんですね。ガス水道は遅いんですけども電気はすごい早いんですね。 で普及率もめちゃくちゃ高くなるんですよ。つまり炭治郎が見上げていた空ですね,あの作品の中でアニメでもゲームでも僕ら彼らが見上げていた空っていうのは,ついつい青空を考えちゃうんですけど,違うんですよ。彼らが見上げた空っていうのはよっぽどの山奥でない限り,大体電線が空を走ってる,電線が空を区切ってる,僕らが見ていた空に割と近いそういうお話なんですね。大正時代ってそういう話時代なんですよ。で具体的に言うと明治15年(1882年)ですね。今日話すお話の30年ぐらい前に,もうすでに東京銀座に日本初の電灯が灯もっています。で,この頃は30年前は電気珍しかったんですよ。わざわざ電気で灯った明かりを見るために人々が来たぐらいだったんですけど,しかしこの炭治郎がこのあのさっきの浅草に行ったのは,もうえそれから30年経ってるんですね。ですでに日本全国に発電所が建ち出してます。すごいですよね。で電灯は東京を中心に急速に普及して,さらにエレベーターとか電車などで電気は動力用としても利用されてます。で大正5年に全国の工場では50%超えてる電化率,つまり日本全国の工場が,もうすでに石炭とかそういうのではなくて,電気になって5割になってるのが大正という時代なんですね。で,まだ家庭では囲炉裏とか薪で炊いてるのがあったと思うんですけど,ただそれも明治時代の石油ランプとか廃れて,上水道とかガスとか電気がどんどんどんどん普及していきました。これも明治の末の話です。で,家庭用電化製品が出たのも大正時代で,扇風機出るは,電気ストーブ出るは,電気アイロン出るは,電気コンロがもうすでに普及し始めてます。大正の元年で。でブリキとかセルロイドの新素材のおもちゃも登場してるので,炭治郎が子供たちに買おうかなと思ってるおもちゃっていうのは,もうすでに僕らの持ってるようなものと,そんなに変わらなくなっているんですね。カレーライス,トンカツ,コロッケは大正の3大洋食と言われるぐらいで,人々のご飯も急激に変わっていたのがこの時代ですね。
■ 活動写真
まァこれが大正時代ですよ。面白いことで,そんな時代に人々が熱狂したのが活動写真ってやつですね。『鬼滅の刃』にも活動写真出てきます。炭治郎が歩く浅草の町ですね。ここにちょっと見えにくいんですけど,この部分に「活動」って書いてるんですけど,これ別のカットなんですけど,ここにあの映画の看板みたいのがあるんですけど,これ多分有名な浅草の電気館だと思います。
✔キネトスコープ
で,活動とか活動写真っていうのは英語の「Motion Picture」の直訳なんですね。ま今の言葉でいう本当に映画ですね。で「毎月1日は映画の日,この日はみんな1000円じゃ」って言ってるじゃないですか?あれ何故っていうと,1896年に神戸でキネトスコープ,映画の元祖みたいなのが公開されたのが,マァ本当は10月25日か26日ぐらいだったらしいんですけど,期間があったので,じゃあもう11月1日にしましょうということになって,実は日本では映画の日っていうのが11月1日になってる。なので,記念で毎月1日は映画の日で,それで映画が1000円で観れるわけなんですよ。 
で,キネトスコープどうなのか?っていうとえこんなんですね。 エジソンの発明です。中にフィルムはこう入っていて,でコイン入れておっさんがこう覗いてるんですよね。いつもが発明品です。でこれ1人しか覗けないので決して便利な発明ではなかったんですけど,当時はとにかく絵が動くというか,写真が動くだけで驚きだったんですね。でエジソンは,この特許とか取らなかったんですよ。
✔シネマトグラフ
当時,この時代のエジソンあんまりお金持ってなかったんで,これそんなヒットすると思ってなかったので,とりあえず1つ作って満足して,発表して記者に色々言われて「天才だ」とか「発明王だ」とか言われていい気になって言われてる時代だったんで,特許取らなかったんですよね。 なので世界中で模造品がいっぱい作られました。で,世界中で模造品を作った1人というか1組がフランスのルミエール兄弟っていうのがいたんですね。で,フランスのルミエール兄弟っていうのは,このキネトスコープを改良してシネマトグラフっていうのを作りました。 シネマトグラフって,これ何かっていうと,撮影することもできれば映写することもできる機械なんです。で,このシネマトグラフによって,スクリーンですね,壁とかにフィルムの映像を映写することができるんだ。 と。で,これのおかげで,もともとエジソンが作った機械は1人が除いてみるしかできなかったんですけども,50人ぐらいでも楽々観れるようになったんですね。 
✔バイタスコープ
でこれを知ったエジソンが「これはいかん,俺が映画の発明者じゃなくなってしまう」と思ったんで,他人の発明を買いとったんですよ。エジソンは,キネトスコープ作った覗きからくり作った段階で気がするんじゃったので,そこから先開発してなかったんですけども,アメリカでも同じようにフランスのリベール兄弟みたいに,壁に映写する方式っていうのを作った人がいたんです。その人の発明の特許を買い取ったんですね。もうこの頃の時代のエジソンて毎週,何曜日だったかな?新聞記事に間に合う日の昼間にアメリカ上,新聞記者読んでランチ発表会やってたんですよ。で,毎週毎週「今週の発明はこれです」っていう風に発表をやってたら,みんな「すごい」って言って,それを翌週の新聞に間に合うように記事にしてたっていう,なんかもうやり口がもうほとんど炎上系YouTuberみたいだったので(笑) エジソンていうのは,それで他人から買った発明品を自分が発明したように見せるというのずっとやってたんですけども,これも同じ方式ですね。 他人の発明を買ってバイタスコープって言います。「Edisons greatest marvel Vitascope」って,エジソンは宣伝屋だから分かりやすいですよね。さっきのルミエール兄弟のシネマトグラフよりもこの方が分かりやすい。観客がいっぱいいて絵が動いてます。エジソンの素晴らしくとんでもないバイタスコープっていうのがこう書いてあるという風になってるんですけども。
でもこの時期に欧米では,もうすでにこのスクリーンと写真のシネマトグラフが普及していて,エジソンが最初に発明した1人しか覗けないキネトスコープっていうのはもう時代遅れで売れなくなってたんですね。なので日本という東洋の国に二束三文で売られたそうです。で,それが神戸で公開されたのが1896年の11月1日前後ということなので,そのエジソンの時代遅れの発明が,時代遅れになっちゃったんで安く叩き売られたので,日本に入ってきたおかげで,毎月1日に映画を1000円で観れるとこういう風な流れになってます。
 で日本に来たキネトスコープなんですけども,当たり前ですけど,日本でもあっという間に廃れるんですよ。だって1人しか覗けないわけですからね。で,スクリーン上映式のバイタスコープっていうのは大流行しました。で当時日本にあった芝居小屋っていうのは,大体月に1回か2回ぐらい特別上映として,このシネマスコープかバイタスコープのどっちかを上映してたっていう風に言います。 
■ 駒田好洋
で,ここでポイントはですね,ちょっと待てと。キネトスコープは流行遅れだから日本輸入されたんだけども,日本全国で大体月に1回ぐらい芝居がやってるって言っても,そんなに映写機があったのか?っていう問題と,そもそもどんな作品を上映したのか?っていう問題があると思うんですね。で,まずは映写機問題です。高いんですよ。本当に高いんですけども,ドイツかとかアメリカから輸入してました。で買ったのは興行師ですね。映画を売り込む人が買うんですよね。で,彼らは映写機を買って,フィルム作品を買って,同時に説明士っていうのになったんですね。説明士って何か?っていうの,ちょっと言い方は難しいんですけども,これ見てください。 この右上に「自称東洋のエジソン,頗る非常に駒田好洋」って書いてありますね。この駒田公洋っていう人,実は19歳なんですね。19歳のチンドン屋さんの店員さんなんですよ。昔懐かしいチンドン屋さんというのがいますよね…っていうか,もう見たことない人も,大体どんな方知ってると思うんですけど,そういう会社の店員さんだったんですね。その人が「エジソンのバイタスコープ,ちょっとこれ,俺がやります」って言って,最初はそのチンドン屋さんの中に事業部みたいなものを作ってそれをやるっていう風に言って,最終的に自分がそれを買い取って,日本全国で興行するとこまで行ったんですけども,そのバイタスコープの映写機とフィルムを持って楽団15人を連れて日本中を廻る,そういうなことをやったんですよ。で,おそらくこの映写機の電気で回すようなクランクを手で回すわけなんですけど,このクランク操作と説明を駒田好洋は自分でやるわけですね。クランク操作自分でやってると同じシーン何回も見せれるんですよ。で,スピードアップもスピードダウンも思いのままだから,自分が説明しやすいところはゆっくりと回して「はい,ここが聞くところですよ」っていう風に言って,「ここら辺ちょっとよく俺もよくわかんないよ」って早回しで客を笑わせるとか,いろんな手札を使って見せたわけですよね。でそういう公式の記録に残ってる,電気の本当にない北海道の最果てまで公洋は来た。ですから,炭治郎の村って,さっきのあの電信柱の話思い出してください。電気あるんですよ。電気のない村にまで行った好洋が電気がある街に来てないわけがないんですよね。でおまけに駒田好洋以外にも興行師っていうのは山のようにいたんですね。 いっぱいいて,で,そいつらが日本中ぐるぐる回ってたんですよね。
で,上映作品は,まず1番の売りになったのがこの『かっぽれ』ってのと,あとこの右上の方にある『三井呉服店』っていうのがあるんですけど,これが割と呼び水になったと言いますね。あと『頗る非常なる栄会』って,この3つですね,当時の日本の風俗とか風景ですね。で,1番下にある『芸者の手踊り』っていうのがあるんですけど,これなんか日本初の商業映画っていいます。駒田好洋自身が金出してカメラ買って,多分本当に22歳ぐらいなんですけど,金出してカメラ買って自分で撮影して日本初の商業映画撮っちゃったんですけど。でところが,そういう風に客を呼ぶのはこのかっぽれ踊りとか日本橋のご服屋だったんですけども,実際に見せてみると人気が爆発してるのが海外の風景なんですね。当時日露戦争に勝った日本の大衆っていうのは,外国の情報,外国の映像に関して頗る非常な興味を持っていたという風に伝えられています。 
…という訳で無料パートはここまでです。とにかく俺思うんだけども,明治時代のユタボンだよ。実行力があるユタボンでさ,15歳ぐらいで家出してるすごい変なヤツで,言ってることの1/3ぐらいが嘘って,ここら辺も何かユタボン臭がして(笑) じゃあ後半行こう。 今日のメインテキスト『頗(すこぶ)る非常! 怪人活弁士駒田好洋の巡業奇聞』『怪盗ジゴマと活動写真の時代』ですけども,ここに「怪人活弁士」ってあります。活弁っていうのは活動映画の弁士の事。無声映画の時代,映画に声も音もついてなかった時代に,映画のセリフとか音を喋る人の事を「活弁士」って言ったんですけど,当時彼らは自称「説明者」って言ってます。活弁士っていうのは,何かちょっと身分が下っぽく見られて嫌がられたんですよね。
で例えば映画『Shall We Dance?』の監督をした周防監督が2019年に作った『活弁』って映画があるんですよ。 で,その中で,田舎の村に活弁士が映画と一緒にやってきます。一座を引き連れてやってくる描写があります。 で,映画で『怪猫』という無声映画のシーンが出てきます。明治の化け猫の特撮映画なんですよ。 でスクリーンの左の方に,ちょっと暗くてよく分かりにくいんですけども声色弁士がいます。声色弁士っていうのは,それぞれの担当の役を2〜5人がかりで1本の映画の台詞を分けて話す,本当に声優ですね。でこの『怪猫』はチャンバラ劇なんですよ。いわゆる明治時代なんですけども,その時代にはないチャンバラ時代劇っていうのをやる時は声色弁士を使うんですね。 
しかし当時人気作だった海外映画はスター弁士が1人やってるんですね。これは人気のスター弁士が出てくるシーンなんですけど,フロックコートを着て完全な洋服を着て,銀幕の前に立ってるんです。何故銀幕っていうのかっていうと,スクリーンは白いシーツなんですけども,映写前に,助手がスクリーンに樽で水をパッと綺麗にぶっかける。そうすることによって,白いシーツ自体はただの白い布なんですけども,キラキラと光ってまるで銀のように見えたって事から,「銀幕」っていう風に今でも言います。別に当時の映写スクリーンの成分に銀が入ってたとか,そういうことじゃなくて,ただ単に上映前にバケツでスクリーンに水を綺麗にパーっとぶっかけると,それに光が当たってキラっと光って見えたから銀膜っていう風に言ったそうです。で,その銀幕の前でフロックコートを来たおしゃれな弁士が一人で喋るわけですね。で,当時は海外からフィルムと同時に台本も取り寄せたんですけど,台本に書いてある台詞だけでは内容伝わらないですよ。
当時の明治37年ぐらいにヒットしたのが,ローマ時代の戦争映画の『アントニーとクレオパトラ』ですね。 『アントニーとクレオパトラ』って明治の終わりに,それぞれイタリアとアメリカで映画化されてるんですけども,もうそんなの観てもわかるはずないんですよ。これ公開当時の浅草の様子です。浅草電気館で『アントニーとクレオパトラ』って書いてあって,なんかローマっぽい絵が描いてあって,ものすごい人が集まってるんですけども,こんなに人が観ようと集まった。しかもこの映画尺が58分。長い。当時の映画としたら破格の長さ。当時のフィルムって1巻ごと,ワンリールごとで10分ぐらいなんですよね。短いので7分,長いので13分ぐらいしかない。なので,その10分ごとにリール入れ替えなきゃいけないんですよ。 その時に次の上映のこともあるから,1回リール抜いて,予備のリールに全部前のやつを巻き取って,頭とお尻をもう一回逆にして,次のリール入れてやるから,最低でも5分,長ければ10分ぐらい時間がかかるんです。かなり時間費やされるんですよ。でそれでも大ヒットして,ここに新聞記事が載っています。でこの交代時間…リールを交代する時に,説明士…活弁士って後に言われた言葉で,彼らは自分たちのことを「説明士」とか「説明者」って言ってたんですけど,説明士が,このリール交換の時に,これまでのまとめ話してくれるんです。10分ぐらいの訳のわからない海外の無声映画を観て,生演奏があるから音楽だけはついてるんですけど,で,それが終わると,ここまでもまとめての話してくれて,この先の展開も大体ざっと話してくれるんです。「アントニーの運命やいかに…」とか。あと当時の時代背景も説明してくれるんですね。「当時,エジプトはローマ帝国の支配にあって,女王クレオパトラはそこで捕虜になって,一回ローマに連れてかれたんだけども,絨毯の中に隠れて,アントニーが出てきて,そこでラブラブになっちゃうんだよ…」っていうのが説明される。これシェイクスピアが戯曲で書いて,ヨーロッパアメリカでは,そのシェイクスピアをエリート層は教養として読んでるし,舞台も観てる。『アントニーとクレオパトラ』って,当時の日本人にとっての『忠臣蔵』の討ち入りものとか,現在の日本人にとっては『ちびまる子ちゃん』や『ドラえもん』の基本設定みたいなもんですね。知ってて当たり前のもんなんですね。だから海外では映画として成立するんですけども,東洋の果ての日本では,誰もシェイクスピアとか読んでる人は禄にいないんですよ。だから,本当はこんな大衆の街浅草に人々が詰めかけたところで,絶対ヒットするはずがないんですよね。 なので,ヨーロッパとかアメリカでは,この『アントニーとクレオパトラ』が作られて上映されて58分の映画やった時は,説明士いなかった。あの,ちょっと言っとかなきゃいけないのは,説明士活弁士って日本特有の文化だった。当時,日本の影響化にあった,当時の日本の植民地だった韓国とか台湾とか,一部の東南アジアの国では,映画上映された時に日本と同じように活弁士が出てきて「…どうなるでしょうか?」ってやったんですけども,日本以外の国では,映画上映で誰かが出てきてストーリーを説明するとか全くないんですよ。 日本だけなんです。映画誕生当時は,最初は活弁士あったんですよね。 エジソンのキネトスコープにしても,フランスのリュミエール兄弟にしても。なんせ,フランスにリュミエール兄弟がやってる映画なんて,工場の出口から女の人が仕事が終わって出てくるというのを撮っただけの映画なんですよ。5分もないわけですよ。 それを金取って観せるわけだから,持たないんですよ。 5分だから尺がないので,どの国も日本もそうなんですけど,まず口上というのやるんです。 「さて,ここに取りい出したるは,かのエジソン翁が発明してましたる,頗る非常な世紀の大発明でありまして,モーション・ピクチャア,日本語で活動写真と申し上げます…」みたいなことを30分喋べる。30分喋ってみんなが「早く観せろ」ってなって,「フランスの工場から婦人たちが…」って,これもう世界中でそうだったんですよ。 なのでその黎明期はトークというのがついてて当たり前だった。当時のエジソン社が作ったフィルムってのも,エジソン社の庭に水を撒くというだけのフィルム。 一応ギャグが入ってて,水を撒いてると,途中のホースを子供が踏んでで,水撒いてる人が「あれ?水出なくなった」と言って顔向けた瞬間に,子供がホースから足を外して顔にバシャってかかって,ここで一笑いが起こる。これも本当に数分しかないフィルムなんですけど,これを公開するのにやっぱり,「これは何なんだろう? 」ってなるから「これははホースといって,管から水が…」って言わないと観客はまあまあよくわかんないわけですね。 なので,映画の説明者っていうのは最初は世界中にいたんです。尺を繋ぐ問題もあるし,内容を説明する必要があったんですけども,フィルムがどんどんどんどん長くなっていくんですね。そして映画の中に字幕が入るようになって,ストーリーが語られるようになると,説明者解説者というのはいなくなった。 日本以外では。ところが日本だけは唯一残ったんですね。 
日本で活弁士が残った理由は何かっていうと,地方巡業が多かったっていうことが一因じゃないか。この本にはあんま書いてないですよ。何故日本だけ活弁士が残ったのかっていう,その明確な理由って,それぞれの説あるんですけど,書いてないんですけども。日本では,最初見せた,いろんなフィルムをまとめた1枚のポスターありましたけど,あんな風にいっぱいいろんなものを見せなきゃいけなかったんで,中継ぎで説明をいっぱいする必要があったと。だから,まず日本では真ん中の説明が盛んだったんですね。で,これを真ん中の説明「中説(なかせつ)」っていう風に当時から言われるようになりました。映画と映画の間で「このフィルムはこのようです,さて,次はこんなフィルムなんですよ」っていうのを説明することを「中説」って言うんです。で,それに対して, 映画の前に「さてここに取りい出したる,映写機というものをご存知でしょうか?電気の力で動きます…」という,映画の前にする前説明,これが略して「前説(まえせつ)」と呼ばれる。今僕らが,お笑いの現場とかテレビとか,そういう所でよく聞く「前説やらせてもらってました」とかよく言うじゃないですか?僕もよく言いますよね。1番最初に生放送が始まる時にですけど,前説っていう風に言うんですよ。前説っていう言葉ですね。このルーツは,実はこの活動映画からですね。ところがこの『アントニーとクレオパトラ』みたいな40〜50分尺の映画作品になると,活弁士というのが一切姿が消す。で何故日本だけ活弁士が残ったのか?とか,一応,この本の中身をまとめた説明後でやります。
で,さっきも話した通り『アントニーとクレオパトラ』は58分あって,でも欧米で当たり前のですね。ローマ帝国,エジプト,海上の戦闘とか,そういう常識が日本人は全くありません。で,一応映画の途中とか合間とかに,活弁士が思いっきり説明しないともう本当に話がチンプンカンプンなんですね。 なので,日本は映画といえば,活動写真といえばスクリーンの横で弁士が付きっきりでずっと喋ってるのが当たり前だったんです。で,弁士によってセリフが違うんですよ。これも当たり前ですね。正確なセリフの台本が来るわけじゃないから,みんな想像で喋るんです。で「お茶の子さいさい…」「任せろ合点だァ…」とか,日本語の符丁もガンガンガンガン入れる。だから弁士によって面白さが違うんですよ。 同じ『アントニーとクレオパトラ』でも,この人がやると世紀の悲恋の物語,ところがこっちの人がやると大爆笑の喜劇にしてしまう。当時の世相をテーマにパロディとかをやった,今でいう爆笑問題がやってるような世相漫談みたいなものにしてやってしまう弁士もいたそうです。当時の日本の首相とか,陸軍の大臣とか,或いはなんか笑い話があったらそれを巧みに話の中に盛り込んでやるということもやってたそうです。で,それが理由で映画よりも弁士の方が人気があった,そういう時代だったんですね。
で,その時代に, 明治から大正にかけて日本一と言われたのがこの駒田好洋ですね。1877年(明治10年)7月1日生まれですから,僕と同じ誕生日です。 やっぱりペラペラ喋るヤツっていうのは同じ運命の星ですね(笑) 明石家さんま,駒田好洋,岡田斗司夫,全部7月1日生まれで,全部言ってることは半分言い加減で全部ペラペラ喋るっていうヤツですね(笑)  ウィキペディアによると,映画の興行するばかりではなく,日本初の商業公開用の映画を制作し,さらに日本初の劇映画も作ったということで知られているそうです。そこそこ新しいフロンティアを切り開いたんだけど,それで大儲けしたわけではないというところもそっくりですよね。生まれたのは大阪です。で実家は呉服屋なんですけども,15歳で家出して,そのままアメリカへ行く。神戸の舶に乗って密航で行ってしまいます。で2ヶ月間アメリカ放浪したんですけども,まあまあ仕事もなくて,貧乏で浮浪者になってたのを警察に捕まっちゃって,日本へ強制送還されました。はっきり言えばこの家出は大失敗だったんですよ。ところが日本に帰ってきた好洋は,「アメリカでもうほとんど乞食やってましたとか,ホームレスやってました」っていうのを「アメリカでエジソンの弟子になった」って嘘を言う。嘘っていうか,これ駒田好洋の自伝って本当にわかんないそうなんですよ。ていうのは,本人自身が乗って書いて,面白いようにどんどんどんどん盛って話すから,ある人は「ほとんど嘘だ」と言うんですけど,ところがとことん調べてみると割と本当だったっていう。ここら辺もなんか俺親近感覚えるなーって思うんですけどもですね。 
で,「エジソンの弟子だ」と言ってるのは,これは100%嘘だと思います。で,日本に強制送還された後,次は実家の呉服屋に帰らずに東京に逃げるわけですね。で,東京に逃げたら,まあまあそういう大阪での悪い評判伝わってないので,「神戸からアメリカに行って,エジソンの弟子になった」っていうホラ吹いて,そのプレゼン能力が買われて,東京一のチンドン屋さんの会社「ひろめ屋」っていう,話を広める,宣伝を広めるから「ひろめ屋」っていうところに店員として入店しました。でさっきも話したように,この時代,駒田好洋が始めた映画興行のポスター。無料の最後も見せたこのポスターですね。元々チンドン屋さんなんで,こういう風に自分たちのことをものすごいように書いて盛り上げて,で街へ入る時も普通に入るんではなくて,街の少し前でトラックを降りて,パレードしながら街に入ったそうです。で,自分から「天上天下唯我独尊」っていう風に言っちゃったんですね。 日本での活動ですね,「元祖・頗(すこぶ)る非常に大博士」って言います。で,駒田もやっぱり活弁士という風に言われるのを嫌って,自分のことを「映画の教育者」「フィルム教育者」という風に名乗ってました。 
駒田が優秀だったのは何かっていうと,やっぱチンドン屋さんのちょっと大きくなった広告代理店ぽくなるんですけど,「ひろめ屋」の一部門だった映画興行部門を,その得意の大ボラと名調子でどんどん大きくしたことだと思うんですよね。 で,活動写真が流行る前,普及される前にして,すでに日本では実はスライドによる上映店が流行ってます。スライドで上映で日露戦争の戦争写真とか,あとは日本の様子みたいなものをスライド写真を投影してお客さんにトークするのはすごい流行ってたんです。で,この駒田は,この語りが頗る非常に大得意で,芝居小屋を次々と活動写真の専門館,あるいは併用館に変えた。つまり,普通の芝居小屋より暗くしなきゃいけない。芝居小屋なら,普通の芝居もやって役者の顔が見えるように明るく作る。明りもいっぱい灯けて,そんなにドアも閉め切らない。 それを完全に締め切れるようにして,前にデカい幕を置いて,何より大事なのが映写機から割とでかいノイズがあるので,映写機を入れるブースみたいなのを作る。トイレみたいな小部屋を映画館の後ろの割と真ん中に置かなきゃいけないんですね。そういう風なものを作らせる。で,これは芝居小屋とかが嫌がることもあったんですけども,とにかく映画やったら,活動写真やったら客が入るもんで,駒田のプレゼンの上手さもあって,日本中の芝居小屋がどんどんどんどん少なくとも映画も上映できるようになっていった。もう早めに映画館に切り替えちゃった芝居小屋も多かったんですけどね。 
■ 東京市の人口の5倍の観客が押し寄せる
で駒田の活躍でどんな変化が起きたのか?ですね。 東京都の観劇者人数の推移のグラフでみると,明治40〜45年,この時期に映画だけでなく,お芝居舞台を観に行く人の数っていうのは340万人>>520万人>>730万人>>ってなってますけども,この時の明治40年前後の東京市の人口はたった250万人なんです。これ変でしょ?たった人口が250万人なのに何故お芝居に行ってるのが340万人もいるんだ?730万人もいるんだ?それだけ異常だったんですよ。それだけ当時,芝居とか映画が大ブームだったんですね。しかし本当にすごいのが,こっから先の伸び率なんです。明治45年が270万人って,これ戦争とかで一回ちょっと東京市の人口が減ったからなんですけども,大正になって,いきなり1200万人って,いきなり3倍に増えちゃうんですよ。で,この3倍に増えた理由が明らかに映画なんです。東京市の人口変わんないですよ。人口250万人のままで,活動写真の影響でその人口の5倍の人数が映画館に行くという事態になってるんですね。 で,これ何故かというと,明治天皇のお葬式映像があったからです。明治天皇のお葬式映像があって,で次の新しい大正天皇の映像とかスライドがあったので,みんな本当に「行かにゃいかん」って行ったんですよ。これを見なきゃいけないという風なことで,かつての東京オリンピックの比ではないですね。いわんや『鬼滅の刃』の比ではないです。とりあえずこれを観なければ日本人であるはずがないという風なぐらい盛り上がって,それでみんな映画館に詰めかけたわけですね。で,それ以上に…明治天皇のお葬式以上って言ったらもう失礼になるかわかんないですけど,それよりもヒットしちゃったのが,この大正元年の『怪盗ジゴマ』でした。『怪盗ジゴマ』,本当にこれメガヒットした。
で,東京都の人口はさっきも言ったように,ほとんど変化がないので,もう今で言うとコンビニ行くぐらいの頻度で,とにかくポケットに今の値段で言うと200円以上ある人は全員行ってたぐらい映画に行ってるんですよ。で,このさっきも話した,東京市の人口の5倍行ってる,3倍に増えた映画人口,劇場人口って,まるまる映画の観客層なんですよね。で,東京に住んでる人は大体,大人も子供も,家庭の主婦も老人も,みんな週に1回か少なくとも月に2回,映画に行ったって言われてます。で,この辺りは江戸川乱歩なんかの小説を読んでみると,どんなに当時の人が映画に当たり前のように行ってたのか,芝居を観なくなって,映画に当たり前に行くようになったのかっていうのを書いてあります。で,その行った人のほとんどが,駒田好洋を始めとして,映画よりも活弁士で観るものを選んでいた,そういう時代でありました。 
■ 活弁のルーツを辿る
何があったんだろう?って本当僕も思いますよね。で,後で紹介しますけど,じゃあその『怪盗ジゴマ』って面白いのか? 今もYouTubeで観れるんですけども別に面白くないんですよ。 ただ何故それに皆そんなハマったのか?っていうのが,今日の話なんですけどもですね。「今でいうカリスマYouTuberみたいな感じ?」…そうですね。 もう本当に登録人数500万人超えのYouTuberを10人集めたぐらいの知名度とヒットと,あと皆の陶酔度,本当にその人の話を聞きたくて聞いたことだと思ってください。それが結構頻繁にどの村にも来るんです。駒田好洋が去ると次は誰それが来る…ってことで,毎週のように新しいその活弁士が自分のチームを率いて自分の村に来るんですね。大体何人かの楽団を率いて来る。で,前半の時代劇の古い映画,忍者映画とかそういうやつでは声色活弁士を使って話をしたりしてるんです。でも後半の,ちょっと高級なアメリカ映画,ヨーロッパ映画,イタリアやフランスの映画とかだと,フロックコート着た超かっこいい活弁士がやる。それを聞いてそれが去ると,また,次の週には新しい活弁士が観たことないフィルムを持っていく…そういう風な時代だったんですね。 
じゃあ何故その日本人はその映画,海外のようにフィルムそのものを観るんではなくて,活弁士で観るっていう方法を選んだのか?ですね。これは今,僕らが現にYouTubeでどんな動画を観てるのか?っていうアナロジーで考えると分かりやすいと思います。大体みんなYouTubeでどんな動画観るかって言うと,ニュースですよね。あとまとめですよね。これどうなってんだ?っていうまとめとか,あと切り取りですよ。まァひろゆきとかそういうのがどんなこと言ったって切り取り。ここら辺観るんですけども,これ要するに,それはもう僕ら皆同じで,「面白いかどうかわかんないことに無駄な時間を使いたくないから」なんですよ。つまり時間的なコスパをよくするために,まずはまとめとかを観ると。テレビでニュースを観るんではなくて,その「観たい部分のニュースだけをタイトルつけて,YouTubeで公開してくれたらニュース観るわ」っていうやつですよね。で,これ現代人気質じゃないんですよ。江戸時代からの当たり前なんですよね。「江戸ッ子は気が早い」って言ってるんですけども,日本人ってその江戸の頃から気が短くて,YouTubeのまとめとか観るのは別に現代人だからではなくて,それはもう江戸で本当に僕ら日本人として当たり前なんですよね。落語ってあるじゃないですか。あれ,僕,落語家になろうと思ったことが20年ぐらい前にあって,その時に落語家の起源調べたんですよ。で,よく本に載ってるのは「落語の起源っていうのは,豊臣秀吉が持っていた御伽衆(おとぎしゅう)っていうのがいて,その御伽衆が色々な面白い諸国の話をしてくれて,その中に曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)という,実はそれは忍者の一派で諜報活動みたいなのをしていて…」って載ってるんですけども,実際に実は落語の起源っていうのは何か?っていうと,芝居の幕間にショートカットするの役割だったそうですね。当時,江戸時代半ばぐらいから,お芝居のストーリーがどんどんどんどん長くなっていった。で一つの話を連続で観せようとしたら3時間以上超えるのが当たり前だったんですね。で,当時その琵琶法師とかが三国志とか語るわけですよ。 語るんですけども,もう三国志を語り始めて2週間か3週間経つ頃に,ビラをいきなり出して「今夜より諸葛孔明登場」って書くんですよね。そこまで諸葛孔明出てこない。つまり,その1人の演者がガーっと話して,お芝居の内容っていうのは話しても,話し終えるのに3週間とか4週間ぐらい語るような,それぐらいの分量。話の蓄積がすごく多くなってきた。なので,芝居に行くっても一日仕事になっちゃうんですよ。お芝居の幕の内弁当っていうのを幕間に食べるというのは当たり前で,朝から行って,下手したら暗くなるまでずっと観てるのがお芝居だったんですよ。で,こうなると観る方も疲れるし,大変になってきますよね。 でやる方もとりあえず予算もかかるし,疲れて1日に1回しかできないから大変だということで,面白い部分はやりますと。だし人気がないんだけど,必要な部分どうしようかってことですね。そこで説明士が生まれるんですね。これが後の落語家で,そのAパートやったら次Bパートやるんですよ。 で,BパートとCパートは口でペラペラしゃべるんですね。 でこれが,その舞台の真ん中に座布団を敷いて,話して,で,一応お芝居話すもんだから,右左話分けをやって,お芝居みたいなものをやるっていうのが,これが落語家の始まりだっていうのを,僕20年ぐらい前に調べてそうだったのかってすごい!びっくりしたんですけども。 
だから噺家が生まれるのは,日本人が話のうまい人の語りを聞くっていうのがもう大昔からあったからなんですね。なので,これ分かりやすいのは,日本人のYouTuberっていうのは語りで観せる人結構多いんですよ。でも海外のYouTuber観たら,実演主義なんですね。つまり何かやってみせて,その合間に話をするっていうのは,海外のYouTuberの特徴なんですけど,日本のYouTuberって,割とカメラ目線でずっと話してっていう人が結構いるじゃないですか?あれって日本人のYouTuberの特徴なんですよ。海外のYouTuberって観せて話すんですよ。観せながら実演しながら。ところが日本人のYouTuberにももちろん実演系はいるんですけども,でもそれより多いのが,話すだけっていう人。話すだけを退屈せずに聞いちゃう。 それが日本人の観客層の特徴なんですよね。 
「絵解き」っていうのがあるんですね。 「絵解き」っていうのは鎌倉時代よりもっと前の平安時代中期ぐらいからあったそうなんですけども,説話画っていうのを見せながら僧侶が説明するのを「絵解き」って言うんですけども,説話画って分かりますか?仏教のありがたい絵のことですね。地獄とか描いてる場合もありますし,お釈迦様の誕生の話もあります。「お釈迦様が悟りを得た時にこんな事件がありました」みたいの,あるじゃないですか。そういうありがたい説話を,巨大な絵を見せて,偉い徳のあるお坊さんがそれについて庶民に話をするっていう,これを「絵解き」という風に言ったんですけども。 この時代は極楽浄土とか地獄とかいう,本当に仏教的な話だったんですよね。しかし鎌倉時代ぐらいになってくると,もう偉いお坊さんである必要ないんです。それよりはトークがうまいヤツがいいんですよ。なので,お坊さんのコスプレをしただけの大道芸人がやるようになったんですね。 さらに室町時代になると,もうもはやコスプレもしなくなったんですよ。ただ単にちょっと派手な格好した婆娑羅な歌舞伎な格好した元気のいい若者が,ハイテンションで喋るっていう,本当にYouTuberみたいになったんですよ。もう室町時代になると,話す内容ももう絵解きじゃなくなったんですよ。絵は使うんですけど,仏教のあり方のお話しじゃなくて,有名人の話をするようになった。例えばその楠木忠重の生涯をイラスト化したものを持ってって「泣けるねっていう風に話したり,「オイオイオイ…赤穂浪士が討ち入りしたって言うじゃないか,あれ,実はこんな話があってな…」っていうようなニュースの裏話みたいな。本当にYouTuberと同じような事を,その一応ボードを使って説明しながら話すっていう。で,あと「絵解き比丘尼(びくに)」っていうのが室町に現れた。「比丘尼」って女性の尼さんのことですね。女性の尼さんのことなんですけども,ちょっとエロい絵解きをやってるんですよ。極楽の図に裸が描いてあったり,地獄の図に裸が描いてあるんですね。 そのちょっとエロいヤツを「ああ,そんな無体なことを…」「エイ!まだ吐かぬか!そうなればこうやってキリキリ攻めてやる」「はあァ…」みたいなことをエロ声で言って,で絵解きが終わったらそのまま売春するっていう,すげえ職業があったんですけど,こういう文化が,日本には江戸時代の前からあったんですよね。
で,こんな感じで,江戸時代は完全に僧侶による元々の説話画っていう文化が衰退して,それと分離して,本当に面白い事件,みんなが関心を持ってる出来事を絵にして,それを前にして声色を使って話してっていう,ほとんどアニメとかYouTuberに近いような芸能として,日本では完成してた。これもやっぱ他の国にはないんですよ。この日本という国の特殊なところって,どの辺がよくわかんないですけど,こういうのがどんどんどんどん進化していくんですよね。で,絵解きのポイントというのは,もう絵というのはもう途中からどんどんどうでも良くなってるんです。「解き」なんですよ。つまり説明なんですよ。説明がポイント。でこれをその戦後,日本の娯楽がない時代に復活させたのが「紙芝居」。紙芝居というのは,実は室町時代の絵解きにすごい近い。大体あれぐらいのサイズの絵を見せて,ゆっくりと話しながらチラチラ見せながら「続き観たい人はアメ買っておくれ」っていう,あれは,その語り部として室町時代の絵解きっていうものを復活させたというポジションになってます。 すなわち落語とか講談っていう話芸の大元っていうのは絵解きだったんですね。
しかし,江戸中期になると絵解きより芝居が増えてくる。古臭い絵よりも豪華な舞台で観たい。舞台でイケメンや美女が演じるのを観たい,それで芝居が人気になって,絵解きは廃れていく。ところが芝居は,話が長くなって,登場人物も増えていく。で江戸ッ子は気が早いから,舞台に30人上がったら35人上げないと満足しない。そうやって芝居の規模が増えて,しかも人気役者が引き抜かれたり死んじゃう事もある。それどころか,人気役者が下手すると,ただ単に年をとっただけで人気が落ちてくわけですね。だから,本当に安定的な収入限ではないんですよね。そんな中生まれたのが人形浄瑠璃と写し絵です。 人形浄瑠璃って関西のルーツなんすけど,何が面白かったって,操り人形なんですよ。で,操り人形にハードな恋愛話とか恨み節をさせるんですよ。つまりお芝居では割とスタンダードな「このままでは…いっそ一緒に死のうか」みたいなものをお芝居でやるんですよ。ところが人形浄瑠璃では「一緒に死のうか…」と言って,実は男は死にたくなかったので,女をこっそり殺すと,赤く変わった女の人形が「この恨み…」みたいなドロドロの話になるんですよね。 つまり江戸時代の『まどか☆マギカ』や『ひぐらしの鳴く頃に』だと思ってください。 「萌えキャラだからドロドロが面白い」,これが人形浄瑠璃のポイントだと思っておけば,古典芸能をちょっと面白く観れると思うんですけど。萌えキャラにきつい話をさせるのがすごい流行ったわけですね。 
写し絵っていうのは,この人形浄瑠璃よりさらにコストを下げるわけですよ。 コストを下げて,もっと見せ物として楽しくしようとした。人形浄瑠璃の方は,人形だから手間はかかるというのもあるし,操作も大変なんですけども,どんどんどんどんお話がドロドロになっていってちょっと楽しく見るような話じゃないんで,もっとドラえもんとかポケモンみたいな楽しい話にできないの?っていうことですね。江戸末期に登場したのが写し絵ですね。 これは歌川広重が描くいた『流行浮世写絵』っていう版画じゃなくて肉筆で描いた絵画ですね。 プリントですけども1867年,江戸の末期に描きました,この時代の流行を書いたやつなんですけども,観客が観てるのは,イラストじゃないんですよ。世界初のアニメーションなんですね。 写し絵の原理って,観客がいたら間にスクリーンがあって,裏側に箱を持った人がいっぱい立ってるんです。で,スクリーンに要素は写ってません。 ダルマとか花とか,1つ1つごとに実はスライド映写機があって裏から投影してるんですよ。これが世界初のアニメーションなんですけど,おまけにこのスライドの機械見ると,カシャカシャと切り替わるようになって,つまり絵を動かすことができたんです。で明りは油です。映写器の中にロウソクとか油が入っていて,それをレンズで拡大する。大体,江戸時代中期ぐらいに西洋から渡ってきたギアマン,ガラスを磨いて作ったレンズです。当時日本でもガラスは作れた。 それを使ってこういう風なものをやってた。で,これってスクリーンの裏側からスライドを映して,キャラごとに違うプロジェクターを手持ちで動かしてアニメーションを作ったわけです。きっかけは,さっき話したオランダから入ってきた新しい素材ギアマンガラスですね。で,江戸の地域には,このギアマン製の風輪とかコップもあったという風に言われてまして,かなり一般的だった。ギアマンを使ったスライド自体を発明したのは2世紀の中国です。 それが17世紀ぐらいになって,ヨーロッパでスライドショーが大流行したんですよ。 で,ただこれ日本では,このヨーロッパで流行ったスライドを,小回りのできる携帯プロジェクター「風呂」,お風呂と同じ風呂っていう字ですが,風呂に進化させました。 風呂と種板は,今の時代に復元されたんですけど,風呂と言われる,光源が入った,明りが入った箱に,レンズが何枚かついていて拡大できます。 で,この種板と言われるガラスの板が入ってます。この種板ってよく中見るとこのだるまが上下逆さに投影されるから逆さになるんですけど,上下逆さのだるまの,ちょっとずつ違う絵がガラスの上に直に描いてあるんですね。これを切り替えることで,まるで動いてるように見せるわけです。中にはこの種板の端の部分がリング状にくり抜かれてて,そこに円盤型の種板と周りの縁が埋め込まれて,糸が張って,でこの糸を引っ張ると種板がくるくるっと回転する。つまり中に入っている人物キャラクターがトンボ返りをしているように見える。そういう種板もあったんですよ。 本当にもうアニメーションなんですね。 で,さっきのあの最初に見せたやつに戻りますけども,舞台上にまず巨大な和紙が貼ってあるんです。巨大な和紙に水をかけて透明度を上げます。 で,観客と和紙との間に簡単なセットを組んでる。もうミニチュア特撮の原理ですね。舐め物としてのセットが組んであって,この間で煙を炊いたりして雰囲気を出す。でこれ,1969年の少年マガジンで大友庄司さんが解説した機構なんですけども,まず岸辺の風景だけを映すのに風呂が1台。これ,固定式です。 川の水を移すのに移動式の風呂が2台用意してあります。で,この船を写す専門の風呂ですね,で,船の上に乗ってる船頭さんを動かしたり,映すのにまた風呂1台で…
で,この写し絵っていうのは,実は20世紀の半ばぐらいまで,欧米には伝わってなかったんですね。なので,今現在映画の歴史が,実はヨーロッパの世界でも書き変わってて。エジソンとかフランスのルミエール兄弟より先に,日本で本当に大衆向けに公開された興行としての世界初のワイドスクリーン映画であって,世界初のアニメーションであると。 そういう風に研究が進んでる。まだヨーロッパのウィキペディアでどうなってるのか僕知らないんですけども,徐々に徐々に写し絵って言葉が出てきてるそうです。
で日本人ってその渡来した鉄砲を,オランダとかポルトガルから渡ってきた鉄砲を異常に進化させたんですけど,同じようにスライド映写機とかスライドフィルム自体,ガラス板自体を徹底的に改良進化させたわけですね。
で,こういう写し絵なんですけど,やっぱり弱点はセリフがないんですよ。 で説明士が要る。一説によると,吉原の口上師ですね。「ここの界隈はここここだよ」「お兄さんお金がこれぐらいしかないか,だったらここのお店がおすすめだよ,みんな性格良くて器量良し,嗅いでから匂いなんて,本当にすっと鼻から入ってきて…」みたいなことをいう口上師って,吉原にはその口上を言うだけの口上師っていたんですけど,そういうのを引き抜いて,この写し絵の説明士として使ったそうですね。これ江戸末期なんですけど,で,江戸が終わって明治が始まる頃,芝居小屋ではお芝居以外のいろんな見せ物をやる総合エンタメ施設になってたんですよ。 そして進化するしかなかった。っていうのは,さっきも話したように,お芝居は本当にコストも手間もかかるんですね。なので,怪しげな見世物をやったり,落語やったり,歌歌うだけの歌謡みたいなものをやったり,踊りやったり,ひどいところは,服はだんだん脱いでいく,ストリップの原型みたいなことをやったり,あと,パノラマを見せる,いわゆる海外の風景とか,そういう風なものをミニチュアでジオラマも作ってそれを覗かせるパノラマっていうのも流行ったそうです。で,それぞれに口上師が必要なんですね。説明が必要なんです。 で,それで面白さとか見所っていうのをみんなに説明するわけですね。 で,今例えばセブンイレブンで新製品のお菓子とかサンドイッチが出ると,YouTuberが安いだの,おいしいだの,スカスカだとか詐欺だとか騒ぐじゃないですか?なんかああいう紹介があるのと全く同じで,そのYouTube文化って僕ら思ってるものは,実はその江戸時代から明治時代に渡るメディアの進化っていうのをきっちりなぞってるんです。全く同じような進化を遂げてるところが面白いと思います。
■都市型ホラー『怪盗ジゴマ』
話戻って,そんな時代に輸入された最新の見物が,シネマスコープとシネマグラフなわけですね。で,これも説明士を必要としたんですけど,やっとここで話が繋がるんですけど,日本では,その平安時代の絵解きから始まる口上文化,説明士文化,語り部文化があるので,西洋では説明士が必要なくなった後も,日本ではずっとその方が面白いからという理由で活弁士は生き残ってたわけです。映画だけを観るよりは情報量として,横でずっと内容と関係ない話とか脚注みたいなものをどんどんどんどん話してくれる方が情報量として高い。それを処理する能力があるっていうことですね。日本人は映画というフィルム情報だけでなく,音楽って音楽情報だけでなく,さらに耳からストーリーとか雑学みたいなものをどんどん取り込んで,同時に楽しむっていうような文化を楽しんでいたんですね。独自の進化を遂げていた。 そのこそ大正の世を揺るがした『怪盗ジゴマ』なわけです。まァここまででもう1時間半喋ってるからここで終わりっていうのもできるんですけど,それではなんか『怪盗ジゴマ』をまだ話をしない方終わっちゃうんで,続けさせてください。 
さて,初期の活動写真では,説明士が不可欠だったわけですね。最初言ったように,エジソン社の庭撒きとか,リュミエール兄弟の,汽車がこっちへ向かって走ってくるというだけの映像見せたもんだから,これ何か?って,まず汽車というものの説明も必要だったわけなんですけども,興行がヒットするようになると,さっきも言った通り,次第に説明士,口上師目当てでお客様が来るようになった。 弁士にファンがつくようになって,追っかけみたいなことも行われるようになったと。で考えてみたら,お芝居っていうのは同じ演目を誰がやるのかで観たりするんですよ。歌舞伎もそうですよね。ストーリーがみんな知ってるんですよ。お話はみんな知ってるんですけども,その知ってる話を誰がやるのか,誰が演じるのか,誰が喋ってくれるのかっていうので観に行く。海外のシェイクスピア劇とかも同じですね。知っているものを演じる人がどのように解釈つけて演じるのかっていうのを観に行くわけなんですね。 だからある意味,言い換えればネタバレしてから観に行くっていう,リスク回避とあとコスパ上げてると全く同じ行為なわけです。もう定番で知ってるお話,誰がやっても面白いと決まってるものをどんな風にさらに面白くしてるのしてくれるのか?と観に行くわけですから。これはもうやっぱコスパを上げる行為になってんですよ。リスク回避とでコスパで駒田好洋はこの活弁士として大成功しました。で,その人気をさらに押し上げたのが『怪盗ジゴマ』です。
現存するフィルムに残っているシゴマですね。 悪そうな顔けども何がそんなにヒットしたのか? 舞台はパリです。謎の強盗や殺人事件が続発し,その現場には必ず「Z」の1文字が。私立探偵ポーランは,怪しい車を尾行すると偶然そこは見つかりそうになりながら,ちょっとドタバタあった後で彼らZ団は一斉に車で移動してパリの一流ホテルの宴会場で「我々の悪事は大成功した」っていうんでZ団のなんか大パーティーが始まるわけです。「Zの文字,それはジゴマのことだ」みたいな,もう分かりきったのがあって,ジゴマがいい調子でみんなにこういいこと言ったりして,悪そうな顔で笑ったりしてるっていうのをポーランが見てるという。 ポーランはパリ市警に連絡を取って,その宴会場に踏み込みました。 しかしその怪盗ジゴマは変装の名人であって,おまけに部下も全員変装の名人なんです。部下が階段降りてる最中に他のお客さんの後ろにすっとしゃがみ込んで,次のシーンで立ち上がると全員服が違うんですよね。これ僕YouTubeで観てちょっとおかしかったんですよ。コマ落としの簡単なトリックなんですけど,しゃがんでるともうみんな服が違う。そうするともうポーランも警官もわかんなくて「あ?Z団はどこ行った?ジゴマはどこ行った?」って逃しちゃうんですね。 で,ポーランは階段降りて降りて,ここにもいない。ここにもいないと降りてって階段の1番下まで行くと,Z団は上からグランドピアノをポーランの上に落とすんですね。むちゃくちゃなことをするわけですよ。で,ポーランはやられてしまった。 高笑いをする怪盗ジゴマ,ポーランはどうなってしまうんだろうかというところで前編終わりなんですけど,これで30分ぐらいあるのかな? 映画が終わるんですけども。第2部ではこのポーリンがですね‥ポーランとポーリンと2つ記載があるんです。で,今の大体研究ではポーランだそうなんですけど,ポーランはもう死にかけてですね。 上からグランドピアノ落とされたから死にかけて病の床にあるのを,私立探偵ニック・カーターが引き継ぐ。「もうこれからのことは心配なさらないでください,あなたの悔しい思いあなたのこの意思はきっとこの私立探偵ニック・カーターが引き継ぎます。 」みたいなこと言う。 本当にもうドイツ表現主義,考えてること全部体で表現しなきゃいけない。でニック・カーターはジゴマの敵を討つために潜入していってジゴマの彼女を味方につける。ジゴマは彼女がいるんですけど,それでそっから情報得て,ついにジゴマは倒されるのであった…って話になってるんですけども。さてジゴマっていうのが変装の名人で実は配下っていうのがいて,私立探偵の1人が追いかけていって…というところで敵に殺されてしまう。 その意思を受け取って,私立探偵ポーランが死んだ後,ニック・カーターが引き継いで,ついにはその部下ですね,ジゴマの彼女であったり,部下みたいなものをだんだん攻めることによって,ジゴマの正体を特定して,そしてジゴマをやっつける…って,この話で何かというと『デスノート』なんです。デスノートの元ネタなんですよね。このデッキ,僕どっかで見たことあるなと思ったら,そうか,それでLとか引き継ぎやってんの,これなのか? という風に思ったんですけども。
でジゴマの怖さ。電車の中でジゴマが強盗する話なんですけども,それまで紳士みたいだったジゴマが変装剥ぐと怪しい人間になって,拳銃を持ってて,でこの同じ列車の中にいる貴族たちからお金取り上げたり言うこと聞かないと銃で撃ったりするんですよ。でこれが怖いって言われた。何故怖いって,吸血鬼とかゾンビの怖さ。あなたの隣人もジゴマかもしれない。変装の怖さ。川戸炭治郎の時代にはない怖さ。村の人はみんな知ってる人で,家族はみんな知ってる人でっていう世界にない恐怖ですね。都会にのみ出てくるホラーの話なんですよね。電気で街が明るくなると,都会の恐ろしさの話が出るんですよ。実際にそのロンドンが怖くなったのはガス灯の光で夜も明るくなったロンドンの時代です。切り裂きジャックやシャーロック・ホームズの時代のロンドンなんですよね。切り裂きジャックとかジキルの都市型の犯罪者が出てきたのが,夜明るくなった街なんですよ。で,それは何故変装が恐ろしいのかっていうと,おそらく身分社会の崩壊と,来る市民社会全体に不安があるんだろうなというのをざっとわかるんですけども,その変装の名人っていう設定自体は,例えばモーリス・ル・ブランのルパン・シリーズですね。 ルパン・シリーズとかでアイデアはあったはあったんですけども『怪盗ジゴマ』はその変装の名人っていうのを映画化映像化することでルパンより有名になっちゃう。だから当時の日本人で教養人っていうのは,全員やっぱりジゴマの名前憶えてるんですね。 で,そういう都市の時代に,文明が開いた時代に怪人とか悪役のシンボルになりました…

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2021年6月19日土曜日

[OS][OC] EDVAC~OSの登場(1950)


[OS][OC] EDVAC~OSの登場(1950)
OSの登場
前回とりあげた、MEMEX から NLS の間というのは非常に長い期間になっています。
今回は、前回と同じ期間で、MEMEX から NLS に至る流れとは別の流れ、「OS の登場」を追ってみようと思います。
■BSD
1950年のEDVAC の登場で、コンピュータは「技術」の問題ではなく「学術」的研究という俎上に乗せられることになりました。目指すべき方向性が明確に示されたことの影響は大きく、その方向にしたがってさまざまなアイディアが出されます。
こうして、ハードウェアはすぐに安定し、実用的になります。しかし、同時に新しい問題が出てきました。
プログラムの問題です。それまではハードウェアさえ出来ればさまざまな計算に使えると信じられていたのですが、ここに来てプログラムが想像以上に難しいことがわかったのです。
■自動プログラミング
当時、プログラムを動かすには機械語コードと1対1で対応するアセンブリコードという物を使ってプログラムを行い、人間が自分の手で対応表を引いて数字からなる機械語コードに変換して、それをパンチカードに穿孔してからコンピューターに入力する、という作業が必要でした。
プログラムが難しいのは、このアセンブリコードがあまりにも単純なことしか出来ないためです。そのため、これを英語のような「人間にわかりやすい言葉」で指示することでコンピューターを動かせないか、というアイディアが出てきました。
これは、後に「自動プログラム」と呼ばれるアイディアです。
コンピューターが、自分自身のプログラムを作り上げる。これは夢のようなアイディアです。人間にも難しいことを、人間が作り出した機械にさせることが可能なのでしょうか?
自動プログラムについては、可能論と不可能論が激しく対立しました。
しかし、IBM にとっては、これは同社の有力商品である「コンピューター」の普及のためにも、ぜひ可能であって欲しい技術でした。
そこで、IBM 内で自動プログラムの研究がスタートしたのです。
最初は、とにかく「自動プログラムは可能である」ことを証明することが重要でした。証明と言っても、数学的な証明なんかは必要ではありません。実際に動くシステムを作ればいいだけです。
そこで、もともとコンピューターの得意分野である「数学計算」に的が絞られました。変数を含む複雑な数式を入力し、変数の値を決定してやると、計算結果を表示するプログラム。それが目標でした。
いまでは電卓でも出来るような簡単なことですが、可能かどうかもわからない状況では、十分すぎるほどの研究テーマだったのです。
1957年、システムは完成しました。
数式(FORMULER)を変換(TRANSLATION)するという意味から、「FORTRAN」と呼ばれるその言語は、確かに人間にとってわかりやすい言語を、自動的に機械コードに翻訳(コンパイル)することを可能としたのです。
初期の FORTRAN は制御構造を持たない単純なものでした。
パンチカード1枚に入れられる文字数が 80文字以内に限られていたため、1行は80文字以内に限られました。(現在でも、コンピューターで1行を 80 文字以内にすることが多いのはこの名残)
また、行の先頭に C が来た行は「COMMENT」を意味するなど、文法とは関係のない「決まりごと」も沢山ある言語でした。
それでも、FORTRAN の登場により自動プログラミングが可能であることが示され、COBOL や BASIC 、PL/I などの言語を生み出していくきっかけとなるのです。
■FORTRAN モニター
FORTRAN は、パンチカードの1枚を1行(1命令)として、すべてのカードを読み込ませてから機械コードへの翻訳(コンパイル)を行い、その後翻訳された機械コードを実行させることでプログラムを動作させる仕組みになっていました。
そのため、プログラムの動作まで手間がかかります。それに、まだ当時はコンピューターは高価でしたが、これらの作業をしているあいだ、他の人はコンピューターが空くのを待っていなくてはならなかったのです。
1950 年代末から 60年代前半にかけて、これらの制御もコンピューターにやらせてしまおう、というアイディアが生まれます。
カードの束をセットしてプログラムをスタートさせれば、読み込み・コンパイル・実行を自動で行い、紙テープに結果を出力します。
紙テープ出力後は、すぐに次のカードの束の読み込みにかかります。このため、コンピューターを使いたい人はカードの束をセットしたら、しばらくたって結果を受け取りにいけばいいだけになります。
こうした仕組みは、FORTRAN モニターと呼ばれました。そして、これがいわゆる「OS」の最も原始的な姿です。
MULTICS
1960 年代になると、マサチューセッツ工科大学(MIT)の学生達が、非常にユニークなしかけをソフトウェアで実現します。
タイム・シェアリング・システム(時分割システム。以下 TSS と略称)と呼ばれるそのソフトウェアは、コンピューターの動作を非常に短時間で区切って複数のソフトウェアを動かすことで、複数のプログラムを同時に動かすことが可能でした。
高価なコンピューターを、1台で何台分にも使うことの出来るこのシステムは非常に注目されます。
ここで、MIT の TSS は国防総省高等技術研究局(ARPA)からの援助も受けて、GE(ゼネラル・エレクトリック)や AT&Tなどコンピューターに携わる多くの企業が技術を出し合う一大プロジェクトに発展します。
実際にハードウェアを作成していたのは GE だけなので、GE のコンピューター(GE-635)を改良し、MULTICS に必要な機能を持たせ(GE-645)、その機種をターゲットとして OS として作成が開始されます。
さまざまな最新技術・思想が取り入れられたこのシステムは、1台のコンピューターを複数人数で使うことを目標とし、「複数の」という意味の MULTI から、MULTICS と名付けられていました。
MULTICS は今見ても非常に先進的です。その一例をここに記しておきましょう・・・
すでに、当時は外部記憶装置が実用化されていました。MULTICS では、この外部記憶装置を使いやすくするために、データを「ファイル」という単位で管理する方法を取り入れており、しかも同種のファイルを管理しやすくするための「階層化」の概念まで導入されています。
さらに、ファイルを記憶装置だけではなく、システムを制御するすべての構造に適用するようになっています。たとえば、キーボードやディスプレイと言った装置も「特殊なファイル」という位置づけで、プログラムの入力や出力は、すべて自由なファイルに対して行うようになっていました。
これにより、複数人数で使う際に複数のキーボードやディスプレイを接続していても、システムからは「入出力ファイルが異っている」というだけの扱いで済ませることが出来ます。また、出力をファイルに保存しておいたり、ファイルに収められたデータを処理したりするのにも、特別なプログラムは不要になりました。
さらに、MULTICS では、「すべての記憶領域は、プログラムから見れば同じものである」という、先進的な概念を導入していました。単一レベル記憶、と呼ばれます。
いわゆる RAM で構成されたメインメモリも、外部に接続されたハードディスクも、それをバックアップするテープドライブも、「メモリ」であることに変わりはありません。
これらすべてに連続したメモリアドレスが割り振られ、同じようにアクセスすることが可能です。
ただ、アクセスの際に速度が違ったり、電源を切った時に消えるメモリ/消えないメモリがある、というだけのことです。
もちろん「プログラムから見て」同じであっても、特性は違います。
MULTICS では、動いているプログラムは RAM のアドレスに配置され、何らかの理由で停止するとディスクのアドレスに移動するような仕組みが作られました。これで、メモリを効率よく使えます。
先に書いた「すべてのデバイスはファイルである」ことと組み合わせ、ここに壮大な「単一化」が図られることになります。
全てのコンピューター資源へのアクセスは、メモリへのアクセスと同じように行えるのです。
これにより、TSS の問題点を解決することも出来ました。
たとえば、プログラムが停止したとき、TSS 以前ならば停止した状態のプログラムのメモリを調べることで、異常の原因などを探ることが可能でした。
しかし、TSS 以降は複数人数で限られたメモリを使用するため、停止したプログラムをメモリに留めておくことが難しく、原因調査が行いにくくなっていました。
しかし、先に書いたように MULTICS では、プログラムが停止するとメモリ内容を低速なアドレス…ディスク装置に書きだします。現代的に言えば「コアダンプ」と同じことです。
これにより停止した原因を調査し、修正した後で、もう一度プログラムを「起動」すると、高速なアドレス…内部 RAM にプログラムが移動して動き始めるのです。
メモリとディスク間でのプログラムの移動は、OS が自動的に行うものです。高速なメモリが足りなくなると、一時停止中のプログラムなどは低速なメモリに移動されました。
逆に言えば、メモリが足りないと判っているときは、実行中のプログラムを「一時停止」すれば、OS が適切に処理してくれることになります。
現代的な意味での「仮想記憶」とは異なりますが、きわめて原始的な形の仮想記憶が実現されていたことになります。
仮想記憶は、実際の搭載以上のメモリが存在しているように見せる技術です。アドレス上は存在しますが、実際には存在しないため、余りアクセスがないメモリ内容をディスク上に置くことになります。
MULTICS では、アドレスの位置によって内部メモリやディスクを区別できましたが、仮想メモリではどのアドレスが RAM で、どのアドレスがディスクに割り当てられているのか、単純には区別できません。
TSS では、複数人数で使うにもかかわらず、セキュリティ対策は全くされていませんでした。
TSS を作成した MIT の「ハッカー」たちの倫理では、すべての資源は共有するのが当たり前でした。また、他人に危害を加えることは恥ずべきことでした。
ですから、TSS ではセキュリティなど考慮する必要はなかったのです。
しかし、それはハッカーが狭いコミュニティに住んでいたから大丈夫だっただけの話。MULTICS では、セキュリティにも非常に気を使っていました。ファイルはアクセス制限がつけられ、自由な閲覧を許可することもできる一方、誰にも見せないことも可能でした。
結局、MULTICS では、「メモリ」「外部記憶」「周辺機器」などの、コンピューターを構成するさまざまな要素を「ファイル」という、仮想的な単一要素にまとめてしまい、さらにそのファイル単位でのアクセス制限機能を付けたことになります。これは、近代的な OS の最初の形でした。
MULTICS には先進的で非常に優れた機能が多数盛り込まれました。そのため、開発も難航していました。
開発は 1964年に始まりましたが、5年たっても終わりません。そして、その5年目には AT&T が見切りをつけ、プロジェクトから手を引きます。
さらに翌1970年には、GE のコンピューター部門がハネウェル社に売却されます。
世間的には、「MULTICS プロジェクトは失敗した」ように思われました。
僕もそう思っていました。このページは 1999 年に記述しましたが、その後 2013年まで、「MULTICS は失敗だった」との記述のままでした。
2013年以前に記述が間違いであることを知ったのですが、忙しくて修正しないまま、不正確な風説を流し続けていたことをお詫びいたします。
(さらに追記:2015年まで、MULTICS が GECOS に変化した、という記述でしたが、これも誤りでした)
MULTICS に関与した会社が次々手を引いたため、「MULTICS は開発に失敗し、出荷されなかった」という風説を産んでいます。
実際には、ハネウェルは GE のコンピューター部門を合併した直後から MULTICS システムを販売しています。
ハードウェアは GE-645から、後継機であるハネウェル 6180に変更されています。
これは 6080 に、GE-645 に施したのと同じような改良をしたマシン。
MULTICS は、最終的には大学や政府機関、会社など、85個所程度で使われた、とのこと。
当時の大型コンピューターとしては、まずまずの「成功」です。
1985年には NSA (国家安全保障局)が認める「安全な OS」の第1号に選定されています。
しかし、その1985年に、ハネウェルは MULTICS の販売を終了。それまで使用していた機関などは、Unix などにシステム変更していきました。
ヨーロッパではライセンス供与を受けたフランス企業「ブル」が 1975年から MULTICS の販売を始め、ハネウェルの販売終了後の 1991 年にはコンピューター部門を買い取り、2000年までサポートを続けました。
2000年10月30日、カナダの国防総省で使われていた「最後の MULTICS システム」が停止されます。これで、サポートも終了。
現在、ブルは MULTICS をオープンソース化しています。
以下は余談になりますが、以前に「MULTICS は GECOS として販売されていた」と書いてしまっていたので。
MULTICS の「経験を活かして」、GE が作った別 OS が GECOS です。
GECOS は、ハネウェル買収後に GE の名前を外され、GCOS となります。
MULTICS が動作した GE-645 の一部機種には、メモリアドレスの扱いを変更するための、ハード的な切り替えスイッチがついていたそうです。
これで、GE-635 互換モードを選ぶと、GECOS も動作します。そのほかの後継機種でも GECOS が動作します。しかし、MULTICS は GE-645 以外の機種では動きません。
ハネウェル売却後も事情は同じで、6000シリーズでは GCOS が動きますが、6180 でのみ、MULTICS が動きます。
また、日本ではハネウェルと提携していた NEC と、GE と提携していた東芝が、共同で GCOS 互換の ACOS を作成し、販売しています。GCOS は OS の名前ですが、ACOS は GCOS 互換の OS を動作させるコンピューターの名前にもなっています。
東芝と NEC が共同作業をしたのには深いわけがあって、ここら辺の話も面白いのですが、話題を逸れてしまうので割愛。
気になる人は「三大コンピューターグループ」を検索してみましょう。
東芝はすでに撤退しましたが、NEC の ACOS シリーズは続いています。
まとめると、GCOS ≒ ACOS ですが、GCOS ≠ MULTICS です。
■UNIX
1969年 AT&T ベル研究所のKen Thompsonが、自分の趣味で中古のミニコンピューター PDP-7 を買ってきました。
AT&T はMULTICS の開発が長引いたため、撤退を決めました。しかし、AT&Tから参加していた Ken は、MULTICS に未練を感じていました。
なぜなら、彼は MULTICS で作成した「宇宙旅行ゲーム(Space Travel)」を非常に気に入っていたのです。MULTICSプロジェクトから撤退してしまった今では、あの面白いゲームが遊ぶことが出来ません。
宇宙旅行ゲームではなく、宇宙戦争ゲーム(Spacewar!)とする説もあります。
しかし、UNIX 開発者の一人、デニス・リッチーのホームページには、問題となるゲームが宇宙旅行ゲームであり、宇宙戦争ゲームとは異なるゲームだとはっきり書かれています。
もっとも、宇宙旅行ゲームとほぼ同時期に宇宙戦争ゲームの UNIX 移植も行ったとも書かれていますので、UNIX 開発メンバーが宇宙戦争ゲームのことを知っていたのは事実のようです。
買ってきた PDP-7 は、このゲームをなんとか移植して遊ぶための物でした。しかし、ここで彼は問題に気づきます。PDP-7 には、MULTICS のような優れたシステムが無かったのです。
彼は、ゲームのために MULTICS のようなシステムを PDP-7 で作ることにしました。しかし、MULTICS ほどのものは必要ありません。どうせ趣味なのですから。
そこで、彼は MULTICS のなかから気に入った機能だけを選び出して、小さな一人用システムを作り上げ、UNIX と名付けます。UNI とは、「ひとつの」という意味で、MULTI の対義語でした。つまり、このシステムは MULTICS のパロディ版なのです。
UNIX には、TSS や階層化ファイルシステム、周辺デバイスをすべてファイルに見せる仕組み、コアダンプなどが取り入れられました。
その反面、複数人数で使うためのセキュリティ機構などは無視された作りとなっていました。もともとゲームが遊べれば十分でしたから、セキュリティなんて不要なのです。
しかし、この UNIX システムは、彼一人で使うにはもったいないシステムでした。彼は快く仲間の研究者にシステムを開放します。彼らのグループはこのシステムに手を加え続け、十分実用になるシステムに育て上げます。そして、セキュリティは甘いながらも、結局複数人数が同時に使えるシステムへと発展を遂げるのです。
UNIX の開発を開始してからまもないうちに、UNIX を PDP-11 に移植することになりました。PDP-11 は PDP-7 の後継機で、性能もずっと上がっています。みんなが使い始めたシステムをいつまでも中古の PDP-7 で動かしているよりも、性能の良いマシンに移植しよう、というアイディアでした。
しかし、PDP-11 は PDP-7 の後継機とはいっても、まったく同じプログラムが動くわけではありません。プログラムには大幅な手直しが必要です。
彼らのグループは、ここでちょっと工夫を凝らすことにしました。
FORTRAN から始まった「プログラム言語」は、その後の研究で必要な機能が整理され、「構造化言語」というブームを興していました。構造化言語の特徴は、コンパイラのプログラムが作りやすく、その言語で書かれたプログラムが非常に整理されていてわかりやすいことです。
そこで彼らは、この構造化言語の流れを汲む言語を新たに作り、UNIX をその言語で書き直すというアイディアを思いつきました。
まず、構造化言語 BCPL の機能を単純化した「B」という言語を UNIX 上で作り、その機能を強化して「C」言語を作ります。
ついで、C 言語を C 言語自身で書き直します。ここまでは PDP-7 上の UNIX で作られました。ここまでが第1段階。
次いで、UNIX 自身を C 言語で書き直します。まずは、単純でも良いから PDP-7 で動く UNIX とほぼ同等なものを。
C 言語は UNIX 上で C 言語を使って開発され、UNIX は その C 言語で開発される。とにかくこの関係がちゃんと動くようになるまでが第2段階です。
これで、新しい言語である「C」と、この言語で書かれた UNIX ができ上がりました。
ここまで来れば後は簡単です。C 言語を改良して、PDP-11 の機械語コードを出力できるようにします。そして、UNIX と C 言語自身を PDP-11 用にコンパイルし直せば作業は終了です。
こうして、UNIX は、そのシステムがターゲットとしたシステムから別のシステムへ、無事に移植が終了したのです。そして、この開発方針を守っていけば、いつかさらに強力なコンピューターに移植することも可能だ、という保証を手に入れたことにもなります。
これまでは、プログラムというのはあくまでも「ハードウェアのおまけ」でしかありませんでした。しかし、ここでついにプログラムがハードウェアからの独立を果たしたのです。
■BSD
AT&T は、この UNIX システムを商売に出来ないか、と考えました。当然のことです。
しかし、AT&T は大企業過ぎる余り、反トラスト法(日本の独占禁止法)によって、電話事業以外への事業展開が禁じられていました。
そこで、AT&T はこの優れたシステムを、公共機関にかぎって無料で配布することにしました。とにかく広めておけば、あとでコンピューター業界に乗りだすことが可能になったときに、商売につながるかもしれません。
そんなとき、ちょうど ARPA が、政府と研究機関を結ぶ新しいコンピューターネットワーク「ARPA-NET」の研究を開始していました。
ARPA-NET は、従来のように中枢コンピューターにデータを蓄積するのではなく、ネットワークで結ばれたコンピューターそれぞれが協調して動作するシステムです。これは、核兵器によって、1つの基地が壊滅的な打撃を受けたときでも残りのネットワークが動作できるようにするための、重要な研究でした。
そして、ARPA は、この研究をカリフォルニア大学バークレー校に依託します。
追記 2020.5.27
このページ、20年以上前に書いたもので、間違った記述多いです。すみません…
上に書いてある「核攻撃に耐えられるネットワーク」は、実際に研究されたのですが、ARPA-NET とは別のものです。
詳細は、ポール・バランの誕生日記事に書いてあります。
バークレー校では、この研究を行うために UNIX を使用することにしました。無料で入手でき、わかりやすい言語でかかれたこの OS ならば、必要に応じて独自に改良することも可能だったのです。
こうして、バークレーの学生達によって、UNIX にさまざまなネットワーク機能が付け加えられました。
こうして作られた UNIX は、「Barkley Softwear Distribute UNIX」、略称 BSD UNIX と呼ばれるようになります。(現在のBSD)
この後、BSD の先進機能は本家も真似するようになり、AT&T UNIX (System V) と BSD という二つの流れを作るようになるのです。
こうして、現在でも広く使われている UNIX OS が生まれ、次いで さまざまな OS が生み出されていくことになります。
AT&T はこの後分割され、UNIX のライセンス供給を開始します。それは同時に、BSD UNIX を「海賊版」としてしまうことでもありました。BSD は、AT&T UNIX の派生品でありながら AT&T のライセンスを受けていないのです。
実際には、BSD もライセンス供与のもとで作成されていました。ただし、AT&Tがコンピューター事業をできなかったことから、教育機関向けに非常に安価なライセンスで許可されたものでした。
AT&T分割後は、コンピューター事業を行えるようになったため、ライセンス料を引き上げようとして訴訟となります。
このときの騒ぎが、AT&T の UNIX に反対し、同等品を作り上げてしまおうという活動、「GNU」(GNU is Not UNIX の略)の開始にも関係してきます。また、BSD が「UNIX」という名前を捨てた直接原因でもあります。
BSD とともに始まった ARPA ネットは後の インターネットに成長するのですが、この段階ではまだ Ethernet などは使われておらず、まだ「原形」としての形すら見えていません。
ここら辺の話は、また別の機会に。
参考文献
林檎百科?マッキントッシュクロニクル?
FORTRAN 77
TransTECH 創刊号
前ページ 1 2
(ページ作成 1999-06-09)
(最終更新 2020-05-27)
第3版 …他の版 初版 2版

魔法使いの森
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2021年4月8日木曜日

[市場] 1995~1999までの各社パソコン出荷数

[市場] 1995~1999までの各社パソコン出荷数
パソコンの歴史
本コンテンツでは、マイコンの誕生からWindows95登場までのパソコンの歴史について記載しております。
閲覧する場合は、右メニューをクリックしてください。
1995~1999までの各社パソコン出荷数のデータを調べてみました。これをネタに近年の項目を作りなおしますか。
・1996~98まで市場は停滞傾向。99以降、拡大基調へ。
・1997,98には瀕死のアップル、iMacにて復活。独自路線でどこまで続くか?
・1998年より、ソニー躍進。VAIO効果か。
・1999年、2強となったNとF。数年後には逆転もありうる?
2000/07/29 osg
日本のコンピュータ(メインフレーム)の歴史を知る上で、非常に有益なサイトがあります。Yahoo!でも紹介されているので、ご存知の方も多いとは思いますが、紹介させて頂きます。
A History of Computer Development
三輪 修殿
筆者殿の開発経験を軸に、世界の状況や日本のコンピュータ業界の軌跡が解説されており、現在は、IBM360、FACOM230-60辺りまで寄稿済み。続きが楽しみです。
このサイトを読むことで、各コンピュータメーカの相関構成が理解しやすくなることでしょう。
2000/07/08 osg
<<改版予告>>
え~、「パソコンの歴史」企画当初より考えていたのは、コンピュータ企業の興亡史を記すことです。
特定マシンに対する思い出を記述するのも面白いのですが、敢えてユーザの立場を捨て、時代背景と共に業界動向の流れを追うことで、歴史の必然性が見えて、より一層面白味が増すかなと思ったからです。
流れを重視しているので、個々のマシンのスペック等を詳細に説明致しません(調べるの面倒くさいし(^^;)。そういう情報に詳しいサイトは、リンクページで紹介しておりますので、興味のある方は、そちらを参照されると良いでしょう。
で、実際、作ってみて感じたのは、モロに物語になってるってことです。主役のNEC、それに対抗する富士通、シャープ。。。これでは「平家物語」ならぬ「NEC物語」ですな。(曲りなりにもNECは日本市場トップなわけだし、「奢れるNECも久しからず・・・」なんて言ったら、NECのヤマノクンに殺されちゃうか(^^;)
これはこれで良いのかもしれませんが、う~ん、もうちょっと、当時の「市場状況」、企業の「戦略」、その戦略の「評価」をはっきりとさせたいのですよね~。
ということで、改版します。近々。まじで。頑張ります。多分。きっと。。。
2000/03/20 osg

OSG
http://www.sol.dti.ne.jp/~osg/history/history.html

しーど君の工作記
http://seedkun.orz.hm/menu.html

Lacis
http://www.ksky.ne.jp/~musa/hard/epson_ix.htm

EPSON PC ROOM
http://www.mal-o.com/epson%20pc/epsonpchome.htm

どるこむ
http://www.dorcom.net/












各社パソコン出荷数,単位:万台,資料:IDCジャパン
 199419951996199719981999
NEC 146.5230.7263.8237.1215.4240.5
Fujitsu 32106177.5187182.8224.5
IBM 34.258.592.490.382.8108.9
Toshiba 13.322.350.767.655.677.7
Sony ---------3.730.173.6
Apple 52.283.584.14340.763.9
Compaq 13.321.623243445.2
全体 339576809.9792.7792.61083.2

2021年1月21日木曜日

[機器][市場] PCエンジンの凋落~その流通悲劇



[機器][市場] PCエンジンの凋落~その流通悲劇
ゲーム・インサイダー
元PCエンジンFAN編集の方から痛快な裏話を頂きました。
だまってこれを読んでくれって感じです。本当にありがとうございました!
■おもちゃショーでの誤解から始まった凋落
「声優椎名へきるの、怪&快進撃!!」 98.3.1
NEC HEからの強い要請により、PCエンジン情報誌がそろってブースを出した93年(だったかな?)のおもちゃショー。
PCエンジンFANでは、編集人Y氏の音頭のもと、これを創刊5周年記念イベントと位置づけ、さまざまなイベントを企画しました。その1つが、発売予定の「秘密の花園」に出演している声優を呼びサイン会を開くというものだったのです。
ソフトを作っている制作部の人間から、アーツビジョン(だったと思う。声優には疎いので)に手配を依頼。そして呼ばれてきたのが、当時まだ無名だった“椎名へきる”だったのです。もちろん、その裏には「お金を払って呼ぶのはイヤ」という編集部側の経済政策が絡んでいました。
というわけで、編集部に椎名へきるが打ち合わせにやってきました。そのときの、当時の編集部員T女史の印象です。
「ダメダメ、オツムから態度まで、ほんと~にガキって感じ」
私はおもちゃショーイベントの担当でしたが、この甲高い大きな声で話す女の子の担当は、他の雑務が忙しので外してもらいました。(そもそも口の悪さに定評のあった私をつけるわけがないか)
さて、イベント担当者である私の不安は、こんな無名の新人のサイン会に、いったい何人の客がくるのか? という点にありました。
もちろん、創刊5周年記念キャンペーンは誌面でも強力にアピールし、サイン会も告知はしていましたが・・・。
このように不安だらけで迎えた、一般入場の日。
別のイベント「PCエンジンカルトクイズ」の運営と客の解答用紙の採点に忙しく、ずっと控え室で作業していた私ですが、同僚から思いもよらぬ状況を聞かされます。
「整理券があっという間になくなって、告知した時間にブースに来た客がどうして整理券をもらえないのかって文句を言ってくるんですよ」
無名の新人になぜここまで?というのが編集部員たちの正直な感想でした。
さらには、サイン会イベントの開始と同時に一目見ようとする客でNECブースが大混乱。
当日の閉場後、NECから会場の安全を守れないと、我々は厳重注意を受けたのです。翌日以降は、万全の体制でつつがなくイベントを処理。事故もなく、おもちゃショーは無事終了しました。
しかしこのサイン会が思わぬ影響を与えたのです。NECブースに出展していたサードパーティの人々が、この盛況ぶりに強烈なプリンティングされてしまったのです。
「椎名へきるって誰だ? 随分人気があるじゃないか」
「今度使ってみるか?」
というわけで、出演本数も増えていき、さらにはPCエンジンFAN誌上で連載まで始めた椎名へきるは、大きくステップアップしていきます。
へきへき言葉の羅列だった連載原稿は、担当T女史をひどく疲れさせたものの、一部ファンたちから強烈な支持を受けました。
しかし、当時から編集部員たちは気づいていました。
「サイン会に集まった人間のうち、椎名へきるのファンなんていなかったのではないか」
「要は誰でもいいから声優のサインが欲しかったんじゃないか」
結局メーカーにまで人気声優と認めさせてしまったこのサイン会。
人生何がきっかけになるか分からないものです。ラジオから流れる彼女の声優に不向きな声を耳にするたびにちょっと複雑な気分になります。
■1992年から93年のPCエンジン流通事情
「消えゆく炎を一気に吹き消した 粗悪ソフトの乱れ売り」 98.3.1
PCエンジンは、8bit機ながら、16bit機全盛の時代に非常によく頑張っていました。
市場の終焉は、少なくとも92年当時にはまだ考えられなかったはずです。しかし、32bit機の登場により完全に消滅する前に、実は大きな破滅の前兆がありました。それが92~93年、一見華やかに見える、スーパーCD-ROM2ソフトが大量に発売されたこの時期なのです。この時期に流通にそっぽを向かれたことが、結果として終焉を早めたと思われます。
とはいえ、ゲーム流通は、一般ユーザーにはなかなか見えにくい部分です。かくいう私もゲーム雑誌編集者という立場にはありましたが、ゲームメーカーの視点が加わっていた程度で、実質的には一般ユーザーと変わらなかったと思います。流通関連の話は、後日問屋から直接聞かされました。
ゲームメーカーで企画が通り、制作が始まると、パブリシティとしてまず雑誌にタイトル発表されます。この段階では、企画書などの資料、キャラクタのイラスト、先行して作成されたグラフィック画面などが、広報を通じて、各雑誌社に配布されます。人気タイトルや大手メーカーのタイトルは、比較的早い時期から毎号新着情報が掲載されます。とはいえ、資料ベースでゲームを眺めるので、雑誌側としても移植ものや人気シリーズものが中心になりがちです。操作したこともないオリジナルのシューティングやアクションは、なかなか紹介ページを確保できないわけです。やがて発売日が発表されます。CD-ROMの場合、発売日の1~2ヶ月前には、マスターアップしなければなりません。納入が1ヶ月前で大丈夫なのは、NECやハドソンなどごく限られたメーカーで、多くのメーカーは2ヶ月前にはマスターアップしなければなりませんでした。Huカードの場合は、さらに納期が早まります(末期には生産ラインがあきっぱなしで、かえって早いという事態もありました)。同様に、問屋からの受注期限も発売日から逆算すると約1ヶ月前になります。
生産本数もメーカー内でかなり早い時期に決定します。最低単位(ロット)がありますから、製作にかかった経費などを考慮しつつも、実売本数から大きくズレないように計算しないと、大量の在庫を抱え込むことになります。とはいえ、雑誌に紹介記事が掲載されるのは大抵1ヶ月前。読者の反応などもほとんどわからない時期です。結局は、ソフトの質をじっくり見極めるしかありません。
ソフトの質は、開発陣の頑張り次第です。
もちろん美少女育成など「ブームだから作れ」と命じられるものも少なくありません(こういった場合は、なかなか作り手に思い入れが湧かず、質の低い作品になりがちです)。開発陣は、マスターの納期に向けて、泊り込みの日々を重ねますが、どうにも変わり者が多く、突然失踪したり、気が乗らないなどと抜かす輩も少なくありません。
そういった開発陣を、営業スケジュールを考えながらコントロールするのが、プロデューサーの役割です。納期に良質ソフトを納入できるかどうか、プロデューサーの手腕にかかっています。良質ソフトを作るためには製作期間をじっくり取ればいいと思われるかもしれませんが、目標やスケジュールを立てないと、人間自分に厳しくできないものです。ダラダラ作ったゲームは、それなりの品質にしかなりません。開発者はどこか編集者やライターに似た部分があり、そのあたりの事情、私にも身にしみて理解できます。
このスケジュール調整に失敗すると、マスターアップが納期に間に合わなくなります。ここで大きな決断を迫られるのです。経費が増大し、さらには流通を裏切ってまでも発売日を延ばすか。それとも、適当なところで折り合いを付けて強引にマスターアップするか。この選択は、正解が前者とは限りません。開発期間に、比例して経費も増えていきますので、その分ソフトの定価が跳ね上がります。価格変更は、RPGのようなジャンルのソフトはともかく、アクションやシューティングでは難しいものです。
ここで、生産本数の話に戻りましょう。冷静な市場分析がそのまま通らないのが会社という組織です。「パブリシティにこれだけ投資したのだから、これだけの本数は売らなければ」「今期の決算を考えると・・・」など、さまざまな思惑が絡んできます(たいていは上層部の圧力)。こうして1万本売れれば御の字というソフトが、意味もなく3万本も作られたりするのです。
こうして作られた3万本の“クソゲー”は、営業がどんなに足を棒にして問屋をまわってもさばけるものではありません。
心苦しいながら、まずは好意的な問屋に無理をお願いすることになります。もちろん仕入れ値は“お安く”設定します。
普通にさばいてせいぜい1万本。無理矢理問屋に押し込んでようやく2万本クリア。さて余った1万本をどうするか? そのまま上層部に報告すれば、大量の在庫を抱え込むという非常事態になります。そこで再度問屋の登場となります。裏口のある問屋で「クズ」同様の価格でさばくのです。こうしてなんとか本数をさばききった営業たちは、やっと会社に戻ることができるのです(ここで使った数字は単なる目安、架空のものです)。
さてクズを引き受けた問屋ですが、問屋にとっても不要な在庫を抱え込むことは、自らの死を意味します。商品を横流しすることが商売であり、その流れに滞りがあれば、他の新作を倉庫に搬入できなくなります。そこで、取引先のショップに超低価格で買ってもらいます。このようにして、ソフト発売日に、見るも無残な価格でソフトが店頭に並ぶのです。
馬鹿を見るのは、先に購入してもらった問屋です。自分たちが普通に仕入れたソフトが、仕入れ値以下で他店に並んでいる・・・「二度と買わん!」となります。メーカーへの不信、何度も続けば市場そのものへの不信が生まれていきます。
■私見
ここで書いたケースは、大手やまじめな営業活動を続けていたゲームメーカーから見れば、極端なケースと言えるでしょう。
しかし、極端なメーカーが少なからず存在したことも事実です。
さて、この中で一番の悪者は誰でしょう。
買ってくれない問屋、クソゲーを作った開発陣、売り切れなかった営業。本当に彼らの罪でしょうか? 
個人的には、会社の上層部にこそ、一番の責任があると思います。株価対策などの事情は理解できますが、結果的にすべての尻拭いを下に押し付けている点は非難されて然るべきでしょう。決算が近づくと発売タイトルが増加するのも当然彼らの指示です。ソフトの内容などたいして考えてはいないのです。当然、営業と開発のコントロールに失敗したプロデューサーも同罪です。
一方、当時非難された問屋ですが、その役割は、ショップでは把握しきれない新作ソフト情報を整理し、売れるソフトを確保してショップに供給していく調整弁の役割を担っていました。確かにゲームに無知な問屋も多く存在しましたが、92~93年頃のPCエンジン市場におけるスーパーCD-ROM2タイトルの濫発が、メーカーと流通の信頼関係を一気に悪化させたことも事実です。事実、この時期を境にして、ショップからPCエンジンコーナーが消えていきます。PCエンジンの扱いをやめる問屋も次々に現れました。32bitゲーム機の話題で、市場自体に終わりが見えていたことも事実ですが。
さて、この時期以降に発売された良質ソフトに「オルゴール」がありました。製作はデータウェスト、私が個人的に好きなメーカーの1つです。
根強いファンを持つこのシリーズですが、生産本数は1万3千とも、1万以下とも言われました。
さっそく編集部に「店頭に無くて買えない」という読者からの手紙が多数届きます。
しかし、その時PCエンジン市場は、すでに再販する体力すら残っていないボロボロの体になっていたのです。
■PCエンジンの流通悲劇
PCエンジンの流通悲劇は、ソフトだけではありませんした。
なんと似たような事が、ハードの販売においても行われたのです。
玩具流通の問屋たちがPCエンジンを嫌った理由には、NEC HEが「家電メーカー」だったということもあるのです。
家電メーカーとしてとらえた場合、NEC HEにおけるPCエンジン本体の販売など金額的に微々たるものです。単価の高い製品は家電にいくらでもあります。そんな大量に家電を購入してくれる、大手の家電量販店のようないわゆる「お得意様」。この「お得意様」が、他製品購入の際に、おまけとしてタダ同然の価格でPCエンジンを仕入れていたのです。安く仕入れたPCエンジンは、先のソフト同様、一般の流通における仕入れ値を下回る金額で店頭に並びました。
ハードをストックしていた問屋からみれば“なぜ?”となります。株の暴落同様、市場価格がストックした製品の価値を下げてしまい、在庫赤字、要は不良債権状態になってしまうのです。彼らから「これだから家電メーカーは・・・」とグチがでるのも仕方がないでしょう。
さらに任天堂のユーザーサポートに比して、動きが鈍く、費用の高いNECのずさんなアフターケア。この苦情がもろに集中するショップから、NECへの怨嗟の声が問屋にも伝わってきます。後半、2万、3万円台の安い本体を販売しても、ショップや問屋が仕入れなかったのは、NECへの不信感によることろが大きかったと思われます。
最後に一言。
この文章の内容は、私が雑誌の編集や流通への取材の中で聞いた話に基づいています。
とはいえ、あくまで聞いた話にすぎませんから、半信半疑で読むくらいが丁度いいでしょう。
第参話 コナミから届けられた1枚のライトワンスが編集部の機能を停止させた!?
「発売前のときめきメモリアル周辺事情」 未定
そのうち登場予定
第四話 単なる映像オタクの集まりだった!? パイオニアマルチメディア事業部の悲劇
「レーザーアクティブ破滅への道」 未定
そのうち登場予定
pcengine@aqua.famille.ne.jp

PCエンジン補完計画
http://www4.famille.ne.jp/~pcengine/insider.html
http://www4.famille.ne.jp/~pcengine/list-hard/tg16/tg16_hardlist.html

PC Engine GigaMaxx
http://www6.airnet.ne.jp/wataru/pce/rgb.htm
http://www6.airnet.ne.jp/watar

PCengine Side
http://homepage3.nifty.com/rhythmsift/pceside/sittoku.htm

workshop PCエンジンおしゃれ計画blog













2021年1月14日木曜日

[機器][pc] IBM 5100

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ジョン・タイター: アメリカの未来〜Nデイ後の世界(2001)
「未来人ジョン・タイターの予言」に、ちょっとだけはまってみる。
ジョン・タイター
タイムマシン
2006年3月27日 19:19
10分で読めます。
「やじうまWatch」さんの3月1日付の記事で紹介されたので、知っている人も多いと思いますが、西暦2036年からやってきた、未来人ジョン・タイターの話題です。昨年の11月発売の「ムー」2005年12月号に載ってた「謎の時間旅行者 ジョン・タイター」という記事を、たまたま立ち読みしたんですよ。この記事って、12月号の「ムー」の記事の中でも、あまり大きい扱いじゃなかったんですが、西暦2036年からやってきた、未来人ジョン・タイターが、ネットの掲示板に書き残していった予言の数々が結構リアルだったので、他の荒唐無稽な予言に比べて信憑性が高かったので面白いと思ったんですヨ。1999年の予言でお馴染みの「ノストラダムスの大予言」が外れて以来ここ数年、この手の話題からは離れていたので、その時は、あっそという感じで流していたんですが、「やじうまWatch」さんの記事がきっかけでネットで検索してイロイロと情報を集めてから、昔から、この手の話しは好きだったお陰か、ちょっとはまっちゃっています。
で、その未来人ジョン・タイターが残していった予言のというのは「2ちゃんねる」の「未来から来た男 ジョン・タイター」関連のスレッドで、うまくまとめられていたので、ちょっと長いですけど、全文引用します。より深く知りたい方は、英文ですが、「John Titor Times」っていうサイトがあります。
■実現した予言,実現していない予言
イラクが核兵器を隠しているという理由で第2次湾岸戦争が起きる。
アメリカ国内にも狂牛病が発生する。
中国人が宇宙に進出する。
新しいローマ法王が誕生する。
まだ実現していない主な予言
世界オリンピックは2004年度の大会が最後になり、2040年度にようやく復活する。(注:冬季オリンピックは含まないというのが大筋の見方)
アメリカの内戦は2008年に全面化する。
その直後、アメリカ初の女性大統領が誕生する。
中東の国同士で大量破壊兵器が使用される。
アメリカやヨーロッパ諸国の不安定化に乗じて、中国は覇権主義を強め、 台湾、日本、韓国を強引に併合する。
2011年、新世界政府が誕生する。
2015年、全面核戦争が勃発し、30億人近くが死に、世界の人口は半減する。
2020年、アメリカに新憲法が制定される。
■事の経緯
ジョン・タイターとは、2036年から「軍事作戦」の目的で2001年アメリカに訪れたとする、未来から来た「タイム・トラベラー」。本人は某BBSにて01年に数々の「予言」を投稿。その内容が衝撃的だったため、後に注目を集めることとなる。現代の実家はフロリダにあり、タイター氏の2036年の生活もフロリダ周辺でのもの。またタイター氏の誕生年は1998年であることから、タイター氏自身は、現代へのタイムトラベルはこれで二度目であり、自宅に住む3歳の自分と一時的に生活している。またフロリダに住むタイター氏の両親は、これらの事情を承知していると言う。タイター氏はその初期の投稿の中で、彼が軍事作戦で2001年に来ており、その作戦内容は「IBM5100型コンピューター」を回収することだと述べている。氏によれば、その機種にはカタログスペック以外の機能があり、将来それが旧型コンピューターを運用する上で必要になったため、としている。タイター氏によると、未来は「タイムライン」というものによりそれぞれ異なりタイター氏の住む未来と、現代のこの世界の延長線上にある未来は必ずしも一致しないという。「予言」には、それをすると未来に大きな影響を与えすぎる場合が主に3つあり、タイター氏はこれらに影響を与える予言は行わないとの事。
確率による死を免れ得る予言。(例:自然災害や核爆発の具体的日時など。)
金銭的な利益が目的の予言。(例:株価予想やスポーツ競技の結果など。)
予言により現代において特定の人物の人生や人命に影響が出る場合。(例:未来の歴史上において、重大な出来事の直接的原因となる人物の実名など。)
■アメリカの未来
2004年以降、アメリカは特に都市部で急激に警察国家化し、それに対し都市外部と都市内部で抗争が発生。この年に発生した暴動が、2008年には連邦政府の手に負えなくなる程拡大し、最終的にはアメリカ合衆国は五つに分裂して内戦状態となる。2015年は「Nデイ」と呼ばれている。(Nはニュークリアー(核)の略と思われる)この年、ロシアの核攻撃により、米国の都市部のみが完全に崩壊する。これはロシアがアメリカの反乱部隊を「援助」するための核攻撃。そのためEMPを起こすための上空の核爆発は起こされず、都市部のみ、地上擦れ擦れでの核爆発となる。これにより殆どのコンピューターやインターネット・インフラは温存され、その大部分は後に使用可能となるらしいが、同時に巻き起こった死の灰により、爆心地近くの水源などでは危険なレベルの放射能汚染が長く続く。(予言をした2036年時点でもひどい汚染は続いてる。)2012年は特に何も起きない。ワシントンDCへの核攻撃は2015年3月某日と仄めかしている(詳しくはサイト参照)が、日付などは、彼のこの発言により「この世界」では恐らく別な日付に変わってしまうらしい。その他の出来事も同様だそう。従って彼の住む世界とこの世界とでは、出来事の起こり方も内容も異なる。ただ、おおむね起こるであろう事や、その結果などは同じらしい。それは人々の全般的な行動が変わらない限りそうなるとの事。中国軍は、2004年以降起きた米国の内乱に便乗し、2015年の「Nデイ」迄には台湾、朝鮮半島、日本を全て併合してしまっていると述べている。これはアメリカが内戦状態で、その外交機能が麻痺してしまっているのが理由。その為、アメリカの同盟国では、条約で保障されていた筈の「核の傘」から外れ、軍事侵攻されてしまう。この戦争の死者は30億人を数える。ロシアの攻撃は中国、アメリカ都市部、及びヨーロッパ。欧州はこの攻撃で壊滅的打撃を受ける。またロシアは米国の反撃により崩壊するらしい。オーストラリアは中国軍の上陸は許さないが、やはり都市部は核攻撃 により完全に壊滅する。2036年の時点では、オーストラリアとアメリカとは「仲違い」状態らしい。(軍事同盟を完全に裏切る形になったためと思われる。)核攻撃の結果、アメリカの内乱は急速に収束へ向かうとし、2020年迄には都市部の勢力の完全な敗北により、国内治安はほぼ回復するとしている。その後のアメリカは現状に近い連邦制を採用するようになるが、中央の権限は現在に比べ遥かに弱いものとなる。 また合衆国の国旗の「星」の数を五つだけにするかの議論が2036年時点であるらしい。この核戦争の後、人類は戦争に疲れ果て、それぞれの国が孤立化し現在のような活発な外交関係は無くなるとの事。海外への航空便などは存在するが、本数は今とは比較にならない程少なくなるらしい。ただ、核兵器が完全に無くなった訳ではなく、世界中にはまだ核兵器は山と存在してる状態らしい。2036年にはテレビ(プラズマ、液晶)はあるが、放送局が存在しないため、放送は一切ない。その代わり、過去の番組をデータベース化したものがインターネットを通じて見られるようになるそう。
都市部の大型サーバーは核攻撃により完全に破壊されるため、インターネットは主に数ある「無線ノード」(現在の携帯無線アンテナのような物)により成立する。
社会生活。新たな合衆国は各コミュニティが基本の生活になるそう。基本的にはその中で食料が生産され自給される。当然、農作物の輸送などはある。ただ、移住はコミュニティ単位で承認プロセスを経た後でなければ、認められなくなる。そのコミュニティの存在に害となる人物は容赦なく追放されるか、移住そのものが認められない。2036年から2001年にやって来たタイター氏は、フロリダの実家近くのスーパーの陳列棚に並ぶ、数十ガロンの「ミルク」を見て、その量に腰が抜けたそうだ。ただ、その品質には疑問を持ったらしい。大気汚染も現代の方が深刻と述べてる。生死観。2036年には死は非常に身近なものとなり、人間の平均寿命も60歳に満たなくなる。また、警察国家を信望する勢力を壊滅させたからと言って、それらが完全に消滅したわけではなく、そうした勢力が、彼らの住むコミュニティ外には存在しているらしい。そうした集団との殺し合いは続いてるそう。タイター氏によると2036年では、過去の米国崩壊の原因が人々の「身勝手さ」に起因したとの歴史観が大勢を占めているため、コミュニティの存続に危険と判断され、そこに移住を許されないそうした「身勝手」と烙印を押された者は、容赦なく殺害されるそうだ。職業。2036年の時点では現代のような巨大企業は存在しない。タイター氏が2001年の時点で新聞などで見た企業(デルなど)は、そのどれもが存在すらしていないらしい。〜矛盾点〜タイター氏はコンピューター技師と思われる点がいくつかある。IBM5100についてもそうだが、氏自身の父親が5100シリーズの開発に携わっていた事を認めているらしい。(サイト中に言及部分がある。もっとも、タイター氏はそれゆえ選ばれて現在に送られてきたとも言っている。)女性の権利を聞かれていた部分では、矛盾した発言を一度している。タイター氏の「タイムライン」では、2000年問題(Y2K問題)が原因でアメリカが内戦に突入したことになっている。("この世界"のように9/11テロが原因とは言ってないらしい。)ただ「ニューヨークの摩天楼の輪郭が異なる」とは述べている。現在の混乱した中東情勢への言及がほとんど無い。最も、世界情勢全般についての言及そのものが、その発言中少ないのもまた事実。(意図的?)
■矛盾しない点
この「IBM5100型」には、タイター氏の言及通り、「カタログスペック外」の機能が存在する。つまり、この機械はタイター氏が述べるようにAPLやBASIC以前のIBM独自仕様の特殊なコンピューター言語をデバッグすることが可能なのだ。タイター氏が言及する2038年問題。これは明らかに存在する。(詳細は「2038年問題」参照のこと)当時のBBS内でのやり取りにかなり現実味がある。
この年表によると、これからの30年間の世界は、なかなか素晴らしいほどの混乱ぶりということなります。上記を面倒臭くて読まなかった人のために、どういう流れなのか簡単に説明しますと、アメリカで内戦が発生し、それによりアメリカの国力の低下が起こります。次に、アメリカの覇権が弱まった隙に、中国が、次の覇権を目指して蜂起したりして、次々と世界の地図が書き換わっていくらしいです。で、最終的に中国を快く思わないロシアと核戦争が勃発。アメリカを巻き込んで拡大していきます。最終的にこの戦争は人類の大半の人口を死に至らしめ、最後はロシアが勝利して、アメリカ(5つに分裂している)は新憲法を制定、世界はロシアの意向を受けて社会主義国家として再出発するという話しです。
唯一救いがあるとすれば、人類は滅亡を免れていて存続しているしている事ぐらいですかね。我が日本はどうかというと、朝鮮半島、台湾と共に中国に併合されてます。個人的には、台湾は武力で併合されますが、朝鮮半島と日本は無血併合されると思っています。上記には書いていないのですが「ムー」の記事によると、併合後数年して中国が崩壊(ロシアの核攻撃で北京が消滅した為)してしまうので、短期間で独立を回復するみたいなんですが、今の中国のやり方を考える(チベットやウイグルで行っている民族浄化等の人権蹂躙)と、日本的な文化は全て破壊されているでしょうね。反日日本人や、在日朝鮮人達の努力もあり限りなく民度が低くなり中国化した、今とは似ても似つかない日本になっているでしょう。
最終的に勝利するロシアによって、世界中の政治システムが社会主義に移行して、戦争で疲弊した人類はギリシャ時代の都市国家のような国の形態に選択するそうですから、世界中、個人や政党による独裁だらけになりそうです。まぁ、世界中独裁だらけなんだから日本だけがと悲観する必要はないが、戦争で生き残っても暗い生活が待ってそうです。
ただ、上記で信憑性が高かったと書いてますが、アメリカの内戦の部分は、現在のアメリカ国内の状況を考えると、マイノリティ層のデモとかはあるものの戦闘状態まで発展しそうな焦臭さは無いし、9.11テロやそれに続く、アフガン戦争と、第2次湾岸戦争(この部分は予言されてない)で、アメリカの国民の関心がそっちにいってるので、この部分は外れているんじゃないかと思ってます。予言で語られている2004年はコレといって大規模な暴動も無く、現在でも都市外部内部での武力を伴う大規模な抗争事件(大規模なデモは起こってるけど、暴動ではない)みたいなものも起こっていないですからね。
不気味なのは、東アジアに関する事、中国の覇権主義の部分は、当たりそうな悪寒。
日・台・韓の知識や技術を使えば、政治的にも軍事的にも、アメリカに匹敵するような大国になることも可能でしょうからね。ただ、あの見栄っ張りで拝金主義の国が、オリンピックや万博をやめるという自国を国際的に信用を落とす行為をしてまで他国へ攻め入るとは考えにくいのですが、オリンピックや、万博をへて、大国へとのし上がったとおごり高ぶった中国だとやりかねない気がします。大イベント終了後の気抜けから崩壊が危惧される中国のバブル経済と、地域間の経済格差、水資源の問題が一気に悪化して、無くしかけた見栄と金を取り戻す手っ取り早い解決方法として他国への侵略を中共政府が選択する事はあるんじゃないかという事です。しかし、いまの現状だと、そんなことを思わせるのに足る戦力が整う前に、これら問題によって中共政府の足下がぐらつきそう(自爆フラグ立ち)な勢いで事態は進行しているように見えますから、ジョン・タイターの予言通りに事が動く可能性も無いとは断言できないとも思います。
しかし、上記の引用文の矛盾点で指摘されている部分意外にも、個人的に懐疑的な部分があるんですよ。例えば、人類の人口が今の1/16ぐらい(現在の世界人口は64億人なんですが、今後10年で10億人ほどプラスして74億人として、まず戦争初期に半分の30億人、核ミサイルの撃ち合いで30億人が犠牲になり、最終的には14億人以下ぐらい)に激減するぐらい核ミサイルを撃ち合って戦争をしているのに核の冬すら経験せず、19世紀末の人口並に減った人口と、世界中の国の主要な都市や生産施設が徹底的に破壊されたにかかわらず、現在とさほど変わらぬ文明レベルを保っている事とかね。既に当たっているとされている事も、当時でも調べれば、確実に起こることが分かる事柄ばかりですもんね。予言が書かれた当時でも、法王ヨハネ・パウロ2世は十二分に高齢だったんだから、死なないと予想しない方がおかしいですもん。
こんな感じで、ちょっとはまって書いている以外にもイロイロと考えてみたのですが、個人的な結論としましては、この「未来人ジョン・タイターの予言」は、(「ムー」が初出ということもあり)ほぼ信じられないということにしました。まぁ、信じる信じないよりも前に、彼の世界では2000年問題(Y2K問題)が原因でアメリカが内戦に突入したことになっているらしいので、この時点は外れ確定なわけです。2000年の正月には、いつもの年と同じように雑煮食って正月番組を楽しんでましたからね。ただ、ここまで荒唐無稽な事件(核戦争とか、全世界社会主義化とか)は起こらないとしても、アメリカの国力低下とか、ロシアの大国への復権、中国の暴走による朝鮮半島・台湾・日本の一部(沖縄など)への中国侵攻と、併合ぐらいはありかもとは思ってます。
で、そんなこんなで「未来人ジョン・タイターの予言」で調べていたら、「2ちゃんねる」のオカルト板で「JJ氏の予知夢」というのに出会っちゃいました。日本の未来は、コッチの方がイイです。
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by G-Tools , 2006/10/30

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コメント [23]
すごく面白いです!!
小説みたいなのになぜか心配になってきます。SFでノンフィクションな世界
ゲームのFFや映画なんかより見ごたえあり!!!
Posted by たかし 
2006年5月 4日 13:19
みらいをしりたければ
ファテイマの預言
ラ・サレット27の告知
をみろ
Posted by Anonymous 
2006年5月 7日 19:44
>たかしさん
「未来人ジョン・タイターの予言」は、現実に即した部分も多くあり、実現しそうな雰囲気がありますが、矛盾点も多いので、個人的にはフィクションな世界で止めている方が良いかと思います。
>匿名さん
ラ・サレットの預言を拝見いたしましたが、あまりに宗教色が強くて、ご神託ですねコレは。予言としては現実感が薄いです。個人的には他の荒唐無稽に予言と同じレベルです。読み解けるほど宗教的知識あれば、もっと楽しめたと思うのですが…。どうにでも解釈できるものは、ちょっとね。後、予言と預言は、普通なら見通せない未来の出来事・有様を、こうなると言う事という意味ですが、預言には、キリスト教などで、神の霊感を受けて、神託として述べること。その神託。という意味もあるので、預言と書かれている場合は、後者の方の意味が強いと思っていた方が良いと思います。
Posted by naganaga 
2006年5月 8日 15:22
2012には人類覚醒するらしいが
http://fiction.bbs.thebbs.jp/1147989818/21-40
この掲示板内でそれを思わせるスレがあった
このように彼の説は有力である。
たとえ未来人ではなくても当たる可能性は十分ある
Posted by 最強 
2006年5月29日 20:21
>最強さん
一部で騒がれてるフォトン・ベルトってやつですね。イロイロとサイト回ってみましたが、これって昔放送していたアニメ「戦国魔神ゴーショーグン」に出てくる意志を持ったエネルギー「ビムラー」によく似てますね。まんま設定を使っているんじゃないかって思うほどです。なのでアニメチックな設定のフォトン・ベルトの話しはフィクションとして読むと面白いですよね。荒唐無稽さトップクラス認定ですヨ。
Posted by naganaga 
2006年6月 5日 09:33
こちらも参照になってみて下さい。
http://oriharu.net/jstand.htm#2013_33_80
Posted by オリハル 
2006年9月22日 19:40
タイター氏の話は、起こりそうな気がする
が、ロシアとアメリカが全面核戦争になれば、
もはや地球は、核の冬に突入する。
核爆発の膨大なススや灰が太陽の光をさえぎり
地上から、太陽の光を奪う。
地球は、真っ白な雪のボール「スノーボール」
となり、白い雪や氷は太陽からの光や熱を
反射して、数万年もの氷河期に突入するそうです。
別名「地球全面凍結」ともいいます。
どうもタイター氏の核戦争だけの部分の話は甘い
のではないでしようか、
アメリカ本土に核攻撃されれば、当然、原子炉
施設も標的になり、被害は想像を絶するでしよう。
Posted by ニュークリア 
2006年10月29日 20:56
>ニュークリアさん
ご指摘の通り、ジョン・タイターの予言で、全面核戦争の被害予測はかなり甘々です。社会情勢も、先日の北朝鮮によるミサイル発射と核実験後の中共のあわてふためきぶり見ると、領土拡張の意志があったとしても、実際に実行に移すのは、ここ数年は難しいと思っています。なので、自分の中では、予言の的中は、ほぼ無いと考えております。
Posted by naganaga 
2006年11月 9日 09:02
http://moon.ap.teacup.com/kurosu44/75.html
↑うわあぁあああぁああ
いきなり絶叫してスイマセン。
ジョン・タイターさんのお話が面白くてネットを徘徊してます。naganagaさんがしっかりと事の詳細や意見を書いておられるので、書き込みました。予言内容に関しては私も半信半疑ですね。しかし大統領選挙が気になってます…。(あとこの話にたまに付いてるネメシスとか何者なんでしょwカッコイイけどサwww尾ひれが付いてますね、明らかに。)
それと、私は思うんですよ。今の深刻な環境問題。果たして2036年まで人類は生きているのか?とか。なにやらジョンタイターさんによると環境問題はさほど騒がれてないそうですが、このままでは将来的に絶対にヤヴァイ事になると思うんですよ。
あとこの話自体、映画の宣伝らしいのですが、元ネタが
なんだろう?っと思ってます。あー、明るい未来になると良いのですけどネ
Posted by メガネ男 
2007年7月23日 10:31
私は今日初めてWikipediaでジョン・タイターのことを知りました。よく見るような曖昧な予言ではなくて、何年に何が起きるということが明確で、「こいつは本物だ・・・」と思いました。私も彼に何か質問したかったな~・・・
別のことかもしれませんが、2012年までには地球におかしなことが起こり続けるというのを何かの本で読んだ気がします。これも関係してるのでしょうかね。興味が尽きません。
Posted by アルラウネ 
2007年8月16日 19:37
>アルラウネさん
亀レスですみません。
信じる信じないはアルラウネさん次第なので、本物だと思われる事にマァ問題はないと思うのですが、個人的には、タイターさんは外しまくっている気がしてます…。
2012年とか言う話は、フォトンベルトっていう何だかよく分からないものに地球がすっぽりと包み込まれ、それが影響してイロイロや厄災が起こるって話だったと思います。かなり荒唐無稽な話なので、調べてみると楽しいですヨ。
Posted by naganaga 
2007年8月23日 09:16
これだったら、未来は、変えられないっていうことですよね!!
そんなこと、あるはずが、ないと思いますが。どうでしょう?
ブラジルの予言者「ジュセリーノ氏」だって、
未来は、変えられるものだ!
と、いってましたよね?
Posted by じゅー 
2008年12月 8日 11:05
第2次湾岸戦争は予言し、ぴたりと当てているようです。
Posted by 職人 
2010年11月20日 02:39
タイターの言葉を借りると
彼の予言は彼のいた世界線での出来事を語ったものであり、彼が過去(我々にとって今)に跳んできてそれを書き込んだ時点で世界は大きく分岐してしまったので、起きたであろう事故や事件が形を変えるか消えるかしてしまったのではないだろうか
って事になりますなww
でも、彼が本当の未来人で彼の予言が本当の事であったとしても、変わってしまった未来を観測することは、今の科学力では出来ないんですよね
Posted by 黒の天魔 

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志賀隆生: コンピューター小史(1991)
文/志賀隆生
パソコンが1950年代にすでにマクルーハンの予見していた電子時代のメディアツールとしてますますその重みを増している今日にあっては,同様に多くの逆説,パラドックス,アイロニーに満ちた20世紀そのものとして,あるいは20世紀的テクノロジーを象徴する存在として,あの夢の機械を位置づけても許されるのではないかとさえ思わせるのである。
計算技術が大きく変貌するのは,形式化した論理演算というテクニックとその時代に利用可能な テクノロジーとが上手に結びついたときであり,さら に高度な計算技術を要請する文化・社会的背景が存在 したときであることは容易に想像がつく。今日のコン ピュータの原形と誰もが認めるのは,19世紀の英国の 数学者チャールズ・バベッジが考案した差分機関と解 析機関だが,産業革命が世界市場を大きく変えていくなかで,バベッジの大量高速計算機械はたぶん切実な技術時代の要請だったはずである。もっとも,このバベッ ジの夢のエンジンは,時代の欲望が当時の科学技術力 をあまりにも大きく上回りすぎていてついに完成することはなかった。。
■1940年代
次のステップは,20世紀初頭の英国の数学者チューリングの計算可能性の数学的定就とその具体的検証としての「チューリング・マシン」だろう。このいかにもこのいかにも20世紀的なチューリングの発想は計算技術の徹底的な形式化の追及作業であり,形式化が徹底しているぶん,人はなぜ計算するのかという問いは失われている。
しかし20世紀半ばに,人類はこの問いかけに対して新しい答えを発見する。それは<力>である。
1944年,ハーバード大学のアイケンはリレー式計算機MARKIを制作する。モークリーとエカートによる世界最初の電子計算機ENIACは1943年から研究を開始し1946年に完成する。後のノイマン方式と呼ばれるストアドプログラム方式による最初のコンピュータEDVACは1951年に完成している。これらは第二次世界大戦中は大砲の弾道計算に使われ,その後は原爆開発重要なツールとなった。このように計算技術の進歩によって生みだされた<力>は,コンピュータの神話学に大きな影を落とすことになる。
■1950年代
人はなぜ計算をするのか?これはけっして哲学的な問いではない。古代インド,アラビア,中国を見ればわかるとおり,歴史的に計算技術の発達した地域はつねに大規模市場が形成された土地だった。人が計算が計算する理由はただ一つ,公正さを保つためである。
こうした計算技術の行き着く先が,正確さと早さを至上命題とするコンピュータであるとすれば,事務計算の専門会社Computing Tabulating Recordingがその後International Business Machine(IBM)と社名を変更して業界トップの位置につくのは歴史的必然といえる。 
1950年代に入ると、コンピュータは大企業の経
営部門の中枢と,産・官・学の研究機関の内部に入り込んでいく。そこでは<金>と<力>を生みだすことが技術の使命であり、コンピュータの存在理由だった。
ところが,意外なことに<金>と<力>を手にしたはずのコンピュータの前に,大きな落とし穴が待ち構えていた。それがハッカーである。
人類史上最初のハッカーは1959年MIT(マサチューセッツ工科大学)に発生したと言われる。当時,大学の電気計算機室に設置されていたIBM製のコンピュータに,テック鉄道模型クラブのメンバーが無許可で進入し悪戯をしかけたのがハッキングの始まりとされる。これは1950年代のコンピュータが神殿のなかにおさまるご神体のような扱いを受け,その操作者がまるで司祭のような振る舞いをしていたことに対する反発から来たものであり,そこに20世紀的理想主義を見いだすことは容易い。
ほかの誰でもない,技術の理想のために,ハッカーは危険を犯す。ハッカーはその意味で20世紀的な理想(至上)主義の化身であり,20世紀をモダニズムの世紀ととらえれば,ハッカーはまさに20世紀的存在の化身ということができる。ここにコンピュータ・テクノロジーのパラドックスを見ることができるだろう。技術(コンピュータ)が20世紀的存在(ハッカー)を呼び起こす。誰のためでもない,おそらく巨大な権力,あるいは制度に奉仕するために生みだされたメインフレーム・コンビュータが,やすやすと個人の悪戯ものの手に落ちてしまうという,あまりにも20世紀的なアイロニー。計算技術あるいはその具体化した姿としてのコンビュータは<金>と<力>という時代の欲望を増幅する機能をはたしたと同時に,ハッカーのような技術理想主義的思戯ものの欲望をも増幅してしまう。メインフレームのコンビュータがその能力を極限まで発揮し,その生みだす<金>と<力>で世界を囲い込もうとしても,つねに/すでにそこには微細だが決して修復できない穴が穿たれている。それがコンピューター・テクノロジーの本質であることを,MITのハッカーたちはほとんどコンピュータの創世記に証明してしまったのである。。
ー雑誌StudioVoice,1991年

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2021年1月2日土曜日

[機器][ゲーム] MIT, Space War (スペース・ウォー)~電子ゲーム登場





















[機器][ゲーム] MIT, Space War (スペース・ウォー)~電子ゲーム登場
海外のテレビゲームの歴史
History of Overseas Videogames
~テレビゲームが生まれた頃~
テレビゲームとは、”テレビ画面に物体(オブジェクト)を映して、それで遊ぶ機械”と定義できます。
テレビ画面に任意のオブジェクトを映し出すという技術は、軍事用などで戦前から使われてきましたが、これをはじめてゲームという形にしたのは、
ウイリー・ヒギンボーサム氏という、ニューヨークのブルックヘイブン国立研究所に勤務する博士だといわれます。
氏はオシロスコープというテレビにテニスゲームを表示させ、研究所に見学にきた人が楽しく機械に接するイベントにしたそうです。1958(昭和33)年のことでした。
ブルックヘイブン国立研究所のテレビゲーム(予想図) ・・・
現存する資料から、ブルックヘイブンのテレビゲームを再現してみました。
「テニスコートを横から見た画面に、プレイヤー二人がパドルでラケットを動かし、ボタンでタイミングよく球をうちかえす。重力や風力、風向き、ボールのはずみ方まで表現されていて、ゲームの交代はスイッチで切り替えることができた」そうです。
(図はわかりやすいように、少しおおげさにしてあります)
1961~62(昭和36~37年)頃には、MIT(マサセーチューセッツ工科大学)の研究員だった、スティーブ・ラッセル氏のグループによって「スペース・ウォー」が開発されました。研究所に入ったPDP-1というコンピュータを使ってなにかおもしろいものができないかと考えた彼らは、やがて宇宙船がとびまわり光線銃で戦うというシナリオにまとめ、半年ほどかけラッセル氏がプログラミングをおこない、完成されました。
このゲームは学生たちの間で大評判を呼び、全米の大学や研究所など、PDP-1が設置されたいたるところで楽しまれました。またPDP-1を扱える人たちが次々と改良が重ね、星の動きが違うもの、光線銃の動きが複雑なものなど、いろんなタイプのスペース・ウォーがつくられたそうです。
初代スペース・ウォー(再現図) ・・・
2人用の対戦シューティング。右回り、左回り、加速スイッチで宇宙船を操作し、光線銃スイッチで相手をやっつけます。ディスプレイは現在のような四角ではなく円形だったそうです。
(1996年にNHKで放送された「新・電子立国/ビデオゲーム・巨富の攻防」から)
<参考文献>
・電視遊戯時代<(株)ビレッジセンター出版局>
・新・電子立国(4)ビデオゲーム・巨富の攻防<NHK出版>
・テレビゲームの世界(2)<ゲームス・スクエア>
※ブルックヘイブンのテレビゲーム(予想図)に関しては、H.MIZUSAKI氏にインスパイアされたところが多い。感謝。

オデッセィ
http://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/history/index.htm












2020年5月5日火曜日

[機器][OC] ENIAC(1945)~コンピュータ登場






「世界で最初」と呼ばれたコンピューター
世界で最初のコンピューターはなにか,という問いは簡単なようで難問です。
コンピューター数学者の間でも意見が割れていますし,そこに特許や軍事機密などの法律問題が絡むと,さらにややこしくなります。
しかし,厳密な定義はともかく,一番「最初と一般に信じられている」ものは,ENIACと言う事になるでしょう。
今回は,世界で最初と呼ばれたコンピューター,ENIACの話です。
ENIAC開発の背景
ENIACは,一般には,弾道計算のために開発されたということになっています。
実際,開発の資金を提供した陸軍は,弾道計算のために資金提供したのでした。
しかし,ENIACの構想を考え出したモークリーは,趣味の気象予測のために強力な計算機を必要としていたようです。
当時,「気象は十分な計算パラメータがあれば完全に予測できる」とする仮説が話題となっており,多くの人が実際の予測に取り組んでいました。
 物理学者であったモークリーもその一人で,アメリカの降水と太陽の回転の関係について,仮説を立てていました。しかし,この仮説が本当かどうか調べるための計算は,あまりにも膨大で当時の計算機では間に合わなかったのです。
モークリーはさまざまな計算機を調べ,自分でも試作し,やがて真空管を使うと高速な計算機を作れると言うアイディアにたどりつきます。
真空管計算機を作るために電子工学を学ぶ中で,モークリーは若き天才電子工学者,エッカートと出会います。陸軍が開催した電子工学の特別講座で,エッカートは最年少の研究助手,モークリーは最年長の受講者でした。
ふたりは意気投合し,電子計算機の設計にかかります。
モークリーは真空管については素人でした。そして,エッカートは怖いもの知らずの若者でした。
そんな二人だから,こんなたいそれたことを考えついたのです。当時,身近なもので真空管を使った一番複雑な機器はテレビで,30本の真空管を使っていました。しかし真空管は電球や蛍光灯と同じように寿命のあるもので,30本も使うとよく故障するのです。真空管を何百本も使う,複雑な計算機など,理論上は可能でも現実的ではありませんでした。
そのころ,陸軍将校ゴールドスタインは,射表作成のために高速な計算機を探していました。
大砲をうつために必要な「射表」は,ある気温,ある湿度,ある風向きと風速の時に,狙った距離に落とすには,角度と火薬をどれだけの量にすれば良いか,という計算結果をたくさん並べた表です。
ENIAC以前は,数表の作成に微分解析機というアナログ計算機が使われていました。これは円盤とモーターの組みあわせによって積分計算を行う物ですが,速度が非常に遅いと言う欠点が有りました。
歯車ではなく,自由に移動できる円盤を利用して計算を行うため,速度を上げると円盤がすべってしまい,計算結果が狂ってしまうのです。
この微分解析機の作成者であるバーニバー・ブッシュは,コンピューター開発の初期から現在にいたるまで,大きな影響を与えつづけています。
もっとも,彼自身はデジタル計算機を嫌っていた節があります。
このため,射表を作るのには,急いでもおよそ1ヶ月の期間が必要でした。
しかし,戦局が変わり,大砲が使用される土地が変わると,湿度や風速などに必要な条件が変わります。新兵器が開発されたときも,新たな条件で表を作る必要があります。1ヶ月もかかっていては間に合いません。
陸軍が射表作成を委託していた大学に,たまたまモークリーとエッカートがいました。そして,ゴールドスタインの耳にも,二人が作ろうとしているコンピューターの話が入ります。
ENIACの開発は,そうしてはじまりました。
■ENIACの構造
ENIAC(Electronic numerical Integrator and Computer)には17,468本もの真空管素子,1500個のリレー,17万の抵抗,1万のコンデンサ,6千のスイッチ,4千のネオン管,数百のダイヤルが使われています。
総重量は30トンで,高さ2.5メートル,奥行き0.9メートル,幅24メートルで,消費電力は140Kw,放出する熱を冷やすために24馬力の換気システムを必要とするという,非常に大規模な装置でした。
真空管素子と言うものを見た事が無い,と言う方もすでに多いとは思いますが,この素子使うと,電流を増幅したり,スイッチのように流したり流さなかったりの制御が出来るようになります。
増幅したりする機能を持たなくても,真空中で放電を行うものは真空管の一種です。
 とくに,この放電で光を得る物を「陰極線管(Cursord Ray Tube)」と呼びます。パソコンのCRTモニタなどは,まさしくこれです。
コンピューターの基本はスイッチングですので,ENIACでは真空管のスイッチ特性を利用しているわけです。
しかし,現在のコンピューターではスイッチの On Off を利用した2進法で計算を行うのに対し,ENIACでは10進法で計算が行われていました。
これには訳があります。モークリーは2進法で計算ができることを知っていたのですが,それでは先進的過ぎて周囲を説得できず,資金が集められないと考えたのです。
そのため,従来の歯車型計算機を「ただ電子に置き換えただけ」に見えるように10進法を採用したのです。
また,2進法への理解不足もあり,「2進法では必要な桁が増えすぎ,装置が膨大になる」とも考えていたようです。実際にはこれは誤りで,2進法を採用したほうが簡単なのですが…
これについては,ENIACの開発中に誤りに気づいたようですが,2進法の採用は次のマシンで,ということになります。
■基本回路
その仕組みはこうです。
ENIACの計算・記憶の単位は,真空管を組みあわせて作った「リングカウンタ」と呼ばれる回路です。
リングカウンタは10個のフリップフロップ(状態保持回路)を使って作られており,1つのフリップフロップは2個の真空管で作られます。つまり,リングカウンタ1つには,20個の真空管が使用されます。
リングカウンタは外部からのパルスで状態を順番に変化させるように出来ており,その状態は10通りあります。この状態を,それぞれ数字の0?9に対応させて考えます。
リングカウンタが9から0に変化する時,パルスを出力します。このパルスを上の桁のリングカウンタに入力してやれば,桁上がりが処理されます。
リングカウンタの模式図
リングカウンタ自身は,0?9の10の状態をもち,外部からのパルス(太い赤矢印)によってその状態を順番に変えていく。(黒矢印で書かれたように,0?9をくりかえす)
9から0に変わる時,カウンタ自身もパルスを発する。このパルスは,1桁上のカウンタへ送られ,桁上がりを処理することとなる。
これは,リングカウンタを歯車,パルスを歯車の個々の歯と見ると,まさしく歯車計算機であることがわかります。
この計算単位が出来上がれば,あとはこれを沢山並べ,読みだしが行えるようにしてやれば良いだけです。
足し算を行うには,パルスとして読み出された各桁を,別のカウンタに入力してやるだけです。
リングカウンタには,真空管の故障を検出する仕組みも内蔵されていました。
上の図を見れば判るとおり,リングカウンタは10個の「フリップフロップ」のうち,どれかひとつだけが ON になるように設計されています。
逆にいえば,複数がONになったり,ひとつもONがなかったりすると真空管の故障が考えられます。そのようなときには,エラー信号を出すようになっているのです。
また,リングカウンタはユニットとして作られ,故障時には故障を検査するのでなく,リングカウンタユニットを丸ごと交換するようにしました。
こうすることで,故障しやすい真空管を大量に使っても,ENIACは十分信頼できる装置となったのです。
■システム構造
ENIACは,このような方式ですから,俗に言う「プログラム」と言う物には広く対応出来ません。とはいえ,配線の組替えや,パンチカードによるパルス制御,さらにはプログラム内蔵によってかなり汎用性の高い計算機になっています。
ENIAC は,単一の回路ではなく,別々に設置されたいくつかのユニットが協調して動作する仕組みになっていました。これらの個々のユニットは並列動作が可能であり,ユニット間はパルスによって情報のやり取りが行われていました。
始動ユニットは,人間とのインターフェイス部分です。プログラムをそろえ,開始ボタンを押せばプログラムが実行されますし,結果はプリンタから出力されます。
マスタープログラマはプログラムの実行を制御します。プログラムと言うのは現在で言うプログラムとはニュアンスがことなり,「どの順序でアキュムレータを呼び出すか」だと思って良いでしょう。
実際には「どの」アキュムレータを呼び出すかは,マスタープログラマとアキュムレータを結ぶ配線によっても決定されますので,マスタープログラマの仕事は「いつ」呼び出すかのタイミング制御と,くり返し制御でした。
ENIAC は後に改造され,これから述べる定数転送ユニット内の数値を命令と解釈して,配線を論理的に切り替えるような機構を備えることになる。
「ENIAC はプログラム内蔵方式ではない」という言葉は,実際には誤っていることになる。
アキュムレータは,計算を行うユニットです。基本的には値を累積していくもので,計算に使う数字は他のアキュムレータからもらうことも出来ますし,マスタープログラマを通してパンチカードからもらうことも出来ます。
1つのアキュムレータは10進数10桁を符号付で記憶することが出来,アキュムレータを二つ使うことで20桁の数字を扱うことも可能になっていました。
ENIAC のシステムとしては全部で20台のアキュムレータが用意されていました。
定数転送ユニットは,計算に使う様々な定数を記憶してあるメモリ装置です。
ユニット内では抵抗マトリックス回路によって,任意の関数表3つを記憶しておくことが出来ました。
全体としては,定数記憶ユニットは10進数12桁300語の容量を持ちます。
アキュムレータ,および定数転送ユニットは,マスタープログラマからのパルス以外に,ディジットトランクと呼ばれる線でも結ばれていました。
この線は,現在で言うデータバスのようなものです。
アキュムレータや定数転送ユニットは,マスタープログラマからの指示に応じて,自分の持っている値をディジットトランクを通じて別のアキュムレータに送ることが出来ました。この際,ディジットトランクの配線次第で,データをシフト(10の累乗倍に当たる)することも可能でした。
アキュムレータ自体は独立した累積計算機であり,他のアキュムレータと独立して動作することが出来ますので,プログラムによっては並列計算を行うことも可能でした。
基本的には,これらの組み合わせによってENIAC は計算を行います。全体の同期信号であるパルスは1秒間に5千回送られていたそうです。…簡単には比べられませんが,クロック周波数5kHz ということになります。
このような仕組みで弾道計算を行った時,弾道1つについての計算を完了するのにかかる時間は,バーニバー・ブッシュのアナログ計算機の10?20分に対し,ENIAC ではわずか20秒しか掛からなかったと言います。
ひとつの表を作るのにはおよそ3,000本の弾道計算が必要でした。そう考えると,ブッシュのアナログ計算機では1枚の表を作るのに1ヶ月を要していたものが,ENIACでは半日でできることになります。
■ENIACとフォン・ノイマン
ENIAC の開発は,当初陸軍のプロジェクトとして陸軍弾道研究所で始まりました。しかし,ENIAC 作成の提案と実際の作成はペンシルバニア大学ムーア校で行われています。
ENIAC開発スタッフ
作成したのは,ムーア校に着任したばかりのモークリー,大学院研究生のエッカート,弾道研究所軍将校のゴールドスタインを中心としたメンバーです。
左は開発スタッフの写真。左端がエッカート,2人おいてゴールドスタイン,つづいてモークリー。
プロジェクトは1943年6月に開始されましたが,完成したのは戦争終結後の1946年2月でした。
完成後公開された ENIAC。139平方メートルの部屋に,コの字型に設置されていた。
この部屋は空調が行き届き,真空管が安定して動作できるように管理されていた。もちろん,虫などが入り込むことは出来ない。
手前の男は配線を切り替えるパッチパネルを使い,プログラムを行っている。
完成して最初のテストは,弾道計算ではありませんでした。加減乗除,正弦余弦関数の表を作る簡単なプログラムと一緒にテストされたのは,水爆の爆縮時の衝撃波の計算でした。
当時の新聞によれば,人間の計算手にやらせれば100年はかかると見積もられるこの問題を,ENIACは2時間で解いたそうです。
この応用問題は,ENIAC 開発開始から1年程たったころ,開発中心者のひとりであったゴールドスタインが,水爆開発を行っていたロス・アラモス研究所の顧問と出会ったことから行われたものでした。
研究所顧問とは,当時衝撃波の専門家としてしられた数学者,フォン・ノイマンでした。
ノイマンはゴールドスタインから電子計算機の話を聞き,強い興味を持ってENIAC開発現場を何度か訪れていたのです。
ノイマンは,この後別のコンピューターの開発に携わり,コンピューターの父と呼ばれるようになります。
■ENIAC にまつわる伝説
ENIAC にまつわる数多くの逸話の中に「ENIAC は故障率が非常に高く,連続して運用出来るのはせいぜい15分だった」というものがあります。真空管の寿命と,ENIAC に使われた真空管の本数から確率計算を行うとこうなるのだそうです。
しかし,実際にはペンシルバニア大学においてある間には90%以上の時間動作していたという記録が残っています。先に書いたように,万が一故障したときにすぐにユニットを交換し,稼動を続けられる工夫も万全でした。
さらに,実はENIACの真空管は,メーカーが規定する電圧よりもずっと低い…たった1割の電圧で駆動されていました。これは,製作前の事前実験で,性能には問題を出さずに,寿命をずっと伸ばす方法として考えられた方法でした。
ENIACは最初から「故障しにくいように」するための設計が随所に盛り込まれており,安定した性能を示していたのです。
一説によれば,陸軍ではENIACを「使うときだけ電源をいれていた」とも言われています。真空管は電源を入れてから安定するまでに時間がかかり,電源のON OFFを繰り返すと速く劣化しますから,あるいはこれが「故障しやすい」という説の元かもしれません。
「真空管は光を発するため,蛾が集まって来てショートする事がある。これがバグという言葉の由来」という逸話もありますが,これも嘘です。
ENIAC は空調の行き届いた密室に設置されており,蛾が入り混む余地はありませんでした。
蛾によって計算ミスを引きおこしたのは,リレー式コンピューターのハーバードMark-II です。
1955年10月2日,ENIAC の電源は落とされました。ENIAC の役目は終わったのです。
その後 ENIAC は解体されます。その一部はスミソニアン博物館,スミソニアン・アメリカ歴史博物館,そして ENIAC の生まれ故郷であるペンシルバニア大学などに収蔵されました。
しかし,これは計算機の終わりではありませんでした。この頃までには ENIAC に触発されて各国で計算機の研究が始まり,成果を見せ始めていたのです。
これが,計算機時代の幕明けでした。
参考文献
誰がどうやってコンピューターを作ったのか?
トロンへの道程
ENIAC 世界最初のコンピューター開発秘話
追記 2006.02.15
ENIAC のニュース動画が公開されていました。
参考にリンクしておきます。
追記 2020.06.22
ENIAC の速度について,ファミコンとの比較を日記に書きました。
当記事を書いた際にはまだ僕自身 ENIAC の動作を理解できていなかったので,プログラム方法などの補佐的な情報も書いています。
                 
魔法使いの森
https://www.wizforest.com/
https://www.wizforest.com/OldGood/
































ENIAC
大砲の照準を正確に合わせるためには綿密で素早い弾道計算が求められる。それにはどうしても高速で計算できる機械が必要だった。そこで米国陸軍の弾道研究所はコンピュータ開発を画策中だったペンシルベニア大学に,弾道計算用の計算機の開発を依頼した。
さっそく電気工学部助教授のジョン・モークリーと大学院学生のプレスパー・エッカートの2人を中心とした開発チームが作られ,コンピュータ開発がスタートしたのだ。一方,原爆開発にも,原子物理学の複雑で膨大な計算が必要だった。当時の計算は訓練を受けた多数の女性が機械式の卓上計算機を用いて処理していた。しかし故障しがちな計算機と慢性的な人手不足はスタッフの悩みの種だった。
そのうち「マンハッタン計画」のスタッフの一人でユダヤ人の亡命数学者,ジョン・フォン・ノイマンがペンシルベニア大学で進められていたコンピュータ開発を聞きつけてきた。彼は開発が急がれていたマンハッタン計画にそのコンピュータを利用しようと考えたのである。
ノイマンはエニアックの開発にも顧問の資格で参加し,一日も早いコンピュータの完成を望んだ。しかしノイマンらマンハッタン計画の関係者の願いにも関わらず,世界最初のコンピュータは間に合わなかった。エニアックの完成は戦後までずれこみ,原爆開発に使用されることはなかったのである。
1946年2月(昭和21年),エニアックがペンシルベニア大学で完成したとき,それは世界でもっとも巨大な計算する機械だった。40台にも及ぶ装置類は170平方メートル(約52坪)もある部屋の中に所狭しと並べられた。使用された真空管は18000本,接続箇所は50万個以上,スイッチの数は200以上にものぼった。ただしエニアックは現在のコンピュータのようなプログラム内蔵型ではなかった。弾道計算以外の目的に使用する場合,その都度200以上のスイッチと数百を越える配線を変えて新たに計算の手順(プログラム)を指示しなければならなかった。装置と装置の間を飛び回って配線を変え,スイッチを切り換えるには途方もない労力と時間がかかった。それでもエニアックが持つ計算の速さは何事にも代えがたい魅力であった。
コンピュータと原子爆弾は互いに軍事目的のために開発されたものの,その後の歩みは正反対なものとなった。
ー覇者の誤算,講談社文庫,立石泰則

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