1971年12月18日土曜日

テープレコーダー




古い写真が出きましたので、再掲載しました。
書庫オーディオなど技術関係
2013/3/8(金) 午前 8:03
赤井電機製のAT-2型、テープレコーダーメカニズムキットを組み立てました。
「昭和33年6月頃」
昭和33年6月頃 完成したテープレコーダー 母と僕です。
ある日福井県の勝山市に居る伯母さまが遊びに来ました、
其の勝山の伯母さまの家は勝山の町で一番大きな呉服屋をしていました。
其の伯母が夕飯を食べながら、最近テープレコーダーという、便利な機械が最近あるそうだけれども 作れるものかと聞かれました。
それで僕は事もなげに「うん作れるよ」といったところ 
「そんなら作って頂戴よ」といって4万円置いて帰られました。
その当時はまだテープレコーダー
というのは、一般家庭にはあまり知られていない時で、学校か 公民館位にしか有りませんでした。 
それでこれまでテープレコーダーなど自分で作る等と言うことは、まったく頭に無かったけれど、
色々な本や雑誌で自作可能である事は知っていました、
そこで翌日早速テープレコーダーの部品一式を発注しました。
部品が来るまでに一週間程掛かりました、
その一週間の間にテープレコーダーに関する 勉強をしました、
そして部品が届いて早速 組み立てに掛かりました。
記号式回路図と部品の実体図を見ながら組み立ててみると、ラジオの組み立てと殆ど変わり無く、
別にたいしたトラブルもなく出来上がりました
最初に出来上がった一台は自分の家に置くことにして、
すぐにもう一台部品を取り寄せて組み立てました、そしてすぐに勝山の伯母の所へ送りました。
テープレコーダーなどまだ物珍しい時代だったっので、近所の人たちが良く見に来ました。そして僕のことを何処からどのように耳に入ったのか、毎日新聞の人がたずねて来 ました、「その時すでに家の前にテレビ・ラジオ組み立て修理の小さな立て看板を出し てあった」のでそれを見付けたのかも知れませんが、父と僕に色々と話を聞いて帰りま した、そして二・三日して 昭和33年12月3日付けの毎日新聞の記事として載りま した。僕の家から四,五件隣に住んでいた、大聖寺高校の福田先生という理科の先生が テープレコーダーを見にこられました、その時に話のついでにこういう話をなさいまし た。「実は大聖寺高校の卒業生で、一人アメリカへ働きに行っている人から、テレビを 一台送って頂たたところ暫らく見ていたら故障してしまい、そのまま棚のうえに置いて 有ったのですが、勿体ないので直るものなら修理してほしい」とのことでした。
そして早速翌日持ってこられました、それは当時としては、珍しい10インチのポータブル型でとても斬新なデザインでした。
早速スイッチを入れてみると横線一本が出るだけでした分解してテスターで調べてみたところ、
垂直出力トランスが断線であることがすぐに分かりましたが、当然の事ながら使っている部品が全部アメリカ製なので、
電気的規格も寸法的にもなかなか、日本製の部品と合う物が見付らず、
色々と数社の垂直出 力トランスを取り寄せて、どうにか合いそうなものを見付けて取り付けのネジ穴をあけ直して修理することが出来ました、大変喜んで持って行かれました。
福田先生は学校で校内放送の、技術担当をして居られたので、それから後も度々放送に使う、拡声器やテープレコーダー等が故障すると持ってこられるようになりました。
急ぐときなどはどうかすると父と先生と三人で晩おそくまで修理することもありました 
「ああ これで助かった、あすの運動会に間に合わせることが出来た」
と云って喜んで 持って行かれることもありました。
当時はまだ一般の人たちは、自分の声や歌を自分で聞くなどということが、殆ど出来なかった状態だったので
僕の家にあるテープレコーダーを珍しそうにして、マイクに向って喋るやら、歌うやらして自分の歌を初めて聞いたといって感激して、
帰って行く人もありました。
そんな人達の中で近くに住んでいる、北川君というギターの好きな高校生が居ました。 
そして自分のギターを録音してそれを、聞きながら又ギターを弾いて、先生以上に勉強になるなあーと、云って喜んでいました。

言葉の寄木細工
http://blogs.yahoo.co.jp/takahash_yuuzan19/folder/940678.html
 

1971年4月30日金曜日

秋葉原,1951


1971年3月13日土曜日

[機器] IBM 708

1960年代、パンチカード時代のオフィスコンピュータ。













1971年2月2日火曜日

[機器][ゲーム] ATARI,コンピュータースペース〜アーケードゲーム誕生

 






ATARI,コンピュータースペース
2018年07月22日11:01
世界初のアーケードビデオゲーム
世界初のアーケードビデオゲーム「コンピュータースペース」の紹介です。
コンピュータースペース(Computer Space)は1971年にNolan Bushnell(ノーラン・ブッシュネル)とTed Dabney(テッド・ダビニー)によって創られました。
1962年に誕生したビデオゲーム「スペースウォー(Spacewar!)」をモチーフにしたシューティングゲームです。
プレイヤーは宇宙船を操ってUFOや敵宇宙船の砲火を避け,ミサイルを発射し,戦闘を行います。
目標は一定時間内に敵の宇宙船より多くのヒット数を獲得することです。
これにより,次のラウンドが無料でプレイできるようになります。
このゲームは,ブッシュネルが未来的にデザインした赤・青・黄・緑の4色のガラスファイバー(FRP)製のキャビネットに収納されています。
このゲームは1970年から71年にかけて2人が設計,開発したもので,「
」を硬貨投入式で運営するものです。
「スペースウォー」のコンピューターはコストや大きさの面でそのままアーケード化することはできなかったので,この2人は当時発売されていた「Data General Nova」などの16ビットのミニコンピューターで「スペースウォー」を実行する方法を探していましたが,見つけられませんでした。
その後,ゲームを実行するメインコンピューターに専用のカスタム設計のハードウェアを使用するという考えに至りました。
アイデアを構築して,Syzygy Engineering社(シジギエンジニアリング社)を設立し,Nutting Associates社(ナッチング アソシエーツ社)に「コンピュータースペース」の製造を委託しました。
このとき「コンピュータースペース」と同様に「スペースウォー」をモチーフにしたアーケードビデオゲームである「ギャラクシーゲーム」が他者から発表される3ヶ月前(1971年8月)でした。
展示会やロケーションテスト(実際に店舗等にゲーム機を設置して行うテスト)の際,販売代理店の熱狂的な反応が少なかったが,ナッチング アソシエーツ社はヒットを予期し,2000台の販売予測をたてて,1500台の初期生産を命じました。
このゲームは1976年中頃までに1,000台以上を販売し,最終的には1,300ー1,500台を販売しました。
初期生産分しか売れず,期待していた大ヒットとはなりませんでした。
売れなかった原因は取扱説明書を見なければプレイが難しかったことと,(ロケーションテストで大学の近くのバーに設置し,学生は難易度が多少高くてもゲームをプレイし,人気が出た。しかし,当時の一般的なアーケードゲーム機の市場は複雑なゲームの解読に関心が薄い労働者階級のバーであった。また,テストプレイしたブッシュネルの友人は全員エンジニアだった。これがゲームの難易度の調整に失敗した原因となる。)その時すでにナッチング アソシエーツ社の経営が傾いており,十分なマーケティング,広告宣伝ができなかった。
また,モニター映像がぼやけており,キャラクタを画面に沢山出していたので,処理速度が遅かった。
1972年にコンピュータースペースのクローン(模倣)ゲーム「スタートレック(Star Trek)」がうまれ,1973年にナッチング アソシエーツ社は独自に「コンピュータースペース」の2人対戦版を発売した。
ブッシュネルはAtari(アタリ)社を設立し,シジギエンジニアリング社はアタリ社に組み込まれ,1972年,世界で初めて商業的にヒットしたアーケードビデオゲーム「PONG(ポン)」を生み出しました。
・「スペースウォー(Spacewar!)」(1962)
Spacewar!-PDP-1-20070512
・「コンピュータースペース(Computer Space)」(1971)
「コンピュータースペース 2人対戦版(Computer Space 2 Player)」(1973)
・「スタートレック(Star Trek)」(1972)
コンピュータースペースのクローン(模倣)ゲーム
・「Galaxy Game(ギャラクシーゲーム)」
世界で二番目に誕生したアーケードビデオゲーム
Galaxy_Game_1971_first_arcade_game
・参考
http://www.atarimuseum.com/videogames/arcade/arcade70/computerspace.html
atarimuseumより(2018/7/22)
https://en.wikipedia.org/wiki/Spacewar!
ウィキペディアより(2018/7/22)
https://en.wikipedia.org/wiki/Computer_Space
ウィキペディアより(2018/7/22)
https://ja.wikipedia.org/?curid=628392
ウィキペディアより(2018/7/22)
https://en.wikipedia.org/wiki/Galaxy_Game
ウィキペディアより(2018/7/22)
https://en.wikipedia.org/wiki/Ted_Dabney
ウィキペディアより(2018/7/22)
https://ja.wikipedia.org/?curid=564369
ウィキペディアより(2018/7/22)

いろいろゲームズ情報局 


















[東京秋葉原] SEGA秋葉原3号館Retro-G
#ゲームセンター
SEGA秋葉原3号館6Fはレトロゲームフロア。
■21.8
21.8初訪問。全フロアのレトロゲームは圧巻。歴史的な1971年のアーケードゲーム1号機コンピューター・スペースがあって驚く。22時頃の入店だったためか,客はまばらだった。缶酎ハイ飲み飲み,時間かけて攻めたい。夏の終わり。明日は酎ハイ片手に長期戦になりそう。終の住処になるかも?
#レゲー#レトロ
#レトロゲーム

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MITスペースウォー
スタートレック(Star Trek)



電子ゲーム黎明期
在鳩飛鳥
最近,ゲーム専門誌の発売予定リストを見たことがあるだろうか? なんとこの1991年2月だけで150を超えるタイトルが並んでいるのだ。これに業務用やPCも加えれば,恐らく200では利かないだろう。さらに,ドリキャス,カラーGBをはじめとする新ハードの発売,PS2の噂……と,いま日本は未曾有のゲームバブルにあるのだ。これだけ隆盛を極めているかに見えるゲームは,一体どこから来て,どこへ行こうとしているのだろう。
■遊技場からアミューズメントへ
ゲーム史を語る際,真っ先に出てくるのは1962年にMITで作られた「SPACE WAR」と1972年に作られたアタリの「PON (テレビテニス)」であり,それに続くものとしての「ブロック崩し」と「スペース・インベーダー」が挙げられる。
確かに,これらなくしてゲームを語ることはできないが,この他にも現在のゲームの在り様に大きく貢献したものがある。それがエレメカだ。1970年代以前に少年期を過ごした人にとってのゲーム原体験は,決してビデオゲームではない。それは遊園地やボーリング場,デパートやスーパーの屋上,果ては駄菓子屋の脇など様々な隙間に存在した「ゲームコーナー」に並んでいた名も知れぬゲームである。
こうした場所に置かれていたのは,ピンボールやパチンコ等のボール系,メダルゲーム、ラムネ等を商品としたプライズ系,そして『モグラタタキ』等の エレメカ系であった。一見すると、大半は過去のものとなってしまったかのように見えるが,本当のところはどうなのだろうか?
メダルゲームは,より派手な演出が施されたプッシャー(可動式台に押し出されたメダルを下の受け皿に落とす物)やギャンブルとして生き続け,ピンボールは2~3階層,電光表示が当たり前となったが,基本的には変化していない。プライズ系はそのまま「UFOキャッチャー」になった。ゲームではないが,観光名所にあった記念メダル作成機と3分間写真が合体して「プリクラ」へと進化したことも言うまでもないだろう。
薄暗いゲームコーナーにひっそりと置かれていたゲームは,インベーダーブームによって生まれたゲームセンターへ,そして最新のアミューズメント施設へと進化していった。。
ー雑誌スタジオボイス/1999.2

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1971年1月30日土曜日

[機器][OC] IBM 360(システム/360)〜第3世代コンピュータ誕生


















[機器][OC] IBM 360(システム/360)〜第3世代コンピュータ誕生
1964
バーケンシュトックによれば,1960年(昭和35年)当時,IBM(International Business Machine)の支配力を(完全に100とした場合に)90とするなら,国産コンピュータ・メーカー全てを合わせた総合力でも20程度のものだったろうという。個人的な印象とはいえIBMと国産メーカーでは,それほど力の差を感じさせていたのである。
モスキートの国・日本の市場を,国産コンピュータ・メーカーに少々分け与えても,IBMにすればそれほど痛手を感じない寛容でいられる時代だったのである。むしろIBMにとって,シェアを国産メーカーに分け与えたことで頭痛の種の独禁法対策になったかも知れない。いずれにしろモスキートとガリバーの共存共栄はIBMが世界市場を押さえているという余裕のなせるワザだったに違いない。.....
■IBMシステム/360
昭和29年(1964)年4月7 日,IBMは画期的な新型コンピュータ「システム360」の記者発表を米国の62の主要都市と海外の14ヵ国で同時に行った。わが国では日本IBMが,札幌,仙台,東京,名古屋,富山,大阪,広島,福岡の8会場で,ユーザーなど941社27885名を招待して「システム/360」の一大キャンペーンを展開した。日本IBMにとってもIBM製品の世界同時発表という一大イベントに参加したのは初めての経験であった。
発表当時,システム/360は30型,40型,50型,60型,62型,70型と名付けられた6つの主力機種から成り立っていた。小型機から大型機まで揃えたフルラインのシステム/360は「ファミリー・システム」とも呼ばれ,さらに超小型と超大型という両端に位置する機種も追って発表されることになっていた。
従来,どのようなコンピュータ・メーカーでも,何から何まで新設計のコンピュータを一度に6モデルも発表した例はなかった。それゆえシステム/360を売り出すというIBMの発表を米国の新聞各紙がトップで扱ったのも当然であった。
ワトソン・ジュニアは,記者発表の席で,システム/360という新型コンピュータの登場の持つ意味を「過去からの完全な離別」と指摘した。一言で言えばシステム/360は従来のコンピュータを全て陳腐化させてしまう次世代の計算機ということになる。......
発表されたシステム/360の仕様で,ワトソン・ジュニアが言うところの「過去からの完全な離別」を決定づける最大の特徴は,次の2点に絞ることができる。
第一に,システム/360が,演算部分をはじめ大量に「集積回路」 (IC)を採用したコンピュータだったことである。コンピュータは使用する素子によって世代を分けることができる。例えば
真空管式のコンピュータは「第一世代」,
トランジスタ式は「第二世代」
と呼ばれていた。集積回路を採用したコンピュータはそれまでと区別して「第三世代」に属する計算機と考えられていた。
IBMのシステム/360は、世界最初の第三世代のコンピュータなのである。....
さらに,システム/360ではプログラムの互換性をもっと完全かつ簡単にするために,オペレーティング・システム(OS,基本ソフト)という考えを採り入れていた。基本ソフトは鉄道に誓えるなら台車のような存在である。
相互に乗り入れさせるといっても,列車がいつも同じ種類とは限らない。あるときは寝台車であり,あるときは貨物列車であり,はたまた特別仕立ての豪華客車の場合もあるだろう。相乗り入れさせたい列車を,その都度必要に応じて作っていたら膨大なコストと時間を覚悟しなければならない。そこで軌道幅(アーキテクチャー)に合わせた台車を1台作り,必要な時にその上に寝台部分や貨物部分を乗せるようにすれば簡単に多くの種類の車を相互り入れさせることができるようになる。
しかもこの台車は貨物操車場のコントロールに似た機能を持っている。貨物列車は引込線から入ってきて一台ずつ切り離され,行き先ごとに分けられ,そして再び編成されていくが,そのような一連の作業が間違いなく行われるように,台車が誘導(コントロール)するのである。
■米国内の評価
まず1964(昭和39)年4月7日の記者発表までにIBMがシステム/360の研究開発に投じた資金は5億ドル以上にものぼっていた。さらにIBMは1967年末までの約3年間に米国の内外に5つの新工場を開設する計画を立てており,そのための設備資金およびシステム/360の生產資金として総額45億ドルを予定していた。
システム/360の開発計画に対して、IBMは合計50億ドル(1兆8 千億円,1ドル=360円で換算)以上の投資を覚悟したのである。その投資規模の大きさは民間企業界の事業としては歴史に例をみないほどだった。ちなみに第二次世界大戦中に原子爆弾を開発した「マンハッタン計画」でさえ,政府の出費は20億ドル程度であった。
また1966年までには,事業の拡大にともない6万人以上もの従業員の新規採用を予定していた。それによって全従業員数は19万人に達し,新規採用が全体に占める割合は1/3に及んだ。このような積極的な努力はIBMという会社の性格を基本的に変えてしまうものとなり得た。.....
IBMが放ったカウンター・パンチ,システム/360の発表に始して,米国のライバル・メーカーの反応は当初は一様に冷ややかなものだった。
「完全な互換性を持ったシリーズ・コンピュータの生産や納入なんて,いくらIBMでもできるわけがないじゃないか。IBMの決定はまったく馬鹿げたものだ」
いずれ第三世代のコンピュータは誕生するであろうが,当時の被覆水準からいってIBMのいう新型コンピュータの生産は不可能だというのが,ライバル・メーカーの判断であった。その証拠として彼らが指摘したのはIBMの集積回路の技術である。
IBMがシステム/360に採用した集積回路は,正式には混成(ハイブリッド)集積回路といわれるもので,のちに主流となる単結晶集積回路ではない。現在一般に集積回路と呼んでいるものは後者である。薄いシリコンの板の上に全ての素子(トランジスタやダイオード)を取り付けてしまうものだが,IBMでは,トランジスタとダイオードを別々に作り,それをハンダ付けでまとめている。これは純粋に技術的な問題で,当時の技術レベルでは単結晶集積回路の量産は難しく安定供給できないという問題を抱えていた。IBMはハイブリッドにすることでそのリスクをクリアーしようとしたのである。しかしいずれハイブリッドが単結晶にとって代わられるのは衆目の一致するところであった。それゆえ当面ハイブリッドでいくか,あるいは単結晶が開発されるまで待つか,それは経営的判断であった。....
■日本の反応
.....のちに池田は,IBM360の発表を聞いた時の感想を次のように語っている。
「IBMが360を発表したとき,IBMはよくぞ決意したなという形で受け止めましたけど,それは,やっぱり必然的に出てきたものだとしてそんなに大きなインパクトはなかったといっていいんですよ。ところでIBMの機種の系列というものを分析しておきますと,日本の歴史にも側面的な意味を持っていますよ。(中略)富士通の中でぼくが分析したのは,IBMのどういうグループがどういう計算機をやって,だからこの次にはこのグルーはこういうことを考えてくるに違いない。(中略)そうやっててちょっと衝撃を受けたのは,これIBM360のこと――筆者注)だけなんですよ。あとはみんなほとんど推定がつきましたからね」
―池田さんの言葉 計算機の歴史を語る(富士通池田記念論文より)
「そんなに大きなインパクトはなかった」という池田の発言を額面通りに受け取ることはできない。というのも彼の発言が昭和46年10月8日に開かれた情報処理工会歴史研究会例会でのものであることを考慮するなら,約7年という年月を無視するわけにはいかないからだ。
ー覇者の誤算,講談社文庫,立石泰則

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1971
1971年(昭和46年)12月,IBMは日本市場で画期的な成功を収めつつあった。 朝日新聞社と日本経済新聞社が進めてきたコンピュータによる新開自動編集システムが完成の第一歩を踏み出していたのである。
それまでの鉛の活版ではなくコンピュータで新聞を作るという前代未聞の目標に向けて,両社はIBMの協力の下そのシステムの開発に努めていた。そのシステムに使用されたコンピュータはIBM360だった。日本経済新聞社では「ANNECS」(アネックス),朝日新聞社では「NELSON」 (ネルソン)と呼ばれたそのシステムが動き始めたのである。
ともに実験段階や一部稼働にすぎなかったが,日本の二大新聞社がIBM360を導入したという事実は,IBMがコンビュータリゼーションやコンピュータ・テクノロジーの最前線に立つトップ・メーカーであると証明したようなものであった。
IBMは,このシステムの開発を契機に日本市場に新しいユーザーを掘り起こしつつあった。
ー覇者の誤算,講談社文庫,立石泰則

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1985    
コンピュータ・スランプが始まった1985年,IBMは売上高を伸ばしたものの利益は減益となった。その最大の原因は,米国内での大型汎用機部門の不振だった。大型汎用機の売高高は,海外も含めた全体では1984年の119億ドルから1985年の121億ドルと微増したものの,米国内では64億ドルから58億ドルに減少していた。
米国の売上高はIBMのそれの25パーセントを占めるに過ぎないが,利益では全体の50パーセントを稼ぎ出していた。IBMにとって大物汎用機部門は,まさにドル箱なのだ。
高柳は,ダウンサイジングがコンピュータの歴史を根本的に変えようとしているとも指摘する。
「それまでのメーカーは,ユーザーのニーズに対して全て大型汎用機で対応させてきた。例えば,大型汎用機はクルマでいえばベンツだと思いますが,メーカーはユーザーに対して,近所の八百屋に行くにも会社に行くにも,また休日のドライブやキャンプにも,とにかくべンツを使わせたわけです。ユーザーにしても,それしかないとメーカーに言われるからベンツで出かけていた。ところが八百屋は自転車でいいじゃないか?会社は乗用車でいいじゃないか?キャンプには四輪駆動があるじゃないか?ということになってきた。鈴鹿はベンツでなくF1を走らせる方がいいと分かってきた。その結果,自転車が売れベンツは売れなくなった。
IBMの最初のドル箱はシステム/360ですが,その名前の通り360度全てに対応で言るという汎用性が売り物でした。でも問屋の在庫管理から銀行のオンラインシステム,ディーリングシステムなど全てをひとつのシステムでカバーする必要なんて本当はない。そんな全てのアプリケーション・ソフトが必要な企業なんて一社もない。
だから,余分な部分は要らないというユーザーが増えてきたわけです。30度しか要らないユーザーはこの機種,40度ならあの機種という具合にユーザーが必要な小型機種を選び出した。それがダウンサイジングなのです。少なくともタンデムの理解はきわめて過激な言い方ですが,ダウンサイジングとは大型汎用機の生態解剖である,と。大型汎用機の終焉。コンピュータの歴史が根本から変わろうとしている」
ー覇者の誤算,講談社文庫,立石泰則

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