[健康][メンタル] メンタルメモ/2025.3〜スマホ脳,鬱病
小西公太: 「電気まみれ」の生活で僕が失ったもの〜メンタルメモ
インドの沙漠で痛感した日本人のヤバい「劣化」、電気まみれの生活で日本人が本当に失ってしまったもの
2024/12/31(火) 7:32
多様性の時代、文化人類学の必要性がだんだんに認知されるようになってきました。本稿では一人の人類学者が「自分壊し」の旅に出た顛末をつづった『ヘタレ人類学者、沙漠をゆく』より、沙漠での狩で感じた「電気に支配された日本人」が失ったものについて解説します(一部抜粋・再構成しています)。
■驚くほど目がいいインド人
彼らの生活を観察していくなかで驚かされたことはたくさんある。その1つに、沙漠で暮らす人々の身体能力の高さがある。まず、彼らはとにかく、目がいい。
沙漠では、ラクダが生活必需品だ。何かを運ぶにも、どこかへ移動するにも、観光客を乗せて歩くのにも、ラクダがいなければどうにもならない。また、立派なラクダを所持していることとか、毛並みや装飾が見事であることとか、何頭持っているかなどが、社会的なステータスをあげたり、家族やコミュニティの誇りとなったりする。しかし、沙漠の民たちはラクダを、僕らが飼う犬のように鎖で繫いだり、犬小屋に閉じ込めたりしない。両足にゆるい足輪(手錠ならず、足錠とでもいうのか)をはめて、放し飼いにするのだ。この足輪は歩くスピードこそ弱めるが、その緩さゆえに、ラクダの移動を可能にする。夕方になって集められたラクダたちは、足輪をされて放置される。その後彼らは、左右の前足を(足輪の小さな緩みを利用して)前後にこまめに動かしながら、トテットテッと好きな方向に歩き始める。どこに向かうのかは、風まかせ。夜も暗くなってくると、もはや自分たちのラクダがどこに移動してしまっているかは、わからない、はずだった。
ある時パーブーが密造酒のグラスを傾けながら、深夜に尋ねてきた。
「コーダイ、いまラクダがどこにいるかわかるかい?」
その日は新月。沙漠は真っ暗闇に沈んでいて、星の光は瞬いているが、地面は静かな風の音がたゆたうばかり。光を発するものなど、ほぼ何もない。
「こんなに真っ暗じゃ、わかるわけがないだろう?」
と告げると、その場で火を囲んでいた5~6名の男たちが、一斉に笑い出した。
「わからないだって?ハハッ!!さすがにジャパーニー(日本人)だ。どこに行ったって電気まみれで、夜なんて経験したことがないんだろうよ!」
■日本は「電気に支配された国」と思われている
彼らは、「メイド・イン・ジャパン」という言葉だけは知っていて、日本といえば全部がテクノロジーに侵され、電気に支配された国だと思っている(そして、それはあながち間違っていなかったりする)。
「そうか、こんなに暗い闇の中でも、君らにはラクダの場所がわかるっていうんだな。だったら、僕がこれから指示するので、一斉にラクダのいる場所を指差してみろよ。そうしたら信じてやるよ」
と僕は偉そうな口を叩き、カウントダウンをはじめた。
エーク、ドー、ティーン!(1、2、3!)
すると彼らは、前述の「ヌーンキー・ツリー(チンコの木)」がある方角に近い、バス道に向かう方向の少し右に逸れたあたりを一斉に指差し、ほらみろ! と、これでもかというほど見事なドヤ顔を決めた後、大笑いを始めた。僕はというと、指を差されたとて、それが正解なのかどうかわからない。あまりに悔しいので、バッグから双眼鏡を取り出し、注意深く地平線を眺めた。地面と大地が混ざり合う、その微妙な境界線にはうっすらと光の差異が見られ、双眼鏡ならラクダを見つけられるだろうと思ったからである。しかし、それでも僕は、ラクダの姿を捉えることができなかった。その日以来、僕は「ラーティンドー(夜に目が見えなくなるヤツ)」というあだ名がついた。
失敗ばかり繰り返す僕は、夜どころか日中ですらちゃんとモノ(の道理)が見えていないヤツ、といった意味合いだろう。いや、まさしくその通りだ。ちなみに彼らは、翌朝になってから、まさにその指差した方向に向かい、ラクダの足輪を外して、あっさりと連れ戻してしまった。彼らの目には、赤外線レーダーでもついているのだろうか。彼らの目の良さは、狩りでも絶大なる力を発揮した。そう、言うのを忘れていたが、彼らは本来「狩猟採集民」として(そして有事には王族の歩兵隊として)生計を立てていた部族だ。つまり、狩人・猟人だったのだ。
■数百メートル先の茂みの中が見えている?
その血は、生業としての狩猟をとうの昔にやめてしまった子孫たちの中にも、しっかりと息づいていた。違法所持しているライフルを片手に、夜中から未明まで漆黒の闇を走り回るシカや、飛び回るウサギや穴に逃げ込むオオトカゲの捕獲、投石器を使ったムクドリの狩猟など、それは多岐にわたっていた。彼らは暇を見つけては、「おい、今日やるか」と目の中の炎をたぎらせて、仲間内でひっそりと夜の狩猟活動に心を躍らせるのだ。かくいう僕も、随分と付き合わされた。日中の太陽ですっかり疲弊した僕の身体にとって、肌寒い夜の沙漠を太陽が昇るまで歩き、走り続ける猟は、それはそれは過酷なものだった。
「おいコーダイ、そっちに行ったぞ! 回りこめ!」
などと命令されながら、足を取られるひんやりとした砂地の上を走り続ける。体力勝負だ。しかし、ここでも彼らの「目の良さ」が遺憾なく発揮される。数百メートル先の茂みの中に、確実に動物たちの気配を感じ取り、遠距離から動物たちの目にピンポイントでライフル弾を撃ち込む彼らの手腕には、ゾクゾクするほど感激したものだ。そこでは4~5時間ものあいだ、動物の息づかいや臭いと、彼らが駆け抜ける地形との、微細で複雑な対話が続けられる。それでも、ダメな時はダメだ。動物たちの才覚に、完敗することも多い。それは、敵陣のゴールまで戦略的にボールを運ぼうとするサッカーのような集団プレーにとてもよく似ていて、緊張と弛緩の波が目まぐるしく変化する、究極のゲームなのである。
「Game」という英語が、狩猟の意味を帯び、かつギャンブルの語源となっているのも、全くもって納得する。動物の「気」を読み、地形と風の流れを読み、微細な光の変化を読む。それは人間と動物の織りなす、生命の遊戯だ。
■ここでの「ゲーム」に勝つには課金でなく努力がマスト
ボードゲームもトランプもスマホもSwitchもNetflixもない彼らの世界では、彼らを取り巻く環境と、そこに息づく生命たちとのバトルという名の対話が、最高の遊びとなっている。そのゲームに参加し勝利するためには、課金をしてアイテムを揃えたり、敵を倒してレベルアップするのとはケタ違いの努力――自身の身体を鍛え上げ、動物と対話をするためのアンテナとセンスを磨き、全ての感覚器官の感度を高め、危険極まる世界に飛び込んでいくためのゆるぎない自信を構築していく、絶え間ない努力と実践知の蓄積――が必要とされるのだ。僕らは、夜にものを見る能力をずいぶんと失ってしまったが、彼らの本領発揮はまさに夜。目が良くなくては、世界と対話することができないのだ。風を読み、匂いを感じ、微かな物音に反応する、五感をフルに活用した感覚器官の総合的な能力も同様だ。ある意味、「退化」した僕の身体と感覚器官では、もはやこのゲームに参加することはできない。それはとても悲しいことだった。一方で僕は、月明かりの中でライフルを構える彼らの隆々とした上腕二頭筋の凹凸がうっすらと浮かび上がる時、人間の鍛え抜かれた身体の美しさに、惚れ惚れとしてしまうのだ。そして冷え切った沙漠を機敏に走り回り、時に静止してじっとこちらの様子を伺う動物たちの姿に、ほんのりと光るシカやウサギたちの体毛の美しさに、僕の心臓は飛び出さんばかりに魅了されてしまう。ひんやりとした砂や風が舞う、月や星の光がその淡い輪郭を浮かび上がらせる大地の美しさにも、心惹かれていく。ああ、僕はいったいここで、何をしているんだろう? 自分という存在の儚さと小ささだけが際立っていく。しかし、ここで感受することのできる世界の、この溢れんばかりの美しさは、いったいなんなのだろう? 僕は命令されるがままに走り続ける沙漠の中で、生きてるって、こういう感覚なのかな、と漠然と感じていた。それでも僕の身体は、数時間の沙漠の徘徊に、あっという間に悲鳴をあげ、動物たちを射止めるその瞬間に至る以前にしゃがみ込み、彼らの動きを遠くから眺めるか、サボテンの裏で息も絶え絶えに身体を横たえてしまうのだった。なんというヘタレ。たいてい気がつくと、狩りを終えた男たちにゆさぶり起こされ、その日の猟の成果を興奮気味で語る彼らに付き合わされることになるのだ。
■「電気まみれ」の生活で僕が失ったもの
僕は思う。彼らのいう「電気まみれ」の生活や、便利さと快適さを追求した近代的生活の様式によって、僕はすっかり人間に本来備わっているあらゆる能力を低下させてしまった、と。夜を見通す目、砂地を駆け回る筋力、自然や動物たちとの対話の力、根気強く動物たちを追い詰める気力や体力、ゆるぎない自信、そして世界とつながるためのアンテナやセンス。
僕は、失ったそれらの力を埋め合わせるように、他者の評価やテストの点や断片的な知識の量を増大させ、かりそめの尊厳をかろうじて保っているような人間だった。そしてそれらの相対評価の獲得競争は、自然の中で生き抜く感度や能力、つまり動物を獲って食べるという、生命維持のために最も必要とされる実践知にとって、何一つ役に立たないことだった。このことは、「生きる」ということの根源的な問いを、僕に強く投げかけるのだった。
小西公太
Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/a3f750626b8dea158bddbd44e89720521cb789d9&preview=auto

研究結果:5G周波数への曝露はうつ病を引き起こす
2022/12/14 00:00
5G周波数にさらされるとうつ病を引き起こすことが公式研究で判明
5G通信で使用される周波数にさらされると、うつ病などの神経障害を発症するなど、人間の認知機能に問題が生じることが公式調査で明らかになりました。この研究結果は「マウスのおける空間記憶と情動に対する5G通信からの無線周波数フィールドの影響」として、2022年11月22日に国際環境衛生研究ジャーナルに掲載されました。研究者らはまた、これらの有害な周波数にさらされると、扁桃体の形態変化をもたらす炎症性細胞死であるパイロプトーシスを引き起こす可能性があることも明らかにしました。
Expose-news.com が報告:中国の研究者は、900MHzの放射線-1時間/日、SAR:1.15W/kgを28日間ラットに照射した別の研究、Narayanan et al. 2018を発表しました。Narayananらは、扁桃体のニューロンの減少を発見し、これはこの最新の研究と一致していました。
「このような5G曝露によって、マウスでは脳障害が発生しました。肝心なのは、安全性が保証されていないことです。将来の世代に対するリスクがあまりにも大きいため、各国政府は5Gの配備を中止しなければなりません。私たちは、適切な安全性試験を行うことなく、新技術の導入を急ぎ続けるべきではありません」と、環境衛生トラストの社長であるデブラ・デイビス博士(MPH)は述べています。この新しい研究の結果を気にしていない読者のために言うと、研究はすでに何年も前に5G放射線への曝露が人体に有害であると決定していました。実際、2017年以降、医師や科学者は、生物学的および環境的な健康上のリスクのために、地球および宇宙でのモラトリアムを求めており、科学者の大多数は配備に反対しています。
(8) Dr. Hardell The Majority of Scientist Are Opposed to 5G Until Safety is Shown - YouTube
注):上記の動画は、スウェーデン・オレブロ大学病院の腫瘍学・がん疫学教授であるレナート・ハーデル博士が、2019年6月3日にエストニア・タリンで行った講演から抜粋したものです。71分間の講義の全貌はこちらからご覧いただけます。
2020年1月、ハーデル博士はスイス連邦大統領に宛てに、無線周波数電磁界(「RF-EMF」)と5Gによる健康リスクに関する専門家による評価は、利害関係のない専門家が行う必要があるとする書簡を書き送りました。 この手紙は、複数の国際的な専門家によって支持されました。ハーデル博士は、これらの利益相反に関する論文として、国際腫瘍学雑誌にに掲載された「世界保健機関、無線周波放射と健康–a hard nut to crack(レビュー)」、米国産業医学雑誌に掲載された「がん研究における業界との秘密のつながりと利益相反」などいくつかの論文を発表しています。また、2018年以降、5Gを起動した後に人や動物が症状や体調を崩したという報告もあります。 さらに、2019年には通信事業者の幹部が、「5Gが安全であるという独立した科学的証拠はない」と議会で証言を行いました。さらに最近では、一部の研究者は、活性化がCovid-19感染症だけでなく数百万とは言わないまでも数十万の鳥の死にも寄与している可能性があると警告しています。
📝Exposure to 5G Frequencies Causes Depression, Official Study Finds - News Punch
Full article: Effects of radiofrequency field from 5G communications on the spatial memory and emotionality in mice (tandfonline.com)
5G通信からの無線周波電磁界がマウスの空間記憶と感情に与える影響
コロ助などの感染経路に気を付けましょう
📝ファイナル・ロックダウン&「スピニング・デス・レポート」
THE FINAL LOCKDOWN & SPINNING DEATH REPORT -- Hope & Tivon (bitchute.com)
📝パート1:見えない牢獄への鍵
MUST HEAR: THE KEYS TO THE INVISIBLE PRISON -- Hope & Tivon (bitchute.com)
メモ・独り言のblog
http://takahata521.livedoor.blog/archives/16978875.html
「ジョブズは自分の子どもにiPadを使わせなかった」ことが意味する「極めて危険な現実」
橘玲/現代新書
2024.11.14
ふつうに生きていたら転落するーー! あまりに残酷な「無理ゲー社会」を生き延びるための「たった一つの生存戦略」とは?
作家の橘玲氏が、ますます難易度の上がっていく人生を攻略するために「残酷な世界をハックする=裏道を行く方法」をわかりやすく解説します。
※本記事は橘玲『裏道を行け』(講談社現代新書、2021年)から抜粋・編集したものです。
SNSに「ハマる」理由
2021年10月、フェイスブックの元幹部が大量の内部資料をメディアに提供したうえで、米上院小委員会の公聴会で、「インスタグラムを利用するティーンエイジ女子の3人に1人が自分の体形が劣っていると感じている」などの社内調査を、自社の利益を優先するために隠していたと証言した。スウェーデンの精神科医アンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』(新潮新書)は、SNSの危険性を説いて日本でもベストセラーになった。この本でハンセンは、フェイスブックのようなSNSは脳の報酬系をハックするようにつくられていて、その過剰な利用が不眠やうつの原因になり、子どもの健全な成長を阻害すると警鐘を鳴らしている。徹底的に社会的な動物として進化してきたヒトには、食べることとセックスする(愛される)ことと並んで、もうひとつ決定的に重要な欲望の対象がある。それが「評判」だ。よい評判は仲間内での地位を高め、安全の確保や性愛のパートナーの獲得につながる。逆に悪い評判がたつと共同体から排斥され、旧石器時代にはこれは即座に死を意味しただろう。このようにしてヒトは、よい評判を得ると幸福感が増し、悪い評判によって傷つく(殴られたり蹴られたりしたときと同じ脳の部位が活性化する)ようになった。わたしたちはもともと、自分の評判(他者からどう見られているか)にきわめて敏感なように「設計」されている。フェイスブックやツイッター、インスタグラムなどは、評判をリアルタイムで可視化するというイノベーションによって脳の報酬系にきわめて強い刺激を与えている。
■行動依存をもたらす「6つの要素」
心理学者のアダム・オルターは「依存テクノロジー」を論じるにあたって、ハンセンと同じく、スティーブ・ジョブズが自分の子どもにiPadを使わせなかったというエピソードから始めている。ジョブズだけではなく、『WIRED』元編集長のクリス・アンダーソンやツイッターの創業者エヴェン・ウィリアムズなどIT業界の大物たちも、子どもにデジタルデバイスを買い与えなかったり、その使用に厳格な時間規制をしていたという。オルターによれば、行動依存には6つの要素がある。
(1)目標:ちょっと手を伸ばせば届きそうな魅力的な目標があること
(2)フィードバック:抵抗しづらく、また予測できないランダムな頻度で、報われる感覚(正のフィードバック)があること
(3)進歩の実感:段階的に進歩・向上していく感覚があること
(4)難易度のエスカレート:徐々に難易度を増していくタスクがあること
(5)クリフハンガー:解消したいが解消されていない緊張感があること
(6)社会的相互作用:強い社会的な結びつきがあること
これは〈フロー〉の条件と同じで、SNSやオンラインゲームは6つの要素のほとんどすべてを備えている。そのためわたしたちは、スマートフォンから手を放すことができなくなってしまったのだ。さらに連載記事<「トランプ再選」に落胆する「リベラル」がまったく理解していない、世界中で生きづらさを抱える人が急増した「驚きの原因」>では、人生の難易度が格段に上がった「無理ゲー社会」の実態をさらに解説しています。ぜひご覧ください。
*本記事の抜粋元・橘玲『裏道を行け』(講談社現代新書)では、残酷な社会を生き抜いて人生を攻略するための「思考のヒント」をさまざまな観点から解説しています。世界が複雑化し、ますます人生の難易度が上がっていく時代に必読の1冊です。
ゲンダイ
https://gendai.media/articles/-/141162?page=1&imp=0
“スマホ依存症”のやす子が「100時間スマホなし」の社会実験をした結果…SNSでメンタルがダメになるこれだけの理由
2024/3/6(水) 6:00
■やす子が「100時間スマホなし生活」を強いられたら?
今どきの若者らしくスマホが手放せないやす子さん(25)
2月22日に放送されたテレビ番組「社会実験バラエティー『マル日後にわかるホント』」(日本テレビ系)をご覧になって、他人事ではないと感じた方も多いのではないだろうか。
番組の序盤で取り上げたのは「スマホ依存症」の問題。“社会実験”の対象は、お笑い芸人のやす子だ。
1日10時間以上もスマホに接しているという彼女には、依存症気味という自覚がある。ついエゴサーチをしてしまうだけではなく、Xで寄せられた声すべてに「いいね」を押すといったサービス精神を発揮していることも、長時間使用の原因となっているようだ。そんな彼女に、番組側は「100時間スマホなし生活」を課す。その結果、普段は気にもとめなかった風景に目を留めたり、食事にも気を使うようになったり、と良いこともあるのだが、一方で「スマホに触りたい!」と叫ぶという明らかな禁断症状も…。禁断症状のあたりは、芸人ならではのリアクションという感じもするものの、全体として情緒が不安定になっていく様を番組はリアルに紹介していく。
その結果、「スマホなし生活」体験を経て、やす子はスマホとの適切な距離を取ることの重要さを知る――というわかりやすい展開が途中まで見られるのだが、興味深いのは番組が追加取材した直近の彼女の状況だろう。実は「スマホを使い過ぎていた」という反省はあっという間にどこかに消えて、すぐにもとに戻っていたことが判明した、というのがオチになっていた。
彼女のチャレンジは、現代人にとっていかにスマホが生活の中心を占めているかを面白く示した“社会実験”になっていたといえるだろう。スマホからたった数日離れただけで「触りたい!」と叫ぶ姿はいかにも芸人らしく笑いを誘うものになっていたわけだが、一方で、自分だったらどうだろうかと考えた時に、ああはならないと自信を持って言える人は、どのくらいいるのだろう。やす子の場合は、不特定多数の人とつながること自体が仕事と直結している。対して、多くの一般人は、そこまでつながる必要はないのに、ついついつながり、それによって余計なストレスを抱えてしまっているのではないだろうか。そしてそれに気づいているのに、抜け出せないでいる、つまりは依存症に陥っているのではないか。
■スマホが招くメンタル危機
番組にも登場し、「100時間スマホなし生活」のためのアドバイスを送ったのが、『スマホ脳』の著者で知られるアンデシュ・ハンセン氏だ。スマホ依存の危険を説いた同書は世界的ベストセラーとなった。
そのハンセン氏の新著『メンタル脳』(マッツ・ヴェンブラードとの共著、久山葉子訳)には、近年、特に若い世代のメンタルがスマホやSNSによってダメージを受けていると警鐘を鳴らしている。ハンセン氏の母国、スウェーデンでは、「ここ20年、不眠で受診する10代の若者が10倍に増えています」という。その大きな理由の一つが、スマホやSNSというわけだ。ハンセン氏の説は概ね以下の通りである。
――もともと人の脳は「他人と連帯すること」、つまり、つながりを得ることに幸せを感じるようにできていた。集団生活に歓びを感じないと、外敵に立ち向かえないし、生活を維持できないからだ。孤独でいるよりも、誰かとつながっていることに快感をおぼえるようになっていることになる。
そうした脳の基本的な性質は変わっていない。しかし、一方で、技術の進歩により、必要以上に他人とつながるようになってしまった。これが深刻なメンタル危機の理由となっている――。
ハンセン氏が説く「SNSがメンタルを下げるメカニズム」を詳しく見てみよう(引用は『メンタル脳』より)。
負け犬感を増すSNS
今ほど自分がダメに思える理由が多い時代はいまだかつてありません。SNSでは常に、見た目には完璧な人生を見せつけられます。友人の修整済みの写真投稿(誰だって1番素敵な自分を見せたいですし、満足した写真しかのせません。それは皆同じです)、さらには何千人というインフルエンサーのキラキラした人生が連続投下されてきて、それと自分を比べてしまいます。後ろに見えている景色からインテリア、化粧、照明まですべてプロの手を借りていると頭ではわかりつつも、です。写真はもちろん編集されていて、ちょっとした難点くらいいくらでも隠せます。その結果、とてもではありませんが自分には手の届かないようなレベルになっています。
自分にとっての自分(脳が見せる自分のイメージ。お世辞にもイケてるとは言えません)と他の人(彼らが見せたい素敵なイメージ)を比べたら、いつだって自分が負け犬、もう本当に完敗です。そして私たちの多くが、起きているほとんどの時間スマホを手にしているため、常に自分よりもかっこよく、賢く、リッチな人気者がいることを思い知らされることになります。その影響で、私たちはヒエラルキーの下へ下へと落ちていき、グループから追い出されるリスクが高まったように感じるのです。それを脳は何よりも恐れているはずなのに。とはいえ「人間はこれまでもずっと自分を他人と比較してきたのでは?」と思うかもしれません。それはそうなのですが、昔はグループも小さくてぱっと見渡せるくらいのサイズでした。ところが現代の私たちは世界中の人と競っているのです。
■なぜスマホはメンタルを下げる?
SNSを見ている時間やインフルエンサーの存在がどれだけ影響を与えているのか、正確に証明することはできませんが、グループのヒエラルキー内で自分の地位が下がり続けていると感じると、心の健康を害するのは実に当然のことです。様々な調査で、1日に4~5時間SNSをやっている若者は「自分に不満を持っている」「不安や気分の落ち込みを感じている」ことが示されています。とりわけ10代の女子にそれが顕著なのは、女子の方がスマホを見ている時間の多くをSNSに費やしているからかもしれません。平均的に言うと、同世代の男子はもっとゲームをしています。調査対象になった15歳女子の62%が心配、腹痛、不眠といった長期的なストレスの症状を訴えていて、80年代に比べてその数は倍になっています。私たちは必死でグループに属していようとした人たちの子孫です。1日に何時間も他人の完璧な生活と自分を比べてしまうことで、脳は「自分はヒエラルキーの1番下にいる。グループから追い出されるかも!」と勘ちがいしてしまうのです。それならば、自分にそんなメッセージを送る時間を制限する、つまりSNSを見る時間を減らすのが良いでしょう。不安には深呼吸が効くというアドバイスをしましたが、ここでは「SNSに費やす時間を1日1時間に留める」というのがアドバイスです。そうすれば心が元気になる可能性も上がります。
■セロトニン・レベルの影響
脳の中でつくられる「セロトニン」は驚くべき物質で、メンタルの様々な仕組みに影響するため、その役割も複雑です。しかし最も重要な仕事は、私たちが「どのくらい引きこもりたいのか」を調整することでしょう。セロトニンのレベルが低いとその人は自信を無くし、後ずさり、自分の殻に閉じこもってしまいます。これはうつによくある行動なので、一般的な抗うつ剤にはセロトニンのレベルを上げる効果があります。セロトニンの役割を理解するために、わかりやすい例を2つ挙げてみましょう。
1) セロトニンのレベルを上げる薬の混ざった水に小さな魚を入れると、魚たちは自信満々になります。慎重ではなくなるので、大きな魚に食べられてしまう危険が上がります。逆にセロトニンのレベルを下げる薬の入った水に入れると魚は隠れてしまい、飢え死にする危険があるほど慎重になります。つまりセロトニンのレベルがちょうど良くないと自然界では命に関わるのです。
2) カニはよくケンカをしますが、たいていは優勢な方のカニが相手を引き下がらせます。しかし劣勢なカニにセロトニンのレベルを上げる薬を与えると、そのカニは自分がヒエラルキーの上にいると思い込み、引き下がろうとしません。サルや人間といった大型生物のセロトニンもほぼ同じように機能します。ヒエラルキーの上位にいる個体は、人間でも脳のセロトニンのレベルが高いようです。それが社会的な自信につながっているのでしょう。
さてここで、「グループの中の居場所を失うのが怖い」という話に戻ってみましょう。もうわかると思いますが、その恐怖はセロトニンのレベルが下がったことからきています。セロトニンのレベルを上げる薬を飲むと、多くの人のメンタルが回復するのもよくわかります。なぜこんな寄り道をしてまで魚やカニの話をしたかというと、「自分が思っているヒエラルキーの位置」と「その人の精神状態」は大いに関係があることを示すためです。先ほどの「SNSの時間を限定する」というアドバイスを思い出し、自分のメンタル改善に役立てましょう。
アンデシュ・ハンセン(Anders Hansen)
1974 年スウェーデン・ストックホルム生まれ。精神科医。ストックホルム商科大学でMBA(経営学修士)を取得後、ノーベル賞選定で知られる名門カロリンスカ医科大学に入学。現在は王家が名誉院長を務めるストックホルムのソフィアヘメット病院に勤務しながら執筆活動を行い、その傍ら有名テレビ番組でナビゲーターを務めるなど精力的にメディア活動を続ける。『一流の頭脳』は人口 1000 万人のスウェーデンで 60 万部が売れ、『スマホ脳』はその後世界的ベストセラーに。『最強脳』『ストレス脳』なども合わせた日本での同氏の著作は累計 110 万部を突破している。
マッツ・ヴェンブラード(Mats Wanblad)
1964年スウェーデン・ストックホルム生まれ。児童文学作家。
協力:新潮社 Book Bang編集部
Book Bang編集部
Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/e74e648504bba87768d893623f9889c0045b4b90&preview=auto
◎>
cosmos@cosmos115
21.4.25
スマホよりも、野原で駆け回ってみんなで遊ぶのが一番頭を使う。10歳までどれだけ遊んだか、が頭の柔らかさを決定
https://t.co/edbOcFMKzQ
https://t.co/rhKxDMQ8yQ
◎>
cosmos@cosmos115
21.4.25
外で遊ぶことが健康になる?
~太陽の紫外線は腸内細菌環境に極めて良い状態を与えることが判明
https://t.co/M6tBmzBFct
https://t.co/SqXqUx2aNG
◎>
cosmos@cosmos115
21.4.25
ネアンデルタール人と現生人類の脳の違いがあるのか
https://t.co/tMl5QYwy6o
https://t.co/vzZXjF4C7I
◎>
cosmos@cosmos115
21.4.25
裏にCIA!?~ポケモンGOで何百万人もの人間が諜報・監視の工作員に~
https://t.co/3HO8lf9l8c
https://t.co/uidnwJAYtw
Twitter
https://t.co/
ザウルス: 「スマホ脳」ほか“スマホ問題”の本6冊読んでみた
書評:「スマホ脳」ほか “スマホ問題” の本6冊
21/04/11 08:47
「スマホ脳」という本がベストセラーになっているというので、さっそく取り寄せて読んでみた。著者はスウェーデンの精神科医である。“スマホ依存” が日本のみならず、今や世界中で問題化してきていることを物語っているようだ。
書名に 「スマホ」 が入っている、“スマホ問題” について書かれた本が日本でもすでに多く出版されている。この際、まとめて読んでみようと思い立った。今回の書評で取り上げるのは以下の6冊である。お断りしておくが、全体としては容赦のない、かなり辛口の書評である。(笑)
6冊を順に書評するというのは初めての試みだが、分量の都合で以下のように2冊ずつ記事にすることにした。
当記事
・「スマホ脳」 アンデシュ・ハンセン 新潮新書 2021
・「スマホ依存から脳を守る」 中山秀紀 朝日新書 2020
・「スマホが学力を破壊する」 川島隆太 集英社新書 2018
・「その「もの忘れ」はスマホ認知症だった」 奥村歩 青春新書 2017
・「スマホ廃人」 石川結貴 文春新書 2017
・「スマホ汚染」 古庄弘枝 鳥影社 2015
このリストの番号は出版年の新しい順である。◆「スマホ脳」 アンデシュ・ハンセン 新潮新書 2021
表紙のカバーと帯を使った本の紹介と著者の紹介はごく普通のことだが、以下に紹介する本では、まずそれらをできるだけ尊重して紹介していく。
「スマホ本」 の中では現在一番売れているようだが、この本の人気の秘密は著者自身の理論や洞察によるよりは、スマホに関するさまざまな興味深い最新の研究を紹介してくれていることによるように思う。また、著者の写真が、ネクタイ姿でも、白衣を着たものでもなく、Tシャツ姿でラフなヘアスタイル、しかもなぜか首を傾けた、非常にカジュアルなイメージ(しかも、そこそこイケメン?)なのも、著書の販売戦略上、かなり計算されていると思われる。実際、著者は医学の他に経営学でMBAを取得している。(笑)
“テレビ受け” はしそうだが(笑)、精神科医としての実績・業績は相当あやしい。しかし、ビジネスマンとしてはかなり成功している印象がある。(笑)つまり、金儲けには長けていそうである。(笑)
著者の説の土台となる、脳の報酬系がスマホにハイジャックされているために人々がスマホの奴隷になっているという 「報酬系理論」 は、特に新しいものではなく、以前から依存症研究の定石である。しかし、おそらく依存症についてほとんど知らない一般の読者には 「なるほど!」 と思うような話かもしれない。(笑) 多くのスマホアプリがそうした報酬系理論を応用して計算ずくで利用者の脳を自社アプリに巧妙に依存させている “あこぎな手口” が暴かれている。
また、この本が紹介しているさまざまな調査結果のうち、以下のものは特に印象的である。
「大学生500人の記憶力と集中力を調査すると、スマホを教室の外に置いた学生の方が、サイレントモードにしてポケットにしまった学生よりもよい結果が出た。学生自身はスマホの存在に影響を受けているとは思ってもいないのに、結果が事実を物語っている。ポケットに入っているだけで集中力が阻害されるのだ。」
ただ、本書でしばしば展開される 「進化論的適応説」 は欧米ではかなり昔から流布している理論であり、著者はこれを精神病に応用して本書の土台としているのだが、科学的な根拠は非常に疑わしいと言わざるを得ない。たとえば、“甘いものや脂っこいものをたくさん食べたがる遺伝子を持った人々” は、狩猟採集時代では生存の確率が高かったが、そういった高カロリーな食品が安くていくらでも手に入る現代では逆に生存の確率が低くなる、と説明される。そして、人間の脳は狩猟採集時代と大して変わっていないから、われわれは脳の反応にそのまま従うわけにはいかないのだ、と言われる。つまり、“原始人” と “現代人” とを単純に比べているのだ。たしかに非常にわかりやすいではないか!「うーむ、なるほど・・・」 と読者は思わされる。(笑)
どうやらこの著者はまったく知らないようだが、実は人間の脳は、約1万年前に狩猟採集社会から農耕社会に移行した頃に、劇的に変わっているのだ。とにかく脳の容量がテニスボール1個分減少しているのだ。この変化の重要性については、すでに当ブログの別記事で詳細に論じている。
人類の第2次低脳化現象 (1) 人類は過去に一度 “低脳化” している
さて、別の章では、逆の例が出てくる。“うつ病” は、現代では社会生活上、“不適応” な病理と判断されがちだが、狩猟採集時代にあっては、不必要な行動をできるだけ慎んで引き籠るというのはむしろ生存確率を高めていたと説明される。読者はここで “狩猟採集時代のうつ病患者” を想像する必要に迫られることになる。洞穴の奥でスマホを持ってうずくまっているのだろうか?(笑)
そして、うつ症状が 「危険な世界から身を守るための脳の戦略」 なのだとまで言われて、多くの読者は 「目からウロコの思い」 で先を読み進めることになる。(笑)「そっかー、うつ病にも適者生存の意味があったんだ!」(笑) うつ病のひとにとっては、みずからの “ネガティブで非活動的な生活パターン” をそのまま正当化してくれるような、“天からの福音” ではないか!(笑)
精神科医という肩書を有する著者は、実際に何百人、何千人もの自分のうつ病患者にこうした説明をして彼らを安心させ、喜ばれ、感謝され、そして、熱く支持されてきたに違いない。(笑)
「真実の光! 先生、ありがとう!」(笑)
それならば、同じ論理で、ぜひ “自閉症”、“睡眠障害”、“摂食障害”、“てんかん”、“発達障害” も、実は狩猟採集時代にも存在して、それぞれ「危険な世界から身を守るための脳の戦略」であったという説明もお願いしたいものだ。(笑) 「うつ病」 について言えるのなら、“自閉症” についても言えないわけがないだろう。どうだろうか?(笑) それぞれ生存戦略上の意味やメリットについての “おとぎ話” を紡ぎだせば、救われるように思ってくれる患者はもっともっと増えて、大いに “人助け” になるのではなかろうか?(笑)さらに、“精神病” について “進化論的適応説” が当てはまるのならば、“身体的な病気” については、なおさら当てはまるはずではなかろうか? (笑) そして、“胃潰瘍” “アトピー性皮膚炎”、“肺がん”、“前立腺炎”、“白血病” も、生存上意味のある身体の反応だという理屈も “進化論的適応説” を使えば十分に成立するはずだろう。(笑)この精神科医にすべて任せれば、もはや医者などは要らなくなるかもしれないではないか?(笑) “リウマチ”、“糖尿病”、“花粉症” も石器時代には生存の確率を高めるための人間の身体の戦略だったと言えば、そうした患者は目を輝かせて納得してくれるかもしれないぞ。(笑) うつ病1つに限定することはないだろう!(笑)ケチケチしないで、もっと大奮発したらいい!(笑)精神科医は、悩みを抱えたクライアントに自信と希望を与えるためには、どんな理屈でも方便として使うのだろうか?そうだとしたら、“精神科医” は、“占い師” や “手相見” と大して変わらないことになる。けっきょく、“口先だけの商売” ということだ。こうした浅薄な “話のうまさ” がこの本の随所に感じられる。精神科医の中には、このようにクライアントの心理を自らの弁舌で巧みに操り、いわゆる精神病が治るような錯覚を与えて診察料をせしめている輩(やから)がけっこういるという現実がある。(笑)
この本はスマホに関するさまざまな研究(つまり、他人の研究)を紹介してくれているという意味では、たしかにそれなりに価値はある。しかし、著者自身の最終的な結論としてのアドバイスは、
1)スマホの使用はほどほどに。
2)もっと身体を使った運動を。
という実に凡庸なものである。著者はスウェーデンのテレビなどにも頻繁に出演して人気があるようだが、ある意味では、スウェーデンの知的レベルのほどが知れるとも言える。日本でもテレビによく出る学者にロクなのはいない。読む人が読めば、“ツッコミどころが豊富な本” で、必ず不満の残る本であり、そうでない多くの読者には 「目からウロコの本」 かもしれない。(笑)なお、翻訳の日本語には
「生き延びる可能性が高かった」
「実際には可能性が少ないのに」
「生存の可能性が高まる」
「遺伝子を残せる可能性が高かった」
という “可能性の高低、多寡” を前提にした訳文が随所に見られて、非常に目障りであった。これらのフレーズ中の 「可能性」 は 「確率」 もしくは 「公算」、「蓋然性」 とすべきところである。なぜならば、“可能性” というものは、論理的に言って、あるかないかのどちらかであって、高低や大小はないからである。スウェーデン語の原文では、英語の possibility に相当する語ではないはずである。「可能性が高い、低い」 のおかしさに気づかない人々
◆「スマホ依存から脳を守る」中山秀紀/朝日新書,2020
職業としては同じ 「精神科医」 ではあっても、「スマホ脳」 の著者のアンデシュ・ハンセン氏の写真の作為的なポーズをいろいろ見てくると、ネクタイに白衣の、愚直な “センセイ” のイメージは、却って自然で好感が持てる。(笑)「スマホ脳」 のアンデシュ・ハンセン氏はスウェーデンの精神科医でありながらも、経営学修士を取得するなど、したたかなビジネスマインドもそなえた人物のようだが、こちらの中山秀紀氏は日本における依存症治療のための国立の大病院 “久里浜医療センター” というガチガチの医療機関の精神科医長である。同業者でも実に対照的である。(笑)
まず、著者の中山秀紀氏は “依存症” 治療の専門家である。「スマホ問題」 をあくまでも “スマホ依存” として、アルコール、薬物、ギャンブルといった依存症のうちの “現代における最新のパターン” としてとらえている。実に手堅いアプローチである。(笑)そして、序文に書いているように、「スマホ依存(症)は、スマートフォンの依存(症)の他にインターネットやゲームなどができる機器の依存全般について指します。」 としっかりとした定義から出発している。つまり、“ネット系の機器への依存全般” を中心的テーマとして話を進めているのだ。とはいえ、著者が挙げる事例の多くは、ゲーム依存の極端なケースである。ゲーム依存にはまった青少年の凄惨な実例がいろいろ出てくる。
著者は依存症とはどういうものかの説明から、その危険、治療の困難さについて語る。実際の治療にあたっている現場の人間の言葉だけに、説得力がある。「依存症」 としての 「スマホ問題」 というアプローチとしては、非常に一貫性があり、「依存症」 としての 「スマホ依存」 という問題提起にはたしかに重みはある。しかし、読み終わって思うのは、極端な、病的な “依存症” のケースに「誰もがなり得る」 と言われても、正直言って実感としては “他人事” のように思えてしまうのだ。(笑) やはり、依存症治療専門の久里浜医療センターにまで行く必要があるひとは世の中のごく一部のひとであって、多くのひとが押し寄せるわけではないであろう。たしかに極端なケースというものは、実際の一般的なケースが誇張され、強化されて表れているだけあって、とらえやすく、分かり易いかもしれない。しかし、たとえば重度のアルコール依存症のひとのケースを示され、「普通の人にもこうなる可能性がまったく無いとはいえない」と言われて普通のひとが困惑してしまうようなものだ。(笑)これは、「電磁波過敏症の人は現代のカナリアである」 というのとはわけが違うように思う。電磁波はひとり一人の判断力やモラルに関係なく、物理的環境として世の中の人々を無差別に同様に覆う。しかし、依存物に依存するかどうかは、当人の理性、判断力、モラルに大きく関わるので、一般化しづらい面があるように思える。早い話が、個人の性格、価値観、倫理観によるのだ。たしかに、治療の現場で日々苦労している医療従事者の経験や知見は貴重である。しかし、社会的な現象としての “スマホ問題”、 “スマホ依存” は、極端で病的なケースの治療のノウハウだけでは解明も解決もできない面があるように思える。とは言え、“依存症” という切り口で “スマホ問題” を捉えようとするならば、この本が必読書であることに議論の余地はない。科学界の流行の理論を散りばめたような、口先だけのレトリックではなく、依存症の歴史、依存症の構造について、きちんと臨床的な経験に基づいた裏づけのある説明をしようとしているところには信頼性があるように思う。ただ、いくつかどうも腑に落ちない点がある。
1「快楽を得たい、気持ちよくなりたい。そのために依存物を使うことを、“正の強化” という。そして、依存物を使わないと “不快” になる。その “不快” を解消するために依存物を使うことを “負の強化” という」 と説明される。なるほど、非常に論理的で整合的な説明のように聞こえる。具体例として、“痒み” という不快さが挙げられる。痒いのを我慢できずに衝動的に掻いてしまうのが、“負の強化” とされる。しかし、“不快さ” の典型例として、果たして “痒み” は適切であろうか? “不快さ” の典型的かつ代表的な例は、むしろ、“痛み” ではないか? 擦りむいたり、ぶつけたりとか、歯の痛みといった身体的な痛みこそ、典型的な “不快さ(取り除くべき感覚)” ではなかろうか?“痛み” の場合、その “不快さ” を取り除くための衝動的な行動に駆り立てられることは特にない。せいぜい “痛み” のある個所をさすったり、負傷箇所を保護しようと(痛みを増大させないように)する行動を多少惹き起こすかもしれないだけで、それらは決して痛みという刺激に対する生理的反応ではない。“痒み” の場合は、とにかく、“引っ掻く行動に駆り立てる生理的刺激” が存在するのである。これは “痛み” の場合にはほとんどない刺激である。“痒み” には、引っ掻くことに対する “報酬としての快感” が用意されている点が、“痛み” とは根本的、決定的に異なると言えるのではないか?痒いところを引っ掻いているときは、引っ掻くことによって得られる快感を夢中でむさぼっているのである。(笑) 違うだろうか?
“不快な感覚” を除去しているというのとは違うのだ。実は “不快な感覚” ですらない可能性がある。それは、実は “快感への誘(いざな)い” なのだ。そうである、“痒み” とは、“快感への誘惑” なのだ。そして、引っ掻くこと、掻きむしることは、その “誘惑に屈すること” なのだ。
「依存物を使わないと “不快” になる。その “不快” を解消するために依存物を使うことを “負の強化” という」 という著者の、というか、現代の依存症理論のいうところの 「不快」 とは、要するに 「不快」 でも何でもなく、単に、“快感までちょっと距離があること” に過ぎないのだ。(笑) つまり、“負(マイナス)の強化” というのは言い過ぎなのだ。けっきょく、“痒み” とは、プラスがマイナスに逆転するようなものではないのだ。マイナスではなく、プラス、つまり、“快感への誘導” なのだ。“快楽への道すじ” であって、全然マイナスなんかではないのだ。(笑)もし、「依存物を使わないと “不快” になる。その “不快” を解消するために依存物を使うことを “負の強化” という」 ということならば、以下のようにも言えるはずだ。
「依存物を使わないと “不快” になる。」
たとえば、“肩こり” にアンメルツを塗らないでいると、痛みが感じられて “不快” になる。
「その “不快” を解消するために依存物を使うことを “負の強化” という」
それでは、“不快” の一種である “肩こり“ を和らげるためにアンメルツを使うことは “負の強化” ということになるのであろうか? もちろん、理論上、“痛み(不快)” を和らげるためにアンメルツを使うことは、“負の強化” ということにならざるを得ないだろう。いや、むしろ “典型的な負の強化” ということになるはずだ。しかし、これを “依存” や “依存症” と呼ぶことに我々は同意するであろうか?「肩こりによくアンメルツを使います」というひとは、そのまま “依存症” ということになってしまうのであろうか?もしそうならば、狭心症で苦しくなった際にニトログリセリンを服用するひとも “依存症” ということにならざるを得ない。たしかに、アンメルツやニトログリセリンを、生活上不可欠に思うひとたちはいるかもしれない。しかし、だからと言って彼らを“依存症” と呼ぶのはいかがなものか? 彼らを “依存症” と呼ばざるを得なくなるような、著者の信奉する現代の依存症理論には、どこか問題があるように思えてならない。
2「依存症は、借金に喩えることもできます。」 と著者は言う。「脳内借金としての依存症」 とも言う。うまいことを言うものだ、と最初は思った。(笑) 直感的イメージとして的確に言い得ている気が何となくしたのだ。しかし、イメージとしてはよくわかるのだが、理論的、かつ論理的に言って、誰の誰に対する借金なのかがどうも曖昧模糊としている。そこで、じっくり考えてみた。経済的、商法的な意味での “借金” であれば、借金をした人間は “債務者” であり、金を貸した側は “債権者” である。それでは、依存症の場合はどうなるのだ?ふつうに考えれば、“依存症患者” が、借金をしている “債務者” であろう。それでは、金を貸している側の “債権者” は誰なのだ? 家族か? 学校か? 社会全体か? たしかにアルコールであれ、薬物であれ、ギャンブルであれ、ゲームであれ、依存症患者が家族に対して疚(やま)しい気持ちを抱いていることは想像できる。しかし、返済すべき疚(やま)しい債務を負っているという意味で、その “負い目” を、“借金” と言うのだとしたら、これは依存症患者にとっては、かなりシビアな表現ではなかろうか?しかも、その債務を返済すべき相手が家族だけでなく、学校の先生、病院の医師、延いては社会全般まで拡大されて意味されているとしたら、依存症患者にはもう逃げ場はない状態だ。いやいや、そんなことまでは意味していない、と著者は慌てて言うかもしれない。しかし、商法的概念を背景に持つ “借金” という言葉1つから必然的に “債権者” と “債務者” という対立的構図が否応なしに浮かび上がってきてしまうのだ。そして、“借金” をしている側が返済すべき ”債務” と、金を貸した側が返済を求める “債権” とが対置されてしまうことになる。つまり、“借金” というたかが言葉1つ ではあっても、その言葉を拒絶しない限り、依存症患者は、家族や社会に対して “負債” を負う関係にある という、“常にバックグラウンドに潜む恐ろしい構図” を受け入れることを期待されているのだ。しかも、“借金“ が金銭的な意味ではないことは誰にでもわかる。ということは、逆にまさに “精神的債務” “道徳的負債” というふうに理解すべきということなのだ。これはある意味で、依存症患者に対する “社会的断罪” である。「お前らはわれわれに迷惑をかけてんだがら、その分その借りは返せよ!」 と言っているに等しい。そういう “上から目線” を “借金” という一語が雄弁に物語っているのだ。「うまいことを言うものだ、と最初は思った。」と書いたが、最初にそう思った時点ではそういった “上から目線” が構造的に潜んでいる ことにはまったく無自覚であった。
◆「スマホが学力を破壊する」 川島隆太 集英社新書 2018
この著者のメッセージは明快である。「子供にスマホを持たせていると子供がバカになるぞ!」 という警告である。しかし、著者本人によるこの本の中の言葉は、以下のようにもっと深刻で過激である。(笑)
「もし、これからも安寧な社会の継続を願うのであれば、人類の文化の深化と成熟を祈るのであれば、スマホを捨てなくてはいけません。少なくとも今すぐに法律を作って未成年のスマホ使用を禁じなくてはいけません。」p.4
この著者は、これをどうやら本気で言っているようだ。(笑)
著者の川島隆太氏は、そもそも、かつて一大ブームともなった 「脳トレ」 の仕掛人である。(笑)ゲーム機であるニンテンドーDSのソフト「脳トレ」は、世界中で3,300万本売れた、ゲームソフトのベストセラーであった。このゲームソフトは、日本人のみならず世界中の多くの人々を日常的に “携帯用電子的デバイス” に親しませることに大きく貢献したと言える。
実際に脳の働きが向上したかどうかはさほど重要ではない。(笑)人類史における第二次低脳化現象の不可逆な流れにあって、「脳トレ」 は1つのジョークである。携帯用電子的デバイス、電子的情報端末が21世紀の人類の “身体の延長” になる下地を作るのに、日本の一大学教授が大きく貢献したということにしか意味はない。そして今日(2021)、世界中で “スマホ” という電子的情報端末が、人類の “手の延長” どころか、“脳の延長” にまでなっているという、10年前には信じられないような現実が日々繰り広げられている。
今21世紀に、人類社会に導入されてしまった “スマホという電子的情報端末” が、 “トロイの木馬” としてうごめき始めているのだ。
さて、医学博士、川島隆太氏のこの本、「スマホが学力を破壊する」 は、彼が仙台市の市立中学校と市立小学校の約7万名の生徒を5年間にわたって追跡調査した結果をまとめたものである。この調査研究の “強み” は、以下の通りである。
1) 著者が所長を務める “東北大学加齢医学研究所” が、地元 “仙台市の教育委員会” の協力を得て実施した大掛かりな共同研究プロジェクトの成果である。“研究者冥利” に尽きるとはこのことだ!
2) 小中学生の “学業成績” と “一斉アンケート” いう数値化できるデータが、有意な結論を引き出すのに十分なだけ利用できている。
3) “5年間にわたる時系列的な調査” も含み、一貫性のあるデータ解析がなされている。
4) 著者が得意とする 「脳機能マッピング技術」 によって、実際の脳の活動状態がリアルタイムで観察・記録されている。
この本で紹介されているこの共同研究プロジェクトの成果は、かなり信頼性のあるもので、簡単に覆すことは困難であろう。実際、学校教育におけるこれほど広範な調査は、世界のどこにもなされていないだろう。著者が率いる東北大学加齢医学研究所チームは、能う限りの客観性、一貫性、整合性、をもって個々の結論を引きだしており、本書を読む限り、データ解析の信頼性は相当高いと判断せざるを得ない。この共同研究プロジェクトを統括している、著者をリーダーとする東北大学加齢医学研究所はすでに浩瀚な英語の論文を世界に向けて公表しているようだが、この日本語の本はその一部を日本の一般向けにわかりやすくまとめたものと理解していいだろう。
この共同プロジェクトを始めた当初の著者には、“子供たちの学業成績” に対してスマホをはじめとする電子的情報端末が何らかの悪い影響を与えているのではないかという “予想” があった。どんな研究者も、調査に先立って何らかの予想をするものだ。当然だ。もちろん、著者は、スマホが学業成績に対して何らかの “マイナスの作用“ をもたらすことを予想していた。しかし実際、データが出そろって解析してみると、その 「マイナスの作用」 は予想をはるかに超えていたのだ。(笑) 「こりゃ大変だ!」 と危機感を感じた著者は、日本社会に警鐘を鳴らす義務を感じて本書 「スマホが学力を破壊する」 を出版したようなのだ。
実は、この本の元となった論文の紹介は2か月前に以下の別記事で済ませているので、ぜひご覧いただきたい。
スマホを使う子供ほどバカになるという医学論文:好き放題にスマホを使わせてきたバカな親はこれからどうする?(笑)
<スマホ元凶論の問題点>
たしかに、著者が丹念にまとめたデータを見る限り、スマホを使う生徒ほど成績が低いという相関関係は覆えりそうもない。しかし、相関関係が因果関係であるとは言えないのだ。仮に因果関係があるとしても、スマホの何が原因なのかまで絞り込めているとは到底言い難い。ザウルスは、スマホには以下の3つの側面があると考える。
1) ワイヤレス同時通信端末(多機能携帯電話)
2) 依存物
3) 有害な電磁波源
さて、“スマホ諸悪の根源説” の川島隆太氏は、1)と2)の側面は、十分に考慮しているようだが、3)の電磁波源としての側面に関してはまったく考慮外のようで、何の言及もない。「電磁波」という単語は1度も出てこない。「スマホへの依存」を強めるということは、スマホという電磁波源との接触頻度、接触時間が増加すること、つまり、“電磁放射線被ばく量の増大” をも意味するのではなかろうか?スマホを使う生徒ほど成績が低いとしても、それではスマホの何が原因なのかまでは解明できているとは言い難い。スマホによらない電磁波にさらされることによって成績が下がる可能性も否定できないだろう。たとえば、WiFi 教室、学校のそばの携帯基地局アンテナ、自宅の WiFi、自宅のコードレスフォン等々。実際、スマホ、WiFi、コードレスフォンの電磁波である “マイクロ波” は、右の表が示すように、“脳を含む自律神経系” の働きにさまざまな悪影響を与えることが明らかになっている。
「記憶力の衰え、部分消失」
「知的レベルの低下」
「頭痛」
「疲労感」
「日中の眠気」
「夜間の不眠」
「志気の低下、消沈」
「神経衰弱、神経疲労」
これだけの影響が “電磁波” によって生じるのであれば、「成績の低下」 に十分つながる可能性があるのではなかろうか?
◆「その「もの忘れ」はスマホ認知症だった」 奥村歩 青春新書 2017
別の切り口からスマホの流行に警鐘を鳴らしている医師がいる。医師としての学歴、経歴、経験は非の打ち所がない。認知症が専門だったのが、「もの忘れ外来」にやって来る患者に中年層、若年層が増加していることから、「スマホ認知症」の危険を訴えている。豊富な臨床経験に裏打ちされた持論の展開は非常にわかりやすく、ある意味でごく常識的である。(笑)
「アルツハイマーによるもの忘れは、過去にあったことを “忘れている” のではなく、新しい体験を “覚えられなくなっている” ために起こっている」p.27 と著者は言う。
いっぽう、「「スマホ認知症」によって表れるもの忘れは、「検索・取り出し」 の機能が低下するタイプ」p.29 なのだそうだ。そして、
「スマホ認知症」のもの忘れの人には、過剰な情報インプットにより、脳内の情報をうまく取り出せなくなっているという特徴がある」p.30 のだそうだ。ふむふむ(笑)
「私はこうした脳の処理力が落ちた状態を「脳過労」と呼んでいる」p.5 のだそうだ。 なるほど。(笑)
こんなに分かり易い話はない!(笑) しかし、ある意味ではこれは現実なのだ。(笑)
「私はこのようにスマホなどからの過剰な情報インプットによってバランスを崩し、機能を落としてしまっている脳を 「スマホ脳」 と呼んでいます。」p.53
ご注意頂きたい。この本の出版年は 2017 年である。アンデシュ・ハンセンの「スマホ脳」の日本語訳の出版年は 2021 年である。そもそもハンセン氏のスウェーデン語の原書の原題は Skärmhjärnan (英語:Screen Brain) である。「スマホ脳」というタイトルは訳者の久山葉子氏か出版社が付けたものだろうが、おそらく奥村歩氏の著書のこの部分から持ってきたのであろう。(笑)
さて、著者はさらに、「スマホ認知症」や「脳過労」が 「うつ病」 につながると警告する。
スマホ → スマホ認知症・脳過労 → うつ病
「「スマホ認知症」や「脳過労」の患者さんは、記憶力低下やもの忘れ以外にも、決まって多くの体調不良を訴えられます。具体的に症状を挙げると、だるさ、疲労感、頭痛、めまい、不眠、肩こり、腰痛、冷え、動悸、息切れ、吐き気、便秘、下痢、胃痛、腹痛、食欲不振など。」p.44
「そして、「スマホ認知症」や「脳過労」をちゃんと治さずに、こうした不調症状を放っていると、ほとんどの方がうつ病に移行していくようになる」p.44-45 と言う著者は「日本うつ病学会」の会員でもある。
さて、大多数の人がスマホを使うようになった今日、その大多数の人が「スマホ認知症」や「脳過労」に陥る可能性があることになる。そうした状態でのさまざまな体調不良を放置していると、今度は 「うつ病」 になる、という、実にシームレスな展開だ。
スマホ → スマホ認知症・脳過労 → うつ病
しかし、医者が病名診断(たとえば、「うつ病」)を下すことと、その病気の “本当の原因” を突き止めることとはまったく別のことである。
デジタル教科書は児童虐待?(3)あまりにもお粗末な、日本の “電磁波” 常識
電磁波、 うつ病、 自殺 の関係
スマホには以下の側面があるとザウルスは考えている。
1)ワイヤレス同時通信端末(多機能携帯電話)
2)依存物
3)有害な電磁波源
ほとんどの “スマホ本” は、“電磁波源” としてのスマホの有害性、危険性に触れようとしない。まるで、“電磁波問題” が “マスコミ業界におけるタブー” であることをあらかじめ知っているために周到に避けているかのようなのだ。(笑)なお、電磁波源としては、基地局アンテナ や WiFi や 5G といった、スマホ使用を可能ならしめるインフラ全体としての電磁波環境を想定すべきである。“水道の蛇口” だけでなく、“流れるものをコントロールするインフラ総体” を視野に入れるべきなのだ。
スマホは誰の目にも見え、文字通り手で触れることもできる。しかし、それを “ワイヤレス同時通信端末” として機能させている “電磁波じたい” は目には見えないのだ。現代社会において、多くの人たちはこうした目には見えなくとも濃密に錯綜する有害な電磁波の海に浸(つ)かって生活している。しかし、どんなにどっぷり浸かっていても、目には見えないので、ほとんどの人はそんなものはあたかも存在していないかのようにして毎日生活しているのだ。ここが多くの “スマホ本” に共通する “スマホ元凶論” の落とし穴であり、同時に多くの人々の盲点でもある。医師や精神科医はたしかに専門家であろうが、通例電磁波は専門外だ。そして、専門家ほど自分の専門外のことについて語ることはタブーと思って、自分のタコツボから脱け出せない。その結果、自分の専門分野から一歩も出ずに “スマホ元凶論” でほとんど説明ができる錯覚に陥るのだ。たとえば、この著者、奥村歩氏は “まさに脳神経外科の専門家として” 以下のように言うのだ。
「「スマホ認知症」や「脳過労」の患者さんは、記憶力低下やもの忘れ以外にも、決まって多くの体調不良を訴えられます。具体的に症状を挙げると、だるさ、疲労感、頭痛、めまい、不眠、肩こり、腰痛、冷え、動悸、息切れ、吐き気、便秘、下痢、胃痛、腹痛、食欲不振など。」p.44
「そして、「スマホ認知症」や「脳過労」をちゃんと治さずに、こうした不調症状を放っていると、ほとんどの方がうつ病に移行していくようになる」p.44-45
しかし、ここに挙げられている “体調不良” のほとんどは “有害な電磁波” によっていくらでも惹き起こされるものなのだ。“電磁波という目には見えない物理的作用” が原因である可能性について、著者はまったく気づいていないように思える。気づいていないわけではない、としたら、巧妙に避けているのだ。(笑)電磁波の専門家ではなく、普通の素人であっても “電磁波の悪影響” くらいは思いつくのではなかろうか?
週刊新潮 「スマホ認知症」 記事は “巧妙な電磁波問題回避” か “忖度” か?
満員電車のスマホ族、 “電子レンジ通勤” で命を削る?
下記の記事では、“電磁波 → うつ病 → 自殺” の連鎖が疑われる海外の事例を紹介している。
“うつ病” が目には見えない “電磁波という物理的作用” によって起こる可能性があることは海外ではほぼ常識になっているのだ。
電磁波、 うつ病、 自殺 の関係
◆「スマホ廃人」 石川結貴 文春新書 2017
かなりインパクトのあるタイトルではある。(笑)
実は、似たようなタイトルの記事をこのブログでも書いたことがあるので、もしや、同様の切り口で論じているのかと思いきや、視点はまったく違っていた。
スマホ依存症、“国家的人体実験” 進行中! 10年後は廃人続出?
上の当ブログの記事は4年前の記事であるが、当時から当ブログでのスマホの捉え方は一貫して “電磁波問題” の一環である。(笑)しかし、この本では、残念ながら、他の多くのスマホ本と同様、電磁波問題はまったく “スルー” であって、もっぱら “スマホの依存性” を問題視している “スマホ元凶論” である。スマホの強い依存性、中毒性をさまざまな階層の人々の事例を通して描き出している。ご苦労さんである。(笑)著者、石川結貴氏の強みは、足を使った地道な取材とインタビューのようだ。たしかに本書中でも専門家から市井の人々までさまざまな人々から “貴重な言葉“ を引き出していて、そこそこ面白く読ませる。著者は4年前(2017 年)の本書の 序文で以下のように言っている。
「内閣府の「消費者動向調査」によると、スマホの世帯普及率(67.4%)がガラケーを上回ったのは 2015 年で、私たちの生活にスマホが浸透したのは、ここ数年の話と言える。
押し寄せる進化と変化に対し、多くの人は息つく間もなく、ほとんど無防備に向き合っている。私たちはスマホとともに、この先どこへ向かうのか、果たしてそこに、想定外の事態が待ってはいないだろうか。」p.10読んでいくと、4年前とは思えないくらいに今日の状況を先取りして語っているように感じる。逆に言うと、今日の状況は、この本が書かれた頃よりもはるかに先を行っている状況になっていると考えられるわけで、ちょっとコワい気がする。(笑)
第1章の「子育ての異変」 では、以下のような話が語られる。(太字、画像は引用者)
「取材の際にも、「教えてもいないのに、子供がスマホを操作をすぐに覚えた」とか、「ひとりでどんどん使っている」といった声がたくさん上がるが、要はスマホを与えさえすれば幼児はたやすくおもちゃ代わりにしてしまう。」p.29
これが、4年前の 2017 年である。話はさらに続く。
「外出先でもスマホは必須アイテムだ。特に病院や役所などの公共の場所では、子どもが騒いで周囲の迷惑にならないようにと必ず使わせている。スーパーで買い物をする際、「お菓子が欲しい!!」と駄々をこねる娘たちに対し、お気に入りのゲームをさせて落ち着かせることもある」p.32
なるほど・・・。(笑)
「家事の間もスマホを与えておけば安心だ。子どもがおとなしく座っているうちに揚げ物をしたり、食器を洗ったり、ベランダで洗濯物を干したりできる。単に家のことが片付くという話ではなく、子どもが調理器具にさわってヤケドをするような危険も防止できるから「一石二鳥」だと笑う。」p.32
あまりにも説得力がありすぎて(笑)、ちょっとコワくなるのはわたしだけであろうか? 次には子育てママのナマの声がそのまま引用される。
「「世間では、スマホなんかに頼って子育てをして、と批判もあるでしょう。でもそれは、今の子育てを知らない人の考えだと思いますね。以前から子どもをおとなしくさせるのに、テレビを見せたり、お菓子を食べさせたりしたでしょう。そういう形がスマホに替わっただけの話です。現実に役に立っているし、子どもも喜んでいる。わたしのストレスだって減るから、結果的には子育てがうまくいくことになるんじゃないでしょうか。」」p.33
ムムムムム・・・。いやはや、庶民の論理のしたたかさに、ちょっとクラクラしそうである。(笑)しかも、これは4年前である!さらに追い打ちをかけるように別のママの声が続く。
「「ママ友同士でもこどものスマホ利用を話題にすることがありますが、私の周囲ではみんな肯定派です。いつでもどこでも使えるし、子どもの反応もいい。なんといってもお金と手間がかからないことが大きいです。クレヨンやノート、おもちゃ、絵本、そういうものを買わなくてもスマホだけあればいろんな遊びができます。しかも新作がどんどん出るので、飽きっぽい子どもにはピッタリだと思います。ちょっと遊ばせてまた次、今度はこれと試そうってできるから、タダで使えるおもちゃ箱を持っているようなものですよ。」」p.34
うーむ、スマホ依存もここまで開き直られて自己正当化されると、「もう勝手にしろや!どうぞ、どうぞ!」と言いたくなる。まあ、これが現実なのであろう。(笑)
そして、これは4年前の 2017 年の話なので、4年後の現在(2021年)では、母親と幼児のスマホ依存はさらに深まっていて、もはや “スマホなしの子育て” はあり得ないくらいになっているのではないか?(笑)
第4章の「エンドレスに飲み込まれる人々」 では、以下のような話が語られる。(太字、画像は引用者)
「ところが今、自分の意思とは無関係に、否応なくスマホを手放せない人たちが現れている。業務用、会社支給のスマホを使うことで位置情報やリアルタイムの状況を管理され、延々と拘束されてしまうのだ。」p.165
“デジタル的監視社会” は中国のことかと思っていたら、自由と民主主義の日本でもじわじわと同等の監視システムが “政府” よりも “民間” から広がりつつあるようだ。(笑)
「スマホを使った勤怠管理や行動把握、場合によっては物理的、精神的な監視下に置かれるような状況も出現している。」p.165
「飲食店向けの店舗管理を行う会社で営業職をする山本(仮名・30歳)は、「会社支給のスマホを使うと、自分が奴隷になったような感覚です。」と嘆息した。現在地や移動ルートがスマホのGPS 機能で上司に把握され、一日の行動を監視されているという。」p.166
これはほとんど ジョージ・オーウェルの「1984年」の世界 だ。(笑)
この話は2017 年の話だ。4年後の今の状況をちょっとネットで調べてみた。以下は 2021年 のデータである。
「スマホの会社支給は半数以下」と言っているが、“半数近くもある” ことに驚くのは、わたしだけであろうか? しかも、昨今では、“業務用に特化したスマホやタブレット” もかなり出回っているではないか!もう逃げ場はない!(笑)
「スマホの危険性」 とは?
さて、一般的に、携帯電話やスマホの 「危険性」、「ヤバさ」 というと、日本では
1)「ネット上で金銭や個人情報等が騙し取られること」 と、
2)「特に未成年がネット犯罪に巻き込まれること」
の2つが問題になるようだ。どちらも、要するに “ネット犯罪の被害者になる可能性” であり、日本ではそれを 「スマホの危険性」 と言っているようなのだ。この 「危険性」 とは、けっきょく金銭的被害、精神的被害、性的被害のいずれかである。なぜか日本では スマホの電磁波による物理的で日常的な “健康被害” については、ほとんど問題にされない。実際、この「スマホ廃人」 という本でも、「スマホの危険性」 として、特に未成年の女子のケースを取り上げているが、“電磁波による健康被害” については、まったく言及がない。あまりにも庶民目線で問題を追っているとこうなるのだろう。実際、海外の動向への目配りが乏しく、せいぜいが「スティーブ・ジョブズは子供にスマホを与えなかった」 というような話どまりだ。(笑)けっきょく、日本の大衆の度の過ぎたスマホ依存を面白おかしく紹介しているのにとどまっている印象だ。たしかに、“ネット犯罪の被害者になる可能性” は存在することは存在するが、これが主たる危険性と認識されている日本に対して、海外では別の危険性も問題になっていることも触れるべきではないか?
以下の検索結果は日本語と英語で比べたものである。images で検索すると、カテゴリー別になって表示されるので、全体像を把握しやすいメリットがある。それをさらに色分けしてみた。日本語で 「スマホの危険性」 を検索した結果では、ネット犯罪、つまりセキュリティ関連の危険性(黄色の枠)が圧倒的に多く、カテゴリの半数を超える。“oppo” や “中華スマホ” が出てくるのは、個人情報が中国に盗まれるという、セキュリティ上のリスクによるものであろう。そして、次に来るのは、「歩きスマホ」等の、スマホによる不注意事故(緑の枠)のリスクに関したものである。スマホの危険性としては、主なものはこの2種類だけである!
以下は、英語で検索した結果である。ただし、なぜかフランス語の検索結果も混じっている。
黄色の枠 は、日本にもある “セキュリティ上のリスク” であり、未成年(teens, children, teenagers)に対する懸念が海外でも現れている。しかしそれでも全体の4分の1ほどだ。
赤枠 は、“電磁波” “健康” に関したリスクである。これは日本語での検索ではほとんど出てこないものだ。この重要なカテゴリーが丸ごと抜け落ちて、黄色と緑の枠だけになっているのが日本なのだ。
紫色の枠 は、“スマホ依存” の危険性である。これは今回取り上げたほとんどのスマホ本の中心的テーマでもあり、事実としてはたしかに日本にも存在している。しかし、日本語で「スマホの危険性」で image 検索してもカテゴリとしては出てこないのだから、問題意識としては日本では表面化していないことを物語っていると言える。しかし、海外(英語、フランス語圏)では、“addiction 依存” “スマホ依存 smartphone addiction” としてキーワード化している。
日本では、“歩きスマホ” で人にぶつかることを除けば、“ネット犯罪“ に巻き込まれるリスクこそが “スマホの危険性” の最大のものと認識されているようだ。海外でももちろんネット犯罪は存在し、当然その被害もあるが、“スマホの危険性” としては、“電磁波” や “依存性” も問題になっている。“セキュリティ上のリスク” はたしかに存在するが、誰もが日常的にその被害を受けているわけではなかろう。スマホを使う老若男女が 金銭的被害、精神的被害、性的被害 を日々こうむっていると言えるだろうか?せいぜい、「そういうことも起きるかもしれないから、注意しよう」 という程度のことだろう。しかし、スマホの電磁波による直接的で物理的な被害である、“健康被害” はスマホを使う老若男女が日々リアルタイムでこうむっている実害である。ただ、電磁波が人間の目には見えないだけである。さまざまな健康障害が発生しているのだが、まさか目にも見えない電磁波が原因だとは思わないのだ。しかし、海外では目に見えなくても、実際に健康被害に関連付けられて問題視されているという現実がある。
どうやら日本ではマスコミと電通が巧妙に操作して、最も重大な “電磁波の危険性” を隠蔽するために “ネット犯罪の危険性” を過剰に警告している疑いすらあるように思う。つまり、スマホ、携帯電話、WiFi、インターネットといった “無線通信インフラに関しての危険性” には、セキュリティ(PCウイルスワクチン、フィルタリング等)の向上で十分に対処できるような錯覚を与えているのだ。手品のような “問題のすり替え” である。(笑)
さて、今回取り上げた6冊の “スマホ本” の中で “電磁波の危険性” を問題視している唯一と言っていいほどの本が、以下の最後の本である。
◆「スマホ汚染」 古庄弘枝 鳥影社 2015
この本のサブタイトルは「新型複合汚染の真実!」 であり、ノンフィクションライターである著者の問題意識はかなり広範で、しかも掘り下げも深い。今まで見てきた5冊のスマホ本はすべて新書本であるが、この本は単行本で 500 ページもある労作である。タイトルに 「スマホ」 が入っているが、スマホが最も身近な電磁波源であり、著者は電磁波の危険性を特に問題視しているからである。それでは、この本は電磁波の本なのかと言うと、そうとも言えない。著者が危険とみなすものは、まだ他にもある。右の、本の赤い帯の裏表紙部分をご覧いただきたい。
著者は、今日 “環境破壊” がさまざまなレベルで進んでいることに警鐘を鳴らしている。もちろん、その筆頭は “電磁波環境の破壊” である。その最も身近な例として、スマホがあるということだ。電磁波(電磁放射線)には以下のように自然のものと、人工的なものとがある。
著者にとって、電磁波問題はスマホに限定されない。当然だろう。スマートメーターも、WiFiも、5Gも、ユビキタス社会も根は同じで、“人工の電磁波” が問題なのである。それでは、人工の電磁波の何がいけないのか? すでに上でも論じたが、筆頭は “健康被害” である。以下のリストをじっくりご覧いただきたい。あなた自身に該当する項目はゼロだろうか?すでに前記事で取り上げた4冊目の
「その「もの忘れ」はスマホ認知症だった」 奥村歩 青春新書 2017 では、以下のような文があった。
「「スマホ認知症」や「脳過労」の患者さんは、記憶力低下やもの忘れ以外にも、決まって多くの体調不良を訴えられます。具体的に症状を挙げると、だるさ、疲労感、頭痛、めまい、不眠、肩こり、腰痛、冷え、動悸、息切れ、吐き気、便秘、下痢、胃痛、腹痛、食欲不振など。」p.44
ほとんどの “スマホ本” は、“電磁波源” としてのスマホの有害性、危険性に触れようとしない。まるで、“電磁波問題” が “マスコミ業界におけるタブー” であることをあらかじめ知っていて必死に避けているかのようなのだ。(笑)なお、電磁波源としては、基地局アンテナ や WiFi や 5G といった、スマホ使用を可能ならしめるインフラ全体としての電磁波環境を想定すべきである。“スマホ” は誰の目にも見え、文字通り手で触れることもできる。しかし、それを “ワイヤレス通信端末” として機能させている “電磁波じたい” は目には見えないのだ。現代社会において、多くの人たちはこうした目に見えない濃密に錯綜する有害な電磁波の海に浸かって生活している。しかし、どっぷり浸かっていても、目には見えないので、ほとんどの人はそんなものはあたかも存在していないかのようにして毎日生活している。ここが多くの “スマホ本” に共通する “スマホ元凶論” の落とし穴であり、多くの人々の盲点なのだ。医師や精神科医はたしかに専門家であろうが、電磁波は専門外だ。そして、専門家ほど自分の専門外のことについて語ることはタブーと思って、自分のタコツボから脱け出せない。そして、自分の専門分野から一歩も出ずに “スマホ元凶論” でほとんど説明ができる錯覚に陥るのだ。アフリカから日本に来た人が、「おみやげに何がほしいですか」と聞かれて「水道の蛇口」と答えたことがあるという。蛇口をひねるだけで安全な水がいくらでも出てくる “恩恵の源泉” だからだ。スマホを問題にする多くの人々は、電磁波を使ったワイヤレス通信のインフラが視野に入っていないので、端末に過ぎない “スマホ” という道具が “恩恵の源泉” から今度は “諸悪の根源” に変わっただけなのだ。水道の端末に過ぎない “蛇口” しか見えていないのと同じなのである。(笑)
さて、「スマホ汚染」の著者は、特定の分野の専門家ではない強みもあってか、より広い視野で物事や問題を見ることが出来ているように思える。実際、海外の動向への目配りも怠らない。この本の目次をお見せすれば、どれだけ広く、深く掘り下げているかがわかろう。とは言え、本書は大著であるので、12章あるうちの5章までである。それでも大変な量だ。それぞれの章に赤で見出しをつけてみた。
「その「もの忘れ」はスマホ認知症だった」の著者は、以下のように語っていた。
「そして、「スマホ認知症」や「脳過労」をちゃんと治さずに、こうした不調症状を放っていると、ほとんどの方がうつ病に移行していくようになる」p.44-45
こう語る著者は「日本うつ病学会」の会員でもある。
脳波は超微弱な電磁波である。スマホ、WiFi の電磁波は非常に強く激しいマイクロ波という電磁放射線である。強烈な人工的電磁放射線が人間の脳や精神状態に何らかの悪影響を与える可能性は皆無だろうか?1から5までのスマホ本のすべてにおいて、子どものスマホ使用に関しては、たしかに強い警告がなされている。子どもの方が “スマホという依存物” に対して大人よりも無防備だから、はまりやすいからというのがその理由のようだ。そして、「スティーブ・ジョブズは子供にはスマホやタブレットを与えなかった」という話などにつなげて、ネット時代の輝かしいヒーローの権威にひれ伏しているのだ。(笑)しかし、今まで見てきたスマホ元凶論の5冊のいずれも、“子どもの方が大人よりも電磁波に対して、より無防備で、より悪影響を受けやすい” という “物理的、解剖学的現実” についての言及はいっさいないのだ。そもそも 「電磁波」 という単語すら、1~5の新書版の5冊にはいっさい出てこないのだ。けっきょく “スマホ” を “ポケットに入る蛇口” のようにしか捉えられていないのだ。情けない限りである。(笑)
さて、最後に紹介した 「スマホ汚染」 は、実は6年前に出版された 2015 年に、すでにわたしは読んでいる。今回、他の5冊を読んだ後にあらためて読み直したが、最初に読んだ時のインパクトがよみがえってきた。わたし自身、この本の影響を受けていると思う。振り返ってそう思う。スマートメーターの危険性を知ったのもこの本のお陰であったと思う。この本は、スマホを入り口として “電磁波問題” を広く扱っているという意味で、他のスマホ本の中でも頭一つ抜きん出ていると言える。6年経った今でもそうなのだ。残念なことだが、他のスマホ本が 「群盲象を撫でる」 のレベルにとどまっているのだ。スウェーデン人は除外するとして(笑)、他の新書本の著者たちは執筆前に 「スマホ汚染」 を読んでいないのだろうか?もし読んでいないとしたら、同じく 「スマホ」 を含んだ書名の本を書く立場として、まったく調査不足、勉強不足であろう。仮に読んでいなくても、スマホという “無線通信端末” についての本を書くのであれば、それを機能させている “電磁波” について何らかの言及があってしかるべきであろう。逆に、読んでいるのだが、それでも電磁波については敢えていっさい触れていないのだとしたら、非常に偏屈な発想であり、却って視野の狭さをさらけ出す結果になっている。
“スマホ” には以下の3つの側面がある、とすでに書いた。
1)ワイヤレス同時通信端末(多機能携帯電話)
2)依存物
3)有害な電磁波源
スマホの “電磁波源” としての側面と言うと、“点” のイメージがあるが、実際は社会を覆う “面” である。つまり、“電磁波環境” なのである。より正確に言えば、“社会のワイヤレスインフラを支える人工的電磁波層” である。この “人工的な電磁波層” は、現代の科学技術をもってしても、人間を含む生命全般にとって無害なかたちで成立させることは不可能である。ということは、そうした “人工的な電磁波層=スマホの電磁波” は、原理的に 人体や地球の生命全般にとって有害かつ危険なものである。そして、この “人工的電磁波層” は “5G” などによって、ますます濃密に人間社会にのしかかっているのだ。非常に危険なものなのであるにもかかわらず、この電磁放射線は単に「目に見えない」というだけで、問題にされていない。それどころか、目に見えない電磁放射線の危険性を語ると、“オカルト扱い” するおかしな人間もいるほどだ。(笑) しかし、原子力(核)発電所が事故の際に放出する “放射線” も帯域は異なるが、同じ “電磁放射線” であり、同じように目に見えないことを忘れてはいけない。以下の1~5のスマホ本は、“ごく狭い可視光線の帯域” の範囲で物事を見ているようなものだ。それに対し、6のスマホ本は “より広い不可視の帯域” までも視野に入れて物事を論じていると言える。
・「スマホ脳」 アンデシュ・ハンセン 新潮新書 2021 ★★★☆☆
・「スマホ依存から脳を守る」 中山秀紀 朝日新書 2020 ★★★☆☆
・「スマホが学力を破壊する」 川島隆太 集英社新書 2018 ★★★☆☆
・「その「もの忘れ」はスマホ認知症だった」 奥村歩 青春新書 2017 ★★★☆☆
・「スマホ廃人」 石川結貴 文春新書 2017 ★★★☆☆
・「スマホ汚染」 古庄弘枝 鳥影社 2015 ★★★★★
ザウルスの法則
https://blog.goo.ne.jp/zaurus13/e/7ca137c5ceecc2c9824005e52f61012c?fm=rss
ハワード・ヒューズ....20年間の密室暮し〜大富豪の奇妙な人生
20年間の密室暮し
ハワード・ヒューズ(1905〜1976)は映画プロデューサーとして,また世界有数のアメリカの大富豪として知られているが,それよりも生前から謎につつまれた伝説的な人物として有名であった。50 歳をすぎる頃から公開の場に姿をあらわすことをやめ,その生活は秘密の厚いヴェールにおおわれ,その死亡は遺体解剖と指紋照合とによって確認されるほどだった。この謎の大富豪をめぐってはさまざまな憶説がとびかいにせの伝記が出版されたりしたこともあったが,彼のかっての部下が書いた信頼できる手記などが発表されるに及んでわかってきたのは,彼もまた淋しい大富豪の一人であったという事実である。もちろん、彼ははじめから大富豪でも孤独な人間でもなかった。人間というものは行を先が皆目見当のつかない生きものである。老年になって若い頃の願望を達成するのはそれはそれで願わしいことではあるが,順望の実現が必ずしも願わしい結果を生むとはかぎらないのが人生という長すぎる旅路である。
彼は10代のはじめに四つの人生の目標をたてた。
1.世界一のゴルファーになること
2.一流の飛行家になること
3.世界で最も有名な映画プロデューサーになること
4.世界一の大富豪になること
このうち,1を除き他の3つの目標はほぼ達成された。世界一の大富豪という目標については,世界一はともかく,莫大な富の所有者になったのは事実である。父親から工作機械側造会社を相続したヒューズは,この会社から得た資金を飛行機メーカー,エレクトロニクス産業,航空会社,映画産業,レジャー産業などに投資して「ヒューズ帝国」と言われる大企業集団を築いた。ラスベガスのカジノを買収し,そのあがりの15パーセントは酒もタバコもやらないヒューズの懐にはいった。映画プロデューサーとしては1920年代後半から約30年間にわたって映画の製作にたずさわり,ジーン・ハーローやジェーン・ラッセルなどの肉体派女優を売り出し,凡作が多かったがアクションを取り入れたり,セックス・アッピールを売りものにしたりしてともかくも世に知られた。......
■細菌恐怖の世界
たいていだれにもなにかこわいものがある。カミナリがこわいという人がいる。毛虫がこわいという人がいる。蛇がこわいという人がいる。『ロジェ同義語辞典』を見ると,60以上の恐怖症が列挙されている。たとえば,尖端恐怖症,対人恐怖症,雷恐怖症,爬虫類恐怖症,書物恐怖症,広場恐怖症,閉所恐怖症,高所恐怖症,水恐怖症(恐水病).....。この世に存在するほとんどすべてのものが恐怖の対象になりうるわけであるが,たいていの人はなにかこわいものがあってもふだんはそんなことは忘れているものだ。カミナリのこわい人はカミナリの音を耳にするや恐怖にとらわれるが,カミナリが去ればけろりとしたものである。
ところが,いつもなにかがこわいと思い続け,それが頭からはなれないようになるとことは面倒になる。その恐怖の対象といつも戦っていなければならなくなり生活のすべてはその戦いのために犠牲にされるという事態にたちいたる。ハワード・ヒューズの身におこったのはまさにこういうことであった。いまでは彼が細菌恐怖症 (bacteriophobia)にとらわれていたことは,彼を親しく知る人びとの証言ではっきりしているが,はじめは単なるきれいずきといった程度だったようである。それというのも両親が早死にしたので(50 代で死亡),ヒューズは自分も早死にするかもしれないとおそれ,命をむしばむ細菌を警戒するようになったためであった。風邪をひいている人は避け,家に帰ったらうがいをする―たいていの人がしているのと同じことをヒューズも励行していた。ところがやがて50 代にさしかかるころから,人ごみを極度におそれだれとも握手をしなくなり,人に会うのを避けるようになった。そしてたとえばドアの取っ手に触れるのをきらい,部屋の出入りにはだれかにドアをあけさせた。どうしても自分であけなければならないときには、ハンカチで取っ手をつかんだ。ヒューズはすべては「長生き」のためなのだとまわりの者に説明した。病気になることを彼がどれほどおそれたかを語るこんなエピソードがある。あるとき,のどに異常が生じたと思いこんだことがあった。彼は一週間というものひとことも喋らず,会話はすべて筆談で通した。のどの調子がもとにもどるとふたたび喋りはじめた。一週間も口をきかないというのは並大抵のことではない。よほど堅い決意と思いつめた心がなければできるものではない。わずか一日でも口をきいてはいけないと言われたら,たいていの人は閉口する。しかし彼には執念にとらわれた人間に特有の忍耐力と持続が,病気にならないようにするためどんな困難もものともせずに実行できたのである。
■二十台のシボレー
はじめはきれいずきといった程度だった人間がこれほどの細菌恐怖症になったのはどういうわけなのか?心に変調をきたすことになるきっかけや原因はなかなか特定しがたいものであるが,その原因のひとつと思われるのは、50歳近くになる頃から、自動車事故の後遺症によるものと見られる神経衰弱の兆候を示したことである。そして細菌恐怖症とともに彼を一種の孤独地獄とも言うべき密室にとじこめることになったのが,極度の秘密主義である。ピュリツァーも秘密主援者であったが,ことによると世の孤独な大富豪の共通点として秘密主義をあげることができるかもしれない。経営上ならびに一身上の秘密保持のために,そして護身のために20台のシボレーを買い,毎日ちがうシボレーに乗ることにしていたが,ヒューズのすることはなにごとも極端である。どう考えても20台は多すぎはしないだろうか?そのうえ「そっくりヒューズ」の男まで雇っていたのであった。ヒューズに接する者はすべて口のかたい人間でなければならなかった。彼は専任の理髪師を雇っていたが,ヒューズのことについて新聞記者などに話をもらしたりするとただちにくびになり新任が採用された。口がかたく規律をよく守るというのでモルモン教徒の理髪師が選ばれた。もちろん理髪師にも完璧な清潔が要求され,調髪にあたっては,手術に臨む者がするように両手をよく洗ったうえで外科用のゴム手袋をはめ,けっしてヒューズに話しかけてはいけないことになっていた。その徹底した秘密主義を如実に物語っているのが厳重このうえない身辺警護である。彼は家庭というものを持たずホテルに住んでいたが,いつも最上階のすべての部屋を占領し,ヒューズがいる部屋の真下の部屋はあいたままにさせた。もちろんだれか「敵」に盗聴などされないためである。ヒューズが占領する最上階は8時間勤務三交代制でガードマンによって警備され,最上階のエレベーターの前には武装したガードマンが待ちかまえるというものものしさに加え,ドイツ産の大きなシェパードをつれたガードマンが屋上をパトロールするという念の入れようである。
晩年のヒューズはラスベガス,バハマ,カナダのバンクーバー,ニカラグア,ロンドン,ふたたびバハマへというように各地を転々としてホテル暮しを続けていたが,いつも移動は極秘のうちに行われた。ラスベガスからバハマに移るときなどは雇っていた警備員にも内緒で,夜明け頃を見計らって非常階段から「脱出」するという有様である。このように細菌恐怖症と極度の秘密主義にとりつかれた大富豪は真っ暗なホテルの密室にとじこもって生きるという,まるで蓑虫歯ごもりの金のような生存様式を選び,それ以外の生き方ができなくなっていた。そしてテレビを見ることもなくなり,新聞を読むわけでもなく,外部からの情報の入手も途絶し数メートル四方の空間が彼にとっての世界のすべてとなった。一日中そして一年中,そのわずかな空間のなかを歩きまわったり,大部分の時間はベッドに横になったりすること,それが彼の行動のすべてである。彼は閉所恐怖症にだけはならなかった。
■感覚遮断の実験
ところで人間の精神活動は外界からの何らかの刺激を受けることによって営まれるものである。自然の風を眺めたり,人間の顔を目にしたり,人と話をしたり,本を読んだり,音楽を聞いたり,絵画や彫知を見たり―人間の精神活動をうながすためには外界からの刺激が必要だ。人間の精神活動の中心にあるのは意志や意欲といった,心のなかに秘められたものであるが,それだけでは精神の活動は雲のようにつかみどころのないものとなる。外界から得る刺激は彫刻家にとっての大理石のようなものであり,意志や意欲はノミと槌である。両者が用意されてはじめて精神は健全な活動を保証される。ところが外界からの刺激がなくなったらいったいどういうことになるだろうか?
感覚是断実験の実験報告によると感覚を遮断された密室の状態にないあいだ置かれた人間は,まず注意力や思考力が減退しやがて幻覚が生ずるようになるという。たとえば机がいくつもいくつも積み重なっているといった幻覚を見る。はじめは自分が見ているものは知覚であるとわかっているが,やがてそれを現実の映像と思い込むようになってしまう。あるいは幻聴が生ずることもある。このような実験からはっきりわかってきたのは,人間は外部からの感覚の刺激を遮断されると,感覚や知覚に変調をきたし正常な思考力を失うということである。
ヒューズが置かれた状況は,まさしくこのような感覚遮断実験のための実験室にほぼ等しい。彼の晩年は感覚遮断実験にささげられたようなものである。残念なことに彼が「実験室」のなかでどのように感じ,どのように考えていたかについてはわかっていないが,たぶん幻覚を体験したことはまちがいないだろう。また「ヒューズ帝国」に対して密室から出す指令などもだいぶ混乱していたのではなかろうか。もはや「ヒューズ帝国」は彼の手の届
かないところにあったのではなかろうか。彼は自分を巨大な企業集団の支配者だと思い込んでいたが,実のところ彼が自由にできたのは自分をホテルの密室にとじこめておくための費用だけにすぎなかったのではなかろうか?ヒューズは細菌の巣である世界,自分をつけ狙う「敵」でいっぱいの世界をシャットアウトしようとした。しかし気がついてみるとヒューズ本人の方が世界から隔離されていいのではなかろうか?そのことに気がついていたかどうかはわからないが,しかし気付いたところで,彼もはや密室から外の世界に脱出することはできなかった。「ヒューズ帝国」の幹部達は,いつまでもヒューズがホテルの最上階の密室に滞在することを望んでいたに違いない。彼はいわば監禁の身であったのだ。すべては相互のはたらきかけのなかにある。押す着は押される者でもある。頬を打つ手は頬によって打ち返されてもいる。自分を世界から隔離することは同時に自分が世界から隔離される事でもある。....
―孤独の研究,木原武一,
yguuhuuu pc