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1971年1月30日土曜日

[機器][OC] IBM 360(システム/360)〜第3世代コンピュータ誕生


















[機器][OC] IBM 360(システム/360)〜第3世代コンピュータ誕生
1964
バーケンシュトックによれば,1960年(昭和35年)当時,IBM(International Business Machine)の支配力を(完全に100とした場合に)90とするなら,国産コンピュータ・メーカー全てを合わせた総合力でも20程度のものだったろうという。個人的な印象とはいえIBMと国産メーカーでは,それほど力の差を感じさせていたのである。
モスキートの国・日本の市場を,国産コンピュータ・メーカーに少々分け与えても,IBMにすればそれほど痛手を感じない寛容でいられる時代だったのである。むしろIBMにとって,シェアを国産メーカーに分け与えたことで頭痛の種の独禁法対策になったかも知れない。いずれにしろモスキートとガリバーの共存共栄はIBMが世界市場を押さえているという余裕のなせるワザだったに違いない。.....
■IBMシステム/360
昭和29年(1964)年4月7 日,IBMは画期的な新型コンピュータ「システム360」の記者発表を米国の62の主要都市と海外の14ヵ国で同時に行った。わが国では日本IBMが,札幌,仙台,東京,名古屋,富山,大阪,広島,福岡の8会場で,ユーザーなど941社27885名を招待して「システム/360」の一大キャンペーンを展開した。日本IBMにとってもIBM製品の世界同時発表という一大イベントに参加したのは初めての経験であった。
発表当時,システム/360は30型,40型,50型,60型,62型,70型と名付けられた6つの主力機種から成り立っていた。小型機から大型機まで揃えたフルラインのシステム/360は「ファミリー・システム」とも呼ばれ,さらに超小型と超大型という両端に位置する機種も追って発表されることになっていた。
従来,どのようなコンピュータ・メーカーでも,何から何まで新設計のコンピュータを一度に6モデルも発表した例はなかった。それゆえシステム/360を売り出すというIBMの発表を米国の新聞各紙がトップで扱ったのも当然であった。
ワトソン・ジュニアは,記者発表の席で,システム/360という新型コンピュータの登場の持つ意味を「過去からの完全な離別」と指摘した。一言で言えばシステム/360は従来のコンピュータを全て陳腐化させてしまう次世代の計算機ということになる。......
発表されたシステム/360の仕様で,ワトソン・ジュニアが言うところの「過去からの完全な離別」を決定づける最大の特徴は,次の2点に絞ることができる。
第一に,システム/360が,演算部分をはじめ大量に「集積回路」 (IC)を採用したコンピュータだったことである。コンピュータは使用する素子によって世代を分けることができる。例えば
真空管式のコンピュータは「第一世代」,
トランジスタ式は「第二世代」
と呼ばれていた。集積回路を採用したコンピュータはそれまでと区別して「第三世代」に属する計算機と考えられていた。
IBMのシステム/360は、世界最初の第三世代のコンピュータなのである。....
さらに,システム/360ではプログラムの互換性をもっと完全かつ簡単にするために,オペレーティング・システム(OS,基本ソフト)という考えを採り入れていた。基本ソフトは鉄道に誓えるなら台車のような存在である。
相互に乗り入れさせるといっても,列車がいつも同じ種類とは限らない。あるときは寝台車であり,あるときは貨物列車であり,はたまた特別仕立ての豪華客車の場合もあるだろう。相乗り入れさせたい列車を,その都度必要に応じて作っていたら膨大なコストと時間を覚悟しなければならない。そこで軌道幅(アーキテクチャー)に合わせた台車を1台作り,必要な時にその上に寝台部分や貨物部分を乗せるようにすれば簡単に多くの種類の車を相互り入れさせることができるようになる。
しかもこの台車は貨物操車場のコントロールに似た機能を持っている。貨物列車は引込線から入ってきて一台ずつ切り離され,行き先ごとに分けられ,そして再び編成されていくが,そのような一連の作業が間違いなく行われるように,台車が誘導(コントロール)するのである。
■米国内の評価
まず1964(昭和39)年4月7日の記者発表までにIBMがシステム/360の研究開発に投じた資金は5億ドル以上にものぼっていた。さらにIBMは1967年末までの約3年間に米国の内外に5つの新工場を開設する計画を立てており,そのための設備資金およびシステム/360の生產資金として総額45億ドルを予定していた。
システム/360の開発計画に対して、IBMは合計50億ドル(1兆8 千億円,1ドル=360円で換算)以上の投資を覚悟したのである。その投資規模の大きさは民間企業界の事業としては歴史に例をみないほどだった。ちなみに第二次世界大戦中に原子爆弾を開発した「マンハッタン計画」でさえ,政府の出費は20億ドル程度であった。
また1966年までには,事業の拡大にともない6万人以上もの従業員の新規採用を予定していた。それによって全従業員数は19万人に達し,新規採用が全体に占める割合は1/3に及んだ。このような積極的な努力はIBMという会社の性格を基本的に変えてしまうものとなり得た。.....
IBMが放ったカウンター・パンチ,システム/360の発表に始して,米国のライバル・メーカーの反応は当初は一様に冷ややかなものだった。
「完全な互換性を持ったシリーズ・コンピュータの生産や納入なんて,いくらIBMでもできるわけがないじゃないか。IBMの決定はまったく馬鹿げたものだ」
いずれ第三世代のコンピュータは誕生するであろうが,当時の被覆水準からいってIBMのいう新型コンピュータの生産は不可能だというのが,ライバル・メーカーの判断であった。その証拠として彼らが指摘したのはIBMの集積回路の技術である。
IBMがシステム/360に採用した集積回路は,正式には混成(ハイブリッド)集積回路といわれるもので,のちに主流となる単結晶集積回路ではない。現在一般に集積回路と呼んでいるものは後者である。薄いシリコンの板の上に全ての素子(トランジスタやダイオード)を取り付けてしまうものだが,IBMでは,トランジスタとダイオードを別々に作り,それをハンダ付けでまとめている。これは純粋に技術的な問題で,当時の技術レベルでは単結晶集積回路の量産は難しく安定供給できないという問題を抱えていた。IBMはハイブリッドにすることでそのリスクをクリアーしようとしたのである。しかしいずれハイブリッドが単結晶にとって代わられるのは衆目の一致するところであった。それゆえ当面ハイブリッドでいくか,あるいは単結晶が開発されるまで待つか,それは経営的判断であった。....
■日本の反応
.....のちに池田は,IBM360の発表を聞いた時の感想を次のように語っている。
「IBMが360を発表したとき,IBMはよくぞ決意したなという形で受け止めましたけど,それは,やっぱり必然的に出てきたものだとしてそんなに大きなインパクトはなかったといっていいんですよ。ところでIBMの機種の系列というものを分析しておきますと,日本の歴史にも側面的な意味を持っていますよ。(中略)富士通の中でぼくが分析したのは,IBMのどういうグループがどういう計算機をやって,だからこの次にはこのグルーはこういうことを考えてくるに違いない。(中略)そうやっててちょっと衝撃を受けたのは,これIBM360のこと――筆者注)だけなんですよ。あとはみんなほとんど推定がつきましたからね」
―池田さんの言葉 計算機の歴史を語る(富士通池田記念論文より)
「そんなに大きなインパクトはなかった」という池田の発言を額面通りに受け取ることはできない。というのも彼の発言が昭和46年10月8日に開かれた情報処理工会歴史研究会例会でのものであることを考慮するなら,約7年という年月を無視するわけにはいかないからだ。
ー覇者の誤算,講談社文庫,立石泰則

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1971
1971年(昭和46年)12月,IBMは日本市場で画期的な成功を収めつつあった。 朝日新聞社と日本経済新聞社が進めてきたコンピュータによる新開自動編集システムが完成の第一歩を踏み出していたのである。
それまでの鉛の活版ではなくコンピュータで新聞を作るという前代未聞の目標に向けて,両社はIBMの協力の下そのシステムの開発に努めていた。そのシステムに使用されたコンピュータはIBM360だった。日本経済新聞社では「ANNECS」(アネックス),朝日新聞社では「NELSON」 (ネルソン)と呼ばれたそのシステムが動き始めたのである。
ともに実験段階や一部稼働にすぎなかったが,日本の二大新聞社がIBM360を導入したという事実は,IBMがコンビュータリゼーションやコンピュータ・テクノロジーの最前線に立つトップ・メーカーであると証明したようなものであった。
IBMは,このシステムの開発を契機に日本市場に新しいユーザーを掘り起こしつつあった。
ー覇者の誤算,講談社文庫,立石泰則

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1985    
コンピュータ・スランプが始まった1985年,IBMは売上高を伸ばしたものの利益は減益となった。その最大の原因は,米国内での大型汎用機部門の不振だった。大型汎用機の売高高は,海外も含めた全体では1984年の119億ドルから1985年の121億ドルと微増したものの,米国内では64億ドルから58億ドルに減少していた。
米国の売上高はIBMのそれの25パーセントを占めるに過ぎないが,利益では全体の50パーセントを稼ぎ出していた。IBMにとって大物汎用機部門は,まさにドル箱なのだ。
高柳は,ダウンサイジングがコンピュータの歴史を根本的に変えようとしているとも指摘する。
「それまでのメーカーは,ユーザーのニーズに対して全て大型汎用機で対応させてきた。例えば,大型汎用機はクルマでいえばベンツだと思いますが,メーカーはユーザーに対して,近所の八百屋に行くにも会社に行くにも,また休日のドライブやキャンプにも,とにかくべンツを使わせたわけです。ユーザーにしても,それしかないとメーカーに言われるからベンツで出かけていた。ところが八百屋は自転車でいいじゃないか?会社は乗用車でいいじゃないか?キャンプには四輪駆動があるじゃないか?ということになってきた。鈴鹿はベンツでなくF1を走らせる方がいいと分かってきた。その結果,自転車が売れベンツは売れなくなった。
IBMの最初のドル箱はシステム/360ですが,その名前の通り360度全てに対応で言るという汎用性が売り物でした。でも問屋の在庫管理から銀行のオンラインシステム,ディーリングシステムなど全てをひとつのシステムでカバーする必要なんて本当はない。そんな全てのアプリケーション・ソフトが必要な企業なんて一社もない。
だから,余分な部分は要らないというユーザーが増えてきたわけです。30度しか要らないユーザーはこの機種,40度ならあの機種という具合にユーザーが必要な小型機種を選び出した。それがダウンサイジングなのです。少なくともタンデムの理解はきわめて過激な言い方ですが,ダウンサイジングとは大型汎用機の生態解剖である,と。大型汎用機の終焉。コンピュータの歴史が根本から変わろうとしている」
ー覇者の誤算,講談社文庫,立石泰則

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