[OS] Macos8~Macユーザのつぶやき(1998)
[11.18.1997]-[01.29.98]
[10.24.98]
[11.06.98]
■MacOS8を考えてみる
『MacOS8を導入して色々使ってみましたが,どんなもんなんでしょ』
変更点がかなり多岐に渡るので,かいつまんでいくつか書いてみることにする。また,同様の理由で,調査不足の面もあるが,そこら辺御容赦いただきたい。
さらにはMacをそれなりに使い込んでいる人でないとさっぱり判らない記述も多いので,そこらも御容赦を。
ボタン表示機能は,シングルクリックでファイルを実行できて便利だが,ボタンの形が画面を狭くしたりして,不具合も多い。シングルクリックオープンとボタン状の表示は別の機能として分離すべきだ。
新機能の1.5クリックや,ドラッグ等はファイルの名前の部分を使うことで可能なのだが,アイコンの部分でも使えるようにできるはずなので,そのようにすべき。Netscape Navigator等のブラウザやWinではできるようになっているのだし。
細かい操作感が,第一線の格闘ゲームのきめ細かさに比べると,少々大味に感じる。まだ,ブラッシュアップ不足だ。次回のバージョンアップで,細かい操作の設定ができるようになっていることを望む。
(どうも,タイアログ等のために用意されたボタンのツールを流用しているようなので,このような中途半端な仕様になったのだろう)
フォルダの形をはじめとして,見た目の変化を優先して使い勝手が落ちている部分が割合多い(商売的な理由なんでしょうが,以前の形のものも簡単に選択できるようにしておいてほしかった)
フォルダの形は,甚だ全体の統一感を阻害するし,表面積が減るのでオリジナルアイコンを作る時困る。
一枚絵としてはともかく,インターフェース等を含めた総合的なデザインで考えると,あのフォルダは相当にセンスが悪い(開いたフォルダのアイコンも用意してあるので,将来的にはNeXT的な意味が与えられるのかもしれないので,一概に言い切ってしまえないところではある)
コンテクストメニューは以前からWinを羨ましく思っていただけに嬉しいが,control+クリックでは無くて,マウスボタンをしばらく押して出るNetscape Navigator方式にしてほしかった。
これはLook Mum,No Hands!等のシェアウェアなんかが出てきているので,要求の多いものだということが想像できる。多分次かその次ぐらいのバージョンではシステム標準になるだろう。
メニューがグレーになったのは見易くて良い。これもWindowsが羨ましかったことの一つだ。
しかし,ウィンドウの枠が画面を狭くして物凄く邪魔なので,プラチナアピアランスをカットしたら,アプリケーションのメニューが白に戻ってしまい,Finderでしか,その恩恵に預かっていない。
ただ「Appearance 機能拡張」をResEditで見ると,アイコン等のfinderのアピアランス(外観)はシステム本体から切り離されているようなので,次のバージョンでは,細かいカスタマイズができるようになっているだろう。カレイドスコープが不要になる日も,そう遠く無いことだろう。
また「Appearance 機能拡張」に格納されているアイコンには,今まで使用されていなかったタイプのものも多くあり,今後のバージョンアップの方向を示唆している。
細かい説明は端折るが,それはsystemフォルダの整頓と,話しかけるパソコンで述べた個性化であると予想される。
このあたり,OS8の真価(進化)は今後のバージョンアップで次々と明らかになっていくことだろう。
突っ込めOS8
周囲の声はともかく,うちのシステムでは安定性に関しては,かなり落ちたと言わざるをえない。
メインメモリ16M+仮想メモリ32Mという構成もまずいし,二台のパソコンをAppleTalkで繋げているのも不安定化の要因であると思われる。
いきなり,ResEditでシステムをいじりまわしているのも原因の一つだが(笑)
特にHyperCardとの相性が悪く,ことあるごとに沈黙する有り様である。
バージョン2.2は,PowerPCに対応していない68kアプリである上に,いいかげん1994年製なので古いということもあるだろう。
2.3だと少しはちがうかもしれないが,visual effectがうまく動作しなかったりと,結構色々と不具合が報告されているので,かなりダメっぽい気もする。早いところバージョン3.0が出てくれないといかん。
Osakaフォントの形やマージンが少し変わったので,ぎりぎりにフィールドを設定しているスタックでは,微妙に不具合が出ることが予想されるが,自分が作ったものでは,特に問題無いようだ。
あと,MacOS8のCD-ROMの中には,HyperCardのヘルプ一式が入っていたので,かなりラッキーな感じ(HyperCard本体は相変わらず,Playerしかついてこないが)
アップルが言うにはうちのPerforma6410他一部機種では,ごく稀にいきなり起動できなくなったり,ファイルが消失したりするという,なんともはやな欠陥が存在するそうで,これは0S7.6.1でも同様だそうだ。
ばれないように,情報を閉じ込めるようなことをしないのは偉い(当たり前だけど)のだが,これは結構ショック。
早速雑誌から入手した「ドライブ設定 1.3.1」を使ってドライバの更新をして,ことなきをえた。もちろんAppleのサイト等から入手することも可能だ。
最初はこの文章の二倍ぐらいの量を書いてしまったが,それくらい色々と変わっている。システムをいじるだけで結構遊べるくせに,従来と同じように使おうとすることもできる点は大いに評価したい。
「操作性は向上したが,細かい煮詰めが足りない。だが,次作に大いに期待できるバージョンアップと言える」
■MacOS8.5の評価
とりあえず不満点
スクリプティング対応エディタが無くなっている,しかしSimpleTextは全くAppleScriptに対応していない。
どないせーっちゅんじゃ。
Appleは本気でAppleScriptを普及させようと思ってんのかね。
大体MacOS8.5発売と同時に参考書籍が発売されてしかるべきなのに,出る気配もなし。
それでヘルプには「詳しくは参考書籍をお買い求め下さい」みたいな事が書いてある。
だから,それがないっちゅーの。
スクリプト編集エディタがスクリプタブルになってないのが,なんというか間抜けなのだが,今度のバージョンアップでも間抜けなまま。
他にもスクリプタブルになっていない物が多い。まずAppleが作ったアプリケーションがすべてスクリプタブル(さらにはレコーダブル)になるのがAppleScriptを普及させるための第一段階とも言えると思うのだが。
スピードが速くなったとはいえ,アプレットを立ち上げて終了する時間はそれなりにかかるので,実行時間が比較的短いものでは,極端に高速化した感じは無い。
大体,もとが遅すぎたんで,やっと「使っても良いかも」という程度になったとも言える。高速なハードを使っている人には,実用速度と言えるのかもしれないが。
日本語で書かれた用語説明が用意されていないのは少々厳しい,世界同時リリースのための犠牲になったのは想像に難くない。
でも,まぁ英語でも良いかという気もする。ただし,もう少し判りやすく書いてくれないと困る。
スクリプト編集エディタで表現形式が英語しか選べなくなっているのは,予定通りで当然なのでそれはいいのだが,書式設定で英語フォントを選ぶと,解説文が文字化けしてしまう。中途半端に日本語化されているのがバレバレである。
また,未だにスクリプト編集エディタに検索・置換機能が付かないのは納得行かない。
バグは直ったの?
以前アイコンを標準の物に戻すスクリプトを書いたが,何故だか8.1ではうまく動かなかった。
これは試してみると直っていた。
あと,有名なところで,ウィンドウを全て閉じるスクリプトが働かないということがあったが,それは修正されているのだろうか。
tell application "Finder" to close every window
おおっ,閉じる。ちゃんと直ってるじゃ無いの。
構文通り書いているから,閉じるのが当たり前なんだけどね。
他にも色々試してみないと判らないが,結構バグは修正されているようだ。
Appleの事だから抜かり無く(笑)新しいバグも入れてきているとは思うのだが,まぁ,それはおいおい判ってくること,今は修正されたバグに喜んでおこう。
喜ばしい点
PowerPCネイティブだけあって,大量の一括処理をする場合は,てきめんに速くなっている。
それから幾つかのコントロールパネルや機能拡張,Apple システム・プロフィール,ファイル検索,ヘルプビューアがAppleScriptに対応したことは当然の事ではあるが,よりAppleScriptがシステムと親密になったと言える。
フォルダアクションという新しいイベント項目が追加され,かなり面白い使い方ができるようになった。
これらの強化策により,AppleScriptがOpenDocのように突然放り出される心配は殆ど無くなったと言えるので,安心してソフト開発ができる。
日本語の扱いが少々改善されたようで,日本語フォントに\をつけて修正する必要が無くなっているようだ。
ファイルを選択してコピーし,スクリプト編集エディタで「参照をペースト」を実行することでファイル参照を簡単に得ることができるようになった。これは便利。
AppleScriptヘルプのできが比較的良いので,入門には使える。
で,結局
やっとAppleScriptは使う気にさせる程度の機能を持ってきたと言える。
MacOS8.5を導入した人はAppleScriptを積極的に使っていかないと損をする。自分で一からスクリプトを組む必要はないが,フリーのアプレットなんかをどんどん使うべき。
スクリプトを組む前に「DropletMaker」を使って,大体の感じを掴んでみるのも良い(宣伝)
様々な部分で強化されているので,AppleScriptを使うのならば,絶対MacOS8.5にするべき。
日本語表現形式が使えなくなったのは残念だが,より安定し対応アプリケーションのリリースもスピーディーになるはずなので,ここは受け入れてしまうのが賢いだろう(自分は最初から英語形式で入ったので,この点に関しては気楽なもんだな(笑))
■MacOS8.5の展望
『MacOS8.5を導入して色々使ってみましたが,どんなもんなんでしょ』
多少調査不足の面もあるが,そこら辺御容赦いただきたい。
さらにはMacをそれなりに使い込んでいる人でないとさっぱり判らない記述も多いので,そこらも御容赦を。
ボタン表示機能の不具合は,ほとんど改善されていないが,あまり積極的に使っているユーザーもいないのが原因の一つと思われる。
さらに,コンテクストメニューもまだワンボタン操作になっていない。はやいとこ,暫く押したら開くようにしてほしい。
Appleは,一度ファイル操作について,良く考え直してほしい。
私としてはシングルクリックでファイルを開く操作を標準のものとして考えて,ダブルクリックに現在Opt+ダブルクリックで実現されている「ウィンドウを閉じながら開く」等の別の意味を持たせるようにしてほしいと思っている。
今回からエイリアスにWINライクな矢印が付くようになったが,格好わるいことこの上ない。
予想するに
「ヘイ,ジョブズ,君のところのアイディアばっかり使わせてもらうのはフェアじゃないと思ってね。このショートカットアローのクールなデザインを使うのを許可しようじゃないか」
「はっはっは,ビル,君にしちゃよくできたジョークだな。MacOSには「ゴミ箱」があっても,その中に入れるようなクズがないから提供してくれようっていうのかい」
「イーヤァ,君のブラックなユーモアには毎回驚かされるよ,もちろん君と僕の仲だショートカットアローのライセンス料は格安にしとくよ」
NO~!!
ジョブズ,断ってくれよ,ホント。
さて,今回はデスクトップピクチャが統合されてアピアランスコントロールパネルが大幅に強化されたが,カレイドスコープのスキームのようなウィンドウのルックを変える機能はまだ提供されていない。
あきらかにそれを切り替えるためのボタンがあるものの,選択肢が一つしかないので,ある意味ではプラチナアピアランスをカットできた8.0-8.1よりも選択肢が少なくなっている。
さらに,操作した時に出る音も設定できるが,これもまだユーザーがカスタマイズすることはもちろん,一種類しかセットが用意されていないのでON/OFF設定しかできない,そこらも含めて「今後に期待」といったところだろう。
ボクはシャーロック=ムズムズ
MacOS8.0のインプレッション記事では,かなり機能が整頓されてくることだろうと予測していたが,大体その通りになっている。
MacOS8.5では,主にコントロールパネルやシステムフォルダ階層がかなり整頓された。
そこで統合した機能を選択するのに,やたらとタブを使っているのだが,タブの使い方を間違って不必要に増やしているところがある。Microsoftのように二段がさねにするような下品さはないものの,それでもだいぶ品がない頭の悪いかんじがする。
また他にも,統合のされ方が多少無理矢理なところがあるのは要改善。
今回は発売と同時にアップデータが配付されるという,なかなかのボケをかましてくれたが,それ以上に参ったのが,私のPerforma6410の内臓モデムのサポートをスッパリ打ち切りやがったことだ。
幸いMacOS8.0のCD-ROMから必要な機能拡張やコントロールパネルをインストールしてことなきを得たが,持ってなかったらオンラインから閉め出されることになっていた。
全体のパフォーマンスや安定性は流石に向上しているが,これはできて当然。
68kCPUを切り捨てて不安定で遅いままだったら,アップル社にバクダンを仕掛けるものが出かねない。
特にポップアップウィンドウとスクロールがハッキリ分かる程高速になった。
今回の目玉はSherlockと呼ばれる検索システムだが,これはかなりできが良い。
今までは遅すぎて使う度にコーヒーを用意する必要があった検索が,マトモな速さになって実用度があがった。
私は今後のOSの方向性として,検索機能がアイコン+フォルダ操作(MacではFinder)をかなりの部分で置き換えていくと考えているので,検索機能の強化は大いに評価できる。
速いだけでは無く,検索条件が保存できたりと,私の頭の中にある次世代OSが持つべき機能に近いものを提供しているので,かなり驚いたし嬉しい。
しかし,文書の内容検索のスピードに関しては索引を作っていたらの話で,この索引を作るのがめちゃめちゃに時間がかかる(数時間~下手すると十数時間)。これを見るとまだOSの根幹に含まれる機能では無いことが推測できる。
それに,まだまだFinderと比べる程の操作性は実現されていない。
もう一つの目玉であるAppleScriptの強化も大いに評価できる。
まずまだAppleScript事体がメジャーなものでは無いので細かいことは省くが,相当良くなったので,この機会に少しいじってみることをすすめる。
ただ,マトモなマニュアルが無いので,やはり言語の一種であるからには手を出すのには敷き居が高い。
AppleScriptが成功するかどうかは書籍の充実や,オンラインでの開発資料の提供など,Appleの今後のサポート如何にかかっている。
ただ,そこらへんかなり不安でもある。Appleの技術サポートは昔から「 悪い方の評判」には事欠かないし,Mac雑誌の編集者でさえも,この機能に関しては知識が無さ過ぎるので,一般化するのはかなり厳しいかもしれない。
AppleScriptについて詳しくは,AppleScript/Diaryの方で述べることにする。
あちこちでインターネットとの連係が強化されているが,日本の通信環境では,それほど恩恵を享受することはできないのが,残念なところ。
オンラインユーザー登録ができるようになったのはいいが,もう少しセキュリティの高い方法は取れなかったものだろうか?
あとは,リスト表示の項目の入れ替えや,フォルダの表示形式の一括設定など,今まで何故できなかったか不思議だった部分もちゃんとできるようになっている。
QuickTimeのProキーを手に入れることができるようになったのは,嬉しい。
ただのアップグレードと思うと13800円(税抜き)は高いが,QTのことを考えると少しは買得感あり。
あとアップルシステムプロフィールがかなり強化されたので,1000円分ぐらいのシェアウェア程度の価値を考えていいかもしれない。ついでに機能拡張マネージャーと統合してくれれば良かったのだが。
ファイルオープンダイアログがやっと新しくなり,あとは各アプリケーションの対応をまつだけになった。もっと早くバージョンアップして良い機能だっただけに,各アプリケーションで独自に拡張していることも多く,そのことが逆に対応を遅らせはしないかと少々不安である。
「いままでマトモで無かった部分が,ずいぶんマトモになった。後はルック&フィールの改善」
■何故HyperCardか
『HyperCardって白黒だし,遅いし,なんかダセーよな,ってあなたへ』
HyperCardはすげぇ
HyperCardは物凄く良くできたソフトで,その素晴らしさは余りにも明らかである。
と,思っていたのだが,どうもそうでも無いようなので,言葉にして逐一説明することにした。
思い付く限り列挙すると,一生HyperCardがどう凄いか書き続けてしまいそうなので,適当に割愛して凄いと思うところを幾つか並べてみた。
HyperLinkの体現者
HyperCardはその名の通り,インターネットが一般に浸透するずっと前からHyperLinkを実現していた。
これはかっこいい,正直なところ私はシビれたね。
HyperLinkはコンピュータがコンピュータらしく使われる機能で最も顕著なものの一つであるのだが,ベースにその概念を持つHyperCardのカッコよさといったら後光がささんばかりである。
HyperLinkがどう凄いかは,HTMLがこれだけ普及したのだから,今さら説明する必要も無い気もするのだがハイパーテキストの可能性でも書いたように,イマイチ凄いと思われていない気がする。
HyperLinkがどう凄いか説明すると長くなるので,「HyperLinkってのは凄いのです。だからHyperCardも凄いのです」ってことで納得していただきたい。
HyperTalkの言語としての先進性
HyperCardが登場したのは十年前の夏。
ほとんどのアマチュアプログラマーは,BASICなんていう構造化とは無縁の言語を,GUIはおろか1ラインにも等しいお粗末なエディタでシコシコとぐちゃぐちゃのプログラムを組んでいた。
そんな時代にGUIと構造化とオブジェクトの概念を持ったHyperTalkが出てきたのだから驚異的である。
個人的にはインタプリタであるため,実行中に自分自身のコードを書き換えることができるという他に類を見ない自由度の高さにシビれた。
これはコンパイラでは絶対実現できない特徴である。
今後はさらにマシンは高速化し,殆どの処理でコンパイラを使う言語の必要性は無くなってくるのは必然であり,インタプリタ言語の優位性がますます際立ってくるだろう(ちなみに,正確にはHyperTalkは半インタプリタ言語で,実行の前に一時的にコンパイルされる)
HyperTalkの修得の容易さ
さらにHyperTalkの素晴らしい点は,自然言語(英語)に近く,カードの移動を基本としプログラムの流れが視覚的に掴みやすいので,容易に修得可能であるという点にある。
これは小学校など(もちろん大人でも良い)で最初にプログラムを学ぶ場合に最も適した言語の特徴であると言える。
Macintoshプログラマーの多くは,HyperTalkを入り口としてプログラムを始めていることからも,その修得の容易さが伺える。
Macintoshが「残された私達のためのパソコン」ならば,HyperTalkは「残された私達のためのプログラム言語」であると言える。
Macの最もMacらしい部分
多くの人にとってMacintosh=HyperCardであって,MacintoshからHyperCardをとったら,かなりつまらない物になってしまうのは間違いない。
私も,もしFinderが無くなったとしてもHyperCardが無くならなければ,Macを使うだろう。
Macらしいと言われるソフトの殆どはHyperCardをベースとして出現している,つまりHyperCardが無くなったら,MacのMacらしさは潮が引くように無くなり,つまらないハコに成り下がることであろう。
それと同時に,HyperCardのインターフェースはMacOSのそれに捕われず,「さらにその先」を指向していたことも注目に値する。
作ると使うの近しい関係
C言語で作ったアプリケーションは,ユーザーの改造はほとんど不可能であるが,HyperCardのアプリケーション(スタック)は改造できるのが当たり前である。これは現場現場の実情にあった決めの細かいアプリケーション開発が可能であることであり,使う人=作る人であるので,満足感も高い。
使っている途中にちょっとボタンの位置が気に入らなかったら,すぐに動かせるし,背景に好きな模様を書き込んだりして気分を変えたりするのも全く容易である。
これはHyperTalkがインタプリタであるからできることでもあり,インタプリタ言語の優位性を示すものでもある。
ただ,市販アプリなどの悪影響か,ロックした(改造不能の)スタックが近年増えているのは残念な限り。ロックした(特に実用の)スタックの価値は,激減することがイマイチ判っていないようだ。
最も速度の速い言語HyperTalk
ここでいう速度は開発速度である。
HyperCardスタックは開発スピードが非常に速く,発想から完成までのアイディアの劣化が少ない。
つまりは思いつきで完成品が作れてしまう。他のツールや言語では,思いつきで作ったらほとんど必ず挫折が待っている。手続きが面倒すぎるからだ。
スタック作品にはつまらない物が多い,これはとりもなおさずHyperCard(HyperTalk)が優れているということだ。つまらない思いつきでも形にしてくれることの証明である。他のものではこうはいかない。
スタックがつまらないからHyperCardがつまらないと思うのはお門違いである。実際はその逆である。
開発環境が全て入っている
HyperCard以外の開発ツールは,他のグラフィックツールやエディタと組み合わせなければアプリケーションの全ての部品を用意することができない。
HyperCardの場合は,HyperCard以外のツールは基本的に必要のないような設計になっており,特にグラフィックツールはマックペイント直系の非常に使いやすい高性能なものになっている。HyperCardでのペイントのレスポンスの良さに慣れると,なかなか別のペイントツールを使う気になれない。
もちろん,エディタやデバッガ,アイコンや音作りのための方法も用意されている。
白黒であること
よくHyperCardの弱点と言われる,基本が白黒であることは,むしろ利点である。
白黒であると当然扱うデータが少なくなる,これはツールの種類を少なくし取っ付きをよくする。
カラーになるとペイントするときのパレットを選ぶ操作が,これでもかって面倒臭い。白黒ならばパレットを選ぶ必要は無いので,操作に遅滞が無く実にスムーズである。
カラーになると白黒特有のツールの使い方や日本漫画的表現ができにくくなるので,カラーになってもらうと困る面も多い。
それに,今でも「カラーにする程,コンピュータ環境は整ってない」とも思っているし,素人が作ったWebページの色遣いの悪さを見るにつけ,カラーじゃ無い方が上品でいいと思う。
ただ,カラーじゃ無いのが「異常に素人受けが悪い」のは困ったもんである。カラー化されるのはある意味HyperCardの退化とも言えると思うのだが。
カードのメタファの判りやすさ
HyperCardのスタックはその名の通り,カードを基本単位として作られる,これは実に判りやすく,スタックの構造を把握するのを容易にしている。
カードという構造を導入する事により,プログラムの流れを整理することができ。アプリケーション全体の構成を視覚的に把握することができる。
また,文字を読む時は圧倒的にページ単位で開く本の体裁が優れている。コンピュータで主流のスクロールは読みにくく,全体の量も把握しにくい(というわけで,スクロールフィールドの導入はHyperCardの退化であると思っている)
ファイルが軽い
HyperCardファイルであるスタックは主要な機能をHyperCard本体に持っているため,スタックに置くコードは最小限ですむ。
また白黒が標準なので,これもファイルが軽くなる要因となっている。
この軽さはオンラインでやり取りするのに優れている。Directorで作ったファイルをメールで突然送りつけて,それがしょうもない一発ギャグだった日には,温厚な私でもブチきれること請け合いだが,HyperCardのファイルならば少々凝ったことをしても100KBに満たないので,「しょうがねぇなぁ」と思う余裕ができる。
文化の形成に必要なのは,この余裕である。
無料バンドル品
最近はHyperCardPlayerという開発ができないバージョンしかついてこなくなったが,HyperCardはもともとMacOSに付属してくるものだったし,現在もバージョン2.2のlite版はフリーウェアとしてダウンロード可能になっている(開発環境まで無料なのは2.2までなので,私は2.2で解析できることを前提にスタックを開発している。そうしないと「作ると使うの近しい関係」という利点をスポイルしてしまう)
OSに付いてくると言うことは,「試しにプログラムでも」と言う気を起こさせるためには非常に重要なのは言うを待たない。
実際,コンピュータ言語としては散々な言われようのBASICであるが,ほとんどの8bit時代のパソコンに付属していたので,入門として最も多くつかわれたのは異論のないところであろう。
OSに付いているとユーザーも必然的に多くなるので,情報も多くなり,これがさらに修得の容易さを加速する。
言語は「手に入れても,まるっきり使えないかもしれない」という可能性をつねに思い起こさせるものであり,このことは,たとえフリーウェアであっても,入手に二の足を踏ませるに十分である。だが「既に手許にある」のならば話は別だ。失敗しても痛く無いし,むしろ「使わなければ損」と思わせる。
拡張性の高さ
XCMD等の外部関数を追加して,比較的楽に機能を拡張できることがHyperCardの利点とされる事がある。
利点と言えば利点だが,私は正直なところ嫌いである。建て増し住宅は美しく無い。拡張をくり返したという意味では,ペンティアムも嫌いだしDOSVマシンも嫌いだし,Windowsは勿論MacOSも嫌いである。
拡張性が利点であることは判っていても,あまり褒めない。嫌いだから。
スタックと和美
紙に近いツール
総合するとHyperCardがいかに「紙に近いツール」であるのかが判ると思う。
私は他にこれ程,紙に近い感覚で使えるツールをしらない(白黒だって事も関係しているとも思うのだが)
HyperCardの凄いところは紙に近いだけで無く,同時にコンピュータをコンピュータらしく使えるツールでもあることである。
これらの利点を合わせ持つツールは他のコンピュータ(OS)を探しても無い。つまりHyperCardが無くなったら他にHyperCardを置き換えるソフトはどこにも存在しないのだ(OpenDocが順調に開発されていたら置き換えたかもしれないが)
これは非常に重要なことだ,HyperCardが無くなるということは,未来の一つを失うことと等しい。
「HyperCardこそは未来である」
■ハイパーテキストの可能性
『Web上ではVRMLとか色々花盛りみたいだが,根本的な部分の成熟がもっと必要と思う』
従来のメディアのミミック(物まね)も,やってはいけないものとか,やる意味ないもの,まったくばかばかしいものとは言えず,勿論重要なことなのだが,HTML(ハイパーテキストマークアップランゲージ)の特徴を生かした作品というやつがもう少し有ってもいいと思う。
なかなか新しいパラダイム(判断・評価の基準)に適応していくのは大変であるということは見えないものは怖いや多機能・高機能神話で述べた通りである。
しかしながら,常にフロントライン(最前線)はエキサイティングなものなので,チャレンジするにしくは無し。
ハイパーテキストによる小説は従来の小説と大きく異なった形態をとって然るべきであるが,まずは従来の紙メディアでハイパーテキストにフィットしやすい,もしくはハイパーテキストの方が良いものを考えてみる。
火浦(注釈小説家)功氏の作品のように,やたらと文中に注釈を施してザッピングする感覚で読む小説などは,非常にハイパーテキスト小説と相性がいい。
また,SFの「デューン」(フランク=ハーバート 早川文庫)等その世界特有の用語・ガジェット(道具)が頻出するものも実に相性がいいといえる。
ただ,リンク先の情報と本文との整合性や,ネタバレになることをどれくらい受容するか等,従来の小説では気にする必要のなかった部分での問題が出てくる。
また,一時非常なブームとなったゲームブック等は,ハイパーテキストのためにある様な形態の本である。これに近いものは多くのサイトで公開されていることと思うが,こなれるにはプロフェッショナルが積極的にゲームブックタイプのハイパーテキストを製作する必要がある。
もっと積極的にハイパーテキストのリンクを使えば,上記のような従来の紙メディアからスピンオフしたような形態ではなく,さらに新しいタイプの小説(もはや小説と言えるかも定かではないが)も生まれる可能性が有る(もう生まれているかもしれない)
その可能性の一つとして「物語」の提供よりも「世界」の提供に主眼を置いたものが有るだろう。
紙メディアのものでは,TRPG(テーブルトークロールプレイングゲーム)の世界設定を扱ったサプリメントが,もっとも近いものといえる。
そういうものでは,紙メディアよりももっと積極的に「世界」を作っていくことができるはずだ。今までは強烈な「世界」を持っている作家がいたとしても,「物語」が書けなければ事実上「世界」を表現する手段がなかったのだが。ハイパーテキストによって「物語」は読者にゆだね「世界」だけを作る作家というものが現れる土壌ができるのではないかと思う。
勿論これまでも「世界」を書いた書物はある,水木しげる氏の妖怪の本などもそれと言っていい。また,永野護氏のエルガイムの本(ファイブスターストーリーのもととなった「重戦機エルガイム」というTVアニメーションの裏設定(というにはあまりに壮大・膨大だが)を書いた本 角川書店)なども「世界」を提供している本であるといえる。
作り方としては,例えばひたすらキャラクターを並べていってもいいし,地図を事細かに記述していってもいいし,年表を作っていってもいい。
そんなものが面白いのかといえば「書き手がよければ抜群に面白いものになる」と私としてはにらんでいる。
とりあえず,このページ上で書いている小説はハイパーテキストでの書き方を模索しながら書いていて,そのうち「世界」に関するハイパーテキストも執筆してみるつもりではあるのだが,なかなか新しいパラダイムを作り上げるのは難儀しそうである。
まあ,それなりのものが完成するには数十年の時間が必要と思われるが,流れの速いコンピュータ世界に一緒に流されてどこかへ行ってしまわないとも限らないところが,少々不安なところではある。
「ハイパーテキストは新しい作家を発掘する。今後期待していい」
私に期待しろというわけではないですよ,期待してもいいですが裏切られるかも(笑)
■欲しい機能と必要な機能
『ユーザーが必要としている機能とはどういう機能なのだろう』
多機能・高機能神話の第二弾的な話になるのだが,原稿が伸びて伸びてたまらなかったので,分割してもう一度書くことにしたものがこれ。
ユーザーが求める機能は,本当に必要な機能とは限らない。アプリケーションに用意されていないだけで,OSに標準搭載されていることを知らないたけだったり,別のアプリケーションに求めるべき機能であることも多い。
アプリケーション内ですべてのことをやろうとして,「重複した機能」が幾つも幾つも作られていくことになる。
大体からして,子供が求めるものを全て与える親は,親として失格であることはだれしも納得がいくことと思う。
開発者と消費者も同じ関係と言え,消費者が求めるものをなんでもかんでも装備するというのは,開発者としてはとても誉められたものではない。
本当に必要な機能とは,ユーザーの想像力の外にあるものだ。しかし,そういう機能はユーザーにアピールできない,当然ながら想像力の外にあるものを説明するのは非常に難しいからだ。
だから商売的には,どうしても判り易いものへと流れがちになる。今まであったものが大きく(小さく),強く,速く,なったとか,今まであったものがくっついたとか,そういうやつである。
しかし,そういう機能は概して,必要もないのに付いてくると言うことになりがちである。ある意味,開発者にとって非常に楽な方法であるからだ。そしてユーザーは必要もない物に対して金を払うことになる。
バージョンアップ内容が,非常に判り易いものだったら,一度疑ってみた方がいい。
ここまで読んで,ユーザーが意見を出すのは愚かなことなのか,と思った方もあるかと思うが,別にそういう訳ではない。
開発者というものは使い方が判っているので,なかなか使い辛い部分に気が付かないし,無意識にイレギュラーな操作はしない。
そういう部分はユーザーの声が特に重要になる。開発者は,けっこう当たり前の部分に気が付かない。
また,開発者の考えは,ユーザーが求めているものからのズレが甚だしいことがよくあるので「アレ欲しい,コレ欲しい」という意見も,大いに参考になる。
これらは,特に本稿の主題とは関係ないが,「ユーザーの声は大事なのよ」という一開発者としての声として,言っておきたい。
ホントに便利?
最初はなかなか取っ付きにくく感じても,今まで考えたこともなかった機能を見つけた時は,多少無理しても使ってみることが,多少遠回りに見てもより良い方法に近付く道となる。
読者の皆さんの身の回りにも,億劫がって折角の便利な機能(道具)を使っていないものが,ゴロゴロしているかもしれない。
時々意味の判らなかった機能(道具)も使ってみた方がいいだろう。
と言いつつ,私も面倒くさがりなので,あまり人に言えたものではない(笑)
道具に限ったことではない。自分に本当に必要なものはなかなか自分では判らないものだ。
自分が全然欲しいと思ってもいなかった事にこそ,本当に必要なもはあるものである。
「求めて与えられたものは,結構つまらない」
鳶嶋工房
http://member.nifty.ne.jp/ton_b/Text/Essay/d012.html
http://member.nifty.ne.jp/ton_b/Text/Essay/d016.html
http://member.nifty.ne.jp/ton_b/AppleScript/Diary/001.html
http://member.nifty.ne.jp/ton_b/AppleScript/Diary/002.html
http://member.nifty.ne.jp/ton_b/AppleScript/Diary/004.html
[7.9.1997]-[01.29.98]
[7.12.1997]-[01.29.98]
[7.16.1997]-[01.29.98]
[7.25.1997]-[01.29.98]
[8.15.1997]-[01.29.98]
■未来のインターフェイス
『コンピュータを扱う上で,速度や豊富な機能よりも重要な要素が,マシン・マンインターフェイスである。しかしながら「この操作性の良さ」という要素は,意外に軽視されがちな問題でもある』
消費者であれクリエーターであれ,常にモノを使う時にはインターフェースに触れずに済ますことはできない。ここで,少し未来のインターフェースについて考えてみるのも,そう時間の無駄ではないと思う。
未来のインターフェースは,間違いなく「コンピュータゲーム」がその鍵を握っているものと私は思っている(ここで言うのは特に家庭用やアーケード等のゲーム専用ハードのこと)「たかが遊び」と思う事なかれ,コンピュータゲームほど真剣にインターフェースがデザインされ,ユーザーからのシビアなリクエストを受けているものはない。
又,コンピュータゲームはあらゆるコンピュータ最新技術の実験場となっていて,インターフェースについてもその例外ではない。事実コンピュータゲームは常に新しいインターフェースを模索しており,機器にしろその使用法にしろ,非常にバラエティに富んでいて,殆ど1ゲーム1インターフェースという世界だ。世の中には「そりゃあもう大変な数」のゲームがあるので,それと同数のインターフェースが日々作られては消えていっていることになる(ビジネスソフトで「バーチャファイター」のようなインターフェースが出現することは,世界がひっくり返ってもないでしょうね)
ジョイスティックでお仕事
これはゲームの特性上「サイクルが早いこと」と「ソフトウェア専用のハードウェア」が作られてきたことに起因していると思われる(過酷な環境と多種の競争が,急速な進化の要因となった,と言えるんじゃないでしょうか)
また,ゲームを遊んで貰うには複雑なインターフェースはでき得る限り排除しなければいけない(ゲームセンターに行って,電話帳のようなマニュアルが匡体にぶら下がっていたら,だれもゲームをやろうとしないでしょう)ボタン一個を削る,操作一回を減らす,と言うことが大命題となるのだ。このような世界ではインターフェースはストイックなまでに洗練されていく(操作(機能)が増えること「そのもの」が,あたかも素晴しいことのように言われる,パソコンの世界とは大違いです)
実際の話パソコンは,ソフトウェア的には少々変化があるが,十数年も殆ど工夫らしい工夫もなく(むしろウィンドウズキーなど混乱に拍車をかけてさえいる)同じようなハードウェアインターフェース(キーボードとマウス)を使っているが,ゲーム機の入力装置は,圧倒的な進化を経て,初期のものに比べると格段の操作性を実現しているのだ。
「ガキの遊びと,大人の仕事では複雑さが違うんだよ」と言う方もいるかもしれない。
しかし,考えてみれば,未来の担い手である子供は,コンピュータゲームに馴れ親しみ,その操作を熟知し熟達している。もはやこれは大人の及ぶべからざる領域に到達していることは,誰しも肯定せざるを得ないところだ(「スト2」でオレのリュウをボコボコにしたブランカ使いのガキっ!忘れんぞっ!!オレはそのころ波動拳もロクに出せなかったというのに,クソーッ今思い出しても腹の立つ)
そして,優秀なインターフェースとは,「複雑な事を複雑な操作で実現する」のではなく,「複雑な事をシンプルな操作で実現する」ことにあるのだ。
そこで結論。
「パソコンばっかりやってると,時代に取り残されるぞ!コンピュータゲーム(特にゲームセンターの)をやり込め!!」
■見えないものは怖い
『人間何が怖いか,というと圧倒的に「見えないものが怖い」と言えるのではないだろうか。ウィルス,細菌,電磁波,電磁気,そしてプログラム』
人間は視覚により多くの情報を得ているのは間違いないところだ。
例えば,音声によるコミニュケーションである会話も,実は,身振り手ぶりや表情に多くの情報を得ているということが,最近の研究で判ってきている。
「見えない=コントロール(予想)できない」と考えるのか,一般に見えないものに対する恐怖は,並々ならぬものがある。
実際はそれが見えていようと見えていまいと,「コントロールできるものは,コントロールできる」のだから,「見えない=怖い」ではなくて,「コントロールできない=怖い」となるはずなのだが。
「見えない=コントロール(予想)できない」とはどういうことなのか,それは「コントロール(予想)できない=知識が足りない」と言っていい。
ここで「見えない」を「理解できない」と置き換えると,すんなり納得いく。
ということは,さらに「見えない」ことと同様に,「触れない」ことも,理解し辛いものとして,恐れを抱かせることになる。
「よるな,よるな!「○×菌」がうつる!」,いじめられる対象にこれといった理由はない,つまりは原因が「見えない」そこで同じく見えないものである「菌」を比喩的に使用するのかもしれない。
これは,とりもなおさず,子供に「正しい知識」が足りないゆえに起こることと言える。
同じく,昔の人にとってみても,細菌は全くワケの判らないもので,それらは魔女の仕業だったり,妖精の仕業だったりして,「とりあえず定義して納得」して「理解したふりをする」わけなのだが,結局実際とは違うので疑心暗鬼になって,結局恐怖はなくならない。
近年の科学の発達により,ハッキリと原因を特定することができて,恐怖は間違いなく減っている。
プリントアウトで確認
となると,現在発展途上や未開拓の技術・知識も,恐怖の対象となりえるのではないだろうか。
今やほとんどの情報がディスプレイ上で完結している,しかし,ほとんどの人は紙に出力しないと「落ち着かない」,これは必要がそうさせるのではなく,恐怖がそうさせるのだ。
また,電子マネーは,セキュリティの確立などの問題よりも,人々の触れない・見えない物に対する恐怖(無理解)が,その発展の大きな障害になるのではないだろうか。
そこで結論。
「可視の(理解できる)ものを増やすことが恐怖を克服する術だ。でも,理解したフリでは役に立たないぞ」
■不思議な質問
『ときどき意味の解らない質問をしているのを,見たり聞いたり読んだりする。それはまさに,ミステリー』
「タイムマシンがあったらどうしますか?」系の,条件設定の部分に現実には例となるものが無い出来事が入る,と言う質問がある。
私は,この手の質問には前から多いに疑問がある,それはもうピラミッドの謎よりも深い。
試しに下の質問について,詳しく考察してみることにしよう。
「一日が二十五時間になったらどうしますか?」
あなたならどう答えるだろうか?私なら,
「二十五時間になるということは,地球の自転周期が変わるということですか?時間の定義が変わって,二十五時間になるのですか?それとも一時間超常空間にでも行くって訳なんですか?」
と,答える。
一応言っておくが,意地悪で言ってるんじゃなくて(これも「意地悪しないで下さい」などという,トンチンカンな受け答えの経験から類推しているのだが),私には質問の意味が解らないのだ,これがサッパリ。
たとえば,質問者がこの問いにテキトーに答えたとする。
「えと,自転が遅くなったってことで・・・」
「そんなことになったら,地球は天変地異の雨霰(あめあられ)じゃ,おりゃサバイバルしてるね,絶対!!」
てことになる。想像すればすぐ解るだろうに?解らんのか?
これらの質問は,質問に答えられる前に,質問者が答えを用意しているのが見えるのが,非常にいやらしい。
ほべどろげんちょ
「一日が二十五時間になったらどうしますか?」
と言う問いに対して用意してある答えは,恐らく,
「一時間もらえたら,ともかく寝ますね」
「趣味の時間に使いたいです」
あたりのようだ。テレビやラジオから流れてくる町の人々の声を聞くかぎり,そんなことを答えている。
これらの答えから,質問者が期待する「常識」と言うやつを,推察してみる。
「まず24時間は,全く通常通りに時間が経過し,突然一時間自分一人に自由に使える時間が与えられる」
と,言ったところだろうか。
24時間が通常通りすぎると言う前提は,答える人間が「増えた一時間のことしか話題にしていない」ことから推察される。
自分一人が自由に使えると言う前提は,もし他の人々も同様に,一時間増えるのならば,今の24時間サイクルが,25時間サイクルに変わるだけで,特別にその他の変化があるとは思えない(詳しくシミュレートしてみると,意外なことが解るかもしれませんが,そこら辺はこの際問題ではないでしょう)ので,社会的に起こることではなく,個人に起こることだと推察できる。
しかし,この時だれしもおかしなことに気づく(ハズなんだけどなぁ)。自分一人に一時間与えられるならば,その時他の人々はどうなっているのか?
ここまで考察すれば,いかに私でも気が付く,「こいつら,そんなこと何も考えちゃいない」ということに。
しかしながら,私はそこで新たな疑問を浮かべずにはられない,
「何も考えてないのに,何で答えが出るんだ?」
どうも,私の知らないところで「みんなの常識大辞典」を使った勉強会が行われているようだ。
私にも「みんなの常識大辞典」を一冊分けてもらいたいものだ,しかし,その本をもらったところで,「みんなの常識大辞典」を読むための常識,が必要なのだろうが。
そこで結論(つーか,提言)
「すべての人間が自分と同じと思うなよ,むしろ,すべての人間が自分と違うのだ!!」
■バーチャル国家
『インターネットによって,ますます国家間の壁が薄くなっている今日この頃,未来の国家はどうなっていくのだろう』
なんてことの無い,平凡な九州は佐賀在住のサラリーマン一家,陣内(じんのうち)さんのお宅。
「ハル子,ハル子,ちょっとそこに座りなさい。近頃お前プエルトリコなんだってな。
母さんから聞いたよ,お前どういうつもりなんだ。日本人らしくだな・・」
「えー,マジィ。お父さんまだ日本人なの,ヤス子のお父さんなんかトリニダードドバゴなのに,せめてフランスぐらいにしてよぉ」
「なんだと,私たちは日本人なんだから,日本国籍を持って当然なんだ」
「お父さん,本気でいってんのー。お兄ちゃんなんかソマリアなんだから,そんなこといってるのお父さんだけだよ」
「なっ,タカオもか!!
おまえ達いつから日本人じゃなくなったんだ,お父さん気づかなかったぞ!!」
ハンドヘルドコンピュータを片手に,妻トミ子がとんとんと,階段を下りてくる。
「あらどうしたの?それよりみてみてアナタ,あたし今日からオーストラリアンよ,オーストラリア人だと,オージービーフが安くなるのよ,それに所得税だってずっと安いし」
「トミ子,おまえまで・・・」
ひっくり返るお父さん。
「あら,やっぱりイタリア人のままが良かったかしら」
てな社会が,もうすぐあなたの目の前に来る,かもしれない,なんて大胆に予測しちゃったりする。
あんたなに人?
そもそも国なんてモノはなんの実体もないものだ。「バーチャル国家」なんてタイトルをぶち上げているものの,国はそもそもバーチャルなのだ。
あなた国に触れますか,国を見ることができますか?
純粋な情報と言うやつは,金であったり,宗教であったり,惚れたのハレたのなんてのも,実体の無い情報ってやつで,これについては「見えないものは怖い」に書いたことに通じるところもある。
しかし,以前書いたものでは実体のあるものもあったので,そう言うものについては,まだ扱いやすい,実体を特定できるからだ。
純粋な情報というやつは,それらのものに比べるとまっことたちが悪い。そのモノが何であるかが特定できたと思っても,また違うモノに変容してしまったり,違う属性が付加されていったりする。
一つの国に住んで(属して)いても,時事刻々とそのモノは変容していく。
それなら,自分から積極的に国を変えてもいいんじゃないの?
というわけ。
以前から船籍なんてものは,持ち主の国籍にかかわらず,税金的に有利だったり,他に優遇措置があったりする国のものになっている。
「ギリシア船籍のタンカー」なんて言葉を見たり聞いたりしたことがある人も多いことと思う。あれはそう言う理由がある,ギリシアって結構船で儲けているらしい。
インターネットの事も考えてみればそうだ。サーバなんかは利用者にとって何処に存在しているかは全くどうでもいいことだ。サービスのよい所だったら「火星にあったっていい」
実際カリブ辺りの国では,サーバ管理を国の事業にしようというところもある。東南アジア辺りでもかなり盛んだ。
もはや,多くの人のデータは「特定の国籍を持たなくなってきている」
このへんで,持ち主の方も国籍を変えてもいいんじゃないだろうか。
そこで結論。
「コラ日本政府っ!今のうちからいい政策打って海外にアピールしておかないと,日本国籍なんぞ誰も持たんぞ!」
■話しかけるパソコン
『Macが登場して以来,パソコンに大きな革命はない。次の革命はなんだろう』
インターネットを含む通信技術の発達と普及によって,このところパソコンを取り巻く環境は大きく変化したが,パソコンそのものはたいした変化がない。
もちろん性能は大きくアップしているが,それは「直線的な変化」と言ってよく,CUIからGUIへの移行のような変化ではない。
となると文字(charcter base)の1Dから絵(graphic base)の2Dへと行ったのだから,次は3Dだろうと言うことになるが,それではあまりに安直すぎるというものだ。
パソコンはどういうベクトルをもって進化しているのかということを考えると,1D-2D-3Dという流れもあるが,機械(machine)寄りから人(man)寄りへと言う流れが主にあって,3Dへの流れは従だと言える。
言い換えると人間は「楽しよう楽しよう」としているわけだ。
昔:人間が機械に合わせていた。
今:機械が人間に合わせるようになってきたが,結局機械を知らなければいけない。
未来:人間が機械に合わせる必要はなく,対人と同じ感覚で使える。
(本当にこのようになっていくかは,私自身も多少懐疑的なのだが,今回はこうなるものとして話を進める)
具体的には,どうなっていくのだろうか。コンピュータと人間の違いを考えれば,自ずと答えは出る。
それは,「個性」と「自律性」である。
では,それらはコンピュータのシステムとしては,どういうふうに組み込まれてくるだろうか。
卑近な部分で考えてみることにする。
子ギャルマック
「個性」としては,システムの出すインフォメーションダイアログの内容であるテキストは,システム本体から切りはなし,自由にカスタマイズできるようにするのがよろしい。
そうすることにより,ユーザーによるインフォメーションファイルが出回ることにより。システムに色々な味(個性)を出すことができる。
ついでに「多言語化が容易」であること,「アップルやマイクロソフトのライターは日本語が下手なので,それを解消できる(とても重要かもしれない(笑))」というメリットもついてくる。
これを実現するには,システムを提供するときに,幾つかのシステムインフォメーションファイルを(ビルとエレンとスティーブとか(笑))用意する必要がある。
このとき,音声によるインフォメーションファイルも同梱できるようになると更に良い。
「自律性」に関しては,プッシュメディアが今後さらに普及するという,誰でも予想している(と言うかもはや確定している)ことではある。
また,AI的なもの(オフィスに付いてくる「ワン太」なんかは違うぞ(笑)まあやりたいことは解るが)が,次の一手や曖昧な表現を適当に解釈して,提案してくるようになる。
現在もっとも近しいテクノロジーは,FEPもしくはIMなどと呼ばれる日本語入力のプログラムだ。これらのプログラムは現在でも,曖昧な表現を受け止め,正解に近いと思われるものを提案している。
ここらが,次世代の(日本語圏でないコンピュータも含めて)鍵を握っているのではないだろうか。
そこで結論。
「今からしっかり考えて行動する訓練をしてないと,コンピュータが全部考えるようになってしまうぞ」
(よーするにビルゲイツにいいように操られてしまうってことか?)
■完成するものしないもの
『こういうの作りたいなぁ,と思っていてもなかなか作れないもの。モノを作り上げるにはどうしたらいいものか』
趣味や仕事で,特に創造的なことをやっていないと思っている人でも,結構作りかけて,ほうりだしてしまった作品というものが存在しているのではないだろうか。
「私はモノを作るなんて...」という人もちょっと待った。
人の本質的な特徴として「モノを作りだす」ということがある。人間であるかぎり何かを作り出したい,という欲求は誰にでもあるわけで,自然個々人に固有の作品というものがどこかに存在しているはずだ。
それらは,おそらく自分では「恥ずかしくて作品として認めていない」のではないかと思う。
これが,作品が完成しない理由の一つとなっている。
どうも実力と作りたいもののレベルがかけ離れているのだ。
自分が何を作れるかとか,モノを作る作業とかがイメージできていないわけで。
要するに,途中の過程をすっぽかして完成したものだけを夢見ているのだ。これでは,モノが完成するはずはない。
先ず最初は「そうとうなブキッチョや阿呆でもできるだろう」という事から始めれば,確実に完成できるし,モノを作る作業や実力が把握でき,次はもう少し複雑なものが作れるようになる。
どんな人も,これを繰り返すことによって,実力を上げていっているわけで,いきなりすごいものは作れない(のが普通)
未完成なのに...
すこし細かく見ていってみよう。
モノを完成させるためには三つの重要な過程が存在する。
つまり,
「作り始めること」
「作り続けること」
「妥協すること」
何を当たり前のことをと思う方もおられることと思うが,ここで重要なのはこれらの三要素には,「一切実力は関係しない」ということだ。
別の言い方をするならば,「実力がなくてもモノを完成させることができる」ということであり,「いくら実力があっても完成しないこともある」ということなのだ。
この三要素を個別に見ていこう。
作り始めること,これは実に重要で,「作り始めたらその作品の60パーセントは完成している」という人もいるくらいで,ともかくこの部分のハードルは高い。
この部分で完成させる目処がついているかどうかが,モノを完成させるときに重要で,逆にいうとこの時点で目処がついていないものは,大抵完成しない。
作り続けること,これは三要素の中では割合簡単にできることだ。
少しでも作っていれば,遅くても,ともかく完成に近づく。
これがうまくいかない人は,三つ目の要素である「妥協」ができずに,結局作っては戻り作っては戻りとやっていて,全く進んでいない(事実上作っていない)わけだったりする。
妥協すること,完成させるのにもっとも重要な要素がこれだと私は見ている。
何といっても,完成する直前にすることが「妥協」である。この過程を過ぎると完成になるのであるから,これほど重要なものもないだろう。
勿論,妥協しなくても完成する場合があるのだが,「そんな幸せな場合は極々少数」
たまに,完成のイメージだけガバーッとあって,一気に完成させちゃう強者もいるが,それはおいといて,結論。
「自分の実力を見極め,妥協し続けることが完成への道」
(悲しい結論だノウ)
■多機能・高機能神話
『パソコンは勿論,様々なもので多機能・高機能が叫ばれるが,冷静に多機能・高機能がいいものかと考えると,実際はそうでもない』
多機能化は,使用者の習熟期間を増大させ,目的を不明確にし,製造コストを増大させ,複雑化により製品は脆くなり,メンテナンスをやりにくくする。
高機能化は,同一のテクノロジーレベルで作られた製品は,全てを高機能化することはできないので,コスト・スペース・その他諸々の「高機能化のために必要な余計なもの」が付いてくる。
はっきり言って,ろくなことはない。シンプルイズベストとはよく言ったものだ。
それでも多機能・高機能が声高に叫ばれるのは,見えないものは怖いの論旨で行けば,消費者が明確で適切な価値判断基準(知識)を持たないゆえに,従来の価値判断基準(数量)に換算してしまうから,といえる。
曰,国内外8000本のソフトウェアを収録(編集するのが面倒だっただけだろう)
曰,180もの豊富な編集機能を搭載(そのうちいくつが使える機能なんだ)
曰,CD-ROM5枚組で,感動のスペクタクルをお届けする(データを短くまとめきれなかった言い訳か?)
曰,フルカラームービーの映像が貴方のハートを直撃する(フルカラームービーが表示されるのに5分も待たされれば,どんな人にも直撃しない)
etc.etc.
恐らく「知っているが,躍らされてしまう」という人もいることだろう,スペックフェチ,ハイスペックジャンキーとでもいう症状だ。
その手の人に言う言葉は一つしかない「解っているなら踊るな」である。意外に簡単に踊るのを止めることができるだろう。
好きで踊っている人には何も言わない。好きなだけ踊って欲しい。私も時々やる(笑)
それは腕時計じゃない!
例えば,パソコンで動画が動いても,全然たいしたことではないのだ(テレビを見たことがないのか?)コンピュータ上で動くからには,インタラクティブ性を強く持っていないと,テレビやビデオに対する優位性(アドバンテージ)がないからだ。
従来のメディアで可能だったことがパソコンの上で展開されることにさほどの意味はない,問題は「その後」なのだ。
パソコンにテレビを求めてしまうのは,消費者の多くは(潜在的な者も,既に所有している者も)「パソコンが何だか解っていない」からだ。
パソコン(コンピュータ)は登場したときからすごいものだった,何がすごいかというと,他の道具や方法に置き換えることができない能力を持っている,所がすごい。
言い換えれば,他の道具や方法で置き換えることができる部分は,たいしたところではない。
一例を挙げるなら,電子メールは簡単に速く「文字を送れる」のが凄いのではない,文字を送るのに紙という「物質を消費しない」事が凄いのだ。
パソコンは,なにもここ何年かで凄くなったのではない,ここ何年かはパソコンにできることが,視覚に訴えるようになってきたに過ぎない。
そして忘れがちになるが,重要なことは「視覚に訴えることはパソコンの重要な機能ではない」ということだ。
そして,パソコンが何か知らない人は実にちんぷんかんぷんな機能をパソコンに求め,そして失望する。
そこで結論。
「容量のでかいソフトは,悪いソフトと断定して八割がた正解」
■ロマンチックな科学
『科学的で魂を否定する論調は,しばしば冷たく見られがちだが,本当のところはどうなんだろう』
ドーパミンやらエンドルフィン,アドレナリンなど,あまり化学情報に興味がない人でも,どれか一つぐらい聞いたことのある物質があることと思う。
これらの物質はいわゆる麻薬と類似した構造と効果を持つ体内化学物質で,ドーパミンなどは人を「非常に幸福で満たされた気分」にさせてくれると言う。この状態は,麻薬によってもたらされるそれと類似していることが解るだろう。
恋愛状態には,このドーパミンが分泌される量が多くなるそうだ。
極論するならば「自然とお互いに引かれあって恋に至るのも」「麻薬を打っていい気持ちになってヤッちゃう」のも,その瞬間の身体的状態としてはほとんど違いがないと言える(麻薬の方がより直接的かつ急激に供給されるため,長期的には体に非常に悪い)
また,不幸な幼少を過ごすと,分泌器官が十分に発達せず,幸せを感じにくくなるという報告を読んだ記憶もある。
このようにドーパミンなどは「喜びの物質」といっていい。他にも,いろいろな感情に対応した「緊張の物質」やら,「怒りの物質」とでも言うものが発見されている(ただし,まだハッキリとしたデータが取れているのはあまり多くないようだ)
人が悲しくて涙を流すのは,体内にある「悲しみの物質」を排出し,正常なバランスを取るためだという話もある。
他にも,麻薬を常用していると,同じ役割を持つ化学物質の分泌機構が鈍って,必要なときに物質が分泌されなくなるらしい。
このように近年の研究の成果によって,人の性格やそのときどきの感情というものは,物理的・化学的な原因に基づくものであることが,かなりの信憑性を帯びてきたと言える。
(ちなみに,ABOBAの血液型は性格を司るものとしては忘れた方が良い)
「なんか,そんなのって,ちょっと悲しいよねー」
なんて声が聞こえてきそうだが,感情の価値が落ちたのではなく,物質にそれだけの力があることが分ったにということだ。そういう事実事体が,感情の価値を下げたりはしない。
もし,感情制御物質が量産されて手軽に手に入るようになったりしたら,かなり価値は落ちるかもしれない,しかし「嘘の感情」は,今でも結構お目にかかることができるので,たいした違いはないとも言えるかもしれない。
もう一度いうと,科学的に解明されたということだけで,ものの価値はかわらない。問題はその後だ。
科学的なお守りです
例えば,本を読んで感動したりする。映画を,絵を見て感動したりする。
我々は本が紙とインクであることを知っている,だからといって「紙とインクで感動はできない」などと言ったりはしないだろう。他のものにしても同様である。
事実を知ることは,より純粋に本質に近付くことを意味する。本であれば「紙の精霊」の仕業ではなく,小説家の(また,その他本を作った人々の)力で感動したことが解り,本には正当な評価が与えられる。
昔は,月にはウサギがいたり美女がいたりしたものだが,今どきそんなことを言うとバカにされること必至である。
それを「夢が無くなった」と言う人もいるが,科学的な方法によって,月に行くという「夢が実現した」ということを忘れてはならない。
科学は夢を現実にする力がある。私は他の方法を知らないし,おそらく他に方法はないだろう。
これは「科学は夢を見る者の必要条件」と言い換えてもいいと思っている。
「ただ夢見ても夢は実現しない,夢は科学的方法によって実現されてきた」
鳶嶋工房
http://member.nifty.ne.jp/ton_b/Text/Essay/d001.html
http://member.nifty.ne.jp/ton_b/Text/Essay/d012.html
http://member.nifty.ne.jp/ton_b/Text/Essay/d016.html
http://member.nifty.ne.jp/ton_b/Text/Essay/d006.html
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