2021年3月3日水曜日

[社会] ヒッピー文化とマルチメディア/パーソナル・コンピュータ


 [社会] ヒッピー文化とマルチメディア/パーソナル・コンピュータ
福富忠和
LSDは1966年にカリフォルニア州で非合法化され,弾圧や反省の中でマルチメディア・ショーもドラック色のものからアート色の強いものへと変わっていく。1966年の「ザ・ラブ・ページェント・ラリー」を経てティモシー・リアリーやアレン・ギンズバーグ,ジェリー・ルービンなどが参加したベトナム反戦イベント「ザ・ヒューマン・ビーイン」へと続くこうしたイベントは,一般に「ビーイ(Be-In)」と呼ばれた。
1967年6月には「ザ・モンタレー・ポップ・フェスティバル」開催。ジャニス・ジョプリンが熱唱しジ
ミー・ヘンドリックスがギターに火をつけ,ザ・フーはステージをめちゃくちゃにする,というライブ・アクトのこのイベントでも,スライド,8ミリ,リキッド・プロジェクションなどのマルチメディアのスタイルは踏襲された。同月にはビートルズがこうした動画の影響を受けテープ・ミュージックの手法を取り入れLP「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を発表。これらの報道を皮切りに若者がハイト・アシュベリーに集まり,いわゆる「サマー・オブ・ラブ」が生まれた。この盛り上がりは同様のイベントを経てウッドストック・アート・アンド・ミュージック・フェア)」へと繋がっていく。しかしそこではメディアを複合されたアートの前面は薄れ,屋外ロック・イベントの側面がクローズアップされた。
日本でも小杉武久らによって1969年東京で開催された「Intermedia ARTS Festival」の宣伝文にすでに「マルチメディアアート」という言葉が使われている。
「歓びと革命!!! JOY And REVOLUTION.....電子時代における芸術の復権,1960年代のハプニング,イベント,エレクトロニック・アート,コンクリート・ポエトリー,トータルシアター,マルチメディア・アートなどの構造主義的変革!!」
これら「マルチメディア」という言葉によって意識されていたのは,当時発行されたマクルーハンのメディア論である。マクルーハンが分析したラジオなりテレビなりの新しいメディアが,いずれも一元的な「ブロードキャストなメディア」だったのに対して,マルチメディアは直接に「多元的な(multiplicity) メディア」であることを主張するものだ。彼らが対抗していたのは、ナチスのメディア技術であり,オーウェルが描いた「1984」の世界だった。実際,先のジャニス・ジョプリンのグループ名(ビッグブラザー&ホールディングカンパニー=小説「1984」の独裁者の名)や,マッキントッシュの発表時のCF
(「1月24日アップルコンピュータはマッキントッシュを発表します。そしてあなたは1984年がどうしてあの1984年ではないのかを知るでしょう」)では明らかにそれが意識されている。対抗文化の異議申し立てがメディアに及んだのがマルチメディアなのだ。
ー雑誌Studio Voice,1994.12

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