2025年12月21日日曜日

[スポット][東京秋葉原] 昨日町徘徊記/秋葉原,2025.12.21




 [スポット][東京秋葉原] 昨日町徘徊記/秋葉原,2025.11.16  
🕐24.11.23
8月〜10月に撮り溜めていた画像と合わせて投稿。私的買い物メモ。
時間加速感がすごい。午前11時に出る段で,日没時間の到着を想定する。実際その位のイメージでないと,色々上手くいかない。時間加速感は年齢的な要素はあるものの,そういうメンタルな要素というよりは,現実の時間が加速している。「実際,高校生が時間加速を嘆いている」という言葉を数年前にラジオで聴いた。「9月過ぎたらお正月」。マヤの「時の終わり」予言を最近よく考える。人への想念の伝わり方も,20年前の3次元世界とは異質で,環境自体が4次元界に移動している気がする。
昼に日暮里を出発して,徒歩で秋葉原へ。別に電車賃180円ケチるためではなく健康のためのウォーキング。日暮里>>秋葉原>>神保町>>日暮里の行程で,ジャンク電機と古書をいくらか買う。
秋葉原は,夏場過ぎてインバウンド減って,個人的には嬉しい。客層は若年層が圧倒的に多い。昔棲息していたヘンな中年は滅多に見なくなった。何故か? コロナで没った? ケバブ屋とトレカ屋が増えて電気街的イメージは薄れている。
だいたいチェックするのはジャンク通りのあきばおー,ujMac,QCPass辺り。地階店や2階店は面倒なのでパス。買うのはたいてい数百円のジャンクのみ。単価安い客。日曜日の買い物は
PC用バッグ 400円
モバイルバッテリー(10000mAh) 680円
で都合1080円。神保町の古書は100円>>200円に値上げする店が増えてる。神保町の価格帯は,だいたいBookOffとAmazonがベースになってるんだろうか。
◇Geno QC Pass
中古PC販売。去年あたりから,店の半分がトレカコーナーになっていたが止めて中古ゲーム機コーナーに変わった。大分前にやめたスマホケース販売が復活。コロナ前までは,どういう経路か知らんがOwlTechの未使用ケースを大量に投げ売りしていた。そのうちQCPassの裏に「ReGuild」という中古OwlTechケースの専門店が出来て5年位やっていた。ReGuildは今は閉じてトレカ屋に変わった。
◇あきばおー
モデルガンとキャンプグッズ増える。主力はUSBメモリーからSSDスティックへ移行。256MB以上のUSBメモリーはもう買っても意味ないかもしれん。microSDカードは256MBあたりが主力になってきた。来年秋辺りになれば1TBクラスのSDが5000円で買えるようになるかもだ。
◇じゃんぱら
秋葉原警察署のある昌平橋通りの,かつてSofmapのあった敷地はじゃんぱらが入っている。店頭の安モバイルバッテリー(680円)を買う。iPhoneX(2万円台), iPhone11(3万円台)という感じで,店内の中古スマホの安さに驚く。
◇オノデン
昭和時代の秋葉原の空気残っていてホッコリする。レトロブーム以降は若年層客が増えた。実際に花柄の魔法瓶,ジャーやダイヤル式のLEDテレビとかがある。Bluetoothラジカセは魅力的だ。
◇秋葉原デパート
シャッター通り化。数店が細々と電機部品売ってる。AMラジオ停波の時代にラジオ工作する人は少ない(シロート感覚ではラジオ工作しか発想ない)。真空管のジャンルは未だに強いが。地階の「秋葉原最終処分場」というジャンク屋は盛っている。店名のインパクト凄い。1階の中古ファミコン店も盛っている。昭和期の記憶閑話。80年代,山梨で高校通ってた頃,「数理部」っていう,実質ファミコンで遊んでるだけの集団がいたが,今考えても大分トガっていた。教室にあったのはマイコン,ファミコンの類だったが,自宅にはAppleがあった。数ヶ月に一度ペースで秋葉原に行っては,リアタイでAppleIIのジャンク買ってゲームをやっていた。大学になって,そいつは「いらなくなった」と言って,AppleII本体とゲーム一式を俺に売りつけたんだが。けっきょく俺は,そのAppleを対して使いもせずに大学の同級生に売った。今考えるとトンデモない高価な代物を5000円ていどで流していた。もったいない(笑)
◇BICカメラ
3Dプリンタが大分安くなってきた。とはいえ個人所有という所まではいかない。作りたいものがある訳でもなし。強いていえば無くなった電池のフタとか。丸一晩かけて電池のフタ作るっていうのも相当オシャレだよな…今のところは,どこか安いレンタル工房見つかればそれでいい。近所の画廊で3Dプリンタで作ったらしき龍グッズ売ってるが閑古鳥だ。
🕖️25.1.30    
上野に行きがてら秋葉原へ。何も買わず。いくつか商品情報ゲット。いつも商品物色が主で,別に買いに行く訳じゃない。近年の秋葉原は若年令化。昔みたくヘンなヲタクおじさんは滅多に見かけなくなった。インバウンド少なく快適。バフェットが手持ちのApple株を全部売ったらしい。って事はAppleに未来を感じないって読みだろう。アップグレードするのは値段ばかり?なのかどうなのか,ジョブズさん独りの発想力が,大人数の開発チームを凌ぐという証明。さいきんGoogleGeminiというAIを使うようになった。Googleアシスタントをあんなにウザがってたのに,中身そんなに違うか?(笑) 中華AIのDeepSeekがこの数日話題。オープンソースの無料AI。バイデン民主党政権>>トランプ共和党政権のこの時期を狙っての発表っていうのは,トランプ政権潰しという読みもある。実際NVIDIA株は相当落ちたらしい。実力は米AIを凌ぐらしいが,問題は中共思想だそうだ。Youtubeでは常時中華崩壊ニュースに溢れるが,リアルな状況っていうのは,高島康司氏の語る経済強国からテクノロジー強国への移行っていう,割とシビアな状況に近いのかも知れん。あとは問題は中共思想だな(笑)
◇あきばお~
1TBのSDが1万円前後まで下がってきた。1TBのSSDもそろそろ射程範囲。Win10のPCが投げ売り。STEAM用のサブ機にいいかも。スマホ用のゲームパッドが7000円前後。
◇GIGO秋葉原/RetroG
レゲー専門フロア。SEGA秋葉原の遺産。『Metro Cross』『Gaplus』入り『Space Harrier』『Xebious』消える。『Gaplus』はナムコの1984年のゲーム。『Gaplus』『Galaga』辺りはツボで,RetroGでプレイするのはいつもこの辺。ヘタクソってのもあるが,令和の今も充分プレイに耐える面白さがあって,奥深い。レゲーといえども客層は10代20代。時代超えて訴えるモノがあるらしく,ハマってプレイしてる印象がある。
◇イヤホン屋
5Fの中古ポタオーディオフロア行きたいがエレベーターなくて2Fの有線イヤホンフロア観る。わりと客多い。価格帯は3000>>50000円。5万円の有線イヤホンって… そういう時代か。プロのミュージシャンとかは耳の型をとって,オーダーメイドのイヤホン作るらしいが,そういうサービスもある。
◇千石通商
なくなった記憶あるけど,線路脇エリアに移転したという事か。
◇まんだらけ
平日で空いてる。古いプラモ眺めるのが楽しい。デカい外人が同人誌フロアからエレベーターに乗ってきた。
🕖️25.3.20   
東京で雪。朝から予報があったので上野マックで待機。日没頃から,雪が降りはじめる
🕖️25.11.16
散歩の先に秋葉原。目的なくとも秋葉原見とかないと落ち着かない。秋葉原も決まった固定コース回るだけだが。相変わらずインバウンドで溢れているが,裏のジャンク通りはインバウンド少なくていい。
◇開閉店
GIGO1号店>>SilkHat
駅前のゲーセンがプライズゲーム専門店SilkHatに。
まんだらけComplex2
トレカ専門店開店。ジャンク通り。
PCEYES
ジャンク通りのPremium Stageのあった所。PCEYESって店に変わってた。
CompuAce
委託販売のコード類専門店CompuAceが閉店。魔術系グッヅが併設されていて,あと如何わしい著作フリー音源のCDとか,昔の秋葉原の空気のある店だった。残念。
ミツワデンキ
秋葉原電波会館の電灯専門店が閉店。
野郎ラーメン秋葉原総本店
建物老朽化で取壊しのため閉店。「第一章完」ってあるから新ビルに入るのかな。いつも満員だったし。
◇GIGO秋葉原2号館 RetroG
6階のレゲーフロア。インバンドでごった返す。テーブルゲームが液晶に替わって残念。ブラウン管は電気食うからね。
🕖️25.12.10
秋葉原通過。高市政権の台湾有事発言でC国民引揚げ。街の雰囲気はこんなにも変わるのかと驚く。駅前のラジオセンター。入口のケーブル屋と2Fの菊池無線,昔の雰囲気のブース撮ったが1週間後にこの2店が年内閉店との報をネットニュースで知る。虫の知らせか,最近こういう勘が発達している。
◇ 牛丼サンボ
秋葉原ジャンク通りの牛丼専門店。サンボ,パンチョ,ラホールは同じ一角にあるが今日はサンボ。16時頃利用。大盛玉子(910円<<830円)。吉野家も値上げで久しく行ってないが,こっちもジリジリ値上げか。「これぞ牛丼」的な味に満足。写真はOKになったようだ。
🕖️25.12.21
日曜日,年末買い物に秋葉原へ。ソフマップ・プレミアム会員は年間1万円以上買わないと年会費払う義務が発生するので年末買い物。去年退会書類取り寄せたんだが,面倒でそのまま。まんまとソフマップの策略に嵌っている。ボチクリおじさんのセルフ・クリプレ(笑) コロンバスサークルのFC互換機/ IPS 8Bit Pocket HD(16800円くらい)購入。ここのところファミコンソフトもジリジリ値上がっていて,ここらで押さえとかんともう高嶺の花で買えなくなるかも。という訳で遅まきながらコレクション再開。『ゼビウス』(550円)『エグゼドエグゼス』(430円)で年末年始は遊ぶ予定。

tghhjjh pc       







































































2025年12月16日火曜日

[スポット][東京秋葉原] HEY(Hirose Entertainment Yard)/25.11






[スポット][東京秋葉原] HEY(Hirose Entertainment Yard)/25.11
HEY(Hirose Entertainment Yard)の巨大レゲービル。レトロゲームの要塞。2〜5階。運営は広瀬無線だろうか。3Fに喫煙所あり。営業時間:〜23:00。
🕖️2021.3
2021年冬のコロナ封鎖期間中,カフェ難民のワイは行き場がない。。という訳で毎夜,20時以降唯一営業しているこのHEYにお世話になった。。ついでに当時のゲームに再度ハマってしまった。封鎖解除の3/24現在,カフェの終了時刻は20時から21時へ1時間延長。もとの街にもどりつつあるものの,HEY通いは続きそうだ。。。
客層は50代60代ばかりではなく約半数は10代20代。ゲーム自体の魅力が薄れているという事だろうか。ネットワーク化で大画面でコスパははるかに上がっている。にもかかわらず客が少ない。この日のSEGA1号館上層階の次世代ゲームフロアはほぼ無人状態だった。。まあ大雑把な印象だがそういう傾向はある。。
🕖️2021.8
営業時間が〜23:30になっていた。タイトルに大きい変化はなし。一部タイトルは電子マネーのみ割引。隣のセガゲーム館にレトロフロアが誕生したようなので,次回行きたい。
🕖️2022.3   
連休とて特にイベントもなく,二度寝して酒呑むくらいしかやる事ないのがルーチン。作業終えて夕刻秋葉原帝国へ。。SEGAゲーム館がとうとうGIGOゲーム館へ。。GIGOに行っても良いが,今日はHEYへ。。
大体決まってプレイするのは『19XX』。ヘタクソが何万回プレイして依然ヘタクソで。単に経営者に小銭入るだけで,こっちもそれは理解している。只感じる幸福感は,ゲーセン衰退期に放棄したテーマに再度取り組めるという事なんだろう。。それで広瀬無線に小銭が落ちるなら本望だという気がする。。いつかより「進化した」ヘタクソにならん。。
🕖️24.9.8
日曜日,久しぶりに秋葉ホコ天を堪能。HEYでSEGA『 Fantasy Zone』プレイ。『TwinBee』とか,割にファンタジックなビジュアルが好きだった当時。
HEYの方はアクリル板も消えて,ゾーニングも改善され,より映え映えなビジュアルに。インバウンド少ないのもいい。
🕖️24.11.23
日曜日,秋葉ホコ天を堪能。夏場に比べインバウンド減って快適。HEYは盛況。あの時代のアーケードって,世代越えるキャッチーさがあると思う。『Strikers1999』をプレイ。SEGA『 Fantasy Zone』は消えた。『沙羅曼蛇』の強者が延々とプレイ。
🕖️25.8.1
台風9号が通過中,JINSでメガネ受け取りに秋葉原へ。度付きサングラスで11000円強は安い。以前から狙っていたスーファミの携帯プレーヤーも購入。かえりにHEYでプレイ。『エイリアンシンドローム』『魔界村』『テトリス』があったコーナーがプライズゲームに変わった。
🕖️25.11.26    
2Fは『奇々怪界』『Moon Patrol』辺りが新しいタイトル。『Dragon Braze』プレイ。3Fの巨大フロアに足を踏み入れる。2Fにあったパズルゲームは3Fに移動していた。3F『熱血硬派くにおくん』をプレイ。何故こんなに快適なんだ?と思ったら中華民がいない。高市の台湾発言で中華民の中国引揚げは本当だったのか。
#ゲーセン,#レゲー
#ゲームセンター

ghvvbhh pc 















Dragon Braze

奇々怪界


熱血硬派くにおくん

2025年12月13日土曜日

[機器][ゲーム] SUPER POLY 64 SUTATIONほか~FCパチモノ・コレクション


[機器][ゲーム] SUPER POLY 64 SUTATIONほか~FCパチモノ・コレクション
◆ SUPER POLY 64 SUTATION
なんちゃって初代プレステ似!
2016-02-10 23:52:00 | パチモノ考
本日、某通販店から
久々?に荷物が届きました!
その中身は、といいますと、これ!
つい、懐かしくなり
ポチってしまいました
SUPER POLY 64 SUTATION(スーパーポリー64 ステーション)
プレイステーションとN64を足して2で割り
それをスーパーにしたような
何ともゴージャスなネーミングですね(笑)
パッケージ内に同梱されているのは
本体、ACアダプタ(220V仕様)、
モノラルAVケーブル、コントローラー×2個、
N in 1 ゲームカートリッジ、説明紙片
本来は銃コントローラーが付属するのですが
通販店によると、中国の税関で「危険扱い」とされ
輸出不可能なため、割愛されているようです(汗)
まさか、日本へ武器?を輸出して
将来に禍根を残さないようにとの
中国サイドの深慮遠謀なのでしょうか!?(笑)
つい先ごろまでは、そうじゃなかったのにね~
店の味のある商品説明を引用して紹介しますと
あの初代プレステ似のファミコン互換機
「ポリーステーション」が復活!!
その名も「SUPERPOLY64 STATION」♪
本体の形状はそんまんま「初代プレイステーション」タイプ。
本体の「フタ」を開いて、
ファミコンカセットを差し込む古典的な仕様となっております。
左の青ボタンで電源ON/OFF、赤ボタンがリセット、
そして緑のボタンがやたらと開けづらい「フタ」が開きます....
いえ、開こうと頑張ってます!!
無事に開いたらいいですねえ.......(謎)
この手の物は、フタが開きにくいのが
常ですからね~
因みに当方のは、スンナリ開きましたw
フタの上面に目をやると
何やら意味深な凹み発見!
う~ん
例のロゴが、ピッタリ入りそうな・・・
この怪しいさが、たまりませんねw
コントローラは
この本体のために存在していると言うべき
このタイプ!
近ごろは、かなり流用されて、
互換機では標準タイプとなっていますがww
というわけで、期待を裏切らない
こんな感じの互換機です
ただ、ビデオ方式がPALなので
プレイしたいという方は
対応映像機器でお楽しみください
https://blog.goo.ne.jp/pachifami_091/e/af8d1474・・・
初代PS型は、既にコレクションしているのですが
何台あってもいいものですね~
って、これもパチモノウイルス感染症の
症状でしょうか・・・・(笑)
◎ 関連 なんちゃって互換機
https://blog.goo.ne.jp/pachimomo_091/e/ada07bd6・・・
https://blog.goo.ne.jp/pachimomo_091/e/2db4efaf・・・
それでは最後に某通販店による
「なんちゃって互換機」の心得を掲載しておきましょう~
※本場中華のパチモンですのでその作りはそれ相応です。
 (普通に国内の新品ゲーム機の作りを求める方にはオススメ出来ません)
※壊れやすいので丁寧に扱って下さい。そう、愛を込めて優しくね。。。。。
※作りの粗末さからくる故障等はご自分で修理をお願いします。
 (サポート対象外です)
※あくまでも「コレクション」の一つとしてお考え下さい。
 ゲームをやり過ぎるときっと壊れます。いえ、絶対に壊れると思います。
それが「中華」です
   
パチファミ伝説
https://blog.goo.ne.jp/pachimomo_091/c/f5f7f001a307547059dd1e9a00b6fcba
https://blog.goo.ne.jp/pachimomo_091/e/5b3203764f7d3487f70636bc35da88c9
https://blog.goo.ne.jp/pachimomo_091/e/c9217a68377ba59be3607a5835ce971a
https://blog.goo.ne.jp/pachifami_091/e/03f6189854426a3ad35d0c4f4b4eac6f
https://blog.goo.ne.jp/pachimomo_091/e/79be09da1273dce89eb296caad3712b4
  
珈琲おいしい
https://blog.goo.ne.jp/kuroo0/e/7eaf62511d198fe5e4d111615923f031
 
ひゃくごじゅういち
https://blog.goo.ne.jp/psparayuki/e/b054bc414a1042da5f8e580fe7536db1
 
セグメントゲームズ
https://blog.goo.ne.jp/partygame/e/cae5ac0264a67dbba67a63fb83ec9716
 
師匠のゲーム日記
https://blog.goo.ne.jp/tkm4622
    
ゲーム好きのおもちゃ箱
https://blog.goo.ne.jp/hibani-831-2021/e/3b32ca8f05143673aa2beeb98c9984d3
                     
ゲームのやり込みとかニコ動とか
https://blog.goo.ne.jp/oya-hitobashira-no-yousuga/c/5ffd70dc86fb67d5528d0423db84666c
https://oya-hitobashira-no-yousuga.hatenablog.com/
     
Y.Y.Yの1000万点日記
https://blog.goo.ne.jp/yoshitaka818181/e/1c0fd2a4710c84996a7bd7e5f58be0d2
https://yyy830527.hatenablog.com/
     
英国紳士の夜
https://blog.goo.ne.jp/mc-nekotan/e/cd456cbcd04a23faa46754ba7c06bc66
https://ameblo.jp/chunpei1124/
     
ガラクタな部屋
https://blog.goo.ne.jp/meg_8086/e/e252ff269b73f54e144c672900f96924
https://megom-8086.hatenablog.jp/
     
腕の差はキャラでカバー(改)by楓
https://blog.goo.ne.jp/sddkaede/e/29428a9f783c25e7edc7dca052ac2abe
https://blog.goo.ne.jp/sddkaede/c/f3eb045ebf4910786b84d44fe1e42ec7
     
薙空間
https://blog.goo.ne.jp/nagi3374/c/ee39b80ee96f014ebc34757a1b3f78fe
https://blog.goo.ne.jp/nagi3374/c/d8a680089544193910d1447c9e9bb1b7
     
     
     
     

SUPER POLY 64 SUTATION



2025年12月6日土曜日

[ネタ][メシ] 三田製麺所つけ麺,鬼滅タクシーほか/ 24.11.23〜伊集院光『深夜の馬鹿力』

mainimg_ijuin.jpg


[ネタ][メシ] 三田製麺所つけ麺,鬼滅タクシーほか/ 24.11.23〜伊集院光『深夜の馬鹿力』
伊集院光『深夜の馬鹿力』/24.11.23 〜鬼滅タクシーほか
今週気付いた事コーナー
24.11.23(火)          
25.07.01(火)          
■ 三田製麺所の卵かけ麺
YouTubeとかTikTokとかさ,知らない間に俺の好みにどんどんカスタマイズされてくから,「なんかよく最近TikTokで観るじゃん」って言っても話が合わなかったりすんのかもしんないんだけど。三田製麺所っていうつけ麺屋さんの卵かけ麺っての,よく出てくる? 俺なんかtiktokYouTubeのショート動画でしょっちゅう出てくるのよ。で別にじっくりは観ない。元々僕はつけ麺っていうのがそれほど生活習慣の中になくて,そんなにしょっちゅうラーメン屋さん行かないし,さらにはつけ麺って,あんまり意味がわかんないっていう。 その…特に熱々麺の熱々スープのつけ麺はまんまで良くないか?みたいところがちょっとある。で,さらにはつけ麺であるがゆえにドロっとしたスープになってて,多いのが煮干出汁の,ちょっと酸味がある煮干しの苦味のあるヤツが多くて。で俺は割とバカ舌だから,そんなに複雑なことやられても…って感じ。あんまり俺は元々そのつけ麺に目が止まることはないのに,それやたらレコメンドに出るんだよね。何なんだろう? 例えばさ,割と思考が似てる,前に座ってる河野かずお。野球とかよく観る河野のTikTokレコメンドにはメジャーリーグベースボールのファインプレー集とかよく出るでしょ? あと老人だけの村でキノコをぶつけあう祭りとかちょいちょい出るでしょ?(笑)  それはその多分みんなの共通のものつって。 多分それで弾けたキノコが眼球から吸収されるんだろうね…恍惚の表情で90代中盤のジジィとババァがよだれ垂らして笑ってるヤツなんか,もうすごいヘビーローテーションで出てくるじゃん。 なぜなら俺はそれをすごい観るから。この人のお好みっていう。でなんかその間接的に多分,それとメジャーリーグとその奇祭の兼ね合いでまァその多分卵かけ麺になってると思うんだけど。
つけ麺の塊の上に黄身だけの卵が2個乗ってて,濃厚な黄身だけの卵が2個乗ってて,で多分それ観て,その場ですぐシュって別のショート動画行っちゃうから,その後は観てないけど,多分それの食べ方みたいな。よく卵を混ぜて食べましょう。 みたいな,そういうことになってると思うんだけど。で,まァとにかく回数をやたら観てて。で三田製麺所って,都内に結構あるよね。 たまたまその三田製麺所の前通ったから,ちょっと食べてみようかなって食べた。これがなんかその元々「製麺所」って名前ついてるくらいだから,麺は自信あるから,その麺と,その麺の上にその卵2つとあとオリーブオイルと,なんか特製の出汁醤油みたいな牡蠣出汁醤油と,それと韓国海苔が乗ってる。デカい消しゴムのカスみたいなヤツ…食べ物の表現として下手だな(笑) それを混ぜて食べるっていう。であといいなと思うのは,結構卵2個って多いのよ。で麺も普通盛りしか選べないから,その割に卵が多いんだけど,これ分かってんだと思ったのは,ちっちゃいライスがついてて,麺を食べ終わった後に,残ってるオリーブオイルと海苔と出汁醤油をかけてご飯で終わりにするっていう。なんか,多分みんなが想像してる味を超えては来ないんだけど,ちゃんと100点で。このまんまの味がしうまいなってなって,なんかこの10日間ぐらい,俺はその三田製麺所のその卵かけ麺にすげェハマってて。
でもちょっと面白いことに気づいたんだけど,TPOに合わせた三田製麺所があるっていう。 最初家からそんなに遠くない所でピックアップした時,池袋は多分東口店みたい所なんだけど,ここは繁華街すぎて並ぶ店だからダメそうだけど,後々にここは夜中の3時までやってること分かって。さすがに終電超えたら並ばないだろうから,終電超えたらバイクでここ来て食べればいいと。で距離的には同じようなところ,東京ドームの斜向いみたいな所にも三田製麺所あるのね。 そこはまあまあ穴場で,卵かけ麺が食べられて,しかも東京ドーム界隈/水道橋界隈は2軒あるから割と狙い目だったんだけど,じゃここでいいじゃん,俺のフランチャイズはと思ったら,たまたま2回目に行った日がプレミア12のちょうど終わったとこで,もうすげェ混んでるわけ。で今度は土曜日とか日曜日の池袋は,さすがに人が多くて。じゃあ神田店はっていうと,オフィス街の要するにサラリーマンが仕事終わって一杯飲みところにその三田製麺所がある。ここが多分お休みの土日の三田製麺所としてはぴったりみたいな分析が終わったけど,もうさすがに飽きたね(笑) シンプルで美味しいヤツだから。 でも本当にTikTok一番のおすすめは,老人ばかりの奇祭が一番のおすめですけど,下手するとメジャーリーグ抜いて一位ですけど,その三田製麺所の卵かけ麺に今ハマってます。 
弱点が一個あんのは,麺が冷たい。冷たいところに冷たい生卵をかけてちょっとあえるとこ。一番最初想像してたのは,釜たまみたいな。熱々のところでちょっと煮えるのを想像したんだけど,多分選べんのか? 多分選べんないと思う。 まァご飯ホカホカなんで,そこはいいんだけど。メチャメチャ寒い時期に,完全には並ばないまでも外で少し冷えるとちょっと冷たい料理なんで。そしたら追加でちっちゃいつけ麺食べることで寒さを中和するという。 だから,そういう食べ方だと俺つけ麺もちょっと見直したかな。俺あんまつけ麺いっぱい行ってないから,その三田製麺所のつけ麺が美味いのかわかんないけど,そんな。まず普通盛りの卵かけ麺を食べて,でそれから追加で最後に,麺あったかのスープあったかのつけ麺を食うっていうのにハマってる。
■ リンガーハットの呪い
ラーメンではないけど,久々に家の近くにちゃんとある麺のチェーン店にハマってる感じ。俺の中でさ,リンガーハットの呪いってあって。近所にはリンガーハットもあんだけど,リンガーハットに入る前に「今日は何があっても皿うどんを皿うどんを食べる」って決めて,ハッ!! チャンポン食ってるっていう(笑) チャンポン美味くてそこに何の問題もないけど,帰り道に「アッ!! 皿うどんを食べるつもりで行ったのに!!」っていう。何度もこのことをずっと俺はやってるから,なんならちっちゃい声で「皿うどん皿うどん…」って言いながら,言いながら入ってんのに「…ァァあ!!」つって(笑) 「今は季節でなんか牡蠣チャンポンってあるんだ…牡蠣チャンポンってより,やっぱりノーマルがいいよな。リンガーハットといえばだからな…」なんてつって「…ァァあ!!」つって(笑) なんだろうあれ? いつも店員さんに言ってる途中でびっくりするんだから。もうここで急に注文変えても悪いなと思って。んで困ったことにチャンポン美味いんだよね。美味いんで弱っちゃう。なんかその店で一番美味いもんが1個だったらいいけどリンガーハットは2つあることで,そのなんかおかしな感じになっちゃう。 リンガーハットの呪い解けねェかな。 皿うどん食べようと思ってチャンポン食べちゃった時の,なんつうのかな?…あの感じ。皿うどんとか硬焼きそばにあるさ,ご飯なのにおやつ食べてる感じ。ご飯の時間なのにおやつ食ってるっていう,あのなんか背徳感みたいのが。
あと最近そのリンガーハットでびっくりしたんだけど,今多分季節限定で季節限定だから,お店によってあるかないかわかんないんだけど,牡蠣チャンポンというのをやってるわけ。でびっくりしたんだけど,牡蠣チャンポン3種類あるわけ。牡蠣チャンポンは,牡蠣が2個のヤツがノーマルで1000円。 んでもう1個多い,牡蠣が3個入ってるヤツは1300円で。まァ1000円と1300円。 んで,その上の牡蠣チャンポンは?っていうと牡蠣チャンポンデラックス4000円。牡蠣12個入ってるっていう。間ないんだ?っていう(笑) 急に3つ並びで急に4000円っていう超高級中華の値段になるんだ? っていう。んで,今日も普通のチャンポ…ァァあ!! 俺皿うどん食いに来たんだ!!っていう(笑) その感じですよね。
■ 鬼滅タクシー (24.11.26)
あとちょっと全然違う違うジャンルで驚きだったのは,これちょっと昼の朝のラジオで喋ったんだけど,その反応もちょっと面白くて。 ニッポン放送行く日は生放送もあるけど,それ以外のヤツを録る録音もするんで,割と早めの時間に行って。 
例のGOのアプリでタクシー呼んで,家の前までつけて。で「家の前に着きました」って言うんで,家出てタクシー乗って「GOで呼んだ篠岡です,ナビ通りで」つって。えっと想像して欲しいのは,俺はジャパンタクシーっていう,あのずんぐりムックリの黒タクシーが好き。チョロQみたいなあ形のあの黒タクシーが好きなの。 座高が高いから上の余裕もあるし,あと後ろに10円玉乗せるとウイリーするし(笑)  だからすごい好きなんだけど,そのジャパンタクシーの車体のタクシー着きました。んで後部座席に入ろうとしたじゃん。 入ろうとしたところに目に飛び込んできたのが,後部座席と運転席と助手席の間に少しスペースがある。ほんのちょっとスペースがある。??いつも乗ってる日本交通のタクシーは,そこんとこに多分SUICAの機械みたいな,電子マネーをやる機械とかが設置されてる。だけど,その乗ったタクシーは,その間が割と空いてる床だけのスペースで,そこにビッチリ鬼滅の刃とアーニャと煉獄さんのまあまあデカいフィギュアが10体位飾ってあって。しかもその周りにクリスマスのツリーにつけるヤツ…赤緑青黄色の,なんかそのLEDの帯の発光ダイオードがチューブに入ってて,順番に光るヤツあるじゃん。それでそのドライバーさんの夢世界が形成されてる。ピカピカずっと光ってて,特に多いのは鬼滅が多かった。 煉獄さんとあとチクワ咥えてるヤツ…何たっけ…禰豆子/ねずこ。高級水ようかん?(笑)  咥えてもいいけど,噛んだらダメだからなんて言われてるヤツいるじゃん。 それがズラッと。いわゆるUFOキャッチャーの景品のデカいので,ガチャガチャのヤツじゃないよ。 UFOキャッチャーとかで結構お金かけて取るような大きさのヤツがずらって多分あったと思う。 それがズラッて10体位あって。で席の後ろのスペースは,なんか煉獄さんのデカいショッピングバッグみたいなのがあって,思わず「…ぇ゙っ?」って声が出て。俺が思ったのは多分,ドライバーさんが期待してたことは違うと思うんだけど,いいんすか? これ?っていう。これさ,関西とかで個人タクシー乗った時に,たまにタイガース一色のヤツとかあるじゃん。じゃないのよ。これ会社タクシーで。しかもドライバーの年齢も,俺よりちょっと下だから50代ぐらいは来てる運転士さん。んで,その前日に徹夜でネタ選んだりとかしてるから,ニッポン放送まで行く30分をなるべく寝たい。大変申し訳ないけど寝たいんですよ。 寝たいからここ入ってっちゃダメだっていう(笑) ここは話題振らずにじっと我慢だっていう事で「あのあすいません, 目的地が有楽町のニッポン放送なんですけど,あの寸前のところから道がちょっと分かりにくいんでご案内しますんで, 一旦あの寝かしていただいて,ナビ通りで近く行ったら教えてもらえますか?」っていう。僕の潜入感もかもしれないけど「来い来い来い」って空気(笑) 「気づいてはいるわけだもんね?さっき見たからね?来ていいんだよ」っていう感じはするんだけど(笑),ここ行ったら眠れないっていうことは分かってるから,薄目開けながら。だって光ってんだもん。
そのLEDのピカピカネオンサイン光ってるし,よくできたもんでさ,人気キャラのフィギュアって全員こっち見てるように感じるじゃん。みんな。アーニャの表情は相当言いたいことあると思うし(笑) そのどうしようかなと思いながら,ず〜っと耐えに耐えて。眠れないけどね。 チラチラ外見ながら耐えに耐えて,外見て「…俺」って思いながら耐えて。んでやっと最後,ニッポン放送の前右にカーブするとニッポン放送の裏口に行くの。 あと100mないぐらいの所来て,さすがに「ずっと最後までアイツだんまりだったな」っていうことの評判を考えちゃったから,ラストの100m弱だったらなんとかなんじゃないの?って思って「…あれスかね?『鬼滅の刃』ってまた映画やるんスかね?」って訊いたら。その濃縮されたヤツがガガガって来て。そのラスト100mで,全ての映画のスケジュールが分かった気がする。 「〇〇から〇〇ぐらいの時期に,こういう◯部作があって,で,これはまだ噂段階なんですけど,僕の聞いたところによると…」みたいなヤツと「その中でも原作でいう〇〇の話に行くと,えっとこの話の〇〇のあたりは僕がとても期待してる…もちろん全部期待してるんですけど…」って。で「過去作の中では〇〇がとても良かった」っていうのと,それから遊郭の話ずっとしてたかな…(笑) 80m弱だよ?(笑) あんなことできんだと思って(笑) 多分全集中で話してると思う。おそらく俺の知ってる鬼滅用語はここまでだから,もうこれ以上のことは何もわかんない。多分ね。 朧気の記憶の中ではああいうの多分全集中って言うんだなぐらいだけど,最後の100m弱で,歳とっちゃったもん(笑) それぐらい。
で,ニッポン放送でこの話ししたら,タクシーのドライバーさんとかからもその感想っていうかSNS来たりとかするんだよ。 番組のハッシュタグつけてX来るんだけど「普通,うちの会社のタクシーでそれは許されないと思う」っていうことと,特殊なケースを除いては会社タクシーの人って,2日分を働いて,次の人にその車を渡して2日休むって,ペアで1台を共有してることが多いっていうことは,あれもう1人ペアいるのか? 全部あれ一からやってんの?朝から乗務前に一からフィギュア飾ってんのか分かんないんだけど。もう今から何十年ぐらい前かな。 このラジオも当然始まってないし,もっとずっと前だけど,渋谷で止めた個人タクシーの助手席に炊飯ジャーがあって。何だろうと思うじゃん。だって,そのいわゆる運転手さんのご飯としてのジャーではない,完全な炊飯ジャーが置いてある。で「なんすか?これ?」って訊いたら「あ,松茸ご飯です, 食べます?無料ですよ?」って言われて(笑) いや,訊いてんのはそこじゃないんだよって(笑) 無料ってのもすごいんだけども。 松茸ご飯。んで俺が「え?どうしてですか?」って俺訊くじゃん。「炊いたから」(笑) それで申し訳ねえんだけど,いただくには情報が少なすぎるから。「あ! なんだろう…あれだ! 次のすぐ1番最大の止めれるとこ止めてください」なんて。それ以来,その松茸ご飯のジャーを助手席に乗せてる個人タクシーの運転手さんのことを,方方で「いませんでしたか?」って訊いたんだけど,ラジオとかでも訊いたんだけど,全然情報が入ってこない。
今2人になりましたね。 松茸ご飯と鬼滅のタクシー。みんなこれを聞くと,皆さんはよかれと思ってSNSで書いてくれますけど,「ちょっと前に『鬼滅の刃』の映画が公開された時に,鬼滅とコラボレーションしてたタクシーがありましたよ」っていうね。 それの残りじゃないんですか?と。 残りではないんです。煉獄さんとその禰豆子とアーニャの割合ね。 それからあとなんつったらいいのかな…あのおじさんが決めた配置の感じとか。 でも今んところ「僕も乗りました」1人もいなくて。あと一回ちょっと「これ会社いいんですか? 」も訊いたの。鬼滅の方に入っていかない質問として「これ会社はいいんですか?」って訊いたら「まァ暗黙の了解と言いますか」っていうのね。 本当に? (笑) 暗黙の了解ではないヤツだよね?今も走ってる可能性があります(笑) 
■ 鬼滅タクシー再来(25.7.1)
暑いわ。 暑いんだけど,割と最近仕事がギチギチ詰まってるから,それこそこう『ぽかぽか』に行くのにまだ暑さが本気出してない時間に,もう家の前に偉そうにタクシー止めて,で家から出て,タクシー乗って,そのままフジテレビの楽屋入って,スタジオ入って,タクシー乗って…みたいことがまァまァあるから,すっごい暑い思いをあんましてない中。俺のモットーがあって。俺の汗腺に気づかれる前に涼しい所に入っちゃうっていう。 あいつが「暑いんじゃねェか?」っていう前にもう避難しちゃえば大丈夫っていう考え方がある。
日曜日朝の10時ぐらいにお迎えの車が来てくれて。で,そのままちょっと遠くまでロケ行く。その番組はオープニングは外だけど,後はスタジオの中っていうシステムなんで。 だから,そのオープニングの間だけその汗腺を騙し切ることができれば,オープニングも大して長く取らないから,気づくなよ…って思いながら。スタジオ行けばなんとかなるって踏んでたんだけど。家の前の路地がまあまあ細い路地なんです。 したら,珍しく迎えに来てくれた車がなんかゴージャスな車が来てて。いつも普通に乗ってるジャパンタクシーっていう,あのチョロQみたいな形してるタクシー。今,ほとんどあれになってるけど,あのジャパンタクシーのあれが一番いいと思ってんだけど。今,「俺にジャパンタクシーとロールスローイスのどっちかやる」って言われれば,もう「ジャパンタクシーが欲しいん」って言うよ。まァ免許がねえから,どっちにしても多分あのロールスロイスをもらってもしょうがないから,ロールスロイス売って,そのお金でジャパンタクシーに乗るぐらい,あれが一番いいんだけど。なんかGOで呼んだら,そのドライバーさんが「路地通れない」って連絡来るのよ。これはギリ通れると踏んでんだけど,路地通れないっていうわけ。 うちの前の路地って,まあまあ長いから,もう汗腺に気づかれちゃう。 「外の路地歩いてんだろ」って気づかれちゃうわけで。一旦気づかれちゃうと終わりなのよ。 一旦気づいたら,そのゴージャスな車の中が涼しかろうと暑かろうと関係ないのよ。土曜日にそれやってっからさ。 朝のそれで路地歩いて,寝た子起こしちゃってるから。 しばらく移動して,メイクして,オープニング録って,その時点で一度汗腺目覚めちゃってるから。だから,俺はもうタクシー,そんなゴージャスなの全く要らないんだよ。その運転さんが頑張って,その細い路地通って来れると踏んでる。結構トラックも一応路地通って来るから。路地の一番奥まで行くと,切り返しがあって,そこで工事現場のトラックとかも行ってるから,俺は行けるはずって踏んでんだけど,そのゴージャスカーのドライバーさんが「絶対無理」って言う。 「じゃあ俺,そのゴージャスカーいらないから,普通のタクシーを呼んでほしい」つって。よくわかんないんだけど,我儘みたいに見られてる。「こっちからグレード下げの要求してる」って,なんかちょっとわがままみたいな感じになってて。
…まァだけど,日本でおかげ様でラジオをそこそこ聴いてもらってる。本当ありがとうございました,ありがとうございますなんですけど,業界のその関係者の人は,あんま聴かないで欲しいんです。 だって,この愚痴も「また不満を言っている」みたいな風に聞こえちゃうから。聴こえなくするって,できないの?そういうさ,業界の人だけ聴こえなくするってさ。鼓膜の手術みたいのを業界の人全員に課す事はできないの?(笑) 防音みたいなヤツを義務付けることができないのかな?もしくはなんか,そういうノイズキャンセラーのついているヘッドホンをつけてもらうとかさ。まァ最悪,もう熱した鉛を鼓膜にギューーっつってね(笑) 科学発達してっからできんじゃないの?けど人権も発達しちゃってんだよね(笑) やっぱやっちゃいけない事も増えてるし,ダメか…コンプラ的に。それこそ私の前でケラケラ笑っている河野かずおさん。芸人であり笑いもやってくれてる,河野さん,あなたのせいなんですよ?半分は(笑) 先週の放送でのあなたのリアクションのせいで,特にニッポン放送の人とかはこのラジオを聴いてるんですよ。 そのせいで分かるんですよ。 遠目から。俺が座ってる位置から高い位置から,「おーーい」みたいな角度から見てて(爆) すげェ引いてる。 みんなすげェ引いてるのよ。もうJUNK聴かないで欲しい。あの感じ。よく女性がさ,胸のとこがちょっと広めに開いている服を着てる時に,みんな視線分かるみたいね。 乳の隙間を見てるってのは分かるらしいのと一緒で,分かんのよ。「俺を見てるその角度は,普通の角度じゃない」って。分かって見てるっていう感じ。すげェ緊張。だからさ,ラジオは聴かれたい。 いっぱい聴かれたいのは山々なんだけどさ。
その聴かれたくない人には聴かれたくないっていうので言うとさ。偶然だけど,前に俺ここで話した鬼滅タクシー。『鬼滅の刃』のフィギュアで車内埋め尽くされたタクシー。 少し前ぐらいに俺喋ったと思うんだけど。前の映画,『無限列車編』だったっけか。あの映画より前に乗ったと思うんだけど,タクシーたまたま乗ったら又それでさ。運転席と助手席の間のあの空間に,いわゆるあのUFOキャッチャーで採ったみたいな『鬼滅の刃』のフィギュアでビッチリ埋まってて。助手席の後ろ部分,助手席のヘッドレストのところに煉獄さんだっけ,あのオレンジと黄色の人のタペストリーが掛かってたり。『鬼滅の刃』タイアップじゃなくて,その人がすげェ好きだからっていうので乗ってるって,その話を,俺多分ここでもニッポン放送でもしたと思うんだよ。ここでしたのか,ギリやってる頃から忘れたぐらい。その頃に「そういう変わったタクシー乗りましたよ」つって。でそん時に言ったのは「寝たいから,その人に『鬼滅の刃』の話題を振ったら終わりだ」っていう。「やっぱ寝たいから,もうとにかく黙る。何かの話をするにしても,どっかで『鬼滅の刃』に触れる可能性もあるし,じゃあもう普通の話もしない」みたいな。「最近亀頭にブツブツできてんですよねー」みたいなフツーの季節の話しても(笑) 「亀頭…キトウ…キメウ…鬼滅…?」みたいな話題になっちゃうじゃん(笑) そういうこう…警戒を解かず,とにかく会話の糸口を与えないみたいな。 で,ラストのニッポン放送前,ニッポン放送前のストレートのところで話題振ってさ。「映画だと何やんですか? 」みたいな話をしちゃったんだ。 そしたら。多分喋り柱の人なんだと思うんだけど(笑),短時間で『鬼滅の刃』の全部の情報を関連付けていくという。あんなんいいのかよみたいな話を多分したと思うんですよ。 
したら。またその鬼滅タクシーに当たって。車内のフィギュアも,前から増えてもいないけど,同じラインナップで。けどさ,確率からいったらさ,この広い東京に何台タクシー走ってる? 二度目だって思って。思わず「前乗りましたよねー」つって。したら「そうですねー,ラジオで喋っていただいて」って(爆) 俺その人の耳に鉛の塊りを入れるの忘れちゃってた(笑)「あのー…あれから会社に許可を取りまして…」みたいな。その人自体はこれも聴いてるかもしれないから,こういう言い方をしておきますけど,運転の能力も接客能力も高い人だから,向こうからしてみれば運転に支障がなければいいよっていうことの許可を出してもらってるって事みたいね。タクシー自体は会社のものだから,おそらくですけど,毎回毎回って,会社にもよるけど,2人が1つの車を使って,で24時間乗ったら次の人の番でみたいなことをやってるのを,毎回毎回,一旦撤去してんだって。結構な量。俺が前回乗った時と,ラインナップと位置が全然変わってないっていうことは,おそらくすっごい気使って,同じ禰豆子のこのタイプはここ…みたいなヤツが全部決まってるっぽい。で,同僚から「お前のこと話してたぞ」って言われたみたい。もう自ら焼けた火箸で(笑) 今流行りの「ペン,パイナップル,アッポー,ペン」の。今流行ってるでしょ? あの感じでその両耳から焼けた火箸でギューーーーーって(笑)やるか,話さないか,どっちかにして欲しいんですよね。 で,結構要するに「ラジオで喋られたせいで,いろんなことありましたよ」みたいなの言ってて。「だから,今は毎回回収するようにして,会社の許可も取りましてね…」 なんていう話をしてて。もうとにかく,これ俺なんとかしなきゃと思ってるから,『ぽかぽか』行く道すがら「すいません,ちょっと寝不足で。少し寝かしてもらって」って。ずっと寝る感じ。 寝るモードに入ってるんですけど,やっぱ最後の最後のラストのストレートで,また「このままだ感じ悪いな」と思って。「映画いつからでしたかね? 」いう話をしたんですけど(笑) あまあまああ,門を開けたなっていう(笑)  だけど,別にびっくりはしたけど,俺が勝手にラジオで喋ったせいでちょっと気まずい思いもしたものの,ちゃんとした人よ。すごいちゃんとした人で。「お互い公開になったら観ましょうね」なんつって。まァ俺は観るかどうかわかんないんだけど(笑) 観るか別にわかんないんだけど,そんな話を朝からしまして。だからちゃんと都内にいらっしゃいますから。「それはさすがにないだろう」みたいな話が当時はあったんですけど,で俺も途中から幻だったって思うことにしてたんですけど,ちゃんといらっしゃいます。
■ Switch版『ドラクエ3』
うちの爺ちゃんがまだ生きてた頃だから,俺が小学校入る直前ぐらいだと思うんだけど,爺ちゃんがうちのお袋に「すいとん食べたい」って言い出して。でお袋は料理好きな人だったし,爺ちゃん,婆ちゃん,親父,あと俺含めた兄弟4人の大所帯だったから,すいとんいっぱい作って。ウチのすいとんって,今で言うと具だくさんのどっちかっていうと山梨のほうとうに近いような,かなり子供的には美味しいという感じ。 お肉もいっぱい入ってて,それこそ野菜もいっぱい入っててって。多分小麦粉/強力粉を練って揉んで,それをビターンって伸ばしたようなヤツで,それを麺の代わりに食べるっていう感じ。それ作ってさ。俺は結構美味しい。 すごい美味しくて又作って欲しいなと思ったんだけど,爺さんが突然キレて。「こんなんじゃねえよ! 俺の言ってるすいとんはよ! こういうんじゃねェんだ!」って。で婆ちゃん,一旦隙見てキノコをぶつけようとしてたんだけど…さっきのネタと混ぜない方がいいの? 分かりにくいから(笑) えっと婆ちゃんは「まあまあまあまあ…」みたいな。んで婆ちゃんが「であんた,どういうのがいいんだよ?」って言ったら,爺さんは「戦後直後ぐらいに食べてたすいとんはヨ,こんな美味いもんじゃねェんだ。こんな美味いすいとんなんかすいとんじゃねェ!! もっと不味いのを作んなきゃ美味くねェ!」って言い出して。子供心に意味とか全然わかんないの。子供からしたらさ,俺まだ当時5歳6歳だからさ。「ちげえんだよ,こんな具がいっぱい入ったりしてるようなもんじゃねえ。悪い小麦粉を練って,出汁もほとんどないから,塩水にちょっと醤油入ったようなヤツで煮ただけのすいとんが俺のすいとんだ。こんな美味いものは不味い」って。そしたら婆さんがさ,横からさ,よしゃいいのにさ,したら婆さんが「じゃあどうすりゃいいんだよ?」って言ったら「具を取ったりとか,いろんなことやって,もっとまずいすいとん作れ」って。で「じゃ次作る時はそういう風に作る」って,うちのお袋もちょっと不貞腐れながら言ってると,婆ちゃんが「でもあの頃のすいとんもあれよね…お肉なんか一かけらも入ってなかったわよね? 」って言ったら,爺さんが「それは入れろ。もう戦争は終わってんだから」つって(笑) 「でも世の中に物なんてなかった時代…」「それは入れろ。お前今時,肉なしのすいとんなんか食えるかよ」みたいな話になるわけ。 「あの時は仕方ない,あの時はもうすいとんしかないから食ってたけど,戦後何年も経ってみんな色んなもん食べてる時に肉がないはありえないだろう」って。「じゃあ一応これでいいんじゃ?」「いや,これはダメなんだ」って。 「これは俺の魂みたいものが揺さぶられないから」みたいなこと言って。まァすぐ死にましたけど。その後,しかも元日に死にましたけどね。
何故こんな話してるかって言うと,もうお気づきだと思うんですけど,僕が今話してるのはすいとんの話でもおじいさんの話でもなく,ドラクエ3の話,リメイクの『ドラクエ3』ってそういうことだと思う。 リメイク版,いろんな意見はあっていいんですよ。けど,あれじゃないと俺は思う。もうなんかその本当に難しいのは,本当に難しいんだと思うのは…だってさ,『ドラクエ3』ってさ,400万本ぐらい? 390万本ぐらい売れてんのね。売れてて,でいてあれをもっ回やってみたいなっていう人が,例えばじゃあ昔やった人の400万本のうちの1/15の人が買っても40万本売れるわけ。 ノスタルジー派の人が買っても売れるわけ。だから出す意味はあると思う。だけど,なんつったらいいのかな…先週ちょっと喋ったんだけど,最初『ドラクエ』にあんま乗れなかった。 世代的にはばっちりなんだけど,その『ドラクエ』の直前にパソコンのNEC pc8801, pc9801っていう,NECのいわゆるテレビゲームじゃないパソコンで海外のRPGから入ってるから。『Wizardry』っていう,後にすごいシリーズになってく,RPGってジャンル作ってく位のヤツ。RPGってこう言うんだ…っていう初めて見たヤツとか,国産RPGの『ブラックオニキス』っていうゲームやって。『ドラクエ』ほど宣伝されてないんだけど,初めてのテレビゲームでのRPGがコンピューターゲームでのRPGをやって,すげェハマってすげェ面白いと思ってるから,別にそのエニックスがそう言ったわけでも堀井さんがそう言ったわけでもないんだろうけど,世の中のその初めてのRPGっていうブームがちょっとへそ曲げてんだよね。で,あとこれは後に改められるけど,やっぱり超メジャーなものに対するひねくれてるっていうか,乗れないっていうか,天邪鬼みたいとこがあって。まァ今も0にはなってないけども,当時もやっぱりあって。これは多分今の俺の考え方からすると間違ってるのね。 「自分が自由に選んで,それがメジャーだろうが,マイナーだろうが関係なく好き」が正しいんだけど,なんか「メジャーなんて面白くない」っていう感覚がちょっとあって反抗してるから,当時の『ドラクエ』にあんまりハマらなかった。やるにはやったけど,あんまりハマってないっていう立場だから,今の新しいドラクエがメチャメチャ懐かしいっていうんじゃない。Switch版もそんな入んない。
でえっと実際あのよくわかんない,パーティも組まずに闇雲に走ってたヤツも,あれ切り替えられたんで,パーティーも途中から呼んで入れたし,あと死なないモードもやめて。で,今着々と1日1〜2時間ずつ進めてはいるんだけれども,なんつったらいいのかな…難しい。うちの爺のいう謎の「いや肉は入れなきゃダメだけど,あんまゴージャスなすいとんはすいとんじゃない」みたいなあの感じを急に思い出してさ。なんか昔のドラクエやってた人からすると,ちょっとしたイベントがアニメーションになるということとか,それからドット絵がすごい綺麗になるっていうことはアリなんだけど,もっとしろよってなってくると「いや,それはドラクエじゃない」と。もうそうなっちゃったら『ドラクエ』じゃないっていう。 まあ,うちのお袋は本当に爺をぶん殴りそうだったけど,その気持ちもちょっと解るんだよね。でもなんかそのどっちにも属してない俺の半端さっていうか。本当に思ったのは,ちゃんと流行ったものちゃんとやっとけばよかったって。 ちゃんと流行ったものを素直にちゃんとやってれば,この『ドラクエ3』の楽しさも違うんだろうなって思うんだけど,なんかその上手く縮尺が合ってないっていうか,当時はこのダダっ広いマップをワクワクしてたけど,今はちょっともうめんどくさいなってなってんなとか,もう今この歳になってくると,面倒くさかったりとか,あとは何ですかね…「この鍵をもらうためにここに行け」って言われて,ここでもらっといて「ただその鍵だけじゃダメですよ」って言われて「あそこにこういう人がいると思うよ」って言われて進むゲームって,俺もう無理だわって。結構もう無理なんだけど。でもそれが『ドラクエ』だから,そこんところをこうマルチにできるヤツ…オープンワールドみたいにしたら,多分うちの爺が言ってた「そんな美味いものは不味いぞ,この野郎! もっと不味いのが美味いんだよ」っていう感じになるんだと思うんだよね。 そうすると1つはあの当時『ドラクエ3』をやった人は何があっても面白かった。 「あ,このストーリー今思い出したけど,たまげたな」とか。あとはなんか「この敵とこの音楽とかをこう…自分の中でもう一回やった時の感動」みたいな。 それは面白いと思うんだけど,なんつったらいいのか…そこが多分初めてやって「これが伝説の『ドラクエ3』ってこれか…」つってリメイクされたんだっていう人に面白いんだけど,すごい難しいなと思う。で,全然これを否定するもんじゃない。さっき言ったように400万本売れて,さらにはリメイクされたもんとか相当売れてるから,これ楽しめる人はいっぱいいると思うけど,そうじゃない人はってでね。
これから言うのはスゲェ我儘で,まさにうちの爺の言ってることなんだけど,『ゴジラ-1』とか,俺にとっては『シン仮面ライダー』って,そういうとこがちょうど良かった。なんかその昔のすいとんの感じを残しながら,でもこれシャウエッセンの切れ端入ってるよねみたいな。でもシャウエッセン丸々入れちゃうと行き過ぎで,切れ端ってところ。この切れ端感。要するにいろんなものの切れっ端っていう。 当時なかったエリンギってものが入ってるけど,エリンギもあのなんつうのか…切れっ端のヤツを入れることで,なんかそのうまくスライドさせるっていうのか,そのなんかわかんない懐かしい感と新しいものを斬新に融合したものが俺の中では『ゴジラ−1』であり『シン仮面ライダー』で。サンプルは少ないけど,仮面ライダー全然知らなかった世代も,ちゃんと面白いって言ってる子がいっぱいいたし,あの感じでそのゲームのリメイクも…わがままなのかね。なんかそのドット絵っていうだけですごいもうメチャメチャ嬉しいんだけど,なんかそのもう一個先のものと融合させることはできないのかね? 
なんか『100分で名著』とかやってると,すごい名作って言われたものだけど,その後にそれを模法したり進化させた著作がいっぱい出てるヤツって,なんそう言われましても…っていうか,先生方は「これはすごい評判になってて,当時こんな斬新な書き方はなかったんだから」って言われるけど,その後それを踏襲してブラッシュアップしちゃったものを読んじゃってたりとかすると,その時にこれがあったっていうことは評価するけど,なんかその今いろんな新刊の本と並べて,それが面白いかどうかって言われるとちょっとこう違うのかな? みたいな。バリバリ『ドラクエ3』やった人はやって,多分いろんなことが頭の中で動くと思うんだけど,なんかその当時は想像でしかやってなくて,このアイテムを使った,でいてなかなか開かなかった扉が開いただけのグラフィックだったヤツが,ゆっくり開いてとか,画面全体がガラガンって揺れてゆっくり開いてったりとか。そのアイテムが何故開いたのか,はめたら開いたのかと当時思ってたのが,意外にデカい火柱を吹いて突き当たりを壊したんだってリメイク版で解った時に多分感動すると思う。こういう感じになってたんだ‥って。感動すると思うけど,でもそれが今のすげえ映画みたいなグラフィックから比べれば,あ…そんな感じか…っていう風になるから。この間を埋めたりとか,それからとこれがフィットする人が誰なのか? みたいなのは結構難しいなと思いつつやってる。

4Tyu6yhhgtgyygg pc     





2025年12月5日金曜日

[書籍] 中沢新一『雪片曲線論』〜密教思想とゲーム『ゼビウス』の世界観





[書籍] 中沢新一『雪片曲線論』〜密教思想とゲーム『ゼビウス』の世界観
中沢新一『雪片曲線論』〜密教思想とゲーム『ゼビウス』の世界観
中沢新一/雪片曲線論(1985)
■流体土木技術者としての空海
空海にはたくさんの顔がある。密教の思想家としての空海がいたかと思うと,能書家にして名文家のアーティストとしての空海がいる。昔ながらの山岳宗教者として深山に踏み込んでいく空海には,権力の操作にたけた政治家としての空海も同居している。けれどそんなふうに実に多様な空海のなかでも,とりわけ私の興味をそそるのは,流体土木の技術者としての空海なのである。
実際,よく知られている弘法伝説のひとつは,空海を土木技術者として描いている。それによれば,空海は四国の讃岐平野に万濃池と呼ばれることになる大きな溜池を掘り抜き,またそこに水を流し込むためのがんじょうな水路を造って灌漑用水を確保しようとする大工事の技術指導を行なったということになっている。この話はさらに拡がって,瀬戸内海ぞいの四国の平野に散在するおびただしい溜池にいたるまで,実は空海が掘り残していったものという弘法伝説を産んだ。この伝説がどのような歴史的事実をもとにして語りだされたものなのか,正確なところはよくわからない。ただよく言われてきたように,この伝説が空海の並ならぬ政治的手腕だとか空也いらいの仏教家の実践活動を引継いだこととかの証しとして,語り伝えられただけのものでないらしいことは確かだ。平野におびただしい溜池を掘り抜いていく空海。この伝説的イメージには,意外と彼の生の本質にかかわるようななにか大きなものがひそんでいるのかも知れない。この伝説は空海を,密教の思想家であり能書家,名文家の政治家であるとともに,流体をあつかう土木技術者として印象づけようとしている。だが密教思想家でありアーティストでありポリティションであることが,平野をうがって水路を造り,その水路の集まるところに充分な強さを備えた大きな池を掘り抜いて水門を開き一気にそこに水を流し込んでいく土木工事と,いったいどんなつながりがあると言うのだろう?
私の考えでは,空海が流体をあつかう土木技術者であったということはイメージとしても,また現実においても,彼のすべての活動を貫く太い縦糸となっている。溜池を掘り抜いたり,運河を開鑿する土木工事は,ソリッド・システムと流体モデルを結合する高度な科学と技術を必要としている。つまり,それは一方では壮麗な寺院や宮殿やピラミッドなど,作るための構造,秩序,幾何学的配分をあつかう建築的思考を不可欠のものとしている。しかしそれだけでは,土木工事は危ういしろものしか作りあげることができない。......
■密教の流体的思想
だから,讃岐平野にたくさんの溜池を掘り残していったという弘法伝説がしめす流体土木の技術者としての空海の姿は,彼の全活動のなかの風変りなエピソードなどではないのだ。空海は活動のあらゆる領域で流体土木の技術知を実践しようとした。そしてそのもっとも壮麗で,もっとも手の込んだ表現がはかならぬ真言密教であった,というふうに私には思えてならない。それは密教が,意識の力をめぐる流体学的な技術知であるからだ。密教は自然状態にある意識の能産性の現場に記号や象徴による媒介の手を借りずに素手のまま直接おりたっていこうとするプラティックな思想である。それを行なうために,密教は流体的な思考,流体学的な技術をフルに活用したのである。もちろん密教も仏教思想のひとつのかたちには違いないから,言葉やさまざまな記号が織りあげる言語的リアリティというものに対する鋭い問題意識を,ほかの大乗仏教のスタイルとも共有している。仏教はこの世界を,たえまのない変様の場として捉えている。この変様の場は,意識と身体をともどもに巻込みながら無限の拡がりを持つ連鎖をかたち作っている。そのため,この世界にあるいかなるかのもことも,それ自体の同一性を保ったまま存在しているものなど,ひとつとしてないのだ。どんなものもことも,無限の連鎖のなかでたえまなく変様をつづけている場(フィールド)に生起する出来事として,それ自体の実体性を持っていない。だから,ありのままの世界とは無限変様の場としてもともと「空」なのである。ところが人間は言葉を習得する過程で,無意識のなかに蓄えられている言語シンタックスにむかおうとする潜勢力がしだいに強くわきあがり,強固なかたちを与えられるようになる。言語シンタックスが,すでに無意識のなかに潜在している二元論化にむかう傾向を媒介して,それを大きく成長させるわけである。こうして無限変様の場は言語的意識によって構造化がほどこされる。私たちの身体も含めて無限変様の場はすぐそこにあるのに,あたりまえにしているだけでうはや捉えられないものになってしまう。そこで仏教思想はそのとをはっきりさせるために,さまざまなテクニックを開発してきたのである。.....
いっさいのニヒリズム([S+V] のシンタックス構造は世界が「空」であることに対する恐れをはらんでいる)から逃れた無限変様の場に,徹頭徹尾肯定的な態度で踏み込んでいけるような直観の鍵を手渡そうとしたわけである。ところが,こういう仏教哲学の生き方に対して密教ははるかに自然主義的で,流体学的で,さらに言えば非インド - ヨーロッパ語的な発想にたっている。
密教は仏教思想の自然主義化の企てである。それは無意識にはじまり言語的意識にまでいたる心的現象の全領域が(仏教は精神分析学に先駆けて「無意識はすでに言語のように構造化されている」ことを明らかにしている),主体の形成と外の世界の構成へむかおうとする二元一論化への力の萌芽にみたされていることを批判的に取り出したり,あるいはどんなにたくみな論理の形式をあみ出してみても,無限変様の場たるありのままの「空」の世界を説明することはおろか,そこに触れることすらできないことをパラドキシカルに証明してみせるだけでは満足できないのである。密教の企てはもっとブラグマティックなのだ。密教は,考え込めば考え込むほどに恐ろしい混沌のように思えてくる自然状態に放置されたままの意識の場に直接おりたっていくための技術知のようなものを探ろうとしている。(言語のように構法化されたアーラヤ識としての)無意識を,さらに突抜けたところに現われるこの自然状態の意識は,自らのなかに楽性をなぎらせている。密教はその能産的自然のなかにはいり込んでいく,ぶれぶ仏思想の自然主義化の中に入っていく。....
ふつうマンダラは「密教の真理」をしめし,この宇宙の微細構成をしめすためのソリッドな構造モデルだと考えられることが多い。実際にイコンとして表現されているマンダラを見てみると,中心とそれを取りまく四つの方位からなる基本構造の展開と組合わせからできていて,その構造感覚が宇宙を全体化して捉えるホーリズムの象徴となっているように思えてくるのである。ところが実際にインドやチベットに残されている密教文献やヒンドゥ教,ジャイナ教との図像表現をこまかく調べてみると,マンダラは,実は複雑な螺旋状の渦きを基本的なモデルとしていることをうかがわせるような記述がたくさん見つかる。つまりそれは実際にイコン化されているものの「下絵」として,渦を巻きながら構造を自己生成しつつある状態にある流体の運動を隠している,と思えるのだ。確かにもしも密教を仏教思想の自然主義化であり,意識をめぐる流体学的な技術知であると考えてみた場合,はたして私たちのよく知っているマンダラ・イコンが,そのような「密教の真理」によく対応するのであるかどうか,もう一度よく考えなおしてみる必要がある。
実際,マンダラの図像表現の背後に意識をめぐる流体的思考がひかえていて,しかもそれが「意識の自然状態」と呼ばれるものを表現しようとしているとしたら,いまだかつて一度も完全なかたちに描かれたことはないが,図像表現されたマンダラというマンダラすべてが潜在的な夢としていだいてきたそのような理想のマンダラは,一見きわめてパラドキシカルに見えるいくつもの特徴を備えていなければならないはずだ。まずそのようなマンダラは無数の渦巻きでできている,と考えられる。意識をめぐる流体的な思考は純粋な力の場である意識というものを,たえまのない運動性をはらんだ能産的な場として捉えている。つまりスケールを変化させてどんな微細な部分にまで分け入ろうと,意識と呼ばれるこの力の場から連動性が消え去ることはない。言い換えれば,無限小のなかにさえズレがはらまれていて,どんなに微小な部分もけっしてのっぺりとなめらかな面に変わってしまうことがないのだ。したがってそういう流体的思考にそったマンダラを描くとしたら一種の渦モデルが浮かびあがってくるだろう。この渦モデルとしてのマンダラはさまざまなスケールを持つ無数の渦巻きでできている。ひとつの渦巻きは,たとえどんなに小さなものであっても,それに,それよりも小さな渦巻きの群からなり,その小さな渦巻きもまたより小さな渦を自分の内部にはらみ,この過程は無限に続いていくのである。どんな微小なスケールにまで分け入っても,けっしてのっペリした場質空間にたどりつくことがなく,いつもそれより小さな渦,小さな働き,小さなズレをはらんでいて,また逆にどんなマクロなスケールに変わっていっても閉じた全体性にたどりつくことがない。密教思想を忠実にグラフィック化するそのようなマンダラが存在するとしたら,それは宇宙にくっきりとした単純なかたちをもたらすソリッド・モデルであるどころか,スケールの異なる無数の渦巻きでできたとてつもなく怪物的な一種の渦モデル,流体モデルであるということがわかるのである。したがって真言密教などが潜在的にいだいているマンダラの思想を図像表現するには,これまで行なわれてきたような円や直線を組合わせて描くユークリッド幾何学的な画法ではまったく不充分なのである。ひとつの空間を埋め尽くすような無数のスケールの渦巻きからなる怪物曲線を生成できる非ュークリッド的なグラフィック技法が必要となる。カントールやペアノにはじまりマンデルブロートによって見事なかたちに磨きあげられた現代のフラクタル幾何学こそ,そのような表現を可能にするものだ。
だが,実際には,こういう流体モデルにしたがって描かれたマンダラはほとんどない。密教の意識論のベースには流体的思考がいたるところで貫かれているのに,その思想の図像表現であるマンダラでは怪物的な渦モデルは「下絵」としてぬり込められ見えなくなってしまっている。その代りマンダラはひとつの空間を五つの部分に分割するユークリッド的な図形を基本構造にするようにできている。そしてこの安定した構造感覚によってマンダラは森羅万象の出来事を全体化して捉えるためのホーリスティックな象徴メディアであると語られることになるのだ。しかしマンダラは森羅万象を生成する「原因」をグラフィック化するものではあっても森羅万象の「目的」をしめすものではない。物質空間とその差異化をめざしているようにさえ見える構造的マンダラの図にはけっして満足することはできないはずなのである。描かれたマンダラは,つねにマンダラの思想を裏切っているようにすら思えるのだ。
もっともこの点については,すでに密教の理論家たちも気づいていた。このことは主にチベットの密教文献にはっきり現われている。彼らは中心と四つの方位によって空間を五分割するユークリッド的図形によって描かれているマンダラが,実際にはどんな細部にまで降りたってみてもなおかつ差異化の過程をはらむ無限図形でもあることをしめして,マンダラをふたたびバラドキシカルなモンスター空間に作り変えようとしたのである。たとえば14世紀のチベットで書かれたマンダラの理論書はこう語っている。
―マンダラの内部は「意識の自然」に内蔵された五つの原初的な智慧をもとに五つに分割され,それぞれが違う色彩のモードを持っている。だが実際にはその分割で静止してしまうわけではなく,どの部分も五つに分割され,この分割過程はどこまでもくりかえされていく。だからマンダラの内部はふつうの意識が数えあげられるような構造を持つのではなく,無限小の差異で埋め尽くされていることになる。―
(ロンチェン・ラプシャン 『万天の暗雲を晴らすと呼ばれる書』)
に声かれたひとりひとりの神は,おのおのがひとつのアイデンテティを持つものではなく,スケールの異なる無限数の神々からなりたっているということだ。ここに語られているような思想を図像表現するのは確かに難しい。それにいちばん近いと思われるのは,ホイルの星雲 モデルとも言われるフェーブ雪片(phoebe snow)のフラクタル的な図形だ。ここでも密教のマンダラ理論のとおりにそれを描こうとすれば,マンダラは奇妙に希薄な半 - 空間に変質していってしまうのである。これからもわかるように,マンダラは流体モデルにそって描こうと,星片モデルに近づけたグラフィック化を行なおうと,密教の意識論に忠実であろうとすればするほどユークリッド的な中間性や希薄さをはらんだ怪物的な図形に近づいていく。.........
■ ピンボールゲーム
アメリカの人工遊戯マシン・メーカーのひとつであるウィリアムズ&カンパニーが『シャングリラー』づけられたピンボール・マシンを発表したのは1967年のことである。1967年いえばビンボール・マシンの歴史のなかでは,もうかなりの爛熟期にさしかかっている。1930年代の半ばころにはじめて作られたピンボール・マシンは,アメリカ経済の成長と歩調を合わせるように進化をとげ,すでにこの時期にはビンゴやスロットルマシントと並んで,エレクトリック・メカニズム(エレメカ)による遊戯マ シンを代表するもののひとつにまで成長していたのである。
ピンボール・マシン 『シャングリラ』には,メカニックな面から見るかぎり,とりたてて変わった創意はこらされていない。むしろそれは平凡な部類のマシンに属する。傾斜角をつけた盤面上に打ち出されたボールがころがりながら落下してくるのを待ちかまえて左右のフリッパーで打ちかえし,前方にあるターゲットにたたきっけることによって(このターゲットは電気的な磁気力によってボールをはじき返してくる)得点を競うというのがピンボール・マシンのシンプルな基本構造であるとしたら,各メーカーの創意は,この基本構造の一部分を変形させたり,あるいはさまざまな光の装飾をほどこすことによって,このマシンを複雑な刺激にみちたものに仕立てあげることに注がれた。その点では「シャングリラ」は1960年代後半に作られたものとしては,比較的シンプルな機構しか備えていない。『シャングリラ』は前面のスコアボードを複雑に彩るイリネーションの点滅に飾られているわけでもなく,フリッパーが三つもっいているわけではない。しかしごくありきたりのメカしか装備していないこのビンボール・マシンが奇妙に目を引いたとしたら,それはスコアボードに描かれた実に風変りな絵に原因がある。
『シャングリラ』のスコアボードの右端に描かれているのは,蓮の花が咲き乱れ水鳥が戯れる池だ。そのほとりには細くつりあがった目をした東洋風の美女が三人,中国服をまとってたたずんでいる。この池の水源をたどっていくと,中国風の仏教寺院が現われる。して見るとこのあたりには文化的統一感のようなものがあるようにも感じるが,背後に描かれた,熱帯植物に囲まれた日本の神社の鳥のいかがわしさが目立つ。
このちぐはぐな感覚は,スコアボードの左端に目をむけると,もっと強くなる。そこには数層立ての寺院らしきものが描かれ,その各層にはチベットのラマ僧が儀式のときにまとうさまざまな衣裳をつけた男女が,遠方を見つめながらたたずんでいる。その視線を追っていくと画面中央あたりに大きな雪山が描かれているのに気づく。この山は,どうやら,チベットとインドの境にある信仰の山カイラッシュ山を描いたものだろう。そのことは,このピンボール・マシンの全体が「シャングリラ」と名づけられていることから,だいたい察しがつく。それは,シャングリラという言葉がチベット語の「シャンバラ」の派生したものであることに,深いつながりがある。「シャンバラ」は,チベット人の伝える伝説の桃源郷のことを
さしている。「シャンバラ」は,カイラッシュ山を目印にして,だいたい北西の方角にあたるチベット高原のどこかにあると考えられる地上のパラダイスだ。この「シャンバラ」が,シャングリラとして広く知られるようになったのは,1933年に発表されたジェームズ・ヒルトンの小説『ロスト・ホリズン』がベストセラーになり,ミュージカルや映画にまで仕立て
あげられることに原因があるが,それ以来,シャングリラはヨーロッパとアメリカの大衆にとって,魅惑的な東洋趣味と結合されたパラダイス願望の代名詞のひとつとなったのである。
ウィリアムズ&カンパニーが,ピンボール・マシンの爛熟期に作り出した『シャングリラ』には東洋的エキゾチズムのでたらめな結合による不思議なチャンポンの感覚と,それら背後で統一しているパラダイス性がみなぎっている。アメリカの人類学者ミッチェル・オピッツによると,この『シャングリラ』のスコアボードに描かれているもののなかには,ピ
ンボール・マシンというゲーム機と,その隆盛を背後で支えていた当時の資本主義の本性とが,ものの見事に表現されているのだ,と言うのである。
ピンボールの楽しみというのが,マシンとの闘いをとおした一種の競争を楽しむところにあるらしい,というのはすぐにわかる。プレイヤーは機械が一見ランダムな方向に打ち出してくるボールを左右のフリッパーで操作しながらコントロールする。そしてそのコントロールの技術がただちに,十進法で前面のスコアボードに表示されるように工夫されている。人類学者オピッツの考えでは,こういうピンボールマシンの楽しみには,高度成長期の資本主義の夢がたくみに反映されているのである。彼は『フリッパーのなかのシャングリラ」という論文のなかで,そのことについてこう書いている。
ーピンボールは,実に巧妙なやり方で競争原理に別のかたちを与えようとしているのである。ピンボール・ゲームに与えられたキャッチフレーズ「競争の歓びが,快楽と心のときほぐしを与えます」 には,それが集団的ゲームの奇妙な変形物であることの意味がよく示されている。ピンボールは社会性を作り出し,社会性を煮込むための器なのだ。プレイヤーは自分ひとりの楽しみのために,ひとりぼっちでハイスコアに挑戦しているように見える。だがそのとき,ピンボールのプレイヤーは同時に社会性の網のなかでプレイしているのだ。楽しい気ばらしとして,ピンボールはまたセラピー効果を持ったマシンでもある。
競争原理は,実際の仕事の現場では,労働者の体をすりへらせるものだ。ところがここでは,同じ競争原理がパラダイスの輝きをおびてさえいる。ピンボールはそのセラピー効果をとおして,社会がわれわれにたえず呼びかけている「サクセス,サクセス」という目標を,プレイヤーの心のなかにすんなりとしのび込ませ,ゆとりある心で,ふたたび現実の生の競争のなかに立ちもどっていくことを可能にする。ピンボールはだから,遊戯の快楽に基づいた一種の教育装置だと見ることもできる。そして,まさにこの点において,われわれの社会の競争原理に貫かれたピンボールのシャングリラと,競争そのものを無化しようとするチベットのシャンバラ伝説におけるシャングリラとは,鋭い対立をしめすのだ。しかしどちらのシャングリラも,ある種の中庸を求めていることは確かだ。ピンボールのパラダイスでは,ボーナスとして与えられるのはただハイスコアだけだ。だからここでも,勝利をめざす無償の遊戯たれという中庸の格言が生きているー
ここでオピッツは,現代のゲーム・マシン産業の本質を考える上で,とても重要な指摘を行なっているように思える。それはシャングリラに代表されるパラダイスの観念の近代的変質と,深いかかわりを持っている。チベットのシャンバラ伝説などにしめされているパラダイスは,「いま」と「ここ」における現実生活のいっさいがそこから生まれ出てくる生成の場所であるが,同時にそこはけっして到達できない「ネバーランド」として考えられている。パラダイスにたとえどのような表現が与えられようと,実はそれはもともと実体化もできず,観察不可能なものなのだ。だが,その観察不可能,実体化不可能なパラダイスの観念を持つことなしには,この世界にお
ける生を考えることはできない,とシャンバラ伝説は教えている。
ところが,資本主義はそのシャングリラが「いま」「ここ」において実体化され得るのだ,という幻想をいだかせることにおいて,パラダイスの観念を変質させるのだ。「ネバーランド」が,実体を持ってこちらの現実世界にくり込まれてくる,と考えるわけだ。......
■『スペース・ウォー』
ピンボール・マシン「シャングリラ」は,エレメカによるゲーム・マシンが全盛の時代の大衆的精神を凝縮して映し出している。ここでは競争の原理に基づく資本主義が,まださほどのかげりを見せていない。スコアボードに描かれた奇妙な東洋的エキゾチズムのチャンポンが,そのことをよくしめしている。あくなき拡大をめざす競争の原理をとおして,東洋は中断され細分化されて,アメリカ的文化のアマルガムのなかにほうり込まれる。そしてそ
のアマルガムのるつぼこそ,資本主義のシャングリラ幻想の母体なのだ。
だが「シャングリラ」があからさまな形でしめしているものは,多かれ少なかれ,エレメカ時代のゲーム・マシンすべてに共通した性格である。メカニックな運動性, 確率論的なものの見方,ハイスコアとして数値変換されるプレイヤーの能力。エレメカのゲーム・マシンには,資本主義の内部で進行しつつあった大きな変化は,まだ見えてきていなかった。
しかし,変化の徴しはゲーム産業の内部でもすでに進行していたのだ。ピンボール・マシシ「シャングリラ」の発売に数年先立つ1962年,マサチューセッツ工科大学(MIT)のコンピュータ・グラフィックス専攻の学生スティーブ・ラッセルは,大学の研究室で,ブラウン管をプレイフィールドとする世界最初のビデオゲーム『スペースウォー』の制作に取りかかっていた。ラッセルの試作品こそ,その後の遊戯マシン産業全体に大きなインパクトを与えるものとなったのである。彼はMITの持つミニコンPDP-1をブラウン管(CRT表示装置)に接続し,1962年1月にはまず画面上でスキップするドットを作りあげるのに成功した。このドットがしだいに宇宙船の形をなし,星ができ,ついにはふたつの宇宙船がコントロールによって星のまわりを旋回し出すようになるまでには,わずか一ヵ月しか要さなかった。一応完成した『スペースウォー』には,のちのインベーダー・ゲームの特徴的な装備である爆弾ボタンのみならず,画面全体にカタストロフィをもたらすパニックボタンまでついていた。スティーブ・ラッセルの作りあげた『スペースウォー』は,すでに充分高度なレヴェルに達したビデオゲームだったのだ。
■『ポン』
けれど,ビデオゲームが遊戯産業の手をつうじて広く一般の人々の前に登場してくるまでには,さらに10年近くを要した。これは主にコンピュータ・グラフィックスの技術的な問題よりも,エコノミーの問題にかかわっている。かさばるばかりか,きわめて高価な材料を使う当時のトランジスタ論理回路によるビデオゲームは,たとえ売り出したところで,とう
てい採算の取れる見込みがなかったからだ。充分に採算の取れる範囲内で,コンピュータとCRTを組合わせ,新奇さとなじみ易さの間でバランスを取りながら,人気の出るビデオゲームを作ること。この模索と試行錯誤は,1972年,ノーラン・ブッシュネルの設立した「アタリ社」が,伝説的なビデオゲーム「ポン」を発表し,大きな成功をおさめるまで,一〇年間近くもつづけられたのである。
「ポン」のコンセプトは,ビデオゲームの技術的な面から見れば,『スペースウォー』などと比較して見ても,ずっとシンプルなものだ。それは「パドルとボール」形式と呼ばれるもので,ダイアルの操作によって上下するふたつのパドルとその間を打たれて飛ぶボールからなるもので,具体的にはピンポンのラケットとボールの動きを抽象化してシミュレートしたものである。現在ならば,家庭用のパソコンを使って中学生がわけなくプログラムできてしまうこのビデオゲーム『ポン』は,おそらくはその抽象性とシンプルさのために人気商品となり,10万台近くを売り尽くす (コピー機の数を入れれば,その数倍になるだろう)大ヒットとなった。これ以後,「アタリ社」と「ポン』の存在は,遊戯マシン産業全体のなかでも,とても大きな意義を持つことになったのである。
それまで,ピンボール,ビンゴ,スロットルなどのようなエレメカによるゲーム・マシン中心だった遊戯場に変化が現われ始めるのは,1973年ころからだ。大手遊戯マシン・メーカーの多くがビデオゲームを手がけるようになった。ビデオゲーム専門の新しい後発の会社がいくつも誕生した。 遊戯場には,それまでのガチャガチャ・チンチンとうなり声をあげるマシン音に代って,コンピュータの発生させるユーモラスで軽快なテクノの音がしだいに聴かれるようになってきた。『ポン』の成功がきっかけになって,遊戯産業に組込まれたビデオゲームは,このころから複雑化と進化をめざす道にむかって,一気につき進み始めたのだ…
■ ビデオゲーム黎明期
ブロックゲームにおけるブロック群には,単純なだけに誰にでも納得できる神話的意味が与えられ,ディスプレイ上のプレイフィールドは,侵入者をむかえ撃つあくなき戦いのためのバトルフィールドに作りかえられたのである。このゲーム・マシンが日本のメーカー「タイトー」によってはじめて作られ,アメリカに大きな市場を獲得したことはよく知られている。ピンボール・ゲームのように偶然性やチャンスのような確率論的なものをコントロールする技術がただやたらに双値変換され,スコアボードに表示される「資本主義的ゲーム」に対して『インベーダー・ゲーム』は侵入者の破壊をただちに数値変換してディスプレイに表示する,どちらかと言えば「前 - 資本主義的コスモロジー」を背景にしているゲームだと言えるかも知れない。そのゲームが海外市場を「インベード」しようとする,日本のゲーム・マシン産業によって産み出されたということはとても興味深い事実だ。新しい運動性の導入が古い神話的想像力の注入と並行して行なわれたという点において『インベーダー・ゲーム』にはその後の「テクノ文化」の性格とも,どこか共通するものが感じられるからだ。
しかし『インベーダー・ゲーム』にはもうひとつの重要な側面があることも,忘れてはならない。それは,このゲームを境にして,ビデオゲームの世界に本格的にマイクロプロセッサ(CPU)が使われ出したという事態にかかわりがある。それ以前のビデオゲームの大半はTTL(トラン ジスタ・トランジスタ・ロジック)回路で構成され,しかもディスプレイも白黒モニターがふつうだった。『インベーダー・ゲーム」はこのCPUを本格的に使用することによって,アクセスタイムのスピードアップを図った。ディスプレイにはなめらかに動くキャラクター群が美しいデジタル・カラーで映し出された。レバーの操作もそれまでの二方向のみだったものから四方向,八方向の操作へとしだいに自由度を増してきた。......
■『ゼビウス』
わずか一,二年であっけなくブームが去ってのちも『インベーダー・ゲーム」が切り開いたものは,そこからさらにもっと可能性にみちたビデオゲームの世界が開かれてくるのではないかという予感をいだかせるほと豊かなものだった。
そこに『ゼビウス」が登場したのだ。実際1983年1月に「ナムコ」が発表した戦闘ビデオゲーム『ゼビウス」くらい,このような期待に十二分に応えてくれるものはなかったのである。
『ゼビウス』は背景がつぎつぎに変化し展開していくスクロール・ゲームのタイプに属する。ごく大雑把に言えば,それは空中戦をシミュレートした『インベーダー・ゲーム』『ギャラクシアン』『ギャラガ』のような戦闘ゲームと,背景がつぎつぎに流れていく『ラリーX』『ポールポジション』のようなドライブ・シミュレーション・ゲームとを結合したものだ。この結合のおかげで『ゼビウス』の戦闘は,つぎつぎと空中を飛来するゼビウス軍の飛行体をびかえうつ空中戦と,地上の森や基地に配属されたエネルギー格納庫のような地上目標の破壊とが組合わさったかつてないはどに複雑なスクランブル・タイブのゲームに仕上った。それだけではない。『ゼビウス』は「インベーダー・ゲーム』がビデオゲームに導入した連動性や想像力の喚起性というものを,さらに高度な水準にまで引きあげるのに成功している。アニメーション 映画のしめす,しなやかな視覚的運動に慣れ親しんで育ってきた世代にとっても「ゼビウス」のキャラクターがしめす絶妙の運動性は,はっとするほど新鮮だった。神話的構想力の現代版とも言える宇宙サガや形而上学的SFを読みつづけている若者にとっても『ゼビウス』は充分な想像力の奥行きを備えた「対話者」となることができた。『ポン』に始まったビデオゲームの進化の歴史をつうじて,その遺伝子の「ジェノ・タイプ」のなかに眠りつづけてきた潜在的な可能性の多くが『ゼビウス」として目覚めてきたとすら思えるほどだ。このため商品回転の期間が数ヶ月にしかみたないビデオゲームの世界で『ゼビウス」は異常なほどの人気を維持しつづけることができたのだ。
けれど,そうは言うものの『ゼビウス』の魅力をわかりやすく説明する段になると,それがとても手ごわい仕事になりそうだということにすぐ気づく。そこでまずは一般的なプレイヤーが『ゼビウス』を操作し解読しながら楽しんでいるごく普通の水準に焦点を合わせて,この重層的ななりたちを持つゲームを解きほぐしていくための糸口を見てみることにしよう。『インベーダー・ゲーム」と『ゼビウス」を分けるもっとも大きな違いは,物語的な展開の有無にある。『インベーダー・ゲーム』には,たとえ高得点を重ねたとしても,長時間のプレイには堪え得ない単調さがある。それはこのゲームが,地球/外宇宙の侵略者,内/外にしめされるような神話的二元論を提示するだけで,物語の展開が紡ぎ出されるようなきっけを失っているからだ。ところが「ゼビウス』のプレイヤーは何時間でもこのマシン と「対話」しつづけることができる。「対話」がどんどん展開し拡がっていくからである。『ゼビウス」のスクロール展開の背後に,何かとても大きな物語性がひそんでいるという感覚にプレイヤーは突き動かされてしまうのだ。
『ゼビウス」における物語性の喚起には大きく分けてふたつのやり方で行なわれているように思う。ひとつには「引用」による喚起だ。 ゼビウス軍基地の第三エリアを通過するとき,中にはバキュラと呼ばれる板が多数回転しながら飛来しプレイヤーが操るソル・バルウをおびやかす。このバキュラが,クラーク・キューブリックによるSF映画『二〇〇一年宇の旅』に登場する超意識物体モノリスを「引用」していることは,ちょっとSFの知識のる人にはすぐ分かる。さらにゼビウス軍基地第七エリアにさしかかると,そこには美しい広大な「ナスカの地上絵」が現われ,プレイヤーの内部にただちに「宇宙からのメッセージ」をめぐるSF神秘学の蘊蓄を喚起するのだ。『ゼビウス」のスクロール展開には,ゲーム製作者(『ゼビウス」の企画を担当したのは遠藤さんという20代前半の若者だ)とプレイヤーとが共通する映画,アニメ,SFなどからのふんだんな「引用」が行なわれている。そのために「引用キャラクター」が登場したとたん,その場面は別の大きな物語に接続し奥行きのある意味作用震得するようになるのである。
しかしこのビデオゲー厶にひそむ物語の喚起力のもっと大きな源泉は別のところにある。すなわちこのビデオゲームの製作者ははじめから「ゼビウス」の戦闘の全体をその一エピソードとして包み込むような大きな長編SF物語を構想し,それを背景にしながらエリア・マップの作製やプログラムを行なうことによってゲーム展開の流れに想像力のうねりのようなものが与えられるように注意深い配慮を行なっていた。
―その「XEVIOUS」という小説の中には,架空の XEVIOUS語や数字記号などが盛り込まれている。「XEVIOUS」は製作までアニメ映画を思わせるではないか。いわば完全にひとつの世界が構築されてしまったのだ。……この小説はゲームシナリオというよりゲームのプレイ・ストーリーに近い。しかしそれが開発チームの中で回し読みされた事によって,敵のひとつひとつのキャラクターの性格づけがはっきりできたのである。それによってゲームのストーリー性が高められたわけだ。(「THE MAKING OF XEVIOUS」より)―
そのため不思議なことに,たとえこの小説の存在(この小説のダイジェストは「ゼビウスー 1万点への解法」のなかで読むことができる)すら知らないプレイヤーでも,スクロールしていく画面展開のなかにぐいぐいと引込まれ,もっと先,もっと奥の光景を知りたいという気持をかきたてる物語特有の欲望を呼びさまされるのである。『ゼビウス』というビデオゲームの背景にある大きな物語性のようなものを,もっとも見事に象徴しているのが敵の巨大要塞アンドア・ジェネシスだろう。アンドア・ジェネシスは第4エリア,第9エリア,第14エリアのそれぞれに低い地鳴りとともに突如として出現する巨大な母船だ。アンドア・ジェネシスの機能を停止させるには,その核を地上目標攻撃用のプラスターで破壊すればよい。しかしそれと同時に「ゼビウス軍の本体がエネルギー化したもの」と言われるプラグザの黒いエネルギー体が脱出し,別のアンドア・ジェネシスヘ乗り移っていくのである。プレイヤーが『ゼビウス』の背後に感知する物語性とは,実はこの切断不可能,破壊不可能なものとしてゲーム全体を貫流し支配しているエネルギー体のごときものにほかならないのだ。つまりプレイヤーがこのゲームに感知しているのは,具体的なかたちに実現された小説のなかの物語性なのではなく,いわば物語の生成をうながす力の流れの場の存在なのだ。物語の生成をうながす力の場に触れ得ていることによって『ゼビウス』はそれを体験した人々に神話生成力を刺激されたような不思議な感銘をもたらすのである。
ところでビデオゲーム『ゼビウス』を特徴づけているもうひとつのものは,敵ゼビウス軍のしめす絶妙な運物性に見出すことができるだろう。このゲームはその製作プロセスの最初からTVアニメーションの動きを意識し,そのなめらかさ,しなやかさ,すばやさ,ユーモアなどをコンピュータ・グラフィックスで表現しようと試み,かなりな程度までの成功をおさめているように思えるのだ。リプレイボタンを持しゲームが開始された直後,森を抜けたソル・バルウの前に現われるのがゼビウス軍の無人偵察機トーロイドである。はじめて『ゼビウス』を操作した人の多くがまっさきに驚かされるのが,このトーロイドのしめすなめらかな飛跡なのだ。トーロイドは直進してきたかと思うと,こちらの攻撃を見越したかのように不意に旋回して横腹を見せながらブラウン管の外に逃げ去っていくのである。そうかと思うと対人用戦闘機タルケンは,攻撃しかけてきたとたんにコックピットがくるっと反転してそのまま逃げ去っていく。「ゼビウス語」で死をあらわすゾシーは,タコのような足をつけて回転しながらせまってくる。ゾシーは実に複雑な回転運動をしめすから,はじめのうちはちょっとその飛跡を予測できかねるほどなのだ。もちろん『ゼビウス』のキャラクターがしめす運動が『ギャラガ』や『ポスコニアン」以来のプログラム・テクニックの蓄積の上に実現されたものであることは間違いない。けれど,このビデオゲームくらいその運動性の絶妙さやエレガンスに磨きをかけたものもないように思える。これにはひとつのキャラクターの動きを表現するためのパターン書き換えの数を増やした,ということが関係している。そのよい例がカブトガニ型有人機テラージの旋回パターンだ。ここでは一キャラクターの運動表現に七パターンもの書き換えが使われでいる。『ゼビウス」は全編,意表をつく出現と運動,分裂的なさく裂,変化するスピード,ユーモラスな身振りとでみちあふれている。そしてこのカタストロフ的で分裂的な意表をつく運動性が連続的に流れていくかのように見える物語生成力の上にかぶせられていくのだ。そのために,物語生成力,神話生成力のゆったりとつきあげてくる力は,それだけで孤立てしまうことがなく,また分裂的運動の方も味けないノイズに終わってしまうことがない。神話的想像力の動きとカタストロフ的な分裂運動の結合。この結合が『ゼビウス』に,今までになかったような現代性を付与することになったのだ。
しかしそれだけのことならば『ゼビウス』はたんによくできた遊戯マシンのひとつということにすぎないのではないだろうか。美しいコンピュータ・グラフィックス表現が駆使され、そのなかをこれまでのビデオゲームになかったようなしなやかさとすばやさで動き回っていくキャラクターの運動表現が可能になり,さらにその全体を奥行きのある神話的想像力が包み込んでいるようなビデオゲームとして『ゼビウス』がかつてない水準に到達ているとしても,たんにプレイヤーが敵ゼビウス軍の飛行物体や地上目標を破壊し高得点を重ねていくことにだけ熱中しているのだとしたら,このビデオゲームの見かけの新しさなどたかだか意匠にすぎないのではないか?と疑ってみることもできる。それに『ゼビウス』が一種のサイコセラピー効果を発揮していると言ったところで,それほど目新しいことではない。遊戯の持つパラダイス状況のなかでプレイヤーの技術を数値変換するスコアの高得点を得る人に,いっときの歓びと安らぎと消耗を味わうという遊び方しかゆるされていないのだとしたら,ようするにこのビデオゲームもこれまで遊戯産業が作り出してきた沢山の機器同様,競争原理に貫かれたセラピー装置にすぎないように思えてくるのである。プレイヤーが高得点をあげることばかりに熱中しているのだとしたら,確かにそのとおりだ。
だが実際には新しい世代のゲームフリークたちは『ゼビウス」という傑作をとおして,これまであまり前例がなかったようなビデオゲームの新しい楽しみ方を発見しつつあるのだ。ひととおり高得点をあげることができるようになった子供たちの「敵」は,もはやゼビウス軍ではなくなる。新しいゲームフリークたちの次なる闘いは,このビデオゲームをなりたたせているコンピュータ・ブログラムそのものとの間にくり拡げられることになる。すなわち「隠れキャラクター」の発見,プログラム中のバグ(虫)やCPU間のデータ転送のブロセスでときたま発生する「怪現象」や「珍現象」の発見などにゲームフリークたちの関心は移ってきたのだ。『ゼビウス』に,もともとたくさんの「隠れキャラクター」が仕込んであるらしいという情報は,子供たちの間で早くから知られていた。事実『ゼビウス」には最初から,地上の特定の地点にブラスターをうち込むと,地中に隠れていたソル(これは地中に隠されたゼビウス軍のコンピュータのメモリータワーだということになっている)や海中のスペシャル・フラッグがにょっきりと出現するような特別のプログラムが組込まれていた。そこでゲームフリークたちの関心は,もっぱらこの「隠れキャラクター」を出現させた瞬間の快感を味わうことにむけられた。だが,しばらくすると『ゼビウス』にはそれ以上の謎がひそんでいるという噂が子供たちの間に出回るようになっていった。とうていプログラムされたものとは思えない不思議な現象を体験した子供たちが何人み現れてきてしまったのだ。神様のような完璧さをほこっていた『ゼビウス」のブログラムに,このような「怪現象」を誘発するバグ(ブログラムによって起こる現象)がいくつも存在するのではないか,あるいはCPUに過剰な負担がかかるような複雑な攻撃を仕掛ければこちらからそのような超常的現象を画面上に引すことができるのではないか。「ゼビウス」フリークたちの関心はプログラム中に散布されたそのようなブラック・ホールの入口の発見に注がれたのである。若い二人のゲームフリーク(うる星あんず,中金直彦)がまとめた戦略情報の書『ゼビウス一千万点への解法』には,そのような「怪現象」がいくつも報告されている。それによると,主に「怪現象」はプログラム中のバグによるものとCPU間のデータ転送の際におこるタイミングのずれによるものとがある。『ゼビウス』は三つのCPUを使用している。
ひとつはサウンド発生用のCPU(「ゼビウス』は新しいBGMとしてもおもしろい音楽を発生する。これについては細野晴臣監修になるアルバム「ビデオ・ゲーム・ミュージック」を聴いていただきたい),ひとつはモンスター・アロケーション・ユニット(MAU)と呼ばれるキャラクターのパターン情報が記憶されたCPU,そしてもうひとつは全体を総括するメインCPUであり,ゲーム中はこれら三つのCPU間にめまぐるしいデータ転送が行われている。そのため,このデータ転送のタイミングがずれるとつぎのような様々な「怪現象」が起こるのである。たとえば
* アンドア・ジェネシスのアルゴを破壊したのち,コアも壊し機能を停止させた。すると背景が黒くなってトンネルに入ったようになった。そしてやがて見たこともない背景が出てきた。これはたぶんマップ・データの読み取り番地が狂ってしまったことよって起こる現象だろうと思われる。
* エリアとエリアのつなぎ目には必ずグリーンの森の背景が現われる。森はスクロールするデータのつぎ目にあたる部分だが,画面上に森が現われるときCPUには大きな負担がかかっている。そのため,いくつもの「森の怪現象」が現われる。
* 第15エリアのワープゾーンで,ソル・バルゥの背後に回ってきたジアラの弾にあたたとたんワープして第七エリアにもどってしまった。これは一方のCPUにエリア70%を超えたという指令が伝わる途中でソル・バルウ自身が死んでしまうと起きるループ現象である。
このようなCPUによるバグのほかにも,プログラム自体に残ったバグが引起こす「怪現象」もいくつかある。そこで「ドモグラムが円陣を作って出てくるとき,ひとつのドモグラムの破壊跡の下を他のドモグラムが通過していく」といった現象が見られるのだ。
プログラム中に発見されるバグのいくつかをそのまま残したこと(メーカーは新製品のテストに半年から一年をかけてテストプレイをくりかえすので,そのようなバグの存在が気づかれということはあり得ない)。ハードウェアにソフトが重圧をくわえることによって予期しない「怪現象」が発生する可能性をそのまま温存したこと。『ゼビウス』はまさにこれらの点において,これまでのゲーム・マシンになかった可能性の領域を開いて見せたのである。巧妙にバグを放置することによって『ゼビウス』はいくつもの謎,いくつものブラック・ホールへの入口を持つことになった。今やゲームフリークたちはたんに高得点を得るという資本主義的快楽のレヴェルを越えて,コンピュータとの,いやもっと言えば宇宙意識そのものとの新しい「対話」の段階にはいっていこうとしている(それも闘いをとて)。子供たちはビデオゲームが与える視覚情報をつうじて,いっさいバグが存在しなかったとしたら,コンピュータ・プログラムは にっちもさっちもいかなくなってしまうというゲーデル問題につながりを持つような認識や,この宇宙にはいたるところ,無限につながるブラック・ホールの入口が散布されているというノマド科学的な認識を身につけ始めようとしている。けれどバグと戯れるそのような快楽が,キメラ的な変容をつづける資本主義のどのような側面に対応していくものなのかは,まだよくわからない。
■ セリーの思考
…南方熊楠はあらゆる方向へ進行増殖してゆく思考力かかえ込んでいた人であった,ということだ。こういう頭脳はほうっておけば,社会のなからであってまったくの分裂症状におち込んでしまいかねない。そこでもうひとつ,それが分裂症に陥ってしまわないために博物学の研究があった,ということである。ここにはたんに,博物学研究に熱中することで分裂ぎみの思考力に統一やアイデンティティがもたらされたとい
うような,学問の持つサイコセラピー効果が語られているようにも見えるが,実際には博物学研究,とりわけ南方が取組んでいた,コケや粘菌がはらんでいる恐るべき分裂的な特性のことが暗示されている。植物の研究は南方の頭脳に集中や統一をもたらすばかりではなく,たえず分裂し増殖していこうと身がまえている彼の思考に,みごとな水路を与えるものでもあったことが,ここから読み取れる。 では博物学研究,とりわけ微細植物の研究の持つ特性とはいったいどのようなものなのだろうか。
植物を採集したり,それを分類して標本を作ったりする博物学的作業の楽しみは,ふつう,植物の世界にきっちりした構造をもたらそうとする分類学的な知の魅力に裏打ちされているように考えられている。けれど,少しでも植物採集に深入りしたことのある人なら誰でも知っているように,森や山の中に出かけた植物採集者は,しばしばとてつもない多様性の渦のなかに踏み込んでしまった自分のなかの分類学的な知が,ほとんど解体寸前の状況にまで追いつめられてしまう,というような体験をすることがある。 植物の世界がよく見えるようになればなるだけ,分類的なシステムの末端から猛烈な分裂が起こり始め,リンネによる樹木代の分類系統図がまるでカビとかコケとか粘菌のような形状に変化していくように思えるのだ。…
■ 真言密教のマンダラとビデオゲーム
しかし,純粋な強度である「大日如来」の生産するもろもろの「不思議」を,ありきたりな論理でおおい尽くすことは,もとより不可能だ。なぜなら強度の空間には,諸現象がいりくんだ多数多様体としてたち現われてくるからである。このような多数多様体をシミュレートするためには,どんなふうな「智慧の働かせ方」をしたらよいのだろうか。そこで南方は,複数のセリーが多方向から貫いていく宇宙卵のようなモデルを提出する(図参照)。
ーさて妙なことは,この世間宇宙は,天は理なりといえるごとく(理はすじみち),図のごとく(図は平面にしか届きえず。実は長,幅の外に,厚さもある立体のものと見よ),前後左右上下,いずれの方より事理が透徹して,この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりても,それを敷衍追究するときは,いかなることをも見出し,いかなることもなしうるようになっておる。このモデルをとおして,南方はセリーの束であるこの宇宙の多様性をシミュレートするための「内在性のマトリックス」のようなものを構想していると思える。(土宜法竜宛書簡)
このモデルには多数の方向から複数のセリーが流れ込み,それらがたがいに交流を行ないながら,複雑なマトリックスを形成している。このモデル自体が,「大日如来」の無限の生産をシミュレートするものでありながら,実はここには全体を統一している超越者のようなものはいないのである。
「大日如来」は多数多様体としての宇宙を生産する強度として,そこを貫いて生成変化をとげていくセリーのひとつひとつに「表出」されている力だが,けっしてこの多様体を超越した位置にたって,全体を「理解」しようなどとは思ってもみない。「大日如来」は象徴秩序でもなければ,全体に統一をもたらす「父親」でもない。南方の描いた宇宙卵では,完全な内在性の「理法」をしめすマトリックスとして,無数のセリーの東からなる多様体としての宇宙をシミュレートするための方法が模索されている,というわけだ。
この宇宙卵のようなモデルが,真言密教のマンダラを想起させることは容易に想像がつく。けれど,画像としてできあがっている両界マンダラのようなものだけをマンダラとして捉えるならば,この予想は少しばかりかたくなだ。南方がここで図像化しているものは,真言密教の両界マンダラをはじめとするいっさいのマンダラ図像をさえ生産してくる多様性のマト
リックスとして,言わば「原マンダラ」のような運動体にほかならないのだ。
密教におけるマンダラは,東洋におけるセリー思考,強度の思考が作り出した数ある内在性のマトリックスのうちのひとつにすぎない。密教,とくに空海の真言密教では,宇宙にたえまなく生起する諸事象を,「大日如来」と名づけられた純粋な強度の場の行なう生産として捉えている。このようにして生産されたものが,途中,思考や物質による限定を受けなければ,あらゆる方向にむけて,自然成長をとげていく「大日如来の智慧の戯れ」となって現われるのだ。この純粋な強度の空間は,こうして無限に多様なセリーの束として,あるいはセリーの折りたたまれたものとしての宇宙を産み出してくる。無限多様体を作りなすセリーはそれぞれ,微細な差異によってきざまれた生成変化の連続線をたどりながら,おたがいに接合したり,分裂をくりかえしている。だから,マンダラとは,この強度の場にたち起こる多
体の生産をシミュレートするために考えだされたマトリックスであり,そうした意味で宇宙を何ものによっても統一しない生産の内在的な「理法」をしめすものなのだと考えられる。したがって内在性のマトリックスとしてのマンダラは,無限多様体たるこの宇宙から超越者を,王を,演劇の舞台を追放してしまうのだ。複数のセリーの束が折りたたまれた状態でかたち作るこの空間には,それを表象し,その全体性の理解をもたらそうとする演劇を上演するような舞台が欠けている。
セリー思考は演劇モデルを追放する。演劇モデルは,生成変化する差異の連続線からなるセリーを抽象化して,舞台の上で行なっていることと,その外の世界との間に構造的な対応関係をうちたてようとするからだ。マンダラはしたがって,力の直接的形象化をめざすひとつのモデルだと言える。南方熊楠が,このような宇宙卵を自分の思考のモデルにすえたのは,
彼自身の頭脳が強度の直接性によって,たえずつき動かされていたからである。
構造とセリー。南方熊楠の博物学とその人生を貫いて流れるこの対立は,たんなる思考上のモデルを超えて,あらゆる領域に見出すことのできる根源的なものなのである。
―中沢新一,雪片曲線論,中公文庫,

gujhhggh pc