2024年3月6日水曜日

[市場][運輸] Marc Levinson『コンテナ革命』〜岡田斗司夫ゼミ



[市場][運輸] Marc Levinson『コンテナ革命』〜岡田斗司夫ゼミ
YouTube『岡田斗司夫チャンネル』/モノが安くなって僕等が貧しくなった理由
24.3.1
毎月1日は限定解除として,有料会員しか見られない動画の中から1本を選び,1週間だけ 無料公開しています。2024年3月の限定解除は,ひろゆきさんの推薦図書でもある『コンテナ物語』という本を紹介した動画です。この動画は2021年1月31日に配信した「岡田斗司夫ゼミ第380回」を限定部分まで含めて無料配信します。限定部分まで合わせると本当に2時間あるんです。2時間もの長丁場ですけども,めちゃめちゃ興味深い話なんでぜひ最後までお付き合いください。それでは1週間だけの限定解除動画,3月8日までになります。公開時期は1週間だけなので,ご視聴は早めにお願いします。限定解除動画スタートです。
■ 2020年読んだ中で一番面白い本
こんばんは岡田斗司夫ゼミです。今から30年ぐらい前,20世紀の終わりに情報革命,いわゆるIT革命というのが 起きて,僕らにの生活は一変した。これはもうみんな知ってることですね。毎日ニュースでもやってます。で,実はこれとだいたい同じ時期に物流革命という大きな変化が起きてるんですよ。まあ同時期っていっても,実際始まったのは1960年代 なので時期が早いんですけども。あの 実際の物理的な革命なので,ゆっくりゆっくりゆっくりゆっくりゆっくり進行して,20世紀の終わり ぐらいにほぼ完成したと言っていいんじゃいいんじゃないのかな?その鍵を握っているのが,貨物船とか 貨物列車,あるいは大型トラックに乗っているコンテナという巨大な鉄の箱なんですね。この巨大な鉄の箱にいろんなものを入れて,そのコンテナごと運んじゃうというのがコンテナ革命なんですけど,そのコンテナの誕生から普及までの歴史がまとめられているのが,今日紹介する『コンテナ物語』という本です。この船は港でよく見るこの「コンテナ船」ってヤツですね。これ,コンテナ船で,ここであのいろんな色になっているのが,一つ一つのコンテナなんですね。で,そんなコンテナが何百個〜何千個と載ってるのがコンテナ船で,人間が乗る部分は,すごいちっちゃい部分だけなんです。ひたすらコンテナが乗っていて,船の中もガラガラになっていて,本当にこのコンテナを運ぶ 機能しかないです。こういう船が世界中の港に行き来するようになった。
かつて日本も,物流大国として例えば 横須賀とかいろんなところに拠点があったんですけど,このコンテナ船が世界の中心になるとはなかなか思ってなかったので,このコンテナ船の対応が遅れてしまったので,今日本は世界の物流 も,多分昔は三大拠点か四大拠点の1つだったんですけど,今十大拠点の一つぐらいのところまで規模が落ちてるんじゃないのかな。このコンテナの誕生から普及までが『コンテナ物語』の本なんですけども,この本を読めば,なぜ100円ショップはあんなに安く物が売れるのか?とか,なぜ僕らの生活はこんなに物が安くなってるのに,どんどん暮らしが厳しくなっていくのか?まで全てわかるという。ひろゆきさんも薦めるはずですね。今日の動画で,そんなコンテナの物語っていう本の見どころをわかりやすく解説してます。超簡単にこの『コンテナ物語』は分厚い本なんですよ。この分厚い本,日経BPから出てる本なんですけども,ひろゆきが紹介してたから読んでみたんですよ。ひろゆきが,だいぶ前に書評 書いてて「この本はすごくいいぞ,なんでかって言うと,5つの条件がある,
1,これから先10年以上 役に立つ
2,結論までの流れと理由に筋が通っている
3,ちゃんと面白い
4,事実と数字が並んでて,個人の感想ではなくエビデンスがある
5,その割にはちゃんと意外な結論に達しているとで読んでて 面白い
この5つの条件をすべて満たしてる」っていう風に言われてそうなんだと思って 読んだ。まあ面白くて,僕が2020年に読んだ本の中で明らかに一番面白い本だったんですね。なので,ちょっと今日は これを皆さんにプレゼンしてみようと思いました。
■ コンテナ革命,グローバリゼーションの骨格の形成
まあ,ひろゆきがこれを紹介する文章の中で書いてたのが「上海から東京までだいたい30の荷物を運ぶと,今だとコンテナで大体30万円ぐらいかかる(ひろゆきが書いた当時) 」。で今は,実は国際的にコンテナの運送価格っていうのはすごい上昇していて,50万円ぐらいになってるのかもわかんないですね。で,その頃は,上海から東京まで30万円ぐらいで運べたと。しかし群馬の工場から東京まで,同じ30トンの荷物を運んだら30万円では絶対送れないと。海上輸送が異常に安くなっちゃったので,人件費の安い国で生産するようになった。海外製品を輸入することが当たり前になった。そしてそれが低コストに繋がるようになったんです。今聞くと当たり前の聞こえるんですけど,その当たり前がどのように実現したのか っていう本 なんですね。今日のゼミはこの『コンテナ物語』を取り上げて,一般にはあんまり書かれてないいろんな世界の事情なども説明していこうと思います。
そもそもじゃあコンテナとは何なのか? これ,1/35のコンテナのプラモデルをわざわざ組んだんですよね。まぁ特徴は,横が40ftで高さも幅も8ftぐらいだから,2.4m 2.4mで全体がだいたい12mぐらいのものだと思ってください。日本ではこの半分のサイズが多いですけど。で片側にドアが付いてて,こっちのドアを開けて物を入れるけど反対側にはドアが付いてない。なんでかって言うと,コンテナって,だいたいトラックで後ろ向きに運ぶんですよね。で,大昔の2つドアがあった時代は,急ブレーキかけた時にコンテナの中に物がいっぱい積んだ場合に,急ブレーキかけると,中のものがポーンと運転席に当たって,運転席の人の後頭部を直撃して死亡事故というのが起こったんですね。そういうことがもうないように,ドアが1つになった。急発進でものが溢れるということはほぼないんですよ。だいたい事故での急停止の時に事故がおきる。だから片側にしかドアがないわけですね。このドアの所にいくつもいくつも 記号みたいのが書いてあるんですけど,この記号が国際規格になっていて,だいたいこの記号とか数字とかを見れば,そのコンテナがどういう内容でどこのコンテナかというのがわかるようになっていて,コンテナ 一つ一つにいわゆるマイナンバーのようなものが付いているわけですね。これが積み上げることができるんですよね。四隅にちゃんと力かかっても大丈夫になってるので,どんどんどんどん 積み上げることができて,船とかで運ぶ時は7段ぐらいに積み上げて運ぶのが当たり前になってます。映画『レディー プレーヤー』観た人は憶えてると思うんですけども,あの 主人公が住んでたのが 超貧乏なスタックハウスっていうところなんですけど,そのスタックハウスとかスタックタワーというのが このコンテナを積み上げて住んでる家 なんですね。このコンテナっていうのは,実は環境としても すごく良くて,わりと安くてかっこいい。中古でだいたい30万円ぐらいで,綺麗な新品でも50万ぐらいで買えるんですね。なのでこれを買ってつなげて家にする人も多いです。そしてこれがあると倉庫がいらない。なんでかというと,これが登場する以前は,みんな木箱とか布袋に入れていたわけですね。荷物とかを1箇所に集めていた。船に載せる時って,1週間とか2週間ぐらい前から,日本中とかアメリカ中から荷物が集まってくるわけです。そうすると雨に濡れちゃうじゃないですか?だから倉庫がいるんですよ。荷物を1回倉庫に入れて,倉庫からまた出して…ってことやらなきゃいけなかったんですけど,このコンテナに入れると,これ自体が いわゆる その防水機能があって,雨が 通さないようになってるんですね。なのでコンテナ自体が倉庫の代わりになるというめちゃくちゃ 便利ものだったんですよ。あとコンテナには,厳重なロック付いてる。ここにさらに鍵とかつける。そうなると何になるかというと泥棒対策になると。マーティンスコセッシ監督『グッドフェローズ』観た人は知ってると思うんですけども,かつて 空港とか波止港とかもそうなんですけども,当時は泥棒が当たり前にいた…というより波止場や港にいる人の半分ぐらいがバイトで泥棒をやってたというのがあってですね(笑),荷物が木箱 だった時代は,すぐに開けれるから,中のものを盗んじゃうんですね。腕時計とかすごい 狙われるんですよ。腕時計とかいわゆる すぐにポケットに入れてちょろまかすことができるから,だいたい船で輸送するというのは,もう盗難されるのが当たり前だった時代があったんですけど,このコンテナ自体が金庫になることがすごい便利な発明なんですよね。一方で,コンテナには特殊な用途のものもあります。液体を運ぶ用の液体コンテナですね。タンク なんですけど,タンクの四隅に金属の柱をつけて コンテナトップしてるんですよ。これがあるとこの端っこそれぞれにボルトが入るロックがあって,ここに固定ボルトが入って,90度回転すると 吊り上げたりロックすることが簡単になるんです。だから今はもう液体もこういうコンテナ型の囲いに入れて運んでます。下の方が冷凍冷蔵コンテナです。ちょっとわかりにくいんですが,内部にダイキンの巨大なエアコンが付いてるんですね。冷蔵にしたり冷凍にしたり温度を自由に設定できるんですね。こういうものが全て同じ規格,同じサイズで作られているので,この液体 コンテナと普通のコンテナとこの冷凍冷蔵コンテナを全部自由自在に組めるんですよね。これがコンテナです。で工場でですね。製品を今のコンテナに載せます。詰めていきます。で,それをそのまま封印してロックかけたまま運びます。税関以外ではロックが開けないでこのまま 運んじゃうんですね。昔だったら,荷物の中身が何なのか分かったから,それが盗まれる原因にもなったんですけども,今はロックされて,どうなってるのかわからないですよね。
20世紀末からどうなってるのかっていうと,このコンテナごとでっかいトレーラーに乗せるようになったんです。コンテナ運ぶ専用のトレーラーです。トラッカーヘッドですね。運転席があるトラック部分にエンジンとかついてます。正確にエンジンは車体下についてるんですけど。その上にコンテナが乗っかってるんですね。で,これをこのまま港まで運ぶ。このまま港まで運んじゃうんです。 すごい楽なんですよ! で今みたいにトラックで運ぶ場合もあるんですけども,列車で運ぶ場合もあります。これはいわゆるコンテナ専用の貨車ですね。鉄道で貨車の上にそのまま40フィートコンテナをこのまま乗っけちゃうわけです。このまま乗っけて走らせるわけですね。で港に着くとコンテナを外して船に乗せるわけですね。コンテナを運ぶ専用線というやつですね。だいたいこのクラス,今コンテナ運ぶのの主流ってこのクラスの船になってるんですけど, 1万個ぐらいコンテナが乗る船ですね。全長で350mぐらいですか?戦艦大和より大きいです。40フィートクラスのコンテナが1万個ぐらいになります。この中のブロック一つが40フィートでこの中に物をいっぱいに詰めて船にどんどんどんどん載せていくと。 これでコストがめちゃくちゃ安くなったという話なんですね。
で,日本ではこういう大型のコンテナが港に付けられる。港っていうのは東京と横浜と名古屋と大阪と神戸ですか?それが,コンテナ専用の埠頭がある所で,九州の方にもここまで大きいやつは無理だけどあったと思います。で,ここでまたトラックに積み替えてAmazonの巨大倉庫まで持っていくわけですね。そっからAmazonから自宅へ物が配送されるわけなんですけども,さっき言ったようにコンテナっていうのは,税関でチェックのために開けるのを除くと,工場から物を詰めて閉めてから1回も開けられずに,トラックに乗って 列車に乗って船に乗って港まで来て,港からまた日本でトラックに乗って 列車に乗って…ということでAmazon 倉庫まで行っちゃうわけですね。ポイントは何かって言うと,このトラックも 列車も船も全部同じコンテナが載せられるということなんですよ。
つまり 載せ替えのコストとか時間のロスがゼロだということなんです。載せ替えのコストや時間っていうのがどんなに大きいかというのを,ちょっとこれから説明しようと思います。とりあえずこれによって輸送コストは,特に海外輸送コストは信じられないほど安くなったんですよね。ひろゆきが言うとおりです。群馬の工場から30トンの荷物を運ぶよりも上海から運ぶ方が安くなっちゃった。これによって,コンビニとかスーパーで売ってるたこ焼きとか冷凍 お好み焼き…だいたいベトナムの工場で作られてるんですけど,それもなんでベトナム工場,タイの工場でわざわざ たこ焼き作るのかって言うと,別に 群馬に工場を作ってもいいんですよ。青森に工場を作ってもいいんですけども,青森から冷凍たこ焼きを運ぶよりもベトナムから冷凍たこ焼きを運ぶのが安いんですよ。意外です。僕らは ついつい人件費が安いからタイとかベトナムでやるんだという風に思ってるんですけど,人件費自体そう変わんないんです。それより輸送費です。日本国内でトラックとかを何台も何台も乗り継いで運ぶよりも海外から船で運ぶ方が安い。 結果輸入品がいっぱい 溢れて豊富なことになったわけですよね。その結果,先進国の製造業はどこも例外なく致命的な打撃を受けることになったんですけど,これが コンテナ革命というやつです。
■ 都市に町工場があった時代
で,ここでもう1回 また別のおもちゃ出します。これ1950年代のおもちゃですね。Radio Stationって言うんですけども,まだ無線機が珍しかった時代に,子供たちがこの無線機のおもちゃっていうのを使って無線ごっこするわけですね。このマイクですね。「あー」ってしゃべったら ここから長いコード出てて,別の無線機に(無線機じゃない電話なんですけども)つながって遊ぶって いう,そういう遊びをするおもちゃ なんですけども,まあいいですよね。プラグさせていろいろ送信先入れ替えて,方位磁石が付いていて,ランプがついていて,それっぽいアンテナが付いているというおもちゃです。まぁだいたい僕の世代の子ども,僕よりはちょっと上の世代の子どもは,こういう全てプラスチックでできたおもちゃにめちゃくち憧れたんですよ。
で,日本でもこういう海外製のプラモデルのおもちゃって売ってたんですけども,銀座ぐらいでしか売ってないんですよね。それでめちゃくちゃ高いです。アメリカ製のおもちゃって,初任給が1万3000円だった時代に平気で3000円ぐらいしたんですよ。つまり今から考えたら物価が1/20の時代だから6万円ぐらいしたわけですね。なんでそんなに高かったかといえば,アメリカ製 だから,輸入品 だからです。輸送コストが高かったんですね。当時のアメリカ製のおもちゃっていうのは,現地で買うものの3倍も4倍もするのが当たり前で,だいたい現地で買えば500円ぐらいのおもちゃ。そのアメリカのおもちゃを日本に持ってきたら2000円ぐらいっていうのは当たり前だった時代です。こういう海外製だから高くて当たり前だよな…というものを「舶来品」という風に言いました。舶来品ですね。おもちゃでもウイスキーでも家電製品でも「舶来品」つまり海外の品っていうのは高くて憧れの商品だったわけですね。ところがです。これ,僕が今週の水曜日に買ってきたマクドナルド ハッピーセットのおまけ なんですけど,470円でバーガーとポテトとドリンクが付いてて,この機関車トーマスのおもちゃがついてくるんですけども,実はこのトーマスシリーズの機関車のおもちゃだって舶来品なんですね。中国製ですけどこれもです。海を渡って海外から来たから本来高いはずなんですけど,でも 激安です。昔,海洋堂の専務が言ってましたけど,マクドナルドのハッピーセットのおもちゃっていうのはだいたい原価15〜20円ぐらいできるように作ってるそうですけど,だから15円くらいだと思います。で「中国は隣の国だから安いんだろう」って,輸送費が安いと考える人がいるかもわからないですけども,違うんですよ。ハッピーセットって世界中で同じ値段で売ってるんですよ。だから中国の反対側,地球の裏のブラジルでも,ハッピーセットはおもちゃ付きで470円ぐらいで売ってるんですよね。だから,これやっぱり物の海上輸送が安くなったからなんですよ。今日の話は全部これなんですけど,もちろんコンテナ革命による輸送費が激安になったおかげで,中国で作ってるハッピーセットのおもちゃが 海の向こうのブラジルでも日本でも全部470円ぐらいでおもちゃ付きでハンバーガーとポテトとドリンクが買えるようになったわけですね。しかしです。輸送費が激安になると世界中から安くていいものが手に入るんですよね。100均ショップではいろんなものが買えます。僕らだいたい100均ショップでかなり高性能もの買ってますよね。でも困ったことが起きると。
さっき言ったこのおもちゃですね。このおもちゃにはパッケージ箱というのがあるんですけども,「REMCO Electric Radio Station」って書いてあってなかなかかっこいい箱でしょ。このおもちゃの箱なんですけども,箱の蓋を開けると裏側に説明書が付いてる。 電池の取り替え方とか,だいたい箱の裏側に書いてあるんですよ。そこにメーカーの住所も書いてあります。住所を見ると, これ,REMCO Industries社の住所ですね。REMCOというおもちゃメーカーは,ニュージャージー州ニューアーク(Newark N.J.)にあります。ニューアークというのは ニューヨークの隣の街ですね。だいたいニューヨーク行きの飛行機に乗る時の空港っていうのはJFKかダラスかニューアーク,その中の最大の一つ なんですけども,だからほとんどこれニューヨークと同じ意味だと思ってください。で,この下の方は「IDEAL」っていうまた別の60年代のアメリカのおもちゃメーカーなんですが,住所が「Hollis N.Y.」ってあります。当時のおもちゃメーカーってニューヨークにあるのがやたら多かったんです。これはニューヨークに本社があるという意味じゃないんですよ。本社とか貿易の中心地があるという意味ではなくて,工場がニューヨークにあるのが多かったんですよね。同じように1950年代の日本でも,おもちゃ工場というのはだいたいが東京都内だと台東区,浅草の辺りが多かったんですね。で,この上の さっきの ニューヨークのメーカーの作ったおもちゃの隣の「Moon Rocket」っていうおもちゃ,ブリキのおもちゃなんですけど,これも浅草で作ってます。東京 なんですね。その横の「HAWK」っていうプラモデル会社,これもニューヨークのにありました。
何でこんな大都会に工場を作ったのか?ですよね。なんでその大都会に工場を作ったのか。今それはほとんどないんですけども,昔の都会って,町工場の塊だったんですよね。ブリキのおもちゃも,セルロイド人形も,木の積み木とかでさえ東京都の練馬区とか台東区あたりで作ってました。僕の生まれた大阪も大阪市住吉区なんです。住吉区も町工場の集合体 だったんです。大阪って今では信じられないですけど町工場だらけだった。小学校の社会科見学では,学校から歩いて2分のブリキ缶工場に行きましたし,その次の社会科見学は歩いて5分のファンタグレープ詰め工場に行ったんですよね。その工場ではファンタグレープだけ瓶に詰めたんですけども,同じように,近くの天王寺の街は履物工場の街だったし,大阪市住吉区の僕の家の近所は縫製とか刺繍の工場がいっぱいあったんですね。僕の実家の岡崎市っていうのは,そこで1960年代後半から70年代の半ばにかけて ちっちゃい啼哭みたいなものを作ってたんですけども,それが当たり前だったんですよ。日本中の都市,都道府県の県庁を置いてるところって,どこも工場があって当たり前だったんですよ。ちっちゃい工場がいっぱいあって当たり前だったんですよ。
■ ヤクザ・マフィアの誕生
でも今ほとんどそういうの見ないじゃないですか。ニューヨークにもおもちゃ工場も全くなくなってます。東京都でもおもちゃ工場はまずないと思います。残ってるかわかんないけどほぼゼロと言っていいでしょう。大阪の僕の子供の頃にあった工場もほとんど滅びました。なんでニューヨークや 東京からおもちゃ工場が消えてしまったのか?ですね。土地の値段が高いからじゃないんですね。やっぱり原因はコンテナ革命なんですよ。そもそも物はどう流通したのか? 簡単にその物流の歴史,20世紀に限っての歴史をたどってみましょう。
一番最初の物流っていうのはこういう感じだったんですね。日本の荷役(沖仲仕,おきなかし)と言います。1958年ですね。これ,日本最大の運送会社の日本通運のYouTubeチャンネルから撮ってきたカット なんですけども,1958年に撮影された動画です。「荷役は変わる」という動画です。僕が生まれた頃は,物を運ぶ,特に海運/海で運ぶというのはこういうことだったんですよ。このおっさん達は荷役とか沖仲士と呼ばれているガタイのいいおじさんたちで,両手に荷物を持って渡し板の上で運んでると。こういう筋肉モリモリの沖仲士達が真っ黒になって,両手に荷物を持って運ぶのが当たり前だったんです。荷物はだいたいこういう布袋に入ってるんですね。布袋がいっぱい積んであるんですけど。で沖仲士が渡ってる板ですね,渡し板って言います。「渡し板」って,英語で「ギャング(Gang)」って言うんですけども 。「艀(はしけ)」って言われるいわゆる筏(いかだ)と岸は,このギャング/渡し板で繋がってます。
これは世界中で同じで, ですね。ニューヨークの沖仲士の写真も残ってます。これは1912年のニューヨークの沖仲士。ドラム缶以前の木の樽の時代です。液体とかは,こういう樽とかドラム缶に入れて運ばれてました。船で荷物を運ぶ時っていうのは,一旦港の集積所とか屋根がある所にトラックなり馬車なりで運んできて,そっから袋とか樽とかを沖仲士のおっさんが担いで集積所に ガーッと集めて,次に集積所から艀(はしけ)/桟橋まで運んで,さらに艀から船まで運ぶ。船に積むのもまた肉体労働で,樽を一つ一つ持ち上げるという肉体労働の塊だったんです。本当にすごく大変だったみたいです。体が丈夫な人でないとなれない仕事と言われたんですけども。だからちょっと例え話でやってみようと思うんですけども,まず工場で製品作りますよね。工場で製品作ると ,まぁ20世紀ですから自動車あります。トラックに乗せて工場から運んでくるわけですね。このトラックが港に来ます。港に来たら,集積所に積み上げるわけですね。この集積場所から,「この荷物は15番桟橋まで運んでくれ」というふうなことになって15番桟橋まで運ぶんですけど,これ運ぶのも人力なわけですね。おっさんが担いで運んだり,人力車みたいものもあります。じゃあこれこのまま船に乗せられるのかって,そういうわけにいかないんですね。桟橋まで持ってきたから,桟橋に船がついて桟橋からホイッと船に乗るのかというと,実際そうではないんですよ。桟橋と船との間に艀(はしけ)っていう筏みたいなものがあるんですね。で,この筏みたいなものに,ドラム缶とか木箱とか,いちいちいちいち荷物を運ぶんですね。なんでかって言うと,すべての船が桟橋に泊まれるわけじゃないからですね。大きい船は泊まれないし,あと艀の数が限られてるからです。船だったら桟橋まで来るんですけど,ほとんどの船ってだいたい。港の桟橋から500m〜1kmの所に停泊してる。だから艀でそこまで行かないといけないわけです。 で,この艀に載せる時にですね。陸→桟橋→艀に運ぶ時,これらはくっつけることはできないんですよ。なんでかっていうと,海上ですからブカブカ動いてるわけですね。だからくっつけられないし,ガンガンガンガン波で当たるわけです。じゃあどうして運ぶのかというと,ここの間にギャング(渡し板)を繋げて,渡したギャングを渡って,おっさんが袋を両手に持って,手で運ぶわけですよ。あるいはドラム缶や樽をゴロゴロ転がして運ぶ。ギャングの幅は,だいたい20〜30cm,カイジに出てくる天空の橋よりちょっと幅広ぐらいのめちゃくちゃ狭い板の上を渡っていちいち運ばなきゃいけないわけですね。これ,バランス取りながら渡るんですけども,もう担ぐしかない。すべての荷物は担ぐしかない。これを何百往復もしてようやっと桟橋から艀に運んで,橋桁に船につくと,次は船から艀にギャングを渡して,この上をやっぱり何百往復もして荷物を運んでいくわけです。
まあまあえげつない労働です。あまりに重労働なので,これをやるおっさんたち沖仲士っていうのは気が荒いんですよ。 体力があって気が荒いですから,だいたい船長とかオーナーの言うこと聞かないし,仕事の依頼主の言う事,社長たちの言う事もまず聞かないんですね。現場の泥棒行為も当たり前で,さっき話したように 高級腕時計などの軽くて小さいものというのは,もう当たり前のように沖仲士の荒くれ者達の間で盗まれていたと。盗まれないためにはどういう風にするのかというと,会社の社長,一族の番頭ぐらいの人が,日本だったら 日本酒,まぁ多分 アメリカだったら ウイスキーとかラム酒なんでしょう,そういうのを持って挨拶に行くしかないんです。全員に酒を奢って徹夜でわーっと飲んで,「あいつはいい奴だ」と言われるとちょっと泥棒率が減るっていうというような時代,本当にとんでもない時代だったんですよ。で,毎回毎回それをやってると大変じゃないですか?だからその沖仲士のおっさんたちは荒くれ者ですね。だから沖仲士と交渉する専門の業者が現れるようになるんですね。
こういう沖仲士達を相手にするために近代ヤクザというのが発生しました。ヤクザというのは僕らは昔からヤクザだと思ってるんですけど違うんです。江戸時代以前のヤクザというのは博徒(ばくと)と言われていた。街の中で賭博場を開く,いわゆるギャンブルです。賭博場を開いてやるのが当たり前だったんですよ。ところが20世紀に入って交易が盛んになってから,ヤクザっていうのは港から生まれるようになったんです。港から生まれて,で気の荒い沖仲士達と相手して,時には暴力というのも厭わずに交渉事をする。そういうふうなためにヤクザ組織というのは自然に発生したんですね。だから山口組も,神戸の沖仲士達をコントロールするために誕生したという説が有力ですし,あと悪名高いニューヨークやシカゴのマフィアもそうですね。なのでマフィアっていうのも,実は基本的にはその沖仲士達,気の荒い言うことを聞かない沖仲士達に対しての交渉団体として発生したというのが実際のところなんですよね。
で,さっき話したギャングって,このギャングっていう言葉が沖仲士達のチームを表す言葉なんですね。このギャング(渡し板)一枚には15人〜25人のワンチームしか乗れないんですよ。で,船に渡る時にはこのギャングを何枚も渡すんですね。5〜6枚,それによって5〜6チームがあるんです。そのチームごとに,彼らは生涯同じチームで働くんですよ。なのでそういうチームに属してる沖仲士の事を,気の荒い沖仲士団のことをギャングって呼ぶようになったんですね。その結果,その沖仲士団と交渉する荒くれ者,つまりマフィア達の事をギャングと呼ぶようになった。だから僕らが言ってる「ギャング」という言い方は何かというというと,もともとはこの船の渡し達のことで,この船の渡板に所属しているチームは,お互いに家族のように思っていて,生涯の仲間で ,おまけに何か気に食わないことがあったら暴力を使って解決するっていうような男たちの事をギャングと呼ぶようになったわけです。
■ コンテナ革命で消えた産業
一個賢くなったというそれだけの話 なんですけどもですね(笑) で,このマフィアとギャングの関係はまあまあこれでいいでしょう。沖仲士達のがギャング達を使って,そのおっさん達とマフィアのギャングの両方使って,やっと船に荷物は届きます。で,荷を積んだ船は,ニューヨークから南に行って,パナマ運河を渡ってさらに太平洋に入って,さらに太平洋を渡って,やっと東京湾に着くわけですね。着いたらさっきの経路を逆に行くわけです。つまり船から艀を使って東京湾の桟橋にまで行って,桟橋から集積場所まで持ってきて,集積所でトラックに乗せて,トラックで例えば銀座のデパートまで運ぶんですけど,もっと遠い仙台とかに運ぶ場合だったら,東京湾からさらに上野駅まで行って,上野駅から夜行列車の貨車に乗せて,仙台まで貨物列車で持って行って,そこからまた軽トラックで仙台のデパートに行くと。こういう流れ,例えばニューヨークで作ったおもちゃが仙台のちびっ子の所まで届くには,ほぼものすごい荒くれ者のおっさんとかいろんな乗り物を乗り継げなければいけなかった。
これが戦後しばらく経った1950年代半ば位までずっと当たり前の時代だった。だからこそおもちゃは高かったわけですね。だから舶来のおもちゃが高くて,おもちゃ工場が何故ニューヨークにあったのか,何故大阪にはそういう町工場がいっぱいあったのか,何故日本中の町に町工場がいっぱいあったのかというと,それぞれの街でその港に近い町に町工場がいっぱいあったのは特有だったんですよ。港に町工場がいっぱいあるという理由は,ちょっとでも コストを下げようという事ですね。とりあえず陸の奥の方にあると,そこからトラック なり鉄道なりで港まで運ばなきゃいけないわけじゃないですか。そのコストできるだけ下げて,できるだけ早くて近い距離で港にまで持っていけたら,そっから先は船運賃だからある程度安くつくわけですね。その結果,大阪では履物工場,縫製工場があるから,繊維業が盛んだった。うちの実家の街でも繊維工場が盛んでした。東京はおもちゃ工場がすごく多かった。和歌山には木工団地っていうのがあって,とにかく家具を山のように作ったんですけど,これも何かというと,和歌山の山奥で木を伐採した木を,紀の川っていう太いでっかい川を使ってくだらせるわけですね。で途中の集積所でそれを引き上げて,木工団地でタンスとか机とかをガーっと作る。で和歌山の港まで持って行って,そこから輸出するわけですね。日本国中へ海運で流していく。何でも海の上に何とか持っていけば,安く移動できるわけですね。
しかしこの沖仲士の仕事っていうのは どんどん減っていきます。どんどんどんどん彼らの仕事は不況になっていくんですね。不況になる最大の理由。沖仲士の仕事を減らしたものは,フォークリフトではなくて,パレットってヤツなんですね。「パレット革命」という風に言われてます。1958年のその日本通運の動画見てたら,メインテーマがパレットなんですよ。フォークリフトじゃないんです。フォークリフトよりはこのパレットというのがいかに革命的なものかというの書いてるんですね。パレット革命という流通の時代がやってきました。まずあらゆる荷物は何でもパレットに載せるわけですよ。パレットの上に ガーッと乗せていくわけですね。それをフォークリフトで運ぶわけですね。 これの何がすごいのかっていうと,一つ一つ荷物を持たなくていい。 全てこのパレットという板の上に載せちゃえば,フォークリフトでまとめて運べてしまう。おまけにこのパレットごとクレーンでつかんでクレーンで運んでしまえば,これごと船に乗せられるんです。パレット自体は木で組んだ簡単な板ですからいくらでも作れるわけですね。だからこのままの形で電車に乗せたり,貨物列車に載せたり,このままの形で船に乗せたり出来る。これで実は物流コストがすごく下がったんですよね。沖仲士達がいちいちいちいちこのギャング(渡し板)を渡って運んでた時代から,このパレットが来ると,次は船自体にクレーンつけてパレットごと持ち上げて運ぼうぜとかいう発想ですね。港の方にいわゆるパレットいっぱい置いて,クレームいっぱい置いて,沖仲士が相変わらずトラックから物を降ろすんですけど,物を降ろした瞬間にもうパレットに載せちゃう。もっというと工場で出荷の時に全てもうパレットの上に乗せてしまって,パレットごと運んでしまう。これでどんどんどんどん輸送コストは下がる。そうするとだんだんだんだんその沖仲士達の仕事が減ってくわけですね。だから沖仲士達はそれに抵抗する。どういう風に抵抗するのかというと「一つのギャングあたりの人数を減らすな」と言ったんですね。つまりもうこのギャングを使って荷物を運ぶことは少なくなったんですけども,これに15〜25人の生活がかかってるわけですよ。そうすると「この15人とか20人で荷物を運ぶということだけはやめてはいけない」と組合運動で言い出しました。どうなったのかっていうと,実際には荷物はこのパレットでクレーンで運ぶんだけども,それとは別に正規の料金で沖仲士達をフルに使った料金分を沖仲士の組合に支払って,沖仲士達は,このギャング あたり実はもう5人しか必要なくなってたんだけども,25人分のギャラをもらって ,その5人が他の20人にギャラを分配する。こういう事態がすっごい長い間続いたんですね。
特に1950〜60年代のニューヨークっていうのは,もう組合運動真っ只中の頃で,これがニューヨークでマフィアが増えた理由にもなるんですけども。組合運動があまりに凄すぎて,アメリカ中がいろんな規制があまりに多くあり,そしてあまりに多くの労働組合があった。第2次大戦が終わって,アメリカ人とファシストドイツ人とか日本人との戦いが終わった。だからこれからは俺たちアメリカ人全員が豊かになる時代だという風に思ったんですね。その結果,みんなが豊かになるために何をするのかというと「資本家 達が悪い」「あいつらだけが儲けてるんだ,俺たち 労働者にも分け前を落とせ」…これが労働運動の根本なんですよ。この労働運動 というのはいっぱいあった。結果,便利な機械が世の中に出てくると,それで沖仲士達の肉体労働は減るんですよ。経営者にとってはすごい助かるありがたいことだったんですけども,一方で雇用者は仕事が減ってクビになるとかギャラが減らされるのは困る。じゃあ「機械で俺たちの仕事を奪うな,その分の保証金を俺たちによこせ」っていうのが10年ぐらい続いたんですね。
それがあったので,彼らとの間にギャングが入って両方の交渉事っていうのを持ってったり,暴力事件が起こったらそれを治めたりするようになって,ニューヨークはギャングやマフィアなしでは市の経済が回らないようになってきた。これがそのニューヨークのギャング戦争,後にマフィアが広がっていく時代です。同時に機械によって沖仲士の仕事が減っていく。そうするともうマフィアの仕事もなくなっちゃうんです。そうなると マフィア達っていうのは自分たちが労働組合と交渉していった。ついこないだまで割と弁護士みたいな仕事してたわけですね。いわゆる半分弁護士みたいな仕事してたのが,それがなくなっていくと。そうなるとどうなるのかっていうと,じゃあ街の中で麻薬売りましょうかというようなことになって,別の収入源探しをすることになってしまう。こういう中で変なスパイラルが起こってしまった。
ちょっと先走りすぎましたけどそういうようなことなんですよ。荷物をパレットに乗せて船に乗せるようになってから,沖仲士の仕事というのはどんどんなくなって,彼らは転職したり田舎に帰る人もいたんですけども,沖仲士っていうのは港ごとに住んでて,その家族も住んでたんですよ。彼らはそれで町とか共同体を作ってたんですけど,それも消えてったんです。でさっき言ったようにマフィアも必要がなくなって,港からニューヨークの街に住まいを移したり,仕事場を移すようになると。
■ コンテナ革命の父・マックリーン
マフィア達が,日本でいうと湾港労働者、沖仲士相手に使ってた暴力の交渉術というのは,やがて都市犯罪とかドラッグを産むようになる。パレット革命の話を延々話したんですけど,今日の本題はコンテナです。コンテナの話題に戻ります。
パレットって未だに現役ですよ。街の中でこういうの見ませんか?コンビニなんかで納品に使われるの,ロールボックスパレットって言うんですよ。この中にコンビニの商品っていうのをパレットの中に入れて,これも パレットって言うんですけどガラガラガラガラ引っ張っていきます。未だに僕らの生活の中でパレットが使われているというよりは,実はこのパレット革命って,まだ進行中なんですね。ちょっとそこだけすいません。話すの忘れてました。
さて次の話です。コンテナシステムを思いついたおじさんですね。まぁ思いついて作り上げたと言ってもいいんでしょうね。このじいさん,マルコム・マックリーンと言います。流通とか運輸とかを勉強してる人だったら多分全員知ってる話なんですけども,「コンテナの父 」と呼ばれるおじさんです。荷物を運ぶためのコンテナと呼ばれる鉄の箱は,実はこのマックリーンさんの時代の前からあったんですよ。それをシステムとして使うことを思いついて,それを信じてひたすら推進させた男ですね。世界の物流を変えた男だけども,いわゆる未来を見通してそれを信じ抜いたって話じゃないんですよ。そういうありがちな美談でなくて,コンテナ革命のすごさっていうのは一人の人間が予想できるものではなかったし,いくつかの企業が予想できるものでなかったんです。
現にこのマルコム・マックリーン自体はコンテナ 会社を,コンテナを始めて「コンテナ二ゼーション」って言葉を作って世界を変えたんですけども,会社自体は倒産してるんですね。それどころかコンテナ革命の初期に大儲けした会社はだいたい潰れてるんです。コンテナ革命の中期にあった会社も今はどちらかと弱小になってるんですね。どんどんどんどん世界中の物流が変わって,この間までは中国が強かったんだけど,その後地理が強くなって,今強いのは南米のチリっていう風にどんどん変わってるんですね。だからイノベーションっていうのはどうやって起きるのかっていうと,たった一人の天才が全てを見通して,彼のシナリオ通りに進んでいくっていう,そういうスティーブジョブズ型のおとぎ話じゃないんです。本当にものすごいイノベーションというのは当事者達が予想もしてない方向にガンガンガンガン 変わっちゃうから,結局その次のステージに行っちゃうと当たり前の気がするんですけど,途中までは誰の予想のつかないっていうのが,本当のイノベーションなんですね。
マックリーンは,生涯にわたって一貫輸送というシステムを始めた人です。生まれた家は田舎でした。でも近くに親戚が多かったから割と仕事には苦労しなかったそうです。高校でだけど大学に行くお金がなかったので,親戚からお金を借りて,でもそれで大学に行ったんじゃなくて,小さいガソリンスタンドを始めたんですね。このマックリーンの時代はちょうど世界恐慌の真っ只中です。世界恐慌の真っ只中っていうと『紅の豚』でポルコロッソがイタリアのミラノあたりに着水しますね。でガソリンを買うんですよ。「ガソリンこんだけでこんなに金取るのか」って言ったら男の子 は「知らねえよ,こんだけするんだから」ってあの時代です。町へ行くと街中が不景気になって,ちょっと見ないうちにミラノの街がすごい 寂れてみんなが世界恐慌の話をしてる。あの時代なんです。世界恐慌の時代でガソリンの値段とかがものすごく上がったんですよ。だから人々は1セントでも安いガソリンを求めて 結構ちょっと離れたガソリンスタンドまでガソリン買いに行った時代 なんですね。マックリーンも自分でちっちゃいガソリンスタンドを親戚から借りた金で経営してたんですね。マックリーンは安いガソリン求めて45km離れた大手のガソリンスタンドまで買いに行ったんですね。そうしたら「そんなに大量に買ってくれるんだったら,裏庭のあの車貸してやるよ」って言ってくれたんですね。裏庭にあるボロボロのトレーラーを貸してくれたんです。 でマックリーンは「今度ついでがあったら返して」っていう風に言われたんです。マックリーンはこれを使ってその安いガソリンスタンドとの45kmを往復することにしたんですね。そうすると,帰りはガソリン積んで帰ってくるんですけど,行きを空で行くのがもったいないということで,マックリーンはこの借りたトレーラーで運送業 することを思いつきます。この運送業が割とヒットしたんですね。次に地元で中古のダンプカーが売りに出ました。「この中古ダンプを売ってくれ」って言ったら「金あるのか」 って訊かれる。「金ない」「いくらだったら払えるんだ」「毎月3ドル払うから月賦でローンで買わせてくれ」。1ヶ月3ドルですよね。今のお金で言うと300円ぐらいです。1ヶ月 300円しか払えない。それをローンで貸してくれ。実はマックリーンはその3ドルも持ってなかったんです。親戚中から金を集めて,毎月毎月3ドル出してもらって,この中古トラックをローンで買うことに成功しました。
でこの2台の車と,弟と妹3人でマクリーントラッキングカンパニー という輸送会社を作ったんですね。この小さなトラック運送会社は運良く第二次世界大戦で大儲けしました。というのも,大戦はヨーロッパでやってるので,支援物資をフランスとかイギリスに送るためにアメリカ中の輸送業者が大儲けした時代だったんです。なんせアメリカは戦争に参加してないからリスクゼロなんです。ただ単に物を運ぶだけで大儲けできた時代っていうのがあったんですね。ビジネスチャンスでですね。この時期,だいたいマクリーンの会社は1年目で運転手を9人雇い,マクリーントラッキングカンパニーはどんどん自動車を増やし,次の5年間で運転手 9人,トラック30台の規模になるというぐらい,もう中規模の企業になったんですよね。
で戦争は途中から日本が相手の戦争になったんですけども,それで大もうけしたのがマクリーンの輸送会社であったんですけど,1945年に日本が降伏して第2次大戦が終わってしまう。そうすると大きく風向きが変わった。まず輸送自体,陸の輸送自体の分量が割と減ったということもあるんですけど,それより大きかったのは,今度は自動車じゃない,船が売りに出されたんですよ。売ったのは誰かというとアメリカ政府というか アメリカ軍だったんですよ。なんでかというと,さっきも言ったように第二次大戦はもともとヨーロッパの戦争だったので,アメリカからヨーロッパへ物を運ぶための船が必要だったんですよ。ところが輸送艦が足りないということで,アメリカ政府とかアメリカ軍はアメリカにある船…それは客船であろうと輸送船であろうと商船であろうと ほとんどすべてを買い上げたんです。ほとんどすべてを買い上げて,それでヨーロッパでバーっと物を売ったんですよ。同時にアメリカ中にある造船所に「とりあえず輸送船作ってくれ」って,ガーっと注文したんですね。
そしたら もうあらゆる 造船所は土日の休みをなくして週7日間24時間稼働で船を作り出した。これが第二次大戦の始まりだったんですよ。
1941年に日本がアメリカに宣戦布告しちゃったわけで太平洋戦争っていうのが始まった。すると,ヨーロッパへ物を送るのは大西洋 なんですけども,太平洋って大西洋の何倍もある。そうなるとこれまでの船ではもう運べないと。もっとでかい船がいる。しかしもうアメリカにあるような船は全部買っちゃったし,造船所の予約はもういっぱいになっちゃった。だからどうしようかってことで,次は造船所を作り出すんです。造船所もいっぱい作って,そこで 超大型の輸送船を山のように作って,日本と戦争するためです。アメリカはどんどんどんどん船を作り始め,それが1945年に太平洋戦争が終わった。どうなるのかっていうと,いっぱいあった船を民間に払い下げ 始めたんです。払い下げって言ってもすごい値段安いんですよ。それでも買ってもらえないから,さらに買ってもらうために「皆さんが使いやすいように改造しましょう」と。「改造するための金はアメリカ政府が出しますよ」とかね。「皆さんこの船が買えませんか?買えないんだったらものすごく有利なローンを組んであげましょう」と,こういうサービスを 山のようにやったのですね。マックリーンが見た時には,かなりデカい船がただ同然で売ってるわけですよね。だからマクリーンでその場で考えたんですよ。「もうトラックも船も同じでしょ」と。「元々俺の商売っていうのは,ただ同然のトラックを借りて,次に3ドルでローン組んでトラックを買うところから始まった,じゃあ激安の船があるんだったら買わないと損でしょ」ということですね。ついにマクリーンは船を手に入れました。激安で手に入れたんですよ。
…で今日の無料講義はここまでです。まだマックリーンの挑戦の話とコンテナ革命は始まったばっかりですね。今のコメントで「維持費がすごい」という風に言われたんですけど,船は維持費がすごいんですよ。ところがそういうのにも,もう全部保証がつく。 この時代は本当に,多分皆さんでも当時のアメリカ西海岸に住んでたら,船買うチャンスあったというぐらいです。船が大量に安く出回った時代 なんですね。海運してた人はすごく多いんですけども,だいたいの人はそっから例えば ガソリン代が上がって,船の運輸費が上がっちゃったから倒産とか,あと船を山ほど買いすぎたのでそんなに荷物がなくて倒産とか,そういうのことが多かったんですけど。
でも僕らですら多分あの時代のアメリカに行ったら艦隊が持てた…いわゆる何隻ものの簡単にオーナーになれたという時代。そういう船が安かった時代が1945年の夏から冬ぐらいまでに嵐のように訪れた。そこにうまく捲りが乗ったという話ですね。トラック野郎マクリーンは,それから先,船1隻ではなくて船団を持つことになります。ベトナム戦争に参加して,今度は船だけではなくて 自分の港を持つ(爆)…すごいですよ…このマックリーンは港も買って,最後は世界に運輸大革命を起こします。ついに言うと,その運輸大革命は日本を世界一のお金持ちの国にしてくれるんですけども。おまけに日本を世界一の金持ちの国から,たった10余年かで日本を貧乏な国に突き落としたのも ,このマクリーンの遺産です。この話は限定パートでしましょう。
じゃあここまでの話をまとめますね。まだ1ドル=360円だった時代の話なんですけども,パレット 革命ですね。パレットによる輸送ということですね。物がどんどんどんどん安くなり,海外のものが豊富に買えるようになって,1ドル=240円になって,ついには円高で1ドル=80円まで下がります。で,とりあえず今日の話では,マフィアがなんでギャングと呼ばれるようになったのか? 何で神戸,横浜,広島などの港の都市に日本のヤクザは発生したのか? というのが分かったと思います。何で彼らが大都会に場を移すようになったのか?それは港から彼らの仕事が失われたから なんですけども,その辺の仕組みも少し見えてきたと思います。割と世界というのはつながってるし,歴史はつながってるし,これまで話した『ゴッドファーザー』とか『あるカップルの話』も今日の話ともうバッチリ繋がってきたんですよね。僕らの頭の中もそういう知識でつながっているので,ゼミで聞いた話 もだんだんだんだん繋がってくると,面白いなっていうふうなことになるのですね。楽しんでくれればと思います。お疲れ様でした。
それでは今日の無料パートはここで終わりです。じゃあアンケート出してください。おもちゃもしまいましょうか。ちょっとお茶を飲もう…こういう本を語るってすごい好きなんですけど,あんまり毎回はできない。月に1回ぐらいですね。ありがとうございます。結果出してください。とても良かった=78〜80%ぐらいになってますよね。限定パートでは,マルコム・マックリーンのさらなる大活躍が世界を変えてしまうという,誰も予測できなかった話をします。
じゃあ後半行きましょうか。トイレ休憩 大丈夫ですか?タンカー/コンテナ船って,ブリッジっていう部分に人が乗ってるんですよ。下半分が全て燃料とエンジン。コンテナの上に乗ってるのが人間がいる部分で,だいたい20〜25人ぐらいしか人間は乗ってないんですよ。コンテナ1万個対20〜25人ですから,そりゃ海運の コスト安いですよ。だって陸上運送したらコンテナ1個あたりトレーラー 1台運転するわけですね。コンテナ1つ運ぶのに運転手が1人乗って17時間かかって東京-大阪間を行ったりするわけですから。そりゃ陸上運送は高くつきますよ。それに比べてこのコンテナ船の場合は1万個くらいのコンテナ載せて,乗員25人ぐらいでずーっと 太平洋渡っちゃうわけですね。太平洋だけじゃなくて東南アジアから日本の方までだいたい45日で来ちゃうわけですよ。昔はその停泊ごとに 船ってだいたい1週間ぐらい 停泊したんですよ。だから海の男にはロマンがあって,船に乗って行ってそこの港でご飯食べて,そこの港に女あり…みたいな伝説もあったんですけど,今は全然違いますから。今はコンテナで荷物おろしたら,タンカーでも半日で荷物降りちゃうんですよ。だから1泊が限度なんですよ。下手したら1泊もしない。朝着いて夕方にはもう出発するんです。それぐらいコスト管理が厳しいので,海の男達…今は女性も多いんですけど,その人達というのは,ルクセンブルクとか海外の港に行っても半日ぐらいしか滞在時間がなくて,もう 燃料積んでポンって取り替えたらすぐに引き返さなきゃいけない。それのお陰で,コストはめちゃくちゃ安くなったんですけど,まあまあいいや…これあの関係ない話ね。
さてじゃあ コンテナ 革命の話しましょうか。ガントリー・クレーンの話 もします。女の人にはあんまりこういう僕が好きなトラックとか船とかガントリー・クレーンというのはちょっと伝わりにくいかと思うんですけども,でも物事の仕組み自体の面白さっていうのを見ていただければありがたいと思います。さてマックリーンおじさんです。トラックと船の両方を持ってる個人経営の会社っていうのは,その当時のアメリカでも珍しくはなかったんですけども,個人経営の中小企業でトラック 軍団と船団を持ってるっていうのは多分マックィーンが初めてだったんですね。
マックリーンはまたひらめいちゃった。「ん? ちょっと待てよ? トラックで荷物運んで,その荷物を一個一個 船に移し替える…こんなしょうもないことしてたら埒あかん…船っていうのは安くてバカでかいんだから,これ にトラックごと 載せてしまえ」というふうなことですね。船からタラップ出して,直にトラックを中に載せちゃうという…いわゆるフェリーみたいなもんですね。それごとお得意様のところへ運ぶというのを思いついたんですね。で,やってみたんですけども,これは画期的なアイデアに思えたけども,実は無駄が多かったんですよ。っていうのはトラックを船に乗せちゃうと,効率がいいように見えるんだけども,この船で移動している間中,ずっとトラックっていうのは使えなくなっちゃうわけですね。単にコンテナの台だから。もちろん現場に行ったらそのまま次の工場 とか 納品先まで物を持って行くことはできるんですけども,船に乗せてる間にトラックが使えないデメリットっていうのかコストの方が高くついちゃったんですね。船に乗せていただいたトラック使えませんよ。ということで,なんとかこの荷物だけ 乗せることはできないのか?ですね。
で,そうだ!と。このトラックに乗せている荷物の部分だけ,荷物を全て小口荷物の全部を鉄の箱に入れて,この鉄の箱だけ船の中に乗せて,この鉄の箱をいっぱい乗せて 船で運べばいいじゃないかという風にマクリーンを思いつきます。船は安いですし相変わらず安い。で,こういうコンテナ専用に改造するお金もアメリカ政府が出してくれるんですね。でこうして生まれたのが,アメリカ初というか世界初のコンテナ専用線船「IDEAL X」です。1956年に生まれました。仕組みは単純で,戦争中に作られたタンカー船を補助金目当てで安く買って,国からなんぼでも出してもらえる改造基金で補助金で改造しました。とにかく当時のアメリカは戦争で買った材料とか船とか車とかを使うといえば,いろんな名目で補助金出してくれたんですね。でマックリーンはこの補助金でIDEAL-X号を作った。甲板の上に木のレールをいっぱい乗っけた運輸船ってのを思いつきました。このレールの上にコンテナを乗っけると,コンテナっていうのが自動的に固定されるような仕組みというのを考えたんですね。1956年…これはIDEAL-X号が,わずか58個なんですけども,アルミ製のコンテナを,ニューヨークの隣の街のニュージャージー州のニューワークからテキサス州ヒューストンまで運んだ記念すべき年ですね。で,テキサスで待っていた58台のトレーラーが,このコンテナを街へ運んだ。これがコンテナ輸送の最初です。「コンテナニゼーション」というシステムの誕生です。マルコム・マクリーンが思いついたのが最初で,試したのも最初だったんですね。 マックリーンの発想はトレーラーだけじゃなくて,コンテナを列車に乗せることによって,工場からトラックで港まで鉄道で運んで,トラックで桟橋まで運んで船の目的地へ…という一連の流れ「コンテナニゼーション」の完成ですね。
しかし当時のアメリカは,今の日本以上に規制が厳しかった。日本っていろんな規制があるから物事 自由にならないって言うんですけども,無料パートの方でも話しましたけども,多分1950年代のアメリカって,まず労働組合があったし,あとお役所がいろんな全ての権限を自分のところで握ろうとした時代だったんですね。だけど60〜70年代のいわゆる黒人解放運動と込みで「あらゆる規制を政府にさせるな」っていう民衆のパワーが,政府からいろんな規制を奪っていったという歴史があるので,実は規制が多いのは日本だけでなくて,1950年代のアメリカも日本よりひょっとしたら悪かったかもしれないくらい規制だらけだった。ちょっとここだけは憶えておきましょう。トラック運送でも,実は 道路ごとに輸送許可証が必要だったんですけど,船による輸送 も例えばシアトル-ロサンゼルスで許可証が1種類必要で,ロサンゼルス-サンフランシスコで許可証が1種必要で,サンフランシスコからまた南の方 回ってでまた1種類必要という,1航路ごとに許可証が必要で,さらにその許可証を持ってる会社同士がトラストというか組合を作っていて新規参入をさせないようにしてたんですね。新規参入をさせないようにしてたというのもあって,ものすごい 規制だらけっていうのがアメリカの運輸業界だったんですよ。
船による輸送っていうか,このコンテナ・システムを素晴らしかったんですけど,マックリーンが思ってたほど進まなかったんですね。これで全てのコストが下がるって思ってたんですけども,ところが「船の運賃が下がりすぎるとトラックの運ちゃんが困る」「トラック輸送組合が困ってしまうので,船の輸送料金はそんなに下げてはいけない」と国から言われるんですね。「なんでだ」っていう風に言って反発すると「じゃあ,お前のところには運行許可書を出さないよ」とか「路線 許可書を出さない」と言われる。マックリーンが「コンテナで全て安く運べるのでトラックの料金も安くできる」と言うと,今度はトラックの運送業界が「いやトラックの値段安くしすぎると,今度は 鉄道を誰も使わなくなってしまうから,鉄道の料金に合わせてトラックの最低料金も決めてくれ」と言う。結果「鉄道を使おうと船を使おうとトラック使おうと全部同じぐらいの値段にならないと,みんな困るよね」っていうようなことをマクリンは散々言われる。
そん中でマクリンは「いや,このコンテナ・システムちょっと試しにやってみたけど,ぶっちゃけコストめちゃくちゃ下がる」と解ってた。どれぐらい下がるのか? どれくらい下がると思いますか? 1/20だそうです。具体的には,それまで輸送に20ドルかかってるのが1ドルになる。1/20にまでなっちゃうと,もういろんな規制やってる場合じゃないんですよね。マクリーンの会社がやってたこういう革命的運輸って,ただ単に最初はみんな嫌がったんですよ。いちいち鉄の箱を買って,物入れて運んで,またその鉄の箱の動かして…って全部 専用のトラック作んなきゃいけないし,船も専用の船が必要だし,列車でも専用の列車作る…そんなのコストがかかって仕方ないよと思ったけども,いざマックリーンの会社が運用しだすと,いきなりコストが1/20になっちゃったわけです。なのでよその会社も「えーっ」て思ったんですけど,それでもさっきも言ったように,当時のアメリカは組合運動の時代ですから,いろんな会社,いろんな規制団体がコストを下げさせずにしてました。船が停まる港も,この マックリーンのアイデアには味方してくれないんですよね。当時の世界最大の貿易港って ニューヨーク港だったんですけども,マックリーンのアイデアに大反発しました。中でも問題になったのがクレーンの建設です。お待たせしました。ガントリー・クレーンですね。当たり前ですけど沖仲士達は,このガントリー・クレーンの建設に反対したわけですね。これどういうことかって言うと,アメリカの工場から荷物が来る。荷物がパーッとくると,これまでだったら港まで運んでいって,港で荷物を下ろして沖仲士達がギャング作ってギャングで運んでいかなきゃいけないのが,ガントリー・クレーンが一機あると,トラック来ました→荷物をトラックからガントリークレーンに乗せます→ガントリークレーン動かして船に直に載せます…って出来ちゃえるわけですよね。
■ コンテナ革命で消えた業界
船にこうやってガントリーでガンガンガンガン荷物載せることが可能になってしまう。ので沖仲士達がいらなくなっちゃうわけですね。このガントリー・クレーン1機作ってしまえば,沖仲士たちの仕事がどれくらいなるってのは 数字書いてあったけど,ちょっとど忘れしちゃったんですけども,一つ分かってるのが,当時ニューヨークの港には沖仲士が5万5000人住んでたんですよ。この荷物を小分けして運ぶ おっさん達が 55000人住んでたんですよ。家族を含めると20万人以上がニューヨークの港の端っこに住んでたんですね。彼らはそこで一生暮らしてたんですよ。その沖仲士達の仕事っていうのは,実は代々やるような仕事だったんですね。アメリカがもう開拓された時代から映画『ヤング ニューヨーク』とかに出てくるような帆船で物が運ばれてくる時代から,沖仲士の仕事っていうのがあって,みんなこのギャングって渡し板に乗って 家族代々やってて,一つの板ごとに一族あるわけですね。例えば岡田家の板っていうのがあって,その向こうには 斎藤家の板,その向こうには田中家の板…っていうのがあって,この岡田一族がこの渡り板の権利を持ってるから,この板はよそのヤツには絶対 渡さないと。男の子が生まれて16歳になったら,港に連れて行って登録するんですね。そうやって自分の一族のギャングパーティーにするわけですね。なのでその港に住んでいたその沖仲士一族っていうのは,もうお父さん,おじいちゃんと代々沖仲士で自分も沖仲士になる。その自分の息子も沖仲士にすると。だから中学校も行ってないような学力で,でもそれで全然ハッピーだったんですよ。子供が生まれたら沖仲士同士で結婚させて親戚付き合いがどんどんどんどん濃厚になって行って,それで20万人の大きい 大きい一族ができてたわけですね。だから同じ酒場で毎晩酒飲むし,子供同士が結婚するので,本当に一族の結束が固かったんですけども。新入りに仕事はやらないわけですね。都市部の失業者がいきなり港に来ても沖仲士なんかにはなれないって排他的な部分もありました。逆に排他的な部分があるんですけども,年寄りの面倒も自分らで看るわけですよね。沖仲士が年取って体がだんだんだんだんしんどくなってきたら「爺さん もっと軽いものを持てよ」とか。一ギャング25人なんだけども「25人もいらないよ,俺たちでやっとくから,今日は1日タバコ吸ってろ」って言ってみんなで小遣いあげたんです。爺さんたちはみんなから小遣いもらってタバコ吸って,その1日の終わりに均等にギャラ配分する。 
しかしそのガントリー・クレーンが何本か立ったおかげで,この沖仲士全員が失業していったんですよ。すごいですよね。クレーン建設には,もちろん反対したんですけど,どうやって反対したのか?っていうと沖仲士には ニューヨークの市長とか政治家も手を出せないんです。というのは沖仲士は全員同じ政治家に投票するんですね。ほぼ全員共和党。ほぼ全員が共和党の政治家に投票するから,もう市長だろうがニューヨークの支局員だろうが政治家だろうが誰の言うことも聞かないわけですね。それぐらい勢力を持ってる。だからマフィアを使うぐらいしか沖仲士達を動かすことができなかったんですね。そしてニューヨークの港湾局は,マクリーンのコンテナに合わせて,この超大型クレーンのガントリー クレーンを導入しようとしたんですけども,沖仲士達の組合が猛反発しました。
沖仲士側でも,本音ではクレーン入れないともうどうしようもないって分かってるんですよ。沖仲士の総会レポートが残ってて,「あの組合運動でどんなことがあったのか」とか「何月何日の党大会でこれが決議された」というのが残ってる。そこから分かるのは,合理化は分かってる。機械入れないともう無理だと。もう運ぶ荷物はどんどん重いし,船はどんどん大きくなっていくし,もうこんな渡り板持って運んでる時代じゃないという本音です。それは分かってるんだけども,俺たちの代で仕事をなくしていいのか…ずっと爺ちゃんの代からやってきた仕事を,俺たちの子供とか孫に伝えるのが俺たちの義務じゃないか?っていう風なことです。
ガントリー・クレーンは困るけど,でも作るしかない。じゃあ,せめて荷物を運ぶのに必要な料金だけでも以前通りにさせてくれと。例えば10年間とか5年間保証してくれと。例えばある荷物を運ぶのに1000ドルかかるとすると1/20ですから。簡単にクレーン使えば1000ドルが50ドルになっちゃうわけですね。だから悪いけど,向こう10年間,沖仲士組合に950ドル保証金出してくれる?荷物1つごとにそれをやってくれるんだったらガントリー・クレーン作っていいよ。そんな無茶苦茶な要求するんですよ。でも特にニューヨーク湾港局は,そんな無茶苦茶な要求でさえもう飲むしかないという事態になっていた。
沖仲士達の権力は強かったから,こういう要求をニューヨーク湾港局はどんどんどんどん飲んじゃったわけですね。でガントリークレーンも,本来20本建てる予定が5本しか建てられなかった。そういう事態に呆れたマックリーンも他の海運業者も,ニューヨーク港に無理やり頼らなくてもいいじゃないか。ニューヨークの反対側のニュージャージー港見てみろ。ニュージャージーは空き地だらけだ。実際沼地が多いんですが空き地 だらけなんです。ここに俺たちで港 作っちまうぜっていうことになって,ありがたいことに港を作るだけだったら反対されたと思うんですけども,戦時中に使っていた船を売却したじゃないですか?その時の保証金で,その売却した船を使う専用の港を使うという名目だったらまた補助金が出たんですね。でその補助金でそのニュージャージーにどでかい港を作ったんですよ。ただ設備自体は何にもないです。どでかいだけなんですよ。ところがそれはマックリーンたちにとっては良い。どでかいってことは何かっていうと,トラックが集まれるって事なんですよ。ニューヨークって大都市近くの港だから実は面積がないんですよね。だからトラックが次々に来てもトラック留める場所がないんですよ。トラック止めたらすぐに荷物降ろさなきゃいけないんですけども,当時コンテナ システムじゃなかったので,トラック1つの荷下ろしのために30分ぐらいかかるんですよ。そうするとトラックの輸送待ちで渋滞ができてしまうんですね。だからニューヨークの港ってすごい 使いにくかった。おまけにニューヨークは交通渋滞が当たり前ですよね。例えばフィラデルフィアとかシカゴとかからだから高速道路を使って,2日位で荷物来るんですよ。ところが2日位で来たトラックが,いざニューヨークに入った,ハドソン川渡ってニューヨークのマンハッタン島の中に入りました。さああとはあと3km走って港に着くだけだというところで5時間の渋滞が当たり前だったんですね。そうやってトラックが港に着くまでにすごい時間がかかって,しかも荷卸しに時間かかるというところで,一方のニュージャージーは何にもない所だ。だだっ広い所にだだっ広い港作ったので,トラック留め放題なんです。すごい巨大な駐車場=全部コンテナですから,駐車場に倉庫作らなくて良かったんです。
一方でニューヨークの沖仲士達はニュージャージーの港を最初見て馬鹿にしてたんです。「あんな所に港作ってまだ倉庫作ってないぞ」って言ってたんです。道路があるだけです。道路があるだけだけど,その道路は何かって言うとニューヨーク行きの幹線道路,フリーウェイのバイパス作っちゃったんですよ。フリーウェイから直に港に降りて来れる。これニューヨークは違うんですよ。ニューヨークはフリーウェイから降りて,ニューヨークのマンハッタン島の中を縦に突っ切って港まで行かなきゃいけなかったのが,フリーウェイからバイパスで港で3分で降りれる。これは5時間と3分の差ですよね。でコンテナだから,コンテナおろして積み上げればいいだけなんです。積み上げるだけで,雨降ろうが雪降るか平気なんですから。ニューヨークはトラック開けて中の荷物を倉庫の中に入れなきゃいけない。圧倒的な差ができちゃったんですよね。それにニューヨークの沖仲士の人たちは気が付かなかった。どんどんどんどんニュージャージーの港は大きくなって,ついに専門の鉄道が作られて,鉄道路線の終着点があって,鉄道路線がそっから グワーッと 線路が広がって,そこはニュージャージーの港の端っこになっちゃったんですね。
ここまでの大革命 をやられてしまって,それでもニューヨークの沖仲士達は「あれ?」って思ったんです。どんどんどんどんニューヨーク港に来る荷物の扱い量が減っていって,そしてあの何にもないはずのニュージャージーの港見たら,変な色の鉄の箱が積み上がったと思ったら消えていくと。そして港のどんどん近くに行くと,このバカでかいクレーンが毎年毎年10本単位で増えてくる。何がおきているのかわかんないうちに彼らの仕事がどんどん減っていくんですね。仕事減っても,さっき言った約束した保証金が出てたからどうやっていいのかわかんない。これが10年ぐらい続いちゃったんですね。結果として,たった5年間でニューヨーク港とニュージャージー港は立場が逆転してしまったんですね。
ニューヨーク港はあっという間に 寂れて,20万人以上いた沖仲士とその家族たちは,もう夫や父親や自分の兄弟 すべて,親戚みんなが仕事を失ってしまったんですね。沖仲士達の多くは お互いを助け合って仕事してたからです。バラバラになったら本当に何をしていいかわからない。 学校に行ってない人も多く,重い荷物 運ぶ以外の肉体労働が何もできなかったんですね。
そしてものすごい数の失業者が街に溢れました。そのものすごい数の腕っぷしが強くて,毎日仕事をしてなくて酒飲むしかない失業者。でも保証金入るから金はあるんですよ。酒飲むしかない。喧嘩っ早い 荒くれ者で理屈が通じない。学校教育 受けてないかそんなんです。荒くれ者の失業者がニューヨークの街中に溢れたんですよ。結果としてニューヨークは世界で一番治安の悪い町になってしまったんですよね。これがマルコムマックリーンのコンテナリレーション/コンテナ革命の末路なんです。ニューヨークのマンハッタン島の南の端に港あったんですけども,そこに密集していた沖仲士達の家とか,あと街自体,20万人が住んでいた町自体がすっぽり なくなって更地になっちゃったんですよ。その更地がどんな風になったのか。
彼らは追い出されました。更地になった土地には新しいビルがにょきにょき建ち出します。ニューヨークの1910年頃の写真見ると,ニューヨークの南の方って船がいっぱい 停まってて,低い建物が びっちりあるんですね。ところがそれが1960年代〜70年代になると,今僕らが見慣れているいわゆる ウエストサイド物語 のオープニングでバーンと出てくるようなビルが 端まで びっちりあるような街があるんですよね。結局,コンテナ 革命によって,南の区画一帯が,町一つが消えて,その跡地は,超エリートたちが金を稼ぐだけの場所になったんですよ。それが ウォール街です。ウォール街 っていうのは もともと あの場所にあったんですけども,あんなにビルが びっちり建ち上るようになったのは,このニューヨークの沖仲士達の街が全て消えてしまって,そこが更地になったのでビルをガーっと立てることにできた。そこに 世界最大の金融街ができたんですよね。
これはニューヨークだけの物語じゃないです。世界中の港町で同じようなことが同時期に起こりました。例えばイギリスのマンチェスターは1950年代には5万人位の沖仲士達がいて,ニューヨークよりデカい港湾労働者の街だったんですよ。港の関係のいわゆる船員たちのホテルとかを含めてすごい巨大な港町だったんですけども,そのマンチェスターもこのコンテナ 革命によって街が 寂れていきます。失業した人たちは同様に毎日酒飲んで酒場に行ってだらだらだらだら過ごすようになってしまったんですね。音楽をよく聴くイギリスでは,酒場にちっちゃいバンド ボックスがあって,そこに生バンドがいて 音楽かけてくるんですよ。そこでやっぱり音楽聴くのが当たり前だったイギリスのリバプールで,いわゆる港町のバンドボックスで音楽やったのがビートルズですね。実はこのコンテナ 革命によってリバプールという町がどんどんどんどん 滅びていって,みんな 酒飲んで,失業手当だけはあるから 酒場でチップ 払う文化があって,それで音楽活動ができたところからビートルズっていうのは浮かび上がってきた。なんか,なかなかこれ世界ってつながってるんですよね。フランスでもマルセイユの港町が一つずつ 潰れてく話がものすごくリアルなんです。切なくなってくるぐらい リアルでですね。街があったのが消えてくるんですね。大阪もそうでしたよ。僕の子供の頃,税金はあまり払わないので有名なおじさんやおばさんたちが住んでいる,港の方にあった沖仲士達の町があったんですけど,それが だいたい僕が高校行く前ぐらいの1970年代半ばぐらいに全部更地になって,次は工場になってパルプ工場になって,1990年に入った頃にそれも全部なくなって全部マンションになってた。 
コンテナ 革命のおかげで運送費,輸送費は劇的に下がって,結局は世界中でトラック輸送も鉄道輸送も,この1/20になった海運の運送費に合わせるようになっちゃったんです。輸送費のダンピングはまずはアメリカでおき,次は世界中で輸送費のダンピング,劇的な値下げが起こってしまったんです。値段下げないと競争に負けちゃうからね。客はゼロになっちゃう。そうすると人口密集地に工場作る意味がなくなっちゃう。これまで人口密集地に工場を作ってたのは港に近いからで人が集めやすいからだったんですよ。できた製品をすぐ港に運べるから人口密集地に工場作ったんですけども,まず船から始まって鉄道,トラック…全ての輸送費が劇的に下がってしまったら,もう街に工場を作る必要は全くなくなっちゃったんですね。結果,アメリカでも田舎町に巨大な工場が作られるようになる。日本でも田舎の方に巨大な工場とか集積所が作られるようになった。 
東京江東区でも,1990年当時,70歳過ぎの工員だけで同じようなソフトビニールおもちゃを作ってる工場が2つだけ残ってると言われた。でもこれが1960年代の江東区では,バス停の1区画まるまるが ソフトビニールの工場だったと言われた。つまりバス停があって,次のバス停があるところまで全て ソフトビニールを作ってる町工場の街だった。そこで僕はクレクレタコラっていうソフビ人形を作ったんですよ。200個 作りました。金型25万かかって製品は800円ぐらいしたと思います。合計で41万円ぐらいかかりました。で完成したフィギュア,そのクレクレタコラのソフビ人形を東京から大阪の自分たちの店に運ぶのに 多分輸送費で4万ぐらいかかったんですよね。今多分 同じような商品をネットで検索して中国の工場に発注したら20万かかんないと思うんですよね。まぁそれでも中国で発注したら,国内の東京から大阪に移動するよりは,中国から日本へ輸送した方が安いんです。だから僕が国内の工場を探して新幹線に乗って東京に行って東京の工場に交渉して作るというような コストの高い方法は全然やらなくてよくなったんですよ。だから,もう今は中国の工場に発注躊躇うメーカー ないですよね。でこうやって大阪とか東京の小さい工場,さらには工場街で代々やっていた人達っていうのがどんどんどんどん潰れていきました。今僕話してんのは1970年代の日本の話なんですけど,アメリカはその10年前,1960年代にニューヨークからおもちゃ工場が消えていって,トラック輸送のコストがどんどん下がって,おもちゃ工場はそのアメリカ中の人件費が安いところに移動して,もう本当に聞いたこともないような田舎の「…ville」とかいう風なところに工場を作られたんですけども。最後はアメリカのおもちゃは,全部日本や台湾で作られるようになって,最終的に現在は中国の工場でマックのハッピーセットが作られる時代, 1個15円位で作られるようになるわけですね。だからこのニューヨークの工場で作られたおもちゃも,今やふるさとを失ったわけですよ。
■ アメリカの製造業にとどめを刺した者
これも,アメリカの製造業にとどめを刺したのは,多分中国人じゃないです。僕ら日本人だったって話をですね。この話題を最後にしようと思います。『コンテナ物語』の方ではあんまり強調されてない部分で,この辺は半分ぐらいオリジナルなんだけども,何があったのかコンテナ 革命。さっきも話したようにコンテナ革命ってすごかったんだけども,なかなか進まなかったんですよね。マクリーンは「これすごいぞ」 って言ってんだけども,それでもなかなか規制の壁とかが多くて作れなかったと。値段が1/20になったとしても,そんな 1/20の値段は組合の規則破りだと言って反発する人も多かったんですけど,そんなこと言ってる場合じゃないような事態が発生した。
そこに事態を一気に解決するというか一気に逆転するようなことが起こったんです。何かというとこれがベトナム戦争です。1965年にジョンソン大統領はベトナムの正式な派兵を決めました。それまでも軍事顧問団で送ってたんですよ。軍事顧問団と聞いて僕らが考えるのはまあ50人とか100人ぐらいの調査チームが現地に行くことじゃないですか?そうじゃなくて フル装備で武器持って戦車とか持って戦闘機もあるような アメリカの兵隊が23000人ベトナムにもいたんですね。それがその軍事顧問なんだったんですよ。ところが1965年12月にジョンソン大統領は「これから毎月1万7000人ずつ ベトナムに派兵する」という風に言ったんです。毎月17000人なんですよ。もちろんその分の支援物資 も送らなきゃいけなくなったんですよね。これが戦争以上に大混乱だった。当時ベトナムはアメリカの船が付けられる港が1か所しかない。その1カ所の場所の取り合いで船がもう順番待ちになってくるような状態だったんです。道路も穴だらけで戦車でも超えられないような道路がどこにでもある状態。物流が本当にない状態 なんですね。そこにすでに23000人いるところに毎月1万7000人ずつ人間を兵隊を送り込むんです。その食料とか武器,弾薬,服,医薬品…何から何でも全部アメリカから持ってかなきゃいけないんですよ。無理ですよ。物資の送り方も当時のアメリカ軍は,とにかく量を送ればいいんだろうという風に雑だった。 例えば1万の兵隊が例えばいるとしましょう。そしたら何が必要か?というと,彼らは まぁだいたい2ヶ月に1回 新しくブーツを履き替える。じゃあ 1万人兵隊 いるんだったら2月2回 だから毎月5000足ブーツ 送ればいいってブーツ送るんですけど,5000足のブーツが1つの箱に入ってくるわけですね。ひとつの荷物になってるんです。だからベトナムにいる部隊はいきなりある日補給物資が来たって喜んでた所に,ブーツが5000足届く。「参謀は何考えてんだ」と言ってもブーツしかないんですよ。他の部隊に行くと,今度はトランプが山のように入ってて,他の部隊に行くとラグビーボールが山のように入っていてとか,そういうことが ベトナム中で起きたんです。
これが23000人の時代なんですよ。23000人の時代って,アメリカではプッシュ方式って言ってんです。プッシュ方式とプル方式っていうのがあるんですよ。プル方式っていうのは,前線から「こういう荷物が必要です」って伝えて,それを統括する中心のところが「じゃあここにこういうのが必要ですね」って言って本部の方に行ってアメリカの本土から送ってもらう。これがプル方式,引っ張る方式です。プッシュ方式っていうのは「兵隊17000人に毎月いるんだったらこれぐらいのものが毎月必要に違いない」ってガーって送る手の方式をプッシュ方式って言うんですけど,アメリカはこのプッシュ方式だったわけですね。なのである部隊にとってはもう一生かかっても着れないほどTシャツが毎月のように送られて,隣に行ったらなぜかパイナップルの缶詰だけが毎月送られてっていう混乱がずっと続いてたんですよね。そのため,肉とかの生鮮食料品は,とりあえず港に陸揚げしてそのまま腐ってということが多いんですよ。荷物が船が港に着いた。大急ぎで降ろさなきゃいけない。じゃあこれをどこに送ればいいのか っていうのがわかんないままなので,2ヶ月3ヶ月ほっとくのが当たり前だから肉なんか全部腐ってたということがよくあったんですね。
でさっきも話したようにアメリカの大型船が泊まれるような港が1港しかないから,60隻以上の輸送船がベトナムの1港に集中してるわけです。で倉庫がないから,その60隻の船が倉庫代わりになってたそうですね。新しい船が1隻きたら港から船が1隻出てきて,で59番目の真後ろにつくわけです。
そうやって船が港で艀往復できない状態ですね。船を倉庫にするしかないもったいない状態がずっと続いてた。これを一気に解決したのがマックリーンでした。 マックリーンはアメリカ軍の上層部に近づいて,コンテナ・システムの大プレゼンやったんですけども,かなり強引にコンテナの素晴らしさをプレゼンしたんですね。「まずベトナム港以外の別の場所,ちょっとぐらい 川上の不便な場所でもいい,そこにコンテナ専用の港を作りましょう。そこにあのガントリー・クレーンってでっかいクレーン設置しましょうと。この工事の資材とか工事費用,全部うちが負担します」。マックリーンの会社シーランドっていう会社 なんですけど,「うちの会社がベトナムまで荷物を送って ,材料費も何も全部払います。現地の建設も全部うちが払います,工事する作業員も全部持ってきます。アメリカ軍は現地で軽微 だけしてください。警備員だけしてくれたら全部うち。 新品の港 一つ作って差し上げます,これで半年でこのベトナムの混乱を解決します」と言ったんですよね。アメリカ軍はこの提案をすごい 怪しいんだわけですよ。「そんなことができるはずがないだろう,俺たちがこの混乱してる状況下で,毎日毎日なんとか維持してるのかわかってるのか? それをコンテナ 鉄の箱に入れる? 軍にもそういうコンテナみたいなものあるけど,それでは何も解決にもならないんだ」って言ったんですけど「とにかく専用の港と専用のクレーンを作らせてくれ」という風にプレゼンして,金は自分の会社が出すって言うんだからじゃあもう問題ないよねっていうことで,試験用のコンテナの 港作らせたんですよ。そしたらマックリーンの予言通り,本当に半年でベトナムの補給の問題はもう ほぼ解決しちゃったんですね。 
でこのマクリーンが自腹で港を作ってベトナム戦争での米軍の補給問題が全て解決し,おまけに マクリーンの会社はこれで黒字を出し,ベトナムに港まで作っておいてそれでも黒字出したということが世界中に知れ渡って,もう運送業界でコンテナ革命を疑うものは誰もいなくなりました。それまでいわゆるニューヨークの港に関しても,鉄道会社に関しても,トラック会社にしても,陸上の運送にしても,何にしても,駅にしても「すべて コンテナで?そこまでは…」と思ってたのが,このベトナム戦争で一気に形勢逆転したことによって全てのところが「うちも今度は…」ってバーっと倒れだしたんですね。 マックリーンの会社は,ベトナムに建設した港の建設費用はあっという間に取り返して,その年のうち1年以内に黒字にさせてしまいます。ベトナム戦争で世界の運送はコンテナ革命へ大きく傾いた。
この契約ってベトナムに物を送る契約だったんです。コンテナで物を送る契約というと,どういうことかというと,船はベトナムに送った帰りに空のコンテナを載せて帰ってくることになるわけですね。まぁもちろん現地にコンテナを置いていく場合もあるんですけど,とりあえず帰りの船は空で行くんですよ。で,この時にマックリーンは「物資を運んだ帰りに,ベトナムから何か輸入させてください」と言ったんですよ。でもアメリカ軍は「いやそれは違う,アメリカは軍の必要物資を送るためにお前と契約したんであって,ベトナムから何かを送り返すことはできない」と言ったんですよ。マックリーンは契約書をバーっと調べたら,「ベトナムからの帰りの船を他のことに使ってはいけない」とは一つも書いてないんです。これを見たマックリーンは歓喜する。「やった!! じゃあ帰りにベトナム以外の東南アジアの国で何か物を輸入して,それをアメリカに運べば,運送代は全てアメリカ軍が全て支払い済みだから,輸送費ゼロでアメリカに物が輸入できるじゃん,大儲けできる!!」。ベトナム戦争に物資運ぶだけで黒字で,港作ってもまだ余るぐらいの黒字なんですよ。オマケに帰り の便が物を乗せ放題で原価ゼロって…もうこれ儲かるしかないよね? と思ったんですよね。
で,どの国の何をアメリカへ持ってったらいいのか,早速チェックしたんですよ。その時にちょうど,かつて不良品ばっかり作っている二流の国だと言われてる日本という国のエレクトロニクス製品(カメラ,家電製品…),時計…そういう風なものが超優秀だっていう噂がマックリーンのところに入っていたと。「日本だ!!」もう日本しかないと思いついて「とにかく日本で最大の貿易会社はどこだ?」っていう風に訊くと「三井物産だ」と。「じゃあ三井物産の社長に合わせろ」っていう風に,いきなり行ってアポも取らず,飛行機で日本に来て,次の週には三井物産の社長に会ってるんですよ。どういう風になったのか?って,このデータは公開されてないんですけども,一つ分かってるのは 鬼没さんの次は ,三井物産の顧問団っていうか調査班っていうか,そういうグループが2週間後にマックリーンの会社に大量に来て,アメリカ中の工場とコンテナを見学した。 その結果,あっという間に東京と神戸にコンテナ専用の港ができちゃったんですよ。結局,1967年〜1969年の間にベトナムに送られた膨大な量の物資とほぼ同じ分量の日本の家電やカメラがアメリカへ運ばれた。うちの親が儲かった理由はこれだったんです(笑) 日本の繊維製品もカメラも,輸出する時って運賃かかってたのが,ただ同然だったんですね。それで儲かった。 大量発注したのは輸送費がタダだったから なんですよね。ほぼ無料でアメリカに送れる日本製品が,大量にアメリカに上陸したんですよ。マックリーンも驚いた ぐらいの,高性能な日本製品が運賃無料で安く捌ける。だから爆発的に売れて当たり前なんですよね。この日本製品ラッシュ っていうのは,ベトナム戦争の間ずっと続いて,日本ではコンテナ専用の港が建設ラッシュになったんです。名古屋なんか もすごいデカいコンテナ港があります。その結果,当時,船による輸送料というのはひたすら値下げされて,ついにアメリカでは,国内でトラックや列車で運ぶよりも船で日本から運んだ方が安くなっちゃった。どういうことかって言うと,アメリカにもテレビ作ってる会社,カメラ作ってる会社あるんですよ。でもそれは大陸の遥かロッキー山脈の向こうの工場で作ってる。それを ニューヨークに 取り寄せるよりは,日本からニューヨークまで船で運んだ方が安くなっちゃったんです。こうなってくると,アメリカの商品っていうのは日本の商品に勝てないわけですね。 だってテキサスで作られたRCAのテレビよりも,大阪の門真市にあるパナソニック(当時はナショナル)のテレビの方が売れる。元々製造費も安いんですけども運送費が高いからそこに 貿易の壁が発生してたわけです。だからアメリカの電気会社は生き残れた。アメリカで最大 のテレビメーカーってRCAという会社。  1960年代後半まで何故アメリカ最大のメーカーでいられたのかって言うと,もうすでに日本のテレビの方が性能も良くなってるし値段も安かったんですけど,唯一輸送費の壁っていうのがあったんですよ。それがベトナム戦争下のマックリーンのアイデアで突破されてしまったんで ですね。あっという間にRCAは 経営破綻してしまいました。ニューヨークのタイムスクエアの中心の広告塔にあったコカ コーラの広告は撤去されて,そこにソニーの広告が入る。60年代からだいたい90年代半ばまでの25年間ぐらいになるのかな?アメリカの製造業は,激安で高性能な日本製品に駆逐され続けた。アメリカ中の製品もそうですし,工場もそうですし,流通網から何から,日本製品に絨毯爆撃されて駆逐されちゃったんです。物を買う時にブランド意識もほとんどないアメリカ人が選んだのは安くて高性能な日本製品で,アメリカ製は駆逐されてしまったんですね。
翻ってこれが今の日本の状況です。安い中国製品や東南アジア製品のおかげで日本の工場は閉鎖され失業者が出てるじゃないですか?安い外国製に国内製造業が駆逐されていくっていう全く同じことが1960〜70年代アメリカであった。その場合,僕ら日本が加害者でアメリカが被害者。一方で今の僕ら日本は,中国製品に駆逐されてる被害者な様な思いでいる人もいるかもですけど,規模は違うけれども,日本はそれと全く同じことを昔にやってるんですよ。ただその当時は1億人の日本人が2億人のアメリカ市場を攻撃したんですけど,今は,14億人の中国人がたった1億人の日本市場を攻撃してるから,さらに部が悪いんですけれども。えらいことですよね。まぁこの物語はここら辺で終わりましょうか。もう9時近いですし。
■ まとめ
今日の話をまとめましょう。僕が育った大阪住吉区では,昔,駅前にケーキ屋さんというか,お菓子屋さんがあったんですよ。普通のお菓子屋さんなんですけども,ケーキも売ってるんですよね。当時はケーキってパン屋さんで売ってたんですよね。パン屋の厨房で,パンを焼くついでにケーキも焼いてて,それ売ってたんですよ。生クリームではなくてバタークリームケーキです。しかし,そういう町にあったちっちゃいパン屋さんが作るケーキ,大体町のパン屋さん自体がどんどん消えてるじゃないですか。町のパン屋が消えて,大手の山崎パンをどこの店も売るようになってきた。同じように,町のちっちゃいパン屋さんがケーキ作ってたのが,どんどんケーキ作らなくなって不二家のケーキとかを替わりに売るようになっている。そして店自体が消えてく。海外からコンテナ輸送で原材料を仕入れるような大手メーカーのスイーツに,町の小さなパン屋さんとかお菓子屋さんって勝てないんですよ。もちろん特別なスイーツなら勝てますよ。作れますよ。凝り性の職人とか天才的なパティシエとかがいれば違います,大手メーカーよりいいものは作れます。でもそれは一部の天才とかすごく努力した人ができること なんですね。そうじゃなくて平凡なパン職人が作った,どこの町にでもあるようなパン屋さん,中学校を卒業して高校はなんとか行ったんだけど大学へ行くことはできなくて,じゃあ親父のパン屋継ぐかというような平凡な平凡な普通の人が作った ,単なる当たり前のどこにでもあるようなパン屋さんは,もう味でも値段でも大手のチェーンとかコンビニ には勝てないんですよ。それでも昔は輸送費が高かったから,大手のパン屋とか町のパン屋は侵略してこなかったんですね。だから町のパン屋とかケーキ屋っていうのは 生き残れたんです。それは輸送費の壁の中で生き残っていたかつてのアメリカの国内の中小零細工場と全く同じです。町のパン屋とか町のケーキ屋には,平凡なパンしかない,平凡なケーキしかない。昔僕はバターケーキとかすごい美味しいと思ったんですけど,今食べるとそんなに美味しくない。そういう住吉区の地元の普通のケーキとか,そんなにも美味しくないパンでそれでも満足してたんですよね。でたまに難波とか天王寺とかの都心に出かけて,特別な店の特別なケーキを買ったら「うわ!違うなぁ 」と言って驚く。それが当たり前だった。そういう距離の壁,貿易の壁があったのが当たり前 だった。国内とか町単位でも当たり前だったんですよね。
コンテナ革命以前の世界では,平凡な人間は平凡な仕事をしても一生暮らしていけたんですよ。輸送費っていう高い壁があるから,その町で消費されるものっていうのは,基本的にその町か近くの町で作られるのが当たり前だったんですね。その町のどこにでもあるような当たり前のパン屋とか,印刷工場 とか,おもちゃ工場とか,小さい町工場がいっぱいいて,仕事はいくらでもあるから,その街で生まれ育ったどこにでもいるような平凡な男の子や 女の子が働く場所もいっぱいあるわけですね。そういうどこにでもあるような平凡な,なんか今見たら冴えないようなパンとかケーキを喜んで買ってくれる人がいっぱいいた。そういう時代がコンテナ革命前の世界なんですよ。で1960年代のこのニューヨークのおもちゃ屋さんですね。ラジオステーションっていう無線機のおもちゃ作ってた,そういう風な工場はなくなりました。さっきも話したように,1970年代に東京とか大阪から町工場がすごい勢いでなくなり出しました。僕の高校時代ですね。それでも新今宮から天下茶屋まで歩いてったら履物工場 あったんですけども,閉業でどんどん シャッターが閉まっていって,僕が高校通ってる3年間でほとんど閉業してシャッター全部閉じられてて,在庫を売ってるだけの店になってたんですね。
で80年代後半には大体そういう小さい工場街っていうのは更地になって,90年代になるとだいたい マンションとかコンビニとか,そういう風なものになっていきました。今,世界中の都市で町工場が消えているんです。これで 先進国すべてなんですよ。世界中の街で 町工場が消えて,つまり平凡な人が平凡な仕事をする場所が世界中から消えてるんですね。生き残ってるのは何か っていうと,人件費が安くて巨大なコンテナ埠頭がある港がに近い,そういう工場だけなんです。例えば 中国の深センもそうですし,フィリピンでもそうですし。フィリピンなんか,本当に国全体が港・機械ですから。あと上海もそうですよね。ベトナムは,ベトナム戦争で巨大なコンテナ港が作られた。ベトナムというのは今どうなっているか? 世界中の工場の中心地なんです。何故ベトナムで世界中のたこ焼き作ってるのか?って言ったら,ベトナム戦争でマックリーンが巨大なコンテナ用の港を作ったからなんですよ。だからベトナムって,経済発展してるんですけども ,その一方で先進国の国内産業はどんどん駆逐されている。でも先進国と後進国って言っても,人間のレベルは同じなんですよ。そこで生まれて育ってる人間っていうのは,5%が優秀で,80%が普通で,5%がダメで,10%は犯罪に手を染めると。これも当たり前なんですよね。でもその80%の普通の人たちができる仕事は,どんどんどんどんなくなっている。その80%ができる仕事っていうのは,もっと人件費の安い,もっと輸送費の安い国ってどんどんどんどん移動しちゃってるんですね。だから特別な才能とか学歴とかコネとかがある人だけが仕事を選び放題で,人類の8割を占める普通か普通よりちょっと下っていう人は,かつてどこにでもあった近所の町工場で働けなくなってしまった。でも物価だけは 下がり続けてるんですね。コンテナイゼーションは消費者にとっては素晴らしい世界を作ったんですよ。でも労働者にとっては,普通の人にとっては,実は地獄のような世界を作ったという風に言えるのではないでしょうか。コンテナ物語の話,2時間近く話しましたけども,今日はここで 限定版のお話し終わらせていただきます。お疲れ様でした…疲れた。 

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