1987年12月16日水曜日

[ソフト] Adobe PhotoShop1.0








[ソフト] Adobe PhotoShop1.0
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1987年12月15日火曜日

[社会] ゲーセンの店長という職業





■ゲーセンの店長という職業(98.12.06)
※今回はエッセイと言うよりどちらかと言うと懐古な雰囲気で書いてます。
ぼくがゲーセンで仕事をしているのはそういう運命だったというか必然性によって築き上げられたと思う。幼い頃の僕はカレンダーに興味を持ってよく見ていたらしい。小学生になる頃には、ピンボールの回転するドラムを見て”どうなってるんだろうとも思った。
そのおかげで小さい時は数字にはめっぽう強かった。
非常にカルチャーショックを受けたのはやはりインベーダーの存在だろう。何せ敵を倒すとスコアーが自動的にあがっていくのを見て"どうなってるんだろう。"とものすごい衝撃を受けたからだ。
ぼくがたまにこっそり行っていたスーパーのプレイランドにやさしいおじさんが店番をしていて、それが妙に印象的だった。
そんな時たまに「ゲームコーナーの人はどんなお仕事をしているのかな?」と漠然と考えているだけだった。
中学生の時になってからはナムコランドの店員のおばあさんがよく遊びに行くのでという事でよくサービスしてくれていた。
まあ、こういう仕事をすると子供が妙になついてくるので(俺の場合は悪ガキだったらしいが。)ついやさしくしちゃうんだよねー。
高校に入ってからはプレイシティーキャロットによく入り浸り家にろくに帰らないような状況もかなりあった。そんなときに知り合った友人を通してコンパイルの社長に遊びに行くように誘われたり会社でゲームのテストプレイをしているうちにいつのまにかコンパイルに入社してしまうという事態に陥ってしまっていた。
なお、その頃にゲーム機の中に基板という物でゲームが制御されている事を初めて知り、その頃にMSXパソコンを購入してお家でゲームをしていたが、キーボードでのプレイに不満を持っていたためにジョイスティックをゲーセンの人に分けてもらい改造したのがまさかこの仕事に役立つ事になるという事はまだ知る由もなかった。
でも、ゲーム漬けな人生を送っていたので普段からの不勉強がたたっているためにすぐに退社してしまったが、実はちゃっかり今の職場に1回目の入社(バイトとして)していたりする。まあ、持ち前のいいかげんさと世間知らずなところが災いして何度かの転職をしていたりするが、それでも結局はゲーム関係の職場におちついたりするんだけど。
その頃にはゲーム機の改造はバッチリできるようになっていて、とりあえず基板関係のセッティングをマスターした。
一つ目の転機を迎えるのが、今の職場の2回目の退社時にコンパイルに2回目の就職を果たしていて、それから1年間ほど仕事をしていたがその頃は給料が遅配を繰り返すのでまた今の会社に逆戻りをするようになった。その理由は”今の会社が新店舗を出すのだが、その立ち上げでまた戻って仕事をしてくれないか?”との事なので戻って仕事をする事にした。
この時に始めて店長として勤務するようになったのである。
初めての当社におけるオリジナル店舗である。エアロシティーにその当時珍しいテーブルポニーを配置してのプレースタイルを提供する空間となっている。
その頃はバブル時代の最盛期でぼくのレイアウトにより店舗を打ち立ててすぐにスト?Uが出たので追い風に乗った感じでお客でごった返した。広島で伝説となったゲーセン”テイクオフ”という店がそれである。 (伝説というくらいだから1996年末に閉店しました。)
常に新しいゲームとマニアックなゲームが50円で楽しめるために最盛期は38台の機械に50人以上のお客が入って満席という状況も珍しくはなかった。
ものすごく儲かっていたために広島で唯一”スーパーストリートファイタートーナメントエディション”を導入する事ができた。
しかし、ぼくの性格に問題があるためか気に入らないお客がいたり少しでも悪い事をするお客は容赦なく切り捨てる(要は出入り禁止)まことに変なお店ではあった。
なぜかというとゲームセンターが不良の溜まり場というイメージをもたれるのが非常にいやで店内に不良行為をされるのが非常に嫌だったのである。
今ではそんなイメージも変わっていると思われるかもしれないが、一皮剥けばやはり同じ事なのである。相変わらずの高校生の喫煙、まあゲーセン限定の風景でなくなった分には気は軽いのだがゲーセンには風俗営業法の規定と各都道府県の青少年保護条例にのっとっての営業となるので放っておくわけにも行かないというジレンマを抱えての毎日の営業ではある。
この思いは今でも変わらない。
そうしてるうちに対戦台というスタイルのプレイ方法でゲームをするのがはやるようになった。最初の頃はハメや待ちという概念がなかったため盛況だったが、そのうちにそういったことがらが原因で店内での乱闘があったりといざこざが出てくるようにもなった。
そんな状況を見てるうちにゲームセンターで店員をするのが嫌になり辞めたくなってきた。ぼくの悪い癖である。
そんな頃に某基板販売会社が東京に来て”新しく基板を販売する会社をもう一つ開設するので来ないか。”との甘言に誘われ東京に行き、そのお店の立ち上げをする予定だった。
が、しかしそんなぼくでも一からのスタートというのは気分が滅入る作業である。何ヶ月かでふらっと広島に帰ってしまったのである。
広島に帰ってから始めて職なしの状態が続いたが、いくつかのバイトを経ているうちに椎間板ヘルニアで体を壊して入院してしまったのである。
退院してからまた職を失ったがとりあえずの仕事をしている時、運のいい事にまた今の会社が”あたらしいお店を作るのでまた一つ頼むよ。”といわれて今の会社に入っているわけである。
今では何となくといった感じでそれなりにお客さんとうまく行ってるが、それでもやはりタチの悪いお客には今でも手を焼かされる。そんなお客は適当にあしらってればいいが、それでも若い客がどうもマナー以前の問題のようなというか勘違い系といった感じの人が多いのでなかなか理想どおりの接客というわけにもいかないのである。
話は変わって最近はゲームセンターに足を運ぶ人も限られてきていて、なかなか厳しい状況です。また、対戦もプレイのマンネリ化でゲームセンターがゲームを愛する人の物ではなくなってきています。「最近ゲームセンターに行っていないな。」と思う人に一言あるとすれば、
最近のゲームセンターをつまらなくしているのはあなたがゲーセンに遊びに行かないからかもしれませんよ。
どうです、たまにはゲームセンターに行って楽しい雰囲気を味わいに行きませんか?お金なんてちょっとしか使わなくてもいいからさ、見てるだけで面白いかもよ。
ゲーセンのいいところは自分のプレイを不特定多数の人に見てもらう事で(勝手に見てるだけとの解釈もある)同じゲームをしている人とのコミュニケーションがあったりまた逆に上手い人のプレイを見る事でいい刺激になったりするかもしれないし、また練習して自分のプレイが上手くなった時はそのテクニックの発表の場になったりとさまざまな活用があったりすると思うんだけど。
ちなみに俺の場合は人に見られると燃えます。(ナニがだろ。)
■ビッと生きようぜ!(98.12.09)
最近の若い子を見ていると思うのが、どうもダルそう(といってもダルシム僧ではない。)に行動してるように思う。特に女子高生に多いと思うけど。(もうこの時点で俺がオヤジ入ってる事が確定してるが。)
最近は若い子にもチャンスを生かせるという環境がなかったり、あらかじめテストの点数とか実力とかそういったもので進路を決められたりするのでついていけないと思った時点で楽なほうに走っていくようにさえ思われる。
最近はちょっとした事でも挫折感が常についてまわるのが世の中を悪い方向へと走らせているようにも感じる。
なぜかって?昔には分からなかった事や不明だった事もだんだん分かるようになってきて”こうだからこう!”と思う人が多くなったのかな?お勉強だって分からない人はたとえ子供だろうと容赦無く切り捨てられていってるし希望が見出せないまま学校行ってれば確かにそうなるな。
それに人生自体にもロマンを感じられないのが最大の原因だと思う。
結論も導き出せないまま挫折していくようだしせっかくこの先にチャンスが転がっても気付かずに通り過ぎて行ってるかもしれない。
それでもみんな持ってる悩みや事情が違うので一概にそう決め付けるわけにも行かないが、結果は自分が積み重ねた成果が今の自分にしっかり反映されているのは間違いのない事実なのでその辺を正確に見通せるか否かで自分の成長度や考えの進み具合が分かってくるものなのだ。
自分の未来を見通せる人はたとえ今この時でもおろそかにはしていないものだ。
たとえば、夢や念願がかなってプロ野球に入れたみんなの表情が生き生きして見えるのはあきらめず夢を追いかけた成果なのだ。(たまたま今がドラフトの時期だからそうなったが。)
それに、大会社を興した人物だって最初は小さな商店や工場の人々だったりするわけだし、いろいろな可能性を見出したり追求した成果がそこにしっかりと反映されていると思うよ。
失敗しても何もない状態よりマイナスになるなんて事はそう簡単にありえないんだから。
彼らだって小さな悩みから挫折寸前といったシチュエーションはあっただろうし、これからももっと大変なのである事は間違いないのである。
だから、どんな小さな事でも夢や目標を持つ事で人生が生き生きとするし自然に行動にシャープさが出てくるようにも思う。
ビッと生きようぜ!というのは常に最善をつくそうという心の現われなのでもある。
カッコイイ人は常に最善の努力の積み重ねによって成り立っているのである。
カッコだけでは成り立たないのは歴史でも証明されてるのである。
どこか他人と違う執念を持ってこそ始めてカッコイイのである。
クレイジーと思われても他人に迷惑がかかってなければそれでもいいじゃないか。夢や情熱や執念を持てないものはただ生きてるだけの骨と肉塊に過ぎないのだ。
俺は違う。クレイジーと呼ばれると至福の快感を感じるのだ。
だって、他人とは違う感性を持ってる事がその人から認められるんだよ。
しかし、こんな事を書いていてふと思ったのがカッコよさって狂気と紙一重なのかな?
■どっちを忘れる?(98.12.09)
仕事をしてると実にいろんな人に会う。だいたいはお仕事がゲーセンで働いているので来る人は常にハッピーを求めている。だから来る人もどこか気のいい人でごった返すのである。
しかし、商売柄不特定多数のお客が来る性質からか中には来てほしくない客やうっとうしい客も少なからず来るのである。
ま、そうなれば当然ムカつく事もいう輩が現れるわけで当然のように何やら訳の分からない事を言ってこちらを困らせる事もかなりあるわけでして店員(俺は店長だが、)といえども人の子なので腹が立つ事もあるのだがそんな時にこんな事を思って忘れるようにしている。
”いい人はいい事を忘れない。”
”悪い人は悪い事を忘れない。”
というすり替えで怒りを昇華させているのである。
なかなかその事実が分かっていてもそう簡単には俺の熱いジェネレーションは簡単に打ち消せないが、心がけ一つで物の見方や人生が変わるのだから面白いというか自分の気が楽になるのだからお安いものだよね?
「すみません。」より「ありがとう。」 (99.01.12)
今日、仕事中に自転車の整理で学生さんが自転車を出すのでサポートしてあげたら「すみませんでしたー。」と言ってるのでふと思った。
大体親切にされると「すみません。」と言ってる人がかなり多いように思える。
もちろん気持ちの問題なので言ってくれると嬉しい。<っていうか、言わないと仕置き
しかし、本来親切にされると「ありがとう。」と言うのが普通だと思っているのではあるが、親切にされるとついとっさに「すみません。」と言っている事が多い。
「すみません。」だと迷惑をかけたというかその手の後ろめたさを感じるのでここは素直に「ありがとう。」と言える心を持ってみんなに接してみようと思った。
というわけで、これを読んでくれたみなさん「ありがとう。」
疑問を持つと言う事(99.01.12)
※このエッセイはちょっと自信がありません。というか気持ちに整理ついてないまま書いております。
最近世の中が不景気なせいか、社会や政治について文句を言う人が多くなった。
自分の事を棚に上げて他人を批判する輩も増えたように思う。
結局のところ「自分も社会の一員なので俺が変えてやる。」と言う志のないまま他人に他人の文句を行ってもどうしょうのない事である。
というわけで自分が変わらなければ何を言おうと失格である。
疑問や不満のないところに向上心は表れないのである。
しかし、矛先を他人ばかりに向けてどうしろと言うのか?自分にも責任はないのか?
いま、自分に何が出来るか考えた事ありませんか?
世の中に流されて生きるのも一つの選択だけど、自分や他人の可能性について少しでも追求してみたら・・・ 今からでも遅くはないんだから。
                           
けんちゃんの小部屋
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1987年12月8日火曜日

1987年11月19日木曜日

[PCゲーム] NEC PC-8801,クリムゾン,クリスタルソフト製作~1987年リリース









クリムゾン完全攻略
発売元:クリスタルソフト
ジャンル:RPG
1987年11月発売
対応機種:PC88 PC98 X1 MSX MSX2
■ストーリー
超未来、かつて栄華を極めた人間の文明はことごとく消滅し、いたるところに廃虚と化したビルが朽ちている世界。
この世紀末を支配する魔王は、モンスターを操って暴力の限りをつくしていた。
病床に伏した母親からこの話を聞いた主人公が、
父の意志をついで魔王を倒す旅に出かけるのであった。
とまぁよくあるストーリーです。
と言うかまんまドラクエのパクリです(笑)。
聞くところによればPCでドラクエの様なRPGを作ろうというコンセプトで製作されたらしいのですが…。
難易度はドラクエより少し難しい程度でしょうか?
まぁなんといってもこのゲーム、こちらの攻撃がほとんど当たらないので戦闘が少々長引きがちになります。
特に自分より強いモンスターに対しては全くと言って良いほど攻撃が命中しません。
この辺はもうちょっと何とかして欲しかったかなと言うのはありますが、私がPC88で初めてやったRPGなので思い入れは深かったりします。

MADの芸夢狂館
http://pc88mad.webcrow.jp/
http://www3.to/88mad











[ゲーム] クリムゾン
◆クリムゾン作品データ
[作品概要]
タイトル: クリムゾン(CRIMSON)
製作・販売: クリスタルソフト(XTAL SOFT)
発売日: 1987年11月
ジャンル: コマンド選択式RPG(画面見下ろし型)
定価: 7800円
内容: 5”2Dディスク(2枚組)、マニュアル、カレンダー(1988-1989)
※この内容は88版のものです。
[画面構成]
 移動画面
 戦闘画面
 イベント画面
[付属品]
 マニュアル
 特製カレンダー
 フロッピーディスク
[スタッフ]
GAME DESIGN AND PROGRAM T.NAKATSUJI
GRAPHIC DESIGN T.ISHIDA
MUSIC AND SOUND Y.KINOSHITA
K.KITAHIRA
C.FUJIOKA
S.MAYAMARA
Y.CHO
SKY SOUND
COVER PHOTO MONTRESOR
DEVELOP K.TATSU
J.KUMON
Y.KASHIWAGI
T.TAKEMOTO
MANUAL M.CHIBIRU
B.KAMASU
G.KUMOJUN
PALLMALL DESGIN
ADVERTISEMENT BEAUTY HIROKO
MANAGEMENT MADAM KATO
SPECIAL THANKS STUDIO RPG
TOKIWA PRINT
TOMIOKA ENG
KINKI SIKO
CREATE OSAKA
K.TAKEUCHI
KASAHARA DESIGN
◆レビュー
ドラゴンクエストの影響
ファミコン版「ドラゴンクエスト」の発売が、86年5月27日、
「ドラゴンクエスト2」の発売が87年1月26日だ。
それから9ヶ月のちにクリムゾンはパソコンショップで産声を上げた。
すでにプレイしている方は、声を合わせて
「クリムゾンは、ドラゴンクエスト(以下ドラクエ)の影響をもろに受けている」
と言うだろう。しかし、私の意見は少し違う。
このゲームの開発コンセプトが、
「パソコンでも(ドラクエのような)ライトなRPGを作ろう」
だったのではないかと推測する。
つまり影響されたのではなく、踏襲したのだ。
それもただのマネゲーではなく、そこにクリスタルソフト独特の“毒”が加わった。
ホラー映画界に名を残すロメロ監督の「ゾンビ」がドラクエなら、
「ZOMBI2」の原題で亜流の傑作となったフルチ監督の「サンゲリア」はまさにクリムゾンである。
この比較例を読んで、まったく意味がわからない人でも、「ゾンビ」という映画ぐらいは知っているだろう。
「サンゲリア」は知らなくても。まさにそれこそ「ドラクエ」と「クリムゾン」の関係そのものだ。

最もドラクエ(たぶん2)の影響を受けているのが、シナリオだろう。
例えば、
「鏡に怪物の姿を映して正体をあばく」
「各地の勇者や王子を仲間にしてパーティを増やしていく(3人)」
「最終的にクリムゾンを倒すには『5つの玉』とか『3つの・・』とか集める必要がある」
「船が手に入って行動範囲が広がる」
「最後の城は落とし穴だらけ」
などは似てるというより、そっくりである。
だからといって不満があるわけではなく、それで良いと思っているのだが。
それと、テキスト調のわかり易いメッセージもドラクエ効果と言えるだろう。
「ハッハッハッ われこそは クリムゾンだ!」
とか、ベタベタなセリフ回しと展開は、饒舌になり過ぎた現在のRPGに比べて逆に新鮮に思える。
怪人さんいらっしゃい!
冴え渡るクリスタルソフトの“毒”。それは主にモンスターデザインに集約される。
百聞は一見にしかずで、モンスター図鑑を見て頂ければ早いのだが、
デザイナーの趣味とセンスが溢れ出ていると思わないか?
クリムゾンに登場するモンスターを一言で表すならば、『B級の深み』である。
例えば、ジャクソンとスプラッター。彼らはとあるキャンプ場に登場して少女たちを殺戮している!
これってまんまクリスタルレイク。
ファンタジー系のモンスターがいたかと思うと、北斗の拳で見たような敵がいたりといった有り様。
もしこのクリムゾンのキャラデザインが鳥山明氏だったら・・、
売れたかもしれんが、こうして帝王幻一郎の記憶に長く残るゲームにはならなかったと断言する!
(これは客観ではなく主観である。なぜなら帝王は無類のB級好きだからだ。)
ゲームバランス
当時のパソコンゲームにしては、全体的なバランスもよく取れている。
パソコンRPGでよくあるのが、とある地点でやたらと経験値稼ぎをさせるようなやつ。
シナリオは一本道なのに、突如として敵が強力になり、作業プレイを余儀なくされるものだ。
このクリムゾンは、順を追って冒険していけば、そのときのレベルでなんとかなるし、
シナリオもオーソドックスなので理不尽に詰まる事がない。
これぞまさにドラクエ踏襲効果と言わざるを得ないだろう。
音に聞け!
クリムゾンのサウンドは、どこか民族的というか独特の世界を感じる。
タイトルがマイナーなので、お皿(CD及びレコード)になっていないのは残念だが、今も心に響き渡る。
音楽の知識があまりないので説明しずらいのだが、
戦闘中のタイコの音だとか、フィールド移動中の「ミャーミャー」言ってる音とか、
個性的な旋律は、クリムゾンワールドの立役者として仕事を成功させている事は間違いないだろう。
本来ならWAVEファイルとかMIDIデータでみなさんのお耳にお届けしたいところだ。
◆クリムゾンシステム
戦闘がないフィールド空間
このゲームは、移動フィールドでは戦闘が起こらない。
「遺跡の谷」とか「カミナリ山」とか、場所限定で戦闘が発生する仕組みだ。
これで何が良いのかというと、ゲームのテンポである。
RPGでよくある「A町に帰りたいのに道に迷って散々戦闘をするハメに」
という事がことフィールドに関しては無いのだ。
言うなれば“道に迷う事”を楽しめるのである。
シグナスワープ/ペガサスワープ
クリムゾンのアイテムの中でのヒット商品がコレである。
2人目、3人目の仲間が片方ずつ持っているのだが、どういうものかというと、
これにはそれぞれ「ワープする」「セットする」という能力がある。
「セットする」をした地点に「ワープする」で瞬間移動できるという代物だ。(しかも回数制限もなし)
これは便利過ぎるくらい便利だ。
2つあるので、1つは最寄りの町にセットする。
そして冒険を続け、ダンジョンなどでギリギリまで突き進み、限界が来たらもう片方をセットしてサヨウナラ。
これをすれば余計な行き来が一切必要なくなるというわけだ。
このアイテムの存在もまた、前述の「テンポの良さ」に生きているのである。
攻撃モンスター選択
昔は当たり前だったのだが、「選択したモンスターが死んでいると、かわりに別のモンスターを攻撃する」という機能はない。
そのため、3人の行動が無駄にならないように、攻撃順番を決めるちょっとした思考が働く。
考えてみたらそんな機能が備わっていたら、スペースキー連射で終わってしまうものな。
魔法の存在
このゲームでの魔法は、能力としてではなく、「道具屋」で買うものである。
回復魔法だろうが、最強魔法だろうが、お金さえあれば全員持つ事が可能だ。
3人のキャラクターが職業分けされていないから、それで問題ないのだろう。
必要以上に便利だ。
ただし、MPの上限に個人差があるため、攻撃魔法をよく使うキャラとか限られてくる。
(ちなみに、イザベラ、主人公、アーノルドの順にMP最高値が高い)
クリムゾンの欠点
ベタ褒めしているようだが、クリムゾンに欠点がないわけではない。
攻撃がなかなか当たらない事と、エンカウントがやたら多い事だ。
前者はレベルアップとともに徐々に解消されるのだが、それにしても厳しめの設定である。
「8匹のモンスターと遭遇し、3人で攻撃して4ターン目でやっと1発当たった」なんて事はザラにある。
このゲームは好きだが、さすがにこの瞬間はイライラする。
後者はひどい時になると、1歩ごとにエンカウントが3回連続で、なんて事もあった。
“ゲームのテンポ”に関してはよく調整されているゲームだけに残念だ。
RPG猛者の方々が見ると、他にも足りない機能は多々あると思うが、
87年という時代を考えれば特に問題視する点は他にないと思う。
もちろんのこと、ドラクエタイプのライト感覚RPGというものが、
当時のコア系パソコンゲーマーの口には合わなかったであろう事は予想できるのだが。
     
大帝王時代
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88系ソフトハウス
88ソフトの内容に関しては、
名作100選を始めとするコーナーに任せるとして、
ここでは、ソフトハウス別に当時の思い出やエピソードを紹介していこう。
#1『クリスタルソフト』
#2『エニックス』
#3『リバーヒルソフト』
#4『ソフトスタジオWING』
#5『ウインキーソフト』
#6『ゲームアーツ』
◆クリスタルソフト
ハチハチ作品一覧
82年
コスモクロス/パラノイア200X
83年
84年
忍者屋敷/夢幻の心臓/リザード
85年
ファンタジアン/夢幻の心臓2
86年
バビロン
87年
ジハード/クリムゾン/Mr.プロ野球
88年
Mr.プロ野球88年度版データ/バトル・ゴリラ/アドヴァンスト・ファンタジアン
89年
夢幻の心臓3/クリムゾン2
90年
クリムゾン3
私は元来こういうB級路線のソフトをリリースする会社が好きなようだ。
ここで言うB級路線というのは、大衆に媚びず、ただデザイナーの好みで作られたような路線のこと。
と言っても、当時はその手のソフトの方が多かったと思うのだがな。
(今はほとんど逆転してしまっているが)
各タイトルごとの詳細は、『名作100選』などのページを参照して頂きたいのだが、
あの『クリムゾン』の独特な世界観、斬新過ぎた『バトルゴリラ』のシステム、
RPGの門戸を広げた『リザード』、『夢幻の心臓』。
それらは広く大衆にアピールしたエンターテイメントソフトというよりも、
作家性をプンプンさせた物が多く、まさにパソゲーを影で支えたソフトハウスといった感じがする。
そんなクリスタルソフトで一番思い出深い事件は、やはりT&ESOFTへの吸収合併だろう。
その頃、各ソフトメーカーは、PCゲームからコンシューマゲーム(主にスーパーファミコン)への移行を余儀なくされていた。
PCゲームで経営を持続させる事は難しくなったのだ。
クリスタルソフトもそんな会社の一つ。
コンシューマへ参入する為の莫大な準備金を用意する為に選んだ道が吸収合併だったのである。
そんな折りに私の家に一通の封書が届いた。その内容は以下の通り。
ユーザーのみなさまへ
クリスタルソフトのゲームユーザーのみなさま、お元気ですか?
今日はみなさまに、重大なお知らせがあります。もう知っている方も多いと思いますが、
クリスタルソフトは10月1日に、「T&E SOFT」と合併します。
「T&E SOFT」のことは、有名だから知ってると思うけど、
要するに「XTALSOFT」と、「T&E SOFT」という、
今までは別々だった二つの会社が、10月1日に1つの会社にまとまって、
強く、大きくなるということなのです。強く、大きくなると、
今までよりもっともっとすごいゲームソフトがガンガン発売されると言う訳です。
新しい会社は「T&E SOFT」と言う社名を使うことになりました。
ですからクリスタルソフトは「T&E SOFT 大阪支社」に変わります。
じゃあ、今までに買ったクリスタルソフトのゲームは、どうしてくれるんだ!
と、思われる方も多いでしょう?・・・・・・ ご安心下さい。
今までにクリスタルソフトブランドで発売されたすべてのゲームは、
前と同じ電話番号、同じ住所でサポートを続けます。
ゲームのヒント希望も往復ハガキで受け付けていますので安心してプレイしてくださいね。
永い間クリスタルソフトを応援してくれて、本当にありがとう。とてもとても感謝しています。
社名は変わってしまうけれど、開発スタッフ一同の気持ちは変わりません。
今までに誰も見たことがないような、スーパーゲームを作るためにこれからもガンバリます。
必ず、「アッ!」と言わせて見せますから、期待していてください。
最後にもう一度、本当にありがとう。
そして、ソフトウェア新時代に向けて、新生「T&E SOFT」をよろしくお願いします。
クリスタルソフト スタッフ一同より
(原文のまま)
何かいま読み返しても哀愁漂うな。
会社の事情を一ユーザーでしかない私に報告してきたソフトハウスを他に知らない。
これを読んで私は益々クリスタルソフトという会社を好きになったし、
またそんな会社が無くなってしまう事を悲しくも思ったものである。
そしてT&E内でのクリスタルブランドの活躍を期待したが、それも現在までかなわずにいる。
(ずいぶん前にPC98で「Mr.プロ野球」の続編『Mr.プロ野球パーフェクト』が発売されていたようだが・・)
     
大帝王時代
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1987年11月10日火曜日

[ゲーム][Old Mac] ARKANOID, Taito America Gorp(1987)~パズル・アクション





ARKANOID
Taito America Gorp 1986-87  Discovery Software Intl., Inc 1987-88

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[ゲーム][Old Mac] Stunt Copter





[ゲーム][Old Mac] Stunt Copter
Stunt Copter
HomeTown Software 1987
StuntCopter 1.6
言葉で表現するのが難しいぐらい、むちゃくちゃおもしろいゲーム?。サウンド(効果音)も愉快で楽しい。
Stunt Copter is an old Macintosh game made by Duane Blehm, in 1987.
Duane passed away a few years ago.
作者のDuane Blehmさんは、亡くなられましたが、私は彼の作品が一番好きだ。
今は、当時では考えられないくらいコンピュータの性能がアップした。
個人レベルで、ソフト開発を続けるのは、困難な時代になってしまった・・・。
HomeTown Software、私の一番好きな言葉だ。
作者のDuane Blehm.さんについて
数年前、インターネット上でDuane Blehmさんについて、悲しい記事を見つけた。
Duane passed away a few years ago.
彼の作品には、飄々とした中にも、温かみのある内容のゲームソフトが多くある。
その中でも Cairo shootoutは最高傑作の1つ。 9インチモノクロスクリーン、System6が起動に必要な条件。(Stunt Copterは1986年のデビューにも関わらず、OS 8でも、らくらく起動する汎用性に富むソフトだがCairo shootoutは起動条件がややシビアである。)
それ故、Cairo shootoutを楽しむにはMac Plus, SEなど初期のコンパクトマックが必要となる。(エミュレータのVmacでは、この感動・感激・満足感は絶対に伝わらない。さらに効果音もこの作品の重要な要素の1つである。)
しかし、このゲームを楽しむだけのため、Mac Plusを購入しても後悔はしないと思う。
他にも、Duane Blehmさんはこんなに楽しい作品を発表してる。
From Wikipedia,
Stunt Copter is a classic Macintosh game which involved piloting a small helicopter around a playfield and clicking at the right time so that a person suspended from the aircraft would fall into the hay bale on a moving cart. Unless precisely timed, the person might fall onto the ground or injure the horse or the driver of the cart. The game was developed by Duane Blehm whose other games included Cairo Shootout and ZeroGravity. His small software company was known as HomeTown Software. After his death, his parents released his games into the public domain.
A Mac OS X version of the game has been released by Antell Software.
Mac OS ?]で起動可能な、Stunt CopterがAntell Softwareからリリースされた。私は実際に起動中の画面を見たことはないが、若いMac世代にも、9インチモノクロ画面で本物のStunt Copterを楽しんでもらいたい。

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ver.1





ver.1.6











ver.2

1987年9月30日水曜日

[機器][PC] Apple Macintosh IIci




個人的な過去のアップル製品たち1
2014/4/30(水) 午後 4:52
Macintosh Macintosh
なんとなく思い付きと懐かしさで今までに使用してきたアップル製品の記録をつけてみようと思う 
あくまで個人的な記録なので不正確だったり、どうでもいい思い出もあるので気にしないでね 
私の初めてのパソコンというものの記憶は小学生3年くらいの頃に突然父親が買ってきたFM7とかいうものだった 
ゲームのカセットをセットして、本記載されたコードを打ち込んでいくとゲームが始まる仕組み(これくらいしか出来なかった) 
まぁこれはアップル製品ではないしあまりに遠い記憶なのでこれ以上は書くつもりはないが、
記憶装置がカセットテープだったいうのは今から考えるとものすごいことだ 
◆ Apple Macintosh IIci
時は流れて1994年 私はどういう訳かニュージーランドに留学する事になった 
そこで初めて出会ったのがMacintoshというものだった 
学校のコンピュータールームと言うものがあり、そこにずらっと並ぶマック達 
機種は良く覚えていないのだがMacintosh II CI かCXのどちらかだと思う 
本体にCDはなくフロッピーのみ 一部の機体には外付けAppleCDが付いていた 
昔懐かしのディスクをカートリッジに入れるタイプだ 
主な使用目的はレポートの作成だったので速度的にはまぁ不満はなかった 
というか、これしか知らなかったからこんなものだったのだけど
Apple Performa 5210
初めてのMy Macintosh: Performa 5210
1年生の頃は日本から持ち込んだ親のお古のワープロも使っていたのだが、
マックのマウス操作に慣れてしまうとキャノン製の当時のワープロは使いにくいもの以外の何者でもなくなっていた(その後壊れたし) 
2年目の夏休みに一時日本に帰国し、その時に親にパソコンを買ってもらえないかと相談してみた 
2年目からは学校から離れた家でホームステイをしている事、
当時車を持っていなかった事などから自宅にパソコンがないとレポートなどはいっさい書けないからだ 
私は車の免許を持っていなかったので免許はニュージーランドで取得するという条件でOKをもらった 
というのも現地で免許を取れば3万くらいでとれたからだ(たしか) 
日本で取ると30万はかかった気がしたので その分をマックにまわせると言う計算 
で、当時はマックの事なんて全然知らなかったし、相場や性能もいまいち分からなかった 
ただ、学校の図書室で調べたマック情報誌によると、PowerPC搭載機が速く、今後の主流になることは知っていたので
まだ当時在庫として残っていたLC630などの680系はやめる事に 
新型として出ると言われていたPerforma 5200シリーズが一番の候補に挙がった 
というか、一番かっこ良かったんだなぁ 
当時店頭にはPowerPC601搭載のPowerMac6100とかが投げ売りされていた記憶がなんとなくあったのだが、
設置場所の関係などで一体型がよかった事と6100は電源がいまいち 
画面上でシャットダウンした後に本体の物理スイッチを切ると言う仕様がえらく古くさい仕様だったのだ 
で、Performa5210を購入 メモリを16MB追加して24MBにした 
確か30万円くらいだった 
スペック的には75MHzのCPUに500MB(ギガじゃなくメガ)のHDDという今からは考えられないもの 
でもまぁ当時としては速くはないが、標準的なパソコンだった感じだ 
少なくとも学校のパソコンよりは非常に高速だったし、CDロムも普通に使えた 
学校の外付けCDは尋常じゃなく遅かった(壊れてるかと思うくらい)
SPEC
CPU: PowerPC603(75MHz)  
HDD: 500MB
4倍速CD-ROM /FDD
15インチモニター
キーボード/マウス付属(当時のPowerMacシリーズはキーボードは別売りだった)
初心者向けのソフト多数

チビ助のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/chibisukechibikoro/






Macintosh
2010/8/28(土) 午後 10:34 その他 練習用
自分が使っているコンピュータはMacintoshです。
就職したての頃、まだWindowsなんてなかったんですねえ。
MS-DOSの時代です。その当時パソコン自体非常に高価なものでした。
しかもカラーなんてまだ無かったです。
職場では、エルゴメータのための試験というか実験のような事をしておりました。
そのとき自分の上司だった人が、Macintoshを使っていました。
カラークラシックだったかな。ひょっとしてカラーではなかったかも
当時、自分は実業団で選手兼、社員というかたちで自転車に乗っていました。
そのとき、チームドクターだった先生は 自分の大学の大先輩であり、またこの方もMacintosh使いだったんですねえ。
たしかSE-30あたりを使っていたかと。
自分が最初に買ったコンピュータは NECのラップトップでした。
それはそれで、仕事に使っていたのですが、やはりMacintoshは魅力的で
実際、職場でPowerMac8100を24インチのモニターで使った時は感動ものでした。
その後、初めてのMacintoshは、powerbook540cでした。
まだ、powerPcではなかったんですが、それでもさくさく動いてくれましたし、なんと言っても、初めてトラックパッドを採用し、カラーもかなりきれいでした。
ああ、懐かしい。その当時は はじめはHYPERCARDでプログラムをして楽しんでいました。
そのうち、デレクターやSUPERCARDなんかを使ってプログラムをつくってたなあ。
いまもMacintoshを使って入るものの、自分で何かを作るという点ではこの頃が一番楽しかった。
やがて、Macintoshも540CからPOWERMAC7500になり、その後はiMacになりました。
eMacを試した事もありましたが、ファンの音がうるさすぎて駄目でした。
最近はというと、大福iMacの20inhですねえ。いまのメインマシン。
そしてサブマシンは、去年に買った iBookG4 12inh
今はG5を経てintelMacintoshですが、いまだ powerMacは頑張ってますよ。
年々新機種は安くなって来ていると言うのに昔ほど(独身時代)いまは大金出せないもんね。
まだまだ大事に使っていきたいなあ。 
でも、一応intelMacintoshも持ってるんだけど。
今イチ使ってない。もったいないねえ。
Mac miniもっと活用しないとねえ。

日々の記録
https://blogs.yahoo.co.jp/googoo8818/18777860.html







mac



志賀隆生: コンピューター小史〜コンピューター誕生からマッキントッシュ誕生まで(1991)
マッキントッシュ小史
文/志賀隆生
Macintoshの歴史は多くの逆説,パラドックス,アイロニーに満ちている。
Apple I,IIからLisaそしてMacへと至る,成功と失敗,熱狂と落胆の歴史,しかしその間わずか10数年という,何かを達成するには余りにも短いその歴史は,その一挙手一投足がつねに世界中のパソコンマニアの注目を集めていたという点で,パーソナル・コンピュータの歴史そのものと言っていいほどだが,パソコンが1950年代にすでにマクルーハンの予見していた電子時代のメディアツールとしてますますその重みを増している今日にあっては,同様に多くの逆説,パラドックス,アイロニーに満ちた20世紀そのものとして,あるいは20世紀的テクノロジーを象徴する存在として,あの夢の機械を位置づけても許されるのではないかとさえ思わせるのである。
計算技術が大きく変貌するのは,形式化した論理演算というテクニックとその時代に利用可能な テクノロジーとが上手に結びついたときであり,さら に高度な計算技術を要請する文化・社会的背景が存在 したときであることは容易に想像がつく。今日のコン ピュータの原形と誰もが認めるのは,19世紀の英国の 数学者チャールズ・バベッジが考案した差分機関と解 析機関だが,産業革命が世界市場を大きく変えていくなかで,バベッジの大量高速計算機械はたぶん切実な技術時代の要請だったはずである。もっとも,このバベッ ジの夢のエンジンは,時代の欲望が当時の科学技術力 をあまりにも大きく上回りすぎていてついに完成することはなかった。。
■1940年代
次のステップは,20世紀初頭の英国の数学者チュー
リングの計算可能性の数学的定就とその具体的検証としての「チューリング・マシン」だろう。このいかにもこのいかにも20世紀的なチューリングの発想は計算技術の徹底的な形式化の追及作業であり,形式化が徹底しているぶん,人はなぜ計算するのかという問いは失われている。
しかし20世紀半ばに,人類はこの問いかけに対して新しい答えを発見する。それは<力>である。
1944年,ハーバード大学のアイケンはリレー式計算機MARKIを制作する。モークリーとエカートによる世界最初の電子計算機ENIACは1943年から研究を開始し1946年に完成する。後のノイマン方式と呼ばれるストアドプログラム方式による最初のコンピュータEDVACは1951年に完成している。これら
は第二次世界大戦中は大砲の弾道計算に使われ,そ
の後は原爆開発重要なツールとなった。このように計算技術の進歩によって生みだされた<力>は,コンピュータの神話学に大きな影を落とすことになる。
■1950年代
人はなぜ計算をするのか?これはけっして哲学的な問いではない。古代インド,アラビア,中国を見ればわかるとおり,歴史的に計算技術の発達した地域はつねに大規模市場が形成された土地だった。人が計算が計算する理由はただ一つ,公正さを保つためである。
こうした計算技術の行き着く先が,正確さと早さを至上命題とするコンピュータであるとすれば,事務計算の専門会社Computing Tabulating Recordingがその後International Business Machine(IBM)と社名を変更して業界トップの位置につくのは歴史的必然といえる。 
1950年代に入ると、コンピュータは大企業の経
営部門の中枢と,産・官・学の研究機関の内部に入り込んでいく。そこでは<金>と<力>を生みだすことが技術の使命であり、コンピュータの存在理由だった。
ところが,意外なことに<金>と<力>を手にしたはずのコンピュータの前に,大きな落とし穴が待ち構えていた。それがハッカーである。
人類史上最初のハッカーは1959年MIT(マサチューセッツ工科大学)に発生したと言われる。当時,大学の電気計算機室に設置されていたIBM製のコンピュータに,テック鉄道模型クラブのメンバーが無許可で進入し悪戯をしかけたのがハッキングの始まりとされる。これは1950年代のコンピュータが神殿のなかにおさまるご神体のような扱いを受け,その操作者がまるで司祭のような振る舞いをしていたことに対する反発から来たものであり,そこに20世紀的理想主義を見いだすことは容易い。
ほかの誰でもない,技術の理想のために,ハッカーは危険を犯す。ハッカーはその意味で20世紀的な理想(至上)主義の化身であり,20世紀をモダニズムの世紀ととらえれば,ハッカーはまさに20世紀的存在の化身ということができる。
ここにコンピュータ・テクノロジーのパラドックス
を見ることができるだろう。技術(コンピュータ)が20世紀的存在(ハッカー)を呼び起こす。誰のためでもない,おそらく巨大な権力,あるいは制度に奉仕するために生みだされたメインフレーム・コンビュータが,やすやすと個人の悪戯ものの手に落ちてしまうという,あまりにも20世紀的なアイロニー。計算技術あるいはその具体化した姿としてのコンビュータは<金>と<力>という時代の欲望を増幅する機能をはたしたと同時に,ハッカーのような技術理想主義的思戯ものの欲望をも増幅してしまう。メインフレームのコンビュータがその能力を極限まで発揮し,その生みだす<金>と<力>で世界を囲い込もうとしても,つねに/すでにそこには微細だが決して修復できない穴が穿たれている。それがコンピューター・テクノロジーの本質であることを,MITのハッカーたちはほとんどコンピュータの創世記に証明してしまったのである。。
■1970年代
1970年代に入ると,コンピュータ・テクノロジーの城塞に巣食った微細な穴は徐々に拡大を開始する。。
まえぶれは1971年にインテル社が作り出した4ビットマイクロプロセッサ4004であり,その後改良を加えて1974年に発表された8080は世界最初のパーソナル・コンビュータキットAltair8800を生みだすことで穴の存在を決定的なものとした。オルタナティブ・テクノロジーとしてのコンピュータ。こうした発想はどこかの国の国家予算規模のプロジェクトだったENIACやPEOVACからは生まれてこない。
さて,このAltair8800は誰もが予想しなかった成功を成し遂げ,それに刺激れて多くのミニハッカーたちが自分たちの手製のパソコンを世に送り出すようになったのだが,その中に,後にアップル社の創設者となるスティープ・ウォズニアクとスティーブジョブスがいた。
この1970年代はオルタナティブ・テクノロジーとしてのコンピュータにとって重要な時代だった。
1970年,シリコンバレーの一角,小高い丘の中腹に建てられたゼロックス社のパロアルト研究所には,後にパソコン界を先導する重要な技術や技術者が集い,意見を交換しながら理想のコンピュータを追及した。1960年代後半にダイナブックの構想を得たアラン・ケイはパロアルト研究所で,1972年にオブジェクト指向言語Small Talkを開発,1974年には暫定的なダイナブックと呼ばれたパーソナル・コンピュータ「Alto」を開発する。同じ1974年にはインテル社やザイログ社から,8080,Z80など時代を席捲する8ビットマイクロプロセッサが世に送り出され,さらに同年に,ハイパーテキストの提唱者テッド・ネルソンは「COMPUTER LIB」を自費出版,ビル・ゲイツは8080用BASICを開発,マイクロソフト社を設立している。パーソナル・コンピュータを取り巻く状況はこの時期慌ただしく動いている。
1976年にApple Iを,翌々年にApple IIを発表して大きな成功を収めたアップル社は,その後,1980年のApple IIの失敗と1981年のIBM-PCという有力なライバルの出現により苦境に立たされることになった。


1978年にパロアルト研究所を探防しAltoに強い感銘を受けたジョブズは,AItoのようなコンピュータを作ろうとして1983年Lisaを発表する。Lisaにはワンボタンマウス,アイコンのドラッグ,プルダウンメニュー,クリップボード,オーバーラップ可能なウインドゥ環境など後のMacintoshに特徴的な機能はほとんど実現しているうえに,マルチタスクOS,ワープロ,スプレッドシート,データベース,ドローイングなどデータを共有できる6つの標準アプリケーションが添付されていた。しかし機能が高い以上に価格が高くなり営業的にはまったくの失敗に終わった。そこで低価格化を図るためにLisaから必要最小限の機能を残したパーソナル・コンピュータを作成したのだが,それが1984年に発表されたMacintosh 128Kである。この128Kの登場が,コンピュータ・テクノロジーの巨大な城塞を崩す最後の一撃となったのは疑いないところだろう。この金とも力とも無縁のパーソナル・コンピュータが,メインフレーム・コンピュータの権力構造を揺るがし始めるのは時間の問題だった。
ここでもう一度,人はなぜ計算をするのか?という
聞いをMacintoshの前で発してみよう。いったい
どのような答えが返ってくるだろうか。一つ言えることは,<金>でも<力>でもない何か,これまで人類が手にしたことのない何かをわれわれは得ようとしているということだ。もっともそれがどのようなものであるかは,まだもうまく言うことはできていない。
ー雑誌StudioVoice,1991年,特集☆マッキントッシュの伝説

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