[書籍] 中沢新一『雪片曲線論』〜密教思想とゲーム『ゼビウス』の世界観
中沢新一『雪片曲線論』〜密教思想とゲーム『ゼビウス』の世界観
中沢新一/雪片曲線論(1985)
■流体土木技術者としての空海
空海にはたくさんの顔がある。密教の思想家としての空海がいたかと思うと,能書家にして名文家のアーティストとしての空海がいる。昔ながらの山岳宗教者として深山に踏み込んでいく空海には,権力の操作にたけた政治家としての空海も同居している。けれどそんなふうに実に多様な空海のなかでも,とりわけ私の興味をそそるのは,流体土木の技術者としての空海なのである。
実際,よく知られている弘法伝説のひとつは,空海を土木技術者として描いている。それによれば,空海は四国の讃岐平野に万濃池と呼ばれることになる大きな溜池を掘り抜き,またそこに水を流し込むためのがんじょうな水路を造って灌漑用水を確保しようとする大工事の技術指導を行なったということになっている。この話はさらに拡がって,瀬戸内海ぞいの四国の平野に散在するおびただしい溜池にいたるまで,実は空海が掘り残していったものという弘法伝説を産んだ。この伝説がどのような歴史的事実をもとにして語りだされたものなのか,正確なところはよくわからない。ただよく言われてきたように,この伝説が空海の並ならぬ政治的手腕だとか空也いらいの仏教家の実践活動を引継いだこととかの証しとして,語り伝えられただけのものでないらしいことは確かだ。平野におびただしい溜池を掘り抜いていく空海。この伝説的イメージには,意外と彼の生の本質にかかわるようななにか大きなものがひそんでいるのかも知れない。この伝説は空海を,密教の思想家であり能書家,名文家の政治家であるとともに,流体をあつかう土木技術者として印象づけようとしている。だが密教思想家でありアーティストでありポリティションであることが,平野をうがって水路を造り,その水路の集まるところに充分な強さを備えた大きな池を掘り抜いて水門を開き一気にそこに水を流し込んでいく土木工事と,いったいどんなつながりがあると言うのだろう?
私の考えでは,空海が流体をあつかう土木技術者であったということはイメージとしても,また現実においても,彼のすべての活動を貫く太い縦糸となっている。溜池を掘り抜いたり,運河を開鑿する土木工事は,ソリッド・システムと流体モデルを結合する高度な科学と技術を必要としている。つまり,それは一方では壮麗な寺院や宮殿やピラミッドなど,作るための構造,秩序,幾何学的配分をあつかう建築的思考を不可欠のものとしている。しかしそれだけでは,土木工事は危ういしろものしか作りあげることができない。......
■密教の流体的思想
だから,讃岐平野にたくさんの溜池を掘り残していったという弘法伝説がしめす流体土木の技術者としての空海の姿は,彼の全活動のなかの風変りなエピソードなどではないのだ。空海は活動のあらゆる領域で流体土木の技術知を実践しようとした。そしてそのもっとも壮麗で,もっとも手の込んだ表現がはかならぬ真言密教であった,というふうに私には思えてならない。それは密教が,意識の力をめぐる流体学的な技術知であるからだ。密教は自然状態にある意識の能産性の現場に記号や象徴による媒介の手を借りずに素手のまま直接おりたっていこうとするプラティックな思想である。それを行なうために,密教は流体的な思考,流体学的な技術をフルに活用したのである。もちろん密教も仏教思想のひとつのかたちには違いないから,言葉やさまざまな記号が織りあげる言語的リアリティというものに対する鋭い問題意識を,ほかの大乗仏教のスタイルとも共有している。仏教はこの世界を,たえまのない変様の場として捉えている。この変様の場は,意識と身体をともどもに巻込みながら無限の拡がりを持つ連鎖をかたち作っている。そのため,この世界にあるいかなるかのもことも,それ自体の同一性を保ったまま存在しているものなど,ひとつとしてないのだ。どんなものもことも,無限の連鎖のなかでたえまなく変様をつづけている場(フィールド)に生起する出来事として,それ自体の実体性を持っていない。だから,ありのままの世界とは無限変様の場としてもともと「空」なのである。ところが人間は言葉を習得する過程で,無意識のなかに蓄えられている言語シンタックスにむかおうとする潜勢力がしだいに強くわきあがり,強固なかたちを与えられるようになる。言語シンタックスが,すでに無意識のなかに潜在している二元論化にむかう傾向を媒介して,それを大きく成長させるわけである。こうして無限変様の場は言語的意識によって構造化がほどこされる。私たちの身体も含めて無限変様の場はすぐそこにあるのに,あたりまえにしているだけでうはや捉えられないものになってしまう。そこで仏教思想はそのとをはっきりさせるために,さまざまなテクニックを開発してきたのである。.....
いっさいのニヒリズム([S+V] のシンタックス構造は世界が「空」であることに対する恐れをはらんでいる)から逃れた無限変様の場に,徹頭徹尾肯定的な態度で踏み込んでいけるような直観の鍵を手渡そうとしたわけである。ところが,こういう仏教哲学の生き方に対して密教ははるかに自然主義的で,流体学的で,さらに言えば非インド - ヨーロッパ語的な発想にたっている。
密教は仏教思想の自然主義化の企てである。それは無意識にはじまり言語的意識にまでいたる心的現象の全領域が(仏教は精神分析学に先駆けて「無意識はすでに言語のように構造化されている」ことを明らかにしている),主体の形成と外の世界の構成へむかおうとする二元一論化への力の萌芽にみたされていることを批判的に取り出したり,あるいはどんなにたくみな論理の形式をあみ出してみても,無限変様の場たるありのままの「空」の世界を説明することはおろか,そこに触れることすらできないことをパラドキシカルに証明してみせるだけでは満足できないのである。密教の企てはもっとブラグマティックなのだ。密教は,考え込めば考え込むほどに恐ろしい混沌のように思えてくる自然状態に放置されたままの意識の場に直接おりたっていくための技術知のようなものを探ろうとしている。(言語のように構法化されたアーラヤ識としての)無意識を,さらに突抜けたところに現われるこの自然状態の意識は,自らのなかに楽性をなぎらせている。密教はその能産的自然のなかにはいり込んでいく,ぶれぶ仏思想の自然主義化の中に入っていく。....
ふつうマンダラは「密教の真理」をしめし,この宇宙の微細構成をしめすためのソリッドな構造モデルだと考えられることが多い。実際にイコンとして表現されているマンダラを見てみると,中心とそれを取りまく四つの方位からなる基本構造の展開と組合わせからできていて,その構造感覚が宇宙を全体化して捉えるホーリズムの象徴となっているように思えてくるのである。ところが実際にインドやチベットに残されている密教文献やヒンドゥ教,ジャイナ教との図像表現をこまかく調べてみると,マンダラは,実は複雑な螺旋状の渦きを基本的なモデルとしていることをうかがわせるような記述がたくさん見つかる。つまりそれは実際にイコン化されているものの「下絵」として,渦を巻きながら構造を自己生成しつつある状態にある流体の運動を隠している,と思えるのだ。確かにもしも密教を仏教思想の自然主義化であり,意識をめぐる流体学的な技術知であると考えてみた場合,はたして私たちのよく知っているマンダラ・イコンが,そのような「密教の真理」によく対応するのであるかどうか,もう一度よく考えなおしてみる必要がある。
実際,マンダラの図像表現の背後に意識をめぐる流体的思考がひかえていて,しかもそれが「意識の自然状態」と呼ばれるものを表現しようとしているとしたら,いまだかつて一度も完全なかたちに描かれたことはないが,図像表現されたマンダラというマンダラすべてが潜在的な夢としていだいてきたそのような理想のマンダラは,一見きわめてパラドキシカルに見えるいくつもの特徴を備えていなければならないはずだ。まずそのようなマンダラは無数の渦巻きでできている,と考えられる。意識をめぐる流体的な思考は純粋な力の場である意識というものを,たえまのない運動性をはらんだ能産的な場として捉えている。つまりスケールを変化させてどんな微細な部分にまで分け入ろうと,意識と呼ばれるこの力の場から連動性が消え去ることはない。言い換えれば,無限小のなかにさえズレがはらまれていて,どんなに微小な部分もけっしてのっぺりとなめらかな面に変わってしまうことがないのだ。したがってそういう流体的思考にそったマンダラを描くとしたら一種の渦モデルが浮かびあがってくるだろう。この渦モデルとしてのマンダラはさまざまなスケールを持つ無数の渦巻きでできている。ひとつの渦巻きは,たとえどんなに小さなものであっても,それに,それよりも小さな渦巻きの群からなり,その小さな渦巻きもまたより小さな渦を自分の内部にはらみ,この過程は無限に続いていくのである。どんな微小なスケールにまで分け入っても,けっしてのっペリした場質空間にたどりつくことがなく,いつもそれより小さな渦,小さな働き,小さなズレをはらんでいて,また逆にどんなマクロなスケールに変わっていっても閉じた全体性にたどりつくことがない。密教思想を忠実にグラフィック化するそのようなマンダラが存在するとしたら,それは宇宙にくっきりとした単純なかたちをもたらすソリッド・モデルであるどころか,スケールの異なる無数の渦巻きでできたとてつもなく怪物的な一種の渦モデル,流体モデルであるということがわかるのである。したがって真言密教などが潜在的にいだいているマンダラの思想を図像表現するには,これまで行なわれてきたような円や直線を組合わせて描くユークリッド幾何学的な画法ではまったく不充分なのである。ひとつの空間を埋め尽くすような無数のスケールの渦巻きからなる怪物曲線を生成できる非ュークリッド的なグラフィック技法が必要となる。カントールやペアノにはじまりマンデルブロートによって見事なかたちに磨きあげられた現代のフラクタル幾何学こそ,そのような表現を可能にするものだ。
だが,実際には,こういう流体モデルにしたがって描かれたマンダラはほとんどない。密教の意識論のベースには流体的思考がいたるところで貫かれているのに,その思想の図像表現であるマンダラでは怪物的な渦モデルは「下絵」としてぬり込められ見えなくなってしまっている。その代りマンダラはひとつの空間を五つの部分に分割するユークリッド的な図形を基本構造にするようにできている。そしてこの安定した構造感覚によってマンダラは森羅万象の出来事を全体化して捉えるためのホーリスティックな象徴メディアであると語られることになるのだ。しかしマンダラは森羅万象を生成する「原因」をグラフィック化するものではあっても森羅万象の「目的」をしめすものではない。物質空間とその差異化をめざしているようにさえ見える構造的マンダラの図にはけっして満足することはできないはずなのである。描かれたマンダラは,つねにマンダラの思想を裏切っているようにすら思えるのだ。
もっともこの点については,すでに密教の理論家たちも気づいていた。このことは主にチベットの密教文献にはっきり現われている。彼らは中心と四つの方位によって空間を五分割するユークリッド的図形によって描かれているマンダラが,実際にはどんな細部にまで降りたってみてもなおかつ差異化の過程をはらむ無限図形でもあることをしめして,マンダラをふたたびバラドキシカルなモンスター空間に作り変えようとしたのである。たとえば14世紀のチベットで書かれたマンダラの理論書はこう語っている。
―マンダラの内部は「意識の自然」に内蔵された五つの原初的な智慧をもとに五つに分割され,それぞれが違う色彩のモードを持っている。だが実際にはその分割で静止してしまうわけではなく,どの部分も五つに分割され,この分割過程はどこまでもくりかえされていく。だからマンダラの内部はふつうの意識が数えあげられるような構造を持つのではなく,無限小の差異で埋め尽くされていることになる。―
(ロンチェン・ラプシャン 『万天の暗雲を晴らすと呼ばれる書』)
に声かれたひとりひとりの神は,おのおのがひとつのアイデンテティを持つものではなく,スケールの異なる無限数の神々からなりたっているということだ。ここに語られているような思想を図像表現するのは確かに難しい。それにいちばん近いと思われるのは,ホイルの星雲 モデルとも言われるフェーブ雪片(phoebe snow)のフラクタル的な図形だ。ここでも密教のマンダラ理論のとおりにそれを描こうとすれば,マンダラは奇妙に希薄な半 - 空間に変質していってしまうのである。これからもわかるように,マンダラは流体モデルにそって描こうと,星片モデルに近づけたグラフィック化を行なおうと,密教の意識論に忠実であろうとすればするほどユークリッド的な中間性や希薄さをはらんだ怪物的な図形に近づいていく。.........
■ ピンボールゲーム
アメリカの人工遊戯マシン・メーカーのひとつであるウィリアムズ&カンパニーが『シャングリラー』づけられたピンボール・マシンを発表したのは1967年のことである。1967年いえばビンボール・マシンの歴史のなかでは,もうかなりの爛熟期にさしかかっている。1930年代の半ばころにはじめて作られたピンボール・マシンは,アメリカ経済の成長と歩調を合わせるように進化をとげ,すでにこの時期にはビンゴやスロットルマシントと並んで,エレクトリック・メカニズム(エレメカ)による遊戯マ シンを代表するもののひとつにまで成長していたのである。
ピンボール・マシン 『シャングリラ』には,メカニックな面から見るかぎり,とりたてて変わった創意はこらされていない。むしろそれは平凡な部類のマシンに属する。傾斜角をつけた盤面上に打ち出されたボールがころがりながら落下してくるのを待ちかまえて左右のフリッパーで打ちかえし,前方にあるターゲットにたたきっけることによって(このターゲットは電気的な磁気力によってボールをはじき返してくる)得点を競うというのがピンボール・マシンのシンプルな基本構造であるとしたら,各メーカーの創意は,この基本構造の一部分を変形させたり,あるいはさまざまな光の装飾をほどこすことによって,このマシンを複雑な刺激にみちたものに仕立てあげることに注がれた。その点では「シャングリラ」は1960年代後半に作られたものとしては,比較的シンプルな機構しか備えていない。『シャングリラ』は前面のスコアボードを複雑に彩るイリネーションの点滅に飾られているわけでもなく,フリッパーが三つもっいているわけではない。しかしごくありきたりのメカしか装備していないこのビンボール・マシンが奇妙に目を引いたとしたら,それはスコアボードに描かれた実に風変りな絵に原因がある。
『シャングリラ』のスコアボードの右端に描かれているのは,蓮の花が咲き乱れ水鳥が戯れる池だ。そのほとりには細くつりあがった目をした東洋風の美女が三人,中国服をまとってたたずんでいる。この池の水源をたどっていくと,中国風の仏教寺院が現われる。して見るとこのあたりには文化的統一感のようなものがあるようにも感じるが,背後に描かれた,熱帯植物に囲まれた日本の神社の鳥のいかがわしさが目立つ。
このちぐはぐな感覚は,スコアボードの左端に目をむけると,もっと強くなる。そこには数層立ての寺院らしきものが描かれ,その各層にはチベットのラマ僧が儀式のときにまとうさまざまな衣裳をつけた男女が,遠方を見つめながらたたずんでいる。その視線を追っていくと画面中央あたりに大きな雪山が描かれているのに気づく。この山は,どうやら,チベットとインドの境にある信仰の山カイラッシュ山を描いたものだろう。そのことは,このピンボール・マシンの全体が「シャングリラ」と名づけられていることから,だいたい察しがつく。それは,シャングリラという言葉がチベット語の「シャンバラ」の派生したものであることに,深いつながりがある。「シャンバラ」は,チベット人の伝える伝説の桃源郷のことを
さしている。「シャンバラ」は,カイラッシュ山を目印にして,だいたい北西の方角にあたるチベット高原のどこかにあると考えられる地上のパラダイスだ。この「シャンバラ」が,シャングリラとして広く知られるようになったのは,1933年に発表されたジェームズ・ヒルトンの小説『ロスト・ホリズン』がベストセラーになり,ミュージカルや映画にまで仕立て
あげられることに原因があるが,それ以来,シャングリラはヨーロッパとアメリカの大衆にとって,魅惑的な東洋趣味と結合されたパラダイス願望の代名詞のひとつとなったのである。
ウィリアムズ&カンパニーが,ピンボール・マシンの爛熟期に作り出した『シャングリラ』には東洋的エキゾチズムのでたらめな結合による不思議なチャンポンの感覚と,それら背後で統一しているパラダイス性がみなぎっている。アメリカの人類学者ミッチェル・オピッツによると,この『シャングリラ』のスコアボードに描かれているもののなかには,ピ
ンボール・マシンというゲーム機と,その隆盛を背後で支えていた当時の資本主義の本性とが,ものの見事に表現されているのだ,と言うのである。
ピンボールの楽しみというのが,マシンとの闘いをとおした一種の競争を楽しむところにあるらしい,というのはすぐにわかる。プレイヤーは機械が一見ランダムな方向に打ち出してくるボールを左右のフリッパーで操作しながらコントロールする。そしてそのコントロールの技術がただちに,十進法で前面のスコアボードに表示されるように工夫されている。人類学者オピッツの考えでは,こういうピンボールマシンの楽しみには,高度成長期の資本主義の夢がたくみに反映されているのである。彼は『フリッパーのなかのシャングリラ」という論文のなかで,そのことについてこう書いている。
ーピンボールは,実に巧妙なやり方で競争原理に別のかたちを与えようとしているのである。ピンボール・ゲームに与えられたキャッチフレーズ「競争の歓びが,快楽と心のときほぐしを与えます」 には,それが集団的ゲームの奇妙な変形物であることの意味がよく示されている。ピンボールは社会性を作り出し,社会性を煮込むための器なのだ。プレイヤーは自分ひとりの楽しみのために,ひとりぼっちでハイスコアに挑戦しているように見える。だがそのとき,ピンボールのプレイヤーは同時に社会性の網のなかでプレイしているのだ。楽しい気ばらしとして,ピンボールはまたセラピー効果を持ったマシンでもある。
競争原理は,実際の仕事の現場では,労働者の体をすりへらせるものだ。ところがここでは,同じ競争原理がパラダイスの輝きをおびてさえいる。ピンボールはそのセラピー効果をとおして,社会がわれわれにたえず呼びかけている「サクセス,サクセス」という目標を,プレイヤーの心のなかにすんなりとしのび込ませ,ゆとりある心で,ふたたび現実の生の競争のなかに立ちもどっていくことを可能にする。ピンボールはだから,遊戯の快楽に基づいた一種の教育装置だと見ることもできる。そして,まさにこの点において,われわれの社会の競争原理に貫かれたピンボールのシャングリラと,競争そのものを無化しようとするチベットのシャンバラ伝説におけるシャングリラとは,鋭い対立をしめすのだ。しかしどちらのシャングリラも,ある種の中庸を求めていることは確かだ。ピンボールのパラダイスでは,ボーナスとして与えられるのはただハイスコアだけだ。だからここでも,勝利をめざす無償の遊戯たれという中庸の格言が生きているー
ここでオピッツは,現代のゲーム・マシン産業の本質を考える上で,とても重要な指摘を行なっているように思える。それはシャングリラに代表されるパラダイスの観念の近代的変質と,深いかかわりを持っている。チベットのシャンバラ伝説などにしめされているパラダイスは,「いま」と「ここ」における現実生活のいっさいがそこから生まれ出てくる生成の場所であるが,同時にそこはけっして到達できない「ネバーランド」として考えられている。パラダイスにたとえどのような表現が与えられようと,実はそれはもともと実体化もできず,観察不可能なものなのだ。だが,その観察不可能,実体化不可能なパラダイスの観念を持つことなしには,この世界にお
ける生を考えることはできない,とシャンバラ伝説は教えている。
ところが,資本主義はそのシャングリラが「いま」「ここ」において実体化され得るのだ,という幻想をいだかせることにおいて,パラダイスの観念を変質させるのだ。「ネバーランド」が,実体を持ってこちらの現実世界にくり込まれてくる,と考えるわけだ。......
■『スペース・ウォー』
ピンボール・マシン「シャングリラ」は,エレメカによるゲーム・マシンが全盛の時代の大衆的精神を凝縮して映し出している。ここでは競争の原理に基づく資本主義が,まださほどのかげりを見せていない。スコアボードに描かれた奇妙な東洋的エキゾチズムのチャンポンが,そのことをよくしめしている。あくなき拡大をめざす競争の原理をとおして,東洋は中断され細分化されて,アメリカ的文化のアマルガムのなかにほうり込まれる。そしてそ
のアマルガムのるつぼこそ,資本主義のシャングリラ幻想の母体なのだ。
だが「シャングリラ」があからさまな形でしめしているものは,多かれ少なかれ,エレメカ時代のゲーム・マシンすべてに共通した性格である。メカニックな運動性, 確率論的なものの見方,ハイスコアとして数値変換されるプレイヤーの能力。エレメカのゲーム・マシンには,資本主義の内部で進行しつつあった大きな変化は,まだ見えてきていなかった。
しかし,変化の徴しはゲーム産業の内部でもすでに進行していたのだ。ピンボール・マシシ「シャングリラ」の発売に数年先立つ1962年,マサチューセッツ工科大学(MIT)のコンピュータ・グラフィックス専攻の学生スティーブ・ラッセルは,大学の研究室で,ブラウン管をプレイフィールドとする世界最初のビデオゲーム『スペースウォー』の制作に取りかかっていた。ラッセルの試作品こそ,その後の遊戯マシン産業全体に大きなインパクトを与えるものとなったのである。彼はMITの持つミニコンPDP-1をブラウン管(CRT表示装置)に接続し,1962年1月にはまず画面上でスキップするドットを作りあげるのに成功した。このドットがしだいに宇宙船の形をなし,星ができ,ついにはふたつの宇宙船がコントロールによって星のまわりを旋回し出すようになるまでには,わずか一ヵ月しか要さなかった。一応完成した『スペースウォー』には,のちのインベーダー・ゲームの特徴的な装備である爆弾ボタンのみならず,画面全体にカタストロフィをもたらすパニックボタンまでついていた。スティーブ・ラッセルの作りあげた『スペースウォー』は,すでに充分高度なレヴェルに達したビデオゲームだったのだ。
■『ポン』
けれど,ビデオゲームが遊戯産業の手をつうじて広く一般の人々の前に登場してくるまでには,さらに10年近くを要した。これは主にコンピュータ・グラフィックスの技術的な問題よりも,エコノミーの問題にかかわっている。かさばるばかりか,きわめて高価な材料を使う当時のトランジスタ論理回路によるビデオゲームは,たとえ売り出したところで,とう
てい採算の取れる見込みがなかったからだ。充分に採算の取れる範囲内で,コンピュータとCRTを組合わせ,新奇さとなじみ易さの間でバランスを取りながら,人気の出るビデオゲームを作ること。この模索と試行錯誤は,1972年,ノーラン・ブッシュネルの設立した「アタリ社」が,伝説的なビデオゲーム「ポン」を発表し,大きな成功をおさめるまで,一〇年間近くもつづけられたのである。
「ポン」のコンセプトは,ビデオゲームの技術的な面から見れば,『スペースウォー』などと比較して見ても,ずっとシンプルなものだ。それは「パドルとボール」形式と呼ばれるもので,ダイアルの操作によって上下するふたつのパドルとその間を打たれて飛ぶボールからなるもので,具体的にはピンポンのラケットとボールの動きを抽象化してシミュレートしたものである。現在ならば,家庭用のパソコンを使って中学生がわけなくプログラムできてしまうこのビデオゲーム『ポン』は,おそらくはその抽象性とシンプルさのために人気商品となり,10万台近くを売り尽くす (コピー機の数を入れれば,その数倍になるだろう)大ヒットとなった。これ以後,「アタリ社」と「ポン』の存在は,遊戯マシン産業全体のなかでも,とても大きな意義を持つことになったのである。
それまで,ピンボール,ビンゴ,スロットルなどのようなエレメカによるゲーム・マシン中心だった遊戯場に変化が現われ始めるのは,1973年ころからだ。大手遊戯マシン・メーカーの多くがビデオゲームを手がけるようになった。ビデオゲーム専門の新しい後発の会社がいくつも誕生した。 遊戯場には,それまでのガチャガチャ・チンチンとうなり声をあげるマシン音に代って,コンピュータの発生させるユーモラスで軽快なテクノの音がしだいに聴かれるようになってきた。『ポン』の成功がきっかけになって,遊戯産業に組込まれたビデオゲームは,このころから複雑化と進化をめざす道にむかって,一気につき進み始めたのだ…
■ ビデオゲーム黎明期
ブロックゲームにおけるブロック群には,単純なだけに誰にでも納得できる神話的意味が与えられ,ディスプレイ上のプレイフィールドは,侵入者をむかえ撃つあくなき戦いのためのバトルフィールドに作りかえられたのである。このゲーム・マシンが日本のメーカー「タイトー」によってはじめて作られ,アメリカに大きな市場を獲得したことはよく知られている。ピンボール・ゲームのように偶然性やチャンスのような確率論的なものをコントロールする技術がただやたらに双値変換され,スコアボードに表示される「資本主義的ゲーム」に対して『インベーダー・ゲーム』は侵入者の破壊をただちに数値変換してディスプレイに表示する,どちらかと言えば「前 - 資本主義的コスモロジー」を背景にしているゲームだと言えるかも知れない。そのゲームが海外市場を「インベード」しようとする,日本のゲーム・マシン産業によって産み出されたということはとても興味深い事実だ。新しい運動性の導入が古い神話的想像力の注入と並行して行なわれたという点において『インベーダー・ゲーム』にはその後の「テクノ文化」の性格とも,どこか共通するものが感じられるからだ。
しかし『インベーダー・ゲーム』にはもうひとつの重要な側面があることも,忘れてはならない。それは,このゲームを境にして,ビデオゲームの世界に本格的にマイクロプロセッサ(CPU)が使われ出したという事態にかかわりがある。それ以前のビデオゲームの大半はTTL(トラン ジスタ・トランジスタ・ロジック)回路で構成され,しかもディスプレイも白黒モニターがふつうだった。『インベーダー・ゲーム」はこのCPUを本格的に使用することによって,アクセスタイムのスピードアップを図った。ディスプレイにはなめらかに動くキャラクター群が美しいデジタル・カラーで映し出された。レバーの操作もそれまでの二方向のみだったものから四方向,八方向の操作へとしだいに自由度を増してきた。......
■『ゼビウス』
わずか一,二年であっけなくブームが去ってのちも『インベーダー・ゲーム」が切り開いたものは,そこからさらにもっと可能性にみちたビデオゲームの世界が開かれてくるのではないかという予感をいだかせるほと豊かなものだった。
そこに『ゼビウス」が登場したのだ。実際1983年1月に「ナムコ」が発表した戦闘ビデオゲーム『ゼビウス」くらい,このような期待に十二分に応えてくれるものはなかったのである。
『ゼビウス』は背景がつぎつぎに変化し展開していくスクロール・ゲームのタイプに属する。ごく大雑把に言えば,それは空中戦をシミュレートした『インベーダー・ゲーム』『ギャラクシアン』『ギャラガ』のような戦闘ゲームと,背景がつぎつぎに流れていく『ラリーX』『ポールポジション』のようなドライブ・シミュレーション・ゲームとを結合したものだ。この結合のおかげで『ゼビウス』の戦闘は,つぎつぎと空中を飛来するゼビウス軍の飛行体をびかえうつ空中戦と,地上の森や基地に配属されたエネルギー格納庫のような地上目標の破壊とが組合わさったかつてないはどに複雑なスクランブル・タイブのゲームに仕上った。それだけではない。『ゼビウス』は「インベーダー・ゲーム』がビデオゲームに導入した連動性や想像力の喚起性というものを,さらに高度な水準にまで引きあげるのに成功している。アニメーション 映画のしめす,しなやかな視覚的運動に慣れ親しんで育ってきた世代にとっても「ゼビウス」のキャラクターがしめす絶妙の運動性は,はっとするほど新鮮だった。神話的構想力の現代版とも言える宇宙サガや形而上学的SFを読みつづけている若者にとっても『ゼビウス』は充分な想像力の奥行きを備えた「対話者」となることができた。『ポン』に始まったビデオゲームの進化の歴史をつうじて,その遺伝子の「ジェノ・タイプ」のなかに眠りつづけてきた潜在的な可能性の多くが『ゼビウス」として目覚めてきたとすら思えるほどだ。このため商品回転の期間が数ヶ月にしかみたないビデオゲームの世界で『ゼビウス」は異常なほどの人気を維持しつづけることができたのだ。
けれど,そうは言うものの『ゼビウス』の魅力をわかりやすく説明する段になると,それがとても手ごわい仕事になりそうだということにすぐ気づく。そこでまずは一般的なプレイヤーが『ゼビウス』を操作し解読しながら楽しんでいるごく普通の水準に焦点を合わせて,この重層的ななりたちを持つゲームを解きほぐしていくための糸口を見てみることにしよう。『インベーダー・ゲーム」と『ゼビウス」を分けるもっとも大きな違いは,物語的な展開の有無にある。『インベーダー・ゲーム』には,たとえ高得点を重ねたとしても,長時間のプレイには堪え得ない単調さがある。それはこのゲームが,地球/外宇宙の侵略者,内/外にしめされるような神話的二元論を提示するだけで,物語の展開が紡ぎ出されるようなきっけを失っているからだ。ところが「ゼビウス』のプレイヤーは何時間でもこのマシン と「対話」しつづけることができる。「対話」がどんどん展開し拡がっていくからである。『ゼビウス」のスクロール展開の背後に,何かとても大きな物語性がひそんでいるという感覚にプレイヤーは突き動かされてしまうのだ。
『ゼビウス」における物語性の喚起には大きく分けてふたつのやり方で行なわれているように思う。ひとつには「引用」による喚起だ。 ゼビウス軍基地の第三エリアを通過するとき,中にはバキュラと呼ばれる板が多数回転しながら飛来しプレイヤーが操るソル・バルウをおびやかす。このバキュラが,クラーク・キューブリックによるSF映画『二〇〇一年宇の旅』に登場する超意識物体モノリスを「引用」していることは,ちょっとSFの知識のる人にはすぐ分かる。さらにゼビウス軍基地第七エリアにさしかかると,そこには美しい広大な「ナスカの地上絵」が現われ,プレイヤーの内部にただちに「宇宙からのメッセージ」をめぐるSF神秘学の蘊蓄を喚起するのだ。『ゼビウス」のスクロール展開には,ゲーム製作者(『ゼビウス」の企画を担当したのは遠藤さんという20代前半の若者だ)とプレイヤーとが共通する映画,アニメ,SFなどからのふんだんな「引用」が行なわれている。そのために「引用キャラクター」が登場したとたん,その場面は別の大きな物語に接続し奥行きのある意味作用震得するようになるのである。
しかしこのビデオゲー厶にひそむ物語の喚起力のもっと大きな源泉は別のところにある。すなわちこのビデオゲームの製作者ははじめから「ゼビウス」の戦闘の全体をその一エピソードとして包み込むような大きな長編SF物語を構想し,それを背景にしながらエリア・マップの作製やプログラムを行なうことによってゲーム展開の流れに想像力のうねりのようなものが与えられるように注意深い配慮を行なっていた。
―その「XEVIOUS」という小説の中には,架空の XEVIOUS語や数字記号などが盛り込まれている。「XEVIOUS」は製作までアニメ映画を思わせるではないか。いわば完全にひとつの世界が構築されてしまったのだ。……この小説はゲームシナリオというよりゲームのプレイ・ストーリーに近い。しかしそれが開発チームの中で回し読みされた事によって,敵のひとつひとつのキャラクターの性格づけがはっきりできたのである。それによってゲームのストーリー性が高められたわけだ。(「THE MAKING OF XEVIOUS」より)―
そのため不思議なことに,たとえこの小説の存在(この小説のダイジェストは「ゼビウスー 1万点への解法」のなかで読むことができる)すら知らないプレイヤーでも,スクロールしていく画面展開のなかにぐいぐいと引込まれ,もっと先,もっと奥の光景を知りたいという気持をかきたてる物語特有の欲望を呼びさまされるのである。『ゼビウス』というビデオゲームの背景にある大きな物語性のようなものを,もっとも見事に象徴しているのが敵の巨大要塞アンドア・ジェネシスだろう。アンドア・ジェネシスは第4エリア,第9エリア,第14エリアのそれぞれに低い地鳴りとともに突如として出現する巨大な母船だ。アンドア・ジェネシスの機能を停止させるには,その核を地上目標攻撃用のプラスターで破壊すればよい。しかしそれと同時に「ゼビウス軍の本体がエネルギー化したもの」と言われるプラグザの黒いエネルギー体が脱出し,別のアンドア・ジェネシスヘ乗り移っていくのである。プレイヤーが『ゼビウス』の背後に感知する物語性とは,実はこの切断不可能,破壊不可能なものとしてゲーム全体を貫流し支配しているエネルギー体のごときものにほかならないのだ。つまりプレイヤーがこのゲームに感知しているのは,具体的なかたちに実現された小説のなかの物語性なのではなく,いわば物語の生成をうながす力の流れの場の存在なのだ。物語の生成をうながす力の場に触れ得ていることによって『ゼビウス』はそれを体験した人々に神話生成力を刺激されたような不思議な感銘をもたらすのである。
ところでビデオゲーム『ゼビウス』を特徴づけているもうひとつのものは,敵ゼビウス軍のしめす絶妙な運物性に見出すことができるだろう。このゲームはその製作プロセスの最初からTVアニメーションの動きを意識し,そのなめらかさ,しなやかさ,すばやさ,ユーモアなどをコンピュータ・グラフィックスで表現しようと試み,かなりな程度までの成功をおさめているように思えるのだ。リプレイボタンを持しゲームが開始された直後,森を抜けたソル・バルウの前に現われるのがゼビウス軍の無人偵察機トーロイドである。はじめて『ゼビウス』を操作した人の多くがまっさきに驚かされるのが,このトーロイドのしめすなめらかな飛跡なのだ。トーロイドは直進してきたかと思うと,こちらの攻撃を見越したかのように不意に旋回して横腹を見せながらブラウン管の外に逃げ去っていくのである。そうかと思うと対人用戦闘機タルケンは,攻撃しかけてきたとたんにコックピットがくるっと反転してそのまま逃げ去っていく。「ゼビウス語」で死をあらわすゾシーは,タコのような足をつけて回転しながらせまってくる。ゾシーは実に複雑な回転運動をしめすから,はじめのうちはちょっとその飛跡を予測できかねるほどなのだ。もちろん『ゼビウス』のキャラクターがしめす運動が『ギャラガ』や『ポスコニアン」以来のプログラム・テクニックの蓄積の上に実現されたものであることは間違いない。けれど,このビデオゲームくらいその運動性の絶妙さやエレガンスに磨きをかけたものもないように思える。これにはひとつのキャラクターの動きを表現するためのパターン書き換えの数を増やした,ということが関係している。そのよい例がカブトガニ型有人機テラージの旋回パターンだ。ここでは一キャラクターの運動表現に七パターンもの書き換えが使われでいる。『ゼビウス」は全編,意表をつく出現と運動,分裂的なさく裂,変化するスピード,ユーモラスな身振りとでみちあふれている。そしてこのカタストロフ的で分裂的な意表をつく運動性が連続的に流れていくかのように見える物語生成力の上にかぶせられていくのだ。そのために,物語生成力,神話生成力のゆったりとつきあげてくる力は,それだけで孤立てしまうことがなく,また分裂的運動の方も味けないノイズに終わってしまうことがない。神話的想像力の動きとカタストロフ的な分裂運動の結合。この結合が『ゼビウス』に,今までになかったような現代性を付与することになったのだ。
しかしそれだけのことならば『ゼビウス』はたんによくできた遊戯マシンのひとつということにすぎないのではないだろうか。美しいコンピュータ・グラフィックス表現が駆使され、そのなかをこれまでのビデオゲームになかったようなしなやかさとすばやさで動き回っていくキャラクターの運動表現が可能になり,さらにその全体を奥行きのある神話的想像力が包み込んでいるようなビデオゲームとして『ゼビウス』がかつてない水準に到達ているとしても,たんにプレイヤーが敵ゼビウス軍の飛行物体や地上目標を破壊し高得点を重ねていくことにだけ熱中しているのだとしたら,このビデオゲームの見かけの新しさなどたかだか意匠にすぎないのではないか?と疑ってみることもできる。それに『ゼビウス』が一種のサイコセラピー効果を発揮していると言ったところで,それほど目新しいことではない。遊戯の持つパラダイス状況のなかでプレイヤーの技術を数値変換するスコアの高得点を得る人に,いっときの歓びと安らぎと消耗を味わうという遊び方しかゆるされていないのだとしたら,ようするにこのビデオゲームもこれまで遊戯産業が作り出してきた沢山の機器同様,競争原理に貫かれたセラピー装置にすぎないように思えてくるのである。プレイヤーが高得点をあげることばかりに熱中しているのだとしたら,確かにそのとおりだ。
だが実際には新しい世代のゲームフリークたちは『ゼビウス」という傑作をとおして,これまであまり前例がなかったようなビデオゲームの新しい楽しみ方を発見しつつあるのだ。ひととおり高得点をあげることができるようになった子供たちの「敵」は,もはやゼビウス軍ではなくなる。新しいゲームフリークたちの次なる闘いは,このビデオゲームをなりたたせているコンピュータ・ブログラムそのものとの間にくり拡げられることになる。すなわち「隠れキャラクター」の発見,プログラム中のバグ(虫)やCPU間のデータ転送のブロセスでときたま発生する「怪現象」や「珍現象」の発見などにゲームフリークたちの関心は移ってきたのだ。『ゼビウス』に,もともとたくさんの「隠れキャラクター」が仕込んであるらしいという情報は,子供たちの間で早くから知られていた。事実『ゼビウス」には最初から,地上の特定の地点にブラスターをうち込むと,地中に隠れていたソル(これは地中に隠されたゼビウス軍のコンピュータのメモリータワーだということになっている)や海中のスペシャル・フラッグがにょっきりと出現するような特別のプログラムが組込まれていた。そこでゲームフリークたちの関心は,もっぱらこの「隠れキャラクター」を出現させた瞬間の快感を味わうことにむけられた。だが,しばらくすると『ゼビウス』にはそれ以上の謎がひそんでいるという噂が子供たちの間に出回るようになっていった。とうていプログラムされたものとは思えない不思議な現象を体験した子供たちが何人み現れてきてしまったのだ。神様のような完璧さをほこっていた『ゼビウス」のブログラムに,このような「怪現象」を誘発するバグ(ブログラムによって起こる現象)がいくつも存在するのではないか,あるいはCPUに過剰な負担がかかるような複雑な攻撃を仕掛ければこちらからそのような超常的現象を画面上に引すことができるのではないか。「ゼビウス」フリークたちの関心はプログラム中に散布されたそのようなブラック・ホールの入口の発見に注がれたのである。若い二人のゲームフリーク(うる星あんず,中金直彦)がまとめた戦略情報の書『ゼビウス一千万点への解法』には,そのような「怪現象」がいくつも報告されている。それによると,主に「怪現象」はプログラム中のバグによるものとCPU間のデータ転送の際におこるタイミングのずれによるものとがある。『ゼビウス』は三つのCPUを使用している。
ひとつはサウンド発生用のCPU(「ゼビウス』は新しいBGMとしてもおもしろい音楽を発生する。これについては細野晴臣監修になるアルバム「ビデオ・ゲーム・ミュージック」を聴いていただきたい),ひとつはモンスター・アロケーション・ユニット(MAU)と呼ばれるキャラクターのパターン情報が記憶されたCPU,そしてもうひとつは全体を総括するメインCPUであり,ゲーム中はこれら三つのCPU間にめまぐるしいデータ転送が行われている。そのため,このデータ転送のタイミングがずれるとつぎのような様々な「怪現象」が起こるのである。たとえば
* アンドア・ジェネシスのアルゴを破壊したのち,コアも壊し機能を停止させた。すると背景が黒くなってトンネルに入ったようになった。そしてやがて見たこともない背景が出てきた。これはたぶんマップ・データの読み取り番地が狂ってしまったことよって起こる現象だろうと思われる。
* エリアとエリアのつなぎ目には必ずグリーンの森の背景が現われる。森はスクロールするデータのつぎ目にあたる部分だが,画面上に森が現われるときCPUには大きな負担がかかっている。そのため,いくつもの「森の怪現象」が現われる。
* 第15エリアのワープゾーンで,ソル・バルゥの背後に回ってきたジアラの弾にあたたとたんワープして第七エリアにもどってしまった。これは一方のCPUにエリア70%を超えたという指令が伝わる途中でソル・バルウ自身が死んでしまうと起きるループ現象である。
このようなCPUによるバグのほかにも,プログラム自体に残ったバグが引起こす「怪現象」もいくつかある。そこで「ドモグラムが円陣を作って出てくるとき,ひとつのドモグラムの破壊跡の下を他のドモグラムが通過していく」といった現象が見られるのだ。
プログラム中に発見されるバグのいくつかをそのまま残したこと(メーカーは新製品のテストに半年から一年をかけてテストプレイをくりかえすので,そのようなバグの存在が気づかれということはあり得ない)。ハードウェアにソフトが重圧をくわえることによって予期しない「怪現象」が発生する可能性をそのまま温存したこと。『ゼビウス』はまさにこれらの点において,これまでのゲーム・マシンになかった可能性の領域を開いて見せたのである。巧妙にバグを放置することによって『ゼビウス』はいくつもの謎,いくつものブラック・ホールへの入口を持つことになった。今やゲームフリークたちはたんに高得点を得るという資本主義的快楽のレヴェルを越えて,コンピュータとの,いやもっと言えば宇宙意識そのものとの新しい「対話」の段階にはいっていこうとしている(それも闘いをとて)。子供たちはビデオゲームが与える視覚情報をつうじて,いっさいバグが存在しなかったとしたら,コンピュータ・プログラムは にっちもさっちもいかなくなってしまうというゲーデル問題につながりを持つような認識や,この宇宙にはいたるところ,無限につながるブラック・ホールの入口が散布されているというノマド科学的な認識を身につけ始めようとしている。けれどバグと戯れるそのような快楽が,キメラ的な変容をつづける資本主義のどのような側面に対応していくものなのかは,まだよくわからない。
■ セリーの思考
…南方熊楠はあらゆる方向へ進行増殖してゆく思考力かかえ込んでいた人であった,ということだ。こういう頭脳はほうっておけば,社会のなからであってまったくの分裂症状におち込んでしまいかねない。そこでもうひとつ,それが分裂症に陥ってしまわないために博物学の研究があった,ということである。ここにはたんに,博物学研究に熱中することで分裂ぎみの思考力に統一やアイデンティティがもたらされたとい
うような,学問の持つサイコセラピー効果が語られているようにも見えるが,実際には博物学研究,とりわけ南方が取組んでいた,コケや粘菌がはらんでいる恐るべき分裂的な特性のことが暗示されている。植物の研究は南方の頭脳に集中や統一をもたらすばかりではなく,たえず分裂し増殖していこうと身がまえている彼の思考に,みごとな水路を与えるものでもあったことが,ここから読み取れる。 では博物学研究,とりわけ微細植物の研究の持つ特性とはいったいどのようなものなのだろうか。
植物を採集したり,それを分類して標本を作ったりする博物学的作業の楽しみは,ふつう,植物の世界にきっちりした構造をもたらそうとする分類学的な知の魅力に裏打ちされているように考えられている。けれど,少しでも植物採集に深入りしたことのある人なら誰でも知っているように,森や山の中に出かけた植物採集者は,しばしばとてつもない多様性の渦のなかに踏み込んでしまった自分のなかの分類学的な知が,ほとんど解体寸前の状況にまで追いつめられてしまう,というような体験をすることがある。 植物の世界がよく見えるようになればなるだけ,分類的なシステムの末端から猛烈な分裂が起こり始め,リンネによる樹木代の分類系統図がまるでカビとかコケとか粘菌のような形状に変化していくように思えるのだ。…
■ 真言密教のマンダラとビデオゲーム
しかし,純粋な強度である「大日如来」の生産するもろもろの「不思議」を,ありきたりな論理でおおい尽くすことは,もとより不可能だ。なぜなら強度の空間には,諸現象がいりくんだ多数多様体としてたち現われてくるからである。このような多数多様体をシミュレートするためには,どんなふうな「智慧の働かせ方」をしたらよいのだろうか。そこで南方は,複数のセリーが多方向から貫いていく宇宙卵のようなモデルを提出する(図参照)。
ーさて妙なことは,この世間宇宙は,天は理なりといえるごとく(理はすじみち),図のごとく(図は平面にしか届きえず。実は長,幅の外に,厚さもある立体のものと見よ),前後左右上下,いずれの方より事理が透徹して,この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりても,それを敷衍追究するときは,いかなることをも見出し,いかなることもなしうるようになっておる。このモデルをとおして,南方はセリーの束であるこの宇宙の多様性をシミュレートするための「内在性のマトリックス」のようなものを構想していると思える。(土宜法竜宛書簡)
このモデルには多数の方向から複数のセリーが流れ込み,それらがたがいに交流を行ないながら,複雑なマトリックスを形成している。このモデル自体が,「大日如来」の無限の生産をシミュレートするものでありながら,実はここには全体を統一している超越者のようなものはいないのである。
「大日如来」は多数多様体としての宇宙を生産する強度として,そこを貫いて生成変化をとげていくセリーのひとつひとつに「表出」されている力だが,けっしてこの多様体を超越した位置にたって,全体を「理解」しようなどとは思ってもみない。「大日如来」は象徴秩序でもなければ,全体に統一をもたらす「父親」でもない。南方の描いた宇宙卵では,完全な内在性の「理法」をしめすマトリックスとして,無数のセリーの東からなる多様体としての宇宙をシミュレートするための方法が模索されている,というわけだ。
この宇宙卵のようなモデルが,真言密教のマンダラを想起させることは容易に想像がつく。けれど,画像としてできあがっている両界マンダラのようなものだけをマンダラとして捉えるならば,この予想は少しばかりかたくなだ。南方がここで図像化しているものは,真言密教の両界マンダラをはじめとするいっさいのマンダラ図像をさえ生産してくる多様性のマト
リックスとして,言わば「原マンダラ」のような運動体にほかならないのだ。
密教におけるマンダラは,東洋におけるセリー思考,強度の思考が作り出した数ある内在性のマトリックスのうちのひとつにすぎない。密教,とくに空海の真言密教では,宇宙にたえまなく生起する諸事象を,「大日如来」と名づけられた純粋な強度の場の行なう生産として捉えている。このようにして生産されたものが,途中,思考や物質による限定を受けなければ,あらゆる方向にむけて,自然成長をとげていく「大日如来の智慧の戯れ」となって現われるのだ。この純粋な強度の空間は,こうして無限に多様なセリーの束として,あるいはセリーの折りたたまれたものとしての宇宙を産み出してくる。無限多様体を作りなすセリーはそれぞれ,微細な差異によってきざまれた生成変化の連続線をたどりながら,おたがいに接合したり,分裂をくりかえしている。だから,マンダラとは,この強度の場にたち起こる多
体の生産をシミュレートするために考えだされたマトリックスであり,そうした意味で宇宙を何ものによっても統一しない生産の内在的な「理法」をしめすものなのだと考えられる。したがって内在性のマトリックスとしてのマンダラは,無限多様体たるこの宇宙から超越者を,王を,演劇の舞台を追放してしまうのだ。複数のセリーの束が折りたたまれた状態でかたち作るこの空間には,それを表象し,その全体性の理解をもたらそうとする演劇を上演するような舞台が欠けている。
セリー思考は演劇モデルを追放する。演劇モデルは,生成変化する差異の連続線からなるセリーを抽象化して,舞台の上で行なっていることと,その外の世界との間に構造的な対応関係をうちたてようとするからだ。マンダラはしたがって,力の直接的形象化をめざすひとつのモデルだと言える。南方熊楠が,このような宇宙卵を自分の思考のモデルにすえたのは,
彼自身の頭脳が強度の直接性によって,たえずつき動かされていたからである。
構造とセリー。南方熊楠の博物学とその人生を貫いて流れるこの対立は,たんなる思考上のモデルを超えて,あらゆる領域に見出すことのできる根源的なものなのである。
―中沢新一,雪片曲線論,中公文庫,
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