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2024年4月3日水曜日

[ゲーム][PS} PS版FF7



[ゲーム][PS} PS版FF7
昭和のおっさん「FF7すげー!!!まるで実写みたいだ!!!」←これマジ?
2024年04月01日18:56
1:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:43:34.60 ID:BQV2Rbe7HAPPY.net
かわいそう…
転載元:http://viper.2ch.sc/news4vip/kako/1416/14164/1416458614.html
ゲームのドット絵って「芸術」だよな
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4668566.html
4:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:45:00.88 ID:ct/pJcPkHAPPY.net
FF10でびっくらこいてた奴も10年後には老人扱いされるのか
5:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:45:02.81 ID:v8Z7hwnmHAPPY.net
そういう感覚最初に感じたのは鬼武者かなぁ
6:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:45:27.94 ID:O/ZIUQWAHAPPY.net
7の時はそれほどでも、ポリゴンだったから
8の時にスゲーってなった
82:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 15:16:34.98 ID:oT1DR1rpHAPPY.net
>>6
これ
10:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:46:03.71 ID:kyIUY3VMHAPPY.net
2Dから3Dへの感動が味わえただけでもいい時代だったと思う
13:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:46:29.31 ID:nEQinnhoHAPPY.net
いやリッジレーサー
14:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:46:34.23 ID:gKoYFqp2HAPPY.net
え…微妙じゃね?だった
17:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:48:00.32 ID:oT1DR1rpHAPPY.net
いや、本物のおっさんはFF4で月に向かう時の糞ショボい3Dで小便チビった
18:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:48:10.34 ID:lXdGuS1zHAPPY.net
アニメ→ポリゴン→リアルCG
そう劇的に変わっていったのが、
スゲー面白かった時代かなぁ
ホログラムゲーム機はよ
19:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:48:12.10 ID:6RgbMPXUHAPPY.net
7は知らんけど10はMGS2と同時期だったから全く驚かなかった
というかモーションのショボさに目が行った
22:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:49:02.42 ID:GjHNglbxHAPPY.net
当時からカクカクして汚いなあと思ってたよ
立体的なアクションには驚いたけど
25:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:50:09.82 ID:6lbLSJo+HAPPY.net
実際は10だよな
26:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:50:17.62 ID:DmECT6BUHAPPY.net
あのゲームがすげーだったのはフルポリゴン
ほかのRPGは部分部分でしかCG使ってなかったから
28:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:51:15.12 ID:E9Jg7SVRHAPPY.net
ポリゴンってなんだかなあって皆思ってたろ
バーチャは衝撃的だったけど
29:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:51:49.41 ID:2DQCU/wMHAPPY.net
バーチャファイターが1から2になった衝撃が遥かに
30:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:51:57.52 ID:/I/q8ECAHAPPY.net
10は初めて見た時すごいと思った
水の表現がなんちゃらとか当時雑誌で言われてた気がする
32:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:53:24.93 ID:GjHNglbxHAPPY.net
実写みたいだ!って感想を初めて抱いたのは多分鬼武者
34:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:55:09.78 ID:FNlLY/weHAPPY.net
7の時はムービーすげー程度だったけど8のムービーの衝撃はマジでヤバかった
あとフィールドの作り込みとかも
35:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:55:29.29 ID:H7aIIBGQHAPPY.net
FF7→3Dすげー かっけぇー
FF8→進化しすぎ 凄すぎ
FF9→ちょっとキレイになった?
FF10→実写?
41:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:58:26.35 ID:xaFe6c4DHAPPY.net
>>35
FF9以外はこれ
9は二頭身に戻すの?って感じだったけどその分10の破壊力がヤバかった
マジで時代も来るとこまで来たんだなって思った
『だまされた!』と叫びながら死ぬほど惨めで情けない死に方はしたくないんだよ。
36:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:55:56.52 ID:9yNDi5SpHAPPY.net
SFCのスーパードンキーゴングで感動したな
37:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:56:00.93 ID:ijFxQ8xAHAPPY.net
FF7は操作性が悪くてイライラしっぱなしだったな
でもセフィロスを仲間にしたくて最後まで頑張ったわ
以来FFはやらなくなったけど
39:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:57:28.54 ID:H7aIIBGQHAPPY.net
7はアナログスティック使えないのがなぁ
40:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 13:58:25.43 ID:TmFUoKNCHAPPY.net
psのリッジレーサーでびびってたわ
45:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:02:50.77 ID:qSOad6MBHAPPY.net
すげーとは言ってたが実写みたいだとは絶対言ってねえな
48:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:04:58.57 ID:O/ZIUQWAHAPPY.net
FF6→7よりも
FF10→13でスゲーってなった
12は興味なかったから買ってない
52:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:08:43.96 ID:VagTGhv9HAPPY.net
FF11やってなかったからFF12がちょっと衝撃だった
DQ7のCGが1番衝撃的だった
53:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:08:57.28 ID:lX5dUnDqHAPPY.net
今のゲームも20年後くらいには子供に同じこと言われるんだろうな
54:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:11:37.31 ID:5M2wYSSoHAPPY.net
>>53
2D画面でやるゲームとしては完成形に近いんじゃないかな
55:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:13:06.72 ID:aSHYtwGZHAPPY.net
(どうしよう…アクトレイザーの時点で衝撃受けたなんて言えない…)
57:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:14:24.08 ID:keSL6d4dHAPPY.net
クロノクロスのED←実写みたい!!
58:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:14:26.84 ID:wdYfIO6DHAPPY.net
お人形劇だせえwwwwwwww
が大半だったよ
60:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:14:44.13 ID:rU6SWdJzHAPPY.net
すげーとは思ったけど、実写みたいだなんて言ったことも聞いたこともない
62:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:15:16.54 ID:e8fKZG65HAPPY.net
スーパーマリオカートで衝撃うけたよな
64:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:16:59.96 ID:X8Is5oh6HAPPY.net
実写みたいだってなったのはシェンムー
66:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:24:57.24 ID:Wn+lF3f9HAPPY.net
映像綺麗とかより、トイレの水が流せるとか細かいギミックへのこだわりとかに驚かされたけどね
68:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:29:13.09 ID:IP/qdqXlHAPPY.net
ポリゴンでここまで表現できるのか!
ここまでうごかせるか!
背景すげえ!!
プリレンダムービー綺麗だな!!!
こんな感じ
「実写みたい」なんて言葉持ち出すあたりがこの頃を知らないんだなと微笑ましくなる
マリオ64にしてもそうだがこの頃はポリゴンで描かれた世界を自由に動かせる事に感動してるレベルであって実写とかリアルとか全く意識してない
69:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:30:19.66 ID:lyTBUWwcHAPPY.net
PS2のデモで8のダンスシーンがリアルタイムでぬるぬる動いてるの見たとき
一番すげぇってなったわ
70:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:35:09.23 ID:djhH7nYHHAPPY.net
まあこんな感じだし・・・
93年 バーチャファイター1
94年 バーチャ2
96年 バーチャ3
97年 FF7
73:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:37:35.24 ID:3h7yDYkgHAPPY.net
FF10は水の表現すげーだろ(ドヤァしたいがためにブリッツボールの設定いれたんだろうなと思った
いや実際凄かったんだけども
78:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:46:07.09 ID:f6Xb25d5HAPPY.net
8のオープニングの海を見て買うのを決めた
あの時の海の表現は衝撃的だった
今じゃ反射まで再現するからなぁ....
画像技術ってどこまであがるんだ
79:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 14:46:55.03 ID:C6F+KXvQHAPPY.net
ハード世代交代したとはいえ6→7の進化は凄い
やたらキャラのポリゴンがどうとか言われてるが背景やCGはパネエ
>>31
84:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 15:28:58.58 ID:p2p8QksUHAPPY.net
Xの髪の毛一本一本作ってるCGに感動したのは俺だけじゃないはず
88:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 15:35:02.73 ID:3C7f6DOdHAPPY.net
FF8のリアルレンダムービー中にキャラクター動かせるのは今じゃロストテクノロジー
これ豆な
94:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 16:20:29.97 ID:UWZxr6dcHAPPY.net
>>88
ムービー中の柱の後ろ通ったりできるの凄いよな
90:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 15:53:54.31 ID:YawRmKaLHAPPY.net
多分最初にすげえって思ったのはバイオ
93:以下、\(^o^)/でVIPがお送りします:2014/11/20(木) 16:17:09.40 ID:1gDr9GyyHAPPY.net
ゲームになっても演技ヘタな金城武は実写感あった
コメント一覧
1. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:06 ID:a.aRxVXQ0
プレステ1で実写みたいだと思ったのは、オメガブーストかな
2. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:07 ID:5EBrkpjb0
FF7すげーは言っても まるで実写みたいは居ない
ポリゴンで角ばってるとは思った。
3. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:08 ID:Jn3zZXLn0
バイオハザード初代が発売済みだからない定期
4. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:08 ID:EtiiwguO0
10年前にこのスレ立てた奴ももういい歳だろ
5. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:08 ID:euas5vP.0
現在
メーカー「ほら実写みたいだろ?な?」
ユーザー「ほーん、で?」
6. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:09 ID:I7C1sUMm0
立体で動いてるリヴァイアサンすげーはあったけど
実写みたいなんて感想は無い
7. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:09 ID:69auB2Q.0
ずっと あらゆるモノの激進化に
ワクワクしっぱなしで生きてきたんだ
日本の世界一から絶不調までを経験してるから
もう怖いモン無しだよ、どーにかするンだわ「とりあえず」
8. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:10 ID:.74SHhgT0
むしろゲームの進化を体験できなかったキッズが可哀想
スーファミ→PS・サターン→ドリキャス&PS2の進化って凄かった
ライト兄弟が初めて有人飛行成功してからスペースシャトルが月に行くまでをリアルタイムで体験したようなもんだし
9. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:11 ID:Pj0IUWAI0
FFの進化としてすごいとは思ったけど、先発のバイオが衝撃すぎてゲームとしての驚きはなかったよ
10. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:12 ID:t6SUwDO90
サブカルチャーの興隆をリアルタイムで体験出来たのは幸せだろうね
11. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:12 ID:KoSSf.ut0
相対的なものだからねそういう印象は
同じ土俵に乗せて語るもんじゃない
あるのが前提、リアル描画が前提なのは幸せである反面(煽ってるわけじゃない本当に羨ましいと思う)一気に飛躍する喜びや驚きを知らないって事でもある
12. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:13 ID:w.uzszL.0
新世代機にワクワクしなくなったのってどこからだろ
プレステ123の進化が劇的過ぎたわ
13. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:14 ID:0bWSIgK20
実写に近づいたかも知れないが想像力する楽しみは減った あとゲームの内容はそれほど濃くならない
14. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:15 ID:y93Kky3w0
なんならFF5→FF6の魔法のエフェクトの段階で小便チビってたわ
15. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:16 ID:Hgo1ks4L0
くだらねぇ
それが歴史だろが
16. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:16 ID:4yOV6VsL0
ファミコンに慣れ親しんでたからスーファミのF-ZEROで驚きはしゃいでたよ。
だからドラクエ5もドキドキしながらやってた。
17. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:17 ID:ia8XMz.k0
PS1のグランツーリスモ1を見たときの感想
もう完全に実写じゃん!
PS2のグランツーリスモ3を見たときの感想
もう完全に実写じゃん!
PS3のグランツーリスモ5を見たときの感想
もう完全に実写じゃん!
18. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:18 ID:nm..IX.J0
実写みたいとか、誰がこんなアホなこと言ってるんだよ
当時からポリゴン粗くて一部映像関係からも笑われてたぞ
19. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:18 ID:3rFIhTfO0
FF8のムビーがすごかったと言ってるが、これもパラサイトイヴを先に経験してるから別に驚かなかったよ
20. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:19 ID:9W5Wem2i0
FF7見た時は6のドット絵の方が良かったって思ったよ
21. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:20 ID:QG3znXT50
誰も実写みたいなのなんて望んでなかったし
ドットからポリゴンになって新鮮さしかなかったからな
今の何でも揃ってて頭打ちな世の中に生まれてくる奴って
何が楽しいんだろうな
これからもお先真っ暗だし、日本の衰退しか体験できないって
本当に可哀相でしかない。
しかもそれを自分たちでどうにかしよう!ってんじゃなくて
まぁいいんじゃない?老害のせいだしって諦めて
何もしないところがまた面白い。
22. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:22 ID:9W5Wem2i0
>>21
それは老化で新しいものに対する感受性が衰えてるだけでは?
23. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:26 ID:5xP1cHZ00
ラスアスは没入感あったな
2で全部終わったけど
24. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:27 ID:5.Ca93Ow0
40代、50代はファミコンどころか
ゲームボーイからスタートだから
初めてポリゴン見たときは感動したもんだ
25. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:30 ID:NJhFg0ko0
プレステで実写みたいと思ったやつはほとんといないだろ
奥行きがあって凄いとかそんな程度
ドット絵からしたらそれで十分売り文句になってた
26. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:30 ID:3rFIhTfO0
いまからA.V見るから邪魔するなよお前ら。
今朝抜き損なって期限が悪いんだよ俺は
27. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:33 ID:9Oqe0NBY0
>>5
今はマシンスペック的に実写並みのグラフィックがもう当たり前だから今時実写みたいなグラを売りにしてるメーカーはほとんどいなくね
28. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:35 ID:Yv6h.RSL0
2Dから3Dの感動はあったけど実写云々はないかな
ただジュノンのエレベーターのムービー中にキャラが操作出来たことの驚きだけは今でも覚えている
29. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:37 ID:1rbng8b20
FF7を見て実写みたいっていう反応何処にあったの?????????????????????
当時知らない癖に何で言えるの?
俺聞いたことないけど??
ムービー綺麗だけどキャラがキン消しみたいって言ってた
おっさんなら知ってるけど。
30. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:37 ID:HxTc8KqJ0
スゴいと思ったのはゲーム内の世界の広がり方かな
あと召喚魔法のカッコ良さ
31. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:37 ID:0B3mv1Sk0
そりゃ技術は進歩するものだからな
当時は、それは感動したものだろう
でもそれを現在の視点からマウント取ろうとするマウント脳に憑りつかれた輩の卑しさよ
32. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:38 ID:MDO4tEV30
グラフィックすげーは8と10で思ったけど実写なんて感想は当時も聞いてない
33. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:39 ID:HxTc8KqJ0
>>24
俺51歳だけどスタートはゲームウォッチやで
34. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:40 ID:LK4dbnPM0
ムービーだけど
FF8のEDのハンディカム部分はマジで感動した
35. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:40 ID:hs51ffX10
おっさんだけど、いい感じに技術の進歩を感じられる時代に生まれることができて幸せだったと思う
36. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:41 ID:dXu5RpoF0
>>24
ゲームボーイはファミコンより後やで
37. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:41 ID:XMkngI7B0
昔はゲーセン通ってたら家庭用なんてそれほどでもないんだよな最先端の新作がそこで見れたようなもんだったしカプコンのやつがヌルヌル動いてたからな
38. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:42 ID:51QPBVxI0
スレ立てしたゲェジの意見に誰も賛同してなくって草
39. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:42 ID:dXu5RpoF0
>>29
ミッドガルの3dはなんかすごい世界観だってなったよ
他は微妙で鉄アレイの腕は流石にこんなもんよなぁとなった
40. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:44 ID:p5ULy0Eq0
>>2
3Dの時代が来たんやなぁ…すげぇわって感じだったね
41. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:44 ID:KSRiKFMh0
?実写みたい
○3Dスゲー
42. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:45 ID:PX8ib5nZ0
リアタイのオッサンだけど、ガッタガタのカクカクで何だコレって思ってたわ。カメラワークもアクションも近遠影入り時混じって見辛かったし。2Dドットに戻せやって思ってたよ
43. 金ぴか名無しさん 2024年04月01日 19:45 ID:YREEkqbq0
当時からカクカクポリゴンって言われてたけど、それでもスーファミのFFとは明らかに違う、次世代のFFはこういう感じかと納得させるものがあったんだわ
44. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:47 ID:p5ULy0Eq0
>>27
それがFF作ってる所は未だPS4切り捨てる位グラにこだわってるんっすよ…
もう終わりだよ猫のスタジオ
45. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:47 ID:lMUq9X0k0
バイオハザード スゲー
トゥームレイダース もっとスゲー
FF7 これならポリゴンでなくていいわ
こんな感じ
46. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:52 ID:Xvdg5Zqw0
その時感動したからってその後の感動がないわけじゃないのに
47. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:52 ID:4a.Q0yjt0
おっさんだけど当時衝撃を受けたわ。技術のジャンプは衝撃受けて当然て立場。百点どころか何もかもがかんぺきでそれに+αの120点じゃないと無価値無意味そうじゃないオマエラー ジャップー オレ以外無能オレ以外全員シネーって価値観の人は知らんけど
48. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:52 ID:Jo6iGyC60
不思議なことに当時はあのレベルの3Dでもすげーリアルだと思って見れたんだよなぁ。もちろん実写だとまでは思わなかったが。
今見るとこんなにガックガクで荒かったのかと思うけど…まぁ当時はテレビの画質も荒かったからいい感じに荒さがぼやけてたんだろうな。今の奇麗なモニタ越しで見せられたら荒も目立つわ
49. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:56 ID:34blJeHm0
>>24
いやあのゲームボーイ(平成元年)よりファミコン(昭和五八年)の方が先なんですが……
50. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:57 ID:LSsQVSSW0
>>24
「名古屋打ち」でピーンと来たら還暦
51. 名も無き哲学者 2024年04月01日 19:59 ID:KBrLJjkK0
7は見た目ってかスタイリッシュ差でおどろいたな
52. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:00 ID:RfMlA9H70
映像なら8やけど8はクソゲーやしな
53. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:01 ID:MTzUTJW90
7はポリゴン黎明期だったからムービーもきれいだなぁくらいで8くらいからじゃない?
実写だとかいわれたのは
54. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:01 ID:2obO1sPK0
ケツアゴシャアがインパクトつよすぎて
FF7はあんまり記憶に残らんかったわ
55. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:03 ID:aKqq6LTc0
>>1
親をTV中継だと騙せたのは闘魂烈伝2だったな
56. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:03 ID:Nlrg9S.F0
ワイはPS2で一旦ゲームから離れて戻って来た時にPS3でスゲーてなったわ
57. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:05 ID:qxqzSUhN0
実写みたいと思ったのは、この部分じゃない。
58. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:05 ID:B4GBd.sY0
10はびびったなあ
今でも11?16よりも凄く感じる
59. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:05 ID:dAc2QtzN0
7は何だこれ?ってなったよ(悪い意味で)
当時は2Dが成熟期だったからポリゴンの粗さが目立った
どちらかというと背景の奇麗さに感動したな
同時に、3や5のようなファンタジー世界が好きだった俺は「もうあの頃のFFは帰ってこないんだ」ってさみしい気持ちになった
60. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:06 ID:9W5Wem2i0
エンタープライズ版で矢印表示されるようになって改善したけど
一枚絵のGC背景が荒過ぎてどこ進めば良いのか分からなくて大変だったぞ
61. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:07 ID:V5n0BQK40
平成キッズ(笑) 『昭和のおっさん「FF7すげー!!!まるで実写みたいだ!!!」←これマジ?』←痛すぎるだろ…
62. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:08 ID:nEG6jrvc0
そんな事はない、長すぎるし内容も微妙だしポリゴン汚いしなんだこのクソゲーって言ってた
63. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:08 ID:BYdZPfYQ0
コンビニで買えたのも良かった
64. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:09 ID:nJFC2CKL0
>>2
なんならドットからポリゴンになってできる事は増えたけど絵はドットの方が綺麗だなってみんな思ってたからな
ポリゴンでもここまで表現出来るのかってなる時代はもう少しあと、バーチャファイター2くらいの時代
65. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:09 ID:ZReeSmSH0
戦闘は実写だったぜ
66. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:10 ID:w0DhQoTa0
FF7見てCGが凄いと思った奴は沢山いるが、実写みたいだって思った奴はほぼいないだろ
FF10の時代になるともうPCのグラ性能がPS2を圧倒してて凄いとはならなかったな
67. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:12 ID:nJFC2CKL0
>>27
わざわざ売りだとは宣伝しないけど、そこだけで力尽きてるせいでそこしか褒めるところないなって言われてる作品はそこそこある気がする
68. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:13 ID:zbQC7.Yd0
FFはリアルになればなるほど、違和感が増してきて感心できない
69. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:13 ID:zrH6RmIn0
キャラじゃなくて背景の岩やら建物やらじゃないかな
雑誌のモノクロページに掲載された写真は凄くきれいだったよ
70. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:13 ID:zbQC7.Yd0
>>11
スカしてんなww
71. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:15 ID:m70tJHmB0
7はムービー部分が凝ってるとは思ったが、当時だって実写には見えんかったぞ
ゲーセンのバーチャ3やバイパーズ2、デドアラ2の方が「実写っぽくなってきたなぁ」と思ったもんよ
72. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:18 ID:5BMA.jZ90
今見りゃあんなでも、当時のどんな綺麗なドットよりも優れて見えたもんよ。
73. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:19 ID:BdetzXLH0
>>67
FFの事ですか…
74. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:23 ID:9HUiOcF.0
ポリゴンでの動きの実写感はアローンインザダーク等、もっとだいぶ早いよ
FF7の驚きはたしかあの時期にすでにたしかCD3枚組?くらいの巨大容量だった点
75. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:23 ID:RbTJH51a0
背景が綺麗とは言われたけど実写みたいなんて全然言われてないな
8の時も当然そんな声はほとんどなかった
76. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:24 ID:5gz.033t0
ドットじゃなくなって3D幕開けすげーであって、実写とは誰も思ってないでしょ。
77. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:25 ID:1bUGWWhN0
容量で逆をいうと、ドラクエ7が巨大容量をこんなのにしか使えないんだなってがっかりさせられた
78. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:26 ID:HxPaACnM0
おっそい、見づらい、今さら三人て
で7からは買ってないしやってない
79. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:26 ID:5pHWye9t0
X68000のツタンカーメン画像とか、いまだと大したことないけど実写じゃんって思った
80. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:30 ID:oISpQY850
同じようなスレが毎日のように立つな
81. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:30 ID:v5KbBJFM0
>>40
ポリゴンでこんなに出来るの?とは思ったな
これの前のポリゴンのヒット作って初代のスターフォックスとかだからな
82. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:32 ID:ebAhuXSI0
FF7エアプなん?
マップ移動→3頭身ポリゴン(へー)
戦闘時→等身大ポリゴン(スゲー)
ムービーシーン→リアルポリゴン(スゲー!ティファーのチチ揺れすぎ!)
FF7のムービーポリゴンレベルがリアルタイムで動かせるようになったのはPS2の時代から
そりゃビビるだろ
83. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:32 ID:l1HqlLdU0
>>1
ガハハハハハハハハハハハハハハハ
ガハハハハハハハハハハハハハハハ
ガハハハハハハハハハハハハハハハ
84. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:32 ID:vT2I6nAn0
このポリゴンで滅茶苦茶ワクワクして楽しかったんだよなぁ
ゲームの面白さは映像じゃないだよ
85. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:34 ID:M22JIyex0
ファミコンやスーファミが2頭身のドット絵が多かったのが当たり前の時代、今見たら雑なポリゴンでもすごいと感じたよ。本スレのバーチャファイターがそれだったな
セガサターンやプレステで進化したと子供心に思ったけどリアルとは思わなかったな。リアルに感じ始めたのはPS2くらいかなぁ
86. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:34 ID:NKceeM.I0
斜に構えた俺クールオタクってFF嫌いがちよな
で洋ゲーとかダークソウル好きなのかと思ったらゼルダやカービィ好きなんよな
87. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:35 ID:ebAhuXSI0
>>60
インターナショナル版だろ
88. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:35 ID:hUuYOgyD0
奥行きを表現されたポリゴンRPGってこの時代あまりなかったから同時の人間には驚きでしょ
89. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:36 ID:4pX7.Dh90
ポリゴンは当時も嫌がるのも結構いた覚えがある
90. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:37 ID:nd80.tos0
バトルの時とムービーのときはリアル等身なのに
移動のときはパワプロくんみたいな等身だとおもった。
91. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:37 ID:f23HzCIt0
それはムービー部分の話だろ
操作部分は3Dモデルになった事への驚きだった。
もっとちゃんと勉強してから喚けよ
92. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:38 ID:U2ARCMGH0
>>3
完全同意
93. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:41 ID:9AAhVTQL0
どうでもいいがシドのテーマがたまにネット番組で使われてたりする
94. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:45 ID:lFDTieb20
30年近くも前に出たゲームだけど、今のポケモンと大差ないのは凄いかも
95. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:47 ID:B5.n5Is60
ムービーシーンだけだな
こういう阿保が詐欺にあうんだろうな
96. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:50 ID:9AAhVTQL0
FF7はゲームとしても結構楽しかったよ
たしかいろんな石を武器にはめ込んで能力発揮とか
後年、ブラッドボーンをやっててそれを思い出した
97. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:53 ID:nBaEUwe30
グラフィックでしかゲーム語れないのもかわいそうになぁって思うけどね
FF2で裏技使って熟練度やHP上げまくったら最後の方めちゃくちゃ苦労する罠があったりとか3で初めてメガフレアが登場した時の衝撃とかそういう世代共通の体験というか思い出を持てないって本当かわいそう
今の子って何を目当てにゲームやってるのかね?
98. 名も無き哲学者 2024年04月01日 20:57 ID:W6q3DEC90
バーチャファイターのポリゴンには度肝抜かれたぞ
それまでは大型コンピュータのシミュレータみたいなのでしか実現できなかったのが
アーケードゲーム出たからな
99. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:00 ID:bhqsX6Qv0
FFだけしてる人のほうが少ないよね
昭和から平成令和と他のゲームで移り変わるのを見てきたのに
FFだけ見てすげーとかならないでしょ
100. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:03 ID:D2T.IS.N0
誰もそんなこと思ってねえよ ps3でやっとポリゴンでまともにゲームできるようになったなあって感じ
Ps5ですらローディングストレスだしSSDでも遅いよな
101. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:06 ID:Qo0hYfOt0
3D=実写というわけじゃないんだよ氷餓鬼おじさん
102. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:07 ID:NPNbEtVv0
>>1
わいもそれ
もっといえば64マリオですらヤバかった
103. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:07 ID:QXADHA630
PS2になって初めて思ったかな。PSレベルではまだまだ。
104. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:08 ID:5zD3aqSI0
転生モノとかに慣れてて
現在>過去とか当たり前の格差なのに
すぐマウント取る奴らって
脳ミソ的底辺しかいないよな
105. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:14 ID:fdOjGin30
7は操作時のポリゴンは当時の技術でも低い水準だぞw
途中に入るムービーと背景かが凄い、と言われてただけだ
そしてなまじムービーの方が凄い分だけ普段のポリゴンキャラの雑さが余計に目立てったのよ
106. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:16 ID:88ZDm85U0
10は世界観も含めてオーパーツだと思う
107. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:18 ID:GDige7uw0
>>44
やけにリアルなおにぎりのグラフィックですね
108. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:23 ID:sUwIMgud0
バイオだろ
映画みたいな画面で出来るゲームが登場したって感動したよ
サターンと違って陰影もついてたから、逆光になってる場面とか凄いリアルに感じた
画面の荒さも、監視カメラとかみたいで逆にリアルに思えたな
109. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:26 ID:yIs1Q5AK0
あのなぁスーファミしかなかった時代に
いきなりコレが出てきたらそう言うだろ・・・
110. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:28 ID:AeblWN120
記憶の上塗り、経験があって当時を思い返すんだから衝撃度に関してはなんとも
凄いと感じて当時はすっげぇビビり散らかしてた気がする
111. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:29 ID:VA4Gt18a0
でもFF10も視点とかフルコントロールできなかったから
「あー3Dでもまだ制限とかたくさんあるんだな」って思った
そしてFF11がフルコントロールできたんでビビった
112. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:29 ID:65rPQLyI0
お前の目どうなってるんだ?よく見てみろ実写に見えるのか?ドット絵じゃないからすげーとはなったけどお前には「実写」に見えるのか?
113. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:41 ID:bPn0RcDa0
FF7で実写みたいって思ったのはムービー部分
特にバイク出てきたとこ、機械のCGってやっぱ違和感湧きづらい
ほかに関しては空間が出てきて凄いなとは感じたけど、人物とかの描写力としてはドットの方が上だった
114. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:43 ID:0KMA3OEy0
FF7のそういう画質はキャラじゃなくて背景だから…
115. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:45 ID:yCPULfQU0
ついにあのFFが3Dになった!っていう衝撃であってあの時代のゲームとしてもグラ自体は特に驚く程じゃなかった
116. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:52 ID:V0D3BGJ70
FF8とかクロノクロスのopで感動のあまり鳥肌立ってた
117. 名も無き哲学者 2024年04月01日 21:52 ID:jZk77KMk0
ドット絵ってどうしても絵が滲んで見えたから、ポリゴンになって画面がクリアになったというか、世界が明るくなったような気がしたな。全体的に画面は暗かったが
衝撃を受けたのは10よりも12で、戦闘も刷新されてかなり楽しかったな
13はやってないが、15は久々に発売日にps4ごと買って、画面の綺麗さに度肝を抜かれた
毎晩遊び続けて1ヶ月か2ヶ月の間に120時間かけてサブクエまで含めて全クリした
まさか15まできて最高傑作に出会えるとは思わなかったし、それも映像が進化したおかげなんだろうな
ただし終わり方だけは普通に酷いと思ったよ
118. 名も無き哲学者 2024年04月01日 22:08 ID:bilaGJNL0
アクトレイザーは音楽で衝撃受けたパターン
119. 名も無き哲学者 2024年04月01日 22:11 ID:KSRiKFMh0
>>60
エンタープライズって飛空艇あったな
120. 名も無き哲学者 2024年04月01日 22:12 ID:KSRiKFMh0
>>61
以上、令和キッズの戯言でした
121. 名も無き哲学者 2024年04月01日 22:16 ID:KSRiKFMh0
>>99
バーチャファイター1は流石に当時でもネタにされてたな
122. 名も無き哲学者 2024年04月01日 22:19 ID:TWUXSEFB0
別に何も思わなかった
むしろ7も8ムービーは邪魔とか、力入れてこの程度かとすら感じてた
まだ、ドット絵を駆使して綺麗に見せてた方がすげーと感じた
123. 名も無き哲学者 2024年04月01日 22:23 ID:73vzKvxT0
映像は8だね 7はストーリーで評価
124. 名も無き哲学者 2024年04月01日 22:32 ID:8GIkXYLC0
まだブラウン管テレビが主流だった時代にはポリゴンの荒が見えにくかった。
また当時のゲーマーはずっとドット絵のゲーム慣れ親しんできたので、ゲームに重要なのは映像がフォトリアルであることではなくて、想像力をかき立てられる世界観を表出できているかどうかだった。
125. 名も無き哲学者 2024年04月01日 22:33 ID:dx4wu9KO0
鬼武者2の海はまるで実写だったけど、あれ実写映像使ってるよね、違うの?
126. 名も無き哲学者 2024年04月01日 22:38 ID:vNt55LVn0
ff6のオペラハウスの書き込みと歌やろ
ワイは別にだったが当時のゲーム世論はそうだった
127. 名も無き哲学者 2024年04月01日 22:39 ID:vNt55LVn0
>>8
今の方が幸せだよ
128. 名も無き哲学者 2024年04月01日 22:41 ID:RBYafYLI0
>>94
老眼進んでるな
129. 名も無き哲学者 2024年04月01日 22:55 ID:PhHMMSFQ0
さすがにPS2のプリレンダムービーからだよ
PS4からかプリレンダからリアルタイムへの切り替えがスムーズすぎてびっくりするのは
今ではプリレンダって言葉自体も聞かなくなったような…
130. 名も無き哲学者 2024年04月01日 23:19 ID:9W5Wem2i0
>>87
そうそれ
131. 名も無き哲学者 2024年04月01日 23:22 ID:1gdEDIEg0
DQ4でオープニング変わったの見たときドラクエムラムラの沸点超えた
132. 名も無き哲学者 2024年04月02日 00:10 ID:lvtRvN2W0
>>1
とりあえず昭和煽りしてるクズガキ頃そうぜ
133. 名も無き哲学者 2024年04月02日 00:49 ID:p2QZwQVX0
リバースはコレルまできたけど完全に飽きた
134. 名も無き哲学者 2024年04月02日 00:58 ID:e3E5scBs0
荒いポリゴンよりスーファミのドット絵の方が良くね?とは当時も言われていたぞ。
とは言えCDになってソフトの価格が下がったのが人気だった
135. 名も無き哲学者 2024年04月02日 01:07 ID:BgeI69ko0
今のディスプレイで映したらそりゃ粗いにきまってる
136. 名も無き哲学者 2024年04月02日 02:03 ID:EEnEHRBW0
FF7で驚いたのはキャラよりも
背景というか奥行きのあるカメラワークだった
137. 名も無き哲学者 2024年04月02日 02:17 ID:9liwUqL80
スーファミのFF6のドット絵の美麗さに感動してたのにプレステのFF7のカクカクポリゴンに失望してFFシリーズから完全に卒業した
FF8以降でポリゴン綺麗になったとしてももう戻る気にはならなかった
138. 名も無き哲学者 2024年04月02日 02:22 ID:MafqbcOX0
ゲームの成長を目の当たり出来るのは貴重な体験や
誇れ
139. 名も無き哲学者 2024年04月02日 04:06 ID:yKV7HQ010
当時のガキだった俺にとって馴染みのなかったスチームパンク的な世界観を
ゲームとして冒険できる形でぶち込まれた衝撃はすごかったよ
140. 名も無き哲学者 2024年04月02日 05:42 ID:.q.LzEPj0
FF7をタイムリーに体験した年寄りは
スプライト→ポリゴンって言う、ゲームの表現の根本が変わった歴史の目撃者
この体験ってなかなか出来ないと思う
141. 名も無き哲学者 2024年04月02日 06:29 ID:3bdO9jtV0
ゲームにリアルさって別にいらないよね
映画でも観てればいいし
変にリアル求めると海外のアレとかになるんでしょ
142. 名も無き哲学者 2024年04月02日 06:55 ID:Ywy09EGM0
キャラクターの画像じゃなくてミッドガルとかの背景にすげーってなってたんだよ
143. 名も無き哲学者 2024年04月02日 07:09 ID:PHhswApN0
その実写みたいなグラを追及した
144. 名も無き哲学者 2024年04月02日 07:15 ID:OZJ2kGLQ0
天野美術が好きだったので、それを捨てた7からは嫌になったな。
野村のデザインにはセンスを感じない
145. 名も無き哲学者 2024年04月02日 07:45 ID:PHhswApN0
半オープンワールドでしかなく、昔の感覚ひきずった開発陣によるシナリオ
グラは進化して他の要素も多少手入ってたとしても余程思い入れあるやつでもなきゃ買って遊ぼうと思わんわ
ffよりグラがキレイな作品、自由度の高い没入できるオープンワールド、多様な遊びが出来る作品に比べて全部中途半端やねん
昔のプレイヤー以外のどの層に訴求したいかよくわからん
加えて信者も同士で団結して肯定的な意見排斥して悦に浸ってるだけ
FFって作品と一緒だよ
146. 名も無き哲学者 2024年04月02日 07:45 ID:Ug.v3SlS0
ディスク交換のCGにおおってなったな
個人的に当時の革命的なイメージだったから
今見るとドットFFとかドットス探索悪魔城とかの方が全然見られるんだけど
それはまた別のベクトル
147. 名も無き哲学者 2024年04月02日 07:51 ID:PHhswApN0
>>138
一つ作品の成長、停滞、凋落をまとめて見れたっていうのはまぁ貴重かもね
他のメーカーやサードにとってはいい反面教師になってるだろうね
148. 名も無き哲学者 2024年04月02日 08:57 ID:zQH090ur0
進化の過程体験出来て良かった。
ポリゴンってなんかカクカクしてるっていう感想が
バーチャレーシングで最近凄くなったな
バーチャファイター2は驚いたもんな。
149. 名も無き哲学者 2024年04月02日 09:30 ID:adKq4dwQ0
どう考えても嘘でしょw
150. 名も無き哲学者 2024年04月02日 10:21 ID:vUfJKaUw0
>>131
日本語でお願いします
151. 名も無き哲学者 2024年04月02日 10:23 ID:vUfJKaUw0
一方のドラクエは7でキャラデザがFC時代に戻ったと感じた
152. 名も有る哲学者 2024年04月02日 10:42 ID:lcUmRAfB0
スクエニのFF16開発した吉田直樹がこれからも新作開発に意欲ある声明発表してから
毎日スクエニ株価の下落が続いてるぞ・・
休み明けて昨日もまたスクエニ株価下がったわ
せっかくのFFシリーズをあそこまで先輩ディスってFFらしさを無くしたから
そりゃ スクエニファンが減るの当たり前だわ
153. 名も無き哲学者 2024年04月02日 11:09 ID:.aVSNGHa0
日本画から西洋画になったみたいな
154. 名も無き哲学者 2024年04月02日 11:27 ID:pa8e0uyx0
>>151
嘘をつくなリアタイでやってないクセに
155. 名も無き哲学者 2024年04月02日 12:56 ID:O6qMuI8V0
FF7って1997年発売のわりに音色が結構汚かったな
同じスクウェア作品だと1999年のFF8やクロノクロスあたりでようやくPSの真価発揮できてる感じ
あと個人的にはFF8のほうがCM含めてインパクトがすごかった
156. 名も無き哲学者 2024年04月02日 13:15 ID:IdeOPBpI0
FF7はキャラのポリゴンじゃなくて背景グラだろ
157. 名も無き哲学者 2024年04月02日 13:55 ID:earolRGc0
>>151
今でも7はキャラ人気最低だわ
人気あるのNPCばっかだぞ
158. 名も無き哲学者 2024年04月02日 14:21 ID:CaBdSmnX0
>>51
世界観全然違うよな
ヨーロッパ風ファンタジーからサイバーパンクって
159. 名も無き哲学者 2024年04月02日 15:42 ID:WolTdatm0
ムービー綺麗はあったけどポリゴンはうわぁ……(ドットのが断然よかった)って印象だったわ
160. 名も無き哲学者 2024年04月02日 16:48 ID:69SlQHZ80
っぱスーパードンキーコングよ。
いま見てもまだスゲー綺麗だなと思うもん。
161. 名も無き哲学者 2024年04月02日 17:55 ID:JEV01RNc0
今にして思えばFF9ってFFでは珍しい作品だったんだろうな
ファンタジーみある世界観でフルポリゴンって後続のFFには皆無だもんな
162. 名も無き哲学者 2024年04月02日 18:21 ID:2vHKxid30
俺がバーチャ1から2の方がビビったのはサターン派だったからやろな
163. 名も無き哲学者 2024年04月02日 18:53 ID:earolRGc0
>>50
名古屋撃ちじゃなくて?
164. 名も無き哲学者 2024年04月02日 19:44 ID:8LjsHeXP0
6までは一歩だけ前に出て武器をブンブン振るだけだったんだぞ
それが立体的に動き回るようになったんだからすっげー進化だよ
美麗さの問題じゃない
165. 名も無き哲学者 2024年04月03日 14:03 ID:U.HKWa5e0
FF4, 5, 6、ドラクエ4, 5, 6あたりのドット絵+縦横平面移動がロープレの当たり前だと思っていたところの概念をぶち破ったという意味での衝撃が大きくていろいろ美化されているってことだと思う。
166. 名も無き哲学者 2024年04月03日 14:16 ID:c1S9ZafV0
当時としてはもっとも大容量のゲームだった可能性があると思ったんだけど、同年やはりPSのクーロンズゲートってのがdisc4枚組らしい
FF7もちょっと後にでたインターナショナル版は4枚組らしいけど
    
5ch
https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1630832643/
                    
哲学ニュースnwk
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/6123575.html
http://blog.livedoor.jp/nwknews/
zarathustra1116@yahoo.co.jp
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NEWSまとめもりー
http://www.akb48matomemory.com/
    
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2000年1月13日木曜日

[ゲーム][PS1] moon

[ゲーム] moon
『moon』再論~いつか、ゲームに「ラブ」がやどる日まで~
中川大地
2000.1.31追補
■はじめに~ふたつの『moon』像を結びつけるために~
それほど系統だて、数を追ってみてきたわけではないし、さらには資料をおさえての実証ではなく、あやふやな記憶によるイイカゲンな印象であることを、どのみち話を組み立てるための便宜以上のつもりがないからという理由であらかじめ断っておきますが。
『moon』というタイトルが97年に発売されてから今日にいたるまで、その評価にはおおむね二種類の傾向があるような気がしていました。
ひとつは、たとえば『ゲーム批評』に掲載されたものがそうだったかと思いますが、独特のグラフィック・デザインや様々なジャンルのアーティストたちのセンス良い楽曲をゲーム中のBGMとして自由にかけかえられるMoonDisk(MD)のシステムなどの視聴覚演出の秀逸さや、キャラクター造形やイベント演出のほのぼのした味わいを讃える、「おしゃれでポップな小品」ということを主軸にした評価。この文脈で、『MOTHER』シリーズに比肩させているものも目にしたことがあります。
もうひとつは、「もう勇者しない」というプロモーション・コピーにあらわれているような既存ロープレへの挑発的パロディとしての側面や、メタフィクション的とされるシナリオの結末部分を重視し、複雑なおももちで「ロープレないしゲームそのものへのアンチテーゼ」とか「過激な実験作」としての性格を云々するタイプのもの。
それぞれ、かならずしも単線的に結びつけることのできる特徴ではないように思えたので、評判を聞く限りでは、『moon』が実際のところ、何をめざしたどんないでたちのゲームなのかのイメージをむすぶのが、少々難儀なところがありました。
両方の評判を折衷し、小粋なスタイルとして自己言及や自虐をまとったアヴァン・ポップ芸術調の鼻持ちならない作品であるのか、はたまた描写と主張とが矛盾した、頭でっかちの未成熟なタイトルだったと捉えるべきなのか。
今更に『moon』というタイトルを語りなおすにあたって、さしあたり、ふたつの方向へと分裂してしまったかにみえるこの作品の見方をひとつの視座によって有機的に結びつけるという課題を、この稿のターゲットに据えてみようかと思います。
なぜならば、演出とか美術とかシナリオとかゲーム性とかいった言葉で切りわけられるゲームの諸側面は、互いにわかちがたく結びついてひとりひとりのプレイヤーのトータルな体験を形成するものであるということを、自身のゲーム体験を通した直観によって僕は信じていて、そうした個々のゲーム体験のもつトータリティをどうにかして把捉しようとする努力を放棄しては、ゲームをゲーム以外の何物でもないものとして語ることのできる自律的な批評など、いつまでたっても生まれえないと思うからです。
そんな課題を達成するため、『moon』を実際にプレイしたときの体験の整序に即し、ひとつひとつのプレイ過程がもつ意味を以下、ベタに順を追って検討してこうかと思います。
これはあのハイタッチな『moon』をあつかう手つきとしては、あまりに無粋な力技です。残念ながら、それぞれのパーツ毎の印象批評相互の関係のとっちらかりをねじ伏せて、てっとり早く作品構造の見取り図をつかむためのよりベターな方法を、僕はほかに思いつくことができませんでした。
そうでもしなければこの作品を新しく見直すことをできなくせしめたこれまでの語りたちの不明を、不遜ながらちょっとだけ呪ってみてもいいかという気も、一方ではしてたりするのですが。
■「Fake MOON」がみせるもの~『moon』の立ち位置と批評意識の矛先~
ゲームスタート直後、淡いクレパス画調の絵で描かれる少年とテレビ、それに「ゲームステーション」。ほかに余計な情報のない無色暗闇バックや、いま僕らがコントローラーを握っているプレイステーションをそのままひきうつした「ゲーステ」の造形は、この少年の肉体のすまう「現実」をプレイヤーである僕らの生きる現実と重ねあわせて見立てることが、これから展開される『moon』をプレイするうえでの約束事であると教えてくれます。
視点が先に描かれた少年のそれと一致し、我々が見るモニタの画面に少年の「現実」のテレビのフレームがクローズアップされ、「ゲーステ」のゲーム画面が映し出される次のショット。このゲームが「Fake MOON」。
平仮名で主人公の「勇者」に名前をつけ、王宮の謁見の間で国王に冒険へと送り出されます。白く縁取られた青バックのウィンドウに流れるメッセージ文はすべて平仮名。城下町では人々の胡散臭いほどの勇者への期待が聞かれ、酒場ではタンスを調べて何やらのアイテムを持ち出すことがこれみよがしに奨励され、突如エンカウントして「くるった犬」との主観視点での戦闘に移る。以後、ラストダンジョンでの「ドラゴン」との戦闘にいたるまで、四つの章に過程を端折りながら、「勇者の冒険」のプレイをなぞります。
そう、誰もが指摘するように、これは一定のゲーム経験をもつプレイヤーたちの抱く、いわゆるRPGないしはロープレとよばれるタイプのゲームのイメージを想定し、それを皮肉な見方で戯画化したものにほかなりません。このことは、『moon』を「アンチRPG」であるとする評の、ひとつの根拠となるものでしょう。
しかし、どうして僕らはこの「Fake MOON」を「RPGのパロ」だと感じたのか。逆に問えば、「Fake MOON」が喚起した我々のなかの「RPG」とは、いかなるものであったのか。『moon』の意味づけに「RPG」という一般化された言葉を貼りつけて思考を終わらせる前に、その具体的な内実について、もうすこしだけ詳細な検討をくわえる必要があると思うのです。
もちろん、いまさら「RPGとはロールプレイングゲームの略でそもそも…」というレベルの“原理的”解析を云々するのは、無意味な野暮にきまっています。けれども、僕らがその画面をみてただちに「RPG」というコトバを想起したところの「Fake MOON」に込められている実際の参照先のゲームタイトルが、実はただのふたつでしかないことは、誰もが気のついたことなのではないでしょうか。
それはコンピュータRPGの起源とされる『ROGUE』でも、多くのプレイヤーの心に尋常ならぬ名作として残る『Wizardry』でも『Ultima』でもありません。国産RPGの金字塔とされる『ブラックオニキス』でも『ハイドライド』でも『ザナドゥ』でもなければ、はじめてRPGらしい息吹を国民機ファミコンに吹き入れた『ドルアーガの塔』や『ゼルダの伝説』でもない。
そうです。80年代後半のファミコンブームの安定期に第一作が世にあらわれ、RPGの代名詞として90年代初頭のスーパーファミコン全盛期にかけて連綿とシリーズ化されるにいたった、『ドラゴン・クエスト』と『ファイナル・ファンタジー』の二大シリーズ以外の何らのイメージも、「Fake MOON」に見てとることはできません。
「勇者」のモチーフや平仮名名、主観視点での戦闘などはドラクエから。オープニングの絵、もってまわった設定とストーリーの解説テキスト、白く縁取られた青いウィンドウ、セーブ画面を模した画面デザインや飛空挺などが、FF。
これらの意匠的特徴が、シリーズを重ねる中で両タイトルのアイデンティティとして我々の意識に焼きつき、なおかつドラクエとFFの名を挙げれば、ほとんどすっかりRPGなるもののイメージが覆いきれてしまうほどの両シリーズの商業的成功という前提があって、はじめて「Fake MOON」を「RPGのパロディ」として見立てる我々の認識が成立するわけです。
また、「Fake MOON」の視聴覚的デザインが、プレイステーションというハード本来の性能からすると、グラフィックの描画方法やBGMの音数などを故意に制限することで過去のコンシューマ・ゲーム機のハード条件を模し、我々がかつて通ったゲーム体験の記憶を喚起しようとしていることも、見過ごさずに指摘したいところです。すなわち、「Fake MOON」の手ざわりは、スーファミ初期のタイトルがもっていた特徴と、ほぼ重なり合っている。
プリミティブで記号っぽかったファミコン時代の絵よりも色数や解像度が増し、キャラクタはよりイラストっぽくなり漫画のようなアップ絵もそれなりに見れるものになったけれど、間違っても「映画のような」映像表現は存在せず、一枚絵ではなく未だブロック・パターンの組みあわせで描かれたマップを一コマ単位で動き、サウンド面のハード制約がかなり改善されながらファミコンPSG音源での楽曲づくりの習慣から抜け出せずにいた時代(註1)。
そうしたゲーム環境の再現が僕らに喚起するのは、たとえばファミコンブームの熱気が冷めやらぬなか、はじめてドラクエの第一作に触れたときの古き良き衝撃、というようなものでない気がします。むしろ、ドラクエやFFがシリーズを重ねることで、個々の作品の出来とは別の次元でみずみずしさを失い、スーファミがあたりまえのように新しい国民機になるなかで、ゲームをするという体験が僕らのなかで陳腐化しはじめた時代の倦怠感をこそ、思い起こさせるものがあったのではないでしょうか。
したがって「Fake MOON」がいったい何のパロディなのかといえば、そんな「90年代初頭あたりに確立され、現在にひきつづく僕らとゲーム(特にロープレ)との、どちらかというとネガティブな関わり方そのもの」に、その批評意識の矛先が向けられているのだと、僕は考えてみることにしました。
どうしてか。論証のために重箱の隅をつつけば、プレステを模したはずの「ゲーステ」でスーファミ風のゲームがなされているのは考えてみれば妙な話です。「いま、ここ」でゲームをプレイしているプレイヤー自身を少年と同一視させるためにこその「ゲーステ」という仕掛けであるのに、何故ひと時代前のゲームを模すのでしょう。
それは制作者が俎上にのせようとしているものが、決して「普遍化された形式としてのRPGの仕組み」だとか「表現物としての個々のゲームタイトル」などではなく、「プレイヤーたる僕らが内面化しているロープレ体験のありかたそのもの」以外の何物でもないために、それをもっとも効果的にディフォルメしうる意匠として、スーファミ初期の時代の記憶に依ったとみる以外には、整合性ある解釈を立てにくいと思います。
このように、ゲームの表現を僕らの体験にひきよせて考えるための手がかりとしうるところにこそ、個々のゲームタイトルがよってたつ「歴史」的前提を評価することの、ひとつの必要性があるのではないでしょうか。そうした認識を欠いては、たとえば「『moon』は既存大作RPGシリーズへのアンチテーゼである」などという、しょせんは他人事でしかない、送り手側の作家論じみたところへ関心の所在を追いやってしまう大雑把な物言いのくだらなさに気がつくことが、それだけ難しくなるのです。
そして、こと『moon』については、その結末がゲームをプレイするということをめぐる明確なメッセージ性を有していることを特徴としています。そのメッセージを、プレイヤーにとってより整合性のたかいゆたかなものとして受け取るためにも、「Fake MOON」がパロディの矛先とした90年代初頭のゲーム状況の時代性についての感触があることは、不可欠とはいわぬまでも、ひとつの感性的なベースとなるのです。
この点については、のちに詳しく検討いたします。
■「落ちた少年の物語」の視聴覚演出の指向性とゲームとしての骨格~『moon』はアンチテーゼ?
「Fake MOON」のラスボス戦は結末を迎えないまま、母親の「テレビゲームなんてやめて、早く寝なさい」という音声で中断され、少年はいちど彼の「現実」に引き戻されます。そしてゲーステの前を離れて床に就こうとしたとき、スイッチを切ったはずのテレビ画面がざわめき、少年はそこに吸い込まれる。
次のショットで半透明になった少年のキャラクタが空を落ち、先の「Fake MOON」とはうって変わったプレステ本来のハード性能で(という表現が技術的に正確でなければ、「最近のゲームっぽく」)描かれた彩りゆたかな世界に着地します。画面に展開されるのは、個々の好き嫌いはともかく、間違ってもひとにネガティブな感性反応を起こさせるような企図の見出すことのできない、丹念にデザインされた美術と世界の住人たち。
ここでプレイヤーが納得させられた約束事は、いま目にしている画面が、「Fake MOON」に対する「本物の」ムーンワールドであるということ。
「リアルとフェイクが交差する」という宣伝コピーが示すように、スーファミ時代に比して格段に実在感のある世界を表現でき、さらにスーファミ的な手ざわりを模した「Fake MOON」との一目瞭然の描き分けを可能とするプレイステーションというプラットフォーム的前提があってはじめて成立するところに、『moon』というタイトルの歴史的立ち位置が存在するわけです。
キャラクターたちとの会話のテキストが、独自にデザインされた音声言語で喋る声に付せられる字幕として処理されているのも、オリジナルな実在感を指向する演出のひとつに数えられるものだと思います。
会話の演出へのこだわりという点で想起されるのが、すべてのテキストの平仮名による処理を、ハード性能の制約がなくなってからも自覚的に選択し続けた『MOTHER2』。かつてハードの性能が強いた偶然の状況に過ぎなかったはずの平仮名テキストを、ゲーム体験のプリミティブな力を構成する本質のひとつととらえ、こだわり続けた糸井重里の感性は、今も多くのプレイヤーの信頼を集めています。
『moon』が採った、字幕による意味伝達と既存の言語系で分節不能な音声とを衝突させる方法は、そうした糸井の直観と底を通ずるものでありましょう。彼らの見出した演出的直観をあえて言語化するなら、言語中枢の処理を受ける以前の、聴覚刺激としてのことばの豊穣さを見過ごさなかったということなのだと思います。こんなことを一例として、『moon』と『MOTHER』シリーズに共通して指摘される「RPGらしからぬ演出の独創性」は、単に漠然としたモチーフやテーマ性の類似ということではなしに、具体的な表現づくりのひとつひとつの過程に、実は非常に理にかなったものの見方の丁寧さが、OSのように貫かれていることに起因しているのではないかと僕なんかは考えるのです。余談ですが。
ともかく、ひとつひとつ間違いなく緻密につくりこまれた基本的な視聴覚演出のベースに下支えされて、『moon』の本筋たる「落ちた少年の物語」が始まります
そのままではこの世界の人々には姿が見えず、存在を認めてもらえない少年は、いくつかの誘導で盲のおばあちゃんの家にたどりつき、「Fake MOON」の勇者につけた名前の片仮名表記で呼ばれる彼女の亡くなったはずの孫と誤認され、この世界の服を得ることでとりあえずの姿を獲得します。ここまでの過程で、月の光を奪った悪い竜を退治すべく王宮からものものしい鎧と剣に身を固めた勇者が送り出され、さっそくモンスターと勘違いして犬を追いかけ回したり、民家の家具を物色したりの騒動で町の人々の顰蹙を買っていることが描かれます。
プレイヤーはここで、この勇者の所業が「Fake MOON」で操作した「勇者」の行動と対応するものであり、「Fake MOON」が文字どおりこのムーンワールドの出来事を、勇者に都合のよい“偽”の視点で歪めて描いたものであり、実際のところは画面上で「リアルに」展開されているような、周囲にとって迷惑千万なものであったという仕掛けに気づくわけです。こののちも、勇者のとる行動は、「Fake MOON」の展開と実に些細な部分まで対応をみせ、「落ちた少年の物語」のなかで皮肉かつユーモラスなその「真相」が曝露されていきます。
さて、少年はのちに彼をこのムーンワールドに召還した月世界の存在であると判明する、夢で出会う女王とその従者ムツジローから、勇者がモンスターとして殺害した51匹の罪なき動物たちの魂をキャッチし救済すること、および地上世界の住人たちとさまざまなかたちで関わることで「ラブ」を収集するよう示唆されます。少年がこの世界で連続して活動できる時間は限られており、そのアクションリミットが切れる前にベッドで眠り休息をとらなければ命をなくしてしまうのですが、一定の「ラブ」を集めると少年の「ラブレベル」が上昇し、活動限界時間が長くなるのです。
このような物語上の動機づけと重ね合わせられて、ようやく「落ちた少年の物語」のゲームとしての骨格が明らかになりました。すなわち、昼夜と曜日のルーチンサイクルでタイムテーブルの進行する世界において、アクションリミット分の時間制限を受けながら、動物たちのソウルキャッチと人々にまつわる「ラブ」の発見・獲得という趣向に見立てられたイベントを探しだし、謎(パズル)解きをおこなうこと。この構造が終局まで貫かれ、「落ちた少年の物語」のストーリーを形成します。
この時点で、「『moon』はRPGへのアンチテーゼである」という評価の仕方について、これを「『moon』がこれまでみられたRPGという範疇に批判的意識を持ち、そこにおさまらない新しいゲーム性を実現した、ないし目指した」と解する場合の議論が可能になります。
まず、実際のゲームに照らし合わせるかぎり、明らかにこの見方は不当です。操作キャラクターに与えられた行動制限を何らかのゲーム課題(戦闘とかアイテム収集とかパズル解きとか)をこなすことによって徐々に解除する(成長する)過程をストーリーと絡めて進行させるという性質は、RPGとカテゴライズされうるあらゆるコンピュータゲームに共通する最大公約数的構造の表現として大きな問題はないと思いますが、先に要約した『moon』のゲーム性は、この構造を一切逸脱するものではありません。
もしこの論点を生きながらえさせようとする場合、ロープレの本質についての定義をより狭めて限定する以外にありませんが(たとえば成長のための課題を“戦闘”に限定するとか、行動制限の性質は定量化されたヒットポイントでないと駄目だとか)、そのような試みのばかばかしさは指摘するまでもありません。
また、制作者自身がそうした逸脱を目指す意図のなかったことを証言するインタビュー記事も存在する(註2)ことから、「『moon』はアンチRPGを目指したが失敗した」も単なる事実誤認といえます。
では、「アンチRPGなシステムを目指すべきだった、ないし目指して欲しかったのにそれは実現されず、したがって失敗」式の議論についてはどうでしょうか。
こう展開するにいたり、ようやくまともな検討の余地が生まれます。これは『moon』という作品総体のなかでのシステムないしゲーム性の意義づけに関する話題であり、以上のようなゲーム構造単体の議論からでは結論を出すことができません。
おそらく、「目指すべき」の主張は、次のふたつの解釈を前提に成立していると思われます。
(1)「落ちた少年の物語」は、結局のところ「暴力的な勇者へのアンチテーゼとしての平和主義・博愛主義のアジテーション」である
(2)「Fake MOON」の存在意義は、上記の「落ちた少年の物語」の読み解きの正当性を際だたせるものとしての「勇者なシナリオ」を揶揄することである
そして、『moon』の販促コピーが「もう勇者しない」であったことなども補完材料としながら、このふたつの前提より、
(3)『moon』の作品総体のテーマは、いわゆるRPGの表面的な謂としての「勇者なシナリオ」の否定ないし揶揄以上のものではない
と、さらなる解釈を展開します。
この地点からゲームとしての「落ちた少年の物語」がもたらしたプレイ体験を振り返ると、それは世にある多くの「勇者なシナリオ」がそうであるところのロープレの体験と、結局同じようなものでしかなかった。つまり、シナリオとプレイ体験とがちぐはぐであるがゆえに詰めが甘く、(3)の「テーマ」は、中途半端で不徹底と評価すべき。
したがって、各々のパーツが協同して感動を高めあうよりトータルな作品であるためには、不徹底の元凶であるゲーム性の部分において、強力にRPGのオルターナティブを目指すべきだった。
というのが、この主張の論理でありましょう。
しかし、僕はこの(1)~(3)すべての解釈に反対ですので、この主張は斥けられるべきだと思います。
このうち、(2)についてはすでに詳論し、「90年代初頭的な『ロープレ体験の陳腐化』を想起させること」という対論をなかば呈示しており、あとは「落ちた少年の物語」との関係による意義づけをのみ残すだけです。
ですので、次は「落ちた少年の物語」のゲーム性とその見立て演出とがどう絡んでプレイヤーの体験を構成したのかを追いながら、(1)の解釈の反駁に繋げたいと思います。しかるのち、おのずと(3)の無効性が明らかになるという寸法です。
■「落ちた少年の物語」のゲームに秘められた「歴史」~ゲームはなにを得、なにを失ったのか~
外堀から埋めはじめてみたいと思います。そういえばRPGとしての「落ちた少年の物語」は、過去のいくつかのタイトルにおぼえた感覚を、思いおこさせてくれるところがありました。
たとえばアクション・リミットによる行動範囲の制約は、かつて『Ultima』シリーズでFOODのルールが同様のゲーム上の効果をもっていたことを思い出させます(註3)。饒舌なテキストによるつよいシナリオ誘導がなく、世界をあてどもなく歩くなかで“謎”を探し、キャラクタ操作とアイテム選択の素朴な操作で解くべきパズルを見出していくあの頼りなげな味わいは、『ゼルダの伝説』とか『ワルキューレの冒険』。
どちらかといえば、「RPG」というゲーム様式のイメージがあまり明確なかたちで存在せず、かなりイイカゲンな言葉だった時代の息吹。というより、80年代半ばくらいに放課後をファミコンとともに過ごした子供たちは、それらのゲームを「RPG」なんていう耳慣れないコトバで認識していたのではなかったはずです。
むしろ僕らの気持ちの実際は、『マリオブラザーズ』や『マッピー』にアスレチック広場を、『グーニーズ』や『スペランカー』に秘境探検を、そして『チャレンジャー』や『スーパーマリオブラザーズ』(註4)にさらに広々した冒険世界を見出してきた「遊び世界」の拡張のベクトルの延長線上に、それら「アクションRPG」のもつ“世界の謎”との悠々とした戯れ方と、出会っていたのではなかったでしょうか。
逆に、そのころにRPGという言葉を意識していたようなのは、たまさか『Wizardry』とか『Ultima』とか『ザナドゥ』に触れることのできた一部のパソコン持ちに過ぎなかったでしょう。そんな恵まれた一人だった僕なんかの意識において、『指輪物語』~『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の舶来ハイファンタジーのゲーム化の直接的な刻印をはっきり見てとることのできる正統的パソコンRPGは、ファミコンみたいなコドモの遊びと一線を画した、ある種の「高踏教養」であったわけです。ストイックなインターフェースと、緻密なパラメータにもとづく戦闘の戦略性、横文字で書かれたアイテムやモンスターなどの道具立てのフェティッシュさなどにみられる何やら秘儀めいたゲーム体験が、そんな意識のあり方を担保していました。
「RPG」というゲームスタイルの原体験を振り返るとき、僕のなかにはそんな、相異なるふたつの「RPG体験」があったような気がするのです。「遊び世界」と近寄りがたいコア・カルチャーと。
ドラクエやFFは、この後者の息吹を前者にそそぎ込むことによって、僕らとゲームとの関係を、それまでとはまた違ったものにせしめたのでした。それは、「RPG」が「ロープレ」になってゆく時代の幕開けであったとも、言い換えられるでしょう。
この変化のなかで、「ロープレ」に切っても切り離せない属性として産み落とされた歴史的産物が、言葉によって明晰にゲーム過程のなかで語られる「シナリオ」です(註5)。これにより、それまではRPGのゲーム性がもたらすプリミティブな感性反応のパターンを、言語処理系の網目にすくいあげて能動的に秩序化する以外の回路のなかったプレイヤーの内的な<物語>(註6)形成の過程に、ダイレクトに言語情報を投ずる回路が重層的に加わり、高度に秩序化された<物語>を構築することが容易に、しかも低い能動性の水準で(ほとんど意識をはたらかすことがなくとも)、実現できるようになりました。
そのようにして、言語性のたかいシナリオ進行と数値化されたパラメータやコマンド選択による戦闘秩序とが、「ロープレ」らしさの車の両輪と認められて90年代にかけて洗練されていくにつれ、かつての「遊び世界」系のアクションRPGとコアRPGとが持っていたそれ以外の“雑味”は、切り捨てられたりRPGジャンルの周縁に追いやられたりといった運命を、たどってきたのではないかと思うのです。
僕が「落ちた少年の物語」のゲーム体験に与えたいと思っている意味づけの輪郭が、そろそろ見えはじめてきたのではないでしょうか。それは、これまでみたような「ロープレ」化以前と以後の我々とゲームとの関わり方の変化についての認識があって、はじめて空虚なレッテルとして以上の理解がえられる性質のものだと考えたので、かくもの回り道をさせていただきました。
つまり、RPGという言葉に自縄自縛される以前のRPG、とりわけファミコンブームのメインストリームたる冒険アクションゲームの最終型としての「遊び世界」系アクションRPG体験がもっていた、非言語性の見立てパズルを能動的に、しかも反射神経的ではなく、悠々と発見して取り組む楽しさの息吹(註7)。
プレイヤーにとってこのムーンワールドでの体験を、ビビッドで実在感あるゆたかなものとして記憶されうるものに仕立てあげるべく、せめて最低限、80年代半ばの「ゲームの面白さ」の水準を実現しようという真正な意志。
この言葉にはすこしの客観性もありません。直接実証できる方法もわからない。けれども、「ああ、そういうことか」と納得してもらえる感性の少なからぬを信じます(註8)。
ただし、これはやはり骨格としてのゲーム性がもたらす、体験の輪郭であり、下地塗りにすぎません。それを具体個別の見立てがどう充填し、上塗りをしたかをみて、はじめて個々のタイトルのゲーム体験をトータルに<物語>化できるのではないかと思います。
したがって「落ちた少年の物語」についての前節(1)の<物語>についての反駁も、その検討が済んだのち、おのずから完了することになるわけです。
■「落ちた少年の物語」のゲームの見立て演出~『moon』だけの「ラブ」とはなにか~
見立て演出の検討とはどういうことかというと、「落ちた少年の物語」のひとつひとつのパズル解きが、具体的にどういうイベントだったかを評価し、それが僕らのこころに喚起してくれた「てつがく」を見えるようにすることです。
「落ちた少年の物語」のパズル解きの見立て演出の最大の特徴は、言うまでもなく、きわめて丹念に設計されたムーンワールドの住人が、昼夜曜日の繰り返しの日常をいとなむその「生きざま」に寄り添うことで、それが何の見立てであるのか(インテリゲンチャのヨシダでさえ)誰にも答えられない「ラブ」という不思議な定量パラメータを収集することにあります。動物たちのソウルキャッチは、それぞれが人とは別の律でこの世に存在(粘土細工でつくった造形を取り込むというかたちで、月世界の生き物たちはデザイン的に差別化されている)していた、「生きざま」の記憶を読みとることで捕まえるという、人々の「ラブ」ゲットと共通性と異質性をもつ行為です。あれもラブ、これもラブ、そして動物たちのタマシイがラブ。
見立ての意味性の強弱を比較すれば、意味の世界に生きる人間たる少年から相対的に遠いところにある動物たちの「生きざま」を、動物図鑑アニマルファイルをガイドに解読する作業は、人々に付き合う際のそれよりも、無機物を相手どった純然たるパズル解きに近い位置にあります。人間科学よりも自然科学の方が没価値性がたかいのと同じ道理。したがって前節でみた、パズル解きのゲーム性による下地塗りが、トータルな体験のなかで比較的むきだしの色合いを出します。
よって、見立て演出がもたらす意味づけの上塗りの性質は、もっぱら人々にまつわる「ラブ」ゲットのイベントを対象に考えてみることにします。
全体を概観しましょう。
ムーンワールドの住人たちはすべて違った顔と「生きざま」をもっており、各人について必ずひとつないし複数の「ラブ」イベントが用意されています。各々のイベントは基本的に独立ながら、たがいに絡み合っているものも少なくありません。
特につよい超越的な意味性をもたない、平和な日常のなかでの各人の「生きざま」における小事件をあつかったものが大半ながら、勇者の竜退治の大義名分である「月の光の喪失」という世界の異変についての「大きな物語」に絡むものも一応存在しています。ヘイガー博士の月探査ロケットのパーツ集めに関わる一連のイベントは少年の旅を直接終局に導くものであるのと、「Fake MOON」でプレイヤーの見た場面と正確に対応している勇者絡みの諸騒動、少年の出自を知り「現実」への帰還のための方策として「光の扉」を開けることを示唆する狂言回しフローレンスとの出会い、およびヨシダに付き合って世界観と問題意識を学ぶ夜中の大学のイベントは、少年をエンディングに向けて動機づけるという意味での「本筋」とみなすこともできるでしょう。
ただしこうした目的性があまり饒舌なテキストで語られたり、少年を強烈に促したりするような演出はなく、あくまで他のイベントと等価なかたちで断片的に呈示されるのみであり、プレイ中ほとんどの瞬間は「本筋」への目的性などを意識せず、偶発的ないし気まぐれに個々の登場人物たちと関わるはずです(ついでにいえば、かけかえ可能なMDで、各場面の物語的意味づけを役割とする固定的なBGMを排したのも、それと通底した演出戦略でしょう)。そういう前提で「ラブ」収集がおこなわれます。
もちろんひとつひとつの「ラブ」ゲットをすべてトレースするわけにはいきませんので、各々の「ラブ」ゲットイベントの見立てバリエーションを、次のように三類型7種類に分類整理して計上してみました。
第一類型は、少年が積極的に一肌脱ぐことによりキャラクターたちの感謝の「ラブ」を受け取るタイプのものです。合計20件で、「落ちた少年の物語」の最大類型をなします。この類型は、多くのRPGやAVGでよく目にする、メジャーかつわかりやすいタイプのイベントのつくり方だといえるでしょう。
第二類型は、特に少年が何か積極的なアクションを起こさずに得られるタイプの「ラブ」を分けました。“みまもり型”とは、相手が相手の「生きざま」の文脈のなかで何かを得たり、人の知らない秘密のすがたをみせたりする場面に立ち会うことで手にする「ラブ」。“はげまし型”は、特につよい援助行動をするわけではないが、相手が自力で悩みを克服したり自分を変えたりする契機に少年がなったときの「ラブ」。一風変わったのが“つきあい型”で、特にコミュニケーションらしいコミュニケーションが成立するわけでも、普通の意味で相手がポジティブな変化をするわけではないが、愚痴を聞いたり相手の手前勝手な自己納得に付き合ったりすることで得られる「ラブ」です。合計15件と、少なくありません。
第三類型は、人間相手や無機物を相手に勝負して、勝ったときに得られる相手との友情や勝利の達成感という意味での「ラブ」です。計8件あります。これも第一類型同様、他のRPGやAVGで一般的なイベントのあり方でしょう。
以上みてみると、第二類型のイベントのあり方が、他のゲームタイトルではあまり目にすることのない『moon』独特のきわだってユニークなものであることに気づかされます。システム的な背景としては、昼夜曜日のタイムテーブルに沿った各キャラクターのルーチン行動パターンが存在し、「大きな物語」に拘束されないかたちで少年がその「生きざま」に都合をあわせて行動するというプレイスタイルがあってはじめて実現するタイプのイベントだからです。
このことは、世界が決して特権的な存在としてのプレイヤーのために準備されているのではなく、自らが歩み寄らなければ見えない世界があるのだというムーンワールドのゆたかな実在感をまたしても僕らに与えるのと同時に、各々のキャラクター造形とあいまってこの作品が抱く人間についての「てつがく」をも垣間みせてくれるものです。
すなわち、決して安易に立ち入り、肩代わりしたりわかった気になったりすることのできない、「他人の人生」というものの陰影。あるいは、もっと身も蓋もないコミュニケーション不能な他者の存在。
こうした人間観は、これまでゲームがあまり積極的に描いてはこなかったものだと思います。そんな人々との距離感のオモシロさを、このゲームは「ラブ」と呼んだ。よくいわれる悪意とか毒気とかいう感想の持ち方は、すこしばかりプアではないでしょうか。
そんな「てつがく」に貫かれたこの世界の住人たちの造形のもつ陰影は、個々の好き嫌いを越えて、ただごとでない水準にあると僕は思います。
毎日クッキーを焼き続ける、盲目のおばあちゃん。「おばあちゃんは病気がよくなって嬉しいんだよ」と少年を孫と信じて語りかけるすがたのやりきれない寂しさ。
週に三日、ナイトバーで酒をあおる門兵のイビリー。別れた女房が連れた息子との「約束」をはたすべく、毎週太陽の日の練習で、念願かなって飛行機は夕暮れの空を舞う。ただしその「約束」は、今のところまだ、彼の心の中だけのもの。
そのナイトバーの女主人ワンダ。カウンターの中に拘束されたフリーキーな体躯と、彷徨人フローレンスと彼とのあいだの一人娘フローラへの想いとのギャップが醸しだす、えもいわれぬ哀感。
トンガリMD屋店員バーン。半端に途切れるギターサウンドと忙しくギターを隠す恥じらいの仕草の、たまらない愛らしいさ。示されてみるとイカニモな類型を切りだす、制作者のまなざしの確かさ。
80年代以降の露悪的ホンネ主義の結実、エコ三兄弟。イッてしまった長兄長女と、戸惑いを捨てられない純朴な末弟という設定の芸の細かさ。
個人的ヒットをつかれた、「バリバリ島」で「電波サル」に「ギャムラン」を習う、次男坊☆スマの傑作エピソード(註9)。いじけっぽい自意識では、あの島のコミュニティ楽器は弾けないよ。
90年代っぽいクラブノリが直接ひきいれられたMDミュージックにのせて描かれる一筋縄ではいかないキャラたちへのまなざしは、少々突き放した感じがするかもしれません。けれどもそれはイマドキの感覚によりかかった不人情ではなく、この時代の表現にはどうしたって欠かせない「照れ隠し」にほかならないのだと、僕は感じます(註10)。なんなら、戦後民主主義的タテマエのオルターナティブが未だみつからないなかでの最低限のバランス感覚とかいう大文字に言い換えてもいい。
そうした根っこの部分の素直さを信じられるのは、前節でみたような「ゲーム」としての下地が、僕らの体験の嘘のなさを担保してくれているからなのでしょう。もはや何も信じられなくなった我々が、なぜかひとりゲームだけは信じている。そういう物言いの成り立つ現実は、確かにあるような気がするのです。
なんにせよ、前々節の仮定(1)。「落ちた少年の物語」は浅薄な平和主義・博愛主義のアジテーションである、が成り立つ余地は、すくなくとも僕の体験の中にはありません。のみならず、多くの人が無理なく受け止めるであろう素朴な印象を死なせてしまう有害な言葉の使い方だと思います。
だから仮定(3)、作品総体としての『moon』の価値を、「失敗したアンチRPG実験である」と貶める見方も、ここでは棄却されます。第一、この見方はエンディングの整合性ある解釈を諦め、その失敗を作品の不出来に転嫁する、批評としての完成度の低いものでした。個人的に、作品の失敗を指摘するならするで、その失敗の断面から読者に何らかの有効な視座や価値、あるいは興を再構成して提供するまでの心構えをもたないものは、自身も表現物であるにほかならない批評としては未成熟なのだという価値観がもっと当たり前にならなければいけないと思います。その前提がない意見は、せいぜいあくまで自立した批評にサンプルとして参照されるだけの「材料」としての位置づけをしかもちえないものです。
次節では、ゲームを楽しむことに根ざした多くの意見や感想たちに批評たるを断念させた、結末部分の検討に入ります。我々はなぜあの選択をしなければならなかったのか。その必然性を、あくまで作品内の論理から探ることが、この稿の最大の目的なのです。
■そして終局へ~「勇者の竜退治」と「落ちた少年の物語」、リアルの世界とフェイクの世界~
ゲーム中、明示的に描かれるわけではありませんが、『moon』の物語の「本筋」は、いくつかのアイテムを人に見せたときの反応やポイントを調べたりして得ることのできる複数の情報の断片を再構成することによって、プレイヤーが見立てる<物語>として得ることができます。というよりも、ゲームを進行させるイベントクリアのためのフラグ立てとは関係のない、ただ興味のあるプレイヤーに「本筋」についての<物語>の材料を提供するためだけに存在するアイテムが存在していたりして、近頃の「ロープレ」化したRPGよりもむしろ『ゼビウス』や『ドルアーガの塔』に近いストイックな<物語>喚起の姿勢が感じられました。余談ですが。
そうした純然たる<物語>喚起アイテムのひとつが、「白羽の矢」でした。これは勇者の由来を説明づけるものです。かつて月の光が失われたとき、「伝説の勇者が悪い竜を倒し、月の光を取り戻す」というストーリーで人心をなだめるため、勇者をでっちあげるためにおこなった「白羽の矢」儀の名残であると。ここで選ばれたのが実は死んだと思われていたおばあちゃんの孫であり、城に伝わる呪い鎧を着せられて死ぬまで剣を振るい続けることになったという真相が、やはり純<物語>喚起アイテムである「勇者のブロマイド」を酒場のイビリーに見せることによって判明します。
王様の要請を受けてのヘイガー博士の月探査ロケット計画は、大臣のこの妄執的な「世直し」に対し、月世界に直接おもむくことで月の光の喪失原因を探ろうというものでした。要するには「世界の危機」に対するふたつの対処のシナリオがあり、一方が「勇者の竜退治」(少年の「現実」から眺めると「Fake MOON」)、もう一方が「落ちた少年の物語」であったというわけです。
かなり危険なことを示唆してロケットに乗り込ませておきながらのヘイガー博士のなかなか無責任な誘導と、これまで関わった人々の意識的無意識的な援助を受けながら、幾多に演出される危機を越えて月に到着する少年。そこで目にするのが、ゲーム中ヒントのための預言書として扱われていた「奇盤」が、うずたかく積まれた月世界の光景。ROMチップのかたちを模した奇盤には、この世界に棲むすべての人々の「生きざま」や物事の進行が書き込まれていた。
月の女王の言では、勇者の所業により月は奇盤であふれかえるようになり、この世界は危機に瀕している。それを回避するための預言と女王らが考えた「落ちた少年の物語」の奇盤にしたがい、少年を外の世界から召還したのだと。そして勇者が月の城をラスト・ダンジョンとみなし、女王の裏面のもうひとつの顔として描かれている竜を倒しにくる前に、ラブに満ちた透明な少年の手により「光の扉」を開かなければならない。
ここで、それまでには明示されていなかった、勇者の行動の脅威が明らかになります。
いかに周囲に迷惑であれ、アニマル殺しの暴力が甚だしかれ、基本的には世界を救うためであるはずの勇者の行動が、生命なきコンピュータ・プログラムの謂としての奇盤へと事物を還元してしまう。
この設定の意味は何でしょうか。プレイヤーはここで、いよいよこの『moon』という作品の矛先が、ゲームをプレイする我々自身に向けられていることに気づくべきヒントを与えられたのです。なぜか。
生命のないコンピュータ・プログラムのもたらす視聴覚情報を個性あるキャラクタに見立て、活き活きとしたゲーム体験を見出すのは、僕ら自身のこころのはたらきにほかならないからです。
勇者の剣が、キャラクターたちの複雑な(わざわざクレイモデルを組み立てまでした)質感を奪い、ただのプログラムに変えること。これが、そのようにゲームを見立てる人のこころのはたらきの危機を隠喩するもの以外の、いったい何だというのでしょうか。
その「ゲームを見立てる人のこころのはたらきの頽落」が実際にどのようなものであるかは、すでにご覧いただいた、「Fake MOON」の意味づけと「落ちた少年の物語」のゲーム性についての議論を思い返していただければ、おのずから明らかであると思います。おそらくはドラクエ、FFのシリーズ化とスーファミの新国民機化とを背景に、90年代初頭くらいから支配的になったゲーム体験の自堕落化・マンネリ化の傾向。さらにその生理的内実についてのひとつの考察として、RPGが「ロープレ」となり、「シナリオ」が支配的ファクターとなってプレイヤーの積極的意識活動としての<物語>生成のアクティビティが相対的に低下した可能性を、僕は指摘したのでした。
すくなくとも、そうした実感をゲームと共にあゆみ成長するなかで抱いたことのある人にとっては、勇者が無造作に振るう剣がキャラクター達をただのパターンの塊に帰したその描写は、決して唐突なものではなかったはずです。
少年は促されるまま、「光の扉」に手をかけ、開けようとする。開かない。
ムツジローが少年の失敗をなじり、女王/竜は困惑する。そうこうするうち実は彼にとっての「飛空挺」としてロケットに隠れ乗っていた勇者が降り立ち、少年が救った動物たちをラス前の中ボスとばかりに一掃、動物たちは次々とむきだしの奇盤のかたちへと変じていく。
ここで初めて、女王/竜はこの世界のほんとうのからくりに気づくのです。彼女ら自身の奇盤が世界のどこにも見つからなかったわけ。それはこの世界を統べる彼女ら自身もまた、奇盤に運命を記述されたプログラムの幻影に過ぎなかったから。外の世界から少年を呼びだし、「落ちた少年の物語」を歩ませたこともまた、プログラムの予定調和に過ぎなかった。ハードディスクに書きこまれたOSがみずからをフォーマットすることができないように、この運命を内側から変えることはできない。
絶望のなか、いよいよ勇者の剣が迫る…。
僕はこの稿で、ゲームとしての「落ちた少年の物語」が、いかにプレイヤーにゆたかな実在感を喚起するために工夫されているかを、視聴覚演出・ゲーム性・見立て演出と下から順に階層を積みかさね、再三にわたって強調してきました。「Fake MOON」との対比で、セーブすら意識させない一回性の、極力ゲームくさい嘘を感じさせないリアルな世界として一貫して描きだすのが、トータルな体験としての「落ちた少年の物語」の表現戦略であったと思います。
ところが、その「落ちた少年の物語」もまた、いかに巧妙に描かれていたとはいえ、結局は「Fake MOON」同様のプログラムされたフェイクに過ぎないという、作品からの見解の呈示。ここからも、この作品を「勇者の暴力主義に対し博愛主義を対置しただけ」とするのが誤解であることがわかります。そのどちらもが、等価にフェイク(動物の救済を疑いなしに善とするムツジローの造形も、根っこのところでプレイヤーに胡散臭さを感じさせるよう狙ってあったとみなせますし)。
そのことの意味を考える暇もなく。女王/竜は最後のぎりぎりの希望として「落ちた少年の物語」の奇盤に結末が書かれておらず、外の世界から来た少年ならばもしかすると発揮できるかもしれない、「レベルであらわせないラブ」による救済の可能性を示唆し(もちろんそれ自体もプログラムされた誘導であるに間違いありません)、勇者の必殺技の前に、死して奇盤と化します。
最後に、勇者が自らの分身である少年を斬り、この世界に実体をもたないふたつの影がともに倒れた瞬間。
「テレビゲームなんてやめて、早く寝なさい」
視点は「現実」、テレビの前。画面に浮かび上がるのは、ゲームオーバー時に誰もが目にする、あの見慣れた選択肢。長い旅を終えてふたたび「現実」へ戻った少年と立場を一にする、「外」の世界の人間として、僕らはひとつの選択を迫られました。
ゲームを続けるか、否か。
■「ゲームを捨てよ、街に出よう」の底にあるもの~ひとつの作品との対比から~
もうすこしだけ、まわりみちをしようと思います。
その選択を迫られたとき、僕はひとつの既視感をおぼえたのです。
あの素気のない、少年の母親の声が、たぶん記憶のリリーサーになったのでした。子供のころをゲームとともに過ごしたことのある人ならば誰もが経験したことがあるだろう、「ゲームなんて」の無理解との対峙。自分にとってはまぎれもない真実である、こころのなかの世界に対する理不尽な無視。
かつて、少年の日のフィクションとのそんな関わり方の底にある心象を鏡のように描いた一遍の物語を、僕は夢中になって読んだことがありました。ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』。『指輪物語』や『ゲド戦記』とともに、わが国でもっともよく読まれている現代ファンタジー作品のひとつです。
運動も勉強もダメでいじめられっ子のバスチアンが唯一心を解き放てるのが、物語の与えてくれる空想の世界。そんな彼がいかに「早く寝なさい」に抗し、ベッドに懐中電灯を持ち込んだりして本読みに耽ったかという描写をつよく記憶しているのですが、『はてしない物語』はまさにそのように読むべき本でした。周知のようにこの作品は、主人公バスチアンが冒険物語「はてしない物語」を読んでいく過程に、本好き・ファンタジー好きの読者のすがたを重ね合わせ、やがて彼が物語で描かれる異世界ファンタージェンの危機を救うために本の世界へ招請されて帰還するまでの筋立てのなかで、物語する人々のこころの問題を深いレベルで描き出し、第一級のファンタジーと称されたのです。
『moon』の筋立てをよくある話だとして、新奇性のなさを指摘するためにだけ、異世界ファンタジーの漠然としたカテゴリーを想定する感想のもち方はこれまでもいくつか見られたのですが、僕はカテゴリーの金字塔であるこの『はてしない物語』には、もっと詳細かつ本質的な部分での同型性を見出せる気がするのです。
バスチアンが「はてしない物語」の外側からアトレーユの血沸き肉踊る冒険物語に引きつけられ、“虚無”からファンタージェン国を救うために現実世界でのダメな自分自身を捨て、勇気をもって幼な心の君の招請に応えるまでの前半部と、ファンタージェンの救世主として増長し、本来の自分自身を忘れ身勝手にふるまうことで再度世界を荒廃させ、自分自身のアイデンティティを危機に追いやってしまう後半部とのシンメトリー。
これに対比すると、モニタの外から体験されたゲーム体験の陳腐化・自堕落化による世界荒廃の謂としての勇者のシナリオ「Fake MOON」と、ゲームが元来もっていた活き活きとした非日常体験の回復への願いとしての「落ちた少年の物語」のシンメトリーは、時系列順序と異世界内外での体験の位置づけをのみ入れ換えた、逆順『はてしない物語』ともいえる構造を抱いているのではないでしょうか。
世界の事物を次々と奇盤へと還元する勇者の剣は、まさに文明がファンタジーの本来の想像力を萎えさせ、物語がただの受動的な消費娯楽と堕落化した事態の象徴としての虚無や、いずれはそのような虚無と化す増長したバスチアンの逃避的なファンタジーの関わり方と、同じものだといえるでしょう。
人狼グモルクはアトレーユに、かつてファンタージェンを訪れ、亡者となって二度と現実世界に帰れなくなった者たちの話をしました。ファンタージェンを訪れた人間はそこで思い通りの願いをかなえることができるかわりに、現実世界での記憶をひとつずつ失うので、結局「願い」の主体である自分自身をも失ってしまったというわけです。バスチアンもまた、その道を半ばまで歩みかけたのでした。
言い換えれば、空想世界のなかに留まるかぎりにおいて、そこではすでにつくられたイメージを蕩尽し、縮小再生産をしかなしえないのだという、ひとの精神についてのエコロジーが唱えられているというべきでしょう。一見「人の想像力は無限である」というような耳あたりのよい主張に傾くかのイメージをもたれがちなファンタジーという表現の本質は、そのような、ひとのこころの妥協のない写像なのだと思います。
そんな、ファンタジーのなかのファンタジー『はてしない物語』は、ファンタージェンで出会ったかけがえのない友たちの援助によって真実に気づくことのできたバスチアンが、本来の自分自身を受け入れ、この魅力ある架空世界をすこやかな姿に保つため、現実に帰還することによって幕を閉じます。ただしそれは以前のバスチアンでなく、ファンタージェンという「リアル」を自分のなかに得た、新しい現実との付き合い方のできる彼になることが、この物語のエピローグでした。
そして愛すべきファンタージェンの住人たちも、あの有名なフレーズ「それはまた別の話。また別の時に語ることにしよう。」で示唆されるように、それぞれの物語をどこかでつむぎつづけているのでしょう。
そう、僕らの選択の話でした。
それはファンタージェンを体験したバスチアンのこころをなぞれば良かった『はてしない物語』の読者よりも、きっと困難な立場であるにちがいありません。バスチアンはエンデの選んだ、道を誤り亡者となることをさいわい避けることができた成功のサンプルだったわけですが、僕らはよりみずからの体験そのものに近いところに立脚し、失敗する可能性を実際に背負ったうえで、成功を選びとらなければならないのですから。
ただし、正解はきわめて論理的です。
一見すべてのことが思いのままになりそうなファンタジーが、実は誰にも揺るがすことのできない独自の“律”をカテゴリーの存立根拠としているように、そこにはかならず、そうしなければならない必然があるのです。
奇盤というチップにすべての運命が書きこまれたムーンワールドを、そうでない地点へ解放するとはどういうことか。月面の奇盤で「ワンダがカウンターの外に出ることは、絶対にない」の記述を見つけたときのかなしみを、どうすれば救い出せるのか。今のままでは永遠にプログラムに拘束された幻影でしかない彼らが、「それはまた別の話」を歩みだすことができるようになるために、僕ら自身は何をすべきなのか。
だから、ほかの何事かのためではなく、あくまでムーンワールドと『moon』を体験した僕ら自身を救うためにこそ、あの正解は正解だったのです。
■おわりに~「リアル」と「フェイク」の断絶を越えて~
かくして正解を選びとることのできたプレイヤーたちは、少年自身の「現実」に解き放たれ、ムーンワールドの住人たちが「また別の話」を歩みはじめていることを示唆するエンディングを目にしたことでしょう。
けれどもさいわいに、いちどは正解を選びそこねてフェイクの円環に戻されてしまった人も、ファンタージェンの亡者として一生閉じこめられるようなことはなく、みずから気づいたり先達に道を尋ねたりして正解にたどりつくことができるまで、何度も選択をやりなおすことができます。
もちろん、あの選択にこれまでみたような意味に気づくことなく、ただ二択の作業として偶然に正解を選びとることもあれば、逆に一度か何度か正解選びに失敗してこそ気づきうる場合もあると思います。
それが、ゲームというものです。
この稿では、僕自身の内的な体験としての『moon』が、決して僕個人だけに意味あるものではないことを信じ、オルターナティブとして役不足と感じた他の見方については僭越にもかなり躍起に否定したりしながら、長々と再現させていただきました。しかしながら、わざわざ確認するまでもなく、ひとがゲームに何を見出すかは、そのひとが生きる現実の具体個別の文脈のなかでゲームがどのような位置づけにあるかに依りますので、僕の言葉の体験喚起のリリーサーとしての有効性は、そこに縛られたものでしかありません。
たとえば80年代のゲーム体験がなく、僕が指摘した歴史の大勢みたいなこととは関係なしに90年代初頭のロープレを活き活きとした青春として過ごした人にとっては、『moon』が勇者にあのようなイメージを託したことは、自分自身のかけがえのない体験を踏みにじる悪意として受けとるほかのないものだったことでしょう。
だけれどその場合であれ、すくなくともゲームを語ることをそれぞれの文脈において必要視したり、実際そうしていることを共通前提にするならば、誰にとっても関心をもたずにはいられない、僕らが生きる「現実」とゲームのなかの「虚構」との関係のありかたについて、ひとつの批評的示唆を読みとることのできる立場を、『moon』という作品が存在せしめたという事実を「知って」おくのは、決して無駄なことではないと思うのです。
「現実」とゲームの「虚構」とを、相反する断絶したものではなく、たがいにどちらか一方だけではすこやかな世界を築くことのできない相互的なものととらえること。これがもっとも作品内の諸表現を整合的に説明し、多くのプレイヤーの現実にとってみのりをもたらしてくれると僕が感ずる、『moon』のメッセージにほかなりません。
そしてこのメッセージはひとり『moon』が突如として唱えたものではなく、『はてしない物語』において顕著に意識化・対象化される、ファンタジーという様式の本質として、近現代文学の周縁に連綿と受け継がれてきたものでもありました。
さらに根源に遡るなら、もともと人間が、神話というかたちに集約された「虚構」の体系を祝祭の場において再現し、「現実」を周期的に活性化する(というよりも、「現実」も「虚構」もない人間精神の構造に即した起伏やリズムをもつ、ただひとつの“現実”を生きる)ライフスタイルを、人類史の圧倒的多くの時間、当たり前にしてきたことを指摘してもいいでしょう。そうした「現実」と「虚構」との一体化した関係が、とりわけ近代以降に決定的に喪失するなか、日常の論理への従属を特徴とする近現代文学のリアリズムの手法を逆手にとって、より質感ある原初的な架空世界を描く手段に転用することで現れたのが、こんにちのファンタジーなるものの氏素性であるとする見方は、大雑把な見通しを晴らしてくれると思います(註11)。
ゲームもまた、日常を構成する現実世界を効率的に写像し制御するために生まれたコンピュータという未曾有の器を「遊び」の意志のもとに転用した徒花として登場しました。文字で書かれたファンタジーよりもさらに膨大な感性情報に満ち、ミクロな場面におけるビット換算の情報量とチャンネルの多様さだけみれば、コンピュータ・ゲームは相対的によりかつての祝祭に近いかたちで人間の生理に即した普遍衝動を回復しうる回路となったともいえるでのしょう。
けれどももう一面では、ゲームを成り立たせるコンピュータ・テクノロジーは際限のない欲望の拡大再生産のシステムとしての高度資本主義産業なくしては存在しえないものであり、本質的にそこでは人間のアクティビティは狭い専門の枠で分割され、なおかつその内外で一方的な供給者であるか享受者であるかの分裂症的なふるまいを強要されるものです。これが、あくまでトータルな世界観の共有のもと、そのなかでの秩序ある進行としてケとハレのリズムが存在する本来の祝祭が機能する社会の文脈とは、似ても似つかないものであることを忘れるわけにはいきません。
「現実」と「虚構」とが分裂し、トータルな“現実”を構成するリズムとはなりえず、それを統合しようとする秩序や価値観の見通しも立たないまま、ミクロな感性体験だけが人の原初の衝動に近づいていくゲームという文化装置は、人間の精神にとって、文字で書かれたファンタジーとは比べものにならないオーダーの頽落の可能性を、確かに抱いているのだと僕は思います。おそらくエンデは、コンピュータ・ゲームを人間の想像力への敵とみなしていたことでしょう。
そのあたりの問題は、もはやほとんど文明論の範疇になるしかなくて、認識したからとて誰かが操作的にどうにかできる話では、当然ながらないわけなのですが。
であればこそ。文明だの社会システムだのが投げかける、マクロには一過性の受動的な享楽として消費されるマスプロダクトにすぎないという縛りのなかで、可能なかぎりリアルとフェイクとの関係を善きものとする能動性をプレイヤーに促そうと、情報環境の幾多の不適合を越えて描かれた『moon』の祈るような「ラブ」を、僕は肯定しておきたい。ちょっぴり人の悪いイマドキの照れ隠しの部分も、すっかり含めたうえで。
ともすれば想像力のエコロジーを簡単に崩してしまいかねない危険をわきまえたうえで、せめてゲームとともに成長し、抜きがたい原体験としてもつ僕たちくらいが、そいつにうまい“現実”での居所を与えてやるようなやりようを考えないでどうするのか。それができないかぎり、僕らはいつか、みずからをフェイクの牢獄にとらえられた操り人形に貶めてしまうのではないでしょうか。
汲みとるべきは、そういうことなのだと思います。
<参考文献>
『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ作/上田真而子・佐藤真理子訳岩波書店1982
『ファンタジーを読む』河合隼雄講談社α文庫1996(原1991)
『機械じかけの夢』笠井潔ちくま学芸文庫1999(原1985)
『SFとは何か』笠井潔編著NHKブックス1986
『情報環境学』大橋力朝倉書店1989

沢月亭
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/guest/moon.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/guest/clove_r.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/essay/game2.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/goebbels.html



  

















(註1)
戸塚義一監修『ゲーム音楽』では、スーファミ登場直後の1990~1992年はゲーム音楽の「惰性期」と区分されています。
(註2)
別冊宝島『このゲームがすごい!'98プレイステーション編』所収「LOVE・de・LICインタビュー・MOONはボクたちの愛です」におけるインタビュアーと工藤太郎とのやりとり。
───今までのRPGというと、だいたいパターンって決まってるじゃないですか。(中略)そういった従来のパターンを覆そうとか、新しいRPGの新境地を切り開こうという意識を持って『MOON』を作られたのでしょうか?
工藤RPGを別の角度から見てみようという意識はありました。でも『MOON』は純粋なRPGではないですからね。RPGをネタにしたゲームって感じで、RPGの行く先とかは全然考えてないですから。
(註3)
ウルティマシリーズのFOODの意義についてはこちら。
(註4)
本稿の文脈とは直接関係ないが、80年代ファミコンブームに少年時代をすごした筆者による素晴らしいスーパーマリオ体験の息吹。
(註5)
『ゲーム批評サンダー』第2特集「ゲームシナリオの存在意義って?」の堀井雄二インタビューでは、ドラクエにおけるシナリオの導入がいかに自明なものではなく歴史的だったかがうかがえます。
(註6)
いうまでもなく、沢月さんの用法にしたがっています。
(註7)
もちろんこの意味でなら、たとえば64の『ゼルダの伝説時のオカリナ』とかの方がはるかに徹底しているではないかという話しにもなるけれど。アクションRPGのアクションについてのすぐれた考察といえばここ。あとここも。
(註8)
ただ、前掲の制作者インタビューのプロフィールで工藤太郎、倉島一幸、木村祥朗の三氏はそれぞれ好きなゲームとして『新・鬼が島』『ゼルダの伝説』『リブルラブル』を挙げており、80年代中盤のゲーム体験のつよさがうかがえます。
(註9)
5音階からなる青銅の打楽器アンサンブル「ガムラン」をはじめとする絢爛たる民族芸能で多くのフリークをもつインドネシア・バリ島の州都は「デンパサール」。地元土着信仰と複雑に融合した独特のヒンドゥー教を抱くこの島の平民カースト(非常にゆるやか)の子弟は生まれた順にワヤン、「マデ」、ニョマン、クトゥッのミドルネームがつく。蘊蓄御免。
(註10)
前掲インタビューより、素直さとひねくれの入りまじった制作者の「てつがく」をうかがえる箇所。
工藤(中略)たとえばゲーム中で話をしたり、頼みを聞いてあげたとき、単なる数字としての経験値を積み上げていくというのは、なにかおかしい。じゃ、何だろう。“愛”か、みたいなノリでしたね。もちろんシナリオ上のテーマとして愛をわかってもらいたいっていうのはありましたけどね。
木村作っているときは、愛ってことをけっこう馬鹿にしたソフトだと思ってたんですけどね。全体的におちょくってるんですよ。(中略)おまえらもうちょっと力抜けやっていう。
(註11)
こうした大文脈整理による見方にイマイチ実感がわかない向きに、よい文章がありました。特に「異世界に旅するとはどういうことか」についてのサンタクロースの例えによる説明はたいへんわかりやすい。
あとうちの大学の児童文学研がこんなん出してます。

沢月亭
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/guest/clove_r.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/essay/game2.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/goebbels.html














moon

類型

タイプ

件数

具体例

第一類型

おつかい・悩み解決型

17

王様、ヘイガー博士、ダイア、リーマン、クリスetc

関係とりもち型

ワンダ/フローレンス、ガセ/フローラ、おしべ/めしべ

第二類型

みまもり型

ベイカー、フレッド、玉屋歌子、パパス、ママス、ノージ

はげまし型

イビリー、マデ☆スマ、ニッカ、ヨシダ、レディテクノ

つきあい型

エコ倶楽部、風車庵のおじいちゃん、ポッカ、キュリオ

第三類型

競争型

バーン、アダー、玉屋平吉、鳥男、ビーハヴ

純粋パズル型

虹マシーン、ロビ、ジンギスカン

1999年5月27日木曜日

[ゲーム][PS1] PlayStationゲーム,HYPER VALUE 2800麻雀


[ゲーム][PS1] PlayStationゲーム,HYPER VALUE 2800麻雀
HYPER VALUE 2800 麻雀 コナミ 麻雀 
2000/01/13 PlayStation
昨今急激にその数を増やしてきた低価格ゲームのコナミ版。
”ベスト(旧作のリセール)では無い”完全な新作。
とはいっても(やはり)「麻雀」ですが(^^;)
麻雀システムは、四人打ち||イカサマ・アイテム無しの極オーソドックスなもの。
勿論PSですから脱衣なんて有りませんが、代わりに(?)
勝負して勝ったキャラ(最下位のキャラ)に好きな服を着せる事が出来る
っていう「ウリ」が用意されてます。
また、一連のハイパーバリューシリーズに共通して使える「仮想電子マネー」という
概念を導入しており、この「麻雀」で稼いだマネーは他のゲーム(花札/パチンコetc)
でも相互に使用できるようになっています。
この電子マネーはポケットステーションにも対応しており、他のユーザにマネーを
振り込んだり受け取ったりする事が可能。
とはいっても、他にメリットの無い「単なる金銭データのやり取り」なんで
そう利用するヒトが居るとは思えないし、何が楽しいのはよく判りませんが(^^;)
どうせデータをやり取りするんなら、せめて「服データ」とか「アルバムデータ」の
相互交換(売買でも可)が出来るようにしてくれれば、まだ友人を誘ってプレイする
という事にもリキが入ると思うんですけど。
で、なんでこんなに「電子マネー」に関する機能が有るかっていうと、
本作(シリーズ)は同じ街の中(世界)に存在しており、雀荘やパチンコ屋といった
店が軒を連ねてるワケっす。
他にも、着せ替え用の「服」や、出演している声優さんのフリートークを収録した
「CD」などといったアイテムを売るショップなども有ります。
つまり、何かをやろう(本作のウリを遊ぼう)としたら、まず
このマネーでアイテムを買わなきゃならないわけです。
麻雀/花札/パチンコなどは、そのマネーを稼ぐ「手段」という事です。
対戦相手となるキャラは、老若男女&その他あわせて総勢16名。
かなりの数ですが、特にシナリオが用意されてるというわけでもなく
声優付きでセリフが有るといっても麻雀打つ時の掛け声くらいなもので、
なかなかキャラ性が伝わってこない。
はっきり言って、こんなに要らないっすよ(^^;)
半分でいいです、半分で。
予算不足か声優さんは最低二人以上掛け持ってるし、余計に”薄く”なってるような。
#個人的には老若男女のうち、老/男を削って欲しいところ。
絵柄は、全体的にかなりロリロリ。
が、アニオタが「キャラ萌え」出来る絵とはちょっとベクトルが違うような気がします。
可愛い絵だね、で終わりって感じ。
少なくとも、”妙なリビドー”を掻き立てられる類の性質では無いっす(^^;)
#というか、その方が良いのかもしれませんが(^^;)
#でも原画屋さんが複数いるせいか、ロリ絵と濃い絵が混じってるんですけど。
#私は濃い目の方でアダルトなのも見たかったっすが。
少々画面上に表示されるグラフィックサイズが小さいのは残念。
折角の着せ替えも、なんかこう「ちんまり」した感じだし。
麻雀関連:
弱いッス。激弱。
今までやったコンシューマ系麻雀の中でも最弱の部類かも。
が、CPU側のルーチンは爆速で、あっという間に自分の番が回って来るし
麻雀が苦手な人もサクサクお手軽気軽にストレス無く遊べるという点では
評価できるかもしれません。
本格的な麻雀を求める向きには食い足りないでしょうけど。
ルール設定出来る項目も僅かだし。
着せ替え関連:
ブティックで買った服を最下位キャラに無理矢理(<重要)着せる事が出来ます。
ええ、つまり羞恥プレイっすね。
やるなあ、コナミ(笑)
用意されてる服もアレだし。
以下抜粋。
メイド服
シスター
巫女
セーラー服
ナース
お姫様
ボンテージ
魔法少女
人魚
チュチュ
個人的には、「チュチュ」が入ってる点を 高く評価したい(笑)
#「人魚」ってのも盲点だったな。
その他CDショップなど:
街中にあるCDショップで声優さんのフリートークCDを買う事が出来ます。
面白いのは、その価格設定。
日高 のりこ
南 央美
大野 まりな
前田 千亜紀
石川 静
茂呂田 かおる
二木 静
山岸 功
岸尾 大輔
…ギャラと比例してますか(^^;)?
ちなみにこのゲーム、私は南さんのCDを買った時点で止めました。
まとめ:
なんというか「PANDORA MAX SERIES」あたりと対極に位置するコンセプトっすね。
限られた予算内で、ひたすらタク受け&萌えを重視した設計というか。
それはそれで別に否定する気など毛頭有りませんが、
どうせトラップに引っ掛かるなら、より上質なモノに引っ掛かりたい
と思うのは私だけっすか?
っつーか、メーカーサイドに「萌え萌え麻雀」なんて書かれると
かえって引くんですけど。
評価:60点(お手軽には遊べます)
2000/03/03 KenSan(瑠璃姫の館)
 
瑠璃姫の館
http://www.kabe.to/~kensan/review/rev-ha/ha/hv2800mj.htm 
 

1998年1月13日火曜日

[ゲーム][PS1] キャプテン・ラヴ

[ゲーム][PS1] キャプテン・ラヴ
Goebbels: テクストゲーム史~ゲームのポストモダニズム(1999)
テクストゲーム史
モダン,あるいは「閉ざされ」から「開かれ」へ
Goebbels
goebbels@01street.com
http://www.01street.com
■序論
留学中のことである。友人がわざわざ送ってくれたいかがわしい(このいかがわしいの意味は推して知るべし(笑))CD-ROM群。
その中にガンパレード・マーチなるプレイステーション用ゲームが「是非ともやれ!」という命令文付きで混ざっていた。なんでも日本では随分話題になったゲームだとのことであった。
しかしこちとら留学中の身である。日本語のゲームなぞにうつつを抜かしている暇はない,FF8フランス語版をクリアする暇はあってもである。
今思えば,あれは友人の仕掛けた巧妙な陰謀だったのではないか?ゲームに溺れさせ留学を失敗させようと言う(笑)偶然だがそのトラップを回避できたことは幸運であった。
帰国後,プレイしてみて思ったことなのだが,このゲームは面白いという以上にゲーム史,敷いては文学史上それ以上の意義のあるものだったのではなかろうか。
今回はこのガンパレード・マーチ(以後ガンパレ)を軸に前エッセイで論じたテクストゲームの歴史と展望について二回にわたって論じていくことにしたい。
■文学におけるモダンとポストモダン
まあ,その前に,すこし文学なるものについて語ろう。
モダンだとかポストモダンだとかいう用語を聞いたことは一度ぐらいあるはずだ。
芸術やファッション,哲学などに使われる用語だがもちろん文学にも使われている。文学におけるモダンとは即ちアヴァンギャルド,前衛を指すものらしい。さらに解説するならば,文学におけるアヴァンギャルドとは一言で言うなれば「過去の破壊」である。で脱モダン,ポストモダンとは過去の破壊から脱し,「過去のアイロニカルな再考」であるといえる。具体的にどのような文学作品がモダンだったり,ポストモダンだったりするのか例を挙げると(このような定義が危険であると承知の上で,便宜的理由によって)。ジョイスの『ユリシーズ』がモダンに当たり,エーコの『薔薇の名前』がポストモダンに当たるであろうか。
モダンの文学は過去を破壊しようとする。
慣習によって具体的・一義的になってしまった物語を,その慣習(過去)を破壊することによってより抽象的・多義的な物語を目指してゆく。破壊は最終的に言葉そのものに及び,言述の流れを破壊し,最終的に空白の項(何も書かれないページ,つまり書かれうる全ての可能性を示した項)にまで達するであろう。近年一躍アイドルとなった平野啓一郎の『日蝕』のクライマックスのくだりが全くの空白項である,というのが最も解りやすい例であろうか(余談だが,なぜこんな素人紛いの芸で喜んでいる程度で芥川賞なのか?佐藤亜紀の『鏡の影』で佐藤氏がこの絶対的多義性を白紙であると,アイロニカルに見事な手法で料理したのに対し,当たり前のことを直球で投げる如き『日蝕』は恥じらいを憶えないのか?ただこの一点を取っても,そりゃあ確かに,比べられたら拙いわね,シンチョウシャさん(笑)「ヘルメス撰集」の扱いに代表されるメタテクスト的要素を見れば,その用法がますます剽窃に見えて仕方がない。そのパクリ方も「セフィール・ラーズィエル」を殆ど同じシニフィエを含ませて「ヘルメス撰集」と置き換えるのは安易ではないか?だってヘルメスですぜ,お客さん(笑)カバラ主義に対しほぼ同じ意味で錬金術ってのもねえ)。
おっと()内の余談が長くなってしまった,悪い癖である。
もっとも空白項が究極の多義性を導き出す例に『日蝕』を使ったからと言って,『日蝕』がモダン的作品だと言っているのではない,念のため勘違いなされぬよう。
話をもどす。
私はここで,モダンに対しポストモダンを説明するのにウンベルト・エーコの言葉を引用したい。
彼は彼女に「死ぬほど好きだよ」と言えないのを知っている。
なぜならこの言葉がすでにリアーラによって書かれたことを彼女が知っていると(そして彼が知っていることを彼女が知っていると)わかっているからだ。しかしひとつの解決がある。彼は言うことができるだろう「リアーラなら言うように,死ぬほど好きだよ」と。この点で,偽りの無垢を回避し,無垢な仕方で語り得ぬことを言った上で,この男は女性に言いたかったことを言うだろう。彼女を愛しているのだと。もしその女性がゲームに参加するのなら,彼女も同様に愛の表明を受け取るだろう。二人の対話者のいずれも自らを無垢とは感じないだろう。二人とも過去の挑戦,排除し得ないすでに言われたことの挑戦に応じて,二人して意識的にかつ快くアイロニーのゲームに参加するだろう・・・。だが二人とも,今一度,愛を語るのに成功するだろう。(篠原資明, 1999, 『エーコ-記号の時空』より)
つまり慣習(過去)によって定義されてしまったルールに則ってゲームを進めながらも実はその裏で,そのルール自体をアイロニカルに遊ぶ,これがポストモダン的態度だと言えよう。危険ではあるが一言で言ってしまうと,「モダンが過去の否定であるのに対し,ポストモダンは過去の利用」である。
最後に,その破壊されたり利用されたりする過去とはいったい何なのか?過去とはエーコが定義するところの「閉ざされた作品」であって,「受け手に対し基地の感情やできあいの反応しか要求しない,一義的な」ものを言う。私はこれを「新聞のような作品」と考えている。新聞はできる限り事実を伝えようと努力すべきメディアである,そこに書かれる記事に多義的要素が含まれるポエジーなどあっていいはずがない。
Aさんが交通事故によって亡くなった,と書かれていればそれは何のメタファーでもなく,ただAさんが交通事故で亡くなった,というメッセージだけを伝えるものである。
■文学としてのゲーム
さて,ここでやっとガンパレの話に,ゲームの話に戻る。
ゲームが文学の一ジャンルであるなどと主張するのは私を含めたごく一部だけであろうが,それは文学という概念の定義によるであろう。
私は文学とは「社会や文化の単位としての言語活動一般のこと」と定義したい。日本語のような自然言語もC言語のような人工言語も同時に扱う。しかるにゲームとは人工言語によってプログラムされた一つの文化である。言い換えれば文化的な人工言語活動である。とすれば,ゲームを文学の範疇に入れることは殊更突拍子もないことでもなかろう。しかしこの定義は従来の文学という概念の定義からは懸け離れていることは明白だ。だとすれば文学などという概念はもはや意味を成さない概念なのかもしれぬ。
ゲーム史を見てみるとこの文学的モダンやポストモダンが実によく当てはまるし,文学史を利用すれば今後のゲーム史を予見することもできよう。そしてゲームにおける文学史の節目として現れたのがガンパレではないのかと,私は思うのである。
現在のゲームはほぼ全て,文学で言うところの「過去(閉ざされた作品)」である。新聞的文学が読み方を一義的に限定されるのに対し,殆どのゲームが一義的に遊び方を限定されているからである。例えば『ドラゴンクエスト?V』,プレースタイルは一義的なまでに限定されている。もちろん,レベル上げ,短時間クリア,アイテム集め,など「やり込み」的な派生は楽しめるが,それは一つのシステムとしてスタイルの範囲内である。アリアハンの街を歩くお姉ちゃんと恋愛を楽しもうとしてもお姉ちゃんは「アリアハンへようこそ」しか言わない。つまり恋愛を楽しめるシステムは存在していない。「想像で楽しめるじゃないか!」とのご意見もあるだろうが,ならば新聞に「Aさんは交通事故で亡くなった」と書いてあったとしても,
「<A>という文字は突起物をイメージさせるな,お,次に<交>なんて文字があるぞ<交>とは何が交わるのだ?もしかして<A>という文字からイメージできる突起物か?ではその突起物とはなんだ?もしやアレか?男性のシンボルたるアレか?おお,次に<通>なんて文字もあるじゃないか,そういえば<通じる>ってのは姦通の<通>でもあるし,女郎に通うなんて表現もあるな,ということはこの文章は○○○○の最中に事故が起こって死んだということか?○○○○の最中の死亡事故と言ったら腹上死しかあるまい。
いや,男性のシンボルが<交じわり通じる><事故>で<亡くなった>のであるから不能のメタファーかもしれない」
と楽しむことが可能であろう,しかしこれは作品に用意された楽しみではない。でなければ世界はあらゆる差異を失い,あらゆるものは価値を失って,均一のモノとなってしまう。
ドラクエだけではない,『ファイナルファンタジー』にガンジーの如く非暴力主義を貫いて遊ぶというシステムは用意されていまい。
この原因は毎回プレイするたびに同じことが起こり(戦闘などはランダムだが)同じ遊び方しかできないことが原因であろう。分岐式アドベンチャーゲームなどは遊ぶたびに展開が違うではないかとおっしゃるかもしれないが,それは遊び方の数が明確に限定されていることから,多義的になったのではなく,一義的なものが沢山詰め込まれただけにすぎない。
モダンの文学作品,例えば小説というジャンルに属するテクストは過去の破壊によって一つのシステムを多義的に解釈できるシステムを持つ。
前述したようにモダンの思想を突き詰めてゆけば行き着くのは全頁白紙という,あらゆる解釈を可能にするテクストであろうが,それはテクストの墓場であろう。
しかも全項白紙というテクストが出現したその時点から白紙であることが意味を持つことになるだろう。
だとすればそれはもう白紙であることによって,その意味のアイロニカルな再考,ポストモダンの門を叩いていると言える。
ではゲームはどうか?テクストゲーム史におけるモダンの登場がいつかは全てのゲームを調べたわけではないので特定不能だが,日本においては『ルナティックドーン』(これに関しては,あれはファンダメンタルゲームであるべきものをユーザー環境の問題で本来は人間自身が担う部分をNPC(ノンプレイヤーキャラクター)に負わせて擬似的にテクストゲームにせざるを得なかった,というゲームと思われるからここでは言及しない。)や『リンダ・キューブ』や『俺の屍を越えてゆけ』がこれに当たるだろう。一見『ドラゴンクエスト?V』と同一のシステムを持つと見られる『天外魔境?U』もプログラミングの開発思想を見れば,多様なプレイスタイルを許容する「開かれた」構造が見て取れる。
しかしゲームシステムのみで「開かれた」テクストとなる,つまりモダン化するのはゲームの世界においては難しい。それはゲームが人工言語によってプログラミングされているからである。
ゲームシステムのレベルで真にモダン化するのは現在のプログラミング技術やハードウェアの性能では不可能であろう。完全にコード化されている人工言語によって造られたたゲームシステムが多義性を獲得することは今の技術ではできない,それを可能にしてくれるのは真の考える知能としてのA.I.であろうが,そんなものは現行技術ではどうにもならない範囲のことである。
しかし読み手にモダン的であると錯覚させることは可能である。
いや,ゲームがモダンであるのに,真のA.I.などは不要であろう。
重要なのは真のA.I.を使った場合と同等の効果を得ることである。ゲームのモダンとは「考えられる中で可能な限り,A.I.を装うことができるゲームシステムである」
ここで,AlfaSystemのHPにある「あたらしいげーむのはなし」なるエッセイの一部を引用したいところなのだが,著作権上の問題もあるだろうし,概要を説明するにとどめよう。
このエッセイの中では,いかにして現行技術内でA.I.を用いるかが語られているのだが,内容を要約すれば次のようなことを言っている。
「現行技術で単独で機能する真のA.I.を造ることは不可能である」
→「現在のA.I.定義への疑問」
→「A.I.再定義(知能とは他者との関係において初めて認知される)」
→「A.I.とは他者から知能であると認識される人工プログラムである以上,本当に知能を持っている必要はなく,知能があると他者(プレーヤー)に認知されればよい」
こう言われれば(文章が啓蒙的であるのも手伝って)さも凄いシステムであるかのように見受けられるが,実際はただ単にゲームに必要なA.I.とはプレーヤーにゲーム自体が一つの思念体であるかのように見せかけられればそれでよい,ということを説明しているに過ぎない。
これはAlfasystemなりのモダンへの挑戦状と受け止めるべきであろう。しかしこの思想は『天外魔境?U』に既に始まり『俺の屍を越えて行け』において一つの完成を見たモノの発展系であるにすぎない。ゲームはやはりシステムそのもので「開かれる」ことはできない,演じるにとどまる。「開かれる」為にはやはりシナリオや音楽,映像と一体になる必要がある。テクストゲームにおいては,シナリオや音楽,映像がいかようにも解釈できる「開かれた」存在であるということを演出する擬似モダンのシステムによってできているといえるだろう。
■モダン-「開かれた」ゲームへ
では今度は,「閉ざされた」,古典的テクストゲームから「開かれた」モダンのテクストゲームへと移り変わっていく過程を見ていこう。
『天外魔境?U』において初めて現れたシステム,それは幅広いプレイスタイルを許容することでテクストゲームを解釈する幅を広げる,つまり「開かれる」手法であった。
同系統と思われる『ドラゴンクエスト?V』は敵のステータスが予め決定されていて,ある一定以上のレベルにならないとその敵(ボス)を倒せない,というプレイスタイルを一義的なまでに拘束するシステムをとっていた。つまり「勝たせない」ことが敵キャラの役目であり,プレイスタイルの限定であった。
しかし『天外魔境?U』では,プレイスタイルに応じて,敵(ボスもザコキャラも)はできるだけ接戦を演じてぎりぎりのところでプレーヤーに「負けてあげる」ことを基本思想とした逆転の発想を持ったゲームシステムであった。どんなに低いレベルで戦おうが,どんなに高いレベルで戦おうが,敵は適度に強く,激戦を演じてくれ,最後には勝てる。ここにテクストゲームにおける「開かれ」の可能性が出てきているといえる。多くのプレイスタイルを許容するということはそれだけ解釈の可能性が広がるということだからだ。
そして同じ桝田省治の作品でも『リンダキューブ』を経て『俺の屍を越えて行け』になるとさらに顕著になってくる。
『俺の屍を越えて行け』に採用されたシステムは「物語生成システム」とでも呼ぶべきシステムで,『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』のような従来型のゲームが物語をゲーム側が提供していたのに対し,『俺の屍を越えて行け』は物語の大枠こそあるものの,ここの小さなエピソードや,物語を生み出すのはプレーヤーの脳みそそのものであった。つまりシナリオや音楽,映像と一体となったものをプレイヤーが解釈することによって無限に物語が生まれる,そしてそれを促進するシステムが採用されていたのである。『俺の屍を越えて行け』のプレイヤーはファーブラ(物語)を自ら作り出すことを求められた,ゲームのもう半分の作者となることを求められたのだ。『ドラゴンクエスト』など,物語が作者によって提供されどんなプレーヤーにも画一的な物語しかありえない「閉じられた」テクストゲームとは明らかに一線を画すものであった。
その証拠はネット上にある,膨大な数の二次創作小説である。『ドラゴンクエスト』は何百,何千万本も売れているにもかかわらず二次創作小説はあまり生まれていない。反対に『俺の屍を越えて行け』は三十万本前後,と『ドラゴンクエスト』に比べればはるかに少ない出荷数なのに二次創作小説が氾濫している。つまりそれだけ,プレイヤーに空想させる,解釈を即すシステムを持ったゲームだったのだ。
しかし,この『俺の屍を越えて行け』は桝田省治は意図的にか,一つ失敗を犯した。
テクストゲームにおけるモダンの完成形とも言えるこのゲームが要求する,つまり能動的にファーブラを形成しながらプレイできる能力を持ったプレイヤーはまだそう多くは無いのである。枡田省治を受け入れられないプレーヤーも多いのだ。この辺りがモダン的ゲームの限界であろう。能動的に解釈しようとするプレーヤーには受け入れられるが,受動的にしかプレイしようとしない無邪気なプレーヤーには受け入れられない。アニメの世界において一般にエヴァ現象,と呼ばれる『新世紀エヴァンゲリオン』が巻き起こした謎と解釈の氾濫を思い起こしていただきたい。そのとき多くのアニメファンはどういう態度を取ったかを。多くのアニメファンはTV版,映画版の25話・26話双方とも(特にTV版を),毛嫌いした。それはあまりに多様に解釈可能であったこのアニメのその「開かれ」に拒絶反応を起こしたのである。積極的に物語を解釈し,多用なる解釈を許容しようとはせずに,ただ物語りに画一的な結論と解釈が与えられることを多くのアニメファンは望んだ。つまり「閉じられた」テクストを望んだのが当時のアニメファンだったのである。「エヴァは24話まで面白いけど,25,26話は嫌いだな。わけわかんないもん」という人々だ。ネット上で「謎解き」と称するさまざまな解釈があふれたにもかかわらず,着地点がこのような結末であったのは哀しいことであった。
残念ながら現在の大半のゲームプレイヤーはほとんどこのような人たちと同一なのである。テクストゲームに積極的な解釈を加え,ファーブラを生成しようとはしないのだ。だから「開かれた」ゲームも一味,味付けしてあげねばならないのである。このあたりが桝田省治のゲームがとっつきにくいといわれてしまう所以であろう。桝田省治のゲームは「幸福なる少数者」の為のゲームといえる。
これがモダンのある種の限界だ。
■モダンとポストモダンの要求するプレーヤーの違い
テクストゲーム史1で述べた枡田省治の一連のゲーム,モダンの部類に属するゲームに対し,『高機動幻想ガンパレードマーチ(以下ガンパレ)』はまったく違うアプローチを行っている。
「過去のアイロニカルな再考」つまりポストモダンの手法を使っているのである。
モダン的テクストは常に過去を破壊し,新しいモノを求めるので過去にとらわれている読者(プレーヤー)には受け入れられないが,ポストモダンは「過去のアイロニカルな再考」であるのだから,理想的な読者(プレーヤー)は使われている引用や手法の再利用と戯れようとするだろうし,モダンを受け入れないような無邪気な読者(プレーヤー)も「過去のアイロニカルな再考」の「過去」の部分だけを,つまり表層的な部分だけを楽しむことができるし,引用をオリジナルだと勘違いして楽しむかもしれない。常にモダンを求めるような能動的な読者(プレーヤー)はその引用や手法の再利用のしかたの斬新さを楽しむであろう。つまりどのタイプのプレーヤーも,その質の違いに関係なく,違うレベルではあるが楽しむことが可能なのだ。これがモダン的ゲームとポストモダン的ゲームの最大の違いだ。
ではポストモダン的ゲームである『ガンパレ』がこのプレーヤーの質という問題にどう取り組んだかを分析してみよう。
■教育システム
まず一つ目は「教育」である。
『ガンパレ』は「謎解き」のシステムを利用し,プレーヤーを教育しようと試みたのである。「謎解き」のシステムとはミステリー小説の根幹をなすシステムのことである。推理ものなど,ミステリー小説を読むときに読者は知らず知らずのうちに隠された謎(「犯人はだれか?」など)を解こうと試みてしまう。もちろんそれは小説の読み方としては極めて一次的で幼稚な読書だといえよう。しかしそういうシステムそのものは流用できる。なぜならば謎解き,という極めて幼稚な読書ではあるが,それは読者のテクストへの介入を即するには最良の方法にはなるからである。
使用例を挙げよう。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』という小説であるが,これは一般にミステリー小説,推理ものと受け取られているようだ。しかし,そんなものでは絶対にない。これはアンチ・ミステリー小説である。読者は確かにエーコに乗せられ,ミステリー小説のシステムに乗せられて謎解きへとまい進してゆく,しかし最後に行き着くのは謎など初めから無かった,という事実である。読者は謎解きのシステムに乗せられてテクストに積極的に介入してゆき,結果的にはいつのまにかファーブラを形成する能力を身につけるに至っているのである。「閉ざされた」テクストしか許容できなかった読者が,いつのまにか「開かれた」テクストを解釈できるようになってしまうシステムをもった小説なのだ。
「閉じられた」テクストゲームしか許容できなかったプレイヤーをゲーム内で教育しているのである。
『ガンパレ』はこのシステムを明らかに利用している。「このゲームには謎があります」と説明書で宣言することでミステリー小説式の一次的な謎解きのシステムにプレイヤーが参加することを即し,製作会社(AlfaSystem)のHP内に謎解き用の掲示板を設置して「謎ハンター」とよばれるプレイヤーたちが謎解きの解釈を繰り広げるのに,作者側が出てきて,一定の方向性を与えてすらいる。本来ならば作者側が自ら出てきて,解釈に方向性を与えることなどは必要ではない(文学解釈の世界では作者の意見など一解釈としての権威しかない)のだが,『エヴァンゲリオン』の失敗(方向性がないばかりに解釈が大氾濫し,結局それに視聴者が耐えられなくなってしまった)を踏まえて,解釈する場所(掲示板・HP),解釈の方向性を限定することにより,「閉ざされた」テクストゲームしか許容しないプレイヤーを徐々に教育することに成功している。
私自身はプレイする時期が遅かったこともありいわゆる「謎解き」には参加していない。が,聞くところによると,1~7までの論理トラップなるものが設定さてれていて,プレイヤーはひたすらその突破を目指すのだという。作者側は過剰解釈や解釈不足を正し,ヒントを与えて正解なるものに導いているらしい。これはおそらく,「開かれた」テクストを解釈するための第一段階のトレーニング,つまりテクストに積極的な解釈を加える力,つまり謎を解こうとする力のトレーニングであろう。よって作者側にすればこの謎解きに参加し,謎ときを行ってさえくれれば第一段階のトレーニングを受けさせることができるのであるから,トラップを解くかどうかは関係ない,一つの遊び以上の何ものでもないだろう。そしてその謎解き掲示板を少し覗いたところでは,作者側は「論理学」をかなりプッシュしている。初歩的な論理学は文章を書く際に,特に議論をする際に,空回りしないために必要不可欠な学問である。
論理的な文章を書いてくれれば掲示板も荒れないし管理しやすい,という目的もあるかとは思うが,初歩的な論理学というのは一次的な謎解きに必須である。勿論必ずしも専門的な論理学を学んでいる必要はない。というのも論理学では謎解きはできても「開かれた」テクストは解釈できないからである。
まずここまでがテクストを積極的に読み解こうとするプレイヤーを教育する段階である。そのための力を,論理学を学ばせ,1~7までの論理トラップを解かせることで養成しているのだ。
さて,所謂「謎解き」に一切かかわることのなかった私ではあるが,第7トラップに限定すれば回答を出せる。少し卑怯であるが,まあ,ゲームごときに割いている時間もそれほどないので,第7トラップのみに参加させてもらうとしよう。
それにはまず「謎」の構造主義的コード解析から始めねばなるまい。
謎に最低限必要なものとして「解かれていない」という属性がある。なぜなら解かれた瞬間にそれは「謎」ではなくなるからである。そしてもう一つ「謎」であるからにはその「正解」がなければならない。推理小説における犯人がそれである。つまり推理小説に代表されるような謎解きのシステムというものは須らく「閉じられた」システムであり。謎を解く上での解釈は解答という形のたった一つのものでしかありえない。よって謎は論理学によって論理的に解かれる代物なのである。
その意味では謎とは正解が覆い隠されたものでもある。つまり「正解」という中心を必ず持っているものであるのだ。この場合謎のコード(注:このコードは閉じられたコードである)とは「謎」は「隠された解かれるべき正解」であるとするシステムそのものである。
第7トラップとはこの「閉じられた」「謎」のコードである。つまり「世界の謎を解けば,その先には隠された正解がある。そのために謎解きをする」ということだ。
これに対するトラップの突破は,「開かれた」テクスト解釈への道である。しかしこの「開かれた」はディコンストラクション的な無限の解釈の可能性ではない。第7トラップは「理由付けさえできれば解釈は無限にある」という解答を許容しないのである。そうでなければ第1~6トラップを解かれる前に第7トラップが解かれていたはずである。解答はやはり第1~6トラップというコンテクストを考慮に入れなければならないだろう。
無限の記号過程に埋没することもまたトラップであるのだ。このあたりはエヴァンゲリオンの失敗から学んだことだろう。
よって,単純に「開かれ」ればよいのではなく,「開かれ」た無限の解釈の可能性のなかから慎重に「可能な解釈」を選別しなくては成らないのだ。
正解を先に書いてしまうと
「世界の謎を解こうとする行為(思考や議論)は世界の謎解きが目的ではなく,無限の記号過程が氾濫する(無限の解釈が可能な)世界において,それに埋没することなくより良い世界を作り上げてゆくこと,そのための思考・議論であった」
ということである。さらにあげるならここで言う世界とは現実ではなく,存在可能な仮想世界であるということか。
要はデリダらポスト構造主義哲学を使っているのだろう。謎を脱構築しているのだ。
ゲームをプレイするのに特に必要のない現代思想など全く持ち出さずにしっかりとプレーヤーを育て上げる手際は実に見事であった。
■ポストモダンのゲーム構造
ガンパレがポストモダンであるという理由の二つ目は,プレイ方法の多重化にある。まず一週目(いわゆるファースト・マーチ)を分析しよう。
ガンパレはごちゃ混ぜゲームである。大戦略系の戦術級シュミレーション的要素,ときめきメモリアル系恋愛シュミレーション的要素,一つの物語を登場人物に成り代わって解いてゆくドラクエ系(Wiz系ではない)RPG的要素を根幹にし,バイオハザード系のGUIによって操作する。
多種のゲームシステムをごちゃ混ぜにすることによって多義性の獲得をねらったものであると受け止められるが,これはそれほど成功したとは言えないであろう。それぞれのシステムがそれほど密接に関係していないからである。例えば,学園モードのなかで仲の良い悪いが生じるわけだが,それが戦闘モードに入ったときにキャラの動きと関係があるわけではない(壬生屋と恋愛関係にあるからと言って壬生屋がこちらを守ってくれるわけではない),関係があるのはせいぜい恋人関係にある人物が死んだ時のイベント程度である。戦闘モードそのものに物語への積極的介入の要素はない。戦死者でも出ない限り,普段の戦闘に物語を求めることはこのシステムでは過剰解釈に当たるであろう。存在するのは単に撃破数と戦死者によるイベント発生ぐらいである。ごちゃ混ぜになってはいるが,その一つ一つのモードの独立性は高いのである。
確かに,『Sランククリア』『恋愛を楽しむ』『ソックスハント』『物語を楽しむ』とプレイの仕方は多様であるが,それは複数のシステムがごちゃ混ぜにされた分,増えた遊び方に過ぎない。真の多義性とは限りはあるもののいかようにもプレイ可能であることではないだろうか?しかし私が確認した限りではプレイ方法は以上の四つだ。派生として『スカウト絢爛舞踏賞』などがあるかもしれないが,それはドラクエ?Vを勇者だけでクリアするだとか,そういうやり込み芸の一つと同じ次元である。説明書に書かれているような『探偵ごっこ』や『風紀委員』のプレイスタイルで十分に楽しめるようなシステムは用意されていない。(滝川がカンニングペーパーを持っていることは「交換しようぜ」コマンドを使えば一発で解ってしまう。カンニングの証拠をつかんでも滝川はアイテムを持っている限りカンニングし続けるし,先生に言いつけることも出来ない。つまりゲーム性がない。また,「注意→仕事について」や「みんながんばろう」を連発すれば志気があがるのは自明であり,そこには何のゲーム性もない)もちろん可能ではあるが,それはドラクエ?Vで「ようこそアリアハンへ」とだけ言う,女の子に恋愛をするというプレースタイルと同じようなものだ。
一週目をプレイする限りにおいて,ガンパレは疑似モダンですらない,従来通りの過去(閉ざされた作品)のゲームであろう。プレーヤーは速見厚志という主人公と同一視され,感情移入していくプレイスタイル以外に小説のモダン的テクストのような ,作者の意図を想定し(モデル作者)ながら読む読み方や,テクストの構造そのものを探りながら読むという行為はない。つまりモダン的ゲームを許容できない(積極的に解釈しようとしない)無邪気なプレーヤーも一週目を十分に楽しむことが出来るだろう。しかし反対に,能動的に解釈をしようとするプレーヤーも,引用と戯れようとするプレーヤーにも物足りないであろう。
しかしそれは二週目のプレーにおいて一変する。この二週目以降があるからこそ,私はガンパレをポストモダン的だと主張するのである。
二週目が始まってしばらくすると,一週目ではただの「岩田」であった岩田がプレーヤーに語りかけてくる。プレーヤーキャラではなく,ゲームをプレイしている私やあなたに話しかけてくるのだ。
「…最近色々かぎまわっていますね,
異世界のプレイヤー…さん。
フフフ…。隠さなくてもいいですよ。
あなたと,私と,坂上は,あなたと同じ介入者ですから。
…もっとも,私は冬休みがてらに青が追う竜を追ってこの世界に介入してきた,ハッカーですがね。」
ここで,私たちプレーヤーが見る世界が一変する。今までは速見や芝村が幻獣と戦う世界がプレーヤーの見ている全てだったが,どうも,各キャラクターの後ろにはそのキャラクターを操っているいくつもの世界があるのではないか?(もちろん,二週目以降をプレイしている私たちプレーヤーが生きる現実世界も含めて)という疑念がふつふつと沸いてくる。
そうなると既に一週目をクリアしている私たちプレーヤーは自らの一週目のプレイに疑問を持ち始めるのである。
「オレたちが,理解したと思っていた世界は実はまったく違う世界なのではないか?思い違いをしていたのではないか?」
このような疑念をもったプレーヤーは一度プレイした一週目を,二週目をプレイすることを通して再読することになるのだ。二週目をプレイしながら,常に一週目と二週目を比べて,一週目で自分が感じ取ったことを修正していくのである。
一週目と二週目以降のプレイはお互いに影響しあい,微妙な意味を造り上げていくのである。
「二週目以降における一週目のアイロニカルな利用」これがまず一つ目のポストモダン的特徴だ。
■ヒーローのメタフィクション
ゲームの全体に流れる物語もポストモダン的だ。『ガンパレ』の物語とは「ヒーローについて語るヒーローもの」あるいは「過去のヒーローものの利用」だからである。メタフィクションなのだ。「Sランク」という最高レベルのクリアレベルを達成するにはプレーヤーキャラは「ヒーロー」にならなければならない。『ガンパレ』はその「ヒーロー」について物語中で常に語ることになる。プレーヤーはヒーローとは何かを理解し,ヒーロー的行動をしなければ「Sランク」を達成できないのだ,またそのヒーローを理解するために,過去のヒーローものについて考えてみなければならないのである。
このようなポストモダン的なゲームの構造はどのような効果をもたらしているのだろうか?それはプレーヤーに想像させるということだ。前述したように「謎」を追わせることによってプレーヤーの積極的な思考を即し,かつ「謎の答え」という単一の解答を求めるだけだったプレーヤーを,自らが想像するように改変する効果をポストモダン的ゲーム構造が支えているのである。
「ヒーローとは何か?」「なぜ戦うのか?」「幻獣とは?」「人間の未来は?」これらの疑問の解答は用意されてはいる。しかしその解答は唯一無二のものではなくて,あくまで一つの解釈例にすぎない。『ガンパレ』はそれらの謎の解答をプレーヤーが自分なりに想像することを即しているのだ。
■結論
ゲームは受動的な文学ジャンルであった。「コントローラーでプレイするのだから能動的なのでは?」と思う方もいらっしゃるだろうが,プレイするためのコントローラーまでもが用意されていると考えれば,ゲームはむしろ受動的なのだ。プレーヤーは一度覚えたルーチン・ワークでプレイしていればよいからである。
しかしゲームにもモダンの流れが流入し,プレーヤーはただ受動的にゲームの表面だけをプレイするだけではなくなった。一義的だったゲームは多用なプレイスタイル,解釈を可能にするモダン的ゲームに進化し,プレーヤーにより能動的にプレイ方法を選択させ,ゲームの解釈を即した。
そして『ガンパレ』の登場により,ゲームはポストモダンへと足を踏み入れたのである。
『ガンパレ』というゲームにおけるポストモダンの初の試みは大成功だったと言っていいだろう。
一義的な解釈しかできないプレーヤーは一週目をそれなりに楽しみ,能動的で多用な解釈をしようとするプレーヤー,あるいはそのようになろうとしているプレーヤーは二週目以降を十分に楽しむことができた。前者を後者へと進化させる「教育」のシステムまで内蔵している。
テクストゲームもようやく,ポストモダンの境地へと足を踏み入れたのだ。
■今後の展望
最後に最近のテクストゲームの動向を見てみよう。鬼才枡田省治は『暴れん坊プリンセス』によってポストモダンの境地に足を踏み入れたがこれはプログラミングの拙さとプロデューサーの無能が祟って失敗に終わった。次回作に期待したいが,枡田省治はモダン的ゲーム,つまり「幸福なる少数者」のためのゲームを創るのが上手いのであるからむりにポストモダン化することもないだろう。私個人としては枡田省治の「幸福なる少数者」のためのゲームが好きであるし,プレイしたい。そしてもし可能ならば,受動的にしかプレイしないプレーヤーを教育するシステムを組み込んでもらいたい。
問題はアルファシステムの芝村裕吏だ。ガンパレでポストモダン的手法を使い,また教育のシステムを組み込むことで大成功したが,これでプレーヤーを教育できたと勘違いし,枡田省治のようなモダン的ゲームを創ったら大失敗するだろう。プレーヤーは荘簡単には学ばないのだ。残念ながら芝村裕吏には枡田省治のような鬼才は無い,「幸福なる少数者」のためのゲームをつくっても枡田省治のレベルには追いつけないだろう。次回作であるコードネーム「ニュー」にもやはりまたポストモダン的手法と教育システムを採用することを願いたい。そしてこれはアルファシステムに言いたいことだが,頼むから優秀なプログラマー,そしてコーダーを雇っていただきたい。『ガンパレ』が敬遠されるとしたら,それはユーザビリティーが最悪だからだ。コナミあたりがつくっていれば,もっと軽快にプレーできたことであろう。
ファンダメンタルゲーム全盛の現在,鬼才二人,枡田省治と芝村裕吏に低迷するテクストゲームが今後どのような発展を見せるのかがかかっていると言っても過言ではない。
この二人ならば,きっと「解釈することを楽しむゲーム」=「テクストゲーム」の面白さを存分に引き出してくれるに違いない。
○参考文献
篠原資明, 1999, 『エーコ-記号の時空』
Umberto Eco, Opera Aperta, Milano, Bompiani, 〔篠原資明/和田和彦訳『開かれた作品』青土社, 1997年〕
Umberto Eco, Lector in Fabula, MIlano, Bompiani, 〔篠原資明訳『物語における読者』青土社, 1993年〕

沢月亭
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/essay/game2.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/goebbels.html
goebbels@01street.com
http://www.01street.com
















1993年11月7日日曜日

1993年11月1日月曜日

[機器][ゲーム] Sony PlayStation1,プレステ1









[機器][ゲーム] Sony PlayStation1,プレステ1
【悲報】プレステ1のメモリーカードさん、容量が少なすぎる・・・
2020年11月05日 13:40 │ ゲーム・アニメ  │ コメント(21) │  
51OrimPNnXL._AC_SX679_
1: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:45:12.05 ID:elDKAzosd
たった122KBしか入らない模様
5: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:46:11.60 ID:DF+ZJawy0
でも15ブロックあるから…
328: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:14:05.16 ID:zULHni2Yd
>>5
PS1後期ソフト「ほな5ブロックもらうわ」
401: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:19:52.31 ID:fMET91b0r
>>328
これほんま嫌い
2: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:45:47.82 ID:gFMy5DjK0
メモカにはワクワクが詰まってた
6: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:46:21.44 ID:sabGXoqH0
シール欲しさに電撃PSとか買ってたな
7: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:46:22.14 ID:LYqXEo6jp
そう考えるとめちゃくちゃ進化してるやん
9: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:46:27.60 ID:5qm8cZrV0
ザ・コンビニとかいう15ブロック中14ブロック使うゴミ
キャプチャ
276: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:09:34.78 ID:7/hjheNp0
>>9
シミュレーションってめっちゃ食うの多かったな
594: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:37:00.74 ID:CF0GZrKL0
>>9
メモリならまだ我慢するわ
ただセーブに3分かかるのはNG
10: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:46:36.24 ID:fs8A6Duz0
全盛期で10枚ぐらい持ってたな
あれ単体で貸し借りも保管もできるし高いけどメリットもあった
28: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:48:11.54 ID:elDKAzosd
>>10
まあデータの貸し借りできたり他人のデータで簡単に遊べるのはメリットよな
枚数さえ揃えれば無限にセーブできるし消えにくいし
12: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:46:54.11 ID:VAK3gEqKa
ときメモ2で15ブロック全部使うんやっけ
140: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:58:41.90 ID:k6b8PVmjp
>>12
音声のセーブ入れなきゃそんなに多くない
23: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:47:38.69 ID:sZ+7ApGoa
でも何かカッコええわ
no title
572: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:35:51.23 ID:+kUlz04Zp
>>23
クソ懐かしい
24: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:47:41.05 ID:Qeew0UNka
PS2でサード製64MBを買ったときの衝撃ったらないね
42: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:49:19.93 ID:SCBYl8zN0
A列車4だったか
一枚まるまる使った気が
45: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:49:24.65 ID:mapkSAYyM
めっちゃ懐かしい
セガサターンのが容量大きかったな
すぐ消えるけど
49: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:50:03.69 ID:elDKAzosd
>>45
サターンのパワーメモリは社外品のが推奨されてるのほんま草
46: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:49:37.64 ID:IJAXCxUed
あの頃からよな中華製の安い類似品が出てきたの
メモカとか容量5倍だかのもあった
52: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:50:30.05 ID:5gNOWY4Ia
>>46
パチモンはスーファミからあるで
コントローラーとかあっくんの家にあったな
151: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:59:21.23 ID:iLBNVbOOM
>>52
中国のスマホメーカーのOppoの創業者はファミコンのパチモン作ってた会社の技術者やからな
55: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:50:38.77 ID:elDKAzosd
>>46
あれ胡散臭くて使ったこと無いけどデータ消えたりしないんか?
大切なデータをあんなもんに預けたくない
67: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:51:29.69 ID:LS3d8rAZp
>>55
消えやすかったで
すぐ接触不良で反応しなくなったわ
64: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:51:12.62 ID:CFiyHhw70
メモカのアイコン見るのがなにげに楽しかった
74: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:51:58.12 ID:oQ3BQqAY0
サターンは内部メモリは電池切れで消えやすくて
外部パワーメモリはカセット接触不良で読み取り困難という二重苦
82: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:53:27.59 ID:r9Y6Wv/s0
データ整理してるとき微妙に楽しいよな
96: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:55:02.58 ID:RFD7ebC90
それでもスーファミみたいにセーブが消えないってだけで神に思えた
106: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:56:05.74 ID:L9pvXJ4K0
サガフロンティアは主人公ごとにブロック埋まるからあっという間に容量なくなった
375: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:18:18.91 ID:sNIv4M/h0
>>106
7キャラ×2ブロックとシステムデータでピッタリ埋まるんだよな
107: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:56:18.74 ID:TY21Lb620
ワイガッキ、こっそりこれを買ってテレビ無い自分の部屋でやりまくってた模様
115: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:57:16.33 ID:3bDDKNEG0
>>107
PSOneとかあったなあ
こういう層に需要があったんやな
111: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:57:03.20 ID:fs8A6Duz0
ゲーム起動時
メモリーカードの容量が足りません
このまま始めますか
とか聞いてこられて はい押すときの情けなさ
142: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:58:47.28 ID:aY1TZ7390
>>111
ゲームによってはフォワーマットしますか?とか聞いてきて思い出をすべて消したてくる罠があるの怖い
162: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:00:17.98 ID:3qQzmsSs0
>>111
酷いゲームだと起動時に容量足りてるか調べないから数時間プレイしてセーブしようとしてから「容量足りんでw一回ゲーム消してから容量空けてこいやw」て言ってくるやつあったな
157: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 15:59:48.96 ID:1gA+L5HW0
許さない 絶対にだ
no title
no title
171: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:01:04.26 ID:aGx3n3oe0
>>157
なんやこれ
179: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:01:42.07 ID:+01Hxu7d0
>>171
ラグナキュールってゲームや
206: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:03:37.04 ID:aGx3n3oe0
>>179
尼のレビューボロボロで草
パケ裏だけだと面白そうやけどな
178: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:01:36.72 ID:elDKAzosd
>>157
何がこんなに容量食っとるねん
228: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:05:36.60 ID:1gA+L5HW0
>>178 ワイも何がそんなに容量食ってるかわからんけどこれの為に一枚メモカ買ったのにベスト版では2ブロックでOKになったの本当ひで
240: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:06:24.75 ID:elDKAzosd
>>228
技術力の問題やったんやろなあ
181: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:02:04.07 ID:zxJ1KWoma
うおおおおおお!!!!!!
no title
195: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:02:48.27 ID:XjFxaQH00
>>181
剥がしたら保証せんでみたいなシール貼ってて悩んだわ
201: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:03:13.75 ID:Xm+OSAKMa
>>181
ムジュラの仮面とかこれないとできんかったよな
212: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:04:13.29 ID:zxJ1KWoma
>>201
あとドンキーコング64な
他は知らんけどこの二つはこれないと出来ひんかった
265: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:08:11.34 ID:35T0naYhM
ポケステ「製造番号で取れるアイテムはあらかじめ決まってるんや」
今でも許してないからな
純情なワイの子供心をもてあそびやがって
293: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:11:03.46 ID:3qQzmsSs0
関係ないけどこの前PSPのバッテリーがパンパンに膨らんでたから買い替えたけどいずれバッテリーも生産されなくなって遊べなくなる日が来るんやろな
392: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:19:16.34 ID:KkV1yXam0
>>293
ぶっちゃけるとバッテリー抜いてもアダプタ挿せば普通に遊べるで
408: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:20:05.07 ID:sUCSLxf50
>>392
接触悪なると瞬断されるけどな
318: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:13:32.04 ID:IipF7PWYd
やばいくらい プレミアついてるゲームあるよな
ps1
331: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:14:23.26 ID:Y/K6JGZ10
>>318
moonリメイク定期
345: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:15:31.58 ID:IipF7PWYd
>>331
わいは l.s.d やったな
あのままやってたら病気になりそうで封印したわ
370: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:18:02.62 ID:HAgT3XJY0
>>345
LSDもええけどリズムンフェイスの方が狂気やったわ
339: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:15:11.97 ID:elDKAzosd
>>318
lainとか言う奴やっけ
あと夕闇通り探検隊
360: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:17:01.66 ID:mzv1lrpt0
no title
381: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:18:38.04 ID:+lSnKBs10
>>360
サガフロ2と聖剣lomでお世話になったわ
393: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:19:20.07 ID:IOHCHg5/d
>>360
スパロボと遊戯王でお世話になった
413: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:20:23.45 ID:LJXNKejT0
>>393
遊戯王これあるとクッソヌルゲーになるからな
384: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:18:47.90 ID:mzv1lrpt0
PS1のときはブロックだったけどPS2なったらMBなったやん
あれで容量の概念を知った
416: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:20:41.51 ID:yPousbXbM
HORIのパチモン使ってたわ
417: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:20:41.54 ID:TY21Lb620
1番最初に遊べなくなるのはディスクシステムやろうな
本体もソフトも保存に弱すぎる
427: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:21:36.65 ID:elDKAzosd
>>417
ディスクはソフトがダメになりやすいからなあ
421: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:21:10.93 ID:+lSnKBs10
これ使ってたよな
no title
432: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:21:57.47 ID:fs8A6Duz0
>>421
持ってた 整理綺麗になるしな
424: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:21:21.29 ID:vq0A1nfM0
ワイが衝撃的なのはニンテンドーDSやな
あれが準レトロゲームの分類に入る時代が来るとはマジで思わんかったわ、めちゃくちゃ楽しかったしなんなら今でも新しい方やと思っとる
431: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:21:52.60 ID:Y/K6JGZ10
>>424
ポケモン以外微妙なタイトルしかなくね?
458: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:23:37.13 ID:elDKAzosd
>>431
ドラクエ4~6リメイクと9
カセキホリダー
GジェネDS無印
ラブプラス
メイドインワリオ
応援団   
とか色々あったろ
473: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:25:13.19 ID:If6tbl1L0
>>431
ADV好きには神ハードやったで
491: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:27:27.25 ID:VIcyt5FK0
ローソンで書き換えるやつ
no title
516: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:29:43.58 ID:hBvgHWH6a
>>491
サービス終了後ロッピーの穴潰されてた記憶
524: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:30:41.99 ID:ZH7iPUHka
>>491
これ=トルネコみたいなイメージあるわ
543: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:32:26.34 ID:Th59tXsqM
Vitaって専用メモカじゃなければもっと普及してたと思う
587: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:36:38.37 ID:Bsk9NuT30
>>543
というかそれが戦犯過ぎる
初期のほうなんてメモリーカードないと何もできない上にぶっ壊れやすいし
642: 風吹けば名無し 2020/11/04(水) 16:40:36.16 ID:F065CNVa0
セーブデータ作るごとにアイコン変わるのほんとすこ
元スレ:http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1604472312/
コメント一覧
1. 名無しさん 2020年11月05日 13:55  ID:4bW3LGhD0
PSPもだけどクソみたいな規格の周辺機器買わせようとするのマジでやめて欲しかったわ
人生でメモリースティックなんて使ったのあれ以来一回もないぞ
2. 名無しさん 2020年11月05日 13:58  ID:Q6N.qG3i0
ラグナキュールなついな
確かパーティメンバーが大量にいて、色チェンジとかできるんだっけ
3. 名無しさん 2020年11月05日 13:58  ID:LYL9bOtG0
ドラクエ7でトッモと街人交換したりしてたわ
4. 名無しさん 2020年11月05日 14:03  ID:g7RkYfdA0
PS1 PS2 SFCまだ現役だが、メモリー足りなくていつも
クリアデータ消して使ってる。ちょっぴりさみしい…。
5. 名無しさん 2020年11月05日 14:19  ID:G9tKL.Bt0
PS1後期は圧縮技術でメモカに書き込む容量減ったんよなぁ
その代わり読み書き時間かかるようになったけど
6. 名無しさん 2020年11月05日 14:25  ID:nq256dgd0
コナミの他ゲームのセーブデータがあると
サイコマンティスの台詞が変わるの面白かったなあ
7. 名無しさん 2020年11月05日 14:27  ID:9j5syfnC0
懐かしいな
今思うとしょっぱすぎるのに当時はSFCからスゲー時代になったと
キャッキャしてたわ
8. 名無しさん 2020年11月05日 15:17  ID:yMuo.KAM0
サターンのやつ消える消える言われてたけど消えたことなかったな
つーか他のゲーム機のデータも消えたことないわ
9. 名無しさん 2020年11月05日 15:46  ID:F1YtQUwT0
PS3はメモリーカードなしでPS1のゲーム遊べるし便利だわ
10. 名無しさん 2020年11月05日 16:14  ID:azq4kR9i0
スパロボαのシューティングゲームみたいなのやったわ
あれ完全にパターンなんだよな
11. 名無しさん 2020年11月05日 16:21  ID:tmI96UMZ0
ファミコンとかスーファミは「なんでゲームデータ消えないのにセーブデータだけこんなにすぐ消えるんだよ!わざと嫌がらせしてんだろ!」って子供の頃発狂した覚えがある
12. 名無しさん 2020年11月05日 16:35  ID:qJeLkQFm0
おっさんの巣窟
13. 名無しさん 2020年11月05日 16:47  ID:ZTH5IAPp0
PS2辺りまではセーブデータのアイコンが地味に凝ってるものが多いからそれを見るのも好きだった
SO2は進行状況によってアイコンの動きが変わったりしてたなあ
14. 名無しさん 2020年11月05日 19:28  ID:wLXjHXDC0
ゼノギアスのセーブした際のサブタイトルほんすこ
15. 名無しさん 2020年11月05日 19:42  ID:H61C02rT0
あの頃は楽しゅうござった
16. 名無しさん 2020年11月05日 21:41  ID:xPyYB4550
VITAはむしろ初期にはゲームカードにセーブ領域ある奴があったろ。すぐなくなったが
PS3の互換機能で仮想メモリーカードが何枚も作れたのは時代の進歩を感じた。仮想でメモカを再現という扱いだから15ブロック以上のカードは作れず、仮想の差し替えが必要なのは不便に感じた
17. 名無しさん 2020年11月05日 22:36  ID:4WvEOZcd0
楽天で2枚買ったら5枚も送られてきて草
18. 名無しさん 2020年11月05日 23:41  ID:moDKlu.l0
バイオハザード2時間クリアのデータが入ってるメモリーカードが欲しい。
「最初からロケットランチャー」やりたいねん!
19. 名無しさん 2020年11月06日 01:58  ID:AfzIKWG80
たぶんミスタップなんだろうけど今の子ってフォーマットって知らないかもな
SDカード使わないと知る機会ないよなたぶん
SDなんてデジイチでも買わなきゃ使わないだろうし
20. 名無しさん 2020年11月08日 07:20  ID:6CUxxFYn0
PS1のメモリーカード5,6枚は持ってたなあ。
ポケステも持ってた。
PS2になってからは社会人になってあまりゲームやらなくなったせいもあるけど、PS2用のメモリーカードは容量足りなくて買い足したっていう記憶が無い。
21. 名無しさん 2020年11月09日 11:39  ID:4ULGQ69m0
実際は8KBx15ブロックで120KB
     
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NewsInsight
2019年05月23日 15:00わずか3年で生態系が爆発した“デジタルゲームのカンブリア紀” 
5月1日の新天皇即位に伴って、「平成」から「令和」へと元号が変わりました。そこで、平成をゲームとともに振り返ってみようという本企画。第2回目の今回は、「平成6年(1994年)から平成8年まで」を追っていきます。この時期は、PCがより身近となり、家庭用ゲーム機ではいよいよ3Dポリゴンが使われる32ビット世代へと移行していきました。
経済の低迷が顕著な時代、ゲームは3Dへ
平成6年、インターネットの情報閲覧で欠かせないブラウザにおいて最初期に広く一般に普及した「Netscape Navigator」、検索サービス老舗の「Yahoo!」、World Wide Web(ワールド・ワイド・ウェブ)関連技術の標準化を推進する団体「W3C」が発足するなど、現在のインターネットを活用した諸活動の基盤となる技術が生まれました。
翌年の平成7年にはWindows95が発売。PCがビジネスシーンのみならず一般家庭へと広がり始めます。さらに平成8年にはヤフー、平成9年には楽天と、現在も日本のインターネットサービスを牽引する企業が続々と設立されました。そしてついに平成10年2月、日本におけるインターネット人口が1000万人を突破したのです。
このように、国内のデジタル空間は破竹の勢いで成長と拡大の一途をたどりますが、現実社会には未曽有の危機が訪れます。
平成6年の松本サリン事件と平成7年の地下鉄サリン事件というオウム真理教が起こした一連の事件では、心の拠り所になるはずの宗教が反社会的組織となって、罪のない人々に凶行し得ることを日本人に示しました。現代日本人が漠然と持つ宗教に対する不信感は、これら一連の事件に根差していると言っても過言ではないでしょう。
また、地下鉄サリン事件が起きる直前の平成7年1月17日、阪神・淡路大震災が関西を襲いました。結果的に経済活動も低迷します。GDP成長率は平成7年に2.7%、8年には3%を超えたものの、失業者はこの時期増加の一途をたどり、まさに「失われた20年」前半期の真っ只中でした。
平成6年に人気だったテレビドラマ『家なき子』の「同情するなら金をくれ!」というセリフは、この時期の厳しい世相を示していたと言えます。
このように、デジタルと現実が相反する様相を示す日本において、ゲーム産業はデジタル側。家庭用ゲーム機では、「セガサターン」が平成6年11月22日に、「PlayStation」が平成6年12月3日に発売されます。いずれもCD-ROMの活用と、3D描画能力が話題になりました。さらに平成8年6月23日に「ニンテンドウ64」が発売されます。
PCにおいても、さまざまな周辺機器が発売され、ゲームプレイに最適なハードとして強化できる環境が生まれました。CD-ROMドライブの本格的普及、Creative Technologyなどによるサウンドカードの誕生、そして、3dfx VoodooやNvidia RIVAをはじめとする3Dグラフィックアクセラレーターによって、PCの3DCGはリアルタイムレンダリング能力が向上しました。いわゆる「マルチメディア」をキーワードにさまざまなコンテンツが提供されるようになったのです。
欧米PCゲームカルチャー発展の契機となった『DOOM』
主観視点/1人称視点シューティングゲーム(英語名First Person Shooting Game、略称FPS、以下、FPS)では、アタリの『Battlezone』や『Star Wars』など、ワイヤーフレームを用いた作品がいくつか発売されていましたが、現在のFPS系譜の元祖は1992年、id Softwareにより発売された『Wolfenstein 3D』だと言われています。
同作は、日本アイ・ビー・エムが発表したパーソナルコンピュータ用のオペレーティングシステム「DOS/V」版で、『ウルフェンシュタイン3D』として、平成5年3月1日にイマジニアよって日本でも発売されました。
しかし、ゲームカルチャーへのインパクトという視点では、平成5年12月10日に北米でリリースされ、その後北米から欧州へと爆発的に広がり、FPSという一大ジャンルを発展させていった『DOOM』の存在感が圧倒的でしょう。
DOS/V版は平成6年2月1日に『ウルフェンシュタイン3D』と同じくイマジニアから発売され、国内のコアゲーマーを中心に支持されました。ですが、若干粗い3D描画の中でのスピード感あふれるゲーム展開が、一部のユーザーに「3D酔い」を促してしまい、それがしばらくイメージとして定着してしまいました。
一方欧米では、ネットワーク対応の熱いマルチプレイヤー対戦が盛り上がり、週末にそれぞれのPCを持ち寄って、LANでつなぎ、ゲーム対戦を徹夜で行う「LAN Party」という独自のゲームの楽しみ方を生み出します。この先にあるのが、現在のPCゲームを中心としたeスポーツトーナメントです。
このほかに、「シェアウェア」という無料でゲームの一部を提供する概念や、ゲームエディターをユーザーに解放し、独自のゲームステージを開発し共有することを奨励する「MODカルチャー」も本作を契機に広がっていきました。このゲームエディターのカルチャーが、ゲームエンジンのサードパーティへのライセンス提供というビジネスモデルへと発展していきます。
『MYST(ミスト)』が示した、「マルチメディア」で実現する不可思議な世界
当時、コンピュータ(デジタル)メディアがほかと差別化できるものは、「文字、CG、画像、映像、音声といった複数の要素を一体化したコンテンツとして表現できる点」だとされ、それを言葉で表すうえで「マルチメディア」という言葉が頻繁に使われるようになっていました。
この、いわゆる「マルチメディア」ブームの寵児となったのが米国Cyanによるパズルアドベンチャーゲーム『MYST(ミスト)』でした。そして、その日本語版がセガサターン向けソフトとして平成6年11月22日、つまり、ローンチタイトルの1作として選ばれたのです。
同作は、画面の鍵となる部分をクリックして謎を解き、次のシーンに進む、というアドベンチャーゲームの流れを組むもの。当時の欧米ゲームよろしく、細かい解説やチュートリアルのようなものがなく、プレイヤーはいきなりゲームの舞台であるMYST(ミスト)島に放り込まれます。
近代とも中世とも未来とも判別のつかない建築物のある不思議な空間のなかで、プレイヤーは暗号や謎を解きながら物語を展開させていきます。謎解きをする際も、建築物のなかに残された日記やそこに描かれたマップ、本のなかで再生されるアトラスという人物からのメッセージを読み解くといった、テキスト、映像、画像をプレイヤーがフルに活用するようにデザインされており、まさに「マルチメディアブーム」を代表する作品に仕上がっています。このグラフィックデザインや謎解きの仕組みは、のちの数多くのゲームにインスピレーションを与えました。
乙女ゲームの源流になったコーエーの『アンジェリーク』
恋愛/育成シミュレーションのような作品が台頭するなかで、そのゲームメカニクスを女性向けに構想するという「発想」はある意味、自然と言えます。ただ、経営者がそこに予算を割り当てて実行に移すのは別の話。それを行ったのが光栄(コーエー、現・コーエーテクモゲームス)です。
歴史シミュレーションゲームで既にブランド名を確立していた同社でしたが、平成6年9月23日に発売された『アンジェリーク』は、“女性が宇宙を統べる”という世界で、守護聖と呼ばれる存在から助けを得ながら、女王になるべく惑星の大陸を育成します。
ただ、プレイヤーにとっての楽しみは、守護聖とのロマンス。キャラクターの性格の違いや声優が吹き込む甘いセリフに、プレイヤーは釘付けになりました(ゲーム内で声優によるセリフが付いたのは、平成7年に発売されたPC-FX用ソフトから。平成6年にはドラマCDがリリースされた)。
これを契機にコーエーは『アンジェリーク』シリーズを発展させていき、以降は「和」をテーマとした『遥かなる時空の中で』シリーズ、学園モノの『金色のコルダ』シリーズとラインアップを増やし、これらを「ネオロマンス」シリーズとしてブランド化していきます。「乙女ゲーム」という一大ジャンルは、現在スマホゲームのなかでも非常に重要な位置づけになっていますが、その源流がここにあるわけです。
“ニンテンドウイズム”を世界へと広げた『スーパードンキーコング』
平成6年11月26日に発売されたスーパーファミコン用ソフト『スーパードンキーコング』の革新的要素は、スーパーファミコンというハードの制約のなかで、疑似3D的キャラクターモデルをスムーズに動かすことができたという点です。
シリコングラフィックスによる3DCGソフト「Power Animator」によりレンダリングが行われたキャラクターを、同ハードの制限で落とし込めるよう調整しただけでなく、美麗な背景も同様の作業が行われました。
ゲームデザインそのものは、『スーパーマリオブラザーズ』シリーズから築き上げられた横スクロールアクションゲームの1つの到達点として位置づけられるソフトと言えるでしょう。そのような意味では、そこまでの革新性はありませんでした。
しかし驚きなのは、本タイトルが英国のレア社によって開発されたという点。任天堂側からのアドバイスによって、ゲームバランスが絶妙に調整された同作をプレイした当時の筆者は、完全に日本の任天堂(具体的に言えば宮本茂氏)によって作られたものだと思っていました。
のちに本作がイギリスで開発されたと聞いて驚いたことを覚えています。つまり“ニンテンドウイズム”が確実に世界へと広がっていくさまを、筆者を含む世界中のプレイヤーが目撃したのです。
ブリザードの『ウォークラフト』は、グローバル規模でPCゲームカルチャーを定着させた
平成6年11月15日(Moby Gamesによる)、『ウォークラフト』が北米でブリザードからリリースされました。敵軍の戦略や戦術が常に変化するなかで、自軍のリソースを獲得して軍備や研究機関などを増設していき、敵側と激戦を交わし本拠地の占拠を目指すという、”リアルタイム”戦略ゲームの傑作です。その後、DOS/V版も国内で展開されました。
その前に発売された、映画『デューン/砂の惑星』の世界観をベースとした『Dune II』が、このジャンルを確立したと言われていますが、ファンタジー世界を舞台に、人類とオークの戦いという白兵戦を生臭く示した『ウォークラフト』のインパクトで、同ジャンルが浸透したと言えるでしょう。
CPUを相手にストーリーを進行させる「キャンペーンモード」と、LANを通じた複数人プレイの「マルチプレイヤーモード」がありましたが、当時からマルチプレイヤーモードに熱中していたのを記憶しています。同作で紡ぎあげられた世界観が、ブリザードによる以降のゲームの方向性を決定づけたとともに、欧米のゲームカルチャーに対しても影響を与えることになりました。
JRPGの金字塔『クロノ・トリガー』では、作家性の重要さが明らかに
平成7年3月11日に発売された『クロノ・トリガー』は、日本ファルコムや、エニックス、そしてスクエアなどが確立した「8ビットおよび16ビット時代」における“ドット絵の日本製ロールプレイングゲーム(JRPG)の到達点”と言っても過言ではありません。
『ファイナルファンタジー』シリーズの生みの親である坂口博信氏がエクゼクティブプロデューサーを、『ドラゴンクエスト』(以下、『ドラクエ』)シリーズの生みの親である堀江雄二氏がシナリオを、前述の『ドラクエ』シリーズに加えて、マンガ『ドラゴンボール』や『Dr.スランプ』で日本中を虜にしていた鳥山明氏がキャラクターデザインを務めるというドリームプロジェクトが実現。この3人がいかなる作品を生み出すのかという点でも注目の的となりました。まさに“作家性”を全面的に押し出したプロモーションが行われたのです。
果たしてリリースされた作品も、ファンの予想をはるかに上回る出来となりました。従来のファンタジーにタイムトラベルの要素を加え、恐竜人類と人類の祖先が共存する原始時代から世紀末、そして未来が描かれます。
鳥山明氏によってデザインされた、クールな主人公「クロノ」から、コミカルな外見をした「ロボ」や「カエル」といったキャラクターまで、しっかりとドット絵で表現。16ビット時代におけるグラフィック表現の最高峰に到達したと言えるでしょう。さらに、光田康典氏によるBGMも、16ビットサウンドの魅力を徹底的に引き出しました。同氏の作曲家としてのデビュー曲にして代表作の1つに数えられています。
幼年時の「虫取り体験」からインスピレーションを受けたとされるポケモンを捕まえるスリル、捕まえたポケモンが図鑑に記録されるコレクション要素、「通信ケーブル」でポケモンを交換するドキドキ感など、子供たちがさまざまなシーンで体験したリアルな遊びが、1本のゲームに昇華されたのが本作です。
さらに、マンガ、カードゲーム、テレビアニメ、そして劇場版アニメと、次々と『ポケモン』のタッチポイントを増やし、それぞれで相乗効果が生まれたという点でも当時としては画期的でした。これまでもメディアミックスはさまざまな作品で行われてきましたが、『ポケモン』のインパクトは比べ物にならないほど絶大だったのです。
もちろん、ゲームバランスも秀逸。カジュアルプレイでも十分楽しめるデザインでありながら、パーティのポケモンを選別する戦略性や、対戦相手との絶妙な駆け引きなど、対戦プレイを競技ととらえてプレイする人にも対応しうる奥深さを兼ねそなえた作品でもあったのです。
映画並みのストーリテリングをゲームでも実現できることを示した『バイオハザード』 »
映画並みのストーリテリングをゲームでも実現できることを示した『バイオハザード』
平成8年3月22日、カプコンからリリースされた『バイオハザード』ほど、当時のゲームプレイヤーを驚かせた作品はないでしょう。
謎の洋館、ゾンビ、そしてその先に存在するさまざまな異形の存在など、ジョージ・A・ロメロが手がけた映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』や『ゾンビ』などからインスピレーションを受けたシーンも数多くあり、それを3Dでかつゲームにおいて完全に再現したことが多くのユーザーに衝撃を与えました。
ゲームというものが、映画に匹敵または凌駕する可能性があるメディアだと実感させた最初期の作品が、本作だったのではないでしょうか。『バイオハザード』以降もシリーズは発展していき、現在も多くの人に愛されるIPであることは誰もが認めるところでしょう。リモコンのようにキャラクターを操作する操作性もむしろホラー感を引き出す「演出」として高く評価されました。
ローンチタイトルにして3Dアクションに必要な要素を網羅した『スーパーマリオ64』
平成8年6月23日に「ニンテンドウ64」がリリースされましたが、その際、ローンチタイトルとして展開された『スーパーマリオ64』に当時のユーザーは衝撃を受けました。
ジャンプする、探検する、潜る、飛ぶといった、従来の『スーパーマリオ』シリーズでのプレイ感覚を「忠実に」3D空間で再現していたのです。さらに重要だったのはアナログスティック。自然に3D空間を自由に動き回れるあの操作感には誰もが驚かされました。
さらに特筆すべき点は、デモの際に現れるクローズアップのマリオの顔。まるで平成7年に上映されたばかりの劇場用フル3DCGアニメ『トイ・ストーリー』のキャラクターかと見紛うような豊かな表情のマリオが、画面一杯に表示されているのです。コントローラーを使って顔にイタズラをすると、ちゃんとリアクションもしてくれました。当時はそんなところにミライを感じたものです。つまり、ゲームといる領域を超えたアミューズメントがそこにあったと言えるでしょう。
ゲームが「あらゆるエンターテインメントの複合体」であることを示した『サクラ大戦』
平成8年9月27日、セガサターン向けに開発された同作は、ゲームがまさに「あらゆるエンターテインメントの複合体」であることを実感させられる作品でした。『天外魔境』をはじめ、数々のゲームやアニメを手がけてきた広井王子氏、『逮捕しちゃうぞ』などで人気を博していたマンガ家の藤島康介氏がキャラクターデザイナーとして、そして『ドラゴンボール』をはじめ錚々たるアニメ作品の音楽をつくりあげてきた田中公平氏が結集して作成されました。
大正浪漫と蒸気技術が融合された独自のレトロフューチャー的な世界感のなか、プレイヤーは、「平時は帝国歌劇団」「有事は帝国華撃団」という秘密部隊の隊長として、女性団員をまとめ上げながら、悪の組織と戦うゲームです。
アドベンチャーパートでストーリーを展開させながら、敵との対戦パートはオーソドックスなターン制ウォーシミュレーションゲームとして進める本作は、アニメファン、ゲームファン双方が納得する出来でした。のちにアニメ化、ドラマCD化、そして舞台化まで行われ、ゲームを原作とした2.5次元ライブエンターテインメントの先駆け的な役割を果たしたと言えるでしょう。
本作には、女性隊員とコミュニケーションを図るアドベンチャーパートを搭載。隊員の信頼度によって、攻撃力や防御力が変化し、戦闘パートに影響する
©SEGA
アートと遊びが見事に融合した『アクアノートの休日』と『パラッパラッパー』
また、ゲームの多様性を象徴しうる傑作が、この時期に多数生まれました。その代表的な作品の1つが平成7年6月30日に発売された、『アクアノートの休日』です。アーティスト・飯田和敏氏がゲームデザイナーとして取り組んだ本作は、ゲームクリアの概念が限りなく希薄な、海洋探索型ゲーム。その不思議で幻想的な海洋世界に魅了されたプレイヤーも多く、「目的もなく自由に異世界に没入する」行為自体が、ゲーム体験において重要な要素であることを示しました。
この書き方は中国経済屋から見ると物足りない。鄧小平が中共内の左派の攻撃を撥ね除けて 「南巡講話」 で反攻に転じた91~92年頃の内政・外交情勢については、既に紹介したが、同じ頃、経済政策の面でも息詰まるドラマがあった。当時体制改革委主任から計画委主任と、まさに肝となる要職を歴任した陳錦華の回想録 「国事憶述」 (2007年日中経済協会刊) が当時の様子を記している。
もう一方は、平成8年12月6日に生まれた『パラッパラッパー』です。原色を多用した背景デザインのもと、脱力系とも言える紙っぺらのような2Dキャラクターがダンスバトルを繰り広げるという異色作。ただし、もともとの生みの親である松浦雅也氏が、「PSY・S」として活動していたミュージシャンであったこともあり、ゲームのために準備された楽曲はどれも秀逸で、国内のみならず世界的に評価を受けました。
これらはいずれも本格的なアーティストが「ゲーム」という課題に対することで、従来のゲームデザイナーでは思いもよらなかった新たな体験をもたらした一例と言えるでしょう。
わずか3年で一気に広がった“デジタルゲームのカンブリア紀”
以上、わずか3年の間で、現在にもつながる多種多様なゲームが生まれました。その生態系の爆発はまさにカンブリア紀を彷彿とさせます。
ただ、ゲームの発展はここでは終わりません。次回は、インターネットシーンにおけるゲーム体験を生み出した作品群を紹介していきます。
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