Goebbels: テクストゲーム史
テクストゲーム史
モダン,あるいは「閉ざされ」から「開かれ」へ
Goebbels
goebbels@01street.com
http://www.01street.com
■序論
留学中のことである。友人がわざわざ送ってくれたいかがわしい(このいかがわしいの意味は推して知るべし(笑))CD-ROM群。
その中にガンパレード・マーチなるプレイステーション用ゲームが「是非ともやれ!」という命令文付きで混ざっていた。なんでも日本では随分話題になったゲームだとのことであった。
しかしこちとら留学中の身である。日本語のゲームなぞにうつつを抜かしている暇はない,FF8フランス語版をクリアする暇はあってもである。
今思えば,あれは友人の仕掛けた巧妙な陰謀だったのではないか?ゲームに溺れさせ留学を失敗させようと言う(笑)偶然だがそのトラップを回避できたことは幸運であった。
帰国後,プレイしてみて思ったことなのだが,このゲームは面白いという以上にゲーム史,敷いては文学史上それ以上の意義のあるものだったのではなかろうか。
今回はこのガンパレード・マーチ(以後ガンパレ)を軸に前エッセイで論じたテクストゲームの歴史と展望について二回にわたって論じていくことにしたい。
■文学におけるモダンとポストモダン
まあ,その前に,すこし文学なるものについて語ろう。
モダンだとかポストモダンだとかいう用語を聞いたことは一度ぐらいあるはずだ。
芸術やファッション,哲学などに使われる用語だがもちろん文学にも使われている。文学におけるモダンとは即ちアヴァンギャルド,前衛を指すものらしい。さらに解説するならば,文学におけるアヴァンギャルドとは一言で言うなれば「過去の破壊」である。で脱モダン,ポストモダンとは過去の破壊から脱し,「過去のアイロニカルな再考」であるといえる。 具体的にどのような文学作品がモダンだったり,ポストモダンだったりするのか例を挙げると(このような定義が危険であると承知の上で,便宜的理由によって)。ジョイスの『ユリシーズ』がモダンに当たり,エーコの『薔薇の名前』がポストモダンに当たるであろうか。
モダンの文学は過去を破壊しようとする。
慣習によって具体的・一義的になってしまった物語を,その慣習(過去)を破壊することによってより抽象的・多義的な物語を目指してゆく。破壊は最終的に言葉そのものに及び,言述の流れを破壊し,最終的に空白の項(何も書かれないページ,つまり書かれうる全ての可能性を示した項)にまで達するであろう。近年一躍アイドルとなった平野啓一郎の『日蝕』のクライマックスのくだりが全くの空白項である,というのが最も解りやすい例であろうか(余談だが,なぜこんな素人紛いの芸で喜んでいる程度で芥川賞なのか?佐藤亜紀の『鏡の影』で佐藤氏がこの絶対的多義性を白紙であると,アイロニカルに見事な手法で料理したのに対し,当たり前のことを直球で投げる如き『日蝕』は恥じらいを憶えないのか?ただこの一点を取っても,そりゃあ確かに,比べられたら拙いわね,シンチョウシャさん(笑)「ヘルメス撰集」の扱いに代表されるメタテクスト的要素を見れば,その用法がますます剽窃に見えて仕方がない。そのパクリ方も「セフィール・ラーズィエル」を殆ど同じシニフィエを含ませて「ヘルメス撰集」と置き換えるのは安易ではないか?だってヘルメスですぜ,お客さん(笑)カバラ主義に対しほぼ同じ意味で錬金術ってのもねえ)。
おっと()内の余談が長くなってしまった,悪い癖である。
もっとも空白項が究極の多義性を導き出す例に『日蝕』を使ったからと言って,『日蝕』がモダン的作品だと言っているのではない,念のため勘違いなされぬよう。
話をもどす。
私はここで,モダンに対しポストモダンを説明するのにウンベルト・エーコの言葉を引用したい。
彼は彼女に「死ぬほど好きだよ」と言えないのを知っている。
なぜならこの言葉がすでにリアーラによって書かれたことを彼女が知っていると(そして彼が知っていることを彼女が知っていると)わかっているからだ。しかしひとつの解決がある。彼は言うことができるだろう「リアーラなら言うように,死ぬほど好きだよ」と。この点で,偽りの無垢を回避し,無垢な仕方で語り得ぬことを言った上で,この男は女性に言いたかったことを言うだろう。彼女を愛しているのだと。もしその女性がゲームに参加するのなら,彼女も同様に愛の表明を受け取るだろう。二人の対話者のいずれも自らを無垢とは感じないだろう。二人とも過去の挑戦,排除し得ないすでに言われたことの挑戦に応じて,二人して意識的にかつ快くアイロニーのゲームに参加するだろう・・・。だが二人とも,今一度,愛を語るのに成功するだろう。 (篠原資明, 1999, 『エーコ-記号の時空』より)
つまり慣習(過去)によって定義されてしまったルールに則ってゲームを進めながらも実はその裏で,そのルール自体をアイロニカルに遊ぶ,これがポストモダン的態度だと言えよう。危険ではあるが一言で言ってしまうと,「モダンが過去の否定であるのに対し,ポストモダンは過去の利用」である。
最後に,その破壊されたり利用されたりする過去とはいったい何なのか?過去とはエーコが定義するところの「閉ざされた作品」であって,「受け手に対し基地の感情やできあいの反応しか要求しない,一義的な」ものを言う。私はこれを「新聞のような作品」と考えている。新聞はできる限り事実を伝えようと努力すべきメディアである,そこに書かれる記事に多義的要素が含まれるポエジーなどあっていいはずがない。
Aさんが交通事故によって亡くなった,と書かれていればそれは何のメタファーでもなく,ただAさんが交通事故で亡くなった,というメッセージだけを伝えるものである。
■文学としてのゲーム
さて,ここでやっとガンパレの話に,ゲームの話に戻る。
ゲームが文学の一ジャンルであるなどと主張するのは私を含めたごく一部だけであろうが,それは文学という概念の定義によるであろう。
私は文学とは「社会や文化の単位としての言語活動一般のこと」と定義したい。日本語のような自然言語もC言語のような人工言語も同時に扱う。しかるにゲームとは人工言語によってプログラムされた一つの文化である。言い換えれば文化的な人工言語活動である。とすれば,ゲームを文学の範疇に入れることは殊更突拍子もないことでもなかろう。しかしこの定義は従来の文学という概念の定義からは懸け離れていることは明白だ。だとすれば文学などという概念はもはや意味を成さない概念なのかもしれぬ。
ゲーム史を見てみるとこの文学的モダンやポストモダンが実によく当てはまるし,文学史を利用すれば今後のゲーム史を予見することもできよう。そしてゲームにおける文学史の節目として現れたのがガンパレではないのかと,私は思うのである。
現在のゲームはほぼ全て,文学で言うところの「過去(閉ざされた作品)」である。新聞的文学が読み方を一義的に限定されるのに対し,殆どのゲームが一義的に遊び方を限定されているからである。例えば『ドラゴンクエスト?V』,プレースタイルは一義的なまでに限定されている。もちろん,レベル上げ,短時間クリア,アイテム集め,など「やり込み」的な派生は楽しめるが,それは一つのシステムとしてスタイルの範囲内である。アリアハンの街を歩くお姉ちゃんと恋愛を楽しもうとしてもお姉ちゃんは「アリアハンへようこそ」しか言わない。つまり恋愛を楽しめるシステムは存在していない。「想像で楽しめるじゃないか!」とのご意見もあるだろうが,ならば新聞に「Aさんは交通事故で亡くなった」と書いてあったとしても,
「<A>という文字は突起物をイメージさせるな,お,次に<交>なんて文字があるぞ<交>とは何が交わるのだ?もしかして<A>という文字からイメージできる突起物か?ではその突起物とはなんだ?もしやアレか?男性のシンボルたるアレか?おお,次に<通>なんて文字もあるじゃないか,そういえば<通じる>ってのは姦通の<通>でもあるし,女郎に通うなんて表現もあるな,ということはこの文章は○○○○の最中に事故が起こって死んだということか?○○○○の最中の死亡事故と言ったら腹上死しかあるまい。
いや,男性のシンボルが<交じわり通じる><事故>で<亡くなった>のであるから不能のメタファーかもしれない」
と楽しむことが可能であろう,しかしこれは作品に用意された楽しみではない。でなければ世界はあらゆる差異を失い,あらゆるものは価値を失って,均一のモノとなってしまう。
ドラクエだけではない,『ファイナルファンタジー』にガンジーの如く非暴力主義を貫いて遊ぶというシステムは用意されていまい。
この原因は毎回プレイするたびに同じことが起こり(戦闘などはランダムだが)同じ遊び方しかできないことが原因であろう。分岐式アドベンチャーゲームなどは遊ぶたびに展開が違うではないかとおっしゃるかもしれないが,それは遊び方の数が明確に限定されていることから,多義的になったのではなく,一義的なものが沢山詰め込まれただけにすぎない。
モダンの文学作品,例えば小説というジャンルに属するテクストは過去の破壊によって一つのシステムを多義的に解釈できるシステムを持つ。
前述したようにモダンの思想を突き詰めてゆけば行き着くのは全頁白紙という,あらゆる解釈を可能にするテクストであろうが,それはテクストの墓場であろう。
しかも全項白紙というテクストが出現したその時点から白紙であることが意味を持つことになるだろう。
だとすればそれはもう白紙であることによって,その意味のアイロニカルな再考,ポストモダンの門を叩いていると言える。
ではゲームはどうか?テクストゲーム史におけるモダンの登場がいつかは全てのゲームを調べたわけではないので特定不能だが,日本においては『ルナティックドーン』(これに関しては,あれはファンダメンタルゲームであるべきものをユーザー環境の問題で本来は人間自身が担う部分をNPC(ノンプレイヤーキャラクター)に負わせて擬似的にテクストゲームにせざるを得なかった,というゲームと思われるからここでは言及しない。)や『リンダ・キューブ』や『俺の屍を越えてゆけ』がこれに当たるだろう。一見『ドラゴンクエスト?V』と同一のシステムを持つと見られる『天外魔境?U』もプログラミングの開発思想を見れば,多様なプレイスタイルを許容する「開かれた」構造が見て取れる。
しかしゲームシステムのみで「開かれた」テクストとなる,つまりモダン化するのはゲームの世界においては難しい。それはゲームが人工言語によってプログラミングされているからである。
ゲームシステムのレベルで真にモダン化するのは現在のプログラミング技術やハードウェアの性能では不可能であろう。完全にコード化されている人工言語によって造られたたゲームシステムが多義性を獲得することは今の技術ではできない,それを可能にしてくれるのは真の考える知能としてのA.I.であろうが,そんなものは現行技術ではどうにもならない範囲のことである。
しかし読み手にモダン的であると錯覚させることは可能である。
いや,ゲームがモダンであるのに,真のA.I.などは不要であろう。
重要なのは真のA.I.を使った場合と同等の効果を得ることである。ゲームのモダンとは「考えられる中で可能な限り,A.I.を装うことができるゲームシステムである」
ここで,AlfaSystemのHPにある「あたらしいげーむのはなし」なるエッセイの一部を引用したいところなのだが,著作権上の問題もあるだろうし,概要を説明するにとどめよう。
このエッセイの中では,いかにして現行技術内でA.I.を用いるかが語られているのだが,内容を要約すれば次のようなことを言っている。
「現行技術で単独で機能する真のA.I.を造ることは不可能である」
→「現在のA.I.定義への疑問」
→「A.I.再定義(知能とは他者との関係において初めて認知される)」
→「A.I.とは他者から知能であると認識される人工プログラムである以上,本当に知能を持っている必要はなく,知能があると他者(プレーヤー)に認知されればよい」
こう言われれば(文章が啓蒙的であるのも手伝って)さも凄いシステムであるかのように見受けられるが,実際はただ単にゲームに必要なA.I.とはプレーヤーにゲーム自体が一つの思念体であるかのように見せかけられればそれでよい,ということを説明しているに過ぎない。
これはAlfasystemなりのモダンへの挑戦状と受け止めるべきであろう。しかしこの思想は『天外魔境?U』に既に始まり『俺の屍を越えて行け』において一つの完成を見たモノの発展系であるにすぎない。ゲームはやはりシステムそのもので「開かれる」ことはできない,演じるにとどまる。「開かれる」為にはやはりシナリオや音楽,映像と一体になる必要がある。テクストゲームにおいては,シナリオや音楽,映像がいかようにも解釈できる「開かれた」存在であるということを演出する擬似モダンのシステムによってできているといえるだろう。
■モダン-「開かれた」ゲームへ
では今度は,「閉ざされた」,古典的テクストゲームから「開かれた」モダンのテクストゲームへと移り変わっていく過程を見ていこう。
『天外魔境?U』において初めて現れたシステム,それは幅広いプレイスタイルを許容することでテクストゲームを解釈する幅を広げる,つまり「開かれる」手法であった。
同系統と思われる『ドラゴンクエスト?V』は敵のステータスが予め決定されていて,ある一定以上のレベルにならないとその敵(ボス)を倒せない,というプレイスタイルを一義的なまでに拘束するシステムをとっていた。つまり「勝たせない」ことが敵キャラの役目であり,プレイスタイルの限定であった。
しかし『天外魔境?U』では,プレイスタイルに応じて,敵(ボスもザコキャラも)はできるだけ接戦を演じてぎりぎりのところでプレーヤーに「負けてあげる」ことを基本思想とした逆転の発想を持ったゲームシステムであった。どんなに低いレベルで戦おうが,どんなに高いレベルで戦おうが,敵は適度に強く,激戦を演じてくれ,最後には勝てる。ここにテクストゲームにおける「開かれ」の可能性が出てきているといえる。多くのプレイスタイルを許容するということはそれだけ解釈の可能性が広がるということだからだ。
そして同じ桝田省治の作品でも『リンダキューブ』を経て『俺の屍を越えて行け』になるとさらに顕著になってくる。
『俺の屍を越えて行け』に採用されたシステムは「物語生成システム」とでも呼ぶべきシステムで,『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』のような従来型のゲームが物語をゲーム側が提供していたのに対し,『俺の屍を越えて行け』は物語の大枠こそあるものの,ここの小さなエピソードや,物語を生み出すのはプレーヤーの脳みそそのものであった。つまりシナリオや音楽,映像と一体となったものをプレイヤーが解釈することによって無限に物語が生まれる,そしてそれを促進するシステムが採用されていたのである。『俺の屍を越えて行け』のプレイヤーはファーブラ(物語)を自ら作り出すことを求められた,ゲームのもう半分の作者となることを求められたのだ。『ドラゴンクエスト』など,物語が作者によって提供されどんなプレーヤーにも画一的な物語しかありえない「閉じられた」テクストゲームとは明らかに一線を画すものであった。
その証拠はネット上にある,膨大な数の二次創作小説である。『ドラゴンクエスト』は何百,何千万本も売れているにもかかわらず二次創作小説はあまり生まれていない。反対に『俺の屍を越えて行け』は三十万本前後,と『ドラゴンクエスト』に比べればはるかに少ない出荷数なのに二次創作小説が氾濫している。つまりそれだけ,プレイヤーに空想させる,解釈を即すシステムを持ったゲームだったのだ。
しかし,この『俺の屍を越えて行け』は桝田省治は意図的にか,一つ失敗を犯した。
テクストゲームにおけるモダンの完成形とも言えるこのゲームが要求する,つまり能動的にファーブラを形成しながらプレイできる能力を持ったプレイヤーはまだそう多くは無いのである。枡田省治を受け入れられないプレーヤーも多いのだ。この辺りがモダン的ゲームの限界であろう。能動的に解釈しようとするプレーヤーには受け入れられるが,受動的にしかプレイしようとしない無邪気なプレーヤーには受け入れられない。アニメの世界において一般にエヴァ現象,と呼ばれる『新世紀エヴァンゲリオン』が巻き起こした謎と解釈の氾濫を思い起こしていただきたい。そのとき多くのアニメファンはどういう態度を取ったかを。多くのアニメファンはTV版,映画版の25話・26話双方とも(特にTV版を),毛嫌いした。それはあまりに多様に解釈可能であったこのアニメのその「開かれ」に拒絶反応を起こしたのである。積極的に物語を解釈し,多用なる解釈を許容しようとはせずに,ただ物語りに画一的な結論と解釈が与えられることを多くのアニメファンは望んだ。つまり「閉じられた」テクストを望んだのが当時のアニメファンだったのである。「エヴァは24話まで面白いけど,25,26話は嫌いだな。わけわかんないもん」という人々だ。ネット上で「謎解き」と称するさまざまな解釈があふれたにもかかわらず,着地点がこのような結末であったのは哀しいことであった。
残念ながら現在の大半のゲームプレイヤーはほとんどこのような人たちと同一なのである。テクストゲームに積極的な解釈を加え,ファーブラを生成しようとはしないのだ。だから「開かれた」ゲームも一味,味付けしてあげねばならないのである。このあたりが桝田省治のゲームがとっつきにくいといわれてしまう所以であろう。桝田省治のゲームは「幸福なる少数者」の為のゲームといえる。
これがモダンのある種の限界だ。
■モダンとポストモダンの要求するプレーヤーの違い
テクストゲーム史1で述べた枡田省治の一連のゲーム、モダンの部類に属するゲームに対し、『高機動幻想ガンパレードマーチ(以下ガンパレ)』はまったく違うアプローチを行っている。
「過去のアイロニカルな再考」つまりポストモダンの手法を使っているのである。
モダン的テクストは常に過去を破壊し、新しいモノを求めるので過去にとらわれている読者(プレーヤー)には受け入れられないが、ポストモダンは「過去のアイロニカルな再考」であるのだから、理想的な読者(プレーヤー)は使われている引用や手法の再利用と戯れようとするだろうし、モダンを受け入れないような無邪気な読者(プレーヤー)も「過去のアイロニカルな再考」の「過去」の部分だけを、つまり表層的な部分だけを楽しむことができるし、引用をオリジナルだと勘違いして楽しむかもしれない。常にモダンを求めるような能動的な読者(プレーヤー)はその引用や手法の再利用のしかたの斬新さを楽しむであろう。つまりどのタイプのプレーヤーも、その質の違いに関係なく、違うレベルではあるが楽しむことが可能なのだ。これがモダン的ゲームとポストモダン的ゲームの最大の違いだ。
ではポストモダン的ゲームである『ガンパレ』がこのプレーヤーの質という問題にどう取り組んだかを分析してみよう。
■教育システム
まず一つ目は「教育」である。
『ガンパレ』は「謎解き」のシステムを利用し、プレーヤーを教育しようと試みたのである。「謎解き」のシステムとはミステリー小説の根幹をなすシステムのことである。推理ものなど、ミステリー小説を読むときに読者は知らず知らずのうちに隠された謎(「犯人はだれか?」など)を解こうと試みてしまう。もちろんそれは小説の読み方としては極めて一次的で幼稚な読書だといえよう。しかしそういうシステムそのものは流用できる。なぜならば謎解き、という極めて幼稚な読書ではあるが、それは読者のテクストへの介入を即するには最良の方法にはなるからである。
使用例を挙げよう。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』という小説であるが、これは一般にミステリー小説、推理ものと受け取られているようだ。しかし、そんなものでは絶対にない。これはアンチ・ミステリー小説である。読者は確かにエーコに乗せられ、ミステリー小説のシステムに乗せられて謎解きへとまい進してゆく、しかし最後に行き着くのは謎など初めから無かった、という事実である。読者は謎解きのシステムに乗せられてテクストに積極的に介入してゆき、結果的にはいつのまにかファーブラを形成する能力を身につけるに至っているのである。「閉ざされた」テクストしか許容できなかった読者が、いつのまにか「開かれた」テクストを解釈できるようになってしまうシステムをもった小説なのだ。
「閉じられた」テクストゲームしか許容できなかったプレイヤーをゲーム内で教育しているのである。
『ガンパレ』はこのシステムを明らかに利用している。「このゲームには謎があります」と説明書で宣言することでミステリー小説式の一次的な謎解きのシステムにプレイヤーが参加することを即し、製作会社(AlfaSystem)のHP内に謎解き用の掲示板を設置して「謎ハンター」とよばれるプレイヤーたちが謎解きの解釈を繰り広げるのに、作者側が出てきて、一定の方向性を与えてすらいる。本来ならば作者側が自ら出てきて、解釈に方向性を与えることなどは必要ではない(文学解釈の世界では作者の意見など一解釈としての権威しかない)のだが、『エヴァンゲリオン』の失敗(方向性がないばかりに解釈が大氾濫し、結局それに視聴者が耐えられなくなってしまった)を踏まえて、解釈する場所(掲示板・HP)、解釈の方向性を限定することにより、「閉ざされた」テクストゲームしか許容しないプレイヤーを徐々に教育することに成功している。
私自身はプレイする時期が遅かったこともありいわゆる「謎解き」には参加していない。が、聞くところによると、1~7までの論理トラップなるものが設定さてれていて、プレイヤーはひたすらその突破を目指すのだという。作者側は過剰解釈や解釈不足を正し、ヒントを与えて正解なるものに導いているらしい。これはおそらく、「開かれた」テクストを解釈するための第一段階のトレーニング、つまりテクストに積極的な解釈を加える力、つまり謎を解こうとする力のトレーニングであろう。よって作者側にすればこの謎解きに参加し、謎ときを行ってさえくれれば第一段階のトレーニングを受けさせることができるのであるから、トラップを解くかどうかは関係ない、一つの遊び以上の何ものでもないだろう。そしてその謎解き掲示板を少し覗いたところでは、作者側は「論理学」をかなりプッシュしている。初歩的な論理学は文章を書く際に、特に議論をする際に、空回りしないために必要不可欠な学問である。
論理的な文章を書いてくれれば掲示板も荒れないし管理しやすい、という目的もあるかとは思うが、初歩的な論理学というのは一次的な謎解きに必須である。勿論必ずしも専門的な論理学を学んでいる必要はない。というのも論理学では謎解きはできても「開かれた」テクストは解釈できないからである。
まずここまでがテクストを積極的に読み解こうとするプレイヤーを教育する段階である。そのための力を、論理学を学ばせ、1~7までの論理トラップを解かせることで養成しているのだ。
さて、所謂「謎解き」に一切かかわることのなかった私ではあるが、第7トラップに限定すれば回答を出せる。少し卑怯であるが、まあ、ゲームごときに割いている時間もそれほどないので、第7トラップのみに参加させてもらうとしよう。
それにはまず「謎」の構造主義的コード解析から始めねばなるまい。
謎に最低限必要なものとして「解かれていない」という属性がある。なぜなら解かれた瞬間にそれは「謎」ではなくなるからである。そしてもう一つ「謎」であるからにはその「正解」がなければならない。推理小説における犯人がそれである。つまり推理小説に代表されるような謎解きのシステムというものは須らく「閉じられた」システムであり。謎を解く上での解釈は解答という形のたった一つのものでしかありえない。よって謎は論理学によって論理的に解かれる代物なのである。
その意味では謎とは正解が覆い隠されたものでもある。つまり「正解」という中心を必ず持っているものであるのだ。この場合謎のコード(注:このコードは閉じられたコードである)とは「謎」は「隠された解かれるべき正解」であるとするシステムそのものである。
第7トラップとはこの「閉じられた」「謎」のコードである。つまり「世界の謎を解けば、その先には隠された正解がある。そのために謎解きをする」ということだ。
これに対するトラップの突破は、「開かれた」テクスト解釈への道である。しかしこの「開かれた」はディコンストラクション的な無限の解釈の可能性ではない。第7トラップは「理由付けさえできれば解釈は無限にある」という解答を許容しないのである。そうでなければ第1~6トラップを解かれる前に第7トラップが解かれていたはずである。解答はやはり第1~6トラップというコンテクストを考慮に入れなければならないだろう。
無限の記号過程に埋没することもまたトラップであるのだ。このあたりはエヴァンゲリオンの失敗から学んだことだろう。
よって、単純に「開かれ」ればよいのではなく、「開かれ」た無限の解釈の可能性のなかから慎重に「可能な解釈」を選別しなくては成らないのだ。
正解を先に書いてしまうと
「世界の謎を解こうとする行為(思考や議論)は世界の謎解きが目的ではなく、無限の記号過程が氾濫する(無限の解釈が可能な)世界において、それに埋没することなくより良い世界を作り上げてゆくこと、そのための思考・議論であった」
ということである。さらにあげるならここで言う世界とは現実ではなく、存在可能な仮想世界であるということか。
要はデリダらポスト構造主義哲学を使っているのだろう。謎を脱構築しているのだ。
ゲームをプレイするのに特に必要のない現代思想など全く持ち出さずにしっかりとプレーヤーを育て上げる手際は実に見事であった。
■ポストモダンのゲーム構造
ガンパレがポストモダンであるという理由の二つ目は、プレイ方法の多重化にある。まず一週目(いわゆるファースト・マーチ)を分析しよう。
ガンパレはごちゃ混ぜゲームである。大戦略系の戦術級シュミレーション的要素、ときめきメモリアル系恋愛シュミレーション的要素、一つの物語を登場人物に成り代わって解いてゆくドラクエ系(Wiz系ではない)RPG的要素を根幹にし、バイオハザード系のGUIによって操作する。
多種のゲームシステムをごちゃ混ぜにすることによって多義性の獲得をねらったものであると受け止められるが、これはそれほど成功したとは言えないであろう。それぞれのシステムがそれほど密接に関係していないからである。例えば、学園モードのなかで仲の良い悪いが生じるわけだが、それが戦闘モードに入ったときにキャラの動きと関係があるわけではない(壬生屋と恋愛関係にあるからと言って壬生屋がこちらを守ってくれるわけではない)、関係があるのはせいぜい恋人関係にある人物が死んだ時のイベント程度である。戦闘モードそのものに物語への積極的介入の要素はない。戦死者でも出ない限り、普段の戦闘に物語を求めることはこのシステムでは過剰解釈に当たるであろう。存在するのは単に撃破数と戦死者によるイベント発生ぐらいである。ごちゃ混ぜになってはいるが、その一つ一つのモードの独立性は高いのである。
確かに、『Sランククリア』『恋愛を楽しむ』『ソックスハント』『物語を楽しむ』とプレイの仕方は多様であるが、それは複数のシステムがごちゃ混ぜにされた分、増えた遊び方に過ぎない。真の多義性とは限りはあるもののいかようにもプレイ可能であることではないだろうか?しかし私が確認した限りではプレイ方法は以上の四つだ。派生として『スカウト絢爛舞踏賞』などがあるかもしれないが、それはドラクエ?Vを勇者だけでクリアするだとか、そういうやり込み芸の一つと同じ次元である。説明書に書かれているような『探偵ごっこ』や『風紀委員』のプレイスタイルで十分に楽しめるようなシステムは用意されていない。(滝川がカンニングペーパーを持っていることは「交換しようぜ」コマンドを使えば一発で解ってしまう。カンニングの証拠をつかんでも滝川はアイテムを持っている限りカンニングし続けるし、先生に言いつけることも出来ない。つまりゲーム性がない。また、「注意→仕事について」や「みんながんばろう」を連発すれば志気があがるのは自明であり、そこには何のゲーム性もない)もちろん可能ではあるが、それはドラクエ?Vで「ようこそアリアハンへ」とだけ言う、女の子に恋愛をするというプレースタイルと同じようなものだ。
一週目をプレイする限りにおいて、ガンパレは疑似モダンですらない、従来通りの過去(閉ざされた作品)のゲームであろう。プレーヤーは速見厚志という主人公と同一視され、感情移入していくプレイスタイル以外に小説のモダン的テクストのような 、作者の意図を想定し(モデル作者)ながら読む読み方や、テクストの構造そのものを探りながら読むという行為はない。つまりモダン的ゲームを許容できない(積極的に解釈しようとしない)無邪気なプレーヤーも一週目を十分に楽しむことが出来るだろう。しかし反対に、能動的に解釈をしようとするプレーヤーも、引用と戯れようとするプレーヤーにも物足りないであろう。
しかしそれは二週目のプレーにおいて一変する。この二週目以降があるからこそ、私はガンパレをポストモダン的だと主張するのである。
二週目が始まってしばらくすると、一週目ではただの「岩田」であった岩田がプレーヤーに語りかけてくる。プレーヤーキャラではなく、ゲームをプレイしている私やあなたに話しかけてくるのだ。
「…最近色々かぎまわっていますね、
異世界のプレイヤー…さん。
フフフ…。隠さなくてもいいですよ。
あなたと、私と、坂上は、あなたと同じ介入者ですから。
…もっとも、私は冬休みがてらに青が追う竜を追ってこの世界に介入してきた、ハッカーですがね。」
ここで、私たちプレーヤーが見る世界が一変する。今までは速見や芝村が幻獣と戦う世界がプレーヤーの見ている全てだったが、どうも、各キャラクターの後ろにはそのキャラクターを操っているいくつもの世界があるのではないか?(もちろん、二週目以降をプレイしている私たちプレーヤーが生きる現実世界も含めて)という疑念がふつふつと沸いてくる。
そうなると既に一週目をクリアしている私たちプレーヤーは自らの一週目のプレイに疑問を持ち始めるのである。
「オレたちが、理解したと思っていた世界は実はまったく違う世界なのではないか?思い違いをしていたのではないか?」
このような疑念をもったプレーヤーは一度プレイした一週目を、二週目をプレイすることを通して再読することになるのだ。二週目をプレイしながら、常に一週目と二週目を比べて、一週目で自分が感じ取ったことを修正していくのである。
一週目と二週目以降のプレイはお互いに影響しあい、微妙な意味を造り上げていくのである。
「二週目以降における一週目のアイロニカルな利用」これがまず一つ目のポストモダン的特徴だ。
■ヒーローのメタフィクション
ゲームの全体に流れる物語もポストモダン的だ。『ガンパレ』の物語とは「ヒーローについて語るヒーローもの」あるいは「過去のヒーローものの利用」だからである。メタフィクションなのだ。「Sランク」という最高レベルのクリアレベルを達成するにはプレーヤーキャラは「ヒーロー」にならなければならない。『ガンパレ』はその「ヒーロー」について物語中で常に語ることになる。プレーヤーはヒーローとは何かを理解し、ヒーロー的行動をしなければ「Sランク」を達成できないのだ、またそのヒーローを理解するために、過去のヒーローものについて考えてみなければならないのである。
このようなポストモダン的なゲームの構造はどのような効果をもたらしているのだろうか?それはプレーヤーに想像させるということだ。前述したように「謎」を追わせることによってプレーヤーの積極的な思考を即し、かつ「謎の答え」という単一の解答を求めるだけだったプレーヤーを、自らが想像するように改変する効果をポストモダン的ゲーム構造が支えているのである。
「ヒーローとは何か?」「なぜ戦うのか?」「幻獣とは?」「人間の未来は?」これらの疑問の解答は用意されてはいる。しかしその解答は唯一無二のものではなくて、あくまで一つの解釈例にすぎない。『ガンパレ』はそれらの謎の解答をプレーヤーが自分なりに想像することを即しているのだ。
■結論
ゲームは受動的な文学ジャンルであった。「コントローラーでプレイするのだから能動的なのでは?」と思う方もいらっしゃるだろうが、プレイするためのコントローラーまでもが用意されていると考えれば、ゲームはむしろ受動的なのだ。プレーヤーは一度覚えたルーチン・ワークでプレイしていればよいからである。
しかしゲームにもモダンの流れが流入し、プレーヤーはただ受動的にゲームの表面だけをプレイするだけではなくなった。一義的だったゲームは多用なプレイスタイル、解釈を可能にするモダン的ゲームに進化し、プレーヤーにより能動的にプレイ方法を選択させ、ゲームの解釈を即した。
そして『ガンパレ』の登場により、ゲームはポストモダンへと足を踏み入れたのである。
『ガンパレ』というゲームにおけるポストモダンの初の試みは大成功だったと言っていいだろう。
一義的な解釈しかできないプレーヤーは一週目をそれなりに楽しみ、能動的で多用な解釈をしようとするプレーヤー、あるいはそのようになろうとしているプレーヤーは二週目以降を十分に楽しむことができた。前者を後者へと進化させる「教育」のシステムまで内蔵している。
テクストゲームもようやく、ポストモダンの境地へと足を踏み入れたのだ。
■今後の展望
最後に最近のテクストゲームの動向を見てみよう。鬼才枡田省治は『暴れん坊プリンセス』によってポストモダンの境地に足を踏み入れたがこれはプログラミングの拙さとプロデューサーの無能が祟って失敗に終わった。次回作に期待したいが、枡田省治はモダン的ゲーム、つまり「幸福なる少数者」のためのゲームを創るのが上手いのであるからむりにポストモダン化することもないだろう。私個人としては枡田省治の「幸福なる少数者」のためのゲームが好きであるし、プレイしたい。そしてもし可能ならば、受動的にしかプレイしないプレーヤーを教育するシステムを組み込んでもらいたい。
問題はアルファシステムの芝村裕吏だ。ガンパレでポストモダン的手法を使い、また教育のシステムを組み込むことで大成功したが、これでプレーヤーを教育できたと勘違いし、枡田省治のようなモダン的ゲームを創ったら大失敗するだろう。プレーヤーは荘簡単には学ばないのだ。残念ながら芝村裕吏には枡田省治のような鬼才は無い、「幸福なる少数者」のためのゲームをつくっても枡田省治のレベルには追いつけないだろう。次回作であるコードネーム「ニュー」にもやはりまたポストモダン的手法と教育システムを採用することを願いたい。そしてこれはアルファシステムに言いたいことだが、頼むから優秀なプログラマー、そしてコーダーを雇っていただきたい。『ガンパレ』が敬遠されるとしたら、それはユーザビリティーが最悪だからだ。コナミあたりがつくっていれば、もっと軽快にプレーできたことであろう。
ファンダメンタルゲーム全盛の現在、鬼才二人、枡田省治と芝村裕吏に低迷するテクストゲームが今後どのような発展を見せるのかがかかっていると言っても過言ではない。
この二人ならば、きっと「解釈することを楽しむゲーム」=「テクストゲーム」の面白さを存分に引き出してくれるに違いない。
○参考文献
篠原資明, 1999, 『エーコ-記号の時空』
Umberto Eco, Opera Aperta, Milano, Bompiani, 〔篠原資明/和田和彦訳『開かれた作品』青土社, 1997年〕
Umberto Eco, Lector in Fabula, MIlano, Bompiani, 〔篠原資明訳『物語における読者』青土社, 1993年〕
沢月亭
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新説ゲーム史
Goebbels
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■ファンダメンタルゲームとテクストゲーム
コンピューターゲームが生まれて以来,様々なジャンルが様々な人々によって確立されてきたように見なされているが,今まで使用されてきた意味でのジャンルという概念はもはや機能しなくなっている。
『高機動幻想ガンパレードマーチ』をどのようなジャンルとして規定するのか,現在の意味でのジャンルの概念では説明できない。RPG,STG,SLG,ACG・・・・もはやそんなジャンル分けは不可能であろう。
実はこれは当たり前,というよりも小説の世界に置いてすでに先例がある話なのだ。
純文学,歴史,SF,ミステリー,恋愛・・・・・
現在もなお便宜的なジャンル分けが行われているが,それはもはや文学の世界での意味を失った商業レベルでのジャンル分けに過ぎない。
RPG,STG,SLG,ACGといったジャンル分けは商業レベルで使われるならまだしも,ゲームを論じる上で使用に耐える概念ではもはや無くなった。
では文学の世界に置いていまだ有効なジャンル分けとはのはどのようなものであるか。
可能なのは最大限にマクロ的な,韻文と散文ぐらいであろう。小説や詩,随筆・・・という分け方すらも機能はかなり薄まってきてしまった。
もはや意味を失ったと行っても良いだろう。コンピューターゲームの世界に置いて,このようなマクロ的なジャンル分けというモノはいままで行われてこなかったが,これからコンピューターゲームを論じようとするならば定義しておかなければならない問題であろう。
現在のところ,コンピューターゲームは次の二つのジャンルに分類できる。
一つ目は,コンピューターゲーム以前の,トランプやボードゲームといった旧スタイルのゲームに端を発するもの。二つ目は文学に端を発するモノである。
私は前者を「ファンダメンタルゲーム」,後者を「テクストゲーム」という用語を使って定義したい。
「ファンダメンタルゲーム」とは,複数の人間が参加することを前提にしたゲームであり,ゲームと人間のコミュニケーションではなく,人間と人間とのコミュニケーションにこそ重要性があるものである。ゲームのシステムは人間と人間とのコミュニケーションを演出し,促進させるために存在する。例としてはは『実況ウイニングイレブンシリーズ』や『実況パワフルプロ野球』のような対戦重視型の各種スポーツゲームが挙げられるだろう。そのようなスポーツゲームは確かにコンピューターvs人間での対戦も可能であるが,理想としては人間vs人間なのであり,コンピューターは対戦相手を見つけられない場合に仕方なく人間の相手をする存在でしかない。
「テクストゲーム」とは,一人の人間がプレイすることを前提としたゲームであり,ゲームをプレイするという一次的な遊び方において,ゲームと人間のコミュニケーションが中心を成す。システムは設定や物語と一体となってプレーヤーたる人間とコミュニケーションを楽しく成り立たせるために存在する。例としては(解りやすいように今までスポーツゲームという同一ジャンルで語られてきたモノを例に取ろう)『サッカーチームをつくろう』や『栄冠は君に』といった一つの統辞性を持った物語を楽しむ各種スポーツゲームが挙げられるだろう。そのようなスポーツゲームは,育てたチームを他人のチームと戦わせると言ったおまけ的要素もあるが,ゲームの中心を成すのは,ゲームとコミュニケーションしていく上で物語を楽しむことである。
今提示したジャンル分けが,有効な理由は,既存のジャンル分け(RPG,SLG・・・・)がその境界線を曖昧にし,その複合体ともいえるものまで存在することによって定義不能に陥ってしまっているのに対し,明確に分けることが可能であることだ。
「ファンダメンタルゲーム」はその面白さの源が人間×人間のコミュニケーションにある以上,一定以上の長さを持った統辞的物語を持つことが不可能になる。
「テクストゲーム」はその面白さの源が人間×コンピューターのコミュニケーションにあり,それはつまりシステムや各種記号が語る物語をプレーヤーが解釈することに他ならないから,その物語が一定以上の長さを持った時点でゲームをプレイする一次な遊び方としての人間×人間のコミュニケーションは不可能になる。
要するにこれは時間的問題である。人間同士のコミュニケーションは,当事者が全員人間である以上,当然時間と場所の制約を受ける。インターネット接続によってその条件はある程度緩和されるだろうが,『ドラゴンクエスト?V』のような,一つの物語をプレイする時間が20時間を超えるようなゲームにおいては,プレイするときに必ず同じ面子をそろえると言うことをモデルプレーヤーに要求できるものではない。となればある程度の長さを持った(例えば『ドラゴンクエスト』?V程度の長さを持った)物語は「ファンダメンタルゲーム」においては不可能である。
「テクストゲーム」はその反対で,一定以上の長さを持つ統辞的物語が存在する以上,一次的な遊びにおける人間同士のコミュニケーションは不可能となる。
このジャンルの定義は時間的問題を人間がクリアできるその日まで有効なジャンル分けであろう。時間的問題がクリアできないかがり,「人間×人間のコミュニケーション」と「一定以上の長さを持つ統辞的物語」の共存はメジャーゲーム市場においては不可能である。
もちろん,小学生やドロップアウターの中には毎日同じ面子が同じ時間に集まって(ネットを利用する場合,場所の概念からは自由になれる)プレイすることも可能であろうから,「人間×人間のコミュニケーション」と「一定以上の長さを持つ統辞的物語」の共存が完全に不可能とは言わないが,少なくともそのようなモデルプレーヤーを設定するゲームは数を売ることは出来ない。
マイナー層にマーケティングのターゲットを置いているのだから道理だ。
勿論,どちらかの内容だけでも十分楽しめるようなゲームを造り,「人間×人間のコミュニケーション」と「一定以上の長さを持つ統辞的物語」の共存をおまけ的要素として付加する場合も想定可能であるが,それでもはやり主要なモデルプレーヤーを描くときにはどちらかに偏重せざるを得まい。
■オンラインRPGの分析
オンラインRPGと一般に呼ばれているものがインターネットの普及と共に生まれ,現在も増え続けている。RPGというゲームのスタイルが「誰かを演じる(ロールプレイ)」ゲームである以上,複数の人間が参加し,人間同士がゲームを造ってゆくオンラインRPGはRPGの来るべき進化であったと安易に考える方々も多いかもしれない。
しかしそれは大きな誤りである。今まで,既に役割を果たし終えたRPGというジャンル分け概念によって,同一視されていた二つのジャンル(融合し得ないジャンル)のうちの片方の進化でしかないからである。
オンラインRPGは本来「ファンダメンタルゲーム」に分類されるべきゲームの進化型である。しかしインターネット普及以前には「ファンダメンタルゲーム」の要素を持った(人間×人間のコミュニケーション)旧分類で言うRPGは存在こそすれメジャーたりえなかった。それはやはり時間的,場所的制約を受けるからであった。
先ほどからRPG,RPGと既に機能しないとまで言い切った用語を使ってきたが,一度定義しておく必要があるだろう。
RPGとは『ウィザードリィ』『ウルティマ』などに端を発する,「ゲーム中の誰かに成り代わり,その役割を楽しむ」ゲームのことであると定義する。
旧分類でRPGと呼ばれるモノの先祖は『ウィザードリイ』や『ウルティマ』だろうが,この二つのゲームは「ファンダメンタルゲーム」と「テクストゲーム」の可能性を同時に持っていた。加えてパーティープレイ(複数のキャラをプレーヤーが操るプレイ)が発明されてからはRPGにおけるプレーヤーは多数のキャラを担当することとなった。
ところで皆さん,胸に手を当てて思い返してみていただきたい。RPGが本当に面白かったのはどういう遊び方をしたときか?これは断言しても良いが,一定以上の長さを持った統辞的物語を仲間と無駄話し,一緒に謎解きしながら最初から最後までプレイしたときである。つまり夏休みやその他諸々の幸運によって条件が奇跡的に成立し,「人間×人間のコミュニケーション」と「一定以上の長さを持つ統辞的物語」が融合したときである。
余談だが,私は『ダンジョンマスター』や『ドラクエ?U・?V・?W』『ファイナルファンタジー?[』を友人とずっと一緒にプレイしてクリアした経験がある。やはり一つの冒険を仲間と協力して達成するというのは何にも代え難く面白い。一人でやったときにはあまりの退屈さに投げ出してしまった『ファイナルファンタジー?[』ですら面白く感じた。まあ,この時は『ファイナルファンタジー?[』がフランス語版であり,単語やセリフの日本語対照データベースを造りながら遊んだと言うこともあるだろうが。
話を戻す。パーティプレイであるならば一人が全キャラを担当するのではなく,一つのキャラに一人,担当する人間が付いて人間同士がコミュニケーションをとりながら一緒になってプレイするのが一番面白い。『ウィザードリィ』にはその可能性はあったが,インターネットというものが一般に普及していなかった当時,あれだけの長さを持ったゲームを常に同じ面子を集めてプレイしクリアするなど不可能であったし,操作インターフェースを三つも四つも期待できるような時代ではなかったから「人間×人間のコミュニケーション」は成立しなかった。だから仕方なく,一人のプレーヤーが全キャラの操作を担当していたのである。
その後RPGはユーザー環境的な問題から「ファンダメンタルゲーム」であることを捨て,「テクストゲーム」に偏重してゆく。それはインターネットが普及していない状況では(コンシューマー機では特に)「人間×人間のコミュニケーション」が不可能であるからだ。となれば「一定以上の長さを持つ統辞的物語」を持つ「テクストゲーム」へと制作の方向が向くのは当然のことである。『ドラゴンクエスト』シリーズなどはその典型であり,この典型が長らくRPGの世界を牛耳ってゆくことになるのだが,「テクストゲーム」たるRPGの進化についてはまた別の論文で論じることとしよう。
今論じるているのはオンラインRPGであった。
『ウィザードリィ』『ウルティマ』で「ファンダメンタルゲーム」「テクストゲーム」双方の可能性を示したのであるが,「ファンダメンタルゲーム」的要素を持つゲームの登場はユーザー環境の制約から長らく影を潜めることとなる。
勿論,対戦型格闘ゲームやスポーツゲームのような「人間×人間のコミュニケーション」(対戦)を遊び方の第一前提にしながらも,一人でも遊べるようにとゲーム側に人間の肩代わりをさせる機能を持たせる,という手法を拡張して,疑似A.IによりNPC(ノンプレーヤーキャラクター)に人間の振りをさせることで擬似的に「人間×人間のコミュニケーション」を成り立たせようと言う試みは存在した。日本で言えば『ルナティックドーン』シリーズがその部類に入るだろう。
しかし本当の意味で「人間×人間のコミュニケーション」を実現するのにはインターネットの普及を待たねばならなかった。『Diablo』『Ultima online』。どのゲームも「ファンダメンタルゲーム」である。勿論一人で遊ぶことも可能だが,それでは面白さの半分も出せまい。一番面白いのはインターネットに接続し,「人間×人間のコミュニケーション」を行って遊んだときであろう。これらのゲームの登場により,進化の停滞していた「テクストゲーム」的RPGに飽き飽きしていたユーザーは一斉に「ファンダメンタルゲーム」的RPG(オンラインRPG)に飛びつくこととなる。しかしこれをRPGの革新であるなどと考えるのは愚かであろう。そもそも「ファンダメンタルゲーム」と「テクストゲーム」はその特徴と面白さを異にするものであるし,「ファンダメンタルゲーム」的RPG(オンラインRPG)が隆盛なのもインターネットにより物理的問題の一部を解消したことにより一斉に氾濫したという一時の流行のようなモノに過ぎないし,「ファンダメンタルゲーム」的RPG(オンラインRPG)は「テクストゲーム」的RPGより面白いということは「ファンダメンタルゲーム」の典型たる対戦型格闘ゲームが「テクストゲーム」的RPGより面白いと言うことと同じくらい無意味なことであるからだ。
「ファンダメンタルゲーム」的RPG(オンラインRPG)の登場は長らくユーザー環境によって制限されてきたゲームが問題の解消によって登場してきているに過ぎない。
そしてこのオンラインRPGは,やはり「ファンダメンタルゲーム」の制約を受けてしまう。時間的問題である。インターネットによって場所の問題は大部分解消され(残りの大部分の場所的問題はモバイル環境の整備で解消されるだろう)残るは時間的問題だけとなった。しかしこれは当分クリアできそうな問題ではない。これがクリアできない限り,「一定以上の長さを持つ統辞的物語」という特徴を持つ「テクストゲーム」の要素を征服できないが,クリアすることの展望すら現在の技術では描くことが出来ない。
■利用
RPGやSLGといった旧来のジャンル分けがゲームを語る上でもはや機能しないことは論証した。そこで私は「ファンダメンタルゲーム」と「テクストゲーム」という新しいジャンル分けを提唱したわけであるが,その理由と定義は「RPG」というものを解説することで明らかにしたつもりだ。では,この「ファンダメンタルゲーム」「テクストゲーム」という概念を利用してどのようなことが可能になるのか?どんなことをゲーム業界に対して提言できるのか?まずゲームは今後どのようになり得るかを論じた後に,「ファンダメンタルゲーム」に焦点を絞って論じてゆきたい。「テクストゲーム」に関しては私の次の論文で論じることとしよう。
コンピューターゲームを,トランプやボードゲームの延長として捉え,あくまでゲームとして捉えるならば,コンピューターゲーム業界は大きな損失を被ることとなるだろう。私の次の論文で論じるように,「テクストゲーム」を解釈する楽しみを放棄することとなるからである。文学より端を発したこの「テクストゲーム」は,トランプや麻雀などといった旧来のゲームではなく,コンピューターゲームだからこそ達成できる文学とゲームの融合である。「ファンダメンタルゲーム」と「テクストゲーム」,面白さの要素が異なるこの二つのジャンルをごっちゃにしていたままでは,現在停滞している「テクストゲーム」に未来はない。「ファンダメンタルゲーム」においても同様である。双方の面白さが時間という要素によって接近不可能ならば,それぞれのジャンルに置いてそのジャンルの可能性を最大限に引き出すようゲームの開発を進めるべきなのである。造ろうとするゲームがいったい何なのかを知らずして面白いゲームなど作れるはずもない。そういう利用法において,この「ファンダメンタルゲーム」と「テクストゲーム」というジャンル分けは有効である。
そして最終的に目指すのは「人間×人間のコミュニケーション」と「一定以上の長さを持つ統辞的物語」の融合であろう。夏の夜に,泊まり込みで友達と共に冒険したあの奇跡を常に行えるゲームが今考えられるゲームの究極である。しかしそれには時間という問題の解決が必要であるが,その問題を解決する糸口すら,今は見つかっていない。
究極の話はひとまず置いておくとして,「ファンダメンタルゲーム」にはどのような可能性があるのか?引き続き「オンラインRPG」を利用して論じてゆきたい。
インターネットの普及によって始まったとも言える「オンラインRPG」の歴史はまだ浅い。
改良点が無数に存在し,それだけにゲーム市場における最も大きなフロンティアであることは誰にでも解る。
『Diablo』のヒットから着実に進化を遂げる「オンラインRPG」は『Phantasy Star online』によって一つの方向性を与えられたと言って良い。仮想世界の設定とその設定下での人間同士のコミュニケーションをいかに援助し演出できるかが,今後の「オンラインRPG」の主要な問題点となるだろう。チャット機能の強化の一環として自キャラを会話に会わせて自由自在に操れるようにすることや,より精密な世界観を設定することなど,仮想世界ではあるが現実世界の細部を持っているゲームがこれからどんどん出てくることだろう。ここまでは誰の想像にも難くない。
ではこの流れは何処へ行き着くのだろう?行き着くのは恐らく究極のバーチャル(仮想)空間ではないだろうか。現実と仮想の境界線が本当になくなるようなゲーム,脳波を読みとり自キャラを思い通りに動かせるばかりか360度3Dの視点を可能にするインターフェースを用い,あたかも一人の人間として(あるいは別の存在として)仮想世界を闊歩するゲーム,その仮想世界の中では仲間と冒険することもサッカーをすることもできる,そんなゲームだ。竜や怪獣など現実世界にはあり得ない生物とも遭遇できるかもしれない。ゲーム内でキャラ同士(勿論人間がプレイしている)の恋愛や結婚なんてものも成立するかもしれない。インターフェースが五感をフルサポートすれば恋愛に含まれる諸々の情事の再現も可能だ(この辺りには18禁がかけられるのだろうか(笑))
しかし限りなく現実に近づいたゲームに於いてプレーヤーに待っているのはもう一つの現実である。犯罪や挫折,ストレスもまた存在するだろう。すでにその兆候は出ている。『Ultima Online』をプレーした人の中には,一緒に冒険しようと誘っておいてダンジョンに入るやいなや身ぐるみはがされたり,ハッカーによって自宅に最強のモンスターを配置されてしまう被害に遭う人もいる。複数の人間が参加しているのだから犯罪が起こるのは当たり前と言えば当たり前のことだ。それより何より,最大の現実とは「主役になれない」ということだ。自分の人生の主役は自分だ,という反論があるだろう。勿論その通りなのだが,ここでの主役とはそのような意味合いではなく,一つの場面で重要な役割を担える人間と担えない人間がいる,ということだ。『ドラゴンクエスト』の中では誰もが勇者を演じられるが,「オンラインRPG」においてはそうではない。「人間×人間のコミュニケーション」を突き詰めて行った結果,待っているのは結局はタダの現実である。
それを押しとどめるためには,「人間×人間のコミュニケーション」を限定する必要がある。ある程度の部分,コンピューター側が演じてあげなければ仮想空間はたんなる現実の焼き増しとなってしまいゲーム性を失うだろう。
ある程度進化した「ファンダメンタルゲーム」は「人間×人間のコミュニケーションと」コンピューターが演じる部分の鬩ぎ合いとなるだろう。本当の意味でのA.Iが完成した暁にはその垣根すら曖昧になる。
「ファンダメンタルゲーム」においては現実との折り合いを何処でつけるかが,最大の難題と言える。
そうでなければ,もはやゲームである必要が無くなってしまうからである。
現実は現実だけで十分ではないか,なにもゲームまで現実にすることはない。
!参考文献
Unberto Eco, Lector in Fabula, MIlano, Bompiani. (篠原資明訳『物語における読者』)
Umberto Eco, Trattato di semiotica generale, Milano, Bompiani. (池上嘉彦訳『記号論』,岩波書店, 1980年)
Roland Barthes, La plaisir du texte, Paris, Seuil (沢崎浩平訳『テクストの快楽』,みずず書房,1978年)
沢月亭
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面白さの根拠、通過儀礼
-『ico』分析による実証-
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■「序論」
※『ico』論のみが目的の人は読み飛ばし推奨
作品を造り込むタイプの作家にとって、「すごく共感できました!」という感想は、褒め言葉ではないく、むしろ貶し言葉の部類に入る。このタイプの作家たちが目的としているのは読者を感動させたり、悲しませたりといった単純な感情操作ではなく、感情操作ができるのは当たり前のこととして、その上でどのような物語を構築できるかということだからである。彼らにとって読者の感情を操ることなど朝飯前であり、単純に楽しい物語や哀しい物語を書くのは健全な男子にヌードグラビアを見るがごとき行為なのである。ただの生理現象なのだ。ただ読者の共感だけを求めるテクストなどエロ本も同然、誰にだって書ける。彼らはそう思っている。
では、彼らがそう考える理由、根拠は存在するのだろうか?「これを書けば読者を悲しませることができる」「これを書けば読者を感動させられる」というようなコード化された物語の定石など存在するのだろうか?それともただ彼らの経験から捻出された経験則があるだけなのか?もし、おもしろさの論理的根拠というようなものがあるとすれば…
「ありえない!!」確かにその通りだ。なぜなら、そのようなコードは時代や社会状況(コンテクスト)によって大きく左右されてしまうからである。そして人間に個体差がある以上、同一のコンテクストなど望むべくもないのは当たり前の話である。
しかし一つのテクストの中にこのコード化された物語の定石(ロシア・フォルマリストの言葉を借りれば物語素)が多数埋め込まれていれば、そのうちのいくつかは機能することが期待できるだろう。100%機能する必要など無いのだ。また機能しやすい物語素を厳密に選べば、さらにその可能性が高くなる。例えば小説、100ページのテクストの中にこの物語素が20個ほど埋め込まれているとしたら、半分の10個が機能すればそのテクストは無邪気な読者(ただ共感するだけの読者)にとっては面白い小説となるであろう。10ページに一回は面白い部分にぶつかり、場合によってはその面白さが100ページ続くことになるかもしれないからである。10ページだとしても読書スピードが1分1ページとして10分に一度は新たな楽しさが顕れる計算になる。読むのが速ければよりスピーディーに楽しめる。これほど効率のいいエンターテイメントが他にあるだろうか?(笑)
たしかに、構造主義者が使う物語素という概念は物語構造を語る上では既に機能しなくなっている。ロシアフォルマリストが物語素のサンプルとして提出した数百個の欧州の神話に類似しない、あるいは含まれない要素を持った物語もあるからであり。過去(フォルマリストの言う物語素)の破壊を目論むモダンや、アイロニカルでメタ的な楽しみを提供する過去の再利用ポストモダンなどは物語素で語ることは出来ないし、あらゆる物語はモダンとポストモダンの要素を少しは持っているからである。物語素で語れるのは、神話など古来から使われる物語の定石が、彼らのコードに乗っ取って進行する場合でしか使用できない。しかし、私が物語素に求める機能はそれだけで十分だ。物語素だけで物語を再構成できる必要などどこにもない。そんな絶対性など求めていない。物語素はコードに乗っ取った物語進行の場合にのみ機能する、それだけも十分有効な理論である。モダン(過去の破壊)やポストモダン(過去の再利用)を分析するのにはまた別の手法を用いればいいだけの話なのだ。
つまり物語素は第一レベルのモデル読者(共感するだけの読者)を想定した場合に有効なのであり、第二レベルのモデル読者(解釈する読者)や第三レベルの読者(ゲームする読者)を想定した場合はあまり機能しないのであるし、また機能させようとする必要など無いのである、そこにはまた別に手法があるのだから。(ちなみに第一レベル、第二レベルなどと分けてはいるが、私は第一レベルに比べて第二レベルの方が高度な読み方だと主張しているのではない、便宜的にただカテゴリー分けをしただけである。)
物語素は限界をとうに見透かされた概念ではあるが、「おもしろさの論理的根拠」を物語レベルで提出しようとした最初の試みであっただろう。
本論ではこの「おもしろさの論理的根拠」を提出しようとした試みの歴史を簡単におさらいすると共に、仮説として人が体験する通過儀礼もおもしろさの論理的根拠として使えないだろうかという試みに入る。
■「先行研究の整理と理論構築」 ※ここから『ico』論に密接に関係
「おもしろさの論理的根拠、探求の歴史」
この手の学問として最初に確立されたものとして修辞学を忘れてはならない。今でこそ廃れた学問ではあるがアリストテレスからヴィーコに至るまで連綿と築き上げてきた歴史は決して無視できるのものではないからである。最近は修辞学を広義で捉えたがる傾向があるようだがここでは修辞学を狭義で捉え、暗喩(メタファー)やメトニミー(換喩)といった文彩の技法に焦点を当てたい。ロシアフォルマリストが物語のなかに面白さの素を抽出しその機能と属性を研究したのに対し、修辞学では物語以前の問題、文章のレベルでのおもしろさの論理的根拠を提出したのである。
修辞学に続くのが先に挙げたロシアフォルマリストの研究であろう。彼らのテーゼに関してはもはや触れることもない。「物語素だけで物語を再構成できる」という考え方と、物語素のサンプルとして古来から伝わる数百個の欧州の神話を用いた。ということが整理できれば十分である。ウラジミール・プロップの『昔話の形態学』では「魔法物語」に分類される昔話を土台にした物語の文法が記号化され、物語素の機能と属性が詳しく解説されており、その進行の仕方まで綿密に分析されている。この一冊さえ押さえておけばここまでの流れは十分に把握できる。
彼らの論理保証の土台は何百年、何千年と語り継がれた神話という時の洗練を受けたものである。かみ砕いて言えば、何百年も語り継がれて消えないものはつまり、最高のベストセラー作品であり、とすればそれを構成する物語素、物語の文法はまちがいなく面白さの素であるはずだ、ということだ。この考え方の欠点については前に述べたとおりである。
次に何と行っても古来からの伝統的な方法である手法を忘れてはならないだろう、「剽窃(パクリ)」だ。ただの剽窃に理論など無かろう、過去にヒットしたテクストの面白さの核を直感的にくみ取って奪ってしまうのがいわゆる剽窃だ。剽窃の論理保証は既にヒットしたテクストを素にしているというところにある。一度みんなに受けたのだから、また次も受けるだろう、という考え方だ。しかしこの場合、剽窃だとバレた時点で(道徳的問題で?)効力が著しく薄れるという欠点がある。
その剽窃を理論化し、発展させたのがポストモダンである。こういう言い方は失礼であろうか?しかしひと言で言うのならこう言う以外あるまい。
過去の利用といえば聞こえはいいが、既に在るテクストの力に乗っかっているという意味では剽窃と変わるところがない。ポストモダンの論理保証は剽窃と同じように、既にヒットしたものを土台とする。また、ただの剽窃の場合は欠点であった道徳的問題は、「引用である」という道徳的理由付けがあるため、解消されている。そしてそれプラス、パロディー、キッチュなどポストモダンの最も特徴的な面白さが付与されている。読者との共犯関係を作り出せる、という点で物語素で分析できる範囲を超える面白さを演出できるということだ。
こうしてみてくると、面白さの論理保証とそれ+αという点でポストモダンは欠点がない。現時点で最強の手段だと言えるだろう。
ポストモダンにおいては、引用(剽窃)をオリジナルと勘違いして、物語に共感することを楽しむ、第一レベルの楽しみ方がまず基盤として用意され、引用を引用と見抜ける人には「その引用が巧妙であるかどうか?その意味はなにか?」を解釈するという第二レベルの楽しみ方が用意されている。これは、あらゆるテクストにメタ的な要素があり、あらゆるテクスト、記号に他のテクストや記号とのリンクがある以上、どのテクストにも当てはまることだろう。
「物語素」ではその第一レベルしか説明できないが、しかし第一レベルの面白さもやはり第二レベルの面白さを語ることと切り離しては考えられないだろう。なぜなら第二レベルの面白さは常に第一レベルの面白さに影響を与え続けるものだし、逆もまた然りだからである。第二レベルの面白さを第一レベルの面白さとひっくるめて総括的に論じることは現段階での私の力量不足と時間的リソースの問題でできない。よってここではひとまず「通過儀礼」による第一レベル、第二レベルの面白さの論理保証を論じるに留まろう。もちろん、いつか総論的な論文が書ければとは私も思っているが…
「通過儀礼」
「修辞学」「物語素+物語の文法」「剽窃」「ポストモダン(引用・キッチュ・パロディ)」の四つが、現段階においておもしろさの論理的根拠として整理できる。もちろんただ整理しただけでは面白くも何ともない論文であるから、この四つに加えて、もう一つの面白さの根拠について仮説を展開していきたい。
それは「体験」である。人間は誰しも体験に基づいた想い出を持っているものであり、他人から見ればちっぽけでありきたりな想い出にもその人独自の思い入れがある。ということは人々がしてきたその体験を物語の中で思い起こさせることができたら物語によって人々の「体験」の想い出を刺激し、呼び起こすことが出来れば、読者はテクストのストーリーに自分の体験をプラスしてファーブラを作り出すに違いない。テクストというのは怠惰なシステムであり、全てのことを記すわけにはいかないから常に読者に共同作業を求める、読者に足りない部分を想像せよ、物語れ!と要求する。仮に読者がその足りない部分を自分が大事にしている体験の想い出によって埋めるとすれば、その物語はその読者によって最高の一冊になるに違いない。
しかしどうやってその「体験」の想い出を呼び覚ますのか?「体験」など人それぞれで、種類も星の数ほどある。「体験」の想い出を呼び覚ますスイッチを設定したとしてもそのスイッチが有効に機能する人は一万人に一人かも知れない。これでは意味がないし、理論などではない。
ここで私がその「体験」の想い出を呼び覚ますスイッチとして提案したいのが「通過儀礼」である。「通過儀礼」と言う言葉が耳慣れない方のために簡単な説明を加えると、これは「成長していく過程で誰もが体験すること」であり、その体験なくしては子供から大人になれないような体験のことである。勿論、文化によって異なる場合もあるし、同じである場合もある。「元服」は過去の日本の文化では通過儀礼であるが、現代日本では通過儀礼ではない。しかし「誕生」や「死」は文化を問わず、誰もが必ず通る通過儀礼であるし、「結婚」、「出産」、「親の葬式」などもかなり高い確率で、どの文化でも起こりうることである。
話を戻そう。この「通過儀礼」は人に忘れえぬ強烈なインパクトを与えるものである。「死」というのは常に哲学のモチーフになってきたし、「結婚」も良し悪しはともかく、深い想い出となることは間違いない。そしてその想い出は極めて個人的なものであり、他人から見ればちっぽけでも、本人にとっては極めて重要なものである。
このように強烈なインパクトを与える通過儀礼は、通過してきた人に必ず大きな「体験」の想い出を与えていると予想できる。人はその通過儀礼のことを思い出すたびに、自分の中の想い出と再会することだろう。そしてその想い出は、良い想い出であっても、嫌な思い出であっても人の心を強烈に揺さぶるものなのではないだろうか?物語中で通過儀礼を描いてやれば、それがスイッチとなり、それにまつわる想い出が読者の心に蘇ってくるのではないか?
例えば「初恋」という通過儀礼は太古の昔から現在に至るまであらゆる物語に使われているが、我々読者は物語中で描かれる「初恋」という通過儀礼に触れることで、自分が体験した「初恋」と照らし合わせ、想い出が蘇ってくるのを楽しんだり、「ああ、あのときこうしていれば…」と後悔したりしているのではないか?通過儀礼は、人が最も大事にしている想い出へのスイッチなのだ。
わかりやすさを増すために図を記しておく。
「通過儀礼は修辞学によって汎用性を増す」
内 しかし、「体験」のスイッチを入れるために、通過儀礼を「初恋」なら「初恋」というそのままの枠組みでテクストに組み込まなければならないのだろうか?だとすると通過儀礼の用法はかなり限定されてしまう。しかしここには、暗喩(メタファー)や換喩(メトニミー)といった修辞学的技法が使えるのではないだろうか?
先ほども使用した「初恋」という通過儀礼を例に挙げて論証すれば、各個人が体験した想い出を引き出すスイッチとして「初恋」を用い、さらにその初恋をメタファーやメトニミーによって言い換えることが出来るのではないだろうか?例えば「同じクラス、隣の席の女の子をイヂメた(からかった)」という物語を書けば、明確に「初恋」という肯定を辿らなくともメトニミーとして「初恋」というイメージに結びつき、それが個々の想い出を喚起する。図式的には、以下のようになるだろう。
「隣の女の子をイヂメる」→通過儀礼「初恋」→個々の「体験」の想い出
↑
メトニミー
この場合、「隣の女の子」は「幼なじみ」でもいいし「近所の綺麗なおねえさん」でも同様の機能を果たすだろう。
また仮にこの例でメタファーを使うとしたら、どうだろう?「初恋」を暗示するモノ、いろいろあるだろうが、カルピスのCMがまだ「初恋の味」をキャッチフレーズにしていた世代にならカルピスは初恋のメタファーとして作用するだろう。図式的には以下のようになる。
「カルピス」→「初恋」→個々の「体験」の想い出
↑
メタファー
もっと汎用的なメタファーを例示するとすれば、「いちご味」などどうだろう?「甘酸っぱさ」をコノテーションとして持つ「いちご」は初恋のメタファーとして、いかにも'80年代アイドル歌手の歌詞などに使われていそうな雰囲気がある。
「いちご味」→「初恋」→個々の「体験」の想い出
↑
メタファー
このように通過儀礼「初恋」をさまざまなメタファーやメトニミーによって暗示することが出来れば、「初恋」に付随する個々の体験を呼び覚ますスイッチの幅はより広がり、多様性を増す。つまり「初恋」のメタファーやメトニミーであればどんなものでも個々の想い出を喚起するスイッチたりえるのだ。解りやすく図で示すと次のようになる
これは通過儀礼というスイッチを使う、おもしろさの論理保証を消すことなく、修辞学の残した遺産を使って、その表現の多用さを獲得できる利点がある。
つまり物語レベルで面白さの論理保証を持つ筋立てをしつつも、ありきたり、紋切り型と読者に思わせないような文彩の巧妙さを文章レベルで手に入れることが出来るのである。
「仮説の暫定的結論」見出し
「体験」の想い出は人の数だけ存在するが、スイッチである通過儀礼に関して言えばそれほど多くはないし、少なくとも一つの文化圏において「誰もが皆」通過する体験を通過儀礼というのだから、かなり限定して想定することが可能である。ということはその通過儀礼を物語の中で再現すれば、読者の個人的な想い出を引き出すことが出来るのではないだろうか?
厳密なマーケティングを行えば、読者対象がどのような通過儀礼を体験しているかはかなり詳しく想定できるだろうし、「初恋」などある種普遍的な通過儀礼に関して言えば大して調べなくとも想定は楽である。
「初恋」という通過儀礼を使うとすると、その物語レベルでのパターンは限られ、新鮮味が斬新さが失われる危険があるが、メタファーやメトニミーといった修辞学的技法で文彩を加えることが可能であり、通過儀礼のスイッチとしての幅も大幅に広がるものである。
ということは通過儀礼はおもしろさの論理的根拠の一つであると言えるのではないだろうか?この仮説を実証すべく、『ico』というゲームを当てはめて分析してみたい。
沢月亭
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