1975年2月10日月曜日

[機器] Apple Proto Model





Proto Type

























1975年1月2日木曜日

[機器][ゲーム] マグナボックス社/エポック社テレポン~テレビゲーム登場










[機器][ゲーム] エポック社テレポン~テレビゲーム登場
日本のテレビゲームの歴史
History of Japanese Videogames
ニンテンドウ64,プレイステーション,そしてドリームキャスト・・・。
今でこそテレビゲームの発進地は日本ですが,創成期,テレビゲームの開発が盛んだったのはやはり海外でした。
アメリカで産声をあげたテレビゲーム,その第1号機を発売したマグナボックス社と技術提携を結び,日本ではじめて家庭用テレビゲームを発売したのは,玩具メーカーの大手・エポック社です。
このテレビゲームは「テレビテニス」という名前で,昭和50(1975)年9月,定価19,500円で発売されました。
この頃のテレビゲームはもちろん白黒。画面を左右に飛びかうボールを,2人のプレイヤーがパドルを使って互いに打ち合うという,「ポンテニス」ゲームといわれるものでした。
テレビテニスはポンテニスの中でもさらに初期のもので,かんたんなゲームサウンドは奏でたものの,得点表示はできませんでした。
構造は電子工作の延長とでもいうもので,LSIは使われず,すべてICで構成されていました。また,ノイズ対策が完璧ではなかったため,なかなか安定したゲーム画面を見ることができなかったようです。
テレポン(1975年?・エンテックス社)...
残念ながら,わがオデッセィにはテレビテニスがありません。
これはまったく同じゲームが遊べるテレポンです。
こうして記念すべき国産テレビゲームが売り出されたのですが,その売れ行きはパっとしなかったようです。
テレビテニスを売るおもちゃ屋にしても,デパートの玩具店にしても,現在のようにテレビを置いてデモンストレーションするというような光景はほとんど見られなかったため,アピール度が弱かったのです。
また,¥2,000くらいの価格のおもちゃが主流だった当時としてはかなり割高に感じられたのでしょう
エポック社では約30,000台を出荷したと当時の業界誌にはありますが,実際に売れたのはそれより少なかったようです。
■第一次テレビゲームブームの光と影
テレビテニス以降,しばらくはどのメーカーもテレビゲームを発売していません。
理由はいろいろ考えられますが,とにかく高いこと,ゲームの種類が少ないこと,独自のテレビゲームをICで組むということは,技術的にもたいへん難しかったことなどが考えられます。
それから1年ほどたった1976年夏,東京は秋葉原の電気街が発信源となって,にわかにテレビゲームのブームがおこりはじめていました。
アメリカの半導体メーカー・ゼネラルエレクトロニクス(G.I)社が,いままでICでつくっていたゲームを集積し,さらに数種類のポンテニスゲームが遊べるゲームLSIを開発したのです。
そのゲームLSIとパドルなどのパーツがキットセットになったものを電気屋さんが店で組み立て店頭にならべたところ,これが飛ぶように売れはじめたのです。
それからの勢いはすさまじいものでした。とにかくテレビゲームが売れまくり,キットセットでは足りなくなってきたため,海外から完成品を輸入するようになってきましたが,より効率的に,日本国内で回路を組み,独自でテレビゲームを組み立て発売する会社があらわれました。
ゲームLSIも次々とあたらしいものが開発され,遊べるゲームも4種類から6種類,8種類とどんどん増え,白黒から美しいカラー,多彩なゲームサウンドとどんどん強化されていきました。
この1977年の一大ブームを俗に「第一次テレビゲームブーム」と言います。
ゲームLSIを採用したテレビゲーム ・・・テレビテニスに比べていっきにゲーム性がアップしたポンテニスです。
G.I.社が開発したAY-3-8500というLSIは,4種類のポンテニスと2種類の射撃ゲームが遊べました。これにいくつかの部品をつけるだけで,テレビゲームができてしまうのです。
バンダイ,トミーといった玩具大手はもちろん,ナショナル(松下),日立などの大手家電メーカーから小さな町の下請工場までありとあらゆる企業がテレビゲームを作りまくり売りまくりました。
オデッセィが調べただけでも,この1977年に発売されたテレビゲームは50種類以上という空前絶後の数になります
この異常な数にはわけがあります。テレビテニスの頃,各社がテレビゲームをつくらなかった理由を覚えていますか。それは技術的,コスト的に問題があったためです。 ところが,このゲームLSIを使ったテレビゲームは,作ることがたいへん簡単で,効率がよく,しかも安いのです。
だから,どんなに小さな会社でも,それなりのテレビゲームをつくって発売できたわけです。しかし,これには落とし穴がありました。どのメーカーも既存のゲームLSIを使っているだけで,自らゲームを考えようとしないのです。
だから,あたらしいゲームがほとんど現れず,しかも出たら出たでよくばった高価な値段をつけたため,やがて1年ほどでブームはしぼんでしまいました。当然のことと言えるでしょう。
第一次テレビゲームブームの頃のある電気店 ・・・
テレビゲームの火付け役は,おもちゃ屋ではなく電気店だったのがミソ。お店にならぶテレビにテレビゲームを接続してデモンストレーションをおこなったところ,順番待ちがでるほどの大盛況だったそうです。
よく見ると,AY-3-8500タイプのテレビゲームのようですね。(「電気店」1977年4月号より<電波新聞社>)
■エポック社と第二次テレビゲームブーム
そんな,あぶくブームの中,独自に研究と努力を重ね続けていたメーカーがありました。エポック社と任天堂です。
そしてこの2社がその後のテレビゲーム業界の幹となってゆくわけです。
ブームが完全に終わった1978年,エポック社はNECと共同開発したテレビ野球ゲームを発表しました。
これはゲームLSIではなく,1チップマイコンを搭載したまったく新しいテレビゲームです。
そして社会現象となったインベーダーブームが到来,エポック社は¥16,500という誰でも買える価格でテレビベーダー(1980年)を発売しました。
インベーダーゲームのような複雑な内容を家庭用に移植しようとすると,マイコンシステムが必要で,それはたいへん高価なテレビゲームでしかできないことでした。ここで,エポック社は,テレビ野球ゲームで採用した1チップマイコン技術を使い,これを安く実現したのです。
それまでたいへんな開発費をかけてきたといわれる同社の努力が実を結んだ結果といえるでしょう。このテレビベーダーは子供たちに大いに歓迎され,いよいよ本格的なカセット方式を採用したテレビゲーム・カセットビジョンが登場します。
カセットビジョンのヒットにより再びブームが再熱した日本のテレビゲーム市場は,やがて本格的なマイコンシステムを搭載したテレビゲームが登場しはじめます。
1983年から1984年にかけて登場したテレビゲームは約25種類以上。第二次テレビゲームブームの到来です。
そのどれもが当時静かなブームを呼んでいたホビーパソコンの機能に片足をつっこんだパソコンタイプ・テレビゲームでしたが,この戦国時代を統一したのが,パソコン機能をすべて排除した純粋なテレビゲーム,任天堂のファミリーコンピュータだったのです。
■テレビゲームのリーダー・任天堂
任天堂は第一次テレビゲームの時でも,すぐれたテレビゲームを発売していました。
発色がよく,音もきれいで,ゲーム内容も豊富な「カラーテレビゲーム15」「カラーテレビゲーム6」がそれです。
その後も「レーシング112」「ブロック崩し」を発売。海外のゲームLSIに頼らず,独自で開発したゲームで,その後,電子ゲームの「ゲーム&ウォッチ」シリーズを大ヒットさせています。このヒット期間中に”10年先まで遊べるテレビゲーム”の開発に着手,¥15,000という破格の値段に,大ヒットゲーム「ドンキーコング」をひっさげて登場したファミリーコンピュータはあっというまに,日本のみならず,世界中で大ブームを巻きおこしました。
美しいフルカラー52色,3重和音のゲームサウンド。アップル系列の68系MPU。アーケードゲームをつくったデザイナー,技術者たちが”おもしろいゲームを遊べるハード”を徹底的に研究してつくったこのスペックは,私たち遊び手だけでなく,ゲームソフトをつくる側の人たちにとっても,すばらしいハードでした。
家庭用ゲーム機において,ともすれば今まで二の次であった”ソフト”部分をみつめ,それがこれからの時代の重要な要素になることを早くから考えていた任天堂は,新世代テレビゲームのリーダーとなり,以降の市場を引っ張っていくのです。
この後はみなさんご存知の通り,ファミコンブーム,マリオブーム,ドラクエブームと続き,プレイステーション,サターンという新世代機にいたるまで,任天堂が世界のテレビゲームの中心として活躍していきます。

オデッセィ
http://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/history/index.htm

1974年5月5日日曜日

1973年9月23日日曜日

[機器][携帯電話] Motrola DynaTACプロトタイプ完成, 1973年携帯電話誕生











いまから40年前、マーティン・クーパーというモトローラのエンジニアが、史上初の携帯電話を使った通話のデモを行った(この時の通話の相手は、なんとライヴァルのベルラボで働く研究者だった)。
そして携帯電話が一般大衆の手の届くものになったのはその10年後、モトローラが初めて携帯電話機「DynaTAC」(日本語版記事)を売り出した1983年のことだった。モトローラが製品を発売する10年も前に製品発表をしていたというのは、当時のテクノロジービジネスがいかに奇妙なものであったかを示す一例と言えよう。
1973年の4月3日、モトローラは最初の携帯電話を発表した。それから40年が経った今でも、われわれは相変わらず通話が途中で切れたり、つながりにくい場所で電波を探したりといった経験をし続けている。それでもこの間、携帯電話の果たす役割は大きく変化した。携帯電話で喋ることは随分と減ったが、代わりに携帯電話が人々のデジタルライフのゲートウェイとなった。メッセージのやりとりからステータスのアップデート、写真の投稿、音楽鑑賞まで、いろんなことが携帯電話から済ませられるようになった。
DynaTACの登場から現在までの間に、膨大な数の携帯電話が登場しては消えていった。ただし、そのなかでほんとうに革新的と呼べそうな製品は驚くほど少ない。
TAGS
#Android #Blackberry #Cell Phone #Google #History #iPhone #Motorola #Nokia

WIRED
https://wired.jp/2013/04/06/influential-cellphones/2/?epik=dj0yJnU9enFmRU5zNXhEaVhrQWEyNWpubTg0djh4NFQySU8yYjImbj0yUmZ3OFFFa1lMRlV0dE9raUZVZ0pnJm09MyZ0PUFBQUFBRjRzMWUw




1973年9月14日金曜日

[機器] カシオミニ(Casio Mini), CASIO MINI CM-603(1973)

CASIO MINI CM-603(1973)



_/_/_/_/_/ 卓上計算機の進化 _/_/_/_/_/
19世紀に入ると、1820年ごろチャールズ・ザビエ・トーマス・ド・コルマが発明したアリスモメーター(Arithmometer)が近代の機械式計算機の始まりとなった。
1886年Arithmometer       
1903年に矢頭良一の「自働算盤」
アリスモメーターは、1886年にアメリカで量産されるようになった。
日本でも明治36年(1903年)に矢頭良一が「自働算盤」という機械式計算機の特許を取得。歯車式で1個の円筒と22枚の歯車などで構成されていた。
タイガー計算器(国立科学博物館の展示)
大正13年(1924年)3月に大本寅治郎によって「タイガー計算機」が販売され、1970年代まで売られていた。
当初、国産品は「壊れやすい」との風評で売れなかったが、商品名を「虎印」から「タイガー」に変更した途端に売れた・・・との逸話も残っている。
これら汎用の機械式計算機は、主に会計経理、統計など実用的な分野に利用されていたようだが、土木工学や兵器開発に伴う微積分などの高度な計算機も機械化が進んだ。
すでに普及していた真空管を使って世界初の電卓「Anita Mark8」をBell Punch and Sumlock-Comptometerが1961年10月に発売した。次第に電子式電卓が機械式にとって代わる先駆けとなった。
更に、真空管はトランジスタなどの半導体に置き換えられ、集積回路がになり、専用大規模集積回路の時代になる。
ビジコン社 BUSICOM 141-PF
ビジコン社(旧、日本計算器販売)が昭和46年(1971年)10月に、インテル社と共同開発した「インテル 4004」で、世界初のマイクロプロセッサを搭載した電卓「ビジコン 141-PF」を発売した。このintel 4004が、後のパーソナル・コンピュータの発展の元になった。
◆CASIO MINI CM-603 electronic calculator (1973)
当初は数十万円していた電卓を、昭和47年(1972年)8月にカシオ計算機が一気に12,800円の低価格を実現した
「カシオミニ」(Casio Mini)
を売り出して、パーソナル向けに普及した。

日本人の暮らし向き
https://blogs.yahoo.co.jp/japanism20/14752105.html





ENIAC,1942


1973年1月30日火曜日

1973年1月2日火曜日

[機器][ゲーム] MagnaBox社,BROWN BOX~家庭用テレビゲーム登場






[機器][ゲーム] MagnaBox社,BROWN BOX~家庭用テレビゲーム登場
海外のテレビゲームの歴史
History of Overseas Videogames
■世界初の家庭用テレビゲーム
この時代には、まだ家庭用と業務用(アーケードゲーム)という区別はありませんでした。つまり、商品としてのテレビゲームはまだなかったわけです。
最初に商品として世にでたテレビゲームは、ナッチング・アソシエイツ社が1971(昭和46)年に発売した「コンピュータースペース」です。
遊園地などにおいて、コインを投入して遊ぶために作られたもので、つまり、アーケードゲームの第1号機です。テレビゲームの父といわれる、ノラン・ブッシュネル氏が開発したこのゲームはあまりにも有名で、テレビゲームの歴史関係の書籍を開けば、まずまちがいなく出てきます。
では、家庭用テレビゲーム第一号はなんでしょう。
それは、マグナボックス社が1972(昭和47)年に発売したオデッセイです。
オデッセィの原形は1967(昭和42)年頃にさかのぼります。
米・サンダールアソシエイツ社のR&D;(研究開発部門)チーフであったラルフ・ビア(Ralph Bear)氏が中心となり、ビル・ハリソン(Bill Harrison)氏とビル・ラッセル氏(Bill Rusch)の3人で、ブラウン管を利用したエンターテインメント製品の開発が始められました。
このマシンは「ブラウンボックス」と呼ばれ、テニスゲームのようなものが遊べるマシンとして完成をみました。 
画期的な製品として、ケーブルTV会社や大手家電メーカーへのライセンス供給という形で売り込みがなされたのですが、それぞれ、金銭面、条件面で折り合いがつかず、陽の目が見えない状況が続きました。
BROWN BOX
ブラウンボックス(試作品/サンダール・アソシエイツ社・1967年)
このブラウンボックスの技術に注目し、テレビゲーム特許に関してサンダール社と独占契約を結んだのが、家電メーカーのマグナボックス社です。
さっそく、ラルフ・ベア氏指揮の元、このブラウン管をつかった新製品の研究開発がはじまり、1972年の5月、世界初の家庭用テレビゲーム「オデッセイ(ODYSSEY)」が発売されました。
オデッセィ(マグナボックス社・1972年) ・・・詳しくはオデッセィのページをごらんください。
「テレビテニス」で遊べたポンテニスゲームよりもさらに初期のもので、得点も音もでません。ゲーム機というより”オブジェクト表示機”といった方がしっくりくるかもしれません。

オデッセィ
http://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/history/index.htm