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1988年8月25日木曜日

[社会] 演算機器の歴史

[社会] 演算機器の歴史
演算機器の歴史(まとめ)私見
書庫技術立国の源流
カテゴリ工学
2017/2/20(月) 午前 7:01
ナイル川源流地域(コンゴ東部)で発見された約2万年前の「イシャンゴの骨」、
紀元前3000~2600年頃の「古代インド数学」、
紀元前1900年から1600年頃の「バビロニア数学」、
紀元前1600年頃~1046年の中国の殷王朝時代の数学
など、紀元前から史料が人類と数学の結びつきを示している。
以前に「日本人と数学史」でも考えてみたが、前漢・後漢の紀元前1世紀から紀元後2世紀に出来上がった「九章算術」を元に日本の数学も広がったと云われている。
演算装置(機器)の歴史を追ってみたが、「通信技術」と同様に軍事技術と密接に関係があることが解った。
演算機器の歴史(上) 17世紀 1960年
演算機器の歴史(中) 1961年 1980年
演算機器の歴史(下) 1981年 2015年
道具を使った高度な演算は、17世紀初頭にスコットランドのジョン・ネイピア(John Napier)によって発表され、6年後にイギリスのエドムント・ガンター(Edmund Gunter)が対数尺を考案した記録が残っている。
ガンターが発明した計算尺は長さ60cm、幅4cmの長い板に、数直線とそれに対する三角関数の値と対数値などが刻んであり、この計算尺は電卓が広まる1970年代まで広く使われたようだ。
更にイギリスのウィリアム・オートレッド(William Oughtred)が複数の円盤スケールをずらして計算を行う方法で、通常の対数目盛の他、三角関数等の関数値のほか、乗除計算もできるようになった。
TRIGONOMETRY
機械式計算機が生まれたのはフランスで、パスカルの原理、パスカルの定理などで知られるブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)が、1642年に歯車式計算機を完成させた事だろう。
歯車式計算機「パスカリーヌ」
パスカルは、わずか17歳で歯車式計算機を計画し2年後に完成させて、「パスカリーヌ」(Pascaline)50台の試作機を作ったと云う。
ドイツのシッカートの計算機(1623年=未詳)、同じくドイツのライプニッツの計算機(1670年代)と比較されるが、この時代に機械式の計算機が発展して行ったことは間違いないだろう。

日本人の暮らし向き
https://blogs.yahoo.co.jp/japanism20/14752105.html






演算機器の歴史
年月 国名 事象
1981年 アメリカ
IBMが初代IBM PC用に発売したDOSが「PC DOS」で、1982年よりマイクロソフトがIBM以外のメーカーにOEM提供を開始したものが
「MS-DOS」であったが、マイクロソフトは後に1981年から「MS-DOS」と呼んでいる。
1981年 日本
カシオ計算機は、世界初のVLSI化されたワンキーボード電子楽器「VL-1」を開発し、
電卓、シンセサイザー、ミュージックシーケンサーの機能を持って、35,000円で発売された。
1982年10月 日本
NECは、16ビットパソコン「PC-9801」を発売した。CPUに16ビットのNEC製μPD8086(5MHz)、インテルの8086ファミリチップを採用した。ハードウェア面ではPC-8000/8800シリーズを上位継承したことで従来のPCユーザーが取っつきやすいように工夫されていた。また、高速な日本語表示のためにテキストVRAMを搭載していた。
1983年06月 日本
パソコン既存メーカーに対して出遅れた家電メーカーの団結を背景として、MSX規格が考案されて発表された。米マイクロソフトとアスキーによって提唱された8ビット・16ビットのパソコンの共通規格。
1983年07月 日本
任天堂より家庭用ゲーム機としてファミリーコンピュータ (Family Computer) が「HVC-001」が発売された。 8ビットCPUは専用LSIのリコー製RP2A03で、ゲームプログラムはROMカートリッジで提供した。1985年10月アメリカで販売したのを皮切りに世界に広がった。
1984年06月 日本
トロン(TRON)プロジェクトは、坂村健による、リアルタイムOS仕様の策定を中心としたコンピュータ・アーキテクチャ構築プロジェクトが開始された。プロジェクトの目指す最終的到着点のグランドイメージとして「どこでもコンピュータ=HFDS」を掲げて、デジタル家電で広く使用されている。
1984年08月 アメリカ
IBMがパーソナルコンピュータ 「モデル5170」 を発売した。これ以降、IBM PC互換機として、アーキテクチャーを継承した、いわゆるPC/AT互換機全般や、そのアーキテクチャー群を指すした。
1985年11月 アメリカ
マイクロソフト(Microsoft)のウィンドウズ(Windows)が登場した。初期バージョン「Windows 1.0」は独立したOSではなく、MS-DOS上で稼動するGUIを実現するアプリケーションであった。のちに、GUI環境で先行していた1984年登場のMac OSを追い越して世界のパーソナルコンピュータ市場でトップシェアとなり、2009年10月にはインターネット上で使用されているクライアントの市場シェアの約90%を得た。
1985年11月 日本
日本電気 (NEC) が開発・提供したスーパーコンピュータ「SX-2」は世界で最初にGFLOPSを越えたスーパーコンピュータで、Cray-2に抜かれるまでのひとときであったが世界最高速であった。
1998年11月 日本
ドリームキャスト(Dreamcast)は、セガ・エンタープライゼス(後のセガゲームス)が発売した家庭用ゲーム機である。一般にはDCやドリキャスの略称で呼ばれる。
1990年05月 アメリカ
マイクロソフト(Microsoft)「Windows 3.0」は、MS-DOSを拡張する16ビットオペレーティング環境(Operating Environment:)。1991年に発売された改良版「Windows 3.1」が爆発的に売れた。
1990年10月 日本
日本IBMが「PS/5535-S」で初めてVGAのみを搭載した機種で、それに対応したOS「IBM DOS バージョンJ4.0/V」を発表した。これがDOS/Vの最初のバージョンになった。
1991年09月 スェーデン
リーナス・トーバルズ(Linus Torvalds)は「Linuxカーネル」を開発し、一般に公開した。開発を促進するために、Linuxのファイルはヘルシンキ工科大学のFTPサーバ (ftp.funet.fi) にアップロードされた。トーバルズの協力者であり、当時そのサーバの責任者であったレムケは、トーバルズに相談することなく、サーバ上のプロジェクトに「Linux」という名前をつけた。
1993年06月 アメリカ
Hillis と Sheryl Handler はシンキングマシンズ社を創業し、AI研究、CM-5 では、アーキテクチャを完全に変更し、Fat Tree構成のネットワークでSPARC RISCプロセッサを接続し、MIMD方式で動作した。世界スーパーコンピュータのベンチマーク(LINPACK)によりランク付けでTOP500の第1回首位に輝く。
1993年11月 日本
航空宇宙技術研究所が研究用に構築した数値シミュレーション向けのスーパーコンピュータ「数値風洞」が、世界スーパーコンピュータのベンチマーク(LINPACK)でランク付けTOP500で首位になる。
1994年06月 日本
富士通「数値風洞」1995年11月まで、1996年6月は日立「SR2201」、1996年11月は日立「CP-PACS」がTOP500の首位を2年半維持した。
1994年12月 アメリカ
カリフォルニア工科大学で開発された、インテルパラゴン「Paragon XP/S 140」が、TOP500の首位になる。
1994年12月 日本
ソニー・コンピュータエンタテインメント (SCE) (現:ソニー・インタラクティブエンタテインメント (SIE) )から家庭用ゲーム機「プレイステーション」(PlayStation)、が発売された。置き型の家庭用ゲーム機史上初めて累計出荷台数が1億台を突破した。
1996年 日本
本田技研工業(HONDA)が人型をしたロボット「Prototype Model P2」の開発が正式に発表された。後の「ASIMO」の二足歩行ロボット。開発の途中でローマ教皇庁に人間型ロボットを作ることの是非について意見を求め、問題がないことを承認してもらった。
1997年06月 アメリカ
インテル(Intel)スーパーコンピュータ「ASCI Red」が2000年6月までTOP500の首位になり、引き続きIBMの「ASCI White」が2001年11月まで首位になった。
2000年 日本
本田技研工業(HONDA)が、世界初の本格的な二足歩行ロボット「ASIMO」を発表した。予測運動制御によって重心やゼロモーメントポイント(ZMP)を制御して自在に歩くことができ、階段の上り下り、旋回、ダンスなども可能。
2001年11月 アメリカ
マイクロソフトが開発および販売を行った家庭用ゲーム機「XBOX」で、ゲーム市場に参入した。Xboxは固定されたゲームプラットフォームだったが、Windows 8ではエンターテインメントブランド、Windows 10ではゲームをコアとしたサービスプラットフォームと広がりを見せている。
2002年06月 日本
JAMSTECと日本電気が「地球シミュレータ」は、スーパーコンピュータの計算性能のTOP500で IBM ASCI White に5倍の差をつけて首位を獲得し、2004年6月まで2年半の長期に渡ってトップを譲らなかった。
2004年11月 アメリカ
ブルージーン(Blue Gene)プロジェクトがローレンス・リバモア国立研究所と共同で開発されたスーパーコンピュータ「Blue Gene/L」は、地球シミュレータを抜いて当時の世界最速のスーパーコンピュータとなった。
2010年10月 日本
政府の「事業仕分け」で、当プロジェクトは「予算計上見送りに近い縮減」(事実上の凍結)と判定された。
2011年06月 日本
文部科学省の次世代スーパーコンピュータ計画の一環として、理化学研究所と富士通が共同開発したスーパーコンピュータ京(K computer)がTOP500で1位を獲得した。2012年9月以降は、地球物理、生理学、天文科学、気象地震、製造技術など共用が開始された。
2013年06月 アメリカ
ローレンス・リバモア国立研究所の「Sequoia Blue Gene/Q」がGraph500で首位になる。TOP500では有効に計測されない大規模データ処理の処理性能を競うGraph500が公表された。
2013年11月 日本
東京工業大学 「TSUBAME-KFC」がGreen500で、日本製スパコンとして初めて1位を獲得した。Green500は、世界で最もエネルギー消費効率の良いスーパーコンピュータを定期的にランク付けし評価するプロジェクトである。日本では「スーパーコンピュータの省エネ性能ランキング」などと呼ばれる。2014年6月まで2年連続1位。
2013年11月 中国
国家超級計算広州中心ではスーパーコンピュータ「天河2号}(MilkyWay-2)がTOP500で首位になり、その後「天河-1A」が2015年11月まで首位となった。以降2016年11月時点で「神威・太湖之光」がTOP500で1位。
2014年06月 日本
理化学研究所とペジー・コンピューティング(PEZY Computing)の「菖蒲」(Shoubu)がGreen500で首位になり、2016年6月までの3期トップを守った。

1985年11月8日金曜日

[機器][携帯電話] NTTショルダーホン~国産携帯電話誕生











これが携帯電話のご先祖様
1985年(昭和60年)
NTTが初のポータブル電話機「ショルダーホン」発売。
当然ながら『LINE』は出来ない(笑)

Facebook
https://m.facebook.com/groups/886472171393131?view=permalink&id=2743719475668382







(-.-)
NTTの公式HPには違う機種が紹介されてます。
僕の会社でもHPの機種を使ってました。
http://history-s.nttdocomo.co.jp/list_shoulder.html
(-.-)
ドコモ初期の頃、買いました
契約時に20万、基本料金が月額¥15000?だったかな。
20代だったので,飲みに行ったらオネーチャンに「これ電話?見せて!」って大人気でした(笑)
(-.-)
👑クラウン乗ってたけど
これをトランクにセットすると車内でも受話器があったんだよね❗
トランクには、
これ見よがしに黒い
アンテナが立ってた❗(笑)

Facebook 
https://m.facebook.com/groups/886472171393131?view=permalink&id=1809173759122963
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1985年9月3日火曜日

[機器][PDA] Apple Newton (Message Pad)













Apple Newton130
購入は97年8月。
ううん、なんて言うか。まず「遅い、高い、重い」かな。Newtonは三重苦である。ヘレン・ケラーである。しかしながら、いいのだ。それを補って(と思えるかは見解の問題だろうが)あまりある魅力がある。
でもなあ、実用的じゃないなあ。これを持ち歩いてからシステム手帳を持たなくなったって人いるんだろうか。まあ、いるだろうが今はきっと Pilotを使ってるんじゃないかな。
日記でも書いたが、先日電車の中でNewtonを使っている人を見かけた。おおっ!いた!って感じだ。彼はNetigame(だったっけ?Newtonのまきがめ)をやっていた、高そうなケースに入っていて、大切にされているようである。
自分は基本的には携帯ものはケースに入れたりしない。すぐ取り出せて使えるのがいいから、LXは裸でかばんの中に放り込んである。Pilotはボタン類が表面についているので、付いてきたケースに入れてある。
Newtonもほとんど何もしていない。16MBのフラッシュもあるのだが、ほとんど何も入っていない。ふだん持ち歩くわけでもないので、単なる落書き帳と化している。Newtonのユーザが聞いたら怒りそうだが、遅いし、重いし、外に持ち歩く気にはならないしなぁ。触っていて楽しいのはいいんだが、OSにハードが追いついていない典型的な例だと思う。Mac自体そういう感じではある。
Mar 1 1998
AppleがNewtonから撤退。ううむ。まあ,しょうがないでしょう。これじゃあPalmPilotには敵わないでしょう。
これで,このNewtonのコレクション的価値は高まったと言えるのかな?

Burgundy
http://www.bekkoame.ne.jp/~burgundy/doc/newton.html
http://www.bekkoame.ne.jp/~burgundy/doc/110.html





















1985年5月3日金曜日

[機器] G1世代携帯電話,DoCoMo











(-.-)
自動車電話?
アナログショルダーホン?
デジタルショルダーホン?
ショルダーホンも受話器の外側にボタンでしたっけ?
スゲ〜て、見てただけだからハッキリ覚えて無い…
(-.-)
掛けても掛かって来ても料金が発生する電話だよね☺️バッテリーは電池だったと記憶してます。
(-.-)
これを使っていた頃、取引先の業者の営業さんが、「北海道にかけた時より硬貨が落ちるのが早いです(^^ゞ」ってこぼしてたのを思い出します。
(-.-)
80年代にカーフォンを紹介している動画です。
https://youtu.be/hPBVXZe8Hrs
(-.-)
コレのセルラー版使ってました。車載キットとショルダーフォンのセットでしたが、バッテリーが40分(確か待ち受けで)で全然使えませんでした。※どんだけジジイ😁※

Facebook
https://m.facebook.com/groups/886472171393131?view=permalink&id=2821844641189198


1984年9月3日月曜日

[機器][携帯電話] Motorola DynaTac 8000X



[機器][携帯電話] Motorola DynaTac 8000X
2013.04.06 SAT 11:55
携帯電話の歴史に残る「世界を変えた」12台の名機
1973年の4月3日、モトローラは最初の携帯電話を発表した。それから40年が経ったいま、携帯電話で喋ることは随分と減ったが、代わりに携帯電話が人々のデジタルライフのゲートウェイとなった。その間、ほんとうに革新的と呼べそうな製品は驚くほど少ない。今回は、WIREDが考えるそんな携帯電話の名機を写真とともに紹介する。
TEXT BY ROBERTO BALDWIN
TRANSLATION BY WATARU NAKAMURA
WIRED NEWS (US)
⬛ Motorola DynaTAC 8000X - 1983年
世界初の商用携帯電話。重さ約800g、大きさは約25cm(アンテナ部分を含まず)、4,000ドルもする高価なものだった。Photo: Motorola
⬛ Motorola MicroTAC - 1989年
折りたたみ可能な形をした、ポケットに入れて持ち歩ける携帯電話の概念を普及させた端末。当時は最も小型の携帯電話だったが、それでも開いたときの大きさは約23センチ、重さは約350gもあった。Photo: Motorola
⬛ Nokia 3210 - 1999年
多くの人々にとって初めての携帯電話になった端末。また、アンテナが端末内部に搭載された最初期の携帯電話でもある。2000年に後継機の3310が出るまでに、1億6,000万台以上が販売された。
⬛ Sony Ericsson T68I - 2002年
普通の携帯電話とスマートフォンの中間に位置づけられる端末。Bluetoothや2ウェイMMS、WAPブラウジング、Eメールなどの革新的機能を備え、エリクソン端末としては初めてカラー液晶を搭載していた。Photo: Danger
⬛ Danger Hiptop / Sidekick - 2002年
当時としては大型の2.6インチ液晶画面、それに物理キーボードを備えたこの端末はネット接続も可能だった。独自のOSを搭載、専用アプリがあったほか、SMSだけでなくAIM(AOL Instant Messenger)などのメッセンジャーサーヴィスも利用できた。Photo: Danger
⬛ BlackBerry 6210 - 2003年
いつでも瞬時にEメールが使え、携帯電話をビジネスに必須のものとした端末。最先端の技術と優れた物理キーボードの搭載で、その後アップルからiPhoneが登場するまで、ブラックベリーはスマートフォン市場を支配することになった。Photo: BlackBerry
⬛ Treo 600 - 2003年
PDAメーカーとしてスタートしたPalmが、携帯電話市場にターゲットを絞って発売した端末。独自OSを搭載し、カメラ、MP3プレイヤー、アプリケーションなど、現代のスマートフォンが持つ様々な特徴を備えていた。Photo: PalmOne
⬛ Motorola RAZR - 2004年
モトローラが発売した超薄型の折りたたみ式携帯電話。スタイリッシュで未来的なデザインが受け、発売から4年間で1億3,000万台を売り上げた。Photo: Ariel Zambelich/Wired
⬛ Motorola Rokr - 2005年
アップルのiTunesに対応した初めての携帯電話。携帯電話のメディアプレイヤーとしての可能性を広げた端末だったが、持ち歩ける曲はわずか100曲ほどで、ユーザーインターフェースもひどいものだった。Photo: Motorola
⬛ Nokia N95 - 2007年
動画撮影可能な5メガピクセルのカメラ、GPSとターン・バイ・ターン方式のナビゲーション機能、ラジオチューナーなど、最新のスマートフォンにより近い機能を搭載した端末だった。Photo: Nokia
⬛ Apple iPhone - 2007年
すべてを変えた携帯電話。デザインから操作性、搭載する機能まで、あらゆる点でそれまでの携帯電話とは異なったものだった。iPhoneはオリジナルモデルの発売から6年が経ち、すでに5つの後継機が出ているが、現在もスマートフォンのスタンダードであり続けている。Photo: Ariel Zambelich
⬛ HTC Dream - 2008年
2008年に発売されたこの端末は、Android OSを搭載する初のスマートフォンとしてiPhoneへの挑戦者となった。もともとは物理キーボードで文字入力をする端末であったが、その後Android(ver.1.5)へのアップデートで、タッチパネルによる文字入力にも対応した。Photo: HTC

WIRED
https://wired.jp/2013/04/06/influential-cellphones/2/?epik=dj0yJnU9enFmRU5zNXhEaVhrQWEyNWpubTg0djh4NFQySU8yYjImbj0yUmZ3OFFFa1lMRlV0dE9raUZVZ0pnJm09MyZ0PUFBQUFBR











1983年4月29日金曜日

[ゲーム][PCゲーム] ウィザードリィ~RPG誕生



[ゲーム][PCゲーム] ウィザードリィ~RPG誕生
Wizardryの資料
死ぬほどこのゲームを遊んだけれども、ゲーム中での諸事象の決定過程についてご存じない方は多いと思います。
ゲームをクリアするには全く不要ですが、知識として知っていると面白いもの。
一応の実用性を含めて、それをらを紹介しようと思います。
経験則として認識している事象を改めて数式で理解することで、意外な驚きが得られるものと思います。
出典は「WIZARDORY LLYLGAMUN SAGA 公式ガイドブック」です。
こちらにはさらに詳しく書かれているので、興味を抱かれた方はこの名著を入手なさることをお薦めします。
以下の諸法則は、ウィズが最もウィズである初代三作(凶王の試練場、ダイヤモンドの騎士、リルガミンの遺産)におけるもので、主に初代を対象として議論を進めます。
ここでは、次の決定過程について紹介致します。
宝箱について
ディスペルの成功率
レベルアップ時の能力値の変化
レベルアップ時のヒットポイントの変化
武器について
攻撃回数について
攻撃の命中判定
アイテムの取得
宝箱について
トラップの識別成功率は次の式によって決定されます。
盗賊、(素早さ*6)%・・・最大95%
忍者、(素早さ*4)%
他の職業、(素早さ)%
つまり忍者の的中率は高々72%であり、信頼できないということです。
カルフォ(95%)の併用は必須といってよいでしょう。
(盗賊の場合でも併用するのが吉ですが)
次にトラップ解除成功率です。
罠はずし能力値を決定
罠はずし能力値=キャラクターのレベル-フロア数-7(忍者、盗賊はこれに職業修正値として+50)
解除判定
罠はずし能力値が1から70までの乱数よりも大きければ、罠解除は成功です。
トラップ動作判定
失敗の場合は、キャラクターの素早さを調べます。
これが1から20までの乱数(20面体ダイズ一回です)よりも大きいと、罠は作動しません。
小さい場合は、「罠に引っかかった」となります。
以上の式から解りますが、罠自体はどの職業であっても解除可能です。
「罠はずし能力値>70」となれば確実に罠を解除できる訳ですから、次の不等式を解くとそのレベルが求められます。
レベル-10(最深部)-7>70
レベル>70+10+7
レベル>87
つまりレベルが88あれば、いかなる職業であっても確実にトラップを解除できます。
従ってパーティーにシーフがいなくても、カルフォを用いることで確実に宝箱を開けられるというわけです。
ディスペルの成功率
成功判定値=50+5*レベル-10*モンスターのレベル+職業修正値
(職業修正値は、僧侶0,ビショップ-20、ロード-40)
成功判定値が5以下の場合は5とする
成功判定値が0から100までの乱数よりも大きければ、成功。
この式からは次の2点が導かれるます。
強力なモンスターほど解呪が難しい
レベルが同じならビショップやロードはクレリックよりも解呪能力が低い
レベルアップ時の能力値変化
まず、25%の確率で能力値は変化しません。
年齢と0から130までの乱数を比較し、年齢が大きい場合には次の判定を行います。
能力値が18の時は5/6、2未満の時は常に変化しません。
能力値がヴァイタリティーの場合には常に下がります。
それ以外の能力値は、3よりも大きい場合に下がります。
レベルアップ時のヒットポイントの変化
現在のレベルの数だけ、ダイス(職業によって異なる)を振ります。
戦士・ロード 、10面体
僧侶・サムライ 、8面体
盗賊・忍者・ビショップ 、6面体
魔法使い 、4面体
ただしこのダイスには、ヴァイタリティーによる修正が加わります
生命力3  、-2
生命力4~5、-1
生命力16 、+1
生命力17 、+2
生命力18 、+3
ここで生命力が最低3(ひいては最高18)であるのには、恐らく次の理由があります。
ウィザードリーはその起源をダンジョンズ&ドラゴンズ(D&D、AD&D)というテーブルトーク(ボードゲームのようなもの)に持ちます。
このゲームにおける、キャラクターの能力値の決定は6面体ダイス3回の合計値です。
つまり最低3(1が3回)で最高18(6が3回)。
従って3以下は意図されていないのであり、仮に3以下となっても修正値は3の場合と同じと見なすのでしょう。
職業がサムライの場合のみ、もう一度ダイズを振ります。
このダイズの合計値が現在の最大HP以下の場合には、最大HPに1を加えます。
最大HPよりも大きい場合には、最大HPを上記合計値まで引き上げます。
上の式から導かれることですが、生命力は常に18であるのが望ましいですね。
またこれによって転職後はしばらく最大HPが1しか上昇しない理由が解ります。
逆に言うならば、一度自分はメイジからビショップへの転職後に最大HPが一度に120増えたことがあります。
武器について
このゲームに登場する武器には、それぞれ固有のダメージ範囲が設定されています。
例えば、ロングソードは1~8です。
何故このように大聞く変動するのかをご説明致します。
武器のダメージは、やはりD&Dに準拠するものです。
このD&Dは乱数の決定要因としてさいころを用いました。
4面、6面、8面、10面、12面、20面のダイスを使用したのです。
(おもちゃ屋さんにいって、手に取ってみられることをお勧めします)
つまり、ロングソードのダメージは8面体ダイス一回と決められていたのですね。
(8面体ダイス一回振ることを、1d8と記述します)
ゲームであるので、実際には存在しないダイス(3面体など)が用いられることもありますが、基本的にコンピューターはダイスを振って判定を行うという原則は守られています。
ダメージ範囲の他に、武器には命中判定、攻撃回数への修正値を持つものも存在します。
命中判定に修正があれば、敵に攻撃があたりやすくなります(判定式は後述)。
攻撃回数の修正値は、キャラクターの職業・レベルに関わらずその回数分の攻撃を可能とします。
しばしば「なになに」+1というアイテムが登場しますね。
この+1とは、基本となる武器「なになに」に命中判定・攻撃回数・攻撃がヒットした場合のダメージにそれぞれ1を加算するという意味を持ちます。
(実際はそう単純でもないですが)
村正ブレードに対する有名な言明として次のものがあります。
「村正を手にするものが、たとえレベル1のサムライであっても、巨人を一刀両断にすることができる」
村正はダメージ10~50(5d10)、攻撃回数3です。
平均的にダイスがでたとして、30が3回でダメージ90。
ファイヤージャイアントのHP(15から92)を大きく上回るわけで、レベル1サムライでも一撃ですね。
武器の性能を少々紹介してみます。
武器名の後の数字はダメージ、括弧内は攻撃回数で空欄の場合は0です。
ロングソード、1~8
ショートソード、1~6
メイス、2~6
ダガー、1~4
ロングソード+1,2~9(2)
ショートソード+1、2~7(2)
メイス+1,3~9(2)
ドラゴンスレーヤー、2~11(1)
ロングソード+2,3~12(3)
ショートソード+2、3~8(3)
カシナート、10~12(4)
ダガー+2,3~6(2)
ダガーオブスピード、1~4(7)
ソード+3(E)、4~13(4)
村正ブレード、10~50(3)
手裏剣、11~15(3)
カシナートの安定した高ダメージと、圧倒的な村正の破壊力が目立ちます。
攻撃回数について
基本的に、装備する武器の攻撃回数がそのキャラクターの攻撃回数となります。
(ただし武器の属性とキャラの性格は一致していないといけません)
職業修正値を上記の回数に加えます。
戦士・サムライ・ロード、+レベル÷5
忍者、レベル÷5+1
以上の値が10を超えた場合には、10とします。
この式から導かれることは、メイジ・シーフ・ビショップ・プリーストはレベルが上がっても攻撃回数は変わらないということです。
攻撃の命中判定
基本的に、「攻撃スキル」という数値が、1から20までの乱数(20面体ダイズ)よりも大きければ攻撃は命中です。
攻撃スキルは、次の式によって求められます。
「攻撃スキル」=「モンスターのAC」-「ファイトレベル」+3*「モンスターのグループ」
ファイトレベル=職業修正値+ストレングスによる修正値+アイテムによる修正値
職業修正値
戦士・ロード・サムライ・忍者の場合は、レベル÷3+2
その他は、レベル÷5
ストレングスによる修正値
恐らくですが、HP決定の際のヴァイタリティーの場合と同じく以下であろうと思われます。
力3  、-2
力4~5、-1
力16 、+1
力17 、+2
力18 、+3
強力な武器には、命中判定に+1,+2とっいった修正を持つものがあります。
モンスターのグループは最前列を1とし4列目を4とします。
これにより算出された攻撃スキルが、21以上の場合は20に、1以下の場合は1に修正します。
アイテムの取得
アイテムは、それぞれ(武具、防具、その他)通しで番号が付けられています。
大まかにいうと、この番号が大きいものほど強力なアイテムといってよいです。
例えば、ロングソードは1・ラージシールドは8、そして村正は86・シールド+3は90といった具合です。
そしてモンスターはそれぞれに、何番台の宝を何%の確率で持っているかがあらかじめ規定されています。
(グループで登場する敵の場合は、先頭の敵のもののみ考えます)
例えば、「バブリースライム、No1~15(10%)」といった具合です。
これはバブリースライムを倒して宝箱を開けた場合に、1~15番のアイテムを10%の確率で持っているということです。
強いモンスターほど一般的に良いアイテムを落とします。
レベル3サムライ、No1~15(20%)、No17~32(10%)
レベル5メイジ、No1~15(50%)、No17~32(30%)、No33~51(10%)
オーガーロード、No1~15(100%)、No17~32(50%)、No33~50(20%)
レッサーデーモン、No17~32(75%)、No33~50(25%)、No52~78(10%)
ハイプリースト、No33~50(70%)、No52~78(25%)、No79~92(5%)
マイルフィック、No33~50(100%)、No52~78(50%)、No79~90(10%)
といった具合です。
村正・ガーブオブロード・手裏剣(いずれも80,90番台)という強力なアイテムを持つ敵は次に列挙するものに限定されています。
以下の11種は5%の確率で強力な(79番から92番の)アイテムを所持します。
フロストジャイアント
ファイアドラゴン
ハイプリースト
ハイウィザード
マスターシーフ
ハタモト
ヴァンパイア
グレーターデーモン
ポイズンジャイアント
ドラゴンゾンビ
以下最強6種は10%の確率で(78~90番のアイテムを所持)です。
レイバーロード
ザハイマスター
フラック
アークメイジ
マイルフィック
ヴァンパイアロード
従って、村正を獲得するために最も効率がよい方法はこうなります。
地下10階で、上記最強6種が登場するまで「逃げる」を選び続けることです。
間違ってもブリーブなどと戦ってはいけないということになります。
ここで稀少アイテムの番号をあげます。
ブレストプレート+2
銀の小手
ソード+3(E)
ショートソード+3(E)
盗賊の短刀
ブレストプレート+3
ガーブオブロード
村正ブレード
手裏剣
コールドチェーンメール
プレート+3(E)
シールド+3
回復の指輪
僧侶の指輪
これらを敵が落とす確率がたったの5や10%で、しかも村正はその14個の中の一つです。
必ず稀少アイテムを持つ敵とであったとしても、村正が入手できる確率は280分の一。
なかなか、大変ですね。
留意すべき点です。
先の所持アイテム例に挙げましたが、最強6種は回復の指輪(91)と僧侶の指輪(92)を所持していません。
また最も見落としがちなアイテムとして、51番のシールド+2があります。
これは以下9種のモンスターが10%の確率で(No33~51を)持つのみです。
レベル5メイジ、レベル4シーフ、キラーウルフ、スピリット、ジャイアントスピナー、ワーターガー、メデューサリザード、レベル5プリースト、レベル6ニンジャ、レベル7メイジ
普段は見落としがちな地下6,7,8階を重点的に探索しないと発見できません
以上です。

ビデオゲーム、書籍等に関して
http://www2.ttcn.ne.jp/~inu/text/wiz.html
http://www2.ttcn.ne.jp/~inu/text/adv.html









ウイザードリィ
Wizardry1
提供会社 (株)アスキー
価格 
5.0DFDD: 12800円
3.5DFDD: 12800円
Wizardry2
提供会社 (株)アスキー
価格 
5.0DFDD: 12800円
3.5DFDD: 12800円
■内容
あの、噂のWizardryが。ついに日本語バージョンで登場!!狂気に大君主トレボーの世界征服の為の 2つの条件---最強の精鋭部隊の育成と邪魔な魔法使いワードナに魔除けの奪還---を充たす事 がこのシナリオの目的である。この世界は、あなたの分身とも言える様々なキャラクタ創造に始まる。 最大6人のパーティを結成して、魔法と困難に満ちた地下10階に至る迷宮の冒険へ出発していくの だ。3次元迷路で表現されている迷宮にはパーティを惑わす、凶悪な魔物そも、落とし穴、暗闇の空 間、魔法の品々、と言った数々の困難が待ち受けている。これらの困難を乗り越える事によって、あ なたのキャラクタは成長していくのだ。
■感想
あのウイザードリのFMシリーズへの移植版です。
移植版とは言えども、完成度は本家のApple 版に負けません。さすがに、R.P.G.の原点(正統派)と言われるゲームだけあってキャラクタ 作りが確りしています。(悪く言えば、設定が多すぎてめんどくさい!?)このゲームは、最初のキ ャラクタ作りが全て、と言えるゲームではないでしょうか。

Nabechan Home Page
http://www23.tok2.com/home/fm7emu/ysm2/asc/wiz.htm
http://www23.tok2.com/home/fm7emu/ysm2/art/a-tr.htm






二大巨頭
テレビームのRPGの世界において、ボードゲームの『D&D』が与えた影響は計り知れない。
何故ならば、 今でもRPGがテレビゲームの人気ジャンルとして存在しているのは、この『D&D』に影響されて作られた 2つのゲームがあるからだ。
・・・そう。RPGを語る上で、この2つのゲームを外すことは出来ない。
ウィザードリィ
まずは、サーティック社から発売された『ウィザードリィ』(1981年)。
今でも多くのプレイヤーを熱中させるこのゲームが世に出たきっかけは、アンドリュー・グリーンバーグ氏が大学在学中に『D&D』に夢中になり、1人で楽しめるようにとアップルIIでゲームをプログラミングしたことが発端である。
このゲームは多くの友人にモニタープレイされ、その中の1人であったロバードウッドヘッド氏の プログラム技術によってグレードアップされた。
それが『ウィザードリィ』である。このゲームがプレイしたくてアップルIIを買った人も多いだろう。
魔法使いのワードナに盗まれたアミュレットを取り戻すために、 3Dダンジョンの中を冒険していくのだが、殆どのプレイヤーはアミュレットを取り戻すよりも、 キャラクターを育てる楽しみのほうが大きかった。
ストイックに自分のキャラクターを鍛え、ディスクがアクセスする音でどんな敵キャラかが 分かるようになるほど戦い、数少ないレアアイテムを手に入れるために毎日のようにプレイする人が 続出したゲームである。そして飽きさせないゲームバランス。いくら強くなっても、常に緊張感がもてる ゲームバランスを持つゲームは、そう多くない。
画面に表示されるのはワイヤーフレームで書かれたダンジョンと、味方キャラクター達の情報。 そして襲いかかるモンスター達。与えられる視覚的な情報が少ない分、プレイヤー達は色々な想像をして、 自分たちの世界で冒険していた。
続編も続々と発売されているが、カラー化された『ウィザードリィ』が発売されたときには、 様々な批判が飛び出した。つまりそれほど、独特な世界、想像力を刺激される事を楽しんでいる人が 多かったということでもある。(カラー化したのは、あるゲームの登場による”危機感”を持ったからで あるが・・・。)
日本でも1985年11月に、アスキー社より『1』が移植販売された。
全世界で『ウィザードリィ』を徹夜でプレイしたした人の数と言ったら、そうとうな数になるだろう。 発売から何年も経つが、未だに色あせていないゲームでもある。 これ以降『ウィザードリィ』は、順調に移植されていく。
Ultima1/ウルティマ
そしてもう1つのゲームといえば、『ウルティマ』だろう。「いや『ウルティマ』ではなくて、『アルテマ』だ。」という論議も今では懐かしい(逝)
『ウルティマ』(CALIFORNIA PACIFIC社 1981年)は、制作者であるリチャード・ギャリオット氏が、高校生の頃(17歳ぐらいの時のようですな)に作った『アカラベス』を拡張し、アップルIIで発売されて大人気となったゲームだ。
ロード・ブリティッシュ国王が治めるブリタニアに魔術師モンデインが攻め込み、国を乗っ取ろうとするのを阻止するのが目的である。(ちなみにこのロード・ブリティッシュとは、制作者であるリチャード氏のニックネームだったのだが、ゲーム内におけるその強さ故に、本名のリチャード氏よりも有名になっている。)
余談
後にリチャード・ギャリオット氏は、自分で会社(ORIGIN SYSTEMS社)を設立。そしてCALIFORNIA PACIFIC社からウルティマの版権を買い戻し、改定した『ウルティマ1』をIBM-PCで発売している。
Ultima2
ウルティマ2
『ウルティマ』のスケールは大きく、シリーズを重ねるごとに内容が 大きくなっていく。
『ウルティマ4』に至っては、哲学をテーマにした内容となり、聖者になるのが目的と いう往来にない作品を出してプレイヤーを驚かした。
日本では、スタークラフト社から『ウルティマ2』(1985年7月)が移植された。 もちろん、ウルティマシリーズもこのあと移植され続けることになるのだが、『4』以降はポニーキャニオンが 版権を得て移植、発売している。
しかも『1』から『3』の版権も得たため、再度『1』から『3』がポニーキャニオン社から発売されている。
『ウィザードリィ1』と『ウルティマ2』が移植され、日本語で実際にプレイできるようになった。 これは、日本RPG界の未来に対して、非常にメリットがあったと思われる。この2つのゲームをベースに、 日本のRPGの基礎が出来上がっていくことになる。

Nostargia
http://aizuma.hp.infoseek.co.jp/rpg/rpg2.htm



1983年3月9日水曜日

[機器][ゲーム] バンダイ,光速船(Vectrex)(1983)~ベクトルスキャンのワイヤーフレームゲーム機




◆光速船(Vectrex)マシンスペック
正式名称:BANDAI 光速船[日本]
GCE Vectrex[海外]<-これが本家
(GCE:Genaral Consumer Electronics)
発売日:1983年?月?日
定価:54800円
◆ベクトルスキャンのワイヤーフレームゲーム機
1983年にバンダイから発売されたゲーム機です。
(正確には,GCEから発売された Vectrex が本家です。 それを日本では光速船という名前でバンダイが発売しました。) 
ラスタースキャンのゲーム機が多い中,9インチベクトルスキャンモニタを内蔵した,ベクトルスキャンのワイヤーフレームゲーム機というところがすごいです。 
数自体もでていないため,めちゃくちゃレアなので,今手に入れようとすると10万円位はします。(Vectrexを海外から個人輸入すれば,3~5万円程度で買えます) ベクトルスキャンのゲームというのも,一度は経験しておくべきでしょう。 ちなみに,Vectrex用マルチカード(オール イン ワンソフト:1本のROMに多数のゲームが入っている)は,是非とも手に入れた方がいいでしょう。 
海外には,すごい人たちがいて,未だに Vectrex のゲームを開発しているという話です。 信じられません。(準備中)
   
虎菊
http://www3.wind.ne.jp/toragiku/game_ma/vectrex.htm

1982年2月23日火曜日

[機器][PC] NEC PC100





PC-100
すばらしい性能をもちながら、値段などの面であまり売れなかった日本版Lisaのような悲劇のパソコン。 
コンパクトながら贅沢なグラフィック機能、ディスプレイ縦、横対応、VSHELL(MS-DOSをマウスで操作する。 
Microsoftが、これのできをみて、本気でWindowsの開発に取りかかったともいわれている)、JS-WORD(一太郎のもとになったワープロ。 
これの98版が JS-WORD2 で、そのバージョンアップが JX-WORD太郎。 
さらに、そのバージョンアップが一太郎となる。)バンドル等当時としてはすさまじいスペックだった。 
それが1983年に発売されていたのだから、NECの技術もすばらしかった。 
今のWindowsのもとになったマシンといっても過言ではないかもしれない。
ちなみに、日本語入力FEPとして一太郎から分離されたのが ATOK4 であり、それ以前は、ワープロソフトと一体だった。
(JS-WORDのKTIS、JS-WORD2のKTIS2、JX-WORD太郎のATOK3)
   
PC-100のお部屋
http://www3.wind.ne.jp/toragiku/kopa/pc100.htm
      
PC88ゲームライブラリ
http://www9.big.or.jp/~y-romi/library/frame1.htm


PC-100
正式名称 PC-100
発売日 1983年10月?日
定価 Model10:398000円
Model20:448000円
Model30:558000円

PC-100専用ディスプレイ
カラー(PC-KD651):198000円
モノクロ(PC-MD651):59800円
CPU メインCPU 8086(8MHzバージョン)
NDP
(オプション)
8087(8MHzバージョン)
動作周波数 6.9888MHz
ROM 32KB
ブートローダ、診断プログラム、キャラクタフォント及びBIOS
RAM メインメモリ 128KB(標準)
最大768KBまで増設可
ビデオRAM(VRAM) 128KB(標準)
カラーボード実装時 512KB
表示能力 表示方式 フルビットマップ表示
解像度 720x512dot(CRT横置き)
512x720dot(CRT縦置き)
テキスト表示 90文字x32行(8x16フォント)横置標準
64文字x45行(8x16フォント)縦置標準
ユニバーサルフォントのため設定可
カラー表示 各ドット単位に512色中16色を表示可
パレット機能により色の設定可
ビデオ出力 ・モノクロ
 アナログ映像信号(2値)
 TTLレベル同期信号
・カラー(カラーバージョンのみ)
 アナログ R.G.B 映像信号(8値)
 TTLレベル同期信号
キーボード JIS標準配列準拠 テンキー、5ファンクションキー、コントロールキー、漢字キー、COPYキー、カーソルキー
キー総数 91キー
CPU 8048CPUにより制御
セパレートタイプ 本体とカールケーブルにより接続
マウス セレクトスイッチ2個
分解能 0.25mm(1パルス/mm)
接点方式
フロッピーディスク 5インチ薄型
両面倍密度
360KB/ドライブ
標準1台又は2台
プリンタインタフェース パラレルインタフェース(セントロニクス社仕様準拠)
シリアルインタフェース RS-232C規格準拠
150/300/600/1200/2400/4800/9600/19200ボー
ボーレートはソフトウェアにより設定可
カレンダークロック 年・月・日・時・分・秒
NiCd電池によりバックアップ
漢字ROM 文字構成 16x16dot
文字種類 JIS第1水準(2965字)
非漢字(約700種)
割り込み機能 8レベルプライオリティ付き
ユーザに1レベル開放
電源 AC100V±10% 50/60Hz
消費電力 最大80W 平均32W(モノクロバージョン)
使用条件 温度 10~35℃
湿度 20~80%(ただし結露なきこと)
外形寸法 本体 400(W)x350(D)x109(H)mm
キーボード 408(W)x195(D)x35(H)mm
重量 本体 10kg(フロッピーディスク2台の場合)
キーボード 1.4kg






モデルナンバー
型番 名称 分類 標準価格 対応機種 寸法 (mm)
W×D×H
重量
(kg)
消費電力
(W)
備考
PC-10010 PC-100 model 10 本体 ¥ 398,000 400 × 350 × 100 (CPU)
408 × 195 × 35 (KBD)
約 9 kg (CPU)
約 1.4 kg (KBD)
5 インチ 2D ドライブ ×1 基搭載
PC-10020 PC-100 model 20 本体 ¥ 448,000 400 × 350 × 100 (CPU)
408 × 195 × 35 (KBD)
約 10 kg (CPU)
約 1.4 kg (KBD)
5 インチ 2D ドライブ ×2 基搭載
PC-10030 PC-100 model 30 本体 ¥ 558,000 400 × 350 × 100 (CPU)
408 × 195 × 35 (KBD)
約 10 kg (CPU)
約 1.4 kg (KBD)
5 インチ 2D ドライブ ×1 基搭載
PC-10000-03 カラーボード 実装済
PC-10000-03 カラーボード 内蔵パーツ PC-10010 / PC-10020 モノクロ3画面/カラー1画面 (512 色中 16 色)
メモリ容量 384 KB
PC-10000-05 増設 RAM ボード 内蔵パーツ ¥ 86,000 容量 256 KB
PC-10000-06 512KB RAM ボード 内蔵パーツ ¥ 98,000 PC-IN510 接続用パラレルインターフェース内蔵
PC-10000-08 5 インチ固定ディスクインターフェースボード 内蔵パーツ PC-98H33 / PC-98H31 接続用
PC-10000-09 ユニバーサルボード 内蔵パーツ
PC-10000-11 増設フロッピィディスクドライブ 内蔵パーツ PC-10010
PC-10000-12 PC-IN510 用パラレルインターフェースボード 内蔵パーツ ¥ 29,800
PC-10000-13 PC-IN510 用パラレルケーブル インターフェース ¥ 7,500



1981年9月24日木曜日

[人物] Bill Gates, 1981
















八十年代以降、コンピューター世界の派権を握り続けてきた企業は、いうまでもなくマイクロソフトだ。
IBMのパソコンにMS-DOSというOSを搭載して以来、パソコン使用にあたってはマイクロソフトのソフトウエアを使用するというのがパソコンでの作業では当たり前とみなされてきた。エクセル、ワード、パワーポイント、インターネット・エクスプローラ、そしてウインドウズ。言い換えれば、パソコンの使用とは、イコール、マイクロソフトのアプリケーションを使うということだった。
これらソフトを使うためにパソコンを購入したと表現すればよいのだろうか。
ところが、最近、マイクロソフトは影が薄い。新製品を発表してパッとしないし、評判もあまり聞かない。業績はまあまあの状態を維持してはいるが、これら利益のほとんどは既存の製品からの売上に依存している。
■マイクロソフトとアップルの拮抗
その一方で、飛ぶ鳥を落とす勢いなのがAppleだ。2010年の第二四半期において、Appleは過去最高の売上と利益を計上した。
しかも、この業績はマイクロソフトと肩を並べるほど。13年前、スティーブ・ジョブスがAppleに復帰した時、Appleは瀕死寸前だったことがウソのことのようにさえ思える。
しかし、なぜこんなにもコンピューターを巡る企業の情勢が変化してしまったのだろうか?今回は、これについて考えて見たいと思う。その際,注目したいのはソフトウェアだ。
僕はソフトウェアをどのように時代状況にあわせてコンピューター市場に適合させるかがコンピューターの世界を左右するキーポイントと考えている。結論を先取りしておけば、マイクロソフトはソフトウェアに固執したがゆえに、パソコンの世界で覇権を獲得したと同時に、現在、覇権を失いつつある。いっぽう、Appleはソフトとハード二つにこだわり続けたゆえに派遣を取りそこねたと同時に,現代では逆にこれにこだわり続けるがゆえに,派遣を握ろうとしている。
次回からはソフトウェアの攻防を巡ってコンピューター世界がどのように変容してきたのか、またどのように変容していくのかを考えていこう。 
■80年代以降、マイクロソフトはいかにして覇権を握ったか
80年代初頭、まだ数あるソフトウェア企業の一つ でしかなかったマイクロソフトがあっという間に派遣を握ることができたのは、その技術力によるのではない。むしろ技術を売る巧みさにあった。
当時、コンピューター企業の巨人であったIBMは、意外なところから脅威を感じはじめていた。
「意外なところ」とは、ヒッピー文化から誕生した「パーソナル・コンピューター」(以下「パソコン」)という、さながら玩具のようなコンピューターだった。
今でこそ、パソコンといえばコンピューターの代名詞的な存在だが、当時、コンピューターとは大型汎用フレーム、つまり一部屋を優に占用するようなバカでかいマシーン=システムを意味しており、もっぱら企業が利用するものだった。
当然、費用も膨大なものとなるのだが、こういったシステムの構築に関して、IBMは巨人的な存在だった。
ところがホビー・マシンとしてしか捉えていなかったパソコン、具体的にはAppleのAppleⅡが、意外にも取り回しが良く、ビジカルクなどの表計算ソフトがビジネス・ユースにも使えることがわかり、人気を博するようになると、IBMはこれを脅威とみなすようになり、対向手段、つまりIBM製のパソコンを急遽開発する必要が生じるに至った。
つまり、IBMは明らかにあわてていたのだ。
急ごしらえパッチワーク・パソコンを作ったIBM
しかし、ちんけなコンピューターであるパソコンとて、そう一朝一夕で開発できるわけではない。そこでIBMは製品のほとんどを外部から集め、これを一つの箱のなかに収め、箱にIBMのロゴを貼りつけて売り出すという急ごしらえの方法を思いつく。その時選ばれたCPUがインテル社のもので、OS、つまり基本ソフトがマイクロソフトのMS-DOS(Microsoft Disk Operation System)だったのだ。
そしてこの時、マイクロソフトは大企業を相手に極めて狡猾なビジネスを展開する。
CEOであるビル・ゲイツはMS-DOSをIBMに売却するのではなく、リースしたのだ。
しかも独占使用権すら与えなかった。
ようするにゲイツはIBMが焦っていることを察知して、弱小ソフトウェア・ハウスが巨人から、自分の商品を保持したまま膨大な金をまきあげることにまんまと成功したのである。
他人のふんどしで相撲をとったマイクロソフト
いや、それだけで話がすむわけではない。
マイクロソフトは巨人の背中に乗っかって、あたかも他人のふんどしで相撲をとるかのようなビジネスを展開する。
IBMがパソコンを販売するということは、その圧倒的な力で、即座にパソコン市場を席捲することを意味している。
そして、それは必然的に搭載されているMS-DOSが市場を席捲すること、つまりMS-DOSがパソコンOSの業界標準になることも意味する。
つまりIBMのネットワークに乗っかることで、IBM自体がマイクロソフトの広告媒体として機能したのである。
これはうまいやりかただった。
いや、それだけではない。
マイクロソフトはIBMとOSのリース、つまり利用契約を結んでいるにすぎない。
前述したように、独占使用権もIBMは持っていない。
いうことは、マイクロソフトは他のエレクトロニクス・メーカーにもMS-DOSをリースしても構わないということだ。
そして、実際、ゲイツはそれを実行した。
その結果、IBMは単なるマイクロソフトの宣伝媒体に成り下がってしまう。
「巨人IBMが採用しているのなら、ウチでも安心して採用していい」
こんな認識が業界全体に漂うようになったのはまもなくだった。逆にIBMの立場からすれば、これはとんでもないことだった。売れば売るほど、他のメーカーも同じものを作ってくるのだから、これは単純に価格競争の激化を生むことになる。儲かるのは、結局のところマイクロソフト(とCPUを提供したインテル)ということになってしまった。(続く)
■Appleを駆逐したのはIBMではなくマイクロソフト
Appleに脅威を感じ、これを駆逐しようとたくらんだIBM。
実際、その目論見自体は見事に功を奏する。
MS-DOSを搭載したパソコンは、瞬く間に市場を席捲した。
しかし、その原因はIBMがパソコンを発売したからではなく、マイクロソフトのOSを搭載したパソコンが様々なメーカーから発売され、Appleのマシンを囲い込んでしまったからだった。これに対抗すべく、1984年Appleはウインドウをベースにした画期的なOSであるMacOSを搭載したパソコン・Macintoshを市場に投入するが、多勢に無勢という状態になってしまった(そのあまりの高額さにユーザーの腰がひけたということもあったということもあったのだが)。
ただし、勝者はIBMではない。
勝ったのは他人のふんどしで相撲をとったマイクロソフトだった。
結局、市場に出回ったのはIBMのパソコンではなく、マイクロソフトのOSを搭載し、インテルのCPUが内蔵されたパソコンだったのだ。
IBMはApple駆逐とともに、自らの首もまた絞めることになってしまう。
最終的に競争に敗北したIBMは2004年、パソコン部門を中国の企業・Lenovoに売却、この市場から撤退する。
IBMの市場を縦横無尽に活用
マイクロソフトの罠にまんまと引っかかったIBM。パソコンを巡る攻防の勝利者は対立したAppleでもIBMでもなく、第三者のマイクロソフトだったのだ。マイクロソフトはIBMにコバンザメのようにぶら下がることで、両者を駆逐することに成功。パソコン業界に帝国を築くまでになっていく。そのプロセスはパソコンと関わってきた人間なら周知のことだろう。MS-DOSに続き、ほとんどAppleのMacOSのパクリに等しいWindows95をリリース。この時点でOSの機能としてはMacOSに比べてはるかに性能的には劣るにもかかわらず、IBMを利用して奪い取った市場を利用して市場をさらに拡大することに成功する。
この成功は、いわば缶コーヒーのジョージアが売れるのと同じ仕組みだ。缶コーヒーはBOSS、Wonda、Fireなど様々な商品が各メーカーから発売されているが、シェアはジョージアがダントツである。これはなにもジョージアが飛び抜けてうまいからだからではない。そうではなくて、ただ単に日本国内でコカコーラ・ボトリングの自販機が圧倒的に多いことから来る結果だ。
マイクロソフトの製品についてはまさにこれと同様で、要するに市場にはWindows95をインストールできるマシンがあちこちにあった。だから、その使い勝手などはともかく、ユーザーは自らのマシンにお手軽にWindows95をインストールしたのである。
二十世紀に現れた二人の巨人は発明していない
ビル・ゲイツは、しばしば「二十世紀最後の巨人」と称されることがある。これは二十世紀最初の巨人がエジソンであったことになぞらえて呼ばれている。
ただし、それは相当の皮肉を込めてであるのだが。
二人は技術については二十世紀を代表する発明家と言うことに表面的にはなる。ただしエジソンはある側面からすると評判が悪い。電球、録音機など、エジソンは様々な発明をした発明王としてつとに有名ではあるが、実のところ彼自らが発明したものはほとんどないと言われている。では、あれら一連の発明はどうやったのかというと、これらを発明した人間から著作権を買い取ったり、奪い取ったりした結果なのだ。つまり人のやったものに自分の名前を貼り付けて売り出したのだ。それが、結果として「発明王」という代名詞になった。
一方、ビル・ゲイツも同様だ。
IBMに搭載されたMS-DOSというOSはキル・ドールが発明したCT-MとというOSをちょっとだけ改造して、MS-DOS名前を貼り付けただけなのだ。
ウインドウズについても同じだ。
これは明らかにMacOSのパクリなのは周知のことだろう。
では、なぜエジソンが二十世紀最初の巨人で、ビル・ゲイツが二十世紀最後の巨人と皮肉を込めて揶揄されるのか。それは、二人には法律に詳しいという共通する特徴があり、法律を縦横無尽に駆使し、自分の地位を築いたからに他ならなかった。要するに「発明王」になるためには、発明の才に長けているよりも法律に詳しいことのほうが大事なのである。
ただし、そうはいっても市場にパソコンを広げることに多大なる貢献をしたのがマイクロソフト=ビル・ゲイツであることを疑う余地はない。そして、それはソフトウエアに特化したことから起きたことであることも。80年代以降、IBMの市場を縦横苦心に駆使しながらマイクロソフトはどのようにして覇権を握っていったのだろう。(続く)
■ソフトとハードを分離したオープン戦略でマイクロソフトが勝利する
マイクロソフトは、いわばオープンな展開をすることで市場を席巻することに成功したと言えるだろう。「オープンな展開」とはソフトとハードを分離し、様々なメーカーのハードに自らのソフトを搭載可能にするやり方をさすのだが、こうすればそれぞれのマシンの特性に依存することなく、ユーザーは自由にマイクロソフトの製品を使用することが出来る。
実を言うと、それまでのコンピューター、パソコン企業のほとんどはこのような考え方とは逆、つまりソフトとハード一体型と展開を基調としていた。しかもハード重視タイプの戦略。つまりエレクトロニクス・メーカーは自らのハード=機械を売りたいがために、これを使用するためのソフトを、いわば「オマケ」的に開発し、販売していたのだ。だが、そういった一体型の売り方というのはいわば「抱き合わせ販売」のようなもの。一旦ソフトがもはや時代の流れに合わないものになってしまったならば、ハードごと全てを取り替えなければならない。これはユーザーの側からすれば少々博打的な色彩を含むものになってしまう。ハードを買って使ってみたらソフトがダメだったということになったとき、それはソフトの交換ではすまされず、ハード=システム全てを交換しなければならなくなるからだ。
ところがマイクロソフトの製品はそうではない。
一般的には大方のマシンに搭載可能だ。だからユーザーは安心してこれを求め、一方でソフトとハード一体型のメーカーは撤退することを余儀なくされていったのだ。
事実上の抱き合わせ販売で他のソフトウエアハウスを凌駕する
ただし、これだけの条件ならば、それはマイクロソフトに限った話ではない。他のソフトウエア・ハウスもマイクロソフトのOS上で稼働するのだから、MS-DOSやWindows以外のアプリケーションに関しては参入の余地があるはずだ。
ところが、ここにもマイクロソフトは、こういった他業種を閉め出す対策をきちんと整えていた。
一つは自らの販売することをマイクロソフトのOSに最適化したこと。
典型的なのはワープロ、表計算、プレゼンテーションソフトなどからなるアプリケーション・スイートのMicrosoft Officeで、これらはパソコンを買うならマイクロソフトのOSを購入し、マイクロソフトのOSを購入するならばOfficeを購入するという流れを作ってしまう。実際、パソコンにはあらかじめOSがインストール済みなのがあたりまえになり、さらにはOfficeも標準装備かオプションで選択可能というハード販売をハードメーカーに指示するというまでになっていく。またインターネットの世界への参入が遅れたことを察知するやいなや、ブラウザのインターネット・エクスプローラーを投入して失地挽回を図ったのだが、これはなんとWindowsのOSに無料で標準装備されていたのだ。これによって、これまでネットスケイプの独壇場だったインターネット・ブラウザの世界はすっかりエクスプローラーによって凌駕されてしまったのだ。
(こういう強引なやり方は、やがて法律的に不可能になっていくのだが)。(続く)
■革新的なパソコン・マッキントッシュだったが
アップルもまた典型的なハードとソフト一体型の企業だった。そしてアップルもまた当初、ライバルとして危惧していたのはマイクロソフトではなくIBMだった。
だから1984年にマッキントッシュを発表した際にも、販売の際に標的としたのはIBMのパソコンだったのだ。
1984年スーパーボウルのテレビ中継のハーフタイムに一回きりで放映されたマッキントッシュのCMはIBMを明らかな仮想敵にしていた。
そのCMのキャッチコピーは
「1月24日、アプルコンピュータがマッキントッシュを発売します。
今年、1984年が『1984』年のようにならない理由がおわかりになるでしょう」
だったのだが、この『1984年』とはジョージ・オーウェルの小説をさしている。
この作品の中ではビッグブラザーと呼ばれる支配者が人々を一元管理し、人々に自由がなくなるという状況が描かれているのだが、
この物語をCMはもじっている。IBMの代名詞はビッグブルーであったのだが、視聴者にはビッグブルー=ビッグブラザーの図式を暗示することで「IBMのパソコンを購入すると飛んでもない管理社会が登場しますよ。マッキントッシュを使って自由な世界をつくりましょう」とアピールしたのである。
実際のところ、マッキントッシュ(以下、マック)は革命的なパソコンだった。
ウインドウを開きマウスでポインタを操作するという、現在のウインドウの概念のほぼ全てを既に実現していた。
実質的にこれが発売された1984年の時点で、11年後にマイクロソフトがブレイクさせたWindows95よりも優れたOSを構築していたいってもよいくらいだったのだ。
■クローズドな展開がAppleを窮地に追いやる
しかし、前述したようにアップル(当時の名前は「アップルコンピュータ」)もまた敵を間違えていた。
本当の敵はIBMではなく、ソフトをスタンドアローンで展開するマイクロソフトだったのだ。
だから、いくら優れたマシンを作り上げたところで、マックもまたハードとソフト一体型のクローズな製品。
他の撤退を余儀なくされた企業と同様、オープンな展開をおこなっているマイクロソフトには太刀打ちできなかったのである。
ただし、その秀でた機能でマックは唯一、マイクロソフト帝国の中で生き延びることは出来た。そのすばらしさを指示する一部の層(デザイナー、編集業者、医者、そして弁護士)が、マックを買い求めたからだ。
こういったユーザーに限定されたのは、機能的な側面でマックが必要(デザイナー、編集者)か、あるいは高額なオモチャとして所有したいか(マックは極めて高額だった)の、どちらかのニーズしかなかったからだった。
とはいうものの、マイクロソフトの狡猾さはこれだけに留まるのではない。ビル・ゲイツはどこまでも賢いCEO。他にも様々な手を打っていた。
(続く)
ソフトウエアが覇権を握ると言われたコンピューター業界。
しかし、それだけなら何もマイクロソフトが一人勝ちすることはあり得ない。
他のソフトウエア・ハウスにもそのチャンスは平等にあるからだ。
ところがマイクロソフトだけが一人勝ちした。
そしてその理由がパソコンの業界標準であるマイクロソフトのOS(MS-DOSやWindows)に自社のアプリケーションを最適化させたことに一人勝ちの理由があったことは、このブログの前々回で取り上げておいた。
しかし、マイクロソフトのアドバンテージはこれだけに留まらない。
■当初マイクロソフトのアプリには、事実上プロテクトがかかっていなかった
その、もうひとつは、アプリケーションにほとんどプロテクトがかけらていなかったことにある。
前述のOfficeがその典型で、ユーザーたちはこぞって、違法にこれをコピーして使用するようになった。
そしてマイクロソフトはこれを黙認した。
いわば「タダでばらまく」ということをユーザーにやらせたのだ。
これだったら儲けはあがったりということになりかねないが、
ところが、むしろこうすることでマイクロソフトはさらに収益を上げていくことになる。
■タダ乗りユーザーを背後に持つことで巨大なマーケットが獲得される
そのからくりは、ユーザーを二つに設定したことにある。
ひとつは企業や合法的にアプリケーションを使おうとするユーザー。
この手のユーザーは、ルールを守るのでアプリケーションをちゃんと購入した。
そしてマイクロソフトにとっては大事な収入源である。
もうひとつは違法ユーザー。
こちらはおそらく合法ユーザーよりもはるかに多いと考えられる。
ところが、この違法ユーザーたちがこぞって業界トップのアプリケーションであるMicrosoft Officeをタダで使用することで、Officeのユーザーが世界に遍在するようになる。
となれば、Officeの各アプリケーションは、事実上、
業界の基準ソフト=デフォルト・アプリケーション
となる。だがみんなが使うとなれば、やはり一定の割合で正規にアプリを購入するユーザーも存在するわけで、このユーザーが購入するだけで、その利益は膨大なものとなるのだ。
わが国では、このやり方で締め出しを食らってしまった典型的なアプリケーションがジャストシステムの“一太郎”だった。
一太郎は日本におけるワードプロセッサーの業界標準の地位から引きずり下ろされてしまった
(現在、ジャストシステムは、日本語環境だけに特化したされたアプリケーション、フロントエンド・プロセッサ=日本語入力メソッドATOKの企業という位置づけになっている。
日本という文化にローカライズされているがために、この分野だけはマイクロソフトに駆逐されることがなかったのだ)
ちなみにOfficeはいまだに違法コピーが可能だが、事実上の業界独占となったマイクロソフトのOSに関しては、アクティベーションによって極めて強固なプロテクトがかけられている。
つまり「釣った魚に餌はやらない」。
ようするに、自由にコピーさせ、これによって市場を独占した暁には、突如としてプロテクトをかけ、金を払わせるようにする。
「それなら、マイクロソフトOSの使用をやめてやればいい」
ということになるのだが、もう市場は事実上、独占されてしまっていて、ユーザーは選択肢を失っているというわけだ。
マイクロソフトがやったことは、こうやって実質的にアプリケーションをタダでばらまくことで高額な収益をもたらすという、極めて狡猾な方法、近年話題になり始めたFree Businessの先駆け的な営業展開だったのだ。
こうやってパソコン業界は完全にソフトウエアが世界を牛耳るという構造になった。
しかし、このソフトウエア至上主義の支配は21世紀になるとその様子が怪しくなってくる。それが、今回特集のタイトル「マイクロソフトは何故ダメなのか」と言うことになるのだが……(続く)
■21世紀におけるソフトウエア至上主義の崩壊
ソフトウエアがハードウエアを凌駕し、パソコン市場の方向性を決定するという神話は未来永劫続くと思われた。
マイクロソフト帝国が、一層の支配を進め、ビル・ゲイツのもと情報化社会はこれからも動いていくと誰もが疑わないような風潮が21世紀の初頭にはいわば当然のように語られていたのだ。しかし事態は以外の方向に展開する。しかも新展開をもたらしたのはデジタル電子プレイヤーという、意外なハードだった。

勝手にメディア社会論











ビル・ゲイツ氏成功の秘密
我が国でも有名になったマイクロソフト社の会長ビル・ゲイツ氏。彼は今や全世界のコンピューター業界を牛耳る王とでもいえる存在となっている。
しかし、彼がいかにして現在の地位を築いたのかについては、諸説紛糾している。
ある者は、彼が模倣の天才であり、他人の作成した物を上手に自分の物として利用する術に長けているからだという。またある者は、彼の類い希なる商才のためだという。
しかし、わたくしはそれ以上に、彼には運命的な力が働いていると考えている。
そして、その理由は彼の名前にあると。
彼はビル・ゲイツという名前で有名だが、実はこの名前は通称にすぎないのだ。
彼の本名はWilliam H. (Bill) Gates III。
そう、彼は「ウィリアム三世」なのである。
ここまでくれば、歴史に詳しい読者の方なら、お察しがついたかもしれない。
ウィリアム三世といえば、イギリスの名誉革命の後に即位した王で、その通称は「オレンジ公」なのだ。
つまり、彼がパソコンの「革命」的な進歩の中で「王として君臨」することは、彼の名前から運命的に決定づけられていたのである。
そして、「オレンジ」に対する「アップル」の衰退も・・・・
このように、彼の成功が名前によって運命的にもたらされたとすると、彼の将来も歴史から占えるのではないか。そこで、試みに以下で彼の将来を歴史から占ってみる。
*****
彼が天下を取った後、マイクロソフト社の最高意思決定会議は活性化する。そして、その会議の中で、低年齢層に重点を置くべきとする玩具(Toy)党と、高年齢層に重点を置くべきとするカツラ(Wig)党という2つの派閥が生まれる。ゲイツは当初は両者の代表者に共同で同社の意思決定をさせていたが、やがて両党のうち多数派が同社の意思決定をするようになる。
ゲイツには子供がいなかったため、その死後はメリンダの妹アンがマイクロソフト社の会長として君臨する。
アップル社が同社に吸収合併されるのも、アンが会長職にある時代のこととなる。
・・・・(以後略)

藤木総研・研究部
http://member.nifty.ne.jp/fuzsiki/tanul.html






1981年1月29日木曜日

[OS] Windows MS-DOS

















■パソコンの登場
しかしダウンサイジングの主役はいまや超小型機種のミニコンではない。もっとコンパクトな,パソコンやワークステーションと呼ばれる卓上機や卓上に乗るほど小さなコンピュータである。成り立ちからいえば全く新しいコンピュータと言った方が適切かも知れない。パソコン,ワークステーションの歩みは大手主導の歩みから寄り道したところで始まったものだからだ。
半導体開発はIC時代を迎えて,ますます集積化が進み,LSIから超LSIへ,さらに超々LSIチップ(半導体の小片)へと歩みを進めていった。
その過程でひとつの製品が生まれた。ひとつのチップの上に,コンピュータの基本的な能力である演算処理機能を詰め込んだ「マイクロ・プロセッサ」と呼ばれるものである。このマイクロ・プロセッサを中心に作られたのが,個人用のコンピュータ「パーソナル・コンピュータ」つまりパソコンである。
マイクロ・プロセッサが一回にデータ処理できる能力によって,パソコンは4ビット,8ビット,16ビット,32ビットのものが実用化されている。現在の主流は16ビットで32ビットはパソコンの上位機種で使用されている。
「高性続コンピュータを開発するためには,演算素子に優れた半導体を必要としたが,逆に高性能な半導体から生まれたコンピュータが「パソコン」なのである。ありていに言えば半導体のお化けがパソコンである。
そのパソコンの頭脳マイクロ・プロセッサを1971(昭和46)年に開発したのが米国の大手半導体メーカー・インテルである。
■Apple   
しかし実際にパソコンを開発し,そのブームの火付け役となったのは半導体メーカーでもIBMなど大手のコンピュータ・メーカーでもなかった。米国の半導体産業のメッカ・シリコンバレーには半導体メーカーやコンピュータ・メーカーだけでなくコンピュータの力の虜になった個人が引き寄せられていた。「ハッカー」と呼ばれたコンピュータ・
マニアたちは,シリコンバレーに集まっては各人の手作りコンピュータの品評会のようなものを開催したりして交流を続けていた。彼らの関心はメーカーのお仕着せのコンピュータではなく,自分たちに必要なコンピュータ,個人が無料で利用できるソフト開発など誰もが使いうるようなコンピュータを誕生させることであった。
そのようなコンピュータ・マニアの中にスティーブン・ウォズニアックとスティーブン・ジョブスという二人の若者がいた。彼らこそが世界最初のパソコンを開発し社会に送り出した張本人である。
ウォズニアックが最初に開発した「アップルI」は回路基盤だけのコンピュータだったが,仲間の間ではさいわい高い評価を得た。そこで二人はアップ
ルの商用化に乗り出すことにしたのである。
1977年,ジョブスが愛車を,ウォズニアックが計算機を処分して得た千数百ドルを元手にニ人は「アップル社」を設立した。パソコンが個人的趣味からベンチャービジネスに変化した瞬間である。会社の研究所兼事務所はジョブスの父親のガレージを改造したものだった。
そしてそのガレージからパソコンの大ベストセラー機「アップルII」がその年の6月に誕生した。軽量プラスチック製の本体に,洒落たデザイン。それまでの手作りコンピュータとは全く違った新しい機械だった。パソコンが「商品」として社会に登場したのである。
アップルIIは,誰もがコンピュータを使えるようにしたという点において画期的な製品であった。発売以来アップルIIはパソコンの愛好者を開拓しまたたく間にパソコン市場を席巻した。 アップル社はガレージ企業から10億ドル企業に急成長しパソコン界のIBMとまで言われるようになった。
パソコンが普及するにつれ,それまでコンピュータが持っていたイメージはがらりと変わった。何か得体の知れない貴重で高価な機械,あるいは大企業の奥の部屋にデンと据えられている計算機で,使用する者はわざわざその部屋まで出向かなければならないというのがそれまでの一般的なイメージだった。しかしパソコンは個人の机の上に乗り使い方も夕イプライターに似たキーボードを叩くだけで使える。機器というよりも日常的な道具であっ
た。それゆえ親しみ易いイメージを持たれるようになった。
1981年4月,「黄金の80年代」の始まりとともにIBMはパソコン市場への参入を発表した。それまでパソコン事業には進出しないと公言していたことを考えるなら,大型汎用機を中心にビジネスを展開してきたIBMにとって,当初はパソコンはコンピュータの玩具にしか思えなかったのであろう。
■IBM-PC
スタートが遅れたものの,IBMが市場に送り出したのが新型パソコン「IBM・PC」だった。3年後,IBMはパソコン市場で業界トップのアップル社のシェアを抜いた。コンピュータ業界の巨人の底力を新興メーカーに見せつけた瞬間であった。
IBMのパソコン分野参入は,とかくマニアの世界の遊び道具と受け取られがちであったパソコンをビジネス分野の製品として社会に認知させる役割を果たした。「あのIBM」が事業として取り組んだという事実が,パソコンに社会的な意味づけを行う効果をもたらしたのである。それにともないパソコン市場には新規参入が相次いだ。
■MS-DOS規格登場
IBMの成功にはいくつかの伏線があった。なかでもパソコン分野に新規参入するさい,従来とは全く違う手法を用いたことである。IBMはパソコン事業を担当するセクションとしてIBMの経営組織に束縛されない一種の独立部隊を編成した。そのうえで全
ての権限を与えたのだった。IBMは本社→地域統括会社→各国IBM(現地法人)という経営組織をタテ軸にして世界120ヵ国以上の営業拠点を統括するとともにビジネスを展開していた。またIBM本社に直轄される形で世界市場を製品別に担当する開発・製造組織がヨコ軸として大型機種,中型機種,小型機種,周辺機器といった分野を担当する開発・製造のセ
クションが全世界のそれぞれの市場に対して責任を持つわけである。IBMでは「マトリックス」とよばれる組織編成である。
マトリックス編成は縦横の相互チェックを行い安定した品質の製品を市場に送り出すことが出来るが,反面決定まで時間がかかるという致命的側面も持っていた。素早い対応が求められるような新製品開発などの場合にはもっとも不向きな体制であった。
その点マトリックス経営から離れた 独立部隊にパソコン市場参入の全権を与えたのはIBMの見識であった。それまでと違って不安定な個人需要の動向を常に注目しながら,身軽な方向転換を要求されるパソコン市場ではIBMの独立部隊はもっとも相応
しい組織といえた。
その軽快な経営組織が選んだ戦術は,これもまた従来のIBMからは考えられないきわめて異例なものであった。IBMは「自前主義」を原則としている。米国の他のコンピュータ・メーカーと違って,システム/360以来,半導体部門を内部に抱え半導体を自前
で開発してきたように,全て自社製品でコンピュータを生産しているのである。だが,パソコンでは基本ソフトの開発を自前で行わなかった。独立部隊であるがゆえ既存の開発組織を利用しにくいという面もあっただろうが,それにしても選んだ基本ソフト「MS-DOS」は、ビル・ゲイツという20代の青年が社長を務める新興ソフトメーカー「マイクロソフト社」の開発したものだった。その頃はパソコン用の基本ソフトとしては,デジタルリサーチ社の「CP/M」が君臨していた時代である。実績,安定性からいえばデジタルリサーチ社の基本ソフトを採用するのがベターな選択であろう。しかし独立部隊はマイクロソフト社を選んだ。そのうえパソコンの頭脳であるマイクロ・プロセッサも自前のものでなくインテル社が開発したものを使用したのだった。
しかし独立部隊の開放主義はそれにとどまらなかった。IBM本社の閉鎖主義とは反対にIBM-PCの仕様までも公開したのである。IBM互換機を認めた,いや積極的に推進したのである。皮肉なことに汎用機部門で互換幾叩きを始めたIBMが,パソコン部門ではなんと最初にオープンシステムを実現したメーカーになっていたのである。
独立部隊が示したこのオープン性によって,パソコン市場は一挙に活性化した。巨人IBMのパソコン市場参入を契機にパソコン・メーカー各社もMS-DOSを採用し一斉にIBM互換機を開発しだしたのである。まさに勝ち馬に乗れというわけだ。たちま
ちIBM-PCとその互換後はパソコンの完全な基準となっていた。.....
ー覇者の誤算,講談社文庫,立石泰則

yhjjuj pc



1980年1月23日水曜日

[ゲーム][LSDゲーム] 任天堂ゲーム&ウォッチ,ボール(BALL)(1980)~ポケットLSDゲーム登場




















[ゲーム][LSDゲーム] 任天堂ゲーム&ウォッチ,ボール(BALL)(1980)~ポケットLSDゲーム登場
ボール(BALL)
任天堂/ゲーム&ウォッチ(シルバーシリーズ)/1980年頃
(C)1980 Nintendo
ゲーム性 ★★★
1ミスも許されないのは辛い
操作性 ★★★★
大きなボタンで感度良好!
キャラクタ(画面) ★★
人形しかいないし・・・
サウンド ★★★★
緊張度飛躍的にアップさせてる
ハード ★★★★★
天才的なデザイン!
総合 ☆☆☆
第1弾にしては良く出来てる
■ゲーム解説:ミス1つ許されない緊張の連続!
ゲームウォッチの記念すべき第1弾である「ボール」は単純なお手玉遊びでした。
わざわざお手玉遊びなんてゲーム化する必要なんてあるのかと思ってしまいがちですが,
実際にプレイしてみると意外にゲームとして成り立っています。シンプルイズベストってヤツですね。
しかし,このゲームを侮ってはいけません。
なんと1ミス即ゲームオーバーなのです(汗)。
(初めてだったので得点を競うだけなら最高得点を低めに設定する必要無いと思ったのかもしれません)
とにかく,これにより緊張感は飛躍的にアップします。
しかも,ゲームが進むと(得点が多くなると)球が分身する位のスピードになるので,ほとんど本能で動かすしかありません(笑)
ボールの移動音もテコテコ鳴っているので,集中しすぎてこれ以外の音は聴こえなくなります。
ゲームAでは2つの球をゲームBでは3つの球を使います。
得点はゲームAでは球を受ける毎に1点(最高999点),ゲームBでは10点(最高9,990点)加算されます。
別にわざわざゲームBで点数変える事ないじゃないかと思ったのは私だけでしょうか。
大人が手軽に楽しめるという事で発売されたようですが,この様に難易度はいきなり高いのです。
■本体解説:天才的なデザイン
 これは,「ゲーム&ウォッチ」の「シルバーシリーズ」にあたります。
他に「フラッグマン」「ファイア」「バーミン」「ジャッジ」があります。
シルバーシリーズは,かなりコンパクトの為にすんなりポケットに入ります。
ボディデザインはかなり高級感あり,デザインした人は天才としか言いようがありません。
この頃は「ウォッチ」という割には,ボールみたいに表示板が小さかったり,ジャッジみたいに時と分が離れていたり
精度が悪かったりと時計機能においては質素なものでした。
アラーム機能もこの頃はありません。
■当時の思い出
 私が持っているボールは,製造番号が「00000061」です。
この製造番号がG&Wの出荷個数を示すモノなら私は何万個も出回った中で
61個目のG&Wを持っているんだと思うと,優越感で嬉しくなったものです。

JUN AMANO'S HOMEPAGE               
http://homepage3.nifty.com/lsigame/

           
     
         







ボール
BALL
ゲーム&ウォッチ・シルバー/任天堂
Writtn By T鈴木
■すべてはBALLから始まった!
任天堂の「ボール」です。
国内出荷1000万台と言われる、まさに国民的大ヒット商品である「ゲーム&ウォッチ」シリーズの記念すべき第一作です。
その内容は、なんと「お手玉」!!
しかし、バカにしてはいけません。このゲームを基礎に、「マルチスクリーン」「パノラマスクリーン」「クリスタルスクリーン」・・・・今後発売されるすべてのゲームウォッチへと発展していったのです。
1980年、4月28日発売。
なんとお手玉!!
おそろしく単純な内容
左右の手を動かして、落下する2個のボールをキャッチし続けます。
ボールの落下速度は段々早くなり、1個キャッチするごとに1点加わります。
ゲームBではボールは3つになり、得点も1個キャッチ10点に変更されます(何と一気に10倍!!きょ・・・極端では!?)。
最高得点は9999点。中盤になってくると、あまりのスピードにボールの残像が見えるようになり、とてもエキサイティングな展開になります(逆に前半とてもタルいのは、第1作目からのゲームウォッチの伝統ですね~)。
ちなみに、ボールを1個でも落とすとゲームオーバー。この頃は「3ミス=ゲ-ムオーバー」という概念が浸透していなかったのか、大変厳しいです!
■ゲームBではボールが3つに
模型屋で発見!
当時から、子供たちの間でこの「ボール」を持っていた人は、さすがにいませんでした。
もともとサラリーマン層をターゲットにした商品だったので、内容的に大人向きなのはしょうがないとしても、同年に発売された「バーミン」「ファイア」などと比べると、あきらかにつまらなさそうですね(苦笑)。
ちなみに筆者は、中学生のころ模型店でこの「ボール」を発見。1988年ごろだったので、さすがに誰も買う気配はありませんでした(・・・・って、この頃から電子ゲームの発掘しているとは、すげー中学生!!)。
これが全パターン
ちなみに、この「ボール」がゲーム&ウォッチ第1作であることは前述しましたが、最終作の「マリオ・ザ・ジャグラ」(1991年発売)は、これのリメイク版とも言える内容になっています。
「BALLで始まりBALLで終わる」
これは単なる偶然か、それとも心憎い任天堂の演出か!?あなたはどう思いますか?

週刊電子ゲームレビュー
http://www5e.biglobe.ne.jp/~kiden/densigame2/shu.ball.htm
http://www5e.biglobe.ne.jp/~kiden/shu.octopus.htm
http://www5e.biglobe.ne.jp/~kiden/syuukan.htm