1981年2月25日水曜日

[機器] NEC PC-6001

NEC PC-6001









NEC PC-6001






NEC PC-6001mkII







[機器][PC] NEC PC-6001mkII
小屋から懐かしいものがぞくぞく 
2016/5/14(土) 午前 11:17 日記 パソコン
今回はウチの小屋にあった懐かしいものをご紹介します!
◆PC-6001mkII
まずは、NEC PC-6001mkIIです。
これは、たしか中学生の頃、友人から買ったものです。
当時はTALK命令色々言わせていました。
NEC PC-8801MA
次に、NEC PC-8801MAです。
これは、私が高校の時に東京にあったコンピュータバンクという店で通販で買ったものです。
この機種はサウンドボードIIと同等のサウンド機能がついていまして、当時FM音源では表現が難しかった
シンバルの音を表現できていました。
※ただ、シンバルと音がちょっと微妙でしたが・・。
FM-TOWNS MA
次に、富士通のFM-TOWNS MAです。
これは、東京都小岩にあったパソコンの中古屋さん(すでに名前忘れたし、その店はもうない)から買ったものです。昔、お店でデモとして動いていた、アフターバーナーが衝撃でした。
X68000XVI
次は、X68000XVIです。
これは、秋葉原のソフマップ(確か)で買ったものです。
PowerMac6100
次は、PowerMacです。
これも秋葉原のソフマップで買ったものです。
ディスプレイ込みで15万円だったと思います。
これは小屋にあったのではなく、隣の兄(今は隣県にいる)の部屋におかさせていただいております。
AMIGA3000
最後に、AMIGA3000です。
えっと、これは職場の先輩の友達から買ったものです。
メガデモが衝撃でした。
おまけとして、この2つは、「ふぁみ魂家郎ver.6」と当時熱中したファミコン用のソフト「メルヘンヴェール」です。

結城ジュンのブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/toyosato2014/42181121.html















■NEC PC-6001裏技,
タイトル 裏技
EGGY (Tape) ゲームオーバーになったらすぐに[SHIFT]+[space]を押し続けると死んだ面からコンティニューできる。
チョップリフター (Tape) [SHIFT]+[STOP]でスピードを選べるようになる。[↑][↓]で選択。
ミユキthe勝負師 (Tape) ゲームが始まったら[STOP]を押す 10 KM=00000:KI=20000:DR=1000[Return] 4100 KM=00000:KI=20000[Return] RUN[Return]で勝手に負けて服を脱いでゆく。
EGGY (Tape) ゲームオーバーになったらすぐに[SHIFT]+[space]を押し続けると死んだ面からコンティニューできる。




■NEC PC-6001mkII裏技,
タイトル 裏技
倉庫番 (Tape) ゲームをLoad後 720 G=xx:W=xx[Return] RUN[Return]で好きな面からできる。xxは面数 1~20。
タイニーゼビウスmkII (Tape) ゲームスタート時に "たまのいろは"と表示されたら[STOP]を押す。 POKE &H9849,&HC9[Return] CONT[Return]で敵が撃ってこなくなる。
ナウシカ危機一髪 (Tape) ゲームが始まりガンシップが離陸し始めたら[SHIFT]+[STOP] 画面が真っ暗になったら[PAGE]を数回押してページ3にする。
RUN[Return]デモに戻るので[space]でスタートすると次の面になっている。さらに次の面に飛ぶにはこれを繰り返す。
信長の野望 (Tape) ゲームをLoad後、230 R=xxx[Return] RUN[Return]で IQ,カリスマ,健康,野心が xxxの数値になっている。 xxx は 000~999。
パックマン (Tape) mon[Return] R 0[Return]でゲームをLoad後 SD0F9[space]パックマンの数を16進で入力(00~FF) [Return] GDD74[Return]でパックマンを増やせる。






Seed-種をまいた人-
高橋ピョン太インタビュー
このページは、現在のゲームの原点となったゲームを制作した方に、インタビューをするコーナーです。
と言っても今後、別の方にインタビューする機会があるかわかりませんが(逝)
また、テープをおこすという作業自体が初めてなので、見苦しい点があるかも知れません。予めご了承下さい。
ちなみに、ダイアルアップで接続されている方は、オフラインで読んだ方が良いと思います(逝)
今回インタビューをお願いしたのは、元ゲームプログラマーであり、元ログイン編集長の高橋ピョン太さんです。
2時間ものインタビューにつき合って頂きまして、有り難うございました。
色々な面白い話が聞けたのですが、全部を載せるわけには行かないのが残念(笑)
高橋さんのコンピュータに触れたきっかけから、ログインで働くまでの経緯を紹介したいと思います。
ただ、インタビューと言うよりも、雑談かもしれません(逝) 
でもこの話の中には、今のゲームやパソコンが失ってしまった、大切な何かがあると思っています。
注:敬称略です(^_^;
(1998年9月収録)
愛妻 お久しぶりです。
高橋ピョン太(以下、ピョン太) どうも。相変わらずだね(笑)
愛妻 今日はですね、昔ゲームを作ったときのきっかけとかを聞きたいんです。いまゲームをやっている人たちが「昔はこういう感じだったんだ~」というのをホームページに載せたいんですよ。それで今日、インタビューをお願いしたんです。
ピョン太 じゃあ、僕がなんでゲームを作ったとか、そういう事を言えば良いんだね。
愛妻 まあ昔話でも良いんですけど(笑) こんなゲームが面白かったとかそんな感じで良いんです。えーと、ピョン太さんのことはログインの紙面とかにバンバン出ていたので、知っている人は多いと思うんですが、元プログラマーだと言うことを知っている人は、あんまりいないと思うんですよ。ログインの隔週の最後に、その事が載りましたよね?
ピョン太 『デジしょく』だね(笑)
愛妻 そうです(笑) それで知ったと言う人も周りには結構居たので、じゃあ「こういうのを作ってたんだよ」みたいなのを載せたら面白いかな~と。
ピョン太 最近よく、「元プログラマーだったんですよね」とかね、言われますよ(笑)
愛妻 ははは(笑)
ピョン太 基本的に昔のパソコンっていうのは、あっ、まだマイコンって言っていた時代なんだけど。
愛妻 ええ(笑)
ピョン太 マイコンって言うのに興味があって買った人は、なんだかのプログラムをしないとさ、何も出来なかったんだよね。
愛妻 そうですよね。
ピョン太 そこでしょやっぱ(笑)
愛妻 そこですか(笑)
愛妻 シャープ系のマシンはそうでしたよね。
ピョン太 そうそう。クリーンコンピュータね(笑)
愛妻 ええ、それです(笑)
ピョン太 だからまず、ベーシックを立ち上るとシステムが起動して、それで何をやるかというと、ベーシックが立ち上がっている状態だから、何らかのプログラムをロードするか、もしくはプログラムを入力しないと動かない。
愛妻 ですね。
ピョン太 で、その入力するという自体が、コンピュータの、マイコンのもっともベーシックな使い方なんだよね。そうすると自分で組むか、雑誌の後ろに付いていた・・・。
愛妻 リストプログラムですね。
ピョン太 そう。そのリストプログラムを打ち込むと。少なくとも、例え自分で作らなくても、プログラミング作業みたいな事はやらざるおえなかった。
愛妻 そうですよね(笑)
ピョン太 最初オレが始めたときは、市販ソフトという概念もなかったし。『I/O』っていう雑誌か『ASCII』。後は『マイコン』、『RAM』っていう・・・。
愛妻 ああ、ありましたね(笑)
ピョン太 その4大マイコン雑誌(笑) それで入力するしかなかった。
愛妻 『I/O』があまりの厚さで、人が殺せるっていうときですね(笑)
ピョン太 そうそう(笑) それで1番『I/O』が面白いプログラムが沢山あって。投稿がメインだったんだけど沢山載るようになって。それが楽しみで、毎月毎月プログラムが出たら自分のマシンに入力していたんだけど、そのうち入力するのが苦になって来るんだよね。マシン語なんて数字の羅列だから、面倒くさくてしょうがなくて(笑) 間違ったら動かないし、何処が間違えているのかが判らないっていうのがあって。
愛妻 結構泣けますからね。間違いが見つからないと。
ピョン太 すると『I/O』がテープサービスというのを始めたのね。プロラグラムをカセットテープにセーブしてあってそれで模範する。そういう流れだから。基本的には、必ずプログラムするよね。
愛妻 それが高じて、ゲームを作り始めたのですか?
ピョン太 オレがコンピュータでプログラムっていうか、ゲームをやろうと思ったのは、そもそもゲームが好きだったから。
愛妻 いつから、っていうか、最初にプレイしたゲームっていうのは、何なんですか?
ピョン太 それは歳がばれるから(笑)
愛妻 でも僕だって『インベーダー』とか、そういう時代ですから(笑)
ピョン太 ああ、そうなんだ。『インベーダー』をやって、『インベーダー』自体がマイコンで出来ているっていうのを知ったときに、本当に面白そうだなと思ったのね。で、最初はTK-80っていうのを見てて、買った訳じゃないんだけど見てて。高校が秋葉原に近かったから良く観に行っていて、欲しいなと思っていたんだけど手持ちが無くてナイコン(爆笑)
愛妻 はははナイコン(爆笑) やっぱりこれですね(笑)
ピョン太 ナイコンをしばらく続けていたときに、TK-80にベーシックが乗るようなシステムなったやつがあって、それでちょっとベーシックを見て、「ああ、面白そうじゃん」と思って。で、高校を卒業したときに親の仕事を手伝うって言って、それで先にMZ-80Cっていうシャープのマシンを買って貰った。それで返済するっていう形で月賦で買ったんだけど、いつの間にか親が払っていた(笑)
愛妻 ははは(笑)
ピョン太 それでマシンが来たときに、その中に入っているベーシックの説明している本を見て遊んでいる内にプログラムを覚えたという感じ。で、プログラムを覚えているときに、アメリカで「アップルIIでスタープログラマーが誕生!」みたいな本を読んだのね。それをオレが見たのはね、『ポパイ』っていう雑誌があるでしょ。その『ポパイ』のニュースのところで、アメリカの億万長者じゃないけど、それに近い人というのが居て、新しい世代の新しいお金持ちみたいな感じで載ってたんですよ。それでオレもなんでか知らないけど、「これだ!」って(笑)
愛妻 凄いっすね(爆笑)
ピョン太 就職もせず日々コンピュータと接していたとき、「もしかしたら出来るかも」って言っていたくらいの頃が、『I/O』のテープサービスが始った頃だったのね。で、ポツポツと『I/O』の投稿プログラムの方にソフトを作るソフトハウスもどきなのが出てきて、ハドソンとかスタークラフトとかが『I/O』創刊の頃にそういう作業をしていて。唯一そういうところが、ちゃんとソフトハウスとして活動してたのね。えーと、九十九電気もそうだね。
愛妻 あ、そうですね。
ピョン太 お店でソフトを売ってて。
愛妻 昔のパソコンソフトって、お店を展開していて、そこにプログラムが好きな人とが集まってきて、いつの間にか会社になったというのが多いですよね。
ピョン太 そうそう。そんな感じのが多かった。
愛妻 日本ファルコムとかもそうですしね。
ピョン太 ショップを中心としたコミュニケーションの場があって、そこに集まったソフトウェアがなんだかの形で市販されるって言うかね、そんな感じですね。九十九もそうで、九十九でパソコンを買うとソフトが何本か付いてきて。まあこれも素人が作ったのだから、今で考えるとほんと”おまけ”的なソフトなんだけど、それでも全部が新しかったから、ムチャクチャ面白かったね。
愛妻 今までにない体験ですからね。
ピョン太 それで、最初に作ったのが『スタートレック』。
愛妻 はいはい(笑)
ピョン太 今だと版権がうるさいからそんな簡単には作れないけど、当時は『スタートレック』っていうのはスタンダードなゲームのルールとシナリオがあって、新しいマシンが出る度に必ず移植されていた物なのね。
愛妻 昔の雑誌とかを調べていますと、市販された『スタートレック』のゲームが、その本を書いた人が載せた数だけでも、結構な数だったんですよ。
ピョン太 『スタートレック』は必ずあった。
愛妻 その中で、どれが一番出来が良いかという事を記事にしていましたけど・・・。『スタートレック』というのは、日本ではポピュラーな物だったんですか? 私が知っていて古いというのは、深夜帯のしか知らないんですが。深夜帯で放映していたのですか?
ピョン太 ううん、最初のは違う。オレが子供の頃は、アニメーションもやっていたし。凄くメジャーだったよ。オレが高校生ぐらいのときに夕方4時とかで再放送とかしていたし。だからファンとかは沢山いて、コンピュータをやるようなやつはSFが好きが多いから、『スタートレック』なんかはまさに良いテーマだったんだよね。で、その『スタートレック』のベーシックなゲームっていうのは、もの凄くコンピュータゲームとしてはポピュラーなゲームだったんだ。誰もがやり方がわかっていたし。毎回同じように遊べるんだけど、乱数で敵とかが出てくるんで、いつでも楽しく遊べた。そんな感じで、当時遊べるシナリオっていうゲームは『スタートレック』しか無かったから、それで徹夜するよね(笑)
愛妻 なるほど(笑) 今の子供たちとゲームの遊び方が違うというのは、自分で遊びを考えるじゃないですか。例えば、プログラミングして出来た。んで、飽きた。じゃあどうしよかってなるんだけど、他にやるゲームがないから、なんかよくわからないけどベーシックを勉強して、「ここをこう変えて、なんかスピードが速くなった」とか、そんな単純な”遊び”でも楽しめたじゃないですか、昔って。
ピョン太 それが直ぐにダイレクトに出来るプログラムだったから、もちろんそういう”遊び”が楽しくてしょうがないし。例えばそのプログラムのある変数を変えると、全然自機が減らないとか、そのプログラムを作った人のコピーライトを変えるとか、そういうプログラム的な遊びで喜んでいたんだよね。
愛妻 今楽しめないじゃないですか。ガチガチに決まっていて、プロテクトも掛かっていて。それにプログラムを勉強しようと思う人はいても、実行するのにはハードルが高いと思うんですよ。今だと媒体がCD-ROMとかになっちゃって容量も大きくなっているし、言語自体もアセンブラとかC言語とか難しい言語になっちゃって、何が書いてあるかわからなくなっていますよね。何もプログラムを知らない人が覚えるための”きっかけ”というのが、今の人には少ないんじゃないかと思うんですよ。
ピョン太 完全にブラックボックスになっているからね。逆に言うと可愛そうだよね。
愛妻 そうですよね。

ピョン太 立ち上げたときにベーシックが入っていて、ペンティアムとか8086のマシンが組めるとしても、それがもう、いきなりハードルが高いからね(笑) 昔は立ち上げたら直ぐのマシンだったから(笑)
愛妻 そうですね(笑)
ピョン太 ベーシックにしてもマシン語にしても、そんなにハードルが高くない時代だったから。今は、開発用のツールを買うだけでも凄い金が掛かっちゃって、そう考えると”プログラムをしよう”と考える人じゃないと、出来ない仕組みになっちゃっているよね。だからプログラマーが増えて欲しいというのは、割とみんな希望としてあるんだけど、それをやる手順がない。でも、最近見えてきたのがHTML。ホームページを作るのにHTMLを少しやると、プログラム的な楽しみがあって、やっぱり基本的な楽しみというのでは、昔のベーシックを楽しむというのと同じように、そういった簡単なものがないとハマれないよね。それが唯一、HTMLかなって思っているんだけど。それからCGIで、画面が動いたりすれば、少しは8ビット時代に近いところで楽しめる所はあるんだけど、そこまで気が付かせるのって、結構やっぱり大変でしょう?(笑)
愛妻 ええ(笑)
ピョン太 パソコン買ってきて電源入れてそれになっていれば良いけど、そうじゃないでしょ。もし覚えられる、新しいユーザーに覚えて貰えるとしたら、やっぱりホームページ周りかなっていうのがあるね。
愛妻 ピョン太さんがパソコンとかでゲームを作ろうと思ったのは、もちろんゲームを作りたかったというのがあるんでしょうけど、組んでいて楽しかったというのもあるんですよね、きっと。
ピョン太 それはそうだよ。でも、”それ”しか無かったという良い環境なんだよね、要は。
愛妻 あ~、なるほど。
ピョン太 プログラムを組んで遊ぶしかコンピュータの使い道がなかったから。アプリケーションを立ち上げて、ワープロをやるなんていうのも無かったし、最初のコンピュータにはワープロなんて物もないわけだし。
愛妻 そうですよね(笑)
ピョン太 オレが初めてワープロというのを触ったのは、月刊アスキーに載っていたワープロの特集で、88(PC-8801の事)とFM-8のワープロが載っていて、それもやっぱりテープサービスみたいな感じで。値段は忘れちゃったけど1万円しないやつが載っていて、それを速攻で買って来て。で、漢字プリンターというのもとても高くて。
愛妻 昔は高かったですよね。
ピョン太 オレが買ったのは、漢字ROMが付いているやつで、16万ぐらいかな(笑)
愛妻 たかーい(笑)
ピョン太 「オオ、スゲェ! 20万円切った」とか喜んでいた時代で(笑) それはもう第1水準漢字しかでなくて。そういう時代だったんで、ワープロも、そんな機能的なものじゃなくて、ワープロで1ページ目を書いて2ページ目に行くのに、ページ切り替えに3分ぐらいかかるし(笑)
愛妻 ははは(笑)
ピョン太 だからそんなにコンピュータっていうのは、実用性がなかったから、プログラミングで遊ぶしかないっていう感じ。
愛妻 なるほど~。じゃあ、コンピュータって言うのを知ったというのは、たまたま秋葉原の近くだっからとか、そういう事じゃないんですよね?
ピョン太 それもあるけど、やっぱり電気系のことが好きだったから。昔から電気工作とか好きで。
愛妻 高校は工業系だったんですか?
ピョン太 工業系だけど・・・建築科(笑)
愛妻 (笑) じゃあ、CAD/CAMみたいなものを・・・。
ピョン太 無い無い(笑)
愛妻 そんなの無いですか(笑)
ピョン太 無い無い。製図板とT定規で。少しプログラミングみたいのもあったんだけど。それがオフィスコンピュータというか、ミニコン。ミニコンレベルだね、プログラムっていうのは。だからちょっと質が違う。でも、その頃からマイコンの存在は知っていたし、そういうのが好きだったから、それはそれでやりたいと思っていたし。それでアキバが近かったし、アキバにも通っている内に、まあこれで『インベーダーゲーム』が出来るかなって(笑)
愛妻 家でゲームが出来るというのは、夢のような話でしたよね。
ピョン太 もう、憧れ。
愛妻 憧れでしたよね。
ピョン太 それまでは確かに、ゲームセンター行ったりとか、そういうことでゲームで遊んでいるし、『インベーダーゲーム』以前にも、電子系のデジタルゲームっていうのがあったじゃない。そういうのはやっぱり魅力的で、よく遊ぶわけだよね。で、よく遊んでいる中で、やっぱり家でもゲームが出来るとなると、これはやっぱりやらざるおえない(笑)
愛妻 そうですよね(笑)
ピョン太 だから基本は先にゲームがあって、電子系が好きでデジタル系へ進んでいったら、プログラムをやるっていう方向へ行って、プログラミングをやるからには、そんな表計算ソフトみたいのを作っている場合じゃないっていう(笑) で、ゲームを作り始めたわけ。それがきっかけ。
愛妻 なるほど~。
ピョン太 で、アメリカでスタープログラマーっていうのが出てきたっていうのを知って、ちょっと商売してみようかなっと思ったとき、何処だけっかな? コンテストみたいのが始まった、というか応募が始まって、エニックスとかアスキーとか・・・。
愛妻 ポニカとか。
ピョン太 まあ、ポニカとかもそうだけど。『スパイ大作戦』はポニカから出たんだけど、あれってコンテストの前で、それは『スタートレック』を出した会社って言うのが通販専門の会社だったのよ(笑)
愛妻 はいはい(笑)
ピョン太 そこに『スパイ大作戦』を作って持っていったときに、たまたまポニーキャニオングループの人が誰かのつてで来て、「会社を作るんでソフトを探しているんですけど」と言ったときにあったのが、『スパイ大作戦』(笑)
愛妻 あ~なるほど。
ピョン太 それで「これどうですか?」って出して。で、その時にね、ちょうど『スパイ大作戦』ってPC-6001が最初だったんだけど、それがオリジナルで。『スパイ大作戦』の最初の「おはようフェリプス君」って言う所でテープが回るんだけど、テープレコーダーの名前を『S○NY』っていう名前で書いて出していたのね(笑)
愛妻 ははは(笑)
ピョン太 これは困るりますねって言われて(笑) 「直ぐに”S”を”P”に直して」って。『PONY CANION』だから『PONY』で良いやって言って。そういうノリでゲームを作って。「じゃあ出しましょう」って出したのが『スパイ大作戦』。
愛妻 じゃあ『スパイ大作戦』は『PONY』製品で言うと、何本目のソフトになるんですか?
ピョン太 えーと。
愛妻 コンテスト前の・・・。
ピョン太 何本目だったけかな。3本目か4本目ぐらいかな。第1段が出ていて、第2段が出るときに『スパイ大作戦』がっていう形になっていたから。
愛妻 では、デビュー作が『スパイ大作戦』と言うことですね。
ピョン太 いや、『スタートレック』。
愛妻 ああ、そっか。
ピョン太 あ、『スタートレック』と『スパイ大作戦』の間にもう1本あって、『アフリカンコープス』というシミュレーションゲームを作っているんです。
愛妻 『アフリカンコープス』・・・。それは一体、どういうゲームなんですか?
ピョン太 ウォーゲームで、HEXを書いて。これもPC-6001なんだけど。まず・・・早い話、将棋みたいなんだけど、自分の駒をこう並べて。これは砂漠の・・・えーと、勉強していたんだけど忘れちゃったよ(笑) 要はロンメルの戦車軍団。
愛妻 有名なやつですね。
ピョン太 あ、そうだ。タイトル名が『ロンメル戦車軍団』で、オープニングの画像の所に『アフリカンコープス』って出して、ロンメルが辿ってきたものをシミュレーションするって言う形。
愛妻 じゃあ正式な名前は、『ロンメル戦車軍団』なんですね。
ピョン太 『ロンメル戦車軍団』。それが『スタートレック』を出したところから出てきた第2段。で、順番としては『スパイ大作戦』の方が先。同じぐらいだったかな? それは片方はポニーから出して、片方はイマージュソフトっていう通販専門のお店なんですけど。
愛妻 イマージュソフトって結構有名じゃなかったですか?
ピョン太 いや、有名でもないよ。
愛妻 広告をよく見た気がしますよ。
ピョン太 広告はいっぱい出てた。イマージュソフトっていう所で2本出して、『スパイ大作戦』が3作目になるのかな。
愛妻 実際に反響とかはあったんですか?
ピョン太 『スパイ大作戦』は最初のポニーのやつで1番売れて、それで移植しましょうって事になって、移植した。
愛妻 結局、何機種ぐらい移植したんですか? 全部自分でやられたのですか?
ピョン太 88以外は、全部自分でやった(笑)
愛妻 ははは、凄い(笑)
ピョン太 (笑) 88版は実はね。これは今だから言っても良いかもしれないけど、どっかの若い訳わからないね、ヤ○ザっぽい人が勝手に出して、オレが作った様なフリをしてPONYに持ってって、出させて。だから最初、印税が入ってきていなかったのね。そういうゴタゴタもあったんだけど。
愛妻 はぁ~。これはオフレコじゃなくて良いんですか?(笑)
ピョン太 良いよ。後で見たら、殆どオレが作ったプログラムで、絵だけを変えているって感じ。
愛妻 ひゃ~。
ピョン太 それは、ちょっとそういうことがあった。
愛妻 なるほど~。実際には、中のプログラムをごっそり持っていっちゃって、自分の物にしちゃっていることですね。
ピョン太 そうそう。
愛妻 コピー物っていう事ですよね。
ピョン太 でも一応パッケージには、名前が全部書いてあったから、外から見たら全部オレが作っているように見えるんだけど、内部的には違う人が関わっていることになってる。
愛妻 その問題はクリアされたんですか?
ピョン太 まあ、ある程度ね(笑)
愛妻 ははは、はい(笑) 
ピョン太 60(PC-6001の事)と80(PC-8001の事)と88と。えーとMZ-1200とMZ-2000の5機種かな、『スパイ大作戦』は。
愛妻 互換機を合わせれば、もうちょっと量が増えますね。って言うことは。88以外の機種を移植したって事は、他の機種は自分でお持ちだったのですか?
ピョン太 買った(笑)
愛妻 買ったんですか!?
ピョン太 最初の印税で(笑)
愛妻 凄い儲かったって事じゃないですか!(笑)
ピョン太 メチャクチャ儲かった。『スパイ大作戦』と・・・。あと『スタートレック』と『ロンメル戦車軍団』の両方を合わせても、数的には6、7千本ぐらいは売れたのかなぁ。そのときは通販だから、オレに印税だけで30%入ってくる時代だったから。
愛妻 3、30%ですか・・・。
ピョン太 それで計算すればわかるでしょ?(笑)
愛妻 ウヒョヒョヒョ(笑) 
ピョン太 メチャクチャ儲かって。『スパイ大作戦』はそれ以上に儲かったから。そういう風に入ってきたお金を全てマシンにつぎ込んだっていう感じかな。
愛妻 なるほど。私はてっきり、会社で用意されている物を使ってやったのかと。
ピョン太 あ、違う違う。その後ぐらいかな? 会社で作って欲しいって依頼が来るようになったのは。で、マシンを貸し出すからっていう感じで。
愛妻 じゃあ一辺に何機種も入ったわけですね。
ピョン太 それでテクポリ(テクノポリスという雑誌が昔あった)に取材されたことがあってね。テクポリのプログラマーの取材のところでオレの部屋が写っているんだけど、殆どその機種が全部畳の上に並べてあるんだよ。
愛妻 えっ? テクポリって、そういうページがあったんですか?
ピョン太 昔あった。最初の頃のテクポリなんだけど。プログラマーの家を訪問して。
愛妻 あれ~?見ていないなー。一応、昔のゲームを調査するために古いゲームの本は読んでいるんですけど。
ピョン太 あのね、何年何月っていうのは全然覚えていないんだけど、黄色い表紙で川島なおみが表紙なんだよ。
愛妻 ははは(笑)
ピョン太 それだけ覚えている(笑)

Nostalgia
http://aizuma.hp.infoseek.co.jp/interview/Talk.htm
http://aizuma.hp.infoseek.co.jp/interview/Talk2.htm










NEC PC-6001mkII裏技

Blue Witch
http://blue-witch.hp.infoseek.co.jp/

PC88
http://www.pc88.gr.jp/webdir/










PC6001本体NG+拡張ユニット+フロッピードライブ 

ヤフオク
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s775958912










1971
■IBM一統のコンピュータ業界
1971年(昭和46年)12月,IBMは日本市場で画期的な成功を収めつつあった。 朝日新聞社と日本経済新聞社が進めてきたコンピュータによる新開自動編集システムが完成の第一歩を踏み出していたのである。
それまでの鉛の活版ではなくコンピュータで新聞を作るという前代未聞の目標に向けて,両社はIBMの協力の下そのシステムの開発に努めていた。そのシステムに使用されたコンピュータはIBM360だった。日本経済新聞社では「ANNECS」(アネックス),朝日新聞社では「NELSON」 (ネルソン)と呼ばれたそのシステムが動き始めたのである。
ともに実験段階や一部稼働にすぎなかったが,日本の二大新聞社がIBM360を導入したという事実は,IBMがコンビュータリゼーションやコンピュータ・テクノロジーの最前線に立つトップ・メーカーであると証明したようなものであった。
IBMは,このシステムの開発を契機に日本市場に新しいユーザーを掘り起こしつつあった。
■各国内メーカーの采配
翌1972年3月,国産メーカー6社はそれぞれ新機種開発計画を通産省に提出した。
日立工富士通グループの新機種は「Mシリーズ」と呼ばれ,東芝/日本電気は「Aeosシリーズ」,三菱電機/沖電気は「COSMOシリーズ」であった。8月には新機種開発のための組織が新たに設立された。日立・富士通は「超高性能コンピュータ開発技術研究組合」,東芝・日電は「新コンピュータシリーズ技術研究組合」,三菱・沖は「超高性能電子
算技行研究組合」である。
国産メーカー6社という言い方をしてきたが,実際には日立,富士通,日本電気の上位3社がわが国のコンピュータ産業をリードしてきたといっても過言ではない。というのも業界再編時に大型コンピュータを開発・製造していたのは上位3社だったからだ。大型機種の開発に携わっていなければコンピュータ技術の最前線から取り残されてしまう。しかも大型コンピュータの価格は高く売上高への寄与度も大きい。当然のことながら上位3社が占める市場シェアは高く,国産6社の市場シェアのうち,金額ベースでは上位3社が85パーセントも占めていた。
業界再編では,上位3社のうち日立・富士通がIBM互換を選び,残る日本電気(NEC)が従来通りの非互換路線を堅持した。いわば非互換路線は少数派に転落したのである。
■NECの采配
しかしなぜ日本電気はIBM互換を選択しなかったのであろうか?業界再編時に日本電気直務としてコンピュータ部門の責任者だった出川雄二郎は,その理由を語る。
「 IBM互換の話は社内でもちょくちょく出てました。僕も傍から随分といわれました。IBM互換路線に変えた方がいいのではないか?とか,もう少し近づいた方がいいのではないか?とかね。でもね、僕は最初から変えないできた。どうしてかというと,僕は小林宏治さん(当時の日本電気社長,現・名誉会長)と随分ディスカッションしました。彼と僕の信念は同じで,真似していたら相手がガラッと変えたとき途中で捨てられてしまうのではないか? IBM互換を選択しても,IBMが突然それまでの路線を変更した時にまたある部分を公開から完全に隠してしまったら,こっちがどう歩いているかが分からなくなる。自分の足で歩いていれば相手がどう変わろうとも,日本電気(NEC)は『これで行くんだ』と言えます。やはり俺は俺だという精神がなくては。そういう信念がなくてはね。だから林さんたちと(社内でのIBM互換の主張を)ずっと蹴飛ばしてきた。少なくとも僕らの周りにいるコンピュータ屋は全員その説で動いてきたわけだ」
日本電気でコンピュータ事業を起こし引っ張ってきたのは小林宏治である。小林は日本電気のキャッチフレーズである「C&C」(コミュニケーションとコンピュータ)の生みの親でもある。間単にいえば日本電気のコンピュータ事業の歴史は、経営者としての小林の歩みとオーバーラップする。.....
ー覇者の誤算,講談社文庫,立石泰則

yhjjuj pc






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