1985年5月18日土曜日

[ゲーム][FC] ドラゴンクエスト4

[ゲーム][FC] ドラゴンクエスト4
FC版ドラクエ4が最高だ vol.1 - 勇者に居場所はない(エンディング考察)
2020.05.12.Tue
ドラクエは、ファミコン版の4が最高だ。なぜなら、エンディングの最後で、勇者が気が◯って●ぬからである。
この度、私がドラゴンクエストシリーズで一番好きな「ファミリーコンピューター版のⅣ」について、その魅力を連載形式で記してみたいと思う。第1回目の今回は、エンディングのシーンを題材に、私がドラ4でもっとも惹かれた点である 「勇者の立場とその心情」 について考察する。
なお、エンディングを扱うということは、すなわち「究極のネタバレ」ということである。本記事は、ドラ4を(リメイク版でもいいので)1回以上クリアしてから読まれると、十分に楽しめるであろうことをお断り申し上げる。
また、本連載は、主に、私が最後にドラ4をクリアした学生時代の記憶に基づいて書いている。記憶違いについては何卒ご容赦願いたい。
■勇者には、帰りを待ってくれる人がいない
標題の事象が一番端的に現れているのが、本作のエンディングのシーンである。
お転婆姫の帰国はまだいい。王国の跡継ぎという存在は、もともと庶民には縁遠いものである。国家に属さない、山奥のひなびた田舎(隠れ里)の村で育った「17歳の無職少年(もしくは女子少年)」にはなおのことだ。
勇者にとって一番つらかったのは、トルネコの帰宅シーンを目にしたことだろう。出迎える妻ネネ、駆け寄ってくる息子(『トルネコの大冒険』では「ポポロ」)。そして、満面に喜びの色を浮かべて、夢中で息子を抱きかかえるトルネコ。
30後半で脱サラして事業を起こし、戦争を契機に国家に食い込んで政商となり、アベ友バリの随意契約で勝ち取った甘い汁を公共事業支援(ブランカ洞窟)にぶち込んで名声を金で買い、さらに、勇者一行に帆船を乗組員ごと用立てて、その名誉を不動のものとする…。
死の商人(武器商人)として、世界の混乱に乗じて商才を開花させ、イケイケドンドンで成り上がり続ける、基本的に悲壮感とは無縁の事業家としての自信に満ちているトルネコとは、冒険中から、何か反りの合わないものを、勇者は感じていたと推察される。
しかし、そんなことは、このエンディングのワンシーンの破壊力に比べたら、とるに足らないものである。トルネコには、帰りを待ち望んでいる家族が居る。自分(勇者)には居ない。この現実を、この数秒間の間に、勇者(とプレイヤー)は、厳然と叩きつけられることになる。トルネコ一家を邪魔しないように「2マス」距離を空け、静かに眺める勇者。この侘しさ。え?「天空城に実母がいる」だって? 確かに、実母は勇者と共に暮らしたがっているかも知れない。しかし、17年以上ぶり(旅立ち時点で勇者は満17歳)で会って、いきなり「私が本当のお母さんよ」と、それまで1度も会ったことのない、髪の毛の色くらいしか似ていないオバサンに言われて、果たして勇者は、ポポロ(仮)がトルネコにしたように、無邪気に、自然に抱きつくことが出来るだろうか。否である。いくら血がつながっていると言っても、勇者と実母は明らかに、精神的には他人同士だ。マスドラが喜ぶように感動の再会の演技をしたとしても、その余所余所しさに、少なくとも思春期真っ盛りの「17歳の無職少年(もしくは女子少年)」は、30分と耐えられないだろう。
■勇者は、この世界では “珍獣”
この、勇者の抱える絶望的な孤独に、導かれし者たちの中で最初に気づいたのは、恐らくライアンだと思われる。地元に帰ってきた、家に帰ってきた喜びが爆発し、勇者のことは眼中から消えてしまっている他の仲間たちと違い、ライアンは、バトランド王との謁見の際、冷静に、王に勇者を紹介している。他のキャラクターらのはしゃぎぶり(滑らかな動き)とは大きく異る、しゃちほこばった、儀礼的な動き。そしてバトランド王も、丁重に、勇者を国に迎えたい旨を申し出る(ように見える)。それを、あっさり断る勇者。このシーンのポイントは、ライアン(そして、ライアンの意を咄嗟に酌んだバトランド王)が、強く引き止めていないことである。長く職業軍人を務め、また、休職後は何年間も、独りで世界を旅していたライアンは知っている。勇者は、これまでの旅の道中と同じく、仲間以外のいわゆる一般人からは、同じ人間ではない何か珍しい存在のように扱われるだろうこと。勇者や王の意図にかかわらず、勇者がバトランド王の配下に入ることは国家間のパワーバランスを一変させるため、政治的に極めて機敏な問題となること。「狡兎死して走狗烹らる」で、良くても飼い殺しになるだろうこと。
そして「現実社会に適応しろ。大人になれ」と言うには、勇者はまだ若く、しかも数年間のうちに苛烈で凄惨な体験を味わい過ぎていて、その経験を受け入れるのには、長い休息を要するだろうこと。を。
王の方も、勇者が申し出を断ってくれて、内心ホッとした公算が高い。バトランドは、この世界の中では明らかに小国に属する。この国力では、他国との摩擦の種になり得る勇者を、持て余すに決まっているからだ。このシーンは、極めて儀礼的で、そっけない印象を受けるが、それらは全部、ライアンの心遣いの表れと言える。なるべく勇者の孤独感を刺激しない形で、「お前のことを気にかけている」というメッセージを伝えたい、ということであろう。
■勇者は旅の過程で、人間の暗部をコレでもかと見てきた
17歳まで、山奥の隠れ里で、村人全員から家族同様に接せられてまっすぐ育ってきた勇者の目には、世間とはひどく汚く、冷たいものに映ったに違いない。口の悪い木こりのおじいさんにこそ、人間の暖かみを感じられたであろう。しかし、ブランカ王は口先だけ。(王の権威を実感できぬ勇者は、王直々の声がけに有り難みを感じることは出来ない)ホフマンは人間不信。最初に仲間になるのは、見目麗しいが育ちの悪い、擦れっ枯らしの怪しい水商売のお姉さま2人。しかも、露出狂で男にだらしない姉は、この若さでアル中かつギャンブル依存症。そんな姉の世話をずっとしていた妹は、明らかに「アダルトサバイバー(アダルトチルドレン)」であり、幼少期からの無理がたたって険のある人格。「2人揃って魔法使い」という鉄板の怪しさ。ソレッタ国の貧困…はむしろ人間の健気さか!?キングレオによる圧政の爪痕(バハラタ等)。
ロザリー婦女暴行・傷害致死事件
エビプリが裏で糸を引いているとは言え、騙されることにも責任があるし、人間は、魔族に対しては幾らでも残酷になれる好例。しかも「ピサロナイトを倒した自分が悪い」と匂わせられるという追い打ち。
アッテムト鉱山の公害。
公害病で死者累々にもかかわらず、経済的利益のため採掘が継続されているという非情ぶり。(自分にとっては本当の)家族、恋人、家族同然の村人たちを殺した敵の大将もまた、命を慈しみ自分の家族・同族を守るべ行動していた有徳の士であり、人間に虐げられてきた歴史があった。
全部マスドラが悪い。
実父を殺し、実母を引き離し、自分を、来たるべき危機に備えて戦の駒に育て上げた諸悪の根源が、堂々と神様ヅラして偉そうにふんぞり返ってる。しかも「事情を知らぬ子羊どもからは、かなりの崇拝を受けている」という救いの無さ。
と、勇者はこれでもか、これでもかと、人間(及びマスドラ)の暗部を見せつけられてきた。しかも勇者は、その暗部のお陰で、何万匹もの魔族を手に掛け、自らも多々血を流し、あまつさえ「ミネア、メガザル頼む」に代表される、非人道的発言及び行動をする羽目になってきたのである。そして、黒澤映画「七人の侍」ばりに、「どうかデスピサロを倒してください」と判で押したように平身低頭で自分達に拝み倒してきた世界中の民は、危機が去ったら 「勇者様御一行、ばんざ~い\(^◯^)/」 と叫んで、後は用済み扱いで知らん顔。罪悪感なくやっている分だけ、一番たちが悪いかも知れない。これでどうやって、家族・恋人・友人知人を皆殺しにされた挙げ句、自分の意志に反して勇者様に仕立て上げられた「17歳の無職少年(もしくは女子少年)」が、育った村の住人以外の人間に、親しみが持てると言うのか。外の世界を知れば知るほど、勇者は、「自分は、村の外の人間とは違うんだ」という断絶を深く感じていったのではなかろうか。■そんな世界に、勇者はNOと言った
そして、自分を手駒として扱う世界に、勇者は最後にNOを突きつける。今まで、プレイヤーに1から10まで操作されていた、コントロールされていた勇者が、エンディングにおいて、最初で最後の自己主張をする。彼は、彼の世界で至高の存在(のアホ)である、マスドラの申し出を拒否する。言葉は要らない。というか、言葉にならない。言葉にできるほど、彼は、彼の熾烈な体験を、アタマで消化できていない。しかし、心は叫んでいる。天空城は、自分の居るべき場所ではないと。そして、ルーラを使えるにもかかわらず、わざわざ時間をかけて、気球で1軒ずつ、仲間たちのホームタウンをめぐる。そして、彼らの帰宅を見届けると、そっと、画面端に消える。最後に、生まれ育った村にたどり着く勇者。
これまでずっと、ほぼ画面中央に陣取り続け、プレイヤーに操られ右往左往していた勇者のアイコンが、画面左下から、ヨタヨタと這い出してくる。そして、廃墟となった村の、シンシアとの思い出が詰まった花壇跡の脇に寝そべり、天を仰ぐ。世界中の人間は、喜びに沸いている。世界は、希望にあふれている。自分だけが、その輪から漏れている。自分だけが、救いようのない喪失感の中に居る。村が襲撃されて以降、生きるために命を殺め、恨みを晴らすために戦ってきた勇者。そして、結果として手に入れたのは、「自分はこの世界で1人きり」という、厳然たる事実。共に行動する仲間はいるものの、本当に会いたい人は、もうこの世には居ない。デスピサロを倒したことで、「常に魔族に命を狙われ続ける」という強烈なプレッシャーが急に無くなった勇者の心は、あたかも、「急激に水揚げされたため、水圧が無くなって体がバラバラになってしまう深海魚」の如く破裂。
こうして勇者は、Zガンダムのカミーユ・ビダンよろしく、夢の世界の住人となる。自分を戦いの駒とし、戦いが終わればポイ捨てする世界。そんな狂った世界に、勇者の――少なくとも、正気を保ったままの、勇者の居場所はない。
■8bit機の人形劇で、表現し切った凄み
私が初めてこのエンディングを目にしたのは、確か小学校4年生の頃、隣の集落の友人宅においてだったと思う。親から強烈なゲーム禁止令を喰らっていた自分は、友人宅でしか、ゲームに触れなかった。子供心に「なんて辛い終わり方なんだ」と、お腹に、消化不良時のような痛みが走ったことを覚えている。また、一緒に居た友人達が「気ぃ◯って死んだ~」とゲラゲラ笑い転げていたことも、鮮明に。
それから約10年後。大学に入って親元を離れ、アパートにネットを引き、何気なく “ネットサーフィン” していたところ「ドラクエ4の最後はシンシアが生き返って、ハッピーエンドで本当によかった♪」という書き込みを偶然見かけた。しかも、リメイク版ではなく、ファミコン版の話題。そうだ、そうだ、みたいな感じになっている。
これを読んで、私は大層驚いた。そして私は、自分の記憶の正誤を確かめるべく、ドラクエ4をプレイし、公式ガイドブックや攻略サイトを参考に早解きをした。(この時初めて「ロザリー婦女暴行・傷害致死事件」のイベントがあることに気づいた)
エンディングを見ると、やはり私には、勇者は気が違って死んだようにしか見えなかった。
ドラクエ4は、前作のドラクエ3から比べ、画面がとてもスッキリして綺麗になった。4をプレイした後に3をプレイすると、画面がとても荒々しく感じる。(私は、ファミコン版の3の画質に耐えられず、3はスーファミ移植版をやり込むことに相成った。)しかしながら、結局のところ、ファミコン画質である。ドットは荒く、色数は限界でも20色強、サウンドも、PSG3和音+ノイズだけ(少なくとも、エンディングではデルタPCMを使ったと思しき音は鳴らない。もちろん、拡張音源もない。)この条件下で、本作は、効果音もセリフの字幕も使わず、一種のサイレント映画(サイレント人形劇)の手法でもって、本記事にこれまで書いてきたような内容を、私に強く訴えてきた。友人宅で、友人がプレイするのを何回か見ただけの、小学生の私に、である。
この、ドラクエ4のエンディングをこえる表現力を持つ作品を、私は寡聞にして知らない。どんな小説よりも、どんな映画よりも、そしてどんなゲームよりも、ドラクエ4のエンディングは、私に強烈な印象を残した。よって、少なくとも私にとっては、Skylim まで含め、今までプレイした中では、ドラクエ4が至高のRPGである。
なお、ファミコンというハードの性能と512KBという容量という制約によって「サイレント人形劇」という表現しかできなかったため、受け手・プレーヤーは、各自の脳内で場面の内容を空想で補完する必要、即ち「思考の映像化」を行う必要を常に迫られる。それが結果として、強い印象を与えることに繋がった、と解釈することもできる。
■本作は、人間の醜さを描ききった傑作
前作のドラクエ3は、
「魔王は絶望をすすり、憎しみをくらい、悲しみの涙でのどをうるおす」=大魔王ゾーマは、人間のネガティブな感情を糧にして、みずからの力を蓄えている?
※参考:「おおぞらはおまえのもの バラモスは15年近くもなにをしていたのか(2)」
という形而上の争い、人間と非人間との争いがメインテーマだった。アリアハンの世界侵略についての話は出てくるものの、それは序盤に薄っすらと、世界中で同じ言葉が通用することのエクスキューズ的に触れられるに過ぎず、ゲーム進行に直接絡んでくるわけではない。(※参考「おおぞらはおまえのもの なぜアリアハン王はバラモス退治に軍隊を使わないのか」)
それに対して本作は「人間同士の争いがテーマ」と言ってよい。第一、ラスボスのデスピサロですら人間臭い。(もともと、シナリオ担当の堀井雄二氏には、ピサロを仲間にする構想があったとのことなので、当然とも言えるが。)そして、醜い人間が寄り集まって作り上げた人間社会において、自分だけは純粋であろうとすることは許されない。実祖父のように世間を離れ、脱社会的に生きるか、アリーナ一行のように、歪んだ人間社会を御して利益を得るか、トルネコのようにその歪みから滴り落ちる果実を貪るか、マーニャのように、全てを呑み込んだ上で、あえて先のことを考えず、今に集中して享楽的に生きるか…。(※参考: 内田樹 著「下流志向」)何れにしても、世間の中にあって、自分ひとりが身ぎれいであろうとすることは不可能なのだ。前記したように、勇者もまた、己の手を血で真っ赤に染めている。この事を、(少なくとも1~3までは)初心者向けの牧歌的なRPGである「ドラゴンクエスト」という枠組みの中で、表現し切った事実には感服する。
■「勇者が勇者で居られる世界」を作るべきは我々
そもそも勇者にはなりたくなかった主人公に、人間社会の変革、人の意識の変容まで、求めるのは酷である。マスドラ他の支援(という名のコントロール)と、世間の期待を一身に浴びて、デスピサロを倒し世界を魔物の脅威から救ったこと。至高の存在であるマスドラ(つまり、ゲームの駒という役割)にNOを突きつけ、プレイヤーに強烈なメッセージを送ったこと。この2つの実績だけでも大したものだ。特に「2」については、並の人間どころか、並の物語の主人公にも、なかなか達成できない偉業である。
勇者が、ありのままで居られる世界
勇者が戦闘員であなく、シンシアと静かに暮らせる世界
を作るのは、勇者の仕事ではない。それは、ドラゴンクエスト4で遊んだ、我々プレイヤーが実現すべき課題である。
■余談
鳥山明の目の描き方から分かるように、 #ドラクエ もまた #カバール の影響下にある作品。
ドラ4の裏の意図は
⚫唯一神の絶対性、善悪、秩序、貞操観念の相対化(攻撃)
⚫我欲肯定と個人への無力感の植え付け
と思われるが、最後で勇者が「ゴイムを騙す役割」自体を拒否した格好になったのが痛快
— いいげる(ハッキング投稿の嫌がらせを受けています) (@igel_jp) May 12, 2020
ドラクエ3のメッセージも素晴らしい。
⚫「絶望をすすり、憎しみをくらい、悲しみの涙で喉を潤す」 #カバール 思想の存在を、アリアハン王(政治家)は己の統治に利用
⚫バレて頭を抱える
⚫カバール支配に屈せずに明るく生き抜くアレフガルドの民
⚫ゾーマを倒してもカバール思想は滅びぬという警告
— いいげる(ハッキング投稿の嫌がらせを受けています) (@igel_jp) May 12, 2020

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