1981年3月9日月曜日

[機器][PC] 日立,BASIC MASTER Level3(MB-6890)






[機器][ゲーム] 日立,BASIC MASTER Level3(MB-6890)
ベーシックマスターレベル3マシンスペック
名称:ベーシックマスターレベル3
型番:MB-6890
発売日:198?年?月?日
定価:??????円

虎菊
http://www3.wind.ne.jp/toragiku/kopa/bml3.htm
E-mail:jkubota@mo.okidata.co.jp








■はじまり
1981年7月。僕は稲城市立第三中学校に通う中学三年生だった。
ある日の体育の授業でバレーボールをやっていた。このとき,僕は右足首を骨折してしまった。そう,すべてはこの骨折から始まったのだ。
骨折で1ヶ月間の間だ,家でごろごろしていた。このとき,祖父にもらったお小遣いで,電波新聞社の「ラジオの製作」という雑誌を買った。
この本には,「別冊BasicMagazin」がおまけで付いていた。(今も電波新聞社からベーシックマガジンとして,発売されている。)この本を読んでパソコンって面白そうだなと思った。Basic入門の記事が書いてあって,大学ノートにプログラムを書いた。プログラムといってもprint文が中心のごく単純なものだった。パソコンが欲しくってたまらない毎日だった。
骨折が直って,毎週日曜日に新宿のマイコンショップ「ジンジン」に出かけた。(このマイコンショップは今はヨドバシカメラ西口店の近くにあるT・ZONEになっている。)
このショップにおいてあるPC8001のデモプログラムを勝手に止めては,自分の作ったプログラムを打ち込んだ。プログラムは全部自分の頭の中に入っていたので,ノートはほとんど見なかった。
こうして,僕はBasicをマスターし,ダビデの星のような多角形グラフィックを表示するプログラムを店のパソコンに勝手に入力して行ったのだった。
(もともと入っていたデモプログラムを改造したこともあった。破壊したことはもちろんない)
そしてこの冬,高校を受験した。
■マシン購入
1982年3月。都立府中西高等学校に合格した。
3月14日,秋葉原ラジオ会館の富士音響で日立BasicMasterJrを買う。
モニターとセットで13万円だった。最初に作ったプログラムはbasicのprint文で作った松田聖子の似顔絵表示プログラムだった。
さっそく1歳年下の妹に見せてみると「似てないー」と言われた。
■稲城サイエンスクラブ
中学,高校の友達と稲城サイエンスクラブというマイコンクラブを作った。市役所に登録して,市の公民館で活動した。隔週日曜日に公民館にマシンを持ち込み,いろんなソフトを作ったりした。このおかげで超時空要塞マクロスを僕はリアルタイムで見ていない。このマイコンクラブでは,決して違法コピーは行わなかったぞ。BasicMaster用のグラフィックエディタを作って,当時人気のガンダムのグラフィックを画いてみたりした。市の文化祭では,素数一覧表を印刷してみんなに配ったりしたなあ。
そのうち いろんなところから取材が来るようになった。覚えているだけで,朝日新聞,毎日新聞,東京新聞,TBSラジオ,三鷹ケーブルテレビ,日立の家電の専門雑誌,徳間書店テクノポリスがある。ほかにもあるかもしれない。
新聞に載った次の日学校に行くのがとっても楽しみだった。学校の友達が「すげーじゃん」とか言ってくれた。幸せな日々だったなあ。
■大投稿時代
BasicMasterJrではいろんなゲームを作っては、マイコン雑誌に投稿していた。
電波新聞社 BasicMagazin
正義の味方ゲーム
ガンダムア・バオアクーの戦い
スパークスティック
プリンセスアドベンチャー
徳間テクノポリス
スターウォーズゲーム
ガンダムシミュレーション[ガンダムVSグフ]
電波新聞月間マイコン誌
大脱走ゲーム
一本掲載されると5千円から3万円の原稿料があった。
毎回しっかり10%の源泉徴収があった。高校1年生にして、納税者だったわけだ。
■16歳のビジネスマン
高校一年生の秋ころ、ポーカーゲームを作って、富士音響に商品として置いてもらった。僕がもらったのは、買い取りで50000円だった。次回作グラフィックボーリングゲームは買い取ってもらえなかった。これは、ハンドアセンブルした苦労作だったのになあ。
他にも、NSC研究所から、「稲城の戦士」、「エイホーパズル」が商品化された。ところでこのソフトを売ってるところ見たことがないのだけれど、だれか買った人がいるのだろうか?
日立なんとか株式会社のプログラムコンテストにアドベンチャーゲーム「最終戦争」応募した。入選して賞金と3インチのフロッピーディスクドライブをもらった。
なんだかんだで、結構な収入になった。先生の月収より多かったかもしれない。
このころ学校の職員室で口をすべらせて「30万くらい収入があるんだ」と言ってしまい。なんとなく気まずい雰囲気になったのを覚えている。生物の授業でレポート作成の宿題があったのだけれど、忘れて来たS君に僕のレポートを写させてあげた。先生の評価は僕のがBでS君のレポートがAだった。なんだかすごくなっとくいかなかった。
3月には確定申告を行った。自分の職業欄になんて書いたら良いか迷った。税務署の人と相談して「小説家」と書いた。(と思う。)
学校の勉強はマイペースでやっていた。微分積分の試験で、中間試験は0点、期末試験100点をとった。友達からは「天と地を知る男」と呼ばれた。
英語の試験は致命的に悪かった。平均点は20点前後だっと思う。通信簿では10段階評価で2をもらったこともあった。グラマーは特にきらいだったな。
■エニックスコンテストに入選
エニックスの第二回プログラムコンテストに入賞した。高校2年のときだった。応募した作品は富士通FM7用のアドベンチャーゲーム「不思議な旅」だった。最初のタイトルは「ファンタジーアイランド」だったが、その後変更になった。
自分では入賞はしないかな。と、思っていたので、大感動の入賞だった。入賞賞金は10万円だった。このお金はすぐに新しいパソコンになってしまった。当時のパソコンは8色しか表示できないものだった。そんななかで、たくさんの色を表示するのは大変だったのを覚えている。
当時のエニックスは今ほどリッチではなくって、たまに社員の人におごってもらっても。立ち食い蕎麦屋だったりした。ぼくがごちそうになったのは「かけうどん」だった。以後、
「ザース」
「地球戦士ライーザ」
「銀河の三人」
の開発に携わった。これは、エニックスのPCゲームヒストリーのページに載っているのぞ。
「ザース」はログインの売り上げランキングで13位、「地球戦士ライーザ」は5位を記録した。「銀河の三人」はファミコンのソフトで任天堂から発売された。
それも、これも、みんな中学三年のときにバレーボールで足を骨折してから始まったことなのである。教訓「骨は折ってみるもんだ」 チャン チャン
■そして、今
その後、UNIX、制御系、業務アプリの作成も行い。フリーのプログラマーとなりました。なんか、仕事ありませんか?

すぎエッセイ
http://www.asahi-net.or.jp/~ur7t-sge/index.html








西村 健 さんの BASIC MASTER Level3 への思い入れ(投稿ありがとうございましたm(__)m)
べーシックマスターレベル3(以下 Level-3)は、私が初めて買ったパソコンでした。当然思い入れがあって、良いマシンだったと言ってやりたいのですが…、確かに良いところも多かったのですが、冷静になって見ると中途半端なところも多いマシンでした。
まず、グラフィックは解像度は 80x100, 160x100, 160x200, 320x200, 640x200のいずれかを選択可能でした。また、解像度が低い場合、その分ページを割り当てることができ、たとえば、160x100 の場合8ページ、320x200 の場合は2ページの切替えができました。これらのグラフィック機能は、発表当時としては最高水準でしたが、解像度はともかく、色については8ドット(1Byte)単位に8色と言う中途半端さでした。
当時は、とにかくメモリが高かったので、カラー用のメモリを少しでもケチりたいという気持は、判らなくもないのですが、ただ、すぐ後に出た FM-8 では、フルドットカラーサポートで、ずっと安い値段で発売できたのですから、何とかフルドットカラーサポートができなかったのでしょうか?
BASIC のグラフィックのサポート命令も、いま一つでした。もちろん、線を引くとか、点を打つとかの基本命令はあったものの、せっかく高解像度グラフィックを誇っていながら、それを生かすパターン表示の命令も、塗りつぶし命令もありませんでした。
特に、パターンの表示命令は、あるとないとで大違いです。BASIC で見栄えの良いゲームがつくれるかどうかのキーポイントですから。PUT@ 命令がないおかげで、せっかく BASIC プログラムのゲームなのに、移植できずに悔しい思いをしたユーザは多かったはずです。画面解像度を 160x100 に合わせると、ちょうど PC-8001 と互換の画面モードになるのに、全くもったいない話です。
画面モードで思い出したのですが、Level-3 は後から出た FM-8 とは違って、メインメモリ上にグラフィックメモリ領域がありました。プログラムメモリと共有していたのです。そのため、画面モードによってプログラムエリアの大きさが変るという特徴がありました。もちろん、画面解像度が細かくなれば、プログラムエリアは狭くなるのです。画面解像度を一番細かくした場合のプログラムエリアは、たったの 14186 Byte しか残っていませんでした。
しかも、この共有のおかげで Level-3 の BASIC には、CLEAR 命令でスタックの上限を変更した時、カラーアトリビュートレジスタが勝手に読み書きされて、スクリーンエディット中に文字化けしてしまうという、厄介なバグがありました。最初はなぜこんな現象が起こるのか、わけが判らず悩んでいましたが、要するにスタックの書き換えがグラフィックメモリ領域で行われるために、発生していたのです。
やはり、いろいろと使いにくかったのか、ソフトハウスなどからは、ゲームソフトは、あまりたくさん発売されていなかったように思います。そういう点では、プログラムをあまり作らず、パソコンを買ってゲームをして楽しむのが目的の、いわゆる LOAD RUNNER には受けが悪かったと思います。
でも、いろいろと欠点はあったものの、私的には「全然問題なし」でした。グラフィック命令が弱いのも、逆に自分で命令を強化する楽しみが増えたようなものです。FM-8 などと違って、グラフィックが直接メイン CPU からアクセスする事ができたので、いろいろと思いついたグラフィックプログラムを、簡単に試せて良かったと思います。
私は高速 LINE 命令や、PAINT サブルーチンや、APPLE-II にあったシェープテーブルもどきを作って遊んでいました。なにせ、他からあんまりソフトが出てこないマシンだったから、何を作っても唯一無二で、自己満足に浸れるといった部分では、非常に良かったわけです。PC-8001 なんかだと、何を作っても他にもっと良いのがあって、がっかりしますから。
ところで、何と言っても Level-3 の特徴は、ぱっと見てすぐ判るあの本体の大きさだと思います。さすが重厚長大をモットーとする日立らしいと感心したものです。なにせ、14インチのカラーディスプレイを上に載せて使うようにできていたぐらい巨大でした。そのかわり、拡張性はかなり優れていたと思います。なにせ、本体後部に拡張スロットが8個もあって、それとは別に、拡張メモリ用のソケットも2個あったから、何も使っていない状態では、本体内はスカスカでした(笑)。
私の場合、拡張メモリは自作のボードで 16KB を追加しました。拡張ポートの方には、漢字 ROM を追加しました。それでも、まだスカスカだったので、アナログジョイスティックを追加してやろうと、部品を買い集めてはみたものの、結局、完成せずじまいで、それが今でも心残りです。まだ家に部品が残っています。
その他にも、Level-3 では、8インチフロッピードライブのでかさも記憶に残っています。なんせ、小型の冷蔵庫ぐらいの大きさがありました。他社のドライブの2~3倍ぐらいの大きさで、どう考えても一般家庭に売る気があるとは思えませんでした。値段も非常に高かったと思います。どうも、日立はそれまで大型コンピュータ用に使われていたものを、そのまま持って来たんじゃないかと思います。
フロッピーと言えば、現在一般的に使われている 3.5 インチの規格が主流になる前に、各社がいろんな規格のコンパクトフロッピーを作っていました。日立は(ソニーもだったかな?)、現在の規格の 3.5 インチよりも一回り小さい3インチ規格を採用し、実際に Level-3 用のドライブが発売になりました。ところが、このドライブが全然小さくなくて、5.25 インチドライブとほとんど変わらない大きさだったのです。せっかく媒体のサイズが小さくなったのに、これでは売れるわけがありません。
これは聞いた話で、あまり信憑性はないのですが、日立では、フロッピードライブには、安全のために冷却ファンを付けなければいけない、という社内規格があって、それが災いしてドライブのサイズを小さく設計できなかったらしいです。たしかに、3インチドライブには不自然なファンが付いていました。噂によると、日立では一度決った規格の変更などには、管理職のハンコが20個以上必要なのだそうです。
日立のこういう小回りの悪さが、ビジネス業界では強くても、民生用のパソコンではいっこうにぱっとしなかった原因になっているような気がします
ビジネス向けと言えば、いま思い出したのですが、Level-3 には、ライトペンのサポートもありました。ライトペンは、マウスのようなポインティングデバイスの一種です。画面をこのライトペンでつつくと、その座標が入力されるのです。今はすっかり忘れられている存在ですが、20年ぐらい前は、先進的インターフェースとして結構もてはやされていました。Level-3 のカタログには、スーツを着たきれいなお姉さんが、Level-3 のモニタ画面を、ペンでつついている写真が載っていたのを思い出します。
最後に、キーボードは「しりんどりかるすてっぷすかるぷちゃあ」でした。これは何かと言うと、人間工学的に優れたキーボードレイアウトの事なのだそうです。最初に聞いた時は何の呪文かと思いました(笑)。

虎菊
http://www3.wind.ne.jp/toragiku/kopa/bml3.htm
E-mail:jkubota@mo.okidata.co.jp

0 件のコメント:

コメントを投稿