[ゲーム] moon
『moon』再論~いつか、ゲームに「ラブ」がやどる日まで~
中川大地
2000.1.31追補
■はじめに~ふたつの『moon』像を結びつけるために~
それほど系統だて、数を追ってみてきたわけではないし、さらには資料をおさえての実証ではなく、あやふやな記憶によるイイカゲンな印象であることを、どのみち話を組み立てるための便宜以上のつもりがないからという理由であらかじめ断っておきますが。
『moon』というタイトルが97年に発売されてから今日にいたるまで、その評価にはおおむね二種類の傾向があるような気がしていました。
ひとつは、たとえば『ゲーム批評』に掲載されたものがそうだったかと思いますが、独特のグラフィック・デザインや様々なジャンルのアーティストたちのセンス良い楽曲をゲーム中のBGMとして自由にかけかえられるMoonDisk(MD)のシステムなどの視聴覚演出の秀逸さや、キャラクター造形やイベント演出のほのぼのした味わいを讃える、「おしゃれでポップな小品」ということを主軸にした評価。この文脈で、『MOTHER』シリーズに比肩させているものも目にしたことがあります。
もうひとつは、「もう勇者しない」というプロモーション・コピーにあらわれているような既存ロープレへの挑発的パロディとしての側面や、メタフィクション的とされるシナリオの結末部分を重視し、複雑なおももちで「ロープレないしゲームそのものへのアンチテーゼ」とか「過激な実験作」としての性格を云々するタイプのもの。
それぞれ、かならずしも単線的に結びつけることのできる特徴ではないように思えたので、評判を聞く限りでは、『moon』が実際のところ、何をめざしたどんないでたちのゲームなのかのイメージをむすぶのが、少々難儀なところがありました。
両方の評判を折衷し、小粋なスタイルとして自己言及や自虐をまとったアヴァン・ポップ芸術調の鼻持ちならない作品であるのか、はたまた描写と主張とが矛盾した、頭でっかちの未成熟なタイトルだったと捉えるべきなのか。
今更に『moon』というタイトルを語りなおすにあたって、さしあたり、ふたつの方向へと分裂してしまったかにみえるこの作品の見方をひとつの視座によって有機的に結びつけるという課題を、この稿のターゲットに据えてみようかと思います。
なぜならば、演出とか美術とかシナリオとかゲーム性とかいった言葉で切りわけられるゲームの諸側面は、互いにわかちがたく結びついてひとりひとりのプレイヤーのトータルな体験を形成するものであるということを、自身のゲーム体験を通した直観によって僕は信じていて、そうした個々のゲーム体験のもつトータリティをどうにかして把捉しようとする努力を放棄しては、ゲームをゲーム以外の何物でもないものとして語ることのできる自律的な批評など、いつまでたっても生まれえないと思うからです。
そんな課題を達成するため、『moon』を実際にプレイしたときの体験の整序に即し、ひとつひとつのプレイ過程がもつ意味を以下、ベタに順を追って検討してこうかと思います。
これはあのハイタッチな『moon』をあつかう手つきとしては、あまりに無粋な力技です。残念ながら、それぞれのパーツ毎の印象批評相互の関係のとっちらかりをねじ伏せて、てっとり早く作品構造の見取り図をつかむためのよりベターな方法を、僕はほかに思いつくことができませんでした。
そうでもしなければこの作品を新しく見直すことをできなくせしめたこれまでの語りたちの不明を、不遜ながらちょっとだけ呪ってみてもいいかという気も、一方ではしてたりするのですが。
■「Fake MOON」がみせるもの~『moon』の立ち位置と批評意識の矛先~
ゲームスタート直後、淡いクレパス画調の絵で描かれる少年とテレビ、それに「ゲームステーション」。ほかに余計な情報のない無色暗闇バックや、いま僕らがコントローラーを握っているプレイステーションをそのままひきうつした「ゲーステ」の造形は、この少年の肉体のすまう「現実」をプレイヤーである僕らの生きる現実と重ねあわせて見立てることが、これから展開される『moon』をプレイするうえでの約束事であると教えてくれます。
視点が先に描かれた少年のそれと一致し、我々が見るモニタの画面に少年の「現実」のテレビのフレームがクローズアップされ、「ゲーステ」のゲーム画面が映し出される次のショット。このゲームが「Fake MOON」。
平仮名で主人公の「勇者」に名前をつけ、王宮の謁見の間で国王に冒険へと送り出されます。白く縁取られた青バックのウィンドウに流れるメッセージ文はすべて平仮名。城下町では人々の胡散臭いほどの勇者への期待が聞かれ、酒場ではタンスを調べて何やらのアイテムを持ち出すことがこれみよがしに奨励され、突如エンカウントして「くるった犬」との主観視点での戦闘に移る。以後、ラストダンジョンでの「ドラゴン」との戦闘にいたるまで、四つの章に過程を端折りながら、「勇者の冒険」のプレイをなぞります。
そう、誰もが指摘するように、これは一定のゲーム経験をもつプレイヤーたちの抱く、いわゆるRPGないしはロープレとよばれるタイプのゲームのイメージを想定し、それを皮肉な見方で戯画化したものにほかなりません。このことは、『moon』を「アンチRPG」であるとする評の、ひとつの根拠となるものでしょう。
しかし、どうして僕らはこの「Fake MOON」を「RPGのパロ」だと感じたのか。逆に問えば、「Fake MOON」が喚起した我々のなかの「RPG」とは、いかなるものであったのか。『moon』の意味づけに「RPG」という一般化された言葉を貼りつけて思考を終わらせる前に、その具体的な内実について、もうすこしだけ詳細な検討をくわえる必要があると思うのです。
もちろん、いまさら「RPGとはロールプレイングゲームの略でそもそも…」というレベルの“原理的”解析を云々するのは、無意味な野暮にきまっています。けれども、僕らがその画面をみてただちに「RPG」というコトバを想起したところの「Fake MOON」に込められている実際の参照先のゲームタイトルが、実はただのふたつでしかないことは、誰もが気のついたことなのではないでしょうか。
それはコンピュータRPGの起源とされる『ROGUE』でも、多くのプレイヤーの心に尋常ならぬ名作として残る『Wizardry』でも『Ultima』でもありません。国産RPGの金字塔とされる『ブラックオニキス』でも『ハイドライド』でも『ザナドゥ』でもなければ、はじめてRPGらしい息吹を国民機ファミコンに吹き入れた『ドルアーガの塔』や『ゼルダの伝説』でもない。
そうです。80年代後半のファミコンブームの安定期に第一作が世にあらわれ、RPGの代名詞として90年代初頭のスーパーファミコン全盛期にかけて連綿とシリーズ化されるにいたった、『ドラゴン・クエスト』と『ファイナル・ファンタジー』の二大シリーズ以外の何らのイメージも、「Fake MOON」に見てとることはできません。
「勇者」のモチーフや平仮名名、主観視点での戦闘などはドラクエから。オープニングの絵、もってまわった設定とストーリーの解説テキスト、白く縁取られた青いウィンドウ、セーブ画面を模した画面デザインや飛空挺などが、FF。
これらの意匠的特徴が、シリーズを重ねる中で両タイトルのアイデンティティとして我々の意識に焼きつき、なおかつドラクエとFFの名を挙げれば、ほとんどすっかりRPGなるもののイメージが覆いきれてしまうほどの両シリーズの商業的成功という前提があって、はじめて「Fake MOON」を「RPGのパロディ」として見立てる我々の認識が成立するわけです。
また、「Fake MOON」の視聴覚的デザインが、プレイステーションというハード本来の性能からすると、グラフィックの描画方法やBGMの音数などを故意に制限することで過去のコンシューマ・ゲーム機のハード条件を模し、我々がかつて通ったゲーム体験の記憶を喚起しようとしていることも、見過ごさずに指摘したいところです。すなわち、「Fake MOON」の手ざわりは、スーファミ初期のタイトルがもっていた特徴と、ほぼ重なり合っている。
プリミティブで記号っぽかったファミコン時代の絵よりも色数や解像度が増し、キャラクタはよりイラストっぽくなり漫画のようなアップ絵もそれなりに見れるものになったけれど、間違っても「映画のような」映像表現は存在せず、一枚絵ではなく未だブロック・パターンの組みあわせで描かれたマップを一コマ単位で動き、サウンド面のハード制約がかなり改善されながらファミコンPSG音源での楽曲づくりの習慣から抜け出せずにいた時代(註1)。
そうしたゲーム環境の再現が僕らに喚起するのは、たとえばファミコンブームの熱気が冷めやらぬなか、はじめてドラクエの第一作に触れたときの古き良き衝撃、というようなものでない気がします。むしろ、ドラクエやFFがシリーズを重ねることで、個々の作品の出来とは別の次元でみずみずしさを失い、スーファミがあたりまえのように新しい国民機になるなかで、ゲームをするという体験が僕らのなかで陳腐化しはじめた時代の倦怠感をこそ、思い起こさせるものがあったのではないでしょうか。
したがって「Fake MOON」がいったい何のパロディなのかといえば、そんな「90年代初頭あたりに確立され、現在にひきつづく僕らとゲーム(特にロープレ)との、どちらかというとネガティブな関わり方そのもの」に、その批評意識の矛先が向けられているのだと、僕は考えてみることにしました。
どうしてか。論証のために重箱の隅をつつけば、プレステを模したはずの「ゲーステ」でスーファミ風のゲームがなされているのは考えてみれば妙な話です。「いま、ここ」でゲームをプレイしているプレイヤー自身を少年と同一視させるためにこその「ゲーステ」という仕掛けであるのに、何故ひと時代前のゲームを模すのでしょう。
それは制作者が俎上にのせようとしているものが、決して「普遍化された形式としてのRPGの仕組み」だとか「表現物としての個々のゲームタイトル」などではなく、「プレイヤーたる僕らが内面化しているロープレ体験のありかたそのもの」以外の何物でもないために、それをもっとも効果的にディフォルメしうる意匠として、スーファミ初期の時代の記憶に依ったとみる以外には、整合性ある解釈を立てにくいと思います。
このように、ゲームの表現を僕らの体験にひきよせて考えるための手がかりとしうるところにこそ、個々のゲームタイトルがよってたつ「歴史」的前提を評価することの、ひとつの必要性があるのではないでしょうか。そうした認識を欠いては、たとえば「『moon』は既存大作RPGシリーズへのアンチテーゼである」などという、しょせんは他人事でしかない、送り手側の作家論じみたところへ関心の所在を追いやってしまう大雑把な物言いのくだらなさに気がつくことが、それだけ難しくなるのです。
そして、こと『moon』については、その結末がゲームをプレイするということをめぐる明確なメッセージ性を有していることを特徴としています。そのメッセージを、プレイヤーにとってより整合性のたかいゆたかなものとして受け取るためにも、「Fake MOON」がパロディの矛先とした90年代初頭のゲーム状況の時代性についての感触があることは、不可欠とはいわぬまでも、ひとつの感性的なベースとなるのです。
この点については、のちに詳しく検討いたします。
■「落ちた少年の物語」の視聴覚演出の指向性とゲームとしての骨格~『moon』はアンチテーゼ?
「Fake MOON」のラスボス戦は結末を迎えないまま、母親の「テレビゲームなんてやめて、早く寝なさい」という音声で中断され、少年はいちど彼の「現実」に引き戻されます。そしてゲーステの前を離れて床に就こうとしたとき、スイッチを切ったはずのテレビ画面がざわめき、少年はそこに吸い込まれる。
次のショットで半透明になった少年のキャラクタが空を落ち、先の「Fake MOON」とはうって変わったプレステ本来のハード性能で(という表現が技術的に正確でなければ、「最近のゲームっぽく」)描かれた彩りゆたかな世界に着地します。画面に展開されるのは、個々の好き嫌いはともかく、間違ってもひとにネガティブな感性反応を起こさせるような企図の見出すことのできない、丹念にデザインされた美術と世界の住人たち。
ここでプレイヤーが納得させられた約束事は、いま目にしている画面が、「Fake MOON」に対する「本物の」ムーンワールドであるということ。
「リアルとフェイクが交差する」という宣伝コピーが示すように、スーファミ時代に比して格段に実在感のある世界を表現でき、さらにスーファミ的な手ざわりを模した「Fake MOON」との一目瞭然の描き分けを可能とするプレイステーションというプラットフォーム的前提があってはじめて成立するところに、『moon』というタイトルの歴史的立ち位置が存在するわけです。
キャラクターたちとの会話のテキストが、独自にデザインされた音声言語で喋る声に付せられる字幕として処理されているのも、オリジナルな実在感を指向する演出のひとつに数えられるものだと思います。
会話の演出へのこだわりという点で想起されるのが、すべてのテキストの平仮名による処理を、ハード性能の制約がなくなってからも自覚的に選択し続けた『MOTHER2』。かつてハードの性能が強いた偶然の状況に過ぎなかったはずの平仮名テキストを、ゲーム体験のプリミティブな力を構成する本質のひとつととらえ、こだわり続けた糸井重里の感性は、今も多くのプレイヤーの信頼を集めています。
『moon』が採った、字幕による意味伝達と既存の言語系で分節不能な音声とを衝突させる方法は、そうした糸井の直観と底を通ずるものでありましょう。彼らの見出した演出的直観をあえて言語化するなら、言語中枢の処理を受ける以前の、聴覚刺激としてのことばの豊穣さを見過ごさなかったということなのだと思います。こんなことを一例として、『moon』と『MOTHER』シリーズに共通して指摘される「RPGらしからぬ演出の独創性」は、単に漠然としたモチーフやテーマ性の類似ということではなしに、具体的な表現づくりのひとつひとつの過程に、実は非常に理にかなったものの見方の丁寧さが、OSのように貫かれていることに起因しているのではないかと僕なんかは考えるのです。余談ですが。
ともかく、ひとつひとつ間違いなく緻密につくりこまれた基本的な視聴覚演出のベースに下支えされて、『moon』の本筋たる「落ちた少年の物語」が始まります
そのままではこの世界の人々には姿が見えず、存在を認めてもらえない少年は、いくつかの誘導で盲のおばあちゃんの家にたどりつき、「Fake MOON」の勇者につけた名前の片仮名表記で呼ばれる彼女の亡くなったはずの孫と誤認され、この世界の服を得ることでとりあえずの姿を獲得します。ここまでの過程で、月の光を奪った悪い竜を退治すべく王宮からものものしい鎧と剣に身を固めた勇者が送り出され、さっそくモンスターと勘違いして犬を追いかけ回したり、民家の家具を物色したりの騒動で町の人々の顰蹙を買っていることが描かれます。
プレイヤーはここで、この勇者の所業が「Fake MOON」で操作した「勇者」の行動と対応するものであり、「Fake MOON」が文字どおりこのムーンワールドの出来事を、勇者に都合のよい“偽”の視点で歪めて描いたものであり、実際のところは画面上で「リアルに」展開されているような、周囲にとって迷惑千万なものであったという仕掛けに気づくわけです。こののちも、勇者のとる行動は、「Fake MOON」の展開と実に些細な部分まで対応をみせ、「落ちた少年の物語」のなかで皮肉かつユーモラスなその「真相」が曝露されていきます。
さて、少年はのちに彼をこのムーンワールドに召還した月世界の存在であると判明する、夢で出会う女王とその従者ムツジローから、勇者がモンスターとして殺害した51匹の罪なき動物たちの魂をキャッチし救済すること、および地上世界の住人たちとさまざまなかたちで関わることで「ラブ」を収集するよう示唆されます。少年がこの世界で連続して活動できる時間は限られており、そのアクションリミットが切れる前にベッドで眠り休息をとらなければ命をなくしてしまうのですが、一定の「ラブ」を集めると少年の「ラブレベル」が上昇し、活動限界時間が長くなるのです。
このような物語上の動機づけと重ね合わせられて、ようやく「落ちた少年の物語」のゲームとしての骨格が明らかになりました。すなわち、昼夜と曜日のルーチンサイクルでタイムテーブルの進行する世界において、アクションリミット分の時間制限を受けながら、動物たちのソウルキャッチと人々にまつわる「ラブ」の発見・獲得という趣向に見立てられたイベントを探しだし、謎(パズル)解きをおこなうこと。この構造が終局まで貫かれ、「落ちた少年の物語」のストーリーを形成します。
この時点で、「『moon』はRPGへのアンチテーゼである」という評価の仕方について、これを「『moon』がこれまでみられたRPGという範疇に批判的意識を持ち、そこにおさまらない新しいゲーム性を実現した、ないし目指した」と解する場合の議論が可能になります。
まず、実際のゲームに照らし合わせるかぎり、明らかにこの見方は不当です。操作キャラクターに与えられた行動制限を何らかのゲーム課題(戦闘とかアイテム収集とかパズル解きとか)をこなすことによって徐々に解除する(成長する)過程をストーリーと絡めて進行させるという性質は、RPGとカテゴライズされうるあらゆるコンピュータゲームに共通する最大公約数的構造の表現として大きな問題はないと思いますが、先に要約した『moon』のゲーム性は、この構造を一切逸脱するものではありません。
もしこの論点を生きながらえさせようとする場合、ロープレの本質についての定義をより狭めて限定する以外にありませんが(たとえば成長のための課題を“戦闘”に限定するとか、行動制限の性質は定量化されたヒットポイントでないと駄目だとか)、そのような試みのばかばかしさは指摘するまでもありません。
また、制作者自身がそうした逸脱を目指す意図のなかったことを証言するインタビュー記事も存在する(註2)ことから、「『moon』はアンチRPGを目指したが失敗した」も単なる事実誤認といえます。
では、「アンチRPGなシステムを目指すべきだった、ないし目指して欲しかったのにそれは実現されず、したがって失敗」式の議論についてはどうでしょうか。
こう展開するにいたり、ようやくまともな検討の余地が生まれます。これは『moon』という作品総体のなかでのシステムないしゲーム性の意義づけに関する話題であり、以上のようなゲーム構造単体の議論からでは結論を出すことができません。
おそらく、「目指すべき」の主張は、次のふたつの解釈を前提に成立していると思われます。
(1)「落ちた少年の物語」は、結局のところ「暴力的な勇者へのアンチテーゼとしての平和主義・博愛主義のアジテーション」である
(2)「Fake MOON」の存在意義は、上記の「落ちた少年の物語」の読み解きの正当性を際だたせるものとしての「勇者なシナリオ」を揶揄することである
そして、『moon』の販促コピーが「もう勇者しない」であったことなども補完材料としながら、このふたつの前提より、
(3)『moon』の作品総体のテーマは、いわゆるRPGの表面的な謂としての「勇者なシナリオ」の否定ないし揶揄以上のものではない
と、さらなる解釈を展開します。
この地点からゲームとしての「落ちた少年の物語」がもたらしたプレイ体験を振り返ると、それは世にある多くの「勇者なシナリオ」がそうであるところのロープレの体験と、結局同じようなものでしかなかった。つまり、シナリオとプレイ体験とがちぐはぐであるがゆえに詰めが甘く、(3)の「テーマ」は、中途半端で不徹底と評価すべき。
したがって、各々のパーツが協同して感動を高めあうよりトータルな作品であるためには、不徹底の元凶であるゲーム性の部分において、強力にRPGのオルターナティブを目指すべきだった。
というのが、この主張の論理でありましょう。
しかし、僕はこの(1)~(3)すべての解釈に反対ですので、この主張は斥けられるべきだと思います。
このうち、(2)についてはすでに詳論し、「90年代初頭的な『ロープレ体験の陳腐化』を想起させること」という対論をなかば呈示しており、あとは「落ちた少年の物語」との関係による意義づけをのみ残すだけです。
ですので、次は「落ちた少年の物語」のゲーム性とその見立て演出とがどう絡んでプレイヤーの体験を構成したのかを追いながら、(1)の解釈の反駁に繋げたいと思います。しかるのち、おのずと(3)の無効性が明らかになるという寸法です。
■「落ちた少年の物語」のゲームに秘められた「歴史」~ゲームはなにを得、なにを失ったのか~
外堀から埋めはじめてみたいと思います。そういえばRPGとしての「落ちた少年の物語」は、過去のいくつかのタイトルにおぼえた感覚を、思いおこさせてくれるところがありました。
たとえばアクション・リミットによる行動範囲の制約は、かつて『Ultima』シリーズでFOODのルールが同様のゲーム上の効果をもっていたことを思い出させます(註3)。饒舌なテキストによるつよいシナリオ誘導がなく、世界をあてどもなく歩くなかで“謎”を探し、キャラクタ操作とアイテム選択の素朴な操作で解くべきパズルを見出していくあの頼りなげな味わいは、『ゼルダの伝説』とか『ワルキューレの冒険』。
どちらかといえば、「RPG」というゲーム様式のイメージがあまり明確なかたちで存在せず、かなりイイカゲンな言葉だった時代の息吹。というより、80年代半ばくらいに放課後をファミコンとともに過ごした子供たちは、それらのゲームを「RPG」なんていう耳慣れないコトバで認識していたのではなかったはずです。
むしろ僕らの気持ちの実際は、『マリオブラザーズ』や『マッピー』にアスレチック広場を、『グーニーズ』や『スペランカー』に秘境探検を、そして『チャレンジャー』や『スーパーマリオブラザーズ』(註4)にさらに広々した冒険世界を見出してきた「遊び世界」の拡張のベクトルの延長線上に、それら「アクションRPG」のもつ“世界の謎”との悠々とした戯れ方と、出会っていたのではなかったでしょうか。
逆に、そのころにRPGという言葉を意識していたようなのは、たまさか『Wizardry』とか『Ultima』とか『ザナドゥ』に触れることのできた一部のパソコン持ちに過ぎなかったでしょう。そんな恵まれた一人だった僕なんかの意識において、『指輪物語』~『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の舶来ハイファンタジーのゲーム化の直接的な刻印をはっきり見てとることのできる正統的パソコンRPGは、ファミコンみたいなコドモの遊びと一線を画した、ある種の「高踏教養」であったわけです。ストイックなインターフェースと、緻密なパラメータにもとづく戦闘の戦略性、横文字で書かれたアイテムやモンスターなどの道具立てのフェティッシュさなどにみられる何やら秘儀めいたゲーム体験が、そんな意識のあり方を担保していました。
「RPG」というゲームスタイルの原体験を振り返るとき、僕のなかにはそんな、相異なるふたつの「RPG体験」があったような気がするのです。「遊び世界」と近寄りがたいコア・カルチャーと。
ドラクエやFFは、この後者の息吹を前者にそそぎ込むことによって、僕らとゲームとの関係を、それまでとはまた違ったものにせしめたのでした。それは、「RPG」が「ロープレ」になってゆく時代の幕開けであったとも、言い換えられるでしょう。
この変化のなかで、「ロープレ」に切っても切り離せない属性として産み落とされた歴史的産物が、言葉によって明晰にゲーム過程のなかで語られる「シナリオ」です(註5)。これにより、それまではRPGのゲーム性がもたらすプリミティブな感性反応のパターンを、言語処理系の網目にすくいあげて能動的に秩序化する以外の回路のなかったプレイヤーの内的な<物語>(註6)形成の過程に、ダイレクトに言語情報を投ずる回路が重層的に加わり、高度に秩序化された<物語>を構築することが容易に、しかも低い能動性の水準で(ほとんど意識をはたらかすことがなくとも)、実現できるようになりました。
そのようにして、言語性のたかいシナリオ進行と数値化されたパラメータやコマンド選択による戦闘秩序とが、「ロープレ」らしさの車の両輪と認められて90年代にかけて洗練されていくにつれ、かつての「遊び世界」系のアクションRPGとコアRPGとが持っていたそれ以外の“雑味”は、切り捨てられたりRPGジャンルの周縁に追いやられたりといった運命を、たどってきたのではないかと思うのです。
僕が「落ちた少年の物語」のゲーム体験に与えたいと思っている意味づけの輪郭が、そろそろ見えはじめてきたのではないでしょうか。それは、これまでみたような「ロープレ」化以前と以後の我々とゲームとの関わり方の変化についての認識があって、はじめて空虚なレッテルとして以上の理解がえられる性質のものだと考えたので、かくもの回り道をさせていただきました。
つまり、RPGという言葉に自縄自縛される以前のRPG、とりわけファミコンブームのメインストリームたる冒険アクションゲームの最終型としての「遊び世界」系アクションRPG体験がもっていた、非言語性の見立てパズルを能動的に、しかも反射神経的ではなく、悠々と発見して取り組む楽しさの息吹(註7)。
プレイヤーにとってこのムーンワールドでの体験を、ビビッドで実在感あるゆたかなものとして記憶されうるものに仕立てあげるべく、せめて最低限、80年代半ばの「ゲームの面白さ」の水準を実現しようという真正な意志。
この言葉にはすこしの客観性もありません。直接実証できる方法もわからない。けれども、「ああ、そういうことか」と納得してもらえる感性の少なからぬを信じます(註8)。
ただし、これはやはり骨格としてのゲーム性がもたらす、体験の輪郭であり、下地塗りにすぎません。それを具体個別の見立てがどう充填し、上塗りをしたかをみて、はじめて個々のタイトルのゲーム体験をトータルに<物語>化できるのではないかと思います。
したがって「落ちた少年の物語」についての前節(1)の<物語>についての反駁も、その検討が済んだのち、おのずから完了することになるわけです。
■「落ちた少年の物語」のゲームの見立て演出~『moon』だけの「ラブ」とはなにか~
見立て演出の検討とはどういうことかというと、「落ちた少年の物語」のひとつひとつのパズル解きが、具体的にどういうイベントだったかを評価し、それが僕らのこころに喚起してくれた「てつがく」を見えるようにすることです。
「落ちた少年の物語」のパズル解きの見立て演出の最大の特徴は、言うまでもなく、きわめて丹念に設計されたムーンワールドの住人が、昼夜曜日の繰り返しの日常をいとなむその「生きざま」に寄り添うことで、それが何の見立てであるのか(インテリゲンチャのヨシダでさえ)誰にも答えられない「ラブ」という不思議な定量パラメータを収集することにあります。動物たちのソウルキャッチは、それぞれが人とは別の律でこの世に存在(粘土細工でつくった造形を取り込むというかたちで、月世界の生き物たちはデザイン的に差別化されている)していた、「生きざま」の記憶を読みとることで捕まえるという、人々の「ラブ」ゲットと共通性と異質性をもつ行為です。あれもラブ、これもラブ、そして動物たちのタマシイがラブ。
見立ての意味性の強弱を比較すれば、意味の世界に生きる人間たる少年から相対的に遠いところにある動物たちの「生きざま」を、動物図鑑アニマルファイルをガイドに解読する作業は、人々に付き合う際のそれよりも、無機物を相手どった純然たるパズル解きに近い位置にあります。人間科学よりも自然科学の方が没価値性がたかいのと同じ道理。したがって前節でみた、パズル解きのゲーム性による下地塗りが、トータルな体験のなかで比較的むきだしの色合いを出します。
よって、見立て演出がもたらす意味づけの上塗りの性質は、もっぱら人々にまつわる「ラブ」ゲットのイベントを対象に考えてみることにします。
全体を概観しましょう。
ムーンワールドの住人たちはすべて違った顔と「生きざま」をもっており、各人について必ずひとつないし複数の「ラブ」イベントが用意されています。各々のイベントは基本的に独立ながら、たがいに絡み合っているものも少なくありません。
特につよい超越的な意味性をもたない、平和な日常のなかでの各人の「生きざま」における小事件をあつかったものが大半ながら、勇者の竜退治の大義名分である「月の光の喪失」という世界の異変についての「大きな物語」に絡むものも一応存在しています。ヘイガー博士の月探査ロケットのパーツ集めに関わる一連のイベントは少年の旅を直接終局に導くものであるのと、「Fake MOON」でプレイヤーの見た場面と正確に対応している勇者絡みの諸騒動、少年の出自を知り「現実」への帰還のための方策として「光の扉」を開けることを示唆する狂言回しフローレンスとの出会い、およびヨシダに付き合って世界観と問題意識を学ぶ夜中の大学のイベントは、少年をエンディングに向けて動機づけるという意味での「本筋」とみなすこともできるでしょう。
ただしこうした目的性があまり饒舌なテキストで語られたり、少年を強烈に促したりするような演出はなく、あくまで他のイベントと等価なかたちで断片的に呈示されるのみであり、プレイ中ほとんどの瞬間は「本筋」への目的性などを意識せず、偶発的ないし気まぐれに個々の登場人物たちと関わるはずです(ついでにいえば、かけかえ可能なMDで、各場面の物語的意味づけを役割とする固定的なBGMを排したのも、それと通底した演出戦略でしょう)。そういう前提で「ラブ」収集がおこなわれます。
もちろんひとつひとつの「ラブ」ゲットをすべてトレースするわけにはいきませんので、各々の「ラブ」ゲットイベントの見立てバリエーションを、次のように三類型7種類に分類整理して計上してみました。
第一類型は、少年が積極的に一肌脱ぐことによりキャラクターたちの感謝の「ラブ」を受け取るタイプのものです。合計20件で、「落ちた少年の物語」の最大類型をなします。この類型は、多くのRPGやAVGでよく目にする、メジャーかつわかりやすいタイプのイベントのつくり方だといえるでしょう。
第二類型は、特に少年が何か積極的なアクションを起こさずに得られるタイプの「ラブ」を分けました。“みまもり型”とは、相手が相手の「生きざま」の文脈のなかで何かを得たり、人の知らない秘密のすがたをみせたりする場面に立ち会うことで手にする「ラブ」。“はげまし型”は、特につよい援助行動をするわけではないが、相手が自力で悩みを克服したり自分を変えたりする契機に少年がなったときの「ラブ」。一風変わったのが“つきあい型”で、特にコミュニケーションらしいコミュニケーションが成立するわけでも、普通の意味で相手がポジティブな変化をするわけではないが、愚痴を聞いたり相手の手前勝手な自己納得に付き合ったりすることで得られる「ラブ」です。合計15件と、少なくありません。
第三類型は、人間相手や無機物を相手に勝負して、勝ったときに得られる相手との友情や勝利の達成感という意味での「ラブ」です。計8件あります。これも第一類型同様、他のRPGやAVGで一般的なイベントのあり方でしょう。
以上みてみると、第二類型のイベントのあり方が、他のゲームタイトルではあまり目にすることのない『moon』独特のきわだってユニークなものであることに気づかされます。システム的な背景としては、昼夜曜日のタイムテーブルに沿った各キャラクターのルーチン行動パターンが存在し、「大きな物語」に拘束されないかたちで少年がその「生きざま」に都合をあわせて行動するというプレイスタイルがあってはじめて実現するタイプのイベントだからです。
このことは、世界が決して特権的な存在としてのプレイヤーのために準備されているのではなく、自らが歩み寄らなければ見えない世界があるのだというムーンワールドのゆたかな実在感をまたしても僕らに与えるのと同時に、各々のキャラクター造形とあいまってこの作品が抱く人間についての「てつがく」をも垣間みせてくれるものです。
すなわち、決して安易に立ち入り、肩代わりしたりわかった気になったりすることのできない、「他人の人生」というものの陰影。あるいは、もっと身も蓋もないコミュニケーション不能な他者の存在。
こうした人間観は、これまでゲームがあまり積極的に描いてはこなかったものだと思います。そんな人々との距離感のオモシロさを、このゲームは「ラブ」と呼んだ。よくいわれる悪意とか毒気とかいう感想の持ち方は、すこしばかりプアではないでしょうか。
そんな「てつがく」に貫かれたこの世界の住人たちの造形のもつ陰影は、個々の好き嫌いを越えて、ただごとでない水準にあると僕は思います。
毎日クッキーを焼き続ける、盲目のおばあちゃん。「おばあちゃんは病気がよくなって嬉しいんだよ」と少年を孫と信じて語りかけるすがたのやりきれない寂しさ。
週に三日、ナイトバーで酒をあおる門兵のイビリー。別れた女房が連れた息子との「約束」をはたすべく、毎週太陽の日の練習で、念願かなって飛行機は夕暮れの空を舞う。ただしその「約束」は、今のところまだ、彼の心の中だけのもの。
そのナイトバーの女主人ワンダ。カウンターの中に拘束されたフリーキーな体躯と、彷徨人フローレンスと彼とのあいだの一人娘フローラへの想いとのギャップが醸しだす、えもいわれぬ哀感。
トンガリMD屋店員バーン。半端に途切れるギターサウンドと忙しくギターを隠す恥じらいの仕草の、たまらない愛らしいさ。示されてみるとイカニモな類型を切りだす、制作者のまなざしの確かさ。
80年代以降の露悪的ホンネ主義の結実、エコ三兄弟。イッてしまった長兄長女と、戸惑いを捨てられない純朴な末弟という設定の芸の細かさ。
個人的ヒットをつかれた、「バリバリ島」で「電波サル」に「ギャムラン」を習う、次男坊☆スマの傑作エピソード(註9)。いじけっぽい自意識では、あの島のコミュニティ楽器は弾けないよ。
90年代っぽいクラブノリが直接ひきいれられたMDミュージックにのせて描かれる一筋縄ではいかないキャラたちへのまなざしは、少々突き放した感じがするかもしれません。けれどもそれはイマドキの感覚によりかかった不人情ではなく、この時代の表現にはどうしたって欠かせない「照れ隠し」にほかならないのだと、僕は感じます(註10)。なんなら、戦後民主主義的タテマエのオルターナティブが未だみつからないなかでの最低限のバランス感覚とかいう大文字に言い換えてもいい。
そうした根っこの部分の素直さを信じられるのは、前節でみたような「ゲーム」としての下地が、僕らの体験の嘘のなさを担保してくれているからなのでしょう。もはや何も信じられなくなった我々が、なぜかひとりゲームだけは信じている。そういう物言いの成り立つ現実は、確かにあるような気がするのです。
なんにせよ、前々節の仮定(1)。「落ちた少年の物語」は浅薄な平和主義・博愛主義のアジテーションである、が成り立つ余地は、すくなくとも僕の体験の中にはありません。のみならず、多くの人が無理なく受け止めるであろう素朴な印象を死なせてしまう有害な言葉の使い方だと思います。
だから仮定(3)、作品総体としての『moon』の価値を、「失敗したアンチRPG実験である」と貶める見方も、ここでは棄却されます。第一、この見方はエンディングの整合性ある解釈を諦め、その失敗を作品の不出来に転嫁する、批評としての完成度の低いものでした。個人的に、作品の失敗を指摘するならするで、その失敗の断面から読者に何らかの有効な視座や価値、あるいは興を再構成して提供するまでの心構えをもたないものは、自身も表現物であるにほかならない批評としては未成熟なのだという価値観がもっと当たり前にならなければいけないと思います。その前提がない意見は、せいぜいあくまで自立した批評にサンプルとして参照されるだけの「材料」としての位置づけをしかもちえないものです。
次節では、ゲームを楽しむことに根ざした多くの意見や感想たちに批評たるを断念させた、結末部分の検討に入ります。我々はなぜあの選択をしなければならなかったのか。その必然性を、あくまで作品内の論理から探ることが、この稿の最大の目的なのです。
■そして終局へ~「勇者の竜退治」と「落ちた少年の物語」、リアルの世界とフェイクの世界~
ゲーム中、明示的に描かれるわけではありませんが、『moon』の物語の「本筋」は、いくつかのアイテムを人に見せたときの反応やポイントを調べたりして得ることのできる複数の情報の断片を再構成することによって、プレイヤーが見立てる<物語>として得ることができます。というよりも、ゲームを進行させるイベントクリアのためのフラグ立てとは関係のない、ただ興味のあるプレイヤーに「本筋」についての<物語>の材料を提供するためだけに存在するアイテムが存在していたりして、近頃の「ロープレ」化したRPGよりもむしろ『ゼビウス』や『ドルアーガの塔』に近いストイックな<物語>喚起の姿勢が感じられました。余談ですが。
そうした純然たる<物語>喚起アイテムのひとつが、「白羽の矢」でした。これは勇者の由来を説明づけるものです。かつて月の光が失われたとき、「伝説の勇者が悪い竜を倒し、月の光を取り戻す」というストーリーで人心をなだめるため、勇者をでっちあげるためにおこなった「白羽の矢」儀の名残であると。ここで選ばれたのが実は死んだと思われていたおばあちゃんの孫であり、城に伝わる呪い鎧を着せられて死ぬまで剣を振るい続けることになったという真相が、やはり純<物語>喚起アイテムである「勇者のブロマイド」を酒場のイビリーに見せることによって判明します。
王様の要請を受けてのヘイガー博士の月探査ロケット計画は、大臣のこの妄執的な「世直し」に対し、月世界に直接おもむくことで月の光の喪失原因を探ろうというものでした。要するには「世界の危機」に対するふたつの対処のシナリオがあり、一方が「勇者の竜退治」(少年の「現実」から眺めると「Fake MOON」)、もう一方が「落ちた少年の物語」であったというわけです。
かなり危険なことを示唆してロケットに乗り込ませておきながらのヘイガー博士のなかなか無責任な誘導と、これまで関わった人々の意識的無意識的な援助を受けながら、幾多に演出される危機を越えて月に到着する少年。そこで目にするのが、ゲーム中ヒントのための預言書として扱われていた「奇盤」が、うずたかく積まれた月世界の光景。ROMチップのかたちを模した奇盤には、この世界に棲むすべての人々の「生きざま」や物事の進行が書き込まれていた。
月の女王の言では、勇者の所業により月は奇盤であふれかえるようになり、この世界は危機に瀕している。それを回避するための預言と女王らが考えた「落ちた少年の物語」の奇盤にしたがい、少年を外の世界から召還したのだと。そして勇者が月の城をラスト・ダンジョンとみなし、女王の裏面のもうひとつの顔として描かれている竜を倒しにくる前に、ラブに満ちた透明な少年の手により「光の扉」を開かなければならない。
ここで、それまでには明示されていなかった、勇者の行動の脅威が明らかになります。
いかに周囲に迷惑であれ、アニマル殺しの暴力が甚だしかれ、基本的には世界を救うためであるはずの勇者の行動が、生命なきコンピュータ・プログラムの謂としての奇盤へと事物を還元してしまう。
この設定の意味は何でしょうか。プレイヤーはここで、いよいよこの『moon』という作品の矛先が、ゲームをプレイする我々自身に向けられていることに気づくべきヒントを与えられたのです。なぜか。
生命のないコンピュータ・プログラムのもたらす視聴覚情報を個性あるキャラクタに見立て、活き活きとしたゲーム体験を見出すのは、僕ら自身のこころのはたらきにほかならないからです。
勇者の剣が、キャラクターたちの複雑な(わざわざクレイモデルを組み立てまでした)質感を奪い、ただのプログラムに変えること。これが、そのようにゲームを見立てる人のこころのはたらきの危機を隠喩するもの以外の、いったい何だというのでしょうか。
その「ゲームを見立てる人のこころのはたらきの頽落」が実際にどのようなものであるかは、すでにご覧いただいた、「Fake MOON」の意味づけと「落ちた少年の物語」のゲーム性についての議論を思い返していただければ、おのずから明らかであると思います。おそらくはドラクエ、FFのシリーズ化とスーファミの新国民機化とを背景に、90年代初頭くらいから支配的になったゲーム体験の自堕落化・マンネリ化の傾向。さらにその生理的内実についてのひとつの考察として、RPGが「ロープレ」となり、「シナリオ」が支配的ファクターとなってプレイヤーの積極的意識活動としての<物語>生成のアクティビティが相対的に低下した可能性を、僕は指摘したのでした。
すくなくとも、そうした実感をゲームと共にあゆみ成長するなかで抱いたことのある人にとっては、勇者が無造作に振るう剣がキャラクター達をただのパターンの塊に帰したその描写は、決して唐突なものではなかったはずです。
少年は促されるまま、「光の扉」に手をかけ、開けようとする。開かない。
ムツジローが少年の失敗をなじり、女王/竜は困惑する。そうこうするうち実は彼にとっての「飛空挺」としてロケットに隠れ乗っていた勇者が降り立ち、少年が救った動物たちをラス前の中ボスとばかりに一掃、動物たちは次々とむきだしの奇盤のかたちへと変じていく。
ここで初めて、女王/竜はこの世界のほんとうのからくりに気づくのです。彼女ら自身の奇盤が世界のどこにも見つからなかったわけ。それはこの世界を統べる彼女ら自身もまた、奇盤に運命を記述されたプログラムの幻影に過ぎなかったから。外の世界から少年を呼びだし、「落ちた少年の物語」を歩ませたこともまた、プログラムの予定調和に過ぎなかった。ハードディスクに書きこまれたOSがみずからをフォーマットすることができないように、この運命を内側から変えることはできない。
絶望のなか、いよいよ勇者の剣が迫る…。
僕はこの稿で、ゲームとしての「落ちた少年の物語」が、いかにプレイヤーにゆたかな実在感を喚起するために工夫されているかを、視聴覚演出・ゲーム性・見立て演出と下から順に階層を積みかさね、再三にわたって強調してきました。「Fake MOON」との対比で、セーブすら意識させない一回性の、極力ゲームくさい嘘を感じさせないリアルな世界として一貫して描きだすのが、トータルな体験としての「落ちた少年の物語」の表現戦略であったと思います。
ところが、その「落ちた少年の物語」もまた、いかに巧妙に描かれていたとはいえ、結局は「Fake MOON」同様のプログラムされたフェイクに過ぎないという、作品からの見解の呈示。ここからも、この作品を「勇者の暴力主義に対し博愛主義を対置しただけ」とするのが誤解であることがわかります。そのどちらもが、等価にフェイク(動物の救済を疑いなしに善とするムツジローの造形も、根っこのところでプレイヤーに胡散臭さを感じさせるよう狙ってあったとみなせますし)。
そのことの意味を考える暇もなく。女王/竜は最後のぎりぎりの希望として「落ちた少年の物語」の奇盤に結末が書かれておらず、外の世界から来た少年ならばもしかすると発揮できるかもしれない、「レベルであらわせないラブ」による救済の可能性を示唆し(もちろんそれ自体もプログラムされた誘導であるに間違いありません)、勇者の必殺技の前に、死して奇盤と化します。
最後に、勇者が自らの分身である少年を斬り、この世界に実体をもたないふたつの影がともに倒れた瞬間。
「テレビゲームなんてやめて、早く寝なさい」
視点は「現実」、テレビの前。画面に浮かび上がるのは、ゲームオーバー時に誰もが目にする、あの見慣れた選択肢。長い旅を終えてふたたび「現実」へ戻った少年と立場を一にする、「外」の世界の人間として、僕らはひとつの選択を迫られました。
ゲームを続けるか、否か。
■「ゲームを捨てよ、街に出よう」の底にあるもの~ひとつの作品との対比から~
もうすこしだけ、まわりみちをしようと思います。
その選択を迫られたとき、僕はひとつの既視感をおぼえたのです。
あの素気のない、少年の母親の声が、たぶん記憶のリリーサーになったのでした。子供のころをゲームとともに過ごしたことのある人ならば誰もが経験したことがあるだろう、「ゲームなんて」の無理解との対峙。自分にとってはまぎれもない真実である、こころのなかの世界に対する理不尽な無視。
かつて、少年の日のフィクションとのそんな関わり方の底にある心象を鏡のように描いた一遍の物語を、僕は夢中になって読んだことがありました。ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』。『指輪物語』や『ゲド戦記』とともに、わが国でもっともよく読まれている現代ファンタジー作品のひとつです。
運動も勉強もダメでいじめられっ子のバスチアンが唯一心を解き放てるのが、物語の与えてくれる空想の世界。そんな彼がいかに「早く寝なさい」に抗し、ベッドに懐中電灯を持ち込んだりして本読みに耽ったかという描写をつよく記憶しているのですが、『はてしない物語』はまさにそのように読むべき本でした。周知のようにこの作品は、主人公バスチアンが冒険物語「はてしない物語」を読んでいく過程に、本好き・ファンタジー好きの読者のすがたを重ね合わせ、やがて彼が物語で描かれる異世界ファンタージェンの危機を救うために本の世界へ招請されて帰還するまでの筋立てのなかで、物語する人々のこころの問題を深いレベルで描き出し、第一級のファンタジーと称されたのです。
『moon』の筋立てをよくある話だとして、新奇性のなさを指摘するためにだけ、異世界ファンタジーの漠然としたカテゴリーを想定する感想のもち方はこれまでもいくつか見られたのですが、僕はカテゴリーの金字塔であるこの『はてしない物語』には、もっと詳細かつ本質的な部分での同型性を見出せる気がするのです。
バスチアンが「はてしない物語」の外側からアトレーユの血沸き肉踊る冒険物語に引きつけられ、“虚無”からファンタージェン国を救うために現実世界でのダメな自分自身を捨て、勇気をもって幼な心の君の招請に応えるまでの前半部と、ファンタージェンの救世主として増長し、本来の自分自身を忘れ身勝手にふるまうことで再度世界を荒廃させ、自分自身のアイデンティティを危機に追いやってしまう後半部とのシンメトリー。
これに対比すると、モニタの外から体験されたゲーム体験の陳腐化・自堕落化による世界荒廃の謂としての勇者のシナリオ「Fake MOON」と、ゲームが元来もっていた活き活きとした非日常体験の回復への願いとしての「落ちた少年の物語」のシンメトリーは、時系列順序と異世界内外での体験の位置づけをのみ入れ換えた、逆順『はてしない物語』ともいえる構造を抱いているのではないでしょうか。
世界の事物を次々と奇盤へと還元する勇者の剣は、まさに文明がファンタジーの本来の想像力を萎えさせ、物語がただの受動的な消費娯楽と堕落化した事態の象徴としての虚無や、いずれはそのような虚無と化す増長したバスチアンの逃避的なファンタジーの関わり方と、同じものだといえるでしょう。
人狼グモルクはアトレーユに、かつてファンタージェンを訪れ、亡者となって二度と現実世界に帰れなくなった者たちの話をしました。ファンタージェンを訪れた人間はそこで思い通りの願いをかなえることができるかわりに、現実世界での記憶をひとつずつ失うので、結局「願い」の主体である自分自身をも失ってしまったというわけです。バスチアンもまた、その道を半ばまで歩みかけたのでした。
言い換えれば、空想世界のなかに留まるかぎりにおいて、そこではすでにつくられたイメージを蕩尽し、縮小再生産をしかなしえないのだという、ひとの精神についてのエコロジーが唱えられているというべきでしょう。一見「人の想像力は無限である」というような耳あたりのよい主張に傾くかのイメージをもたれがちなファンタジーという表現の本質は、そのような、ひとのこころの妥協のない写像なのだと思います。
そんな、ファンタジーのなかのファンタジー『はてしない物語』は、ファンタージェンで出会ったかけがえのない友たちの援助によって真実に気づくことのできたバスチアンが、本来の自分自身を受け入れ、この魅力ある架空世界をすこやかな姿に保つため、現実に帰還することによって幕を閉じます。ただしそれは以前のバスチアンでなく、ファンタージェンという「リアル」を自分のなかに得た、新しい現実との付き合い方のできる彼になることが、この物語のエピローグでした。
そして愛すべきファンタージェンの住人たちも、あの有名なフレーズ「それはまた別の話。また別の時に語ることにしよう。」で示唆されるように、それぞれの物語をどこかでつむぎつづけているのでしょう。
そう、僕らの選択の話でした。
それはファンタージェンを体験したバスチアンのこころをなぞれば良かった『はてしない物語』の読者よりも、きっと困難な立場であるにちがいありません。バスチアンはエンデの選んだ、道を誤り亡者となることをさいわい避けることができた成功のサンプルだったわけですが、僕らはよりみずからの体験そのものに近いところに立脚し、失敗する可能性を実際に背負ったうえで、成功を選びとらなければならないのですから。
ただし、正解はきわめて論理的です。
一見すべてのことが思いのままになりそうなファンタジーが、実は誰にも揺るがすことのできない独自の“律”をカテゴリーの存立根拠としているように、そこにはかならず、そうしなければならない必然があるのです。
奇盤というチップにすべての運命が書きこまれたムーンワールドを、そうでない地点へ解放するとはどういうことか。月面の奇盤で「ワンダがカウンターの外に出ることは、絶対にない」の記述を見つけたときのかなしみを、どうすれば救い出せるのか。今のままでは永遠にプログラムに拘束された幻影でしかない彼らが、「それはまた別の話」を歩みだすことができるようになるために、僕ら自身は何をすべきなのか。
だから、ほかの何事かのためではなく、あくまでムーンワールドと『moon』を体験した僕ら自身を救うためにこそ、あの正解は正解だったのです。
■おわりに~「リアル」と「フェイク」の断絶を越えて~
かくして正解を選びとることのできたプレイヤーたちは、少年自身の「現実」に解き放たれ、ムーンワールドの住人たちが「また別の話」を歩みはじめていることを示唆するエンディングを目にしたことでしょう。
けれどもさいわいに、いちどは正解を選びそこねてフェイクの円環に戻されてしまった人も、ファンタージェンの亡者として一生閉じこめられるようなことはなく、みずから気づいたり先達に道を尋ねたりして正解にたどりつくことができるまで、何度も選択をやりなおすことができます。
もちろん、あの選択にこれまでみたような意味に気づくことなく、ただ二択の作業として偶然に正解を選びとることもあれば、逆に一度か何度か正解選びに失敗してこそ気づきうる場合もあると思います。
それが、ゲームというものです。
この稿では、僕自身の内的な体験としての『moon』が、決して僕個人だけに意味あるものではないことを信じ、オルターナティブとして役不足と感じた他の見方については僭越にもかなり躍起に否定したりしながら、長々と再現させていただきました。しかしながら、わざわざ確認するまでもなく、ひとがゲームに何を見出すかは、そのひとが生きる現実の具体個別の文脈のなかでゲームがどのような位置づけにあるかに依りますので、僕の言葉の体験喚起のリリーサーとしての有効性は、そこに縛られたものでしかありません。
たとえば80年代のゲーム体験がなく、僕が指摘した歴史の大勢みたいなこととは関係なしに90年代初頭のロープレを活き活きとした青春として過ごした人にとっては、『moon』が勇者にあのようなイメージを託したことは、自分自身のかけがえのない体験を踏みにじる悪意として受けとるほかのないものだったことでしょう。
だけれどその場合であれ、すくなくともゲームを語ることをそれぞれの文脈において必要視したり、実際そうしていることを共通前提にするならば、誰にとっても関心をもたずにはいられない、僕らが生きる「現実」とゲームのなかの「虚構」との関係のありかたについて、ひとつの批評的示唆を読みとることのできる立場を、『moon』という作品が存在せしめたという事実を「知って」おくのは、決して無駄なことではないと思うのです。
「現実」とゲームの「虚構」とを、相反する断絶したものではなく、たがいにどちらか一方だけではすこやかな世界を築くことのできない相互的なものととらえること。これがもっとも作品内の諸表現を整合的に説明し、多くのプレイヤーの現実にとってみのりをもたらしてくれると僕が感ずる、『moon』のメッセージにほかなりません。
そしてこのメッセージはひとり『moon』が突如として唱えたものではなく、『はてしない物語』において顕著に意識化・対象化される、ファンタジーという様式の本質として、近現代文学の周縁に連綿と受け継がれてきたものでもありました。
さらに根源に遡るなら、もともと人間が、神話というかたちに集約された「虚構」の体系を祝祭の場において再現し、「現実」を周期的に活性化する(というよりも、「現実」も「虚構」もない人間精神の構造に即した起伏やリズムをもつ、ただひとつの“現実”を生きる)ライフスタイルを、人類史の圧倒的多くの時間、当たり前にしてきたことを指摘してもいいでしょう。そうした「現実」と「虚構」との一体化した関係が、とりわけ近代以降に決定的に喪失するなか、日常の論理への従属を特徴とする近現代文学のリアリズムの手法を逆手にとって、より質感ある原初的な架空世界を描く手段に転用することで現れたのが、こんにちのファンタジーなるものの氏素性であるとする見方は、大雑把な見通しを晴らしてくれると思います(註11)。
ゲームもまた、日常を構成する現実世界を効率的に写像し制御するために生まれたコンピュータという未曾有の器を「遊び」の意志のもとに転用した徒花として登場しました。文字で書かれたファンタジーよりもさらに膨大な感性情報に満ち、ミクロな場面におけるビット換算の情報量とチャンネルの多様さだけみれば、コンピュータ・ゲームは相対的によりかつての祝祭に近いかたちで人間の生理に即した普遍衝動を回復しうる回路となったともいえるでのしょう。
けれどももう一面では、ゲームを成り立たせるコンピュータ・テクノロジーは際限のない欲望の拡大再生産のシステムとしての高度資本主義産業なくしては存在しえないものであり、本質的にそこでは人間のアクティビティは狭い専門の枠で分割され、なおかつその内外で一方的な供給者であるか享受者であるかの分裂症的なふるまいを強要されるものです。これが、あくまでトータルな世界観の共有のもと、そのなかでの秩序ある進行としてケとハレのリズムが存在する本来の祝祭が機能する社会の文脈とは、似ても似つかないものであることを忘れるわけにはいきません。
「現実」と「虚構」とが分裂し、トータルな“現実”を構成するリズムとはなりえず、それを統合しようとする秩序や価値観の見通しも立たないまま、ミクロな感性体験だけが人の原初の衝動に近づいていくゲームという文化装置は、人間の精神にとって、文字で書かれたファンタジーとは比べものにならないオーダーの頽落の可能性を、確かに抱いているのだと僕は思います。おそらくエンデは、コンピュータ・ゲームを人間の想像力への敵とみなしていたことでしょう。
そのあたりの問題は、もはやほとんど文明論の範疇になるしかなくて、認識したからとて誰かが操作的にどうにかできる話では、当然ながらないわけなのですが。
であればこそ。文明だの社会システムだのが投げかける、マクロには一過性の受動的な享楽として消費されるマスプロダクトにすぎないという縛りのなかで、可能なかぎりリアルとフェイクとの関係を善きものとする能動性をプレイヤーに促そうと、情報環境の幾多の不適合を越えて描かれた『moon』の祈るような「ラブ」を、僕は肯定しておきたい。ちょっぴり人の悪いイマドキの照れ隠しの部分も、すっかり含めたうえで。
ともすれば想像力のエコロジーを簡単に崩してしまいかねない危険をわきまえたうえで、せめてゲームとともに成長し、抜きがたい原体験としてもつ僕たちくらいが、そいつにうまい“現実”での居所を与えてやるようなやりようを考えないでどうするのか。それができないかぎり、僕らはいつか、みずからをフェイクの牢獄にとらえられた操り人形に貶めてしまうのではないでしょうか。
汲みとるべきは、そういうことなのだと思います。
<参考文献>
『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ作/上田真而子・佐藤真理子訳岩波書店1982
『ファンタジーを読む』河合隼雄講談社α文庫1996(原1991)
『機械じかけの夢』笠井潔ちくま学芸文庫1999(原1985)
『SFとは何か』笠井潔編著NHKブックス1986
『情報環境学』大橋力朝倉書店1989
沢月亭
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/guest/moon.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/guest/clove_r.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/essay/game2.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/goebbels.html
(註1)
戸塚義一監修『ゲーム音楽』では、スーファミ登場直後の1990~1992年はゲーム音楽の「惰性期」と区分されています。
(註2)
別冊宝島『このゲームがすごい!'98プレイステーション編』所収「LOVE・de・LICインタビュー・MOONはボクたちの愛です」におけるインタビュアーと工藤太郎とのやりとり。
───今までのRPGというと、だいたいパターンって決まってるじゃないですか。(中略)そういった従来のパターンを覆そうとか、新しいRPGの新境地を切り開こうという意識を持って『MOON』を作られたのでしょうか?
工藤RPGを別の角度から見てみようという意識はありました。でも『MOON』は純粋なRPGではないですからね。RPGをネタにしたゲームって感じで、RPGの行く先とかは全然考えてないですから。
(註3)
ウルティマシリーズのFOODの意義についてはこちら。
(註4)
本稿の文脈とは直接関係ないが、80年代ファミコンブームに少年時代をすごした筆者による素晴らしいスーパーマリオ体験の息吹。
(註5)
『ゲーム批評サンダー』第2特集「ゲームシナリオの存在意義って?」の堀井雄二インタビューでは、ドラクエにおけるシナリオの導入がいかに自明なものではなく歴史的だったかがうかがえます。
(註6)
いうまでもなく、沢月さんの用法にしたがっています。
(註7)
もちろんこの意味でなら、たとえば64の『ゼルダの伝説時のオカリナ』とかの方がはるかに徹底しているではないかという話しにもなるけれど。アクションRPGのアクションについてのすぐれた考察といえばここ。あとここも。
(註8)
ただ、前掲の制作者インタビューのプロフィールで工藤太郎、倉島一幸、木村祥朗の三氏はそれぞれ好きなゲームとして『新・鬼が島』『ゼルダの伝説』『リブルラブル』を挙げており、80年代中盤のゲーム体験のつよさがうかがえます。
(註9)
5音階からなる青銅の打楽器アンサンブル「ガムラン」をはじめとする絢爛たる民族芸能で多くのフリークをもつインドネシア・バリ島の州都は「デンパサール」。地元土着信仰と複雑に融合した独特のヒンドゥー教を抱くこの島の平民カースト(非常にゆるやか)の子弟は生まれた順にワヤン、「マデ」、ニョマン、クトゥッのミドルネームがつく。蘊蓄御免。
(註10)
前掲インタビューより、素直さとひねくれの入りまじった制作者の「てつがく」をうかがえる箇所。
工藤(中略)たとえばゲーム中で話をしたり、頼みを聞いてあげたとき、単なる数字としての経験値を積み上げていくというのは、なにかおかしい。じゃ、何だろう。“愛”か、みたいなノリでしたね。もちろんシナリオ上のテーマとして愛をわかってもらいたいっていうのはありましたけどね。
木村作っているときは、愛ってことをけっこう馬鹿にしたソフトだと思ってたんですけどね。全体的におちょくってるんですよ。(中略)おまえらもうちょっと力抜けやっていう。
(註11)
こうした大文脈整理による見方にイマイチ実感がわかない向きに、よい文章がありました。特に「異世界に旅するとはどういうことか」についてのサンタクロースの例えによる説明はたいへんわかりやすい。
あとうちの大学の児童文学研がこんなん出してます。
沢月亭
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/guest/clove_r.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/essay/game2.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/goebbels.html
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おつかい・悩み解決型 |
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王様、ヘイガー博士、ダイア、リーマン、クリスetc |
関係とりもち型 |
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ワンダ/フローレンス、ガセ/フローラ、おしべ/めしべ | |
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みまもり型 |
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ベイカー、フレッド、玉屋歌子、パパス、ママス、ノージ |
はげまし型 |
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イビリー、マデ☆スマ、ニッカ、ヨシダ、レディテクノ | |
つきあい型 |
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エコ倶楽部、風車庵のおじいちゃん、ポッカ、キュリオ | |
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競争型 |
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バーン、アダー、玉屋平吉、鳥男、ビーハヴ |
純粋パズル型 |
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虹マシーン、ロビ、ジンギスカン |
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