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2004年5月18日火曜日

沢月のゲーム日記2004年

沢月のゲーム日記2004年
沢月の部屋
ゲームを語ろう
12/25
 DQ8、謎だったあれやこれやが判明したところで、もう一度エンディングを見てみる。実は最初の方が好みだけれど、いずれにせよ後味のよい、好感の持てる終わり方だった。ひとつ、書けそうなネタがあるが…途中でデータセーブしておくんだった。もう一度最初からやらねば。
 ちなみに連れは明け方まで「鉄人28号」をプレイしている。
 で、今年もあとわずか。この一年間で心に残ったゲームを挙げてみよう。「真・女神転生III NOCTURNEマニアクス」 「塊魂」「ドラゴンクエスト8」だろうか。「きみのためなら死ねる」もなかなか。年末になって楽しめるものに出会えたのは、結構嬉しいことだったかも知れない。
12/19
 DQ8、クリア。すぐにクリアデータで新しく行けるようになったところに行ってみる。まだまだ楽しめそうだ。
12/15
 在宅仕事の合間をぬって、DQ8を続けている。連れと「マルチェロに萌えられるかどうか」で論争中。なお、萌えているのは私ではない。
12/08
 寝る前にベッドに寝転がって少しずつ進めていた「きみのためなら死ねる」、クリア。あー、そうか、そういう意味だったのね、と納得。
12/04
  連れがDQ8クリア。60時間ぐらい(後半はネタバレを見たくないので見ないようにしていたので正確にはわからないが)。「ドラクエなのにストーリーがおもしろい」とのこと。私は仕事から帰って在宅の仕事をして食事の用意してから連れが帰って来るまでの間しかプレイできないので、やっと10時間に届いたところ。
12/02
  仕事帰りにヨドバシカメラに寄ったらまだ売り切れていなかたので、今日発売のNintendoDS購入。ソフトは「きみのためなら死ねる」で。「タッチスクリーンに息を吹きかけてロウソクの火を消す」という情報を聞いてから、ずっと気になっていた。たぶんただタッチするだけだったら買う気にはなっていない。でもまさか発売日に入手できるとは思わなかった。ゲームやってる時間はないし、DQ8だってあるのに何やってるんだ私は。
12/01
 DQ8の開発元、レベル5つながりで「ダーククロニクル」を買ってみた。って、時間取れないのに何も今買わなくても。
11/30
 なんとか時間をつくってDQ8を始めてみる。プレイしていてストレスがたまらないのが嬉しい。そして、ストレスがたまるRPGとたまらないRPGの違いを考えてみる。まとまったら後日にでも。
11/29
 TOSクリア。それはさておき、明日からDQ8だ!
11/26
 連れがDQ8を入手し、さっそくプレイしている。むちゃくちゃ面白そうで気になるのだが、こちらはひたすら仕事仕事。それにしても、最近はすっかり「連れのゲーム日記」になっているような気が。
11/22
 連れが「ランブル・ローズ」を買ってきた。先行発売されている北米版だ。仕事をしながらちらちら見ているだけだが、女子プロレスにもセクシーポーズにも関心のない目で見てもおもしろそうではある。問題は吹替えの声だろうか。アニメ系になってしまうとちょっともったいない。
11/18
 普段の仕事に加えて在宅の仕事をはじめたら、あら不思議。ゲームをする時間がなくなってしまった。せいぜい週に1時間ぐらいしか。ま、参ったな。TOSは終盤なんだが。
11/15
 家でも仕事が詰まっていて、ゲームをやっている時間がない。そんな私が居間で仕事をしている前で、連れがTOSをやっている。
 私も連れも、このゲームに夢中になっているわけではなかった。あちこちで苛々したりツッコミを入れたりしながら、なぜか進めている感がある。巨大なものを目にした時のロイドの「でけーーーーー!!」というリアクションは、あまりに素直すぎて非常に好きなのだが。
11/14
 連れもTOSを始めた。TOSでは集めた食材を使って料理を作れる。食材の「ポーク」とか「えび」とかを見て、連れが「これ、腐らない?」と聞いてくる。「腐らないし、米が酒になったりしないし、卵がかえって育ったりもしないから大丈夫」と答えた。
11/13
 10年前のSFCで出たRPG「ダークキングダム」にエンディングが2つあるということを今さらながらに知る。ひどくものさびしい終わり方だったのを覚えているので、もう一つのエンディングはどうだったのだろうと思って検索してみた。結構あっさり見つかったが、結局あんまり変わらないことがわかった。
11/12
 ちまちまとTOSプレイ中。最初はちょっと苦手な雰囲気だったのだが、よくも悪くもそつがない感じがしてきた。いや、そつなくしようとした、という感じだろうか。
11/10
 「Xenosaga THE ANIMATION」……。アニメ化はいつか何らかの形であるんだとは思っていたのだが、「今」しかも「エピソード1」というのはどんなものだろう。あれだけ前後がびっしりと決まっているストーリーを(しかもEP2まで出てしまっているんだから)、ゲーム中のムービーの再現以上のものにするのは相当難しいことになると思う。
11/01
 10/29の発表についての、Slash Gamesの記事。
 「ゼノサーガ パイドパイパー」やっとクリア。うーん、EP1とEP2をやってないと辛いかも知れない。ま、それは仕方がないのだが、の一方で、EP1と2をプレイした人にとっては、最初からわかってしまっていることがあるだけに、別の意味でしんどいものがあったような気がする。
 パイドパイパーの舞台となった年に何があってどうなったかも、追っていた相手が100年後にどうなっているかも、既にEP1と2をやった人にはわかっている(ついでに、その相手が誰なのかも)。したがって、この話が何かを解決するようなものではなく、EP1と2で「謎」であった過去のできごとのほんのいくつか(決してすべてでも大半でもないとは思うが、どれぐらいなのかさえ、まだわからない)をプレイヤーに示しているだけだということを知った上で、ゲームを進めなければならないわけだ。
 とりあえずわかったことは、あれこれやってる顔ぶれは、100年前からあんまり変わってなかったということと、"彼"は100年前もやはり「表舞台」に立とうとしてなかったんだということ、かな。
 それにしても、ダウンロードするデータファイルの名前で微妙にネタバレするのは、ちょっと勘弁して欲しかったかも。
10/29
 ここではハンドルネームを使っているわけだが、初めてリアルネームでゲームについてものを言う機会を得た。東大のゲーム研究会にて。内容は「ゲームはいかにして物語となるか」から、テクストの受容と社会空間のあたりを除いた簡易バージョン。既に何年も前に書いたことではあったけれど、発表することで得られた反応は貴重だった。
 必要なのは、人とつながる場なんだと思う。ネットの片隅ではなく、もっと参照可能で、知の一つの蓄積となりうるような、そんな場。それがゲームの場合なかなかなくて、でも必要だとわかっていて。なんとか用意することは不可能ではなかったのに、やらずにいたのは自分。聞き手の準備ができるまで待っていても、それは力にはならない。聞き手を掘り起こすために、試作品であってもあえてぶつけてみる度胸が、私には必要なのだと思う。
10/15
 突然、いかにもなRPGをやってみたくなった。だもんであまり深く考えず、直感で「テイルズ・オブ・シンフォニア」(PS2)を購入してみた。ちょっと地雷を踏みそうな予感を感じつつ、プレイ。ああこのデジャヴュはどこから来るのだろう。
9/22
 「弄り遊戯」制覇。ジャンル内のきまりごとの範囲内で、なかなかよくできている、という感じ。まあ、そこから踏み越えるものを要求するのは筋違いというものだしね。
9/18
 ちなみに「ムジュラ」評では意図的にもうひとつの「変容」については語っていない。別件で触れたいので。
9/17
 ずっと書きかけだった「ムジュラの仮面」評、久しぶりに開いてみたらあと一息のところまで書けていたので、掲載することにした。今さらといえば今さらだが、そもそもプレイしたのが今さらな時期(去年ぐらい)だったし、速報性などこのサイトには縁のないことだからよしとする。にしても、 倉庫行きを除けば1年半の間隔があいて、なのにゼルダが連続しているとはこれいかに。
9/15
「弄り遊戯」とりあえず1人分終えたところ。貸して下さった方の話を聞いていて持っていた印象とはちょっと違っていたかも。
9/14
 貸して下さった方には申し訳ないのだが「弄り遊戯」が進まない。これは別に18禁とかボーイズラブとかいう問題でも「いじめものアドベンチャー」なるジャンルのせいでもないと思う。昔「久遠の絆」を最後まで進められなかったのと同じ原因のような気がする。テキストアドベンチャーの文体に感じる違和感とでもいうものだろうか。文章の巧拙の問題ではなく。一人称で会話と地の文があまりに違う雰囲気だとか、文章を読み進めるテンポと呈示されるテンポが合わないとかいう違和感が先に立って、シナリオを味わうことができない、というもの。紙媒体だと10行ぐらいいっぺんに読めるのに、1行ずつ読んでいくのは辛いのだ。こういう「文体の違い」は、今まで問題にされていなかったような気がするのだが、どうだろう。…とりあえず、スキップ表示にしてみたら結構違和感が減ったので、これで進めてみることにする。
9/06
 CEDEC2004(CESA DEVELOPERS CONFERENCE 2004)に参加してみる。いかにも私が選びそうなセッションばかりを受講したのだが、やはり理論を誰かが作ってくれるのを待っていてもだめだな、と思った。「ゲームはなぜ楽しいのか」「人はなぜゲームをするのか」。…いったいどれだけ長い間、同じ問いが繰り返されてきたのかという気がするが、それは開発側の人たちのせいじゃない。彼らは送り出す側であって、受け取るのも分析するのも彼らの義務ではない。"私に"今できることはなんだろう。
 あと全然関係ないのだけれど、坂元章氏のセッションで、大学の先輩に似た人を見かけた。専攻から考えれば、いても不思議はない人なのだが、本人だとしても10年以上話したことはなかったから、結局声はかけなかった。
9/01
 Vアプリで「パイドパイパー」第二章前編をダウンロード。家のPS2では連れが「ウイニングイレブン8」をやっている。仕事がからむと、普段やらないソフトでもやらなければならないので大変そうなのだが、今回はなんだか楽しそうだ(先日やはり職場から「プロ野球スピリッツ2004」を持って来て、めっぽう強い「俺阪神」に快進撃させていたのも楽しそうだった)。こうしてみると、ふだんプレイしないジャンルに足を踏み入れてみるのも面白いのかも知れない。(とりあえず、今踏み入れているものを進めなければ)
8/23
 「弄り遊戯」(マリンハート[公式サイト])というPC向けかつ18歳以上推奨の女性向けゲーム…ってな、普段自分から手を出すことのないものをお借りしたのだが、どうも起動するまでに時間がかかってしまう。自分のiMacでゲームをすることに慣れていないせいだろうか。
8/21
 更新記録。by-placeに、だいぶ前に書き損ねたゲストブックへのレスを掲載。
7/24
 新しい携帯が来た。私は最低限のやり取りにしか携帯を使わない(ほとんどは仕事の連絡だ)ので、携帯にこんなに金かけるのは異例。本来ムービー写メールとかメガピクセルとか着うたとかまったく必要ないのだが、Vアプリ256K対応機種だとそんなもんは既に当然のことになっているらしい。せっかくだから、使うか。
 で、さっそく「パイドパイパー」をダウンロード。バトルが予想以上にゼノサーガっぽい。スロットが回り、ブーストをかけ、1ターンに4APを取得して2AP消費する攻撃を2回、もしくはエーテル、というあたりが特に。エピソード2を見れば、100年前のこの物語が決して後味のよいものにはならないだろうということが予測できるのだが、それをわかった上で進めてみようと思う。
7/20
 遅ればせながら「ピクミン2」プレイ。今度のピクミンは歌うのがかわいい。
7/18
 かなりのんびりと進めていた(あるいは、時間の都合がつかずなかなか進められなかった)ゼノサーガエピソード2、クリア。……あー、なんというか、次を楽しみにしています。あと、Vodafoneで配信されている「ゼノサーガ パイドパイパー」のために携帯の機種変更手続中。こっちはプレイ日記でも別につけとくかな。
 あれもこれもちゃんと見た上で、語る責任は果たすつもり(なんか、EP1で何も言えないと書いたら無責任だとどこかで言われたので、予防線を張ってみる。本来、未だ書いていないことに責任をもついわれはないと思うが)だけれど、現段階で何かいう予定はとりあえずない。3で区切るようなので、そこで言えることがあったら言う。
 私達は、たかがプレイヤーでしかない。出されたゲームに対して、常に後手にまわった反応しかできないし、反応のしかただって大してうまくない(うまい反応ができるようにとこのサイトを立ち上げたのだが)。でもそれは、私達がゲームの制作者に対して従順な子羊であるということを意味してはいない。許容できる範囲の限りにおいて、私は自分への支配を受け入れるが、それは私自身を譲渡してしまうということではない。だからこそ私は反応する。自分の立場を明らかにして読み方を公開し、主張し続ける。伝えたい発信者と、受け取りたい受信者。そのせめぎあいの中でできた繋がり。あれは私の幻想に過ぎなかったのだろうか。
7/05
 かなりどうでもよく、懐古モードに入ってみる。
 長々とサイトを運営していると、いろいろと接点が生まれる。知り合った人たちの中には、ここから離れて行った人も、ここを追い抜いていった人もいる。こちらが追い付きたいと思っていたのに、立ち去ってしまった人も。今メッセージを伝えたいのに伝えられなくてもどかしく思っている人も。そういった人たちとの出会いを忘れないでいたい。
6/30
 エピソード2、やはりバトルがついていけないほどに奥が深い。ストックためて弱点をついてAirやDownを狙ってブーストでたたみかければ一瞬で片がつくバトルが、普通に攻撃していると延々と続く。相手の分析と、ブーストかけるアクションが同時に必要だから、難易度は高い。1ではぬるく進めていても終盤にまでたどり着けたが、今回は序盤からきつい気がする。うう、この世界の行く末を見届けたいだけのヌルゲーマーはあとからDVDでも見とけってことっすかー?
 なのに9時間でDisc2へ来てしまった。は、速いような。ここからがむちゃくちゃ長くなる……のだろうか?
 ふと思ったのは、ロスタイムの1点と、ホーム&アウェイの2戦目の1点では、同じ1点でも位置づけが違うんだな、ということ。この1点があの時に入っていてくれれば…!
6/24
 「ゼノサーガ エピソード2 善悪の彼岸」購入。臨時の翻訳の仕事などが入っているので、ペースは上げられそうにない。ちまちま進めていくか。体験版でも思ったのだが、操作がやや重く感じられる。ただまあこれは一般的な話ではないかも知れない。真・女神転生3をプレイしてから、他のゲームでのキャラクターの移動にストレスを感じることが多くなった気がする。歩く速さとか視点の可変性とか、自分にとってちょうどよいテンポが見つかってしまうのも、ある意味問題なのかも知れない。ということにしておこう。
 ところで「パイドパイパー」向けに携帯の機種変更を画策している私は、なんか乗せられているのでしょうか?
5/28
 そうそう。PS2版DQ5で書き忘れていたこといくつか。
 連れがフローラを、私がビアンカを選んだのだが、フローラの方が話していて楽しそう。ビアンカは気が利くけど真面目すぎるのかな。どっちかというとツッコミに見えるので、主人公がボケてくれないと笑いが取れない感じなのだが、主人公はしゃべらないし(なぜ笑いをとりたがる>自分)。
 それから、PS2版DQ5では、アイテムを入れる「ふくろ」の名前を変えられる。連れが「吉田カバン」から「ヨシダ」と命名していて、それがなんだか面白そうだったので、最初は「こころ」にしていた。「ピクミン(主人公の名)は ○○を こころに しまった」などというメッセージを見て楽しんでいたのだが、ある日連れの一言で「パンツ」に変更。以後、メッセージに脱力することがさらに多くなった…。
5/18
 「塊魂」ネタが続いて申し訳ない。最後の「月をつくる」ステージで、塊が800メートル以上になったら時間制限なしで転がせる「エターナル3」が出現するわけなんだが、現在のところ最大塊は799メートル11センチ。思わずウケ狙い(誰への?)でそのままにしてある。
5/14
 「塊魂」でひとつ書けそうな予感! ここで私がRPGではないゲームについて語るというのも必要なことかも知れない。私が問題にしたいことは、別にRPGに限ったことではないから。だからゲームの分類にあまり言及してこなかったんだし。流れとしてはDMC評とかボクまお評あたりの延長になるかな。

5/13
 「塊魂」の中で「塊オンザロック」という歌が流れる。この歌の歌詞で「ハートウォーミングめじろ押し」という箇所があって、こんなところに「めじろ押し」と表現するのがとても新鮮に思えて気に入っている。

5/6
 「塊魂」に連れもろともはまっている。お互い、そんな場合じゃないんだが…。8分とか10分とかでできてしまう、という気軽さからついつい手を出してしまうのだが、8分のステージを5回繰り返せば40分なわけで、その、なんだ。
4/28
 今日発売の「ゼノサーガフリークス」と、気になっていた「塊魂」購入(…ナムコの日?)。「フリークス」中のエピソード2体験版をプレイ。キャラでの移動がややもたつく感じで、とっさにある悪夢が頭をよぎったが、まあそれはおいといて、バトルが例によってややこしくて期待できるかも(ブーストに磨きがかかっている模様)。アドベンチャーゲーム「ぜのコミ」は、ファンディスクならではのつくりだと思うのだけれど、キャラが立ってるだけあってなかなか楽しめた。慎重なあまりに肝心なことをなかなか言い出せないジギーとか、すべてを見越したような言動(だが、本当にすべてを見越していたのなら大概腹の立つ)をプレイヤーに投げかけてくるケイオスの胡散臭さ(彼にかぎってはほめ言葉)とか。そしてゼノサーガ随一のいじられキャラ、アレン君の健在っぷりも。まあ、ファンにしか楽しめない、とも言えるけど、ファンディスクなんだからおっけー。
 「塊魂」は想像以上。雑然とさまざまな大きさの「モノ」が散らかった中で、どこに向かっていくか、何を巻き込み何を避けるか。ミリ単位、秒単位の状況判断が必要なんだけれど、できあがっていく「カタマリ」はなんだかわけわかんないシュールな物体で、そこに奇妙な面白さがある。あと、カタツムリに弾かれて右往左往していたカタマリが、やがては猫や人やビルや島までも巻き込んでいくまでになる過程は、見えるものと見えないものの変化とあいまって、ある意味ドラマティックですらある。
4/27
 追記。
  リメイク版DQ5は、さっきクリアした。連れの指令により名産品博物館のコンプリートを目指すので、まだやることは多い。
 今回「はなす」が追加されたことで一番好感が持てたのは、主人公が「自分の父親をいためつけた敵と戦った時に思わず血相を変えていた」のが、子どもの反応によってわかったところ。DQ5の主人公がこの場面でなんだかはじめて「理解できるキャラになった」という気がした。
 感情移入するために最適なキャラは、必ずしも無色透明なキャラではない。ていうか、RPGのキャラが無色透明であるわけはない。自キャラが何も話さなくても、話しかけた相手の反応は、自キャラの話しぶりがどんな感じだったかを決定する。それが、プレイヤーがこうあってほしいと思う方向に、微妙に沿っていることが、感情移入のためには必要なのではないか。「感情移入」とか簡単に言うけれど、そしてそういう表現は好きではないのだけれど、それを分析することも必要なのでは、と思う。
4/11
続き。
 DQ5で私が「むっとした(あえて子どもっぽい表現)」のはなぜだったか。
 3/19の研究会では、「プレイヤー=男性」という原則が、女性プレイヤーに対して、女性のぱふぱふとか入浴シーンとかに対して「サービス」として喜ぶべきだという役割を負わせてしまう、あるいは恋愛や結婚対象が女性であることで、女性プレイヤーに「強制的同性愛」を演じることが求められてしまう…という流れの中で、結婚イベントの話題になった。だからあくまで「女性としてあのイベントはどうだったか」という意見しか言えなかったのだが、私は実は、あのイベントが問題だったのはそこだけじゃない、と思っている。
 当時私が「むっとした」のは、たぶん、ほとんど初対面に近いフローラに対して、アイテム欲しさに(あるいはイベントを進めるために)求婚しなければならない、という軽さだった。「こんな時に呑気に結婚してんじゃねー、だから男って奴は!」てな感じ(笑)。
 しかも、 フローラを選ぼうがビアンカを選ぼうが、得られるものはほとんど変わらない(フローラにゴールドが上乗せされる程度)。どちらを選んでも、相手は「勇者の子孫」で、主人公と相手の間に生まれた子が勇者となる。
 結局結婚相手は、主人公の子供としての勇者を生み出すための礎にすぎない。血と天空の盾があればよかったわけで、それがどういう名前のどんな女性であってもよかったわけだ。
 ただ、同じ問題は主人公自身にも降り掛かっている。主人公の職業は、ほとんど主人公の意志ではなく周囲の要因によって決まる。最終的に「ゆうしゃのちちおや」にならざるを得ない主人公。どんなに強く偉大な王であろうと、パパスは勇者と無縁だった。主人公にとってもそれは同じことだった。違っていたのは、妻が勇者の子孫で、だから自分の子供が勇者だったということ。
 自分は何者でもなく、親や妻や子どもに借りたアイデンティティしか持たない。そんな奴に「感情移入」やら「役割を演じる」やらできるものだろうか。何をなそうとしたか、何ができたか、ではなく、そもそも何であったのかで人が評価されてしまうように見えてしまう、そんな世界で役割を演じ、遊ぶことに、当時の私は違和感を感じていたのだと思う。
 とはいっても…あらためて文字にしてみると、なんか自分、いろいろと青かったかな、なんて。
4/09
DQ5はそろそろ結婚イベントのあたりに到達。
この結婚イベント、SFC版でプレイした時にはかなりむっとした記憶がある。SFC版DQ5でむっとしたのはこれだけではないのだが、ちょうど先日の研究会でもジェンダーとからめて話題になったところだった。
あらためて、そしてリメイク版で、当時自分がなぜそう思ったのか、ここに書いていきたいと思う。
4/02
DQ5、始めてみる。リメイクはかなりSFC版と印象が違って見える。
3/28
今日から3泊4日の泊まり込み仕事なのだが、朝方徹夜あけの連れがPS2版「ドラゴンクエスト5」を買って来る。
仕事でもやらなければならないソフトを自分で買って来るとは、相当気に入ったということか。
気になりつつ、お仕事お仕事。
3/19
東大のゲーム研究プロジェクト定例研究会に参加。本名でこのサイトを引っさげて売り込みに行ってみたらとうに知られていた、というちょっと嬉しい事件もあり、ひとつの前進のきっかけになったかも。具体的に研究計画練ってみよう。ていうか、各方面のつながりを考慮すると後には退けないな。
というわけで訂正。「なったかも」ではなく「します」。
3/16
マニアクス、クリア。最後の敵対策としてしばらく仲魔を育てて合体させて、と繰り返していたために、少し時間がかかった。
結構行き当たりばったりで合体しまくっていたし、悪魔全書も50%行っていないのだが、なにもかもが楽しかった。オリジナルの「真・女神転生3 NOCTURNE」よりも受けるダメージ量が少なくなっているせいもあるのだろうが、むしろ NOCTURNE以来の、操作上のストレスのなさによるものが大きいだろう。この日記でも繰り返してきたが、うんざりしないうちに必ずセーブポイントに行き着けることと、敵の弱点をつけばつくほど有利に、敵の耐性に無頓着であればあるほど不利になっていくプレスターンバトルは、こちらがゲームを進めたいテンポを阻害することなく、かつ飽きさせることもなく、快をもたらす方向に作用するシステムだった。それはまあ、NOCTURNEでも同じことだったのだが、今回のマニアクスではダメージが75%(NORMALの場合。HARDだと150%)に抑えられ、これがメガテンかと思うほど楽(ヌルくはないが)。
(以下ネタばれ)
でもって、ダンテを雇ってマニアクスならではのエンディングを目指していたら、ひたすら悪魔道を突っ走ることになった。メガテンではストーリーをあまり意識したことはなかったのだが、このルートは私にとってはツボだった。淡々とそして黙々と、眼前の敵を殺し、自分の属していた世界を殺し、輪廻の時すらも殺す。終焉と創世を繰り返す小世界そのものを死に至らしめ、それゆえの呪詛をその身に受けた存在となる。そんな主人公が、妙にニャーステキー!(笑) ええと、こういうのを「萌え」というのかな?
3/01
「逆転裁判3」をやってる連れがものすごくいいことを言った! 
これを少しでも早く世に広めたいのだが、あれやこれやで黙っているしか。公表されたら参照リンク張るし、公表できなさそうなら頼み込んでここで書いてもらいたい。
たぶん、まだ誰も語ってないことだから。けど当人は現在Dのつくゲーム2本の仕事で当分忙しそう。
2/13
相変わらずマニアクス漬け。
最初のオベリスクでレベル42ぐらい。
レベル上げの必要を感じたらアマラ深界に潜る。PARに頼らなくても、十分面白い。
2/7
負けずに(何がだ)マニアクス開始。お金がなくてもレベルが足りなくても先に進めなくても、やっぱり楽しいや、このゲーム。
2/5
BUSIN0クリア。仲間にしていないキャラがいたり発生していない依頼があったりするのだが、NPCは転職させられないのでちょっと使いづらく、コンプリートはいずれ気が向いたらということにしておく。
というか、発売日に買った「真女神転生3NOCTURNEマニアクス」をやりたくてやりたくて。
3はPARの助けを借りて初めてクリアできた真メガテンなのだが、移動も戦闘も、こんなにストレスのかからないゲームにはなかなかお目にかかれなかったと思う。同じゲームで別の分岐をプレイしてみるほどにのめり込んではいなかったが(とはいっても70時間ぐらいはプレイしたような気が)、ちょっとゲームをしてみたい気分の時、シナリオを進めるわけでもなく戦闘やって歩き回るのに最適だと思っている。
で、明日から始めてみようと思っていたら、連れが始めてしまった。
しかもなんだかキャラクターの名前で遊んでいて楽しそう。
「超星神グランセイザー」の「風のトライブ」と呼ばれる三人組の名前を、主人公と友達二人につけている。
「セイザーレムルズはちょうど小銭を持っていた」とかいうメッセージに爆笑。
 
2/2
しばらくゲームができなかったのだが、やっと復帰。やりかけのゲームを消化することに。
「BUSIN0」がB9Fで詰まっていたので再開。あのボスにやられるのでしばらくレベルアップしていたのだが、ふと検索してみたら、そこで苦労しているというネット上の発言はほとんど見あたらない。ということは、自分のやり方がまずいということだ。というわけで、ちょっと戦法を変えてみたら、結構あっさり倒せた。以前の方法を踏襲してばかりじゃだめだってことだ。
1/6
「バテン・カイトス」やっとクリア。途中から抱いていた印象のまま最後までいった。データが消えてやり直した分も含めて100時間以上やっていたのだから、引き付けられなかったわけでも楽しめなかったわけでもない。だが、そこここに引っ掛かる無数の小さなささくれが、満足感を打ち消していく。それなりにいいものは入っていて買った分の元はとれているけれどあんまり嬉しい感じのない、微妙な福袋のようだ。
どうしてこんなことになってしまったのかはわからないが、自分の抱いたこの困惑はきちんと言語化しておきたい。
1/1
「バテン・カイトス」をプレイしながら年を越す。……いいのか?
このゲーム、語れそうな切り口はいくつかあるのだけれど、なんかこう…前向きになれるかどうか難しいので、ゆるゆると考えていくことにする。

沢月亭別館 ゲームを語ろう  
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/



2004年3月26日金曜日

[ゲーム][携帯ゲーム] GBA,ファミコンMINI/クルクルランド




クルクルランド
クルクルランドに隠された金塊を探すアクションゲーム。
一度動き出したら止まらない主人公グルッピーをいかにうまく操作できるかが攻略のカギ!

ぶらざ~のページ
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/1563/





マリオブラザーズ
クルクルランド
バルーンファイト
レッキングクルー
ドクターマリオ
ディグダグ
高橋名人の冒険島
魔界村
ツインビー
がんばれゴエモン!からくり道中
ソフトパッケージ
「友達・兄弟で熱くなった」そんな楽しい時間が自然と思い出される新たな10タイトル。
時間を忘れてプレイしたあの頃の記憶がよみがえることでしょう。

ぶらざ~のページ
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/1563/

2001年7月26日木曜日

[市場] 2001年ケータイ人気ゲーム/アクション

[市場] 2001年ケータイ人気ゲーム/アクション
◆アクション
着陸ゲーム(C) MSF
ドットスピーダー(C) MSF
アポロ13(C) MSF
グランドキャニオン(C) MSF
ジャンプマスター(C) MSF
スペーストンネル(C) MSF
だるまさんがころんだ(C) MSF
ハンマーピッグ(C) MSF
フェアリー(C) MSF
プレッシャー(C) MSF
空手(C) MSF
ベイビーアクション(C) MSF
スピーディング(C) MSF
クラッシュ(C) MSF
ショック(C) MSF
ダークライト(C) MSF
ミルク(C) MSF
タイピング(C) MSF
きゃらいふの冒険
ジャンプ(C) MSF
パラシューター(C) MSF
柿ゲット(C) MSF
水滴パニック(C) MSF
コインサッカー(C) MSF
飛蝙蝠(C) MSF
チキンキャノン(C) MSF
クライム(C) MSF
ダウンスライダー(C) MSF
ドライブしようぜ!(C) MSF
ミルク2(C) MSF
戦場をかけろ!(C) MSF

アプリ★ゲット
http://appget.com/pc/ 

Mobile Box
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/kunugi/





アポロ13(C) MSF
ベイビーアクション(C) MSF
飛蝙蝠(C) MSF
チキンキャノン(C) MSF
着陸ゲーム(C) MSF
クライム(C) MSF
クラッシュ(C) MSF
コインサッカー(C) MSF
ダークライト(C) MSF
だるまさんがころんだ(C) MSF
ドットスピーダー(C) MSF
ダウンスライダー(C) MSF
ドライブしようぜ!(C) MSF
フェアリー(C) MSF
グランドキャニオン(C) MSF
ハンマーピッグ(C) MSF
ジャンプ(C) MSF
ジャンプマスター(C) MSF
柿ゲット(C) MSF
空手(C) MSF
きゃらいふの冒険
ミルク(C) MSF
ミルク2(C) MSF
パラシューター(C) MSF
プレッシャー(C) MSF
戦場をかけろ!(C) MSF
ショック(C) MSF
スペーストンネル(C) MSF
スピーディング(C) MSF
タイピング(C) MSF
水滴パニック(C) MSF


2000年10月15日日曜日

[修理] DELL E151FP

[修理] DELL E151FP
DELL E151FP 電源基板補修
DELLのデスクトップ機に添付されていたと思われる15インチ液晶モニタ。
15インチでXGAと言う、普通のスペック。
パネル破損の物より電源不良の方が楽かなと思ったのでこっちを。
同じモデルで一番安い物を手に取ったらこれだったと言うのも有る。
プライスタグの通り電源が入らず。裏蓋とシールド板を外して電源基板と対面。
意外と中は綺麗で、大して通電しないまま故障した様に見える。
基板全てにBenQと書いて有るので、BenQのOEMだろうと思う。
液晶パネルのメーカーはCHUNGHWA。中華?
上の写真で言う所の右上辺りのコンデンサのアップ。
非常に分かりやすい形でお亡くなりに…
少し前のマザーボードで頻発したコンデンサ大量死と同じ死に方。
試しにこのコンデンサだけ交換したら普通に電源が入ってしまった。
しばらく試しに使ってみたが、到って快調。
電源基板のコンデンサは全て無名メーカーの物で埋まっているので全て国内メーカーの物に交換。
少し電源基板の発熱が減った気がしなくもない。
よく見るとゴーストが…ケーブルが悪いんだろうか。

Untitled
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/1065/junk/e151fp.html
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/1051/pc.html













2000年5月26日金曜日

[ゲーム] 忍者ゲームいろいろ~レトロ忍者ゲーム絵巻






「名作7選」からは漏れたものの、アーケード、コンシューマ、PC問わず、
様々な忍者ゲームを集めてみました。
これらを遊びつくして、君も忍の奥義を極めよう!
※年代的にだいたいスーパーファミコンぐらいまでに限定しています。
また、「RPGやSLGのユニットの一部として忍者がいる」「敵キャラの一部に忍者がいる」
・・・・というのは省いてます。
また、ここに紹介したものが全てではないので、他にもあったら教えてね!
■赤影
ファミコン/東映動画/1988
懐かしの劇画が題材。
仮面の忍者「赤影」を操って、金目教の野望を打ち砕け!
白影、青影も使用することが出来るぞ。
■忍者龍剣伝
テクモ/アーケード/1988
ファミコン版とは打って変わって、「ダブルドラゴン」のような格闘アクションゲームになっている。
特殊な投げ技。首切り投げ(現在で言うところのスタナーか!?)が気持ちよかった。
■T・M・N・T
コナミ/アーケード/1990
ご存知アメリカで大人気を博したミュータントニンジャのゲーム化。
レオナルド、ドナテロ、ラファエロ、ミケランジェロノ4匹を操る、格闘アクションゲームだ。
ガワバンガ!
■激亀忍者伝
コナミ/ファミコン/1989
まぎれもなく「T・M・N・T」を題材としたゲームだが、この頃はまだ「T・M・N・T」というタイトルが日本で定着していなかった。
だからって「激亀」はないと思うのだが・・・。
■ザ・ニンジャウォーリアーズ・アゲイン
タイトー/スーパーファミコン/1994
アーケードで人気を博した「ザ・ニンジャウォーリアーズ」のリニューアルだが、どちらかというと格闘アクションテイストの方が強い。
使えるキャラも2体から3体になった。
■忍者くん阿修羅の章
UPL/アーケード/1987
正真正銘「忍者くん」の続編。
分岐のあるコース、修行により会得できる武器、巨大なキャラなど、現代的なパワーアップはされているものの、前作同様「テクニック重視!」な熱いゲームでした。
■忍者武雷伝説
セガ/メガドライブ/1991
地味だが割と出来がいい純和風シミュレーションゲーム。
主人公「武雷」が風の軍団を率い、信長の軍団を打ち倒す旅に出る!
やたらクリアな音声が印象的でした。
■カダッシュ
タイトー/アーケード/1990
忍者ゲー・・・というか、ファンタジーRPG風アクションゲーム。
選べる4人自機の中に忍者がいる。
(でも誰も好んで使ってなかったような・・・)。
■キャプテンコマンドー
カプコン/アーケード/1991
パワードスーツに身を包むキャプテン、宇宙人のジェネティー、天才赤ん坊のフーバー、そして武神流忍術を操る忍者、翔がジェノサイドの野望を打ち砕くSF格闘アクションの傑作!
でも翔が一番弱いんだよな~(トホホ)。
■ニンジャコンバット
ADK/ネオジオ/1990
キレた忍者ゲーを作らせたら宇宙一のアルファ電子の誇る、超絶バカ忍者活劇。
とにかく、派手、大味、そしてパワーみなぎる快作である。
えびぞりアタックで敵を倒せ!
■ニンジャコマンドー
ADK/ネオジオ/1992
アルファ電子の超絶忍者ゲー第2弾。
縦スクロールのシューティングっぽいゲームになったが、その絶倫パワーは失われず。
■ダークシール
データイースト/アーケード/1990
珍しいクォータービューのRPG風アクションゲーム。
選べる自機の中に忍者の「キリカゼ」がいる。
「2」も発売されたが、忍者はいなかった(泣)。
■ファイナルファイト
カプコン/アーケード/1989
使用キャラの中に武神流忍術の使い手、ガイがいる。
やはり一番弱い(涙)。
スーパーファミコン版では存在自体カットされたし(のちに彼をフューチャリングした「ファイナルファイト・ガイ」が発売)。
■仮面の忍者花丸
カプコン/ファミコン/1990
非常に紛らわしいタイトルだが、「涼しい眼」をした人ではないのでお間違えのないよう。
ゲーム自体は丁寧に作られた良質アクションだ。
どことなく「ワ●ャンランド」に似ているが・・・。
■忍者ハットリくん
ハドソン/ファミコン/1986
ご存知藤子人気アニメのゲーム化。
やたらシビアなアクションゲームだが、これでも100万本売れたんだよねぇ・・・。
ちなみにBGMは「アニメ主題歌」、「天国と地獄」、「アルルの女」のリミックス。
■百鬼夜行
ユース/ファミコン/1989
忍者と邪悪な魔物たちとの戦いを描いた和風RPG。
マップは通常は見下ろし方だが、ダンジョンに入ると3D視点になる。
■伊賀忍法帖
カシオ/MSX/1985
忍者が飛び蹴りを使って敵を倒すアクション。
当時カシオはMSXでとにかく小粒なソフトを乱発していた感があります。
難易度は激ムズ。
■伊賀忍法帖 満月城の戦い
カシオ/MSX/1985
で、伊賀忍法帖の続編がコレ。
今度は横スクロールのアクションゲームだ。
難易度はさらにUP!(理不尽なほどに)
■伊賀忍術伝 五神の書
ジャレコ/アーケード/1988
なんか大味なアクションゲーム。
敵、見方含めて、みなキャラが微妙にデカい。
忍法を溜め撃ちで使えた。
■伊忍道 
光栄/PC88他/1991
光栄の放つ忍者RPG。
主人公の忍者を修験場で修行させ、打倒信長を目指す!(またか)
■じゃじゃ丸の大冒険
ジャレコ/ファミコン/1986
じゃじゃ丸くんシリーズ第2弾。
今度は横スクルロールアクションで登場だ。
前作で助けたサクラ姫は実は偽者だったという設定が疲れもの。
■じゃじゃ丸忍法帖
ジャレコ/ファミコン/1989
じゃじゃ丸くんシリーズ第3弾は何とRPGに!
すでに過去2作の面影はない。
1~3章をクリアすると最後の4章が出現するぞ。
■じゃじゃ丸撃魔伝
ジャレコ/ファミコン/1990
じゃじゃ丸くんシリーズ第4弾。
今度は「ゼルダ」のようなアクションRPGになった。
どんどん迷走を続けるじゃじゃ丸くん。
■忍者じゃじゃ丸銀河大作戦
ジャレコ/ファミコン/1991
ファミコンでは最後のじゃじゃ丸くんシリーズ。
再びアクションゲームなって戻ってきた。
どことなく「スーパーマ●オ3」っぽいにほいが・・・。
■KAGE
ナツメ/ファミコン/1990
2人同時プレイも可能な、横スクロールアクション。
ぶら下がったまま攻撃できたり、アクションの幅も広い。
マイナーだが出来のいい作品。
■影狼伝説
ピクセル/ファミコン/1990
移動画面はRPG風だが、敵と出会うとアクションゲームとなる。
それはともかく、ファミ通でのドラ●ンボールのパクリイラスト広告が忘れられないよ・・・。
■未来忍者
ナムコ/アーケード/1988
東京国際ファンタスティック映画祭に出展された映画が原作。
「機忍」と呼ばれるサイボーグ忍者、白怒火(しらぬい)を操って、さらわれたサキ姫を救い出せ!
映画は高い評価を受けたようだが、ゲームはちょっとマイナーかな。
■忍者 影
ハドソン/MSX/1985
ハドソンらしく(?)5方向連射や、手裏剣レーザーが印象的なアクションシューティング。
難易度はこれまた高い。

ドリトモゲーム館
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GAMER'S PARK
http://homepage3.nifty.com/gamers_park/








2000年1月13日木曜日

[ゲーム][PS1] moon

[ゲーム] moon
『moon』再論~いつか、ゲームに「ラブ」がやどる日まで~
中川大地
2000.1.31追補
■はじめに~ふたつの『moon』像を結びつけるために~
それほど系統だて、数を追ってみてきたわけではないし、さらには資料をおさえての実証ではなく、あやふやな記憶によるイイカゲンな印象であることを、どのみち話を組み立てるための便宜以上のつもりがないからという理由であらかじめ断っておきますが。
『moon』というタイトルが97年に発売されてから今日にいたるまで、その評価にはおおむね二種類の傾向があるような気がしていました。
ひとつは、たとえば『ゲーム批評』に掲載されたものがそうだったかと思いますが、独特のグラフィック・デザインや様々なジャンルのアーティストたちのセンス良い楽曲をゲーム中のBGMとして自由にかけかえられるMoonDisk(MD)のシステムなどの視聴覚演出の秀逸さや、キャラクター造形やイベント演出のほのぼのした味わいを讃える、「おしゃれでポップな小品」ということを主軸にした評価。この文脈で、『MOTHER』シリーズに比肩させているものも目にしたことがあります。
もうひとつは、「もう勇者しない」というプロモーション・コピーにあらわれているような既存ロープレへの挑発的パロディとしての側面や、メタフィクション的とされるシナリオの結末部分を重視し、複雑なおももちで「ロープレないしゲームそのものへのアンチテーゼ」とか「過激な実験作」としての性格を云々するタイプのもの。
それぞれ、かならずしも単線的に結びつけることのできる特徴ではないように思えたので、評判を聞く限りでは、『moon』が実際のところ、何をめざしたどんないでたちのゲームなのかのイメージをむすぶのが、少々難儀なところがありました。
両方の評判を折衷し、小粋なスタイルとして自己言及や自虐をまとったアヴァン・ポップ芸術調の鼻持ちならない作品であるのか、はたまた描写と主張とが矛盾した、頭でっかちの未成熟なタイトルだったと捉えるべきなのか。
今更に『moon』というタイトルを語りなおすにあたって、さしあたり、ふたつの方向へと分裂してしまったかにみえるこの作品の見方をひとつの視座によって有機的に結びつけるという課題を、この稿のターゲットに据えてみようかと思います。
なぜならば、演出とか美術とかシナリオとかゲーム性とかいった言葉で切りわけられるゲームの諸側面は、互いにわかちがたく結びついてひとりひとりのプレイヤーのトータルな体験を形成するものであるということを、自身のゲーム体験を通した直観によって僕は信じていて、そうした個々のゲーム体験のもつトータリティをどうにかして把捉しようとする努力を放棄しては、ゲームをゲーム以外の何物でもないものとして語ることのできる自律的な批評など、いつまでたっても生まれえないと思うからです。
そんな課題を達成するため、『moon』を実際にプレイしたときの体験の整序に即し、ひとつひとつのプレイ過程がもつ意味を以下、ベタに順を追って検討してこうかと思います。
これはあのハイタッチな『moon』をあつかう手つきとしては、あまりに無粋な力技です。残念ながら、それぞれのパーツ毎の印象批評相互の関係のとっちらかりをねじ伏せて、てっとり早く作品構造の見取り図をつかむためのよりベターな方法を、僕はほかに思いつくことができませんでした。
そうでもしなければこの作品を新しく見直すことをできなくせしめたこれまでの語りたちの不明を、不遜ながらちょっとだけ呪ってみてもいいかという気も、一方ではしてたりするのですが。
■「Fake MOON」がみせるもの~『moon』の立ち位置と批評意識の矛先~
ゲームスタート直後、淡いクレパス画調の絵で描かれる少年とテレビ、それに「ゲームステーション」。ほかに余計な情報のない無色暗闇バックや、いま僕らがコントローラーを握っているプレイステーションをそのままひきうつした「ゲーステ」の造形は、この少年の肉体のすまう「現実」をプレイヤーである僕らの生きる現実と重ねあわせて見立てることが、これから展開される『moon』をプレイするうえでの約束事であると教えてくれます。
視点が先に描かれた少年のそれと一致し、我々が見るモニタの画面に少年の「現実」のテレビのフレームがクローズアップされ、「ゲーステ」のゲーム画面が映し出される次のショット。このゲームが「Fake MOON」。
平仮名で主人公の「勇者」に名前をつけ、王宮の謁見の間で国王に冒険へと送り出されます。白く縁取られた青バックのウィンドウに流れるメッセージ文はすべて平仮名。城下町では人々の胡散臭いほどの勇者への期待が聞かれ、酒場ではタンスを調べて何やらのアイテムを持ち出すことがこれみよがしに奨励され、突如エンカウントして「くるった犬」との主観視点での戦闘に移る。以後、ラストダンジョンでの「ドラゴン」との戦闘にいたるまで、四つの章に過程を端折りながら、「勇者の冒険」のプレイをなぞります。
そう、誰もが指摘するように、これは一定のゲーム経験をもつプレイヤーたちの抱く、いわゆるRPGないしはロープレとよばれるタイプのゲームのイメージを想定し、それを皮肉な見方で戯画化したものにほかなりません。このことは、『moon』を「アンチRPG」であるとする評の、ひとつの根拠となるものでしょう。
しかし、どうして僕らはこの「Fake MOON」を「RPGのパロ」だと感じたのか。逆に問えば、「Fake MOON」が喚起した我々のなかの「RPG」とは、いかなるものであったのか。『moon』の意味づけに「RPG」という一般化された言葉を貼りつけて思考を終わらせる前に、その具体的な内実について、もうすこしだけ詳細な検討をくわえる必要があると思うのです。
もちろん、いまさら「RPGとはロールプレイングゲームの略でそもそも…」というレベルの“原理的”解析を云々するのは、無意味な野暮にきまっています。けれども、僕らがその画面をみてただちに「RPG」というコトバを想起したところの「Fake MOON」に込められている実際の参照先のゲームタイトルが、実はただのふたつでしかないことは、誰もが気のついたことなのではないでしょうか。
それはコンピュータRPGの起源とされる『ROGUE』でも、多くのプレイヤーの心に尋常ならぬ名作として残る『Wizardry』でも『Ultima』でもありません。国産RPGの金字塔とされる『ブラックオニキス』でも『ハイドライド』でも『ザナドゥ』でもなければ、はじめてRPGらしい息吹を国民機ファミコンに吹き入れた『ドルアーガの塔』や『ゼルダの伝説』でもない。
そうです。80年代後半のファミコンブームの安定期に第一作が世にあらわれ、RPGの代名詞として90年代初頭のスーパーファミコン全盛期にかけて連綿とシリーズ化されるにいたった、『ドラゴン・クエスト』と『ファイナル・ファンタジー』の二大シリーズ以外の何らのイメージも、「Fake MOON」に見てとることはできません。
「勇者」のモチーフや平仮名名、主観視点での戦闘などはドラクエから。オープニングの絵、もってまわった設定とストーリーの解説テキスト、白く縁取られた青いウィンドウ、セーブ画面を模した画面デザインや飛空挺などが、FF。
これらの意匠的特徴が、シリーズを重ねる中で両タイトルのアイデンティティとして我々の意識に焼きつき、なおかつドラクエとFFの名を挙げれば、ほとんどすっかりRPGなるもののイメージが覆いきれてしまうほどの両シリーズの商業的成功という前提があって、はじめて「Fake MOON」を「RPGのパロディ」として見立てる我々の認識が成立するわけです。
また、「Fake MOON」の視聴覚的デザインが、プレイステーションというハード本来の性能からすると、グラフィックの描画方法やBGMの音数などを故意に制限することで過去のコンシューマ・ゲーム機のハード条件を模し、我々がかつて通ったゲーム体験の記憶を喚起しようとしていることも、見過ごさずに指摘したいところです。すなわち、「Fake MOON」の手ざわりは、スーファミ初期のタイトルがもっていた特徴と、ほぼ重なり合っている。
プリミティブで記号っぽかったファミコン時代の絵よりも色数や解像度が増し、キャラクタはよりイラストっぽくなり漫画のようなアップ絵もそれなりに見れるものになったけれど、間違っても「映画のような」映像表現は存在せず、一枚絵ではなく未だブロック・パターンの組みあわせで描かれたマップを一コマ単位で動き、サウンド面のハード制約がかなり改善されながらファミコンPSG音源での楽曲づくりの習慣から抜け出せずにいた時代(註1)。
そうしたゲーム環境の再現が僕らに喚起するのは、たとえばファミコンブームの熱気が冷めやらぬなか、はじめてドラクエの第一作に触れたときの古き良き衝撃、というようなものでない気がします。むしろ、ドラクエやFFがシリーズを重ねることで、個々の作品の出来とは別の次元でみずみずしさを失い、スーファミがあたりまえのように新しい国民機になるなかで、ゲームをするという体験が僕らのなかで陳腐化しはじめた時代の倦怠感をこそ、思い起こさせるものがあったのではないでしょうか。
したがって「Fake MOON」がいったい何のパロディなのかといえば、そんな「90年代初頭あたりに確立され、現在にひきつづく僕らとゲーム(特にロープレ)との、どちらかというとネガティブな関わり方そのもの」に、その批評意識の矛先が向けられているのだと、僕は考えてみることにしました。
どうしてか。論証のために重箱の隅をつつけば、プレステを模したはずの「ゲーステ」でスーファミ風のゲームがなされているのは考えてみれば妙な話です。「いま、ここ」でゲームをプレイしているプレイヤー自身を少年と同一視させるためにこその「ゲーステ」という仕掛けであるのに、何故ひと時代前のゲームを模すのでしょう。
それは制作者が俎上にのせようとしているものが、決して「普遍化された形式としてのRPGの仕組み」だとか「表現物としての個々のゲームタイトル」などではなく、「プレイヤーたる僕らが内面化しているロープレ体験のありかたそのもの」以外の何物でもないために、それをもっとも効果的にディフォルメしうる意匠として、スーファミ初期の時代の記憶に依ったとみる以外には、整合性ある解釈を立てにくいと思います。
このように、ゲームの表現を僕らの体験にひきよせて考えるための手がかりとしうるところにこそ、個々のゲームタイトルがよってたつ「歴史」的前提を評価することの、ひとつの必要性があるのではないでしょうか。そうした認識を欠いては、たとえば「『moon』は既存大作RPGシリーズへのアンチテーゼである」などという、しょせんは他人事でしかない、送り手側の作家論じみたところへ関心の所在を追いやってしまう大雑把な物言いのくだらなさに気がつくことが、それだけ難しくなるのです。
そして、こと『moon』については、その結末がゲームをプレイするということをめぐる明確なメッセージ性を有していることを特徴としています。そのメッセージを、プレイヤーにとってより整合性のたかいゆたかなものとして受け取るためにも、「Fake MOON」がパロディの矛先とした90年代初頭のゲーム状況の時代性についての感触があることは、不可欠とはいわぬまでも、ひとつの感性的なベースとなるのです。
この点については、のちに詳しく検討いたします。
■「落ちた少年の物語」の視聴覚演出の指向性とゲームとしての骨格~『moon』はアンチテーゼ?
「Fake MOON」のラスボス戦は結末を迎えないまま、母親の「テレビゲームなんてやめて、早く寝なさい」という音声で中断され、少年はいちど彼の「現実」に引き戻されます。そしてゲーステの前を離れて床に就こうとしたとき、スイッチを切ったはずのテレビ画面がざわめき、少年はそこに吸い込まれる。
次のショットで半透明になった少年のキャラクタが空を落ち、先の「Fake MOON」とはうって変わったプレステ本来のハード性能で(という表現が技術的に正確でなければ、「最近のゲームっぽく」)描かれた彩りゆたかな世界に着地します。画面に展開されるのは、個々の好き嫌いはともかく、間違ってもひとにネガティブな感性反応を起こさせるような企図の見出すことのできない、丹念にデザインされた美術と世界の住人たち。
ここでプレイヤーが納得させられた約束事は、いま目にしている画面が、「Fake MOON」に対する「本物の」ムーンワールドであるということ。
「リアルとフェイクが交差する」という宣伝コピーが示すように、スーファミ時代に比して格段に実在感のある世界を表現でき、さらにスーファミ的な手ざわりを模した「Fake MOON」との一目瞭然の描き分けを可能とするプレイステーションというプラットフォーム的前提があってはじめて成立するところに、『moon』というタイトルの歴史的立ち位置が存在するわけです。
キャラクターたちとの会話のテキストが、独自にデザインされた音声言語で喋る声に付せられる字幕として処理されているのも、オリジナルな実在感を指向する演出のひとつに数えられるものだと思います。
会話の演出へのこだわりという点で想起されるのが、すべてのテキストの平仮名による処理を、ハード性能の制約がなくなってからも自覚的に選択し続けた『MOTHER2』。かつてハードの性能が強いた偶然の状況に過ぎなかったはずの平仮名テキストを、ゲーム体験のプリミティブな力を構成する本質のひとつととらえ、こだわり続けた糸井重里の感性は、今も多くのプレイヤーの信頼を集めています。
『moon』が採った、字幕による意味伝達と既存の言語系で分節不能な音声とを衝突させる方法は、そうした糸井の直観と底を通ずるものでありましょう。彼らの見出した演出的直観をあえて言語化するなら、言語中枢の処理を受ける以前の、聴覚刺激としてのことばの豊穣さを見過ごさなかったということなのだと思います。こんなことを一例として、『moon』と『MOTHER』シリーズに共通して指摘される「RPGらしからぬ演出の独創性」は、単に漠然としたモチーフやテーマ性の類似ということではなしに、具体的な表現づくりのひとつひとつの過程に、実は非常に理にかなったものの見方の丁寧さが、OSのように貫かれていることに起因しているのではないかと僕なんかは考えるのです。余談ですが。
ともかく、ひとつひとつ間違いなく緻密につくりこまれた基本的な視聴覚演出のベースに下支えされて、『moon』の本筋たる「落ちた少年の物語」が始まります
そのままではこの世界の人々には姿が見えず、存在を認めてもらえない少年は、いくつかの誘導で盲のおばあちゃんの家にたどりつき、「Fake MOON」の勇者につけた名前の片仮名表記で呼ばれる彼女の亡くなったはずの孫と誤認され、この世界の服を得ることでとりあえずの姿を獲得します。ここまでの過程で、月の光を奪った悪い竜を退治すべく王宮からものものしい鎧と剣に身を固めた勇者が送り出され、さっそくモンスターと勘違いして犬を追いかけ回したり、民家の家具を物色したりの騒動で町の人々の顰蹙を買っていることが描かれます。
プレイヤーはここで、この勇者の所業が「Fake MOON」で操作した「勇者」の行動と対応するものであり、「Fake MOON」が文字どおりこのムーンワールドの出来事を、勇者に都合のよい“偽”の視点で歪めて描いたものであり、実際のところは画面上で「リアルに」展開されているような、周囲にとって迷惑千万なものであったという仕掛けに気づくわけです。こののちも、勇者のとる行動は、「Fake MOON」の展開と実に些細な部分まで対応をみせ、「落ちた少年の物語」のなかで皮肉かつユーモラスなその「真相」が曝露されていきます。
さて、少年はのちに彼をこのムーンワールドに召還した月世界の存在であると判明する、夢で出会う女王とその従者ムツジローから、勇者がモンスターとして殺害した51匹の罪なき動物たちの魂をキャッチし救済すること、および地上世界の住人たちとさまざまなかたちで関わることで「ラブ」を収集するよう示唆されます。少年がこの世界で連続して活動できる時間は限られており、そのアクションリミットが切れる前にベッドで眠り休息をとらなければ命をなくしてしまうのですが、一定の「ラブ」を集めると少年の「ラブレベル」が上昇し、活動限界時間が長くなるのです。
このような物語上の動機づけと重ね合わせられて、ようやく「落ちた少年の物語」のゲームとしての骨格が明らかになりました。すなわち、昼夜と曜日のルーチンサイクルでタイムテーブルの進行する世界において、アクションリミット分の時間制限を受けながら、動物たちのソウルキャッチと人々にまつわる「ラブ」の発見・獲得という趣向に見立てられたイベントを探しだし、謎(パズル)解きをおこなうこと。この構造が終局まで貫かれ、「落ちた少年の物語」のストーリーを形成します。
この時点で、「『moon』はRPGへのアンチテーゼである」という評価の仕方について、これを「『moon』がこれまでみられたRPGという範疇に批判的意識を持ち、そこにおさまらない新しいゲーム性を実現した、ないし目指した」と解する場合の議論が可能になります。
まず、実際のゲームに照らし合わせるかぎり、明らかにこの見方は不当です。操作キャラクターに与えられた行動制限を何らかのゲーム課題(戦闘とかアイテム収集とかパズル解きとか)をこなすことによって徐々に解除する(成長する)過程をストーリーと絡めて進行させるという性質は、RPGとカテゴライズされうるあらゆるコンピュータゲームに共通する最大公約数的構造の表現として大きな問題はないと思いますが、先に要約した『moon』のゲーム性は、この構造を一切逸脱するものではありません。
もしこの論点を生きながらえさせようとする場合、ロープレの本質についての定義をより狭めて限定する以外にありませんが(たとえば成長のための課題を“戦闘”に限定するとか、行動制限の性質は定量化されたヒットポイントでないと駄目だとか)、そのような試みのばかばかしさは指摘するまでもありません。
また、制作者自身がそうした逸脱を目指す意図のなかったことを証言するインタビュー記事も存在する(註2)ことから、「『moon』はアンチRPGを目指したが失敗した」も単なる事実誤認といえます。
では、「アンチRPGなシステムを目指すべきだった、ないし目指して欲しかったのにそれは実現されず、したがって失敗」式の議論についてはどうでしょうか。
こう展開するにいたり、ようやくまともな検討の余地が生まれます。これは『moon』という作品総体のなかでのシステムないしゲーム性の意義づけに関する話題であり、以上のようなゲーム構造単体の議論からでは結論を出すことができません。
おそらく、「目指すべき」の主張は、次のふたつの解釈を前提に成立していると思われます。
(1)「落ちた少年の物語」は、結局のところ「暴力的な勇者へのアンチテーゼとしての平和主義・博愛主義のアジテーション」である
(2)「Fake MOON」の存在意義は、上記の「落ちた少年の物語」の読み解きの正当性を際だたせるものとしての「勇者なシナリオ」を揶揄することである
そして、『moon』の販促コピーが「もう勇者しない」であったことなども補完材料としながら、このふたつの前提より、
(3)『moon』の作品総体のテーマは、いわゆるRPGの表面的な謂としての「勇者なシナリオ」の否定ないし揶揄以上のものではない
と、さらなる解釈を展開します。
この地点からゲームとしての「落ちた少年の物語」がもたらしたプレイ体験を振り返ると、それは世にある多くの「勇者なシナリオ」がそうであるところのロープレの体験と、結局同じようなものでしかなかった。つまり、シナリオとプレイ体験とがちぐはぐであるがゆえに詰めが甘く、(3)の「テーマ」は、中途半端で不徹底と評価すべき。
したがって、各々のパーツが協同して感動を高めあうよりトータルな作品であるためには、不徹底の元凶であるゲーム性の部分において、強力にRPGのオルターナティブを目指すべきだった。
というのが、この主張の論理でありましょう。
しかし、僕はこの(1)~(3)すべての解釈に反対ですので、この主張は斥けられるべきだと思います。
このうち、(2)についてはすでに詳論し、「90年代初頭的な『ロープレ体験の陳腐化』を想起させること」という対論をなかば呈示しており、あとは「落ちた少年の物語」との関係による意義づけをのみ残すだけです。
ですので、次は「落ちた少年の物語」のゲーム性とその見立て演出とがどう絡んでプレイヤーの体験を構成したのかを追いながら、(1)の解釈の反駁に繋げたいと思います。しかるのち、おのずと(3)の無効性が明らかになるという寸法です。
■「落ちた少年の物語」のゲームに秘められた「歴史」~ゲームはなにを得、なにを失ったのか~
外堀から埋めはじめてみたいと思います。そういえばRPGとしての「落ちた少年の物語」は、過去のいくつかのタイトルにおぼえた感覚を、思いおこさせてくれるところがありました。
たとえばアクション・リミットによる行動範囲の制約は、かつて『Ultima』シリーズでFOODのルールが同様のゲーム上の効果をもっていたことを思い出させます(註3)。饒舌なテキストによるつよいシナリオ誘導がなく、世界をあてどもなく歩くなかで“謎”を探し、キャラクタ操作とアイテム選択の素朴な操作で解くべきパズルを見出していくあの頼りなげな味わいは、『ゼルダの伝説』とか『ワルキューレの冒険』。
どちらかといえば、「RPG」というゲーム様式のイメージがあまり明確なかたちで存在せず、かなりイイカゲンな言葉だった時代の息吹。というより、80年代半ばくらいに放課後をファミコンとともに過ごした子供たちは、それらのゲームを「RPG」なんていう耳慣れないコトバで認識していたのではなかったはずです。
むしろ僕らの気持ちの実際は、『マリオブラザーズ』や『マッピー』にアスレチック広場を、『グーニーズ』や『スペランカー』に秘境探検を、そして『チャレンジャー』や『スーパーマリオブラザーズ』(註4)にさらに広々した冒険世界を見出してきた「遊び世界」の拡張のベクトルの延長線上に、それら「アクションRPG」のもつ“世界の謎”との悠々とした戯れ方と、出会っていたのではなかったでしょうか。
逆に、そのころにRPGという言葉を意識していたようなのは、たまさか『Wizardry』とか『Ultima』とか『ザナドゥ』に触れることのできた一部のパソコン持ちに過ぎなかったでしょう。そんな恵まれた一人だった僕なんかの意識において、『指輪物語』~『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の舶来ハイファンタジーのゲーム化の直接的な刻印をはっきり見てとることのできる正統的パソコンRPGは、ファミコンみたいなコドモの遊びと一線を画した、ある種の「高踏教養」であったわけです。ストイックなインターフェースと、緻密なパラメータにもとづく戦闘の戦略性、横文字で書かれたアイテムやモンスターなどの道具立てのフェティッシュさなどにみられる何やら秘儀めいたゲーム体験が、そんな意識のあり方を担保していました。
「RPG」というゲームスタイルの原体験を振り返るとき、僕のなかにはそんな、相異なるふたつの「RPG体験」があったような気がするのです。「遊び世界」と近寄りがたいコア・カルチャーと。
ドラクエやFFは、この後者の息吹を前者にそそぎ込むことによって、僕らとゲームとの関係を、それまでとはまた違ったものにせしめたのでした。それは、「RPG」が「ロープレ」になってゆく時代の幕開けであったとも、言い換えられるでしょう。
この変化のなかで、「ロープレ」に切っても切り離せない属性として産み落とされた歴史的産物が、言葉によって明晰にゲーム過程のなかで語られる「シナリオ」です(註5)。これにより、それまではRPGのゲーム性がもたらすプリミティブな感性反応のパターンを、言語処理系の網目にすくいあげて能動的に秩序化する以外の回路のなかったプレイヤーの内的な<物語>(註6)形成の過程に、ダイレクトに言語情報を投ずる回路が重層的に加わり、高度に秩序化された<物語>を構築することが容易に、しかも低い能動性の水準で(ほとんど意識をはたらかすことがなくとも)、実現できるようになりました。
そのようにして、言語性のたかいシナリオ進行と数値化されたパラメータやコマンド選択による戦闘秩序とが、「ロープレ」らしさの車の両輪と認められて90年代にかけて洗練されていくにつれ、かつての「遊び世界」系のアクションRPGとコアRPGとが持っていたそれ以外の“雑味”は、切り捨てられたりRPGジャンルの周縁に追いやられたりといった運命を、たどってきたのではないかと思うのです。
僕が「落ちた少年の物語」のゲーム体験に与えたいと思っている意味づけの輪郭が、そろそろ見えはじめてきたのではないでしょうか。それは、これまでみたような「ロープレ」化以前と以後の我々とゲームとの関わり方の変化についての認識があって、はじめて空虚なレッテルとして以上の理解がえられる性質のものだと考えたので、かくもの回り道をさせていただきました。
つまり、RPGという言葉に自縄自縛される以前のRPG、とりわけファミコンブームのメインストリームたる冒険アクションゲームの最終型としての「遊び世界」系アクションRPG体験がもっていた、非言語性の見立てパズルを能動的に、しかも反射神経的ではなく、悠々と発見して取り組む楽しさの息吹(註7)。
プレイヤーにとってこのムーンワールドでの体験を、ビビッドで実在感あるゆたかなものとして記憶されうるものに仕立てあげるべく、せめて最低限、80年代半ばの「ゲームの面白さ」の水準を実現しようという真正な意志。
この言葉にはすこしの客観性もありません。直接実証できる方法もわからない。けれども、「ああ、そういうことか」と納得してもらえる感性の少なからぬを信じます(註8)。
ただし、これはやはり骨格としてのゲーム性がもたらす、体験の輪郭であり、下地塗りにすぎません。それを具体個別の見立てがどう充填し、上塗りをしたかをみて、はじめて個々のタイトルのゲーム体験をトータルに<物語>化できるのではないかと思います。
したがって「落ちた少年の物語」についての前節(1)の<物語>についての反駁も、その検討が済んだのち、おのずから完了することになるわけです。
■「落ちた少年の物語」のゲームの見立て演出~『moon』だけの「ラブ」とはなにか~
見立て演出の検討とはどういうことかというと、「落ちた少年の物語」のひとつひとつのパズル解きが、具体的にどういうイベントだったかを評価し、それが僕らのこころに喚起してくれた「てつがく」を見えるようにすることです。
「落ちた少年の物語」のパズル解きの見立て演出の最大の特徴は、言うまでもなく、きわめて丹念に設計されたムーンワールドの住人が、昼夜曜日の繰り返しの日常をいとなむその「生きざま」に寄り添うことで、それが何の見立てであるのか(インテリゲンチャのヨシダでさえ)誰にも答えられない「ラブ」という不思議な定量パラメータを収集することにあります。動物たちのソウルキャッチは、それぞれが人とは別の律でこの世に存在(粘土細工でつくった造形を取り込むというかたちで、月世界の生き物たちはデザイン的に差別化されている)していた、「生きざま」の記憶を読みとることで捕まえるという、人々の「ラブ」ゲットと共通性と異質性をもつ行為です。あれもラブ、これもラブ、そして動物たちのタマシイがラブ。
見立ての意味性の強弱を比較すれば、意味の世界に生きる人間たる少年から相対的に遠いところにある動物たちの「生きざま」を、動物図鑑アニマルファイルをガイドに解読する作業は、人々に付き合う際のそれよりも、無機物を相手どった純然たるパズル解きに近い位置にあります。人間科学よりも自然科学の方が没価値性がたかいのと同じ道理。したがって前節でみた、パズル解きのゲーム性による下地塗りが、トータルな体験のなかで比較的むきだしの色合いを出します。
よって、見立て演出がもたらす意味づけの上塗りの性質は、もっぱら人々にまつわる「ラブ」ゲットのイベントを対象に考えてみることにします。
全体を概観しましょう。
ムーンワールドの住人たちはすべて違った顔と「生きざま」をもっており、各人について必ずひとつないし複数の「ラブ」イベントが用意されています。各々のイベントは基本的に独立ながら、たがいに絡み合っているものも少なくありません。
特につよい超越的な意味性をもたない、平和な日常のなかでの各人の「生きざま」における小事件をあつかったものが大半ながら、勇者の竜退治の大義名分である「月の光の喪失」という世界の異変についての「大きな物語」に絡むものも一応存在しています。ヘイガー博士の月探査ロケットのパーツ集めに関わる一連のイベントは少年の旅を直接終局に導くものであるのと、「Fake MOON」でプレイヤーの見た場面と正確に対応している勇者絡みの諸騒動、少年の出自を知り「現実」への帰還のための方策として「光の扉」を開けることを示唆する狂言回しフローレンスとの出会い、およびヨシダに付き合って世界観と問題意識を学ぶ夜中の大学のイベントは、少年をエンディングに向けて動機づけるという意味での「本筋」とみなすこともできるでしょう。
ただしこうした目的性があまり饒舌なテキストで語られたり、少年を強烈に促したりするような演出はなく、あくまで他のイベントと等価なかたちで断片的に呈示されるのみであり、プレイ中ほとんどの瞬間は「本筋」への目的性などを意識せず、偶発的ないし気まぐれに個々の登場人物たちと関わるはずです(ついでにいえば、かけかえ可能なMDで、各場面の物語的意味づけを役割とする固定的なBGMを排したのも、それと通底した演出戦略でしょう)。そういう前提で「ラブ」収集がおこなわれます。
もちろんひとつひとつの「ラブ」ゲットをすべてトレースするわけにはいきませんので、各々の「ラブ」ゲットイベントの見立てバリエーションを、次のように三類型7種類に分類整理して計上してみました。
第一類型は、少年が積極的に一肌脱ぐことによりキャラクターたちの感謝の「ラブ」を受け取るタイプのものです。合計20件で、「落ちた少年の物語」の最大類型をなします。この類型は、多くのRPGやAVGでよく目にする、メジャーかつわかりやすいタイプのイベントのつくり方だといえるでしょう。
第二類型は、特に少年が何か積極的なアクションを起こさずに得られるタイプの「ラブ」を分けました。“みまもり型”とは、相手が相手の「生きざま」の文脈のなかで何かを得たり、人の知らない秘密のすがたをみせたりする場面に立ち会うことで手にする「ラブ」。“はげまし型”は、特につよい援助行動をするわけではないが、相手が自力で悩みを克服したり自分を変えたりする契機に少年がなったときの「ラブ」。一風変わったのが“つきあい型”で、特にコミュニケーションらしいコミュニケーションが成立するわけでも、普通の意味で相手がポジティブな変化をするわけではないが、愚痴を聞いたり相手の手前勝手な自己納得に付き合ったりすることで得られる「ラブ」です。合計15件と、少なくありません。
第三類型は、人間相手や無機物を相手に勝負して、勝ったときに得られる相手との友情や勝利の達成感という意味での「ラブ」です。計8件あります。これも第一類型同様、他のRPGやAVGで一般的なイベントのあり方でしょう。
以上みてみると、第二類型のイベントのあり方が、他のゲームタイトルではあまり目にすることのない『moon』独特のきわだってユニークなものであることに気づかされます。システム的な背景としては、昼夜曜日のタイムテーブルに沿った各キャラクターのルーチン行動パターンが存在し、「大きな物語」に拘束されないかたちで少年がその「生きざま」に都合をあわせて行動するというプレイスタイルがあってはじめて実現するタイプのイベントだからです。
このことは、世界が決して特権的な存在としてのプレイヤーのために準備されているのではなく、自らが歩み寄らなければ見えない世界があるのだというムーンワールドのゆたかな実在感をまたしても僕らに与えるのと同時に、各々のキャラクター造形とあいまってこの作品が抱く人間についての「てつがく」をも垣間みせてくれるものです。
すなわち、決して安易に立ち入り、肩代わりしたりわかった気になったりすることのできない、「他人の人生」というものの陰影。あるいは、もっと身も蓋もないコミュニケーション不能な他者の存在。
こうした人間観は、これまでゲームがあまり積極的に描いてはこなかったものだと思います。そんな人々との距離感のオモシロさを、このゲームは「ラブ」と呼んだ。よくいわれる悪意とか毒気とかいう感想の持ち方は、すこしばかりプアではないでしょうか。
そんな「てつがく」に貫かれたこの世界の住人たちの造形のもつ陰影は、個々の好き嫌いを越えて、ただごとでない水準にあると僕は思います。
毎日クッキーを焼き続ける、盲目のおばあちゃん。「おばあちゃんは病気がよくなって嬉しいんだよ」と少年を孫と信じて語りかけるすがたのやりきれない寂しさ。
週に三日、ナイトバーで酒をあおる門兵のイビリー。別れた女房が連れた息子との「約束」をはたすべく、毎週太陽の日の練習で、念願かなって飛行機は夕暮れの空を舞う。ただしその「約束」は、今のところまだ、彼の心の中だけのもの。
そのナイトバーの女主人ワンダ。カウンターの中に拘束されたフリーキーな体躯と、彷徨人フローレンスと彼とのあいだの一人娘フローラへの想いとのギャップが醸しだす、えもいわれぬ哀感。
トンガリMD屋店員バーン。半端に途切れるギターサウンドと忙しくギターを隠す恥じらいの仕草の、たまらない愛らしいさ。示されてみるとイカニモな類型を切りだす、制作者のまなざしの確かさ。
80年代以降の露悪的ホンネ主義の結実、エコ三兄弟。イッてしまった長兄長女と、戸惑いを捨てられない純朴な末弟という設定の芸の細かさ。
個人的ヒットをつかれた、「バリバリ島」で「電波サル」に「ギャムラン」を習う、次男坊☆スマの傑作エピソード(註9)。いじけっぽい自意識では、あの島のコミュニティ楽器は弾けないよ。
90年代っぽいクラブノリが直接ひきいれられたMDミュージックにのせて描かれる一筋縄ではいかないキャラたちへのまなざしは、少々突き放した感じがするかもしれません。けれどもそれはイマドキの感覚によりかかった不人情ではなく、この時代の表現にはどうしたって欠かせない「照れ隠し」にほかならないのだと、僕は感じます(註10)。なんなら、戦後民主主義的タテマエのオルターナティブが未だみつからないなかでの最低限のバランス感覚とかいう大文字に言い換えてもいい。
そうした根っこの部分の素直さを信じられるのは、前節でみたような「ゲーム」としての下地が、僕らの体験の嘘のなさを担保してくれているからなのでしょう。もはや何も信じられなくなった我々が、なぜかひとりゲームだけは信じている。そういう物言いの成り立つ現実は、確かにあるような気がするのです。
なんにせよ、前々節の仮定(1)。「落ちた少年の物語」は浅薄な平和主義・博愛主義のアジテーションである、が成り立つ余地は、すくなくとも僕の体験の中にはありません。のみならず、多くの人が無理なく受け止めるであろう素朴な印象を死なせてしまう有害な言葉の使い方だと思います。
だから仮定(3)、作品総体としての『moon』の価値を、「失敗したアンチRPG実験である」と貶める見方も、ここでは棄却されます。第一、この見方はエンディングの整合性ある解釈を諦め、その失敗を作品の不出来に転嫁する、批評としての完成度の低いものでした。個人的に、作品の失敗を指摘するならするで、その失敗の断面から読者に何らかの有効な視座や価値、あるいは興を再構成して提供するまでの心構えをもたないものは、自身も表現物であるにほかならない批評としては未成熟なのだという価値観がもっと当たり前にならなければいけないと思います。その前提がない意見は、せいぜいあくまで自立した批評にサンプルとして参照されるだけの「材料」としての位置づけをしかもちえないものです。
次節では、ゲームを楽しむことに根ざした多くの意見や感想たちに批評たるを断念させた、結末部分の検討に入ります。我々はなぜあの選択をしなければならなかったのか。その必然性を、あくまで作品内の論理から探ることが、この稿の最大の目的なのです。
■そして終局へ~「勇者の竜退治」と「落ちた少年の物語」、リアルの世界とフェイクの世界~
ゲーム中、明示的に描かれるわけではありませんが、『moon』の物語の「本筋」は、いくつかのアイテムを人に見せたときの反応やポイントを調べたりして得ることのできる複数の情報の断片を再構成することによって、プレイヤーが見立てる<物語>として得ることができます。というよりも、ゲームを進行させるイベントクリアのためのフラグ立てとは関係のない、ただ興味のあるプレイヤーに「本筋」についての<物語>の材料を提供するためだけに存在するアイテムが存在していたりして、近頃の「ロープレ」化したRPGよりもむしろ『ゼビウス』や『ドルアーガの塔』に近いストイックな<物語>喚起の姿勢が感じられました。余談ですが。
そうした純然たる<物語>喚起アイテムのひとつが、「白羽の矢」でした。これは勇者の由来を説明づけるものです。かつて月の光が失われたとき、「伝説の勇者が悪い竜を倒し、月の光を取り戻す」というストーリーで人心をなだめるため、勇者をでっちあげるためにおこなった「白羽の矢」儀の名残であると。ここで選ばれたのが実は死んだと思われていたおばあちゃんの孫であり、城に伝わる呪い鎧を着せられて死ぬまで剣を振るい続けることになったという真相が、やはり純<物語>喚起アイテムである「勇者のブロマイド」を酒場のイビリーに見せることによって判明します。
王様の要請を受けてのヘイガー博士の月探査ロケット計画は、大臣のこの妄執的な「世直し」に対し、月世界に直接おもむくことで月の光の喪失原因を探ろうというものでした。要するには「世界の危機」に対するふたつの対処のシナリオがあり、一方が「勇者の竜退治」(少年の「現実」から眺めると「Fake MOON」)、もう一方が「落ちた少年の物語」であったというわけです。
かなり危険なことを示唆してロケットに乗り込ませておきながらのヘイガー博士のなかなか無責任な誘導と、これまで関わった人々の意識的無意識的な援助を受けながら、幾多に演出される危機を越えて月に到着する少年。そこで目にするのが、ゲーム中ヒントのための預言書として扱われていた「奇盤」が、うずたかく積まれた月世界の光景。ROMチップのかたちを模した奇盤には、この世界に棲むすべての人々の「生きざま」や物事の進行が書き込まれていた。
月の女王の言では、勇者の所業により月は奇盤であふれかえるようになり、この世界は危機に瀕している。それを回避するための預言と女王らが考えた「落ちた少年の物語」の奇盤にしたがい、少年を外の世界から召還したのだと。そして勇者が月の城をラスト・ダンジョンとみなし、女王の裏面のもうひとつの顔として描かれている竜を倒しにくる前に、ラブに満ちた透明な少年の手により「光の扉」を開かなければならない。
ここで、それまでには明示されていなかった、勇者の行動の脅威が明らかになります。
いかに周囲に迷惑であれ、アニマル殺しの暴力が甚だしかれ、基本的には世界を救うためであるはずの勇者の行動が、生命なきコンピュータ・プログラムの謂としての奇盤へと事物を還元してしまう。
この設定の意味は何でしょうか。プレイヤーはここで、いよいよこの『moon』という作品の矛先が、ゲームをプレイする我々自身に向けられていることに気づくべきヒントを与えられたのです。なぜか。
生命のないコンピュータ・プログラムのもたらす視聴覚情報を個性あるキャラクタに見立て、活き活きとしたゲーム体験を見出すのは、僕ら自身のこころのはたらきにほかならないからです。
勇者の剣が、キャラクターたちの複雑な(わざわざクレイモデルを組み立てまでした)質感を奪い、ただのプログラムに変えること。これが、そのようにゲームを見立てる人のこころのはたらきの危機を隠喩するもの以外の、いったい何だというのでしょうか。
その「ゲームを見立てる人のこころのはたらきの頽落」が実際にどのようなものであるかは、すでにご覧いただいた、「Fake MOON」の意味づけと「落ちた少年の物語」のゲーム性についての議論を思い返していただければ、おのずから明らかであると思います。おそらくはドラクエ、FFのシリーズ化とスーファミの新国民機化とを背景に、90年代初頭くらいから支配的になったゲーム体験の自堕落化・マンネリ化の傾向。さらにその生理的内実についてのひとつの考察として、RPGが「ロープレ」となり、「シナリオ」が支配的ファクターとなってプレイヤーの積極的意識活動としての<物語>生成のアクティビティが相対的に低下した可能性を、僕は指摘したのでした。
すくなくとも、そうした実感をゲームと共にあゆみ成長するなかで抱いたことのある人にとっては、勇者が無造作に振るう剣がキャラクター達をただのパターンの塊に帰したその描写は、決して唐突なものではなかったはずです。
少年は促されるまま、「光の扉」に手をかけ、開けようとする。開かない。
ムツジローが少年の失敗をなじり、女王/竜は困惑する。そうこうするうち実は彼にとっての「飛空挺」としてロケットに隠れ乗っていた勇者が降り立ち、少年が救った動物たちをラス前の中ボスとばかりに一掃、動物たちは次々とむきだしの奇盤のかたちへと変じていく。
ここで初めて、女王/竜はこの世界のほんとうのからくりに気づくのです。彼女ら自身の奇盤が世界のどこにも見つからなかったわけ。それはこの世界を統べる彼女ら自身もまた、奇盤に運命を記述されたプログラムの幻影に過ぎなかったから。外の世界から少年を呼びだし、「落ちた少年の物語」を歩ませたこともまた、プログラムの予定調和に過ぎなかった。ハードディスクに書きこまれたOSがみずからをフォーマットすることができないように、この運命を内側から変えることはできない。
絶望のなか、いよいよ勇者の剣が迫る…。
僕はこの稿で、ゲームとしての「落ちた少年の物語」が、いかにプレイヤーにゆたかな実在感を喚起するために工夫されているかを、視聴覚演出・ゲーム性・見立て演出と下から順に階層を積みかさね、再三にわたって強調してきました。「Fake MOON」との対比で、セーブすら意識させない一回性の、極力ゲームくさい嘘を感じさせないリアルな世界として一貫して描きだすのが、トータルな体験としての「落ちた少年の物語」の表現戦略であったと思います。
ところが、その「落ちた少年の物語」もまた、いかに巧妙に描かれていたとはいえ、結局は「Fake MOON」同様のプログラムされたフェイクに過ぎないという、作品からの見解の呈示。ここからも、この作品を「勇者の暴力主義に対し博愛主義を対置しただけ」とするのが誤解であることがわかります。そのどちらもが、等価にフェイク(動物の救済を疑いなしに善とするムツジローの造形も、根っこのところでプレイヤーに胡散臭さを感じさせるよう狙ってあったとみなせますし)。
そのことの意味を考える暇もなく。女王/竜は最後のぎりぎりの希望として「落ちた少年の物語」の奇盤に結末が書かれておらず、外の世界から来た少年ならばもしかすると発揮できるかもしれない、「レベルであらわせないラブ」による救済の可能性を示唆し(もちろんそれ自体もプログラムされた誘導であるに間違いありません)、勇者の必殺技の前に、死して奇盤と化します。
最後に、勇者が自らの分身である少年を斬り、この世界に実体をもたないふたつの影がともに倒れた瞬間。
「テレビゲームなんてやめて、早く寝なさい」
視点は「現実」、テレビの前。画面に浮かび上がるのは、ゲームオーバー時に誰もが目にする、あの見慣れた選択肢。長い旅を終えてふたたび「現実」へ戻った少年と立場を一にする、「外」の世界の人間として、僕らはひとつの選択を迫られました。
ゲームを続けるか、否か。
■「ゲームを捨てよ、街に出よう」の底にあるもの~ひとつの作品との対比から~
もうすこしだけ、まわりみちをしようと思います。
その選択を迫られたとき、僕はひとつの既視感をおぼえたのです。
あの素気のない、少年の母親の声が、たぶん記憶のリリーサーになったのでした。子供のころをゲームとともに過ごしたことのある人ならば誰もが経験したことがあるだろう、「ゲームなんて」の無理解との対峙。自分にとってはまぎれもない真実である、こころのなかの世界に対する理不尽な無視。
かつて、少年の日のフィクションとのそんな関わり方の底にある心象を鏡のように描いた一遍の物語を、僕は夢中になって読んだことがありました。ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』。『指輪物語』や『ゲド戦記』とともに、わが国でもっともよく読まれている現代ファンタジー作品のひとつです。
運動も勉強もダメでいじめられっ子のバスチアンが唯一心を解き放てるのが、物語の与えてくれる空想の世界。そんな彼がいかに「早く寝なさい」に抗し、ベッドに懐中電灯を持ち込んだりして本読みに耽ったかという描写をつよく記憶しているのですが、『はてしない物語』はまさにそのように読むべき本でした。周知のようにこの作品は、主人公バスチアンが冒険物語「はてしない物語」を読んでいく過程に、本好き・ファンタジー好きの読者のすがたを重ね合わせ、やがて彼が物語で描かれる異世界ファンタージェンの危機を救うために本の世界へ招請されて帰還するまでの筋立てのなかで、物語する人々のこころの問題を深いレベルで描き出し、第一級のファンタジーと称されたのです。
『moon』の筋立てをよくある話だとして、新奇性のなさを指摘するためにだけ、異世界ファンタジーの漠然としたカテゴリーを想定する感想のもち方はこれまでもいくつか見られたのですが、僕はカテゴリーの金字塔であるこの『はてしない物語』には、もっと詳細かつ本質的な部分での同型性を見出せる気がするのです。
バスチアンが「はてしない物語」の外側からアトレーユの血沸き肉踊る冒険物語に引きつけられ、“虚無”からファンタージェン国を救うために現実世界でのダメな自分自身を捨て、勇気をもって幼な心の君の招請に応えるまでの前半部と、ファンタージェンの救世主として増長し、本来の自分自身を忘れ身勝手にふるまうことで再度世界を荒廃させ、自分自身のアイデンティティを危機に追いやってしまう後半部とのシンメトリー。
これに対比すると、モニタの外から体験されたゲーム体験の陳腐化・自堕落化による世界荒廃の謂としての勇者のシナリオ「Fake MOON」と、ゲームが元来もっていた活き活きとした非日常体験の回復への願いとしての「落ちた少年の物語」のシンメトリーは、時系列順序と異世界内外での体験の位置づけをのみ入れ換えた、逆順『はてしない物語』ともいえる構造を抱いているのではないでしょうか。
世界の事物を次々と奇盤へと還元する勇者の剣は、まさに文明がファンタジーの本来の想像力を萎えさせ、物語がただの受動的な消費娯楽と堕落化した事態の象徴としての虚無や、いずれはそのような虚無と化す増長したバスチアンの逃避的なファンタジーの関わり方と、同じものだといえるでしょう。
人狼グモルクはアトレーユに、かつてファンタージェンを訪れ、亡者となって二度と現実世界に帰れなくなった者たちの話をしました。ファンタージェンを訪れた人間はそこで思い通りの願いをかなえることができるかわりに、現実世界での記憶をひとつずつ失うので、結局「願い」の主体である自分自身をも失ってしまったというわけです。バスチアンもまた、その道を半ばまで歩みかけたのでした。
言い換えれば、空想世界のなかに留まるかぎりにおいて、そこではすでにつくられたイメージを蕩尽し、縮小再生産をしかなしえないのだという、ひとの精神についてのエコロジーが唱えられているというべきでしょう。一見「人の想像力は無限である」というような耳あたりのよい主張に傾くかのイメージをもたれがちなファンタジーという表現の本質は、そのような、ひとのこころの妥協のない写像なのだと思います。
そんな、ファンタジーのなかのファンタジー『はてしない物語』は、ファンタージェンで出会ったかけがえのない友たちの援助によって真実に気づくことのできたバスチアンが、本来の自分自身を受け入れ、この魅力ある架空世界をすこやかな姿に保つため、現実に帰還することによって幕を閉じます。ただしそれは以前のバスチアンでなく、ファンタージェンという「リアル」を自分のなかに得た、新しい現実との付き合い方のできる彼になることが、この物語のエピローグでした。
そして愛すべきファンタージェンの住人たちも、あの有名なフレーズ「それはまた別の話。また別の時に語ることにしよう。」で示唆されるように、それぞれの物語をどこかでつむぎつづけているのでしょう。
そう、僕らの選択の話でした。
それはファンタージェンを体験したバスチアンのこころをなぞれば良かった『はてしない物語』の読者よりも、きっと困難な立場であるにちがいありません。バスチアンはエンデの選んだ、道を誤り亡者となることをさいわい避けることができた成功のサンプルだったわけですが、僕らはよりみずからの体験そのものに近いところに立脚し、失敗する可能性を実際に背負ったうえで、成功を選びとらなければならないのですから。
ただし、正解はきわめて論理的です。
一見すべてのことが思いのままになりそうなファンタジーが、実は誰にも揺るがすことのできない独自の“律”をカテゴリーの存立根拠としているように、そこにはかならず、そうしなければならない必然があるのです。
奇盤というチップにすべての運命が書きこまれたムーンワールドを、そうでない地点へ解放するとはどういうことか。月面の奇盤で「ワンダがカウンターの外に出ることは、絶対にない」の記述を見つけたときのかなしみを、どうすれば救い出せるのか。今のままでは永遠にプログラムに拘束された幻影でしかない彼らが、「それはまた別の話」を歩みだすことができるようになるために、僕ら自身は何をすべきなのか。
だから、ほかの何事かのためではなく、あくまでムーンワールドと『moon』を体験した僕ら自身を救うためにこそ、あの正解は正解だったのです。
■おわりに~「リアル」と「フェイク」の断絶を越えて~
かくして正解を選びとることのできたプレイヤーたちは、少年自身の「現実」に解き放たれ、ムーンワールドの住人たちが「また別の話」を歩みはじめていることを示唆するエンディングを目にしたことでしょう。
けれどもさいわいに、いちどは正解を選びそこねてフェイクの円環に戻されてしまった人も、ファンタージェンの亡者として一生閉じこめられるようなことはなく、みずから気づいたり先達に道を尋ねたりして正解にたどりつくことができるまで、何度も選択をやりなおすことができます。
もちろん、あの選択にこれまでみたような意味に気づくことなく、ただ二択の作業として偶然に正解を選びとることもあれば、逆に一度か何度か正解選びに失敗してこそ気づきうる場合もあると思います。
それが、ゲームというものです。
この稿では、僕自身の内的な体験としての『moon』が、決して僕個人だけに意味あるものではないことを信じ、オルターナティブとして役不足と感じた他の見方については僭越にもかなり躍起に否定したりしながら、長々と再現させていただきました。しかしながら、わざわざ確認するまでもなく、ひとがゲームに何を見出すかは、そのひとが生きる現実の具体個別の文脈のなかでゲームがどのような位置づけにあるかに依りますので、僕の言葉の体験喚起のリリーサーとしての有効性は、そこに縛られたものでしかありません。
たとえば80年代のゲーム体験がなく、僕が指摘した歴史の大勢みたいなこととは関係なしに90年代初頭のロープレを活き活きとした青春として過ごした人にとっては、『moon』が勇者にあのようなイメージを託したことは、自分自身のかけがえのない体験を踏みにじる悪意として受けとるほかのないものだったことでしょう。
だけれどその場合であれ、すくなくともゲームを語ることをそれぞれの文脈において必要視したり、実際そうしていることを共通前提にするならば、誰にとっても関心をもたずにはいられない、僕らが生きる「現実」とゲームのなかの「虚構」との関係のありかたについて、ひとつの批評的示唆を読みとることのできる立場を、『moon』という作品が存在せしめたという事実を「知って」おくのは、決して無駄なことではないと思うのです。
「現実」とゲームの「虚構」とを、相反する断絶したものではなく、たがいにどちらか一方だけではすこやかな世界を築くことのできない相互的なものととらえること。これがもっとも作品内の諸表現を整合的に説明し、多くのプレイヤーの現実にとってみのりをもたらしてくれると僕が感ずる、『moon』のメッセージにほかなりません。
そしてこのメッセージはひとり『moon』が突如として唱えたものではなく、『はてしない物語』において顕著に意識化・対象化される、ファンタジーという様式の本質として、近現代文学の周縁に連綿と受け継がれてきたものでもありました。
さらに根源に遡るなら、もともと人間が、神話というかたちに集約された「虚構」の体系を祝祭の場において再現し、「現実」を周期的に活性化する(というよりも、「現実」も「虚構」もない人間精神の構造に即した起伏やリズムをもつ、ただひとつの“現実”を生きる)ライフスタイルを、人類史の圧倒的多くの時間、当たり前にしてきたことを指摘してもいいでしょう。そうした「現実」と「虚構」との一体化した関係が、とりわけ近代以降に決定的に喪失するなか、日常の論理への従属を特徴とする近現代文学のリアリズムの手法を逆手にとって、より質感ある原初的な架空世界を描く手段に転用することで現れたのが、こんにちのファンタジーなるものの氏素性であるとする見方は、大雑把な見通しを晴らしてくれると思います(註11)。
ゲームもまた、日常を構成する現実世界を効率的に写像し制御するために生まれたコンピュータという未曾有の器を「遊び」の意志のもとに転用した徒花として登場しました。文字で書かれたファンタジーよりもさらに膨大な感性情報に満ち、ミクロな場面におけるビット換算の情報量とチャンネルの多様さだけみれば、コンピュータ・ゲームは相対的によりかつての祝祭に近いかたちで人間の生理に即した普遍衝動を回復しうる回路となったともいえるでのしょう。
けれどももう一面では、ゲームを成り立たせるコンピュータ・テクノロジーは際限のない欲望の拡大再生産のシステムとしての高度資本主義産業なくしては存在しえないものであり、本質的にそこでは人間のアクティビティは狭い専門の枠で分割され、なおかつその内外で一方的な供給者であるか享受者であるかの分裂症的なふるまいを強要されるものです。これが、あくまでトータルな世界観の共有のもと、そのなかでの秩序ある進行としてケとハレのリズムが存在する本来の祝祭が機能する社会の文脈とは、似ても似つかないものであることを忘れるわけにはいきません。
「現実」と「虚構」とが分裂し、トータルな“現実”を構成するリズムとはなりえず、それを統合しようとする秩序や価値観の見通しも立たないまま、ミクロな感性体験だけが人の原初の衝動に近づいていくゲームという文化装置は、人間の精神にとって、文字で書かれたファンタジーとは比べものにならないオーダーの頽落の可能性を、確かに抱いているのだと僕は思います。おそらくエンデは、コンピュータ・ゲームを人間の想像力への敵とみなしていたことでしょう。
そのあたりの問題は、もはやほとんど文明論の範疇になるしかなくて、認識したからとて誰かが操作的にどうにかできる話では、当然ながらないわけなのですが。
であればこそ。文明だの社会システムだのが投げかける、マクロには一過性の受動的な享楽として消費されるマスプロダクトにすぎないという縛りのなかで、可能なかぎりリアルとフェイクとの関係を善きものとする能動性をプレイヤーに促そうと、情報環境の幾多の不適合を越えて描かれた『moon』の祈るような「ラブ」を、僕は肯定しておきたい。ちょっぴり人の悪いイマドキの照れ隠しの部分も、すっかり含めたうえで。
ともすれば想像力のエコロジーを簡単に崩してしまいかねない危険をわきまえたうえで、せめてゲームとともに成長し、抜きがたい原体験としてもつ僕たちくらいが、そいつにうまい“現実”での居所を与えてやるようなやりようを考えないでどうするのか。それができないかぎり、僕らはいつか、みずからをフェイクの牢獄にとらえられた操り人形に貶めてしまうのではないでしょうか。
汲みとるべきは、そういうことなのだと思います。
<参考文献>
『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ作/上田真而子・佐藤真理子訳岩波書店1982
『ファンタジーを読む』河合隼雄講談社α文庫1996(原1991)
『機械じかけの夢』笠井潔ちくま学芸文庫1999(原1985)
『SFとは何か』笠井潔編著NHKブックス1986
『情報環境学』大橋力朝倉書店1989

沢月亭
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/guest/moon.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/guest/clove_r.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/essay/game2.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/goebbels.html



  

















(註1)
戸塚義一監修『ゲーム音楽』では、スーファミ登場直後の1990~1992年はゲーム音楽の「惰性期」と区分されています。
(註2)
別冊宝島『このゲームがすごい!'98プレイステーション編』所収「LOVE・de・LICインタビュー・MOONはボクたちの愛です」におけるインタビュアーと工藤太郎とのやりとり。
───今までのRPGというと、だいたいパターンって決まってるじゃないですか。(中略)そういった従来のパターンを覆そうとか、新しいRPGの新境地を切り開こうという意識を持って『MOON』を作られたのでしょうか?
工藤RPGを別の角度から見てみようという意識はありました。でも『MOON』は純粋なRPGではないですからね。RPGをネタにしたゲームって感じで、RPGの行く先とかは全然考えてないですから。
(註3)
ウルティマシリーズのFOODの意義についてはこちら。
(註4)
本稿の文脈とは直接関係ないが、80年代ファミコンブームに少年時代をすごした筆者による素晴らしいスーパーマリオ体験の息吹。
(註5)
『ゲーム批評サンダー』第2特集「ゲームシナリオの存在意義って?」の堀井雄二インタビューでは、ドラクエにおけるシナリオの導入がいかに自明なものではなく歴史的だったかがうかがえます。
(註6)
いうまでもなく、沢月さんの用法にしたがっています。
(註7)
もちろんこの意味でなら、たとえば64の『ゼルダの伝説時のオカリナ』とかの方がはるかに徹底しているではないかという話しにもなるけれど。アクションRPGのアクションについてのすぐれた考察といえばここ。あとここも。
(註8)
ただ、前掲の制作者インタビューのプロフィールで工藤太郎、倉島一幸、木村祥朗の三氏はそれぞれ好きなゲームとして『新・鬼が島』『ゼルダの伝説』『リブルラブル』を挙げており、80年代中盤のゲーム体験のつよさがうかがえます。
(註9)
5音階からなる青銅の打楽器アンサンブル「ガムラン」をはじめとする絢爛たる民族芸能で多くのフリークをもつインドネシア・バリ島の州都は「デンパサール」。地元土着信仰と複雑に融合した独特のヒンドゥー教を抱くこの島の平民カースト(非常にゆるやか)の子弟は生まれた順にワヤン、「マデ」、ニョマン、クトゥッのミドルネームがつく。蘊蓄御免。
(註10)
前掲インタビューより、素直さとひねくれの入りまじった制作者の「てつがく」をうかがえる箇所。
工藤(中略)たとえばゲーム中で話をしたり、頼みを聞いてあげたとき、単なる数字としての経験値を積み上げていくというのは、なにかおかしい。じゃ、何だろう。“愛”か、みたいなノリでしたね。もちろんシナリオ上のテーマとして愛をわかってもらいたいっていうのはありましたけどね。
木村作っているときは、愛ってことをけっこう馬鹿にしたソフトだと思ってたんですけどね。全体的におちょくってるんですよ。(中略)おまえらもうちょっと力抜けやっていう。
(註11)
こうした大文脈整理による見方にイマイチ実感がわかない向きに、よい文章がありました。特に「異世界に旅するとはどういうことか」についてのサンタクロースの例えによる説明はたいへんわかりやすい。
あとうちの大学の児童文学研がこんなん出してます。

沢月亭
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/guest/clove_r.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/essay/game2.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/goebbels.html














moon

類型

タイプ

件数

具体例

第一類型

おつかい・悩み解決型

17

王様、ヘイガー博士、ダイア、リーマン、クリスetc

関係とりもち型

ワンダ/フローレンス、ガセ/フローラ、おしべ/めしべ

第二類型

みまもり型

ベイカー、フレッド、玉屋歌子、パパス、ママス、ノージ

はげまし型

イビリー、マデ☆スマ、ニッカ、ヨシダ、レディテクノ

つきあい型

エコ倶楽部、風車庵のおじいちゃん、ポッカ、キュリオ

第三類型

競争型

バーン、アダー、玉屋平吉、鳥男、ビーハヴ

純粋パズル型

虹マシーン、ロビ、ジンギスカン

1999年1月13日水曜日

[ゲーム] キャプテン・ラヴ

[ゲーム] キャプテン・ラヴ
『キャプテン・ラヴ』のゲーム表現~インタラクティブ幻想を尻目に~
中川大地 
1999.5.27改訂
■『キャプテン・ラヴ』とは
『キャプテン・ラヴ』は,語り伝えるべき価値を誰もが認めつつ,「冗談にまぎれて本音を言う」その手つきがあんまり見事だったので,下手に言葉を重ねればなんだかすべての興が凍りつき,てめえの野暮がさらけ出てしまう,語り手たちにとってなかなか厄介な作品という印象がつよい。
けれども,これまで寄せられた同作品への言葉たちをみると,そんな気後れにひとしきり頭を掻いた後で,けっこう素直に自分ごと気持ちよく語られたりしてて(笑),やっぱりキャプテン懐が深い。
ここでは,そんな懐の深さに居直りながら,『キャプテン・ラヴ』のすぐれたシナリオを支える,ゲームとしての表現の特徴・画期性を,なるべくバカ丁寧に言葉にしていきたいと思う。
これって逆にお約束違反の卑怯な逃げかもしれないが(爆)すくなくとも「布教」のためのお買い物ガイドとしてはいつか誰かがやらなければならぬ手続であり,その泥を自分が被ろうという次第である!…ということにしといてクダサイ。
ともかく,敬意ひとつ表すにも,なんか皆がいろんな気づかいをせずにはいられなくなってしまっている奥深い作品なのだということだけ,未プレイの方には心に留めておいてほしい気がしちゃったりなんかして(「ふざけて」/「ごまかす」)。
さて,『キャプテン・ラヴ』は,愛の共産化の理念のもと,すべての人にラブを分け隔てなく与えることをもくろむ秘密組織ラブラブ党と,永堀愛美(ラブラブ党書記長の愛娘である)への唯一絶対のラヴを貫く愛と正義のヒーロー,キャプテン・ラヴこと主人公との熾烈な論撃バトルを背景に,「真実のラヴ」を描くドラマチック・ヒーロー・アドベンチャー。つまり「お嬢さんをください!」てな話。
全9話構成,第1話で全編を通じた主人公の正式な恋人となる愛美のほか,各話で1人(ないし2人)ずつ設定されたエピソード・ヒロインとの3角(ないし4~5角!)関係を中心とする物語を描く,基本的に一本道の静止画&テキストAVG。各話で愛美以外のヒロインに乗り換えるとその話かぎりでゲーム進行がエンディングになることと,3・5・7話がシナリオ進行中の随所でオプション的に現れる「フリー」コマンドでの移動場所選択で一定の条件をそろえフラグを立てなければ発生しないことのほかは,大きなシナリオ展開の分岐はない。
つまりAVGとしてのインタラクティブ性の基本であるプレイヤーの選択の入力は主に対話相手の台詞へのレスポンスが中心で,『ときメモ』型のいわゆる恋愛シミュレーションゲームによくみられるパラメータをカスタマイズする操作とか,『同級生』シリーズ的な女の子のいそうな場所への選択的な通いこみとかの要素はなく,相手のリアクションのニュアンス的な変化のみが結果として出力されてくる。だから『キャプテン・ラヴ』における選択肢の意味は,妙なゲーム的要請に苛まれることなく,おおむね主人公のロールプレイや当意即妙のやりとりでシナリオを楽しむために供されているといってよいだろう。
各話の山場では,このゲームを特徴づける論撃バトルなる趣向が用意されている。
主人公の恋路を邪魔するラブラブ党の敵対者たちとの愛をめぐる論争を四択の台詞選択でおこなう。
よって,明示的な能力値もヒットポイントも隠しパラメータもないこの風変わりなバトルの勝敗を左右するのは,プレイヤー自身のドラマツルギーの理解度や主人公への感情移入度,そして洒落の通じ度にほかならない。
また,この作品のゲームとしてのストレスの少なさについてもふれておきたい。
それは,シナリオの進行がゲーム性のために滞らされることが,一切ないということである。
多くのAVGやRPGでは「推理」や「謎解き」といったフラグ立ての作業が,それをクリアしなければ同じ処からストーリーを進めることができない障壁となっており,その部分こそ「ゲーム」としての存在証明のように,なかば硬直化した信念のように思われているフシもある。
対し,『キャプテン・ラヴ』にはそうしたところでプレイヤーに負荷を与えることがない。
考えようによっては,従来のゲームでプレイヤーがフラグを立てるまでどんなに時間をかけても,シナリオが待っていてくれるというのは,リアリティという点で妙な話だ(同じ連中からグルグル何度も同じ話を聞かされたり,すわ世界崩壊という直前にチョコボを育成していたり…)。このへんの時間進行の問題に絡めて考えてみても,ファジー選択や論撃バトルで何の選択もせず無言のままでいることもゲーム的にひとつの選択と認められていたりして,この作品の従来にないフィロソフィーのひとつとして受けとめてよい気がする。
こうしたゲーム性の評価にうつる前に,演出の特徴についてもふれておく。
『キャプテン・ラヴ』の見せ方の枠組みには,各話を350MB以上の容量を費やしてあるという上質のオープニングセルアニメのムービーで始め,各エピソード・ヒロインのモノローグによるイントロダクション,サブタイトル・ブリッジと続いて本編に入る,連続TVアニメ仕立ての構成が採用されている。
しかしそれでいて,『サクラ大戦』なら美少女チームバトルもの,『メタルギア・ソリッド』なら吹替アクション洋画ものといったように,作品全体の雰囲気を言いあらわすことができるような,直接外部参照できる既存メディアでの確立されたコンテンツ様式は,意外と見あたらなかったりする。これまで32ビットゲーム機において,ストーリー表現を注目されたゲーム・タイトルの多くは,その演出を主に映画やアニメを中心とする既存メディアのオマージュとしておこなわれているのが中心であり,その評価の仕方ももっぱら「◯◯というゲームはうまく××映画のエッセンスを再現した」という観点からであったことを想起してほしい。
『キャプテン・ラヴ』では,たとえば変身ヒーローものという要素ひとつとっても,シナリオの中でパロディ的に二重三重に消化された表現装置であるにすぎず,たとえば役者を藤岡弘や大葉健二といった特撮ヒーローものの常連で固めるというような,演出様式それ自体の本家取りということとは本質的に異なる。TVアニメ仕立ての構成も,決して様式それ自体が目的なのではなく,後述するように作品のシナリオを最大限活かすための,ゲーム性と密着した表現手段にすぎない。
このようなストーリー表現の様式の自立性の高さも,地味なポイントではあるが,特にプレステのタイトル群の現状からすると,本作品の画期性のひとつに数えておいてよいかもしれない。 
以上のようなゲーム構造・演出上の特徴は,しぜんプレイヤーの関心をシナリオへと効果的に注力させる。つば広の帽子を被ったマイペースっぽいヒロイン愛美のクローズアップや仕草に始まり,OP曲なかばで各エピソード・ヒロインを1ショットずつ連続でみせるオープニング・アニメの構成は,あくまで愛美がメインで他ヒロインたちは脇役であることを主張し,プレイヤーに物語の主人公として愛美との恋愛関係を貫き通すことがゲームの本筋であることが一目でわかる。どんなに当たりさわりのない受け答えを選択しても避けられない近藤パンチを2~3発も喰らってみれば,いいかげんこのゲームのたちに気がつくはずだ。
多くの恋愛題材ゲームでは,さまざまな記号的属性によって色分けされた複数の候補の中から好みに合う娘をプレイヤーが自由に選んで落とすことがゲーム性の根幹であり,登場キャラたちのゲーム的・シナリオ的な位置づけがほぼ等価に近いのとは対称的に,『キャプテン・ラヴ』の女たちには,物語上の役割によって規定された,主人公の相手としての重みづけの違いがはじめから付与されているのである。
そんな各話のエピソード・ヒロインたちは,えてしてプレイヤーにとってヒロインの愛美よりも恋愛対象として魅力的な部分を強調されて描かれることが多く,プレイヤーとしての自分の気持ちと裏切りながらゲームを進めるために愛美を選ぶという心理的負荷にしばしば苛まれる。
その心理的負荷はちょうど,心を通い合わせ,自分を好いてくれた女性たちを棄てていかなければならない主人公の心の傷の蓄積に対応し,「従来の恋愛シミュレーションにないリアルな恋愛描写」という印象評価の根拠のひとつとなっている。田尻智流に言えば,『キャプテン・ラヴ』は「悩む,振る」ゲームだとでもいうことだろうか。
このような仕掛けで語られる『キャプテン・ラヴ』のシナリオには,シナリオ・ライターが「こうだ!」と信ずる恋愛観が明確なテーマとして屋台骨を貫いている。しかしその語り口は,修学旅行での夜話のような未成熟な直球でプレイヤーを白けさせることなく,ゲーム中でさんざん相対化されるキャプテン・ラヴ自身やアンチ観念の戯画化したラブラブ党などのバカな設定・プロット展開や軽妙なギャグで,「愛を語る野暮」は巧妙に回避されている。けれどもそのバカっぽい装いは,オタク的に高見に立っ(たつもりになっ)て対象を嘲笑する普通の意味でのバカゲー的な下卑た笑いには陥らず,テーマの真摯さを損なうよりもむしろ際だたせることに成功している。
■『キャプテン・ラヴ』の構成
すこしだけ中身に触れよう。
第1話における愛美は,主人公からみて「からかわれているのか?」という印象を抱かせる,ついペースを奪われてしまうつかみどころのない不思議ちゃん的女の子としての印象がいくぶん強調されていようにみえる。そんな彼女の振る舞いと,ふとしたやりとりの中で見せた涙とのギャップが,女性に対しトラウマをもつ主人公の目にはどうしても気になるある種の神秘感をもった存在に映り,恋愛の契機となるさまが描かれるが,ここまでの過程には従来の恋愛題材ゲームの典型的な展開とほとんど大差がないようにみえる。
そうした従来型典型での「お約束」的展開ならば,主人公(あるいは男一般)にとって,出会いの段階での相手についての情報の欠如が膨らませる「こうあってほしい」という願望を大きく裏切らない範囲で相手のバックグラウンドや本性がエピソードのなかで描かれ,ラスト,相手のパーソナリティに誤解の余地のない状態になってはじめて告白する/されるという手続を踏むことになるだろう。
しかし本作品では,愛美と恋愛関係になるまではあくまで前節であり,その関係を波風の中で維持してゆく過程こそが物語の根幹となる。いったん彼女になった第2話以降の愛美はどんどん所帯じみて,現実に愛美と恋愛関係にあるわけではないプレイヤーの目にはほとんど鬱陶しく思えるくらい嫉妬深い,甘えん坊にみえてくることもある。
このあたり,他の多くの恋愛題材ゲームが恋愛関係を維持してゆく困難を捨象し,相手についての幻想を膨らませる過程をのみディフォルメしているのに対比したとき,「リアル」という評価がここにも妥当する。
もちろん,恋愛関係の維持するしんどさをしんどく描くだけのアンチなシナリオではない。プレイヤーの側の違和感を呼ぶ愛美の側の未成熟も第6話や第8話などでエピソード・ヒロインたちによって告発され,主人公とともに成長を遂げてゆく過程が起伏ゆたかなプロットのなかでしっかり描かれる。
シナリオ全体やキャラクター造形を通じ,明らかに制作者は従来の恋愛題材ゲームの現状を前提に,高い批評的意識のもとで作品づくりに臨んでいたことがうかがえよう。 
以上みてきたように,明確な問題意識を反映した作家性の濃厚なシナリオに対し,「これをしたらゲーム的に駄目なんじゃないか」という展開分岐への妙な危惧に邪魔されることなく右四つで取り組み,呈示されたお題と対話することに専念できるよう,あらゆる表現要素が最適化されているのが,本作品のゲームとしての最大の特徴だろう。
こういう作品に出会うと,デジタル技術にあかせて受け手が物語に介入できるようにすることを是とするゲームについての素朴なインタラクティブ幻想は,やはり不用意なものだとつくづく思わされる。しょせんコンシューマ・デジタルハードでのパッケージソフトという制約がある限り(ってーか結局ネットゲームでもそうなんだが),受け手の物語介入欲求を満足させることなど望みえない。そしてそのように「錯覚させる」ことも,ハードの映像表現能力の向上は急速に困難にさせつつある。月並みな言い方だが,人が物語をつくる素過程とは五感から入力された情報の不足を大脳での解釈処理の段階で補うことにほかならないと思うので(マクルーハンのホット/クールなメディアとかを持ち出す恥ずかしいやつもいる),ゲームから得られる視聴覚情報量がビット勘定で増え,その視聴覚情報の内容も本物そっくりに具象化し,おまけに映画的文法で編集済み(編集ってのは情報の解釈行為そのものですからね)ということになってしまっては,受け手の脳でなすべきことがどんどん無くなるばかりで,かつてのような「物語に介入する」感覚などは望める道理がない。
『キャプテン・ラヴ』は,そんな気の滅入る物語ゲームへの過剰な幻想と勝手な幻滅とのジレンマを尻目に,ゲームと物語表現との,また送り手と受け手との関係についての,もうひとつ別のスタンダードの存在に気づかせてくれたような気がする。要するに,この作品は「(疑似)物語作成キット」ではなく,物語の決められた役割をプレイヤーのパーソナリティにおいて演じる文字どおりのロールプレイング・キットとでも呼べるものだったのではないだろうか。この意味づけはたとえば「やるドラ」シリーズのようなAVG全般に多かれ少なかれあてはまる要素ではあるが,推理や謎解きなどの従来のゲーム的要素がなく,選択肢の設計が徹底しており,より純粋で完成度の高い雛形として位置づけることができると思う。
プレイヤーはそんなふうに主人公を演じながら,物語を動かせるという錯覚ではなく,会話や論撃のなかでシナリオからの「ツッコミ」とか「ボケ」とか「批評」とかを,受けとるのである。
つまるところこのゲームにおけるインタラクティブ性ということの意味は,既存物語メディアにおける鑑賞となんら変わることのない,作家と読者との内面性の交錯以外の何物でもないわけだ。
そして,それで良いではないか。
この何年か,ゲームと物語との関係についての夢をたくさん見たけれど,これからはもうそれは無理だから。
しょせんぼくらは,作家がシナリオにこめたカタルシスを,お金で買う以外に手に入れられない,フツーの人に戻るしかないのだから…!
※なーんて能書きはともかく,普通の大人がキモチ悪い思いをすることなく,自然に笑い,泣くことのできる数少ない恋愛ゲームってことです。
気心の知れた仲間同士でのパーティー・ゲームとしてもなかなかお薦め!けど恋人とやるのはけっこうチャレンジかも!?

沢月亭
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/guest/clove_r.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/essay/game2.html
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/goebbels.html













1997年12月24日水曜日

Mac,漢字TALKソフト















オールドマック ソフトの収集
過去に集めた貴重なオールドマック ソフト。
インターネット上から集めたオールドマック ソフト。
中古Mac SE , Mac Plus購入時、偶然インストールされていたオールドマック ソフト。
The Vintage Mac Museumをより充実させるため、オールドマックソフトをeBayで落札中。
The Vintage Mac Museumをご覧くださった方が、提供してくださったオールドマックソフト
オールドマックソフト
ALDUS PAINT & PUBLISH
Adobe Illustrator
(2006.7.1)eBay(オークション)でMicrosoft Wiord Ver.3(近日公開予定)を落札。
かなり熱い?戦いとなり落札価格も31.25ドルに跳ね上がった。
( 二人がむきにならなければ5~10ドルで落札できたのですが )
今後も、予算の許す限り、オールドマックソフトを落札したいと思う
Microsoft Word Floppy Disk
(2007.4.21)eBay(オークション)でSUPERPAINT 2.0(日本語版)を落札。今回は日本語版ということで競争相手なし。1bid $9.99で楽々落札。送料($29.00)の方が、はるかに高かった。どういった経緯で海外のオークションにかけられたのか?
SUPERPAINT
2007.5.1無事到着した。
パッケージの中身を確認してびっくり。マニュアル、ユーザー登録ハガキ、簡易マニュアルなどすべての印刷物にPrinted in USAの文字が。当然と言えば当然だが、当時は「日本語版」もアメリカでつくられていたんだ!!これで、eBayに出品された謎が解けた。
Japanese version creditsではProduct Manager Yoshiyuki Kubo of Aldus Corporationのテロップが流れた。
2007.5.30 Aldus Product Managerを勤めていらっしゃったYoshiyuki Kubo氏、から、メールをいただき、当時のようすを伺うことができた。当時、久保さんはアメリカシアトルに在住され、Aldus本社にて日本語および2バイト版ソフトの開発を指揮されていた。
(2007.5.25)The Macintosh's first great gameである Alice-Through the Looking GlassをeBayで落札。
落札価格は$20と破格だが、この商品、本を模したパッケージがなく、さらにフロッピーディスクのラベルが汚れている上、落書きがしてある。コレクターアイテムとはならない。しかし、Through the Looking GlassはAppleの開発スタッフが1984年に制作した唯一の純正ゲームソフト、これとて歴史的価値ある一品だ。
Alice
Chesire Cat
( 2007.5.31 )無事に到着。早速、チェシャ猫などをキャプチャした。
2007.3.3 とても嬉しいメールをいただきました。私が長年探し求めていた貴重なオールドマックソフト( Excel, Multiplanなど )を愛知県在住の古久根様からお借りできた。
オールドマックソフト2
2008.2.6 Old Macを処分したため、必要なくなったソフト( Wingz、Theorist、AMBASSADORなど )を佐藤様からいただくことができた。
2007.4.8-私がOld Mac Wantedのコーナーで捜していたStuntCopter 1.0、ALICE CATCHERをお借りできた。
StuntCopter 1.0
ALICE CATCHER
記憶に誤りがあったようだ。「ALICE CATCHERは32-Bit Color QuickDrawを使用、System7でないと起動しない。」の記述が。当然、Mac PlusやSEで起動するはずもない。私の記憶もMacも時間とともに朽ちていく。記憶の薄れないうちに、できるだけ多くのソフトをThe Vintage Mac Museumにアップロードしていきたいと思う。
ペイント系ソフトを使いMacを精密描写

オールドマックソフト・キャプチャーの制作現場
http://www.d4.dion.ne.jp/~motohiko/makingmac.htm