1981年2月26日木曜日

[PCゲーム] NEC PC-8001ゲーム,WEST SIDE

[PCゲーム] NEC PC-8001ゲーム,WEST SIDE
WEST SIDE
フレーム表示
タイトル
スクリーンショット 備考
WEST SIDE
PC-8001
ACT ゲーム画面ゲーム画面タイトル画面MARIO Bros.
タイトル画面ゲーム画面
ACT タイトル画面タイトル画面SPIDER RESCUE
タイトル画面タイトル画面
ACT SPIDER RESCUE
[ 画像なし : ご協力お願いします ]
■PCG
--- マグフォース
[ 画像なし : ご協力お願いします ]
UTT タイトル画面タイトル画面Magic Copy II
タイトル画面タイトル画面 ■DiskSystem
PC-8001mkII
UTT テープ版 Magic Copy
[ 画像なし : ご協力お願いします ]
■8801/80mkII/8001 + 64kRAM

OUT of STANDARD
http://www.geocities.jp/upd780c1/n80/frame.html











1981年2月25日水曜日

[機器] NEC PC-6001

NEC PC-6001









NEC PC-6001






NEC PC-6001mkII







[機器][PC] NEC PC-6001mkII
小屋から懐かしいものがぞくぞく 
2016/5/14(土) 午前 11:17 日記 パソコン
今回はウチの小屋にあった懐かしいものをご紹介します!
◆PC-6001mkII
まずは、NEC PC-6001mkIIです。
これは、たしか中学生の頃、友人から買ったものです。
当時はTALK命令色々言わせていました。
NEC PC-8801MA
次に、NEC PC-8801MAです。
これは、私が高校の時に東京にあったコンピュータバンクという店で通販で買ったものです。
この機種はサウンドボードIIと同等のサウンド機能がついていまして、当時FM音源では表現が難しかった
シンバルの音を表現できていました。
※ただ、シンバルと音がちょっと微妙でしたが・・。
FM-TOWNS MA
次に、富士通のFM-TOWNS MAです。
これは、東京都小岩にあったパソコンの中古屋さん(すでに名前忘れたし、その店はもうない)から買ったものです。昔、お店でデモとして動いていた、アフターバーナーが衝撃でした。
X68000XVI
次は、X68000XVIです。
これは、秋葉原のソフマップ(確か)で買ったものです。
PowerMac6100
次は、PowerMacです。
これも秋葉原のソフマップで買ったものです。
ディスプレイ込みで15万円だったと思います。
これは小屋にあったのではなく、隣の兄(今は隣県にいる)の部屋におかさせていただいております。
AMIGA3000
最後に、AMIGA3000です。
えっと、これは職場の先輩の友達から買ったものです。
メガデモが衝撃でした。
おまけとして、この2つは、「ふぁみ魂家郎ver.6」と当時熱中したファミコン用のソフト「メルヘンヴェール」です。

結城ジュンのブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/toyosato2014/42181121.html















■NEC PC-6001裏技,
タイトル 裏技
EGGY (Tape) ゲームオーバーになったらすぐに[SHIFT]+[space]を押し続けると死んだ面からコンティニューできる。
チョップリフター (Tape) [SHIFT]+[STOP]でスピードを選べるようになる。[↑][↓]で選択。
ミユキthe勝負師 (Tape) ゲームが始まったら[STOP]を押す 10 KM=00000:KI=20000:DR=1000[Return] 4100 KM=00000:KI=20000[Return] RUN[Return]で勝手に負けて服を脱いでゆく。
EGGY (Tape) ゲームオーバーになったらすぐに[SHIFT]+[space]を押し続けると死んだ面からコンティニューできる。




■NEC PC-6001mkII裏技,
タイトル 裏技
倉庫番 (Tape) ゲームをLoad後 720 G=xx:W=xx[Return] RUN[Return]で好きな面からできる。xxは面数 1~20。
タイニーゼビウスmkII (Tape) ゲームスタート時に "たまのいろは"と表示されたら[STOP]を押す。 POKE &H9849,&HC9[Return] CONT[Return]で敵が撃ってこなくなる。
ナウシカ危機一髪 (Tape) ゲームが始まりガンシップが離陸し始めたら[SHIFT]+[STOP] 画面が真っ暗になったら[PAGE]を数回押してページ3にする。
RUN[Return]デモに戻るので[space]でスタートすると次の面になっている。さらに次の面に飛ぶにはこれを繰り返す。
信長の野望 (Tape) ゲームをLoad後、230 R=xxx[Return] RUN[Return]で IQ,カリスマ,健康,野心が xxxの数値になっている。 xxx は 000~999。
パックマン (Tape) mon[Return] R 0[Return]でゲームをLoad後 SD0F9[space]パックマンの数を16進で入力(00~FF) [Return] GDD74[Return]でパックマンを増やせる。






Seed-種をまいた人-
高橋ピョン太インタビュー
このページは、現在のゲームの原点となったゲームを制作した方に、インタビューをするコーナーです。
と言っても今後、別の方にインタビューする機会があるかわかりませんが(逝)
また、テープをおこすという作業自体が初めてなので、見苦しい点があるかも知れません。予めご了承下さい。
ちなみに、ダイアルアップで接続されている方は、オフラインで読んだ方が良いと思います(逝)
今回インタビューをお願いしたのは、元ゲームプログラマーであり、元ログイン編集長の高橋ピョン太さんです。
2時間ものインタビューにつき合って頂きまして、有り難うございました。
色々な面白い話が聞けたのですが、全部を載せるわけには行かないのが残念(笑)
高橋さんのコンピュータに触れたきっかけから、ログインで働くまでの経緯を紹介したいと思います。
ただ、インタビューと言うよりも、雑談かもしれません(逝) 
でもこの話の中には、今のゲームやパソコンが失ってしまった、大切な何かがあると思っています。
注:敬称略です(^_^;
(1998年9月収録)
愛妻 お久しぶりです。
高橋ピョン太(以下、ピョン太) どうも。相変わらずだね(笑)
愛妻 今日はですね、昔ゲームを作ったときのきっかけとかを聞きたいんです。いまゲームをやっている人たちが「昔はこういう感じだったんだ~」というのをホームページに載せたいんですよ。それで今日、インタビューをお願いしたんです。
ピョン太 じゃあ、僕がなんでゲームを作ったとか、そういう事を言えば良いんだね。
愛妻 まあ昔話でも良いんですけど(笑) こんなゲームが面白かったとかそんな感じで良いんです。えーと、ピョン太さんのことはログインの紙面とかにバンバン出ていたので、知っている人は多いと思うんですが、元プログラマーだと言うことを知っている人は、あんまりいないと思うんですよ。ログインの隔週の最後に、その事が載りましたよね?
ピョン太 『デジしょく』だね(笑)
愛妻 そうです(笑) それで知ったと言う人も周りには結構居たので、じゃあ「こういうのを作ってたんだよ」みたいなのを載せたら面白いかな~と。
ピョン太 最近よく、「元プログラマーだったんですよね」とかね、言われますよ(笑)
愛妻 ははは(笑)
ピョン太 基本的に昔のパソコンっていうのは、あっ、まだマイコンって言っていた時代なんだけど。
愛妻 ええ(笑)
ピョン太 マイコンって言うのに興味があって買った人は、なんだかのプログラムをしないとさ、何も出来なかったんだよね。
愛妻 そうですよね。
ピョン太 そこでしょやっぱ(笑)
愛妻 そこですか(笑)
愛妻 シャープ系のマシンはそうでしたよね。
ピョン太 そうそう。クリーンコンピュータね(笑)
愛妻 ええ、それです(笑)
ピョン太 だからまず、ベーシックを立ち上るとシステムが起動して、それで何をやるかというと、ベーシックが立ち上がっている状態だから、何らかのプログラムをロードするか、もしくはプログラムを入力しないと動かない。
愛妻 ですね。
ピョン太 で、その入力するという自体が、コンピュータの、マイコンのもっともベーシックな使い方なんだよね。そうすると自分で組むか、雑誌の後ろに付いていた・・・。
愛妻 リストプログラムですね。
ピョン太 そう。そのリストプログラムを打ち込むと。少なくとも、例え自分で作らなくても、プログラミング作業みたいな事はやらざるおえなかった。
愛妻 そうですよね(笑)
ピョン太 最初オレが始めたときは、市販ソフトという概念もなかったし。『I/O』っていう雑誌か『ASCII』。後は『マイコン』、『RAM』っていう・・・。
愛妻 ああ、ありましたね(笑)
ピョン太 その4大マイコン雑誌(笑) それで入力するしかなかった。
愛妻 『I/O』があまりの厚さで、人が殺せるっていうときですね(笑)
ピョン太 そうそう(笑) それで1番『I/O』が面白いプログラムが沢山あって。投稿がメインだったんだけど沢山載るようになって。それが楽しみで、毎月毎月プログラムが出たら自分のマシンに入力していたんだけど、そのうち入力するのが苦になって来るんだよね。マシン語なんて数字の羅列だから、面倒くさくてしょうがなくて(笑) 間違ったら動かないし、何処が間違えているのかが判らないっていうのがあって。
愛妻 結構泣けますからね。間違いが見つからないと。
ピョン太 すると『I/O』がテープサービスというのを始めたのね。プロラグラムをカセットテープにセーブしてあってそれで模範する。そういう流れだから。基本的には、必ずプログラムするよね。
愛妻 それが高じて、ゲームを作り始めたのですか?
ピョン太 オレがコンピュータでプログラムっていうか、ゲームをやろうと思ったのは、そもそもゲームが好きだったから。
愛妻 いつから、っていうか、最初にプレイしたゲームっていうのは、何なんですか?
ピョン太 それは歳がばれるから(笑)
愛妻 でも僕だって『インベーダー』とか、そういう時代ですから(笑)
ピョン太 ああ、そうなんだ。『インベーダー』をやって、『インベーダー』自体がマイコンで出来ているっていうのを知ったときに、本当に面白そうだなと思ったのね。で、最初はTK-80っていうのを見てて、買った訳じゃないんだけど見てて。高校が秋葉原に近かったから良く観に行っていて、欲しいなと思っていたんだけど手持ちが無くてナイコン(爆笑)
愛妻 はははナイコン(爆笑) やっぱりこれですね(笑)
ピョン太 ナイコンをしばらく続けていたときに、TK-80にベーシックが乗るようなシステムなったやつがあって、それでちょっとベーシックを見て、「ああ、面白そうじゃん」と思って。で、高校を卒業したときに親の仕事を手伝うって言って、それで先にMZ-80Cっていうシャープのマシンを買って貰った。それで返済するっていう形で月賦で買ったんだけど、いつの間にか親が払っていた(笑)
愛妻 ははは(笑)
ピョン太 それでマシンが来たときに、その中に入っているベーシックの説明している本を見て遊んでいる内にプログラムを覚えたという感じ。で、プログラムを覚えているときに、アメリカで「アップルIIでスタープログラマーが誕生!」みたいな本を読んだのね。それをオレが見たのはね、『ポパイ』っていう雑誌があるでしょ。その『ポパイ』のニュースのところで、アメリカの億万長者じゃないけど、それに近い人というのが居て、新しい世代の新しいお金持ちみたいな感じで載ってたんですよ。それでオレもなんでか知らないけど、「これだ!」って(笑)
愛妻 凄いっすね(爆笑)
ピョン太 就職もせず日々コンピュータと接していたとき、「もしかしたら出来るかも」って言っていたくらいの頃が、『I/O』のテープサービスが始った頃だったのね。で、ポツポツと『I/O』の投稿プログラムの方にソフトを作るソフトハウスもどきなのが出てきて、ハドソンとかスタークラフトとかが『I/O』創刊の頃にそういう作業をしていて。唯一そういうところが、ちゃんとソフトハウスとして活動してたのね。えーと、九十九電気もそうだね。
愛妻 あ、そうですね。
ピョン太 お店でソフトを売ってて。
愛妻 昔のパソコンソフトって、お店を展開していて、そこにプログラムが好きな人とが集まってきて、いつの間にか会社になったというのが多いですよね。
ピョン太 そうそう。そんな感じのが多かった。
愛妻 日本ファルコムとかもそうですしね。
ピョン太 ショップを中心としたコミュニケーションの場があって、そこに集まったソフトウェアがなんだかの形で市販されるって言うかね、そんな感じですね。九十九もそうで、九十九でパソコンを買うとソフトが何本か付いてきて。まあこれも素人が作ったのだから、今で考えるとほんと”おまけ”的なソフトなんだけど、それでも全部が新しかったから、ムチャクチャ面白かったね。
愛妻 今までにない体験ですからね。
ピョン太 それで、最初に作ったのが『スタートレック』。
愛妻 はいはい(笑)
ピョン太 今だと版権がうるさいからそんな簡単には作れないけど、当時は『スタートレック』っていうのはスタンダードなゲームのルールとシナリオがあって、新しいマシンが出る度に必ず移植されていた物なのね。
愛妻 昔の雑誌とかを調べていますと、市販された『スタートレック』のゲームが、その本を書いた人が載せた数だけでも、結構な数だったんですよ。
ピョン太 『スタートレック』は必ずあった。
愛妻 その中で、どれが一番出来が良いかという事を記事にしていましたけど・・・。『スタートレック』というのは、日本ではポピュラーな物だったんですか? 私が知っていて古いというのは、深夜帯のしか知らないんですが。深夜帯で放映していたのですか?
ピョン太 ううん、最初のは違う。オレが子供の頃は、アニメーションもやっていたし。凄くメジャーだったよ。オレが高校生ぐらいのときに夕方4時とかで再放送とかしていたし。だからファンとかは沢山いて、コンピュータをやるようなやつはSFが好きが多いから、『スタートレック』なんかはまさに良いテーマだったんだよね。で、その『スタートレック』のベーシックなゲームっていうのは、もの凄くコンピュータゲームとしてはポピュラーなゲームだったんだ。誰もがやり方がわかっていたし。毎回同じように遊べるんだけど、乱数で敵とかが出てくるんで、いつでも楽しく遊べた。そんな感じで、当時遊べるシナリオっていうゲームは『スタートレック』しか無かったから、それで徹夜するよね(笑)
愛妻 なるほど(笑) 今の子供たちとゲームの遊び方が違うというのは、自分で遊びを考えるじゃないですか。例えば、プログラミングして出来た。んで、飽きた。じゃあどうしよかってなるんだけど、他にやるゲームがないから、なんかよくわからないけどベーシックを勉強して、「ここをこう変えて、なんかスピードが速くなった」とか、そんな単純な”遊び”でも楽しめたじゃないですか、昔って。
ピョン太 それが直ぐにダイレクトに出来るプログラムだったから、もちろんそういう”遊び”が楽しくてしょうがないし。例えばそのプログラムのある変数を変えると、全然自機が減らないとか、そのプログラムを作った人のコピーライトを変えるとか、そういうプログラム的な遊びで喜んでいたんだよね。
愛妻 今楽しめないじゃないですか。ガチガチに決まっていて、プロテクトも掛かっていて。それにプログラムを勉強しようと思う人はいても、実行するのにはハードルが高いと思うんですよ。今だと媒体がCD-ROMとかになっちゃって容量も大きくなっているし、言語自体もアセンブラとかC言語とか難しい言語になっちゃって、何が書いてあるかわからなくなっていますよね。何もプログラムを知らない人が覚えるための”きっかけ”というのが、今の人には少ないんじゃないかと思うんですよ。
ピョン太 完全にブラックボックスになっているからね。逆に言うと可愛そうだよね。
愛妻 そうですよね。

ピョン太 立ち上げたときにベーシックが入っていて、ペンティアムとか8086のマシンが組めるとしても、それがもう、いきなりハードルが高いからね(笑) 昔は立ち上げたら直ぐのマシンだったから(笑)
愛妻 そうですね(笑)
ピョン太 ベーシックにしてもマシン語にしても、そんなにハードルが高くない時代だったから。今は、開発用のツールを買うだけでも凄い金が掛かっちゃって、そう考えると”プログラムをしよう”と考える人じゃないと、出来ない仕組みになっちゃっているよね。だからプログラマーが増えて欲しいというのは、割とみんな希望としてあるんだけど、それをやる手順がない。でも、最近見えてきたのがHTML。ホームページを作るのにHTMLを少しやると、プログラム的な楽しみがあって、やっぱり基本的な楽しみというのでは、昔のベーシックを楽しむというのと同じように、そういった簡単なものがないとハマれないよね。それが唯一、HTMLかなって思っているんだけど。それからCGIで、画面が動いたりすれば、少しは8ビット時代に近いところで楽しめる所はあるんだけど、そこまで気が付かせるのって、結構やっぱり大変でしょう?(笑)
愛妻 ええ(笑)
ピョン太 パソコン買ってきて電源入れてそれになっていれば良いけど、そうじゃないでしょ。もし覚えられる、新しいユーザーに覚えて貰えるとしたら、やっぱりホームページ周りかなっていうのがあるね。
愛妻 ピョン太さんがパソコンとかでゲームを作ろうと思ったのは、もちろんゲームを作りたかったというのがあるんでしょうけど、組んでいて楽しかったというのもあるんですよね、きっと。
ピョン太 それはそうだよ。でも、”それ”しか無かったという良い環境なんだよね、要は。
愛妻 あ~、なるほど。
ピョン太 プログラムを組んで遊ぶしかコンピュータの使い道がなかったから。アプリケーションを立ち上げて、ワープロをやるなんていうのも無かったし、最初のコンピュータにはワープロなんて物もないわけだし。
愛妻 そうですよね(笑)
ピョン太 オレが初めてワープロというのを触ったのは、月刊アスキーに載っていたワープロの特集で、88(PC-8801の事)とFM-8のワープロが載っていて、それもやっぱりテープサービスみたいな感じで。値段は忘れちゃったけど1万円しないやつが載っていて、それを速攻で買って来て。で、漢字プリンターというのもとても高くて。
愛妻 昔は高かったですよね。
ピョン太 オレが買ったのは、漢字ROMが付いているやつで、16万ぐらいかな(笑)
愛妻 たかーい(笑)
ピョン太 「オオ、スゲェ! 20万円切った」とか喜んでいた時代で(笑) それはもう第1水準漢字しかでなくて。そういう時代だったんで、ワープロも、そんな機能的なものじゃなくて、ワープロで1ページ目を書いて2ページ目に行くのに、ページ切り替えに3分ぐらいかかるし(笑)
愛妻 ははは(笑)
ピョン太 だからそんなにコンピュータっていうのは、実用性がなかったから、プログラミングで遊ぶしかないっていう感じ。
愛妻 なるほど~。じゃあ、コンピュータって言うのを知ったというのは、たまたま秋葉原の近くだっからとか、そういう事じゃないんですよね?
ピョン太 それもあるけど、やっぱり電気系のことが好きだったから。昔から電気工作とか好きで。
愛妻 高校は工業系だったんですか?
ピョン太 工業系だけど・・・建築科(笑)
愛妻 (笑) じゃあ、CAD/CAMみたいなものを・・・。
ピョン太 無い無い(笑)
愛妻 そんなの無いですか(笑)
ピョン太 無い無い。製図板とT定規で。少しプログラミングみたいのもあったんだけど。それがオフィスコンピュータというか、ミニコン。ミニコンレベルだね、プログラムっていうのは。だからちょっと質が違う。でも、その頃からマイコンの存在は知っていたし、そういうのが好きだったから、それはそれでやりたいと思っていたし。それでアキバが近かったし、アキバにも通っている内に、まあこれで『インベーダーゲーム』が出来るかなって(笑)
愛妻 家でゲームが出来るというのは、夢のような話でしたよね。
ピョン太 もう、憧れ。
愛妻 憧れでしたよね。
ピョン太 それまでは確かに、ゲームセンター行ったりとか、そういうことでゲームで遊んでいるし、『インベーダーゲーム』以前にも、電子系のデジタルゲームっていうのがあったじゃない。そういうのはやっぱり魅力的で、よく遊ぶわけだよね。で、よく遊んでいる中で、やっぱり家でもゲームが出来るとなると、これはやっぱりやらざるおえない(笑)
愛妻 そうですよね(笑)
ピョン太 だから基本は先にゲームがあって、電子系が好きでデジタル系へ進んでいったら、プログラムをやるっていう方向へ行って、プログラミングをやるからには、そんな表計算ソフトみたいのを作っている場合じゃないっていう(笑) で、ゲームを作り始めたわけ。それがきっかけ。
愛妻 なるほど~。
ピョン太 で、アメリカでスタープログラマーっていうのが出てきたっていうのを知って、ちょっと商売してみようかなっと思ったとき、何処だけっかな? コンテストみたいのが始まった、というか応募が始まって、エニックスとかアスキーとか・・・。
愛妻 ポニカとか。
ピョン太 まあ、ポニカとかもそうだけど。『スパイ大作戦』はポニカから出たんだけど、あれってコンテストの前で、それは『スタートレック』を出した会社って言うのが通販専門の会社だったのよ(笑)
愛妻 はいはい(笑)
ピョン太 そこに『スパイ大作戦』を作って持っていったときに、たまたまポニーキャニオングループの人が誰かのつてで来て、「会社を作るんでソフトを探しているんですけど」と言ったときにあったのが、『スパイ大作戦』(笑)
愛妻 あ~なるほど。
ピョン太 それで「これどうですか?」って出して。で、その時にね、ちょうど『スパイ大作戦』ってPC-6001が最初だったんだけど、それがオリジナルで。『スパイ大作戦』の最初の「おはようフェリプス君」って言う所でテープが回るんだけど、テープレコーダーの名前を『S○NY』っていう名前で書いて出していたのね(笑)
愛妻 ははは(笑)
ピョン太 これは困るりますねって言われて(笑) 「直ぐに”S”を”P”に直して」って。『PONY CANION』だから『PONY』で良いやって言って。そういうノリでゲームを作って。「じゃあ出しましょう」って出したのが『スパイ大作戦』。
愛妻 じゃあ『スパイ大作戦』は『PONY』製品で言うと、何本目のソフトになるんですか?
ピョン太 えーと。
愛妻 コンテスト前の・・・。
ピョン太 何本目だったけかな。3本目か4本目ぐらいかな。第1段が出ていて、第2段が出るときに『スパイ大作戦』がっていう形になっていたから。
愛妻 では、デビュー作が『スパイ大作戦』と言うことですね。
ピョン太 いや、『スタートレック』。
愛妻 ああ、そっか。
ピョン太 あ、『スタートレック』と『スパイ大作戦』の間にもう1本あって、『アフリカンコープス』というシミュレーションゲームを作っているんです。
愛妻 『アフリカンコープス』・・・。それは一体、どういうゲームなんですか?
ピョン太 ウォーゲームで、HEXを書いて。これもPC-6001なんだけど。まず・・・早い話、将棋みたいなんだけど、自分の駒をこう並べて。これは砂漠の・・・えーと、勉強していたんだけど忘れちゃったよ(笑) 要はロンメルの戦車軍団。
愛妻 有名なやつですね。
ピョン太 あ、そうだ。タイトル名が『ロンメル戦車軍団』で、オープニングの画像の所に『アフリカンコープス』って出して、ロンメルが辿ってきたものをシミュレーションするって言う形。
愛妻 じゃあ正式な名前は、『ロンメル戦車軍団』なんですね。
ピョン太 『ロンメル戦車軍団』。それが『スタートレック』を出したところから出てきた第2段。で、順番としては『スパイ大作戦』の方が先。同じぐらいだったかな? それは片方はポニーから出して、片方はイマージュソフトっていう通販専門のお店なんですけど。
愛妻 イマージュソフトって結構有名じゃなかったですか?
ピョン太 いや、有名でもないよ。
愛妻 広告をよく見た気がしますよ。
ピョン太 広告はいっぱい出てた。イマージュソフトっていう所で2本出して、『スパイ大作戦』が3作目になるのかな。
愛妻 実際に反響とかはあったんですか?
ピョン太 『スパイ大作戦』は最初のポニーのやつで1番売れて、それで移植しましょうって事になって、移植した。
愛妻 結局、何機種ぐらい移植したんですか? 全部自分でやられたのですか?
ピョン太 88以外は、全部自分でやった(笑)
愛妻 ははは、凄い(笑)
ピョン太 (笑) 88版は実はね。これは今だから言っても良いかもしれないけど、どっかの若い訳わからないね、ヤ○ザっぽい人が勝手に出して、オレが作った様なフリをしてPONYに持ってって、出させて。だから最初、印税が入ってきていなかったのね。そういうゴタゴタもあったんだけど。
愛妻 はぁ~。これはオフレコじゃなくて良いんですか?(笑)
ピョン太 良いよ。後で見たら、殆どオレが作ったプログラムで、絵だけを変えているって感じ。
愛妻 ひゃ~。
ピョン太 それは、ちょっとそういうことがあった。
愛妻 なるほど~。実際には、中のプログラムをごっそり持っていっちゃって、自分の物にしちゃっていることですね。
ピョン太 そうそう。
愛妻 コピー物っていう事ですよね。
ピョン太 でも一応パッケージには、名前が全部書いてあったから、外から見たら全部オレが作っているように見えるんだけど、内部的には違う人が関わっていることになってる。
愛妻 その問題はクリアされたんですか?
ピョン太 まあ、ある程度ね(笑)
愛妻 ははは、はい(笑) 
ピョン太 60(PC-6001の事)と80(PC-8001の事)と88と。えーとMZ-1200とMZ-2000の5機種かな、『スパイ大作戦』は。
愛妻 互換機を合わせれば、もうちょっと量が増えますね。って言うことは。88以外の機種を移植したって事は、他の機種は自分でお持ちだったのですか?
ピョン太 買った(笑)
愛妻 買ったんですか!?
ピョン太 最初の印税で(笑)
愛妻 凄い儲かったって事じゃないですか!(笑)
ピョン太 メチャクチャ儲かった。『スパイ大作戦』と・・・。あと『スタートレック』と『ロンメル戦車軍団』の両方を合わせても、数的には6、7千本ぐらいは売れたのかなぁ。そのときは通販だから、オレに印税だけで30%入ってくる時代だったから。
愛妻 3、30%ですか・・・。
ピョン太 それで計算すればわかるでしょ?(笑)
愛妻 ウヒョヒョヒョ(笑) 
ピョン太 メチャクチャ儲かって。『スパイ大作戦』はそれ以上に儲かったから。そういう風に入ってきたお金を全てマシンにつぎ込んだっていう感じかな。
愛妻 なるほど。私はてっきり、会社で用意されている物を使ってやったのかと。
ピョン太 あ、違う違う。その後ぐらいかな? 会社で作って欲しいって依頼が来るようになったのは。で、マシンを貸し出すからっていう感じで。
愛妻 じゃあ一辺に何機種も入ったわけですね。
ピョン太 それでテクポリ(テクノポリスという雑誌が昔あった)に取材されたことがあってね。テクポリのプログラマーの取材のところでオレの部屋が写っているんだけど、殆どその機種が全部畳の上に並べてあるんだよ。
愛妻 えっ? テクポリって、そういうページがあったんですか?
ピョン太 昔あった。最初の頃のテクポリなんだけど。プログラマーの家を訪問して。
愛妻 あれ~?見ていないなー。一応、昔のゲームを調査するために古いゲームの本は読んでいるんですけど。
ピョン太 あのね、何年何月っていうのは全然覚えていないんだけど、黄色い表紙で川島なおみが表紙なんだよ。
愛妻 ははは(笑)
ピョン太 それだけ覚えている(笑)

Nostalgia
http://aizuma.hp.infoseek.co.jp/interview/Talk.htm
http://aizuma.hp.infoseek.co.jp/interview/Talk2.htm










NEC PC-6001mkII裏技

Blue Witch
http://blue-witch.hp.infoseek.co.jp/

PC88
http://www.pc88.gr.jp/webdir/










PC6001本体NG+拡張ユニット+フロッピードライブ 

ヤフオク
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s775958912










1971
■IBM一統のコンピュータ業界
1971年(昭和46年)12月,IBMは日本市場で画期的な成功を収めつつあった。 朝日新聞社と日本経済新聞社が進めてきたコンピュータによる新開自動編集システムが完成の第一歩を踏み出していたのである。
それまでの鉛の活版ではなくコンピュータで新聞を作るという前代未聞の目標に向けて,両社はIBMの協力の下そのシステムの開発に努めていた。そのシステムに使用されたコンピュータはIBM360だった。日本経済新聞社では「ANNECS」(アネックス),朝日新聞社では「NELSON」 (ネルソン)と呼ばれたそのシステムが動き始めたのである。
ともに実験段階や一部稼働にすぎなかったが,日本の二大新聞社がIBM360を導入したという事実は,IBMがコンビュータリゼーションやコンピュータ・テクノロジーの最前線に立つトップ・メーカーであると証明したようなものであった。
IBMは,このシステムの開発を契機に日本市場に新しいユーザーを掘り起こしつつあった。
■各国内メーカーの采配
翌1972年3月,国産メーカー6社はそれぞれ新機種開発計画を通産省に提出した。
日立工富士通グループの新機種は「Mシリーズ」と呼ばれ,東芝/日本電気は「Aeosシリーズ」,三菱電機/沖電気は「COSMOシリーズ」であった。8月には新機種開発のための組織が新たに設立された。日立・富士通は「超高性能コンピュータ開発技術研究組合」,東芝・日電は「新コンピュータシリーズ技術研究組合」,三菱・沖は「超高性能電子
算技行研究組合」である。
国産メーカー6社という言い方をしてきたが,実際には日立,富士通,日本電気の上位3社がわが国のコンピュータ産業をリードしてきたといっても過言ではない。というのも業界再編時に大型コンピュータを開発・製造していたのは上位3社だったからだ。大型機種の開発に携わっていなければコンピュータ技術の最前線から取り残されてしまう。しかも大型コンピュータの価格は高く売上高への寄与度も大きい。当然のことながら上位3社が占める市場シェアは高く,国産6社の市場シェアのうち,金額ベースでは上位3社が85パーセントも占めていた。
業界再編では,上位3社のうち日立・富士通がIBM互換を選び,残る日本電気(NEC)が従来通りの非互換路線を堅持した。いわば非互換路線は少数派に転落したのである。
■NECの采配
しかしなぜ日本電気はIBM互換を選択しなかったのであろうか?業界再編時に日本電気直務としてコンピュータ部門の責任者だった出川雄二郎は,その理由を語る。
「 IBM互換の話は社内でもちょくちょく出てました。僕も傍から随分といわれました。IBM互換路線に変えた方がいいのではないか?とか,もう少し近づいた方がいいのではないか?とかね。でもね、僕は最初から変えないできた。どうしてかというと,僕は小林宏治さん(当時の日本電気社長,現・名誉会長)と随分ディスカッションしました。彼と僕の信念は同じで,真似していたら相手がガラッと変えたとき途中で捨てられてしまうのではないか? IBM互換を選択しても,IBMが突然それまでの路線を変更した時にまたある部分を公開から完全に隠してしまったら,こっちがどう歩いているかが分からなくなる。自分の足で歩いていれば相手がどう変わろうとも,日本電気(NEC)は『これで行くんだ』と言えます。やはり俺は俺だという精神がなくては。そういう信念がなくてはね。だから林さんたちと(社内でのIBM互換の主張を)ずっと蹴飛ばしてきた。少なくとも僕らの周りにいるコンピュータ屋は全員その説で動いてきたわけだ」
日本電気でコンピュータ事業を起こし引っ張ってきたのは小林宏治である。小林は日本電気のキャッチフレーズである「C&C」(コミュニケーションとコンピュータ)の生みの親でもある。間単にいえば日本電気のコンピュータ事業の歴史は、経営者としての小林の歩みとオーバーラップする。.....
ー覇者の誤算,講談社文庫,立石泰則

yhjjuj pc






1981年2月23日月曜日

[機器][PC] NEC PC2001















PC-2001
名称 PC-2001
発売日 1982年?月?日
定価 59800円
CPU μPD7907
液晶 40桁x2行
BASIC N20BASIC
電池 単3電池x4で稼働
重さ 約600g


モデルナンバー
型番 名称 分類 標準価格 対応機種 寸法 (mm)
W×D×H
重量 消費電力
(W)
備考
PC-2001 CPU 本体 ¥ 59,800 225 × 130 × 32 600 g
(PC-2006) 拡張 RAM & ROMカートリッジ カートリッジ ROM: 16 KB, RAM: 8 KB
リチウム電池によるバッテリバックアップ
PC-2021 40 桁サーマルプリンタ プリンタ 印字速度: 40 CPS , 8 ピンヘッド
PC-2081 データレコーダ データレコーダ
PC-2094 プリンタ用ケーブル インターフェース ¥ 7,500




1981年2月19日木曜日

[アーケードゲーム] ニューラリーX


ニューラリーX
ナムコ  
1981年2月より稼動
■Reveiw
1ヶ月前に発売された「ラリーX」のマイナーアップバージョン。
一般的にはこちらの方が有名で、ラリーXと言えば「ニューラリーX」の事を指す場合が多い。
ゲーム内容は、追ってくる敵車(レッドカー)を煙幕で撒きながら、
迷路状のコースに配置された10本のフラッグを集めるというもの。
いわゆる「ドットイートタイプ」を発展させたもので、当時では珍しい4方向スクロールや
チャレンジングステージ(ボーナス面のような物)の採用、
敵とフラッグの位置を確認できるレーダーを取り入れていた所が画期的だった。
初期バージョンである「ラリーX」との違いとしては、敵の数やMAPの変更による難易度の低下や
ラッキーフラッグの追加、デザインと背景色の変更、BGMの変更などが挙げられる。
「タラリララッラ~♪」という超有名な曲を採用したのも本作、「ニューラリーX」から。
まだゲーム中の流れるのは基本的にSEだけだった当時、
本作の軽快で覚えやすいBGMは多くのプレイヤーを虜にした。
サウンドはゲームミュージックの開祖的存在とも言われる大野木宜幸氏によるもの。
彼はこの後も「マッピー」や「リブルラブル」「メトロクロス」などに携わり、
ナムコを代表する多くの名曲を生み出している。
■遊び方
操作方法は4方向レバーに 【煙幕】ボタンのみ。
右のレーダーに記されているフラッグを全て集めれば1ラウンドクリア。
敵車(レッドカー)や岩にぶつかると1ミス。
煙幕を使えば敵車を足止めできますが、煙幕は燃料を消費します。
燃料が無くなるとスピードが極端に落ちてしまうので、注意しましょう。
数面ごとに「チャレンジングステージ」があります。
 ・1周15ROUNDのループ制
 ・コンティニューなし  エンディングなし
 ・エクステンド/20000Pts、100000Pts
四方から迫る追跡者をギリギリでかわして行くスリルと爽快感が本作の醍醐味。
CAST
フラッグ/全て取ればROUNDクリア。
ミスせずに取り続けると100~1000Ptsまで得点アップする。
スペシャルフラッグ/そのラウンド内のフラッグの点が2倍になる。
ラッキーフラッグ/取った時点の残燃料が得点として加算される。
岩(ROCK)/体当たりするとアウト。レーダーには映らない。
煙幕/一定時間、レッドカーの動きを止めることができる。

Arcade Fan
http://arcadefan.web.fc2.com/rallyX.html

ゲーム研究所3948
http://hori3948.g2.xrea.com/ff2/index.html
http://hori3948.g2.xrea.com/
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Bingo/3948/













1980年
今週も1980年の時代にタイムスリップしたよ。
あっ!この画面懐かしい~♪そして癒される~♪
ナムコのラリーXだね。
画面は真上から見た感じになってて、迷路上になった道路コースに点在するフラッグを全て取るとクリアーとなるわけよね。
フラッグの位置はレーダーを頼りに探すわけだけど、
このレーダーではフラッグの位置だけでマップの形状まではわからないのがミソだね。
レーダーだけを見てフラッグへ直進しようとしても、周り込まなければならなかったり、
道はあっても岩が配置してあったりするわけさ。
単純なマップなのに結構迷うわねぇ~…あっ!またレッドカーに挟まれた!ズガガ~ン!
その追っ手のレッドカーの存在も特長的だね。
迷ってウロウロしていると挟み撃ちにあったりするし、
追っ手にマークされているときに袋小路に入ってしまうといったミスもよく見る光景だよ、うん。
頷いてないでアンタも手伝いなさいよ!このピンクお化け!
追っ手は廃棄ガスを吹き掛ける事で一時的に動きを止める事が可能なんだよ。
あ~~~う~~~廃棄ガスを使うのはいいけど、それで逆に自分を追い込んじゃった~あ~~~う~~~。
とにかくこのベーシックながら高いゲーム性は普遍的だよね。
余談だけど、このゲームはナムコ初の横向きモニターゲームなんだよ。
つーか、今どき大平正芳総理大臣のマネしたって誰もついて来ねーぞ。
ま~その~~~。
田中角栄総理大臣も一緒だ!このボンクラ女っ!
それにしても何か引っ掛かるのよね…。何か物足りないって言うか…。思い出が膨らんでいるだけかしら?
えへへ~。その疑問に答えるためにはもう一度タイムスリップする必要があるね。
さ~すがモグさん。だてに年齢詐称してな…ぐべらばぁ!!
(モグサンに指を折られるお姉さん)
あ、それからどしたのっ!
モ~グさんっと。
(逆方向に曲がった指を押さえながら) ここはどこの時代なのかしら?
ここは1981年だよ。1年後の未来へ来たってわけだね。
あーーーーーーーっ!!!!!!!
なんだよお姉さん、出し抜けに大声出して…。また小ジワが増えるよ。
この軽快な音楽は…まさにあの頃に耳にこびりついた『ラリーX』のBGMだわっ!
そう、これこそラリーXの改良版とも言うべきナムコのニューラリーXだね。
そうか、私が『ラリーX』と呼んでいたのは『ニューラリーX』の事だったのね。
あれれ?難易度も調整されてて何気に遊びやすいわよ?
この『ニューラリーX』では、難易度やマップの形状が調整されている他に、
キャラクターがポップに描き直されていたり、残り時間がそのまま得点になるLフラッグが登場したり、
Sフラッグの区別がレーダーマップでつくようになっていたりとゲーム性が豊富になっているね。
でもなんと言っても一番特徴的なのはこのBGMが加わった事よね。
この音を聞くと体が勝手に動くわ。フラッグゲットォォォ~~~ッ!
ストイックな『ラリーX』もいいけど、エンターテインメント作品として完成したのはこの『ニューラリーX』と言えるかもね。
ねー、お姉さ…ぐわっ!臭せぇ!!
あれま。興奮し過ぎて私の尻からも廃棄ガスが漏れてたわ。
やあ、みんな元気かい?帝王のお兄さんだよ。
リリース時期が近い事もあって、『ラリーX』はゲーセンであまり見た記憶が無いな。
たぶんゲーセンも『ニューラリーX』の入荷によって引き払ったところが多いと思う。
それを考えると、みんなが『ラリーX』と呼んでいるものは『ニューラリーX』の可能性もあるわけ。
一度、白黒はっきりさせておいた方が寝覚めがイイと思うよ!
ちなみにこのゲームの世界観を宇宙に持ってきたのが『ボスコニアン』。
ちょっと目先を変えるだけで全然違うゲームが誕生するという好例だね。
このゲームはファミコンを始めとして様々な機種で発売されたから、遊ぶチャンスも多いよね。
でもやっぱり当時のアーケード版に最も近い形で楽しめるのは、
プレイステーションの『ナムコミュージアムVol.1』じゃないかな。
2作品とも収録されているから、2つの違いを遊び比べてみよう!
次回もまた見てね~!
     
大帝王時代
http://enjoy.pial.jp/~tei2/
   
         
       
         
       
         
       

1981年2月1日日曜日

1981年1月29日木曜日

[OS] Windows MS-DOS

















■パソコンの登場
しかしダウンサイジングの主役はいまや超小型機種のミニコンではない。もっとコンパクトな,パソコンやワークステーションと呼ばれる卓上機や卓上に乗るほど小さなコンピュータである。成り立ちからいえば全く新しいコンピュータと言った方が適切かも知れない。パソコン,ワークステーションの歩みは大手主導の歩みから寄り道したところで始まったものだからだ。
半導体開発はIC時代を迎えて,ますます集積化が進み,LSIから超LSIへ,さらに超々LSIチップ(半導体の小片)へと歩みを進めていった。
その過程でひとつの製品が生まれた。ひとつのチップの上に,コンピュータの基本的な能力である演算処理機能を詰め込んだ「マイクロ・プロセッサ」と呼ばれるものである。このマイクロ・プロセッサを中心に作られたのが,個人用のコンピュータ「パーソナル・コンピュータ」つまりパソコンである。
マイクロ・プロセッサが一回にデータ処理できる能力によって,パソコンは4ビット,8ビット,16ビット,32ビットのものが実用化されている。現在の主流は16ビットで32ビットはパソコンの上位機種で使用されている。
「高性続コンピュータを開発するためには,演算素子に優れた半導体を必要としたが,逆に高性能な半導体から生まれたコンピュータが「パソコン」なのである。ありていに言えば半導体のお化けがパソコンである。
そのパソコンの頭脳マイクロ・プロセッサを1971(昭和46)年に開発したのが米国の大手半導体メーカー・インテルである。
■Apple   
しかし実際にパソコンを開発し,そのブームの火付け役となったのは半導体メーカーでもIBMなど大手のコンピュータ・メーカーでもなかった。米国の半導体産業のメッカ・シリコンバレーには半導体メーカーやコンピュータ・メーカーだけでなくコンピュータの力の虜になった個人が引き寄せられていた。「ハッカー」と呼ばれたコンピュータ・
マニアたちは,シリコンバレーに集まっては各人の手作りコンピュータの品評会のようなものを開催したりして交流を続けていた。彼らの関心はメーカーのお仕着せのコンピュータではなく,自分たちに必要なコンピュータ,個人が無料で利用できるソフト開発など誰もが使いうるようなコンピュータを誕生させることであった。
そのようなコンピュータ・マニアの中にスティーブン・ウォズニアックとスティーブン・ジョブスという二人の若者がいた。彼らこそが世界最初のパソコンを開発し社会に送り出した張本人である。
ウォズニアックが最初に開発した「アップルI」は回路基盤だけのコンピュータだったが,仲間の間ではさいわい高い評価を得た。そこで二人はアップ
ルの商用化に乗り出すことにしたのである。
1977年,ジョブスが愛車を,ウォズニアックが計算機を処分して得た千数百ドルを元手にニ人は「アップル社」を設立した。パソコンが個人的趣味からベンチャービジネスに変化した瞬間である。会社の研究所兼事務所はジョブスの父親のガレージを改造したものだった。
そしてそのガレージからパソコンの大ベストセラー機「アップルII」がその年の6月に誕生した。軽量プラスチック製の本体に,洒落たデザイン。それまでの手作りコンピュータとは全く違った新しい機械だった。パソコンが「商品」として社会に登場したのである。
アップルIIは,誰もがコンピュータを使えるようにしたという点において画期的な製品であった。発売以来アップルIIはパソコンの愛好者を開拓しまたたく間にパソコン市場を席巻した。 アップル社はガレージ企業から10億ドル企業に急成長しパソコン界のIBMとまで言われるようになった。
パソコンが普及するにつれ,それまでコンピュータが持っていたイメージはがらりと変わった。何か得体の知れない貴重で高価な機械,あるいは大企業の奥の部屋にデンと据えられている計算機で,使用する者はわざわざその部屋まで出向かなければならないというのがそれまでの一般的なイメージだった。しかしパソコンは個人の机の上に乗り使い方も夕イプライターに似たキーボードを叩くだけで使える。機器というよりも日常的な道具であっ
た。それゆえ親しみ易いイメージを持たれるようになった。
1981年4月,「黄金の80年代」の始まりとともにIBMはパソコン市場への参入を発表した。それまでパソコン事業には進出しないと公言していたことを考えるなら,大型汎用機を中心にビジネスを展開してきたIBMにとって,当初はパソコンはコンピュータの玩具にしか思えなかったのであろう。
■IBM-PC
スタートが遅れたものの,IBMが市場に送り出したのが新型パソコン「IBM・PC」だった。3年後,IBMはパソコン市場で業界トップのアップル社のシェアを抜いた。コンピュータ業界の巨人の底力を新興メーカーに見せつけた瞬間であった。
IBMのパソコン分野参入は,とかくマニアの世界の遊び道具と受け取られがちであったパソコンをビジネス分野の製品として社会に認知させる役割を果たした。「あのIBM」が事業として取り組んだという事実が,パソコンに社会的な意味づけを行う効果をもたらしたのである。それにともないパソコン市場には新規参入が相次いだ。
■MS-DOS規格登場
IBMの成功にはいくつかの伏線があった。なかでもパソコン分野に新規参入するさい,従来とは全く違う手法を用いたことである。IBMはパソコン事業を担当するセクションとしてIBMの経営組織に束縛されない一種の独立部隊を編成した。そのうえで全
ての権限を与えたのだった。IBMは本社→地域統括会社→各国IBM(現地法人)という経営組織をタテ軸にして世界120ヵ国以上の営業拠点を統括するとともにビジネスを展開していた。またIBM本社に直轄される形で世界市場を製品別に担当する開発・製造組織がヨコ軸として大型機種,中型機種,小型機種,周辺機器といった分野を担当する開発・製造のセ
クションが全世界のそれぞれの市場に対して責任を持つわけである。IBMでは「マトリックス」とよばれる組織編成である。
マトリックス編成は縦横の相互チェックを行い安定した品質の製品を市場に送り出すことが出来るが,反面決定まで時間がかかるという致命的側面も持っていた。素早い対応が求められるような新製品開発などの場合にはもっとも不向きな体制であった。
その点マトリックス経営から離れた 独立部隊にパソコン市場参入の全権を与えたのはIBMの見識であった。それまでと違って不安定な個人需要の動向を常に注目しながら,身軽な方向転換を要求されるパソコン市場ではIBMの独立部隊はもっとも相応
しい組織といえた。
その軽快な経営組織が選んだ戦術は,これもまた従来のIBMからは考えられないきわめて異例なものであった。IBMは「自前主義」を原則としている。米国の他のコンピュータ・メーカーと違って,システム/360以来,半導体部門を内部に抱え半導体を自前
で開発してきたように,全て自社製品でコンピュータを生産しているのである。だが,パソコンでは基本ソフトの開発を自前で行わなかった。独立部隊であるがゆえ既存の開発組織を利用しにくいという面もあっただろうが,それにしても選んだ基本ソフト「MS-DOS」は、ビル・ゲイツという20代の青年が社長を務める新興ソフトメーカー「マイクロソフト社」の開発したものだった。その頃はパソコン用の基本ソフトとしては,デジタルリサーチ社の「CP/M」が君臨していた時代である。実績,安定性からいえばデジタルリサーチ社の基本ソフトを採用するのがベターな選択であろう。しかし独立部隊はマイクロソフト社を選んだ。そのうえパソコンの頭脳であるマイクロ・プロセッサも自前のものでなくインテル社が開発したものを使用したのだった。
しかし独立部隊の開放主義はそれにとどまらなかった。IBM本社の閉鎖主義とは反対にIBM-PCの仕様までも公開したのである。IBM互換機を認めた,いや積極的に推進したのである。皮肉なことに汎用機部門で互換幾叩きを始めたIBMが,パソコン部門ではなんと最初にオープンシステムを実現したメーカーになっていたのである。
独立部隊が示したこのオープン性によって,パソコン市場は一挙に活性化した。巨人IBMのパソコン市場参入を契機にパソコン・メーカー各社もMS-DOSを採用し一斉にIBM互換機を開発しだしたのである。まさに勝ち馬に乗れというわけだ。たちま
ちIBM-PCとその互換後はパソコンの完全な基準となっていた。.....
ー覇者の誤算,講談社文庫,立石泰則

yhjjuj pc



1981年1月28日水曜日

[ゲーム][LEDゲーム] バンダイ,クレイジー・クライミング(CRAZY CLIMBING)(1981)~日本物産「クレイジー・クライマー」移植版



クレイジー・クライミング(CRAZY CLIMBING)
ゲーム性 ★★★ 四方の窓を塞がれてのなぶり殺される事も・・・・
操作性 ★★★ 業務用に忠実だが複雑な操作の為、緊急時に戸惑う
キャラクタ ★★★★ 原作に忠実な画面構成
サウンド ★★★★ ゲームのイメージに合ったメロディ
ハード ★★★★★ このゲーム以外に流用出来ない豪華な2本スティックがイカス!
総合 ☆☆☆☆ 一度は触ってみたい電子ゲーム





クレイジー・クライミング(CRAZY CLIMBING)
バンダイ/1981年頃
(C)1981 日本物産/BANDAI ELECTRONICS
■ゲーム解説:リズムに乗ってどんどん登ろう!
クレイジークライミングの画面  この「クレイジークライミング」は前に紹介した「ヒステリック・ママ」とは違い、
日本物産の許諾を得て業務用の「クレイジー・クライマー」を移植したものです。
ゲーム内容は業務用と同様にクライマーを49階まで登らせれば1パターンクリアとなります。
蛍光管表示は3列しかありませんが、スクロール制を採用して5列となっており、
固定画面主流の電子ゲームで上左右スクロールするのはかなりめずらしいと思います。
業務用で登場した「キングコング」や「落ちる看板」は登場しませんが、
シラケ鳥がフンを落としていったり、おじさんが植木鉢を落としてクライマーのジャマをします。
これらの敵の攻撃に当たっても、両手を揃えていれば(ふんばりのポーズ)、300点減点されるだけで
ミスとはなりません。逆に両手を揃えていなかったり、手を掛けている窓が閉まって挟まれると
クライマーは転落してしまいミスとなります。
業務用のクレイジー・クライマーは2本レバーでの操作が斬新かつ新鮮でしたが、
このゲームでも同様な感覚を味わう事が出来ます。
ただし業務用とは違って蛍光管表示の制限から、2つの窓に手を掛ける事は出来ませんので
多少操作方法が変わっています。
基本的には左右の手を交互に上げ下げして登っていきます。
左の写真の場合は、次に左手を下に、右手を上にする事により1階上に登ります。
レバーを左右同時に操作しないと動作しないので、二人三脚の様な感覚で進むとスイスイ登れます。
ただし、自分の手を掛けている上の階の1つ上の窓(つまり2つ上の階)が閉まっている場合は、
まず両手を上にしてから、両手を下にして登ります。
この様に少し複雑ですが、実際に自分に置き換えたりして考えてみると納得の出来る操作方法となっています。
かなり頑張って業務用を忠実に移植している感じがするクレイジー・クライミングですが、
実際にプレイしてみると以下の点に気づきます。
ビルのドアは一度閉まったらなかなか開きません。自分の周りのドアが全て閉まってしまったりする事がしばしばあります。
こうなるとプレイヤーは敵の攻撃を避ける事が出来ずにただひたすら耐えるしかなく、
じわじわと減点されていくので納得出来ません。
又、植木鉢とフンが同時に落ちてくる場合があり、この場合は他の列に移動するしか避ける方法がありません。
(ふんばりポーズで落下物を受け止めると左右の手がバラバラになり、もう1つの落下物に当たってミスとなる)
これらのケースはユーザーのゲームレベルとは関係なく、不条理であり、納得できませんので
改善して欲しかったものです。事実、これらのおかげで難易度がアップしています。
何はともあれ「クライジー・クライミング」は、一度は2本レバーに触ってみたい・・・そんな感じのゲームです。
■本体解説:業務用機が小型化?!
やはりなんと言っても、2本レバーに尽きるでしょう。
蛍光管表示(FL)なので乾電池・ACアダプターの2電源方式となっています。
バンダイ製ゲームにしては、サウンド機能がありません。
この当時のバンダイ製FLゲームはメタリックなボディが多く、高級感があります。
おそらく子供だけではなく、アダルト層も購入対象に考慮していたのではないでしょうか?
このゲームの標準小売価格は8,200円と玩具としては非常に高額ですが、
FLゲーム機としては標準的な価格です。
この時代はゲームに対して、今の様に一般娯楽の一部としての認識がなく
「ゲームに1万円近く注ぎ込む」事にどうしても納得できない親が多く、
なかなか買って貰えなかったのではないでしょうか?

JUN AMANO'S HOMEPAGE             
http://homepage3.nifty.com/lsigame/