1975年5月11日日曜日

[機器] IBM 5100






1975年4月30日水曜日

[機器][PC][AppleI] Apple AppleI~個人用コンピュータ(パーソナル・コンピュータ)誕生

Apple1

















APPLE1
ここに1台のワンボードコンピュータがある。
まだ「パーソナルコンピュータ」と言う言葉が無い時代のマシンであるが、何かオーラさえ感じる。
前年(1975年)にリリースされたAltair、IMSAIと言った、動作をLED点滅によって表示するMicro Computer(マイコン)と一線を隔する能力を秘めている。 それらのマイコンと異なり、たった1枚のシンプルで搭載パーツも少ないマザーボードで構成されている。見た目は簡素にもかかわらず家庭用TVに出力でき、カセットインターフェースボードを1枚挿せば、カセットテープを外部ストレージとして用いることが出来、Basicさえも簡単に走らせることが可能なマシンである。
この世界初の個人向けのコンピュータは天才Stephen Gary Wozniak が創造した傑作Apple1(正確にはApple Computer 1)である。1976年当時200台程度しか作成されていないと言われるこのマシンは後世にパーソナルコンピュータの始祖と呼称されるようになる。

APPLE1(1)
















Proto Type








































[機器][AppleI] サンノゼ歴史博物館のAppleI
サンノゼ歴史博物館の Apple-1
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書庫日記
カテゴリ練習用
2013/7/13(土) 午後 2:59
さて、今回はコンパチじゃなくて本物の Apple-1 の話題です。
去る6月18日、サンノゼ歴史博物館(History San Jose)で、「Apple-1 を動かす会(?)」みたいなものが開催されたそうです。5台の本物の Apple-1 が集合しました。
経緯としては、最近(特にジョブズが亡くなってから)オークションでの Apple-1 の落札価格が高騰している(最新のものは6800万円?)が、特に高値になるのは「動作する」Apple-1 だということがわかったので、サンノゼ歴史博物館では、所蔵する Apple-1 が動くかどうか試したい、ということになったそうです。
そこで Apple-1 に詳しい人たちに連絡をとり、どういう手順でやったらいいかみんなで検討し(何しろ高いものだから、いきなり電源を入れて燃えてしまったりしてはとんでもない損失になってしまう)、事前に何度も集まって整備・打ち合わせをしたそうです。Dr. Wendell Sander、Daniel Kottke、Allen Baum といった Apple-1 オーナーの人たちと、サンノゼ歴史博物館のボランティア Ralph Simpson が集まりました。
整備というのは Apple-1 からチップを全部はずして足を磨き、チップのない Apple-1 に通電して電源が正常か調べ、はずしたチップは1個ずつ Apple-1 コンパチに挿して正常に動作するか確認する、という大変なものだったようです。
6月18日の当日にはWoz夫妻にも来てもらって、サンノゼ歴史博物館の Apple-1 の最初のスイッチ・オンをしてもらったそうです。Wozも自分の Apple-1 を持参したけど、自分のは動作しないという・・・(笑)
映像が2つ YouTube に上がってますが、Wozがとっても嬉しそうです。そりゃそうですよね!
詳細は History San Jose のブログ 
www.historysanjose.org/blog/ 
に載っています。
映像はこれ:
www.youtube.com/watch?v=d1UbWoJAFis 
www.youtube.com/watch?v=y5KCX-XELrw
う~む、すごいイベントだ・・・^_^;
A.Suzuki/MHA00053
      
mha00053のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/mha00053
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Apple IIGS
https://blogs.yahoo.co.jp/ushi_cow
https://blogs.yahoo.co.jp/ushi_cow/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=10
https://blogs.yahoo.co.jp/ushi_cow/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=23
https://blogs.yahoo.co.jp/ushi_cow/MYBLOG/yblog.html
             
             
             



スミソニアン博物館の Apple-1
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書庫日記
カテゴリ練習用
2013/7/23(火) 午後 10:27
先日はサンノゼ歴史博物館の Apple-1 の話題でしたが、今日はスミソニアン博物館の Apple-1 についてです。
何の本で読んだのかはわかりませんが、米国ワシントンDCにあるスミソニアン博物館に Apple-1 が展示されている、という話はかなり前に聞いていて、当時「ぜひ一度見てみたい」と思っていました。今から8年前、仕事で米国に行った際、見に行った時(2005年6月11日)の状況です。
スミソニアン博物館は実際には博物館群で、どの博物館なのかわからなかったので、事前に FAPPLE の誰かに聞いて行ったので、スムースに行き着くことができました。「National Museum of American History」の「Information Age」という展示がそれです。
ちょっと予想と違っていたのは、Apple-1 だけではなく、Apple II あり、Mac あり、Altair あり、SOL あり、IBM・コモドール・TRS-80 等、写真のようにいろいろありました。で、黒板と人形で展示されてるのがホームブリューコンピュータークラブの再現で、Altair, SOL, Apple I の3つに説明が付いています。
この展示、「15年間展示したが2005年4月で展示を終了、一部がまだ左手を下ったホールに展示中」と張り紙があり、それで見られたんですが、現在はもう無くなってしまったらしいです。残念ですね。この Apple-1 は博物館の倉庫にあるんでしょうか?
A.Suzuki/MHA00053
      
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Apple IIGS
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1975年2月10日月曜日

[機器] Apple Proto Model





Proto Type

























1975年1月2日木曜日

[機器][ゲーム] マグナボックス社/エポック社テレポン~テレビゲーム登場










[機器][ゲーム] エポック社テレポン~テレビゲーム登場
日本のテレビゲームの歴史
History of Japanese Videogames
ニンテンドウ64,プレイステーション,そしてドリームキャスト・・・。
今でこそテレビゲームの発進地は日本ですが,創成期,テレビゲームの開発が盛んだったのはやはり海外でした。
アメリカで産声をあげたテレビゲーム,その第1号機を発売したマグナボックス社と技術提携を結び,日本ではじめて家庭用テレビゲームを発売したのは,玩具メーカーの大手・エポック社です。
このテレビゲームは「テレビテニス」という名前で,昭和50(1975)年9月,定価19,500円で発売されました。
この頃のテレビゲームはもちろん白黒。画面を左右に飛びかうボールを,2人のプレイヤーがパドルを使って互いに打ち合うという,「ポンテニス」ゲームといわれるものでした。
テレビテニスはポンテニスの中でもさらに初期のもので,かんたんなゲームサウンドは奏でたものの,得点表示はできませんでした。
構造は電子工作の延長とでもいうもので,LSIは使われず,すべてICで構成されていました。また,ノイズ対策が完璧ではなかったため,なかなか安定したゲーム画面を見ることができなかったようです。
テレポン(1975年?・エンテックス社)...
残念ながら,わがオデッセィにはテレビテニスがありません。
これはまったく同じゲームが遊べるテレポンです。
こうして記念すべき国産テレビゲームが売り出されたのですが,その売れ行きはパっとしなかったようです。
テレビテニスを売るおもちゃ屋にしても,デパートの玩具店にしても,現在のようにテレビを置いてデモンストレーションするというような光景はほとんど見られなかったため,アピール度が弱かったのです。
また,¥2,000くらいの価格のおもちゃが主流だった当時としてはかなり割高に感じられたのでしょう
エポック社では約30,000台を出荷したと当時の業界誌にはありますが,実際に売れたのはそれより少なかったようです。
■第一次テレビゲームブームの光と影
テレビテニス以降,しばらくはどのメーカーもテレビゲームを発売していません。
理由はいろいろ考えられますが,とにかく高いこと,ゲームの種類が少ないこと,独自のテレビゲームをICで組むということは,技術的にもたいへん難しかったことなどが考えられます。
それから1年ほどたった1976年夏,東京は秋葉原の電気街が発信源となって,にわかにテレビゲームのブームがおこりはじめていました。
アメリカの半導体メーカー・ゼネラルエレクトロニクス(G.I)社が,いままでICでつくっていたゲームを集積し,さらに数種類のポンテニスゲームが遊べるゲームLSIを開発したのです。
そのゲームLSIとパドルなどのパーツがキットセットになったものを電気屋さんが店で組み立て店頭にならべたところ,これが飛ぶように売れはじめたのです。
それからの勢いはすさまじいものでした。とにかくテレビゲームが売れまくり,キットセットでは足りなくなってきたため,海外から完成品を輸入するようになってきましたが,より効率的に,日本国内で回路を組み,独自でテレビゲームを組み立て発売する会社があらわれました。
ゲームLSIも次々とあたらしいものが開発され,遊べるゲームも4種類から6種類,8種類とどんどん増え,白黒から美しいカラー,多彩なゲームサウンドとどんどん強化されていきました。
この1977年の一大ブームを俗に「第一次テレビゲームブーム」と言います。
ゲームLSIを採用したテレビゲーム ・・・テレビテニスに比べていっきにゲーム性がアップしたポンテニスです。
G.I.社が開発したAY-3-8500というLSIは,4種類のポンテニスと2種類の射撃ゲームが遊べました。これにいくつかの部品をつけるだけで,テレビゲームができてしまうのです。
バンダイ,トミーといった玩具大手はもちろん,ナショナル(松下),日立などの大手家電メーカーから小さな町の下請工場までありとあらゆる企業がテレビゲームを作りまくり売りまくりました。
オデッセィが調べただけでも,この1977年に発売されたテレビゲームは50種類以上という空前絶後の数になります
この異常な数にはわけがあります。テレビテニスの頃,各社がテレビゲームをつくらなかった理由を覚えていますか。それは技術的,コスト的に問題があったためです。 ところが,このゲームLSIを使ったテレビゲームは,作ることがたいへん簡単で,効率がよく,しかも安いのです。
だから,どんなに小さな会社でも,それなりのテレビゲームをつくって発売できたわけです。しかし,これには落とし穴がありました。どのメーカーも既存のゲームLSIを使っているだけで,自らゲームを考えようとしないのです。
だから,あたらしいゲームがほとんど現れず,しかも出たら出たでよくばった高価な値段をつけたため,やがて1年ほどでブームはしぼんでしまいました。当然のことと言えるでしょう。
第一次テレビゲームブームの頃のある電気店 ・・・
テレビゲームの火付け役は,おもちゃ屋ではなく電気店だったのがミソ。お店にならぶテレビにテレビゲームを接続してデモンストレーションをおこなったところ,順番待ちがでるほどの大盛況だったそうです。
よく見ると,AY-3-8500タイプのテレビゲームのようですね。(「電気店」1977年4月号より<電波新聞社>)
■エポック社と第二次テレビゲームブーム
そんな,あぶくブームの中,独自に研究と努力を重ね続けていたメーカーがありました。エポック社と任天堂です。
そしてこの2社がその後のテレビゲーム業界の幹となってゆくわけです。
ブームが完全に終わった1978年,エポック社はNECと共同開発したテレビ野球ゲームを発表しました。
これはゲームLSIではなく,1チップマイコンを搭載したまったく新しいテレビゲームです。
そして社会現象となったインベーダーブームが到来,エポック社は¥16,500という誰でも買える価格でテレビベーダー(1980年)を発売しました。
インベーダーゲームのような複雑な内容を家庭用に移植しようとすると,マイコンシステムが必要で,それはたいへん高価なテレビゲームでしかできないことでした。ここで,エポック社は,テレビ野球ゲームで採用した1チップマイコン技術を使い,これを安く実現したのです。
それまでたいへんな開発費をかけてきたといわれる同社の努力が実を結んだ結果といえるでしょう。このテレビベーダーは子供たちに大いに歓迎され,いよいよ本格的なカセット方式を採用したテレビゲーム・カセットビジョンが登場します。
カセットビジョンのヒットにより再びブームが再熱した日本のテレビゲーム市場は,やがて本格的なマイコンシステムを搭載したテレビゲームが登場しはじめます。
1983年から1984年にかけて登場したテレビゲームは約25種類以上。第二次テレビゲームブームの到来です。
そのどれもが当時静かなブームを呼んでいたホビーパソコンの機能に片足をつっこんだパソコンタイプ・テレビゲームでしたが,この戦国時代を統一したのが,パソコン機能をすべて排除した純粋なテレビゲーム,任天堂のファミリーコンピュータだったのです。
■テレビゲームのリーダー・任天堂
任天堂は第一次テレビゲームの時でも,すぐれたテレビゲームを発売していました。
発色がよく,音もきれいで,ゲーム内容も豊富な「カラーテレビゲーム15」「カラーテレビゲーム6」がそれです。
その後も「レーシング112」「ブロック崩し」を発売。海外のゲームLSIに頼らず,独自で開発したゲームで,その後,電子ゲームの「ゲーム&ウォッチ」シリーズを大ヒットさせています。このヒット期間中に”10年先まで遊べるテレビゲーム”の開発に着手,¥15,000という破格の値段に,大ヒットゲーム「ドンキーコング」をひっさげて登場したファミリーコンピュータはあっというまに,日本のみならず,世界中で大ブームを巻きおこしました。
美しいフルカラー52色,3重和音のゲームサウンド。アップル系列の68系MPU。アーケードゲームをつくったデザイナー,技術者たちが”おもしろいゲームを遊べるハード”を徹底的に研究してつくったこのスペックは,私たち遊び手だけでなく,ゲームソフトをつくる側の人たちにとっても,すばらしいハードでした。
家庭用ゲーム機において,ともすれば今まで二の次であった”ソフト”部分をみつめ,それがこれからの時代の重要な要素になることを早くから考えていた任天堂は,新世代テレビゲームのリーダーとなり,以降の市場を引っ張っていくのです。
この後はみなさんご存知の通り,ファミコンブーム,マリオブーム,ドラクエブームと続き,プレイステーション,サターンという新世代機にいたるまで,任天堂が世界のテレビゲームの中心として活躍していきます。

オデッセィ
http://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/history/index.htm

1974年5月5日日曜日

1973年9月23日日曜日

[機器][携帯電話] Motrola DynaTACプロトタイプ完成, 1973年携帯電話誕生











いまから40年前、マーティン・クーパーというモトローラのエンジニアが、史上初の携帯電話を使った通話のデモを行った(この時の通話の相手は、なんとライヴァルのベルラボで働く研究者だった)。
そして携帯電話が一般大衆の手の届くものになったのはその10年後、モトローラが初めて携帯電話機「DynaTAC」(日本語版記事)を売り出した1983年のことだった。モトローラが製品を発売する10年も前に製品発表をしていたというのは、当時のテクノロジービジネスがいかに奇妙なものであったかを示す一例と言えよう。
1973年の4月3日、モトローラは最初の携帯電話を発表した。それから40年が経った今でも、われわれは相変わらず通話が途中で切れたり、つながりにくい場所で電波を探したりといった経験をし続けている。それでもこの間、携帯電話の果たす役割は大きく変化した。携帯電話で喋ることは随分と減ったが、代わりに携帯電話が人々のデジタルライフのゲートウェイとなった。メッセージのやりとりからステータスのアップデート、写真の投稿、音楽鑑賞まで、いろんなことが携帯電話から済ませられるようになった。
DynaTACの登場から現在までの間に、膨大な数の携帯電話が登場しては消えていった。ただし、そのなかでほんとうに革新的と呼べそうな製品は驚くほど少ない。
TAGS
#Android #Blackberry #Cell Phone #Google #History #iPhone #Motorola #Nokia

WIRED
https://wired.jp/2013/04/06/influential-cellphones/2/?epik=dj0yJnU9enFmRU5zNXhEaVhrQWEyNWpubTg0djh4NFQySU8yYjImbj0yUmZ3OFFFa1lMRlV0dE9raUZVZ0pnJm09MyZ0PUFBQUFBRjRzMWUw




1973年9月14日金曜日

[機器] カシオミニ(Casio Mini), CASIO MINI CM-603(1973)

CASIO MINI CM-603(1973)



_/_/_/_/_/ 卓上計算機の進化 _/_/_/_/_/
19世紀に入ると、1820年ごろチャールズ・ザビエ・トーマス・ド・コルマが発明したアリスモメーター(Arithmometer)が近代の機械式計算機の始まりとなった。
1886年Arithmometer       
1903年に矢頭良一の「自働算盤」
アリスモメーターは、1886年にアメリカで量産されるようになった。
日本でも明治36年(1903年)に矢頭良一が「自働算盤」という機械式計算機の特許を取得。歯車式で1個の円筒と22枚の歯車などで構成されていた。
タイガー計算器(国立科学博物館の展示)
大正13年(1924年)3月に大本寅治郎によって「タイガー計算機」が販売され、1970年代まで売られていた。
当初、国産品は「壊れやすい」との風評で売れなかったが、商品名を「虎印」から「タイガー」に変更した途端に売れた・・・との逸話も残っている。
これら汎用の機械式計算機は、主に会計経理、統計など実用的な分野に利用されていたようだが、土木工学や兵器開発に伴う微積分などの高度な計算機も機械化が進んだ。
すでに普及していた真空管を使って世界初の電卓「Anita Mark8」をBell Punch and Sumlock-Comptometerが1961年10月に発売した。次第に電子式電卓が機械式にとって代わる先駆けとなった。
更に、真空管はトランジスタなどの半導体に置き換えられ、集積回路がになり、専用大規模集積回路の時代になる。
ビジコン社 BUSICOM 141-PF
ビジコン社(旧、日本計算器販売)が昭和46年(1971年)10月に、インテル社と共同開発した「インテル 4004」で、世界初のマイクロプロセッサを搭載した電卓「ビジコン 141-PF」を発売した。このintel 4004が、後のパーソナル・コンピュータの発展の元になった。
◆CASIO MINI CM-603 electronic calculator (1973)
当初は数十万円していた電卓を、昭和47年(1972年)8月にカシオ計算機が一気に12,800円の低価格を実現した
「カシオミニ」(Casio Mini)
を売り出して、パーソナル向けに普及した。

日本人の暮らし向き
https://blogs.yahoo.co.jp/japanism20/14752105.html





ENIAC,1942