1974年5月5日日曜日

1973年9月23日日曜日

[機器][携帯電話] Motrola DynaTACプロトタイプ完成, 1973年携帯電話誕生











いまから40年前、マーティン・クーパーというモトローラのエンジニアが、史上初の携帯電話を使った通話のデモを行った(この時の通話の相手は、なんとライヴァルのベルラボで働く研究者だった)。
そして携帯電話が一般大衆の手の届くものになったのはその10年後、モトローラが初めて携帯電話機「DynaTAC」(日本語版記事)を売り出した1983年のことだった。モトローラが製品を発売する10年も前に製品発表をしていたというのは、当時のテクノロジービジネスがいかに奇妙なものであったかを示す一例と言えよう。
1973年の4月3日、モトローラは最初の携帯電話を発表した。それから40年が経った今でも、われわれは相変わらず通話が途中で切れたり、つながりにくい場所で電波を探したりといった経験をし続けている。それでもこの間、携帯電話の果たす役割は大きく変化した。携帯電話で喋ることは随分と減ったが、代わりに携帯電話が人々のデジタルライフのゲートウェイとなった。メッセージのやりとりからステータスのアップデート、写真の投稿、音楽鑑賞まで、いろんなことが携帯電話から済ませられるようになった。
DynaTACの登場から現在までの間に、膨大な数の携帯電話が登場しては消えていった。ただし、そのなかでほんとうに革新的と呼べそうな製品は驚くほど少ない。
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#Android #Blackberry #Cell Phone #Google #History #iPhone #Motorola #Nokia

WIRED
https://wired.jp/2013/04/06/influential-cellphones/2/?epik=dj0yJnU9enFmRU5zNXhEaVhrQWEyNWpubTg0djh4NFQySU8yYjImbj0yUmZ3OFFFa1lMRlV0dE9raUZVZ0pnJm09MyZ0PUFBQUFBRjRzMWUw




1973年9月14日金曜日

[機器] カシオミニ(Casio Mini), CASIO MINI CM-603(1973)

CASIO MINI CM-603(1973)



_/_/_/_/_/ 卓上計算機の進化 _/_/_/_/_/
19世紀に入ると、1820年ごろチャールズ・ザビエ・トーマス・ド・コルマが発明したアリスモメーター(Arithmometer)が近代の機械式計算機の始まりとなった。
1886年Arithmometer       
1903年に矢頭良一の「自働算盤」
アリスモメーターは、1886年にアメリカで量産されるようになった。
日本でも明治36年(1903年)に矢頭良一が「自働算盤」という機械式計算機の特許を取得。歯車式で1個の円筒と22枚の歯車などで構成されていた。
タイガー計算器(国立科学博物館の展示)
大正13年(1924年)3月に大本寅治郎によって「タイガー計算機」が販売され、1970年代まで売られていた。
当初、国産品は「壊れやすい」との風評で売れなかったが、商品名を「虎印」から「タイガー」に変更した途端に売れた・・・との逸話も残っている。
これら汎用の機械式計算機は、主に会計経理、統計など実用的な分野に利用されていたようだが、土木工学や兵器開発に伴う微積分などの高度な計算機も機械化が進んだ。
すでに普及していた真空管を使って世界初の電卓「Anita Mark8」をBell Punch and Sumlock-Comptometerが1961年10月に発売した。次第に電子式電卓が機械式にとって代わる先駆けとなった。
更に、真空管はトランジスタなどの半導体に置き換えられ、集積回路がになり、専用大規模集積回路の時代になる。
ビジコン社 BUSICOM 141-PF
ビジコン社(旧、日本計算器販売)が昭和46年(1971年)10月に、インテル社と共同開発した「インテル 4004」で、世界初のマイクロプロセッサを搭載した電卓「ビジコン 141-PF」を発売した。このintel 4004が、後のパーソナル・コンピュータの発展の元になった。
◆CASIO MINI CM-603 electronic calculator (1973)
当初は数十万円していた電卓を、昭和47年(1972年)8月にカシオ計算機が一気に12,800円の低価格を実現した
「カシオミニ」(Casio Mini)
を売り出して、パーソナル向けに普及した。

日本人の暮らし向き
https://blogs.yahoo.co.jp/japanism20/14752105.html





ENIAC,1942


1973年1月30日火曜日

1973年1月2日火曜日

[機器][ゲーム] MagnaBox社,BROWN BOX~家庭用テレビゲーム登場






[機器][ゲーム] MagnaBox社,BROWN BOX~家庭用テレビゲーム登場
海外のテレビゲームの歴史
History of Overseas Videogames
■世界初の家庭用テレビゲーム
この時代には、まだ家庭用と業務用(アーケードゲーム)という区別はありませんでした。つまり、商品としてのテレビゲームはまだなかったわけです。
最初に商品として世にでたテレビゲームは、ナッチング・アソシエイツ社が1971(昭和46)年に発売した「コンピュータースペース」です。
遊園地などにおいて、コインを投入して遊ぶために作られたもので、つまり、アーケードゲームの第1号機です。テレビゲームの父といわれる、ノラン・ブッシュネル氏が開発したこのゲームはあまりにも有名で、テレビゲームの歴史関係の書籍を開けば、まずまちがいなく出てきます。
では、家庭用テレビゲーム第一号はなんでしょう。
それは、マグナボックス社が1972(昭和47)年に発売したオデッセイです。
オデッセィの原形は1967(昭和42)年頃にさかのぼります。
米・サンダールアソシエイツ社のR&D;(研究開発部門)チーフであったラルフ・ビア(Ralph Bear)氏が中心となり、ビル・ハリソン(Bill Harrison)氏とビル・ラッセル氏(Bill Rusch)の3人で、ブラウン管を利用したエンターテインメント製品の開発が始められました。
このマシンは「ブラウンボックス」と呼ばれ、テニスゲームのようなものが遊べるマシンとして完成をみました。 
画期的な製品として、ケーブルTV会社や大手家電メーカーへのライセンス供給という形で売り込みがなされたのですが、それぞれ、金銭面、条件面で折り合いがつかず、陽の目が見えない状況が続きました。
BROWN BOX
ブラウンボックス(試作品/サンダール・アソシエイツ社・1967年)
このブラウンボックスの技術に注目し、テレビゲーム特許に関してサンダール社と独占契約を結んだのが、家電メーカーのマグナボックス社です。
さっそく、ラルフ・ベア氏指揮の元、このブラウン管をつかった新製品の研究開発がはじまり、1972年の5月、世界初の家庭用テレビゲーム「オデッセイ(ODYSSEY)」が発売されました。
オデッセィ(マグナボックス社・1972年) ・・・詳しくはオデッセィのページをごらんください。
「テレビテニス」で遊べたポンテニスゲームよりもさらに初期のもので、得点も音もでません。ゲーム機というより”オブジェクト表示機”といった方がしっくりくるかもしれません。

オデッセィ
http://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/history/index.htm





1972年10月4日水曜日

[市場] 富士電機(>>富士通)






(._.)
親会社の富士電機は 1923(大正 12)年、古河電気工業株式会社とドイツのシーメンス(Siemens)社により、電気機械および電話機器具の製造を目的として設立されました。
社名は、古河電工とシーメンスの頭文字をとり、また、ドイツ語で読みますと、「Si」は「ジ」と発音しますので、「FUSI」から「FUJI」とし、日本の象徴である富士山と掛け合わせて、富士電機という社名が付けられたとそうです。
(._.)
川崎市には富士電機、富士通、富士通ゼネラルがあるので、みなさんのコメントを見てみて川崎市には全て揃っているからスゴいなぁ~‼️と思いました。
(._.)
元々は、富士通信機とか、聞いたこと有ります。電話機の製造だったのですね
(._.)
確か…ゼネラルと富士電器が 合併して富士通になったと聞いたことがあります…
(._.)
もともと古河とジーメンスの合弁が富士電機。その子会社が富士通でした。
(._.)
富士通PC,いまや富士通の看板付けただけの中国企業製品ですね。
(._.)
50年以上前の話ですが、中山道沿いの公団アパートの5階の窓から『富士モートル』の大きな看板が見えました。
昔はモーターとか作っていたようですね。
(._.)
マークは富士電機‼️
富士通は富士電機から生まれました。
日野市の富士電機工場とファナックははす向かいです。

Facebook
https://www.facebook.com/groups/886472171393131/

1972年8月22日火曜日

[機器] タイガー/タイガー計算器

タイガー計算器




_/_/_/_/_/ 卓上計算機の進化 _/_/_/_/_/
19世紀に入ると、1820年ごろチャールズ・ザビエ・トーマス・ド・コルマが発明したアリスモメーター(Arithmometer)が近代の機械式計算機の始まりとなった。
1886年Arithmometer       
1903年に矢頭良一の「自働算盤」
アリスモメーターは、1886年にアメリカで量産されるようになった。
日本でも明治36年(1903年)に矢頭良一が「自働算盤」という機械式計算機の特許を取得。歯車式で1個の円筒と22枚の歯車などで構成されていた。
タイガー計算器(国立科学博物館の展示)
大正13年(1924年)3月に大本寅治郎によって「タイガー計算機」が販売され、1970年代まで売られていた。
当初、国産品は「壊れやすい」との風評で売れなかったが、商品名を「虎印」から「タイガー」に変更した途端に売れた・・・との逸話も残っている。
これら汎用の機械式計算機は、主に会計経理、統計など実用的な分野に利用されていたようだが、土木工学や兵器開発に伴う微積分などの高度な計算機も機械化が進んだ。
すでに普及していた真空管を使って世界初の電卓「Anita Mark8」をBell Punch and Sumlock-Comptometerが1961年10月に発売した。次第に電子式電卓が機械式にとって代わる先駆けとなった。
更に、真空管はトランジスタなどの半導体に置き換えられ、集積回路がになり、専用大規模集積回路の時代になる。
ビジコン社 BUSICOM 141-PF
ビジコン社(旧、日本計算器販売)が昭和46年(1971年)10月に、インテル社と共同開発した「インテル 4004」で、世界初のマイクロプロセッサを搭載した電卓「ビジコン 141-PF」を発売した。このintel 4004が、後のパーソナル・コンピュータの発展の元になった。
CASIO MINI CM-603 electronic calculator (1973)
当初は数十万円していた電卓を、昭和47年(1972年)8月にカシオ計算機が一気に12,800円の低価格を実現した
「カシオミニ」(Casio Mini)
を売り出して、パーソナル向けに普及した。

日本人の暮らし向き
https://blogs.yahoo.co.jp/japanism20/14752105.html