[レビュー][歴史]『怪盗ジゴマと活動写真の時代』〜岡田斗司夫ゼミ
永嶺重敏『怪盗ジゴマと活動写真の時代』〜岡田斗司夫ゼミ
2025.4.1
岡田斗司夫ゼミ/ 怪盗ジゴマと頗る非常な活弁士の時代
今日は大正時代の映画活動写真について話しします。テキストは先週も紹介しましたけども永嶺重敏著『怪盗ジゴマと活動写真の時代』ですね。この他の参考書類も色々ちょっとここに並べてあるんですけども,この辺はプレミアムの方で紹介します。
大正時代とは何かというとですね,1912年が大正元年なんですよね。で『鬼滅の刃』が大体ストーリー始まったのも大正元年あたりだし,あとタイタニックが沈没したのも大正元年(1912年)ですね。あと明治天皇が崩御し明治という大きい時代が終わったという色んなものが詰まってる時代なんですけどもですね,大正時代の分かりやすい資料っていうのはまァ資料というか『鬼滅の刃』が案外いい資料なんで,ちょっと今回使ってみようと思ったんですけども。
■ 大正時代
これ『鬼滅の刃』に出てくる浅草です。あまりに明るすぎて華やかで人が多いから第7話ですね。炭治郎が超ショックを受けるシーンなんですけど,浅草の円形で,いっぱい旗が立って,で夜も電気で赤々と輝いてるわけですね。 で炭治郎は何故この明るい浅草区にショックをうけたのかっていうと,電気があるからじゃないんですね。すでに炭治郎の村でも電気って当たり前なんですよ。もう1話で近所の村に炭を売りにくシーンで,近くの村に行ったら電線ですね,すごい高い電線が生えてて,ものすごくたくさんの電柱が生えてて,電線走ってるんですよね。で,エンディングでも電車がやっぱりこう見えてるわけですよね。で,このエンディング,これ何やってるところかというと街に向かって炭を売りに行ってるシーンですね。つまり,炭治郎の家と麓の村の間にはもう電線が走ってるんですよ。だからすでにもう村では電気が当たり前になって,もうあと何年か待てば炭治郎の住む家のあたりに電気が来てもおかしくないんですね。で「いやいやそんなこと言ってもまだまだ炭治郎が住んでる山奥の一軒家まで電気なかなか来ないんじゃないか?」っていう風に考える人いるかも分かりませんけど,これ後で話しますけども,大正時代っていうのはものすごい早さで電化が進んだ時代なんですね。ガス水道は遅いんですけども電気はすごい早いんですね。 で普及率もめちゃくちゃ高くなるんですよ。つまり炭治郎が見上げていた空ですね,あの作品の中でアニメでもゲームでも僕ら彼らが見上げていた空っていうのは,ついつい青空を考えちゃうんですけど,違うんですよ。彼らが見上げた空っていうのはよっぽどの山奥でない限り,大体電線が空を走ってる,電線が空を区切ってる,僕らが見ていた空に割と近いそういうお話なんですね。大正時代ってそういう話時代なんですよ。で具体的に言うと明治15年(1882年)ですね。今日話すお話の30年ぐらい前に,もうすでに東京銀座に日本初の電灯が灯もっています。で,この頃は30年前は電気珍しかったんですよ。わざわざ電気で灯った明かりを見るために人々が来たぐらいだったんですけど,しかしこの炭治郎がこのあのさっきの浅草に行ったのは,もうえそれから30年経ってるんですね。ですでに日本全国に発電所が建ち出してます。すごいですよね。で電灯は東京を中心に急速に普及して,さらにエレベーターとか電車などで電気は動力用としても利用されてます。で大正5年に全国の工場では50%超えてる電化率,つまり日本全国の工場が,もうすでに石炭とかそういうのではなくて,電気になって5割になってるのが大正という時代なんですね。で,まだ家庭では囲炉裏とか薪で炊いてるのがあったと思うんですけど,ただそれも明治時代の石油ランプとか廃れて,上水道とかガスとか電気がどんどんどんどん普及していきました。これも明治の末の話です。で,家庭用電化製品が出たのも大正時代で,扇風機出るは,電気ストーブ出るは,電気アイロン出るは,電気コンロがもうすでに普及し始めてます。大正の元年で。でブリキとかセルロイドの新素材のおもちゃも登場してるので,炭治郎が子供たちに買おうかなと思ってるおもちゃっていうのは,もうすでに僕らの持ってるようなものと,そんなに変わらなくなっているんですね。カレーライス,トンカツ,コロッケは大正の3大洋食と言われるぐらいで,人々のご飯も急激に変わっていたのがこの時代ですね。
■ 活動写真
まァこれが大正時代ですよ。面白いことで,そんな時代に人々が熱狂したのが活動写真ってやつですね。『鬼滅の刃』にも活動写真出てきます。炭治郎が歩く浅草の町ですね。ここにちょっと見えにくいんですけど,この部分に「活動」って書いてるんですけど,これ別のカットなんですけど,ここにあの映画の看板みたいのがあるんですけど,これ多分有名な浅草の電気館だと思います。
✔キネトスコープ
で,活動とか活動写真っていうのは英語の「Motion Picture」の直訳なんですね。ま今の言葉でいう本当に映画ですね。で「毎月1日は映画の日,この日はみんな1000円じゃ」って言ってるじゃないですか?あれ何故っていうと,1896年に神戸でキネトスコープ,映画の元祖みたいなのが公開されたのが,マァ本当は10月25日か26日ぐらいだったらしいんですけど,期間があったので,じゃあもう11月1日にしましょうということになって,実は日本では映画の日っていうのが11月1日になってる。なので,記念で毎月1日は映画の日で,それで映画が1000円で観れるわけなんですよ。
で,キネトスコープどうなのか?っていうとえこんなんですね。 エジソンの発明です。中にフィルムはこう入っていて,でコイン入れておっさんがこう覗いてるんですよね。いつもが発明品です。でこれ1人しか覗けないので決して便利な発明ではなかったんですけど,当時はとにかく絵が動くというか,写真が動くだけで驚きだったんですね。でエジソンは,この特許とか取らなかったんですよ。
✔シネマトグラフ
当時,この時代のエジソンあんまりお金持ってなかったんで,これそんなヒットすると思ってなかったので,とりあえず1つ作って満足して,発表して記者に色々言われて「天才だ」とか「発明王だ」とか言われていい気になって言われてる時代だったんで,特許取らなかったんですよね。 なので世界中で模造品がいっぱい作られました。で,世界中で模造品を作った1人というか1組がフランスのルミエール兄弟っていうのがいたんですね。で,フランスのルミエール兄弟っていうのは,このキネトスコープを改良してシネマトグラフっていうのを作りました。 シネマトグラフって,これ何かっていうと,撮影することもできれば映写することもできる機械なんです。で,このシネマトグラフによって,スクリーンですね,壁とかにフィルムの映像を映写することができるんだ。 と。で,これのおかげで,もともとエジソンが作った機械は1人が除いてみるしかできなかったんですけども,50人ぐらいでも楽々観れるようになったんですね。
✔バイタスコープ
でこれを知ったエジソンが「これはいかん,俺が映画の発明者じゃなくなってしまう」と思ったんで,他人の発明を買いとったんですよ。エジソンは,キネトスコープ作った覗きからくり作った段階で気がするんじゃったので,そこから先開発してなかったんですけども,アメリカでも同じようにフランスのリベール兄弟みたいに,壁に映写する方式っていうのを作った人がいたんです。その人の発明の特許を買い取ったんですね。もうこの頃の時代のエジソンて毎週,何曜日だったかな?新聞記事に間に合う日の昼間にアメリカ上,新聞記者読んでランチ発表会やってたんですよ。で,毎週毎週「今週の発明はこれです」っていう風に発表をやってたら,みんな「すごい」って言って,それを翌週の新聞に間に合うように記事にしてたっていう,なんかもうやり口がもうほとんど炎上系YouTuberみたいだったので(笑) エジソンていうのは,それで他人から買った発明品を自分が発明したように見せるというのずっとやってたんですけども,これも同じ方式ですね。 他人の発明を買ってバイタスコープって言います。「Edisons greatest marvel Vitascope」って,エジソンは宣伝屋だから分かりやすいですよね。さっきのルミエール兄弟のシネマトグラフよりもこの方が分かりやすい。観客がいっぱいいて絵が動いてます。エジソンの素晴らしくとんでもないバイタスコープっていうのがこう書いてあるという風になってるんですけども。
でもこの時期に欧米では,もうすでにこのスクリーンと写真のシネマトグラフが普及していて,エジソンが最初に発明した1人しか覗けないキネトスコープっていうのはもう時代遅れで売れなくなってたんですね。なので日本という東洋の国に二束三文で売られたそうです。で,それが神戸で公開されたのが1896年の11月1日前後ということなので,そのエジソンの時代遅れの発明が,時代遅れになっちゃったんで安く叩き売られたので,日本に入ってきたおかげで,毎月1日に映画を1000円で観れるとこういう風な流れになってます。
で日本に来たキネトスコープなんですけども,当たり前ですけど,日本でもあっという間に廃れるんですよ。だって1人しか覗けないわけですからね。で,スクリーン上映式のバイタスコープっていうのは大流行しました。で当時日本にあった芝居小屋っていうのは,大体月に1回か2回ぐらい特別上映として,このシネマスコープかバイタスコープのどっちかを上映してたっていう風に言います。
■ 駒田好洋
で,ここでポイントはですね,ちょっと待てと。キネトスコープは流行遅れだから日本輸入されたんだけども,日本全国で大体月に1回ぐらい芝居がやってるって言っても,そんなに映写機があったのか?っていう問題と,そもそもどんな作品を上映したのか?っていう問題があると思うんですね。で,まずは映写機問題です。高いんですよ。本当に高いんですけども,ドイツかとかアメリカから輸入してました。で買ったのは興行師ですね。映画を売り込む人が買うんですよね。で,彼らは映写機を買って,フィルム作品を買って,同時に説明士っていうのになったんですね。説明士って何か?っていうの,ちょっと言い方は難しいんですけども,これ見てください。 この右上に「自称東洋のエジソン,頗る非常に駒田好洋」って書いてありますね。この駒田公洋っていう人,実は19歳なんですね。19歳のチンドン屋さんの店員さんなんですよ。昔懐かしいチンドン屋さんというのがいますよね…っていうか,もう見たことない人も,大体どんな方知ってると思うんですけど,そういう会社の店員さんだったんですね。その人が「エジソンのバイタスコープ,ちょっとこれ,俺がやります」って言って,最初はそのチンドン屋さんの中に事業部みたいなものを作ってそれをやるっていう風に言って,最終的に自分がそれを買い取って,日本全国で興行するとこまで行ったんですけども,そのバイタスコープの映写機とフィルムを持って楽団15人を連れて日本中を廻る,そういうなことをやったんですよ。で,おそらくこの映写機の電気で回すようなクランクを手で回すわけなんですけど,このクランク操作と説明を駒田好洋は自分でやるわけですね。クランク操作自分でやってると同じシーン何回も見せれるんですよ。で,スピードアップもスピードダウンも思いのままだから,自分が説明しやすいところはゆっくりと回して「はい,ここが聞くところですよ」っていう風に言って,「ここら辺ちょっとよく俺もよくわかんないよ」って早回しで客を笑わせるとか,いろんな手札を使って見せたわけですよね。でそういう公式の記録に残ってる,電気の本当にない北海道の最果てまで公洋は来た。ですから,炭治郎の村って,さっきのあの電信柱の話思い出してください。電気あるんですよ。電気のない村にまで行った好洋が電気がある街に来てないわけがないんですよね。でおまけに駒田好洋以外にも興行師っていうのは山のようにいたんですね。 いっぱいいて,で,そいつらが日本中ぐるぐる回ってたんですよね。
で,上映作品は,まず1番の売りになったのがこの『かっぽれ』ってのと,あとこの右上の方にある『三井呉服店』っていうのがあるんですけど,これが割と呼び水になったと言いますね。あと『頗る非常なる栄会』って,この3つですね,当時の日本の風俗とか風景ですね。で,1番下にある『芸者の手踊り』っていうのがあるんですけど,これなんか日本初の商業映画っていいます。駒田好洋自身が金出してカメラ買って,多分本当に22歳ぐらいなんですけど,金出してカメラ買って自分で撮影して日本初の商業映画撮っちゃったんですけど。でところが,そういう風に客を呼ぶのはこのかっぽれ踊りとか日本橋のご服屋だったんですけども,実際に見せてみると人気が爆発してるのが海外の風景なんですね。当時日露戦争に勝った日本の大衆っていうのは,外国の情報,外国の映像に関して頗る非常な興味を持っていたという風に伝えられています。
…という訳で無料パートはここまでです。とにかく俺思うんだけども,明治時代のユタボンだよ。実行力があるユタボンでさ,15歳ぐらいで家出してるすごい変なヤツで,言ってることの1/3ぐらいが嘘って,ここら辺も何かユタボン臭がして(笑) じゃあ後半行こう。 今日のメインテキスト『頗(すこぶ)る非常! 怪人活弁士駒田好洋の巡業奇聞』『怪盗ジゴマと活動写真の時代』ですけども,ここに「怪人活弁士」ってあります。活弁っていうのは活動映画の弁士の事。無声映画の時代,映画に声も音もついてなかった時代に,映画のセリフとか音を喋る人の事を「活弁士」って言ったんですけど,当時彼らは自称「説明者」って言ってます。活弁士っていうのは,何かちょっと身分が下っぽく見られて嫌がられたんですよね。
で例えば映画『Shall We Dance?』の監督をした周防監督が2019年に作った『活弁』って映画があるんですよ。 で,その中で,田舎の村に活弁士が映画と一緒にやってきます。一座を引き連れてやってくる描写があります。 で,映画で『怪猫』という無声映画のシーンが出てきます。明治の化け猫の特撮映画なんですよ。 でスクリーンの左の方に,ちょっと暗くてよく分かりにくいんですけども声色弁士がいます。声色弁士っていうのは,それぞれの担当の役を2〜5人がかりで1本の映画の台詞を分けて話す,本当に声優ですね。でこの『怪猫』はチャンバラ劇なんですよ。いわゆる明治時代なんですけども,その時代にはないチャンバラ時代劇っていうのをやる時は声色弁士を使うんですね。
しかし当時人気作だった海外映画はスター弁士が1人やってるんですね。これは人気のスター弁士が出てくるシーンなんですけど,フロックコートを着て完全な洋服を着て,銀幕の前に立ってるんです。何故銀幕っていうのかっていうと,スクリーンは白いシーツなんですけども,映写前に,助手がスクリーンに樽で水をパッと綺麗にぶっかける。そうすることによって,白いシーツ自体はただの白い布なんですけども,キラキラと光ってまるで銀のように見えたって事から,「銀幕」っていう風に今でも言います。別に当時の映写スクリーンの成分に銀が入ってたとか,そういうことじゃなくて,ただ単に上映前にバケツでスクリーンに水を綺麗にパーっとぶっかけると,それに光が当たってキラっと光って見えたから銀膜っていう風に言ったそうです。で,その銀幕の前でフロックコートを来たおしゃれな弁士が一人で喋るわけですね。で,当時は海外からフィルムと同時に台本も取り寄せたんですけど,台本に書いてある台詞だけでは内容伝わらないですよ。
当時の明治37年ぐらいにヒットしたのが,ローマ時代の戦争映画の『アントニーとクレオパトラ』ですね。 『アントニーとクレオパトラ』って明治の終わりに,それぞれイタリアとアメリカで映画化されてるんですけども,もうそんなの観てもわかるはずないんですよ。これ公開当時の浅草の様子です。浅草電気館で『アントニーとクレオパトラ』って書いてあって,なんかローマっぽい絵が描いてあって,ものすごい人が集まってるんですけども,こんなに人が観ようと集まった。しかもこの映画尺が58分。長い。当時の映画としたら破格の長さ。当時のフィルムって1巻ごと,ワンリールごとで10分ぐらいなんですよね。短いので7分,長いので13分ぐらいしかない。なので,その10分ごとにリール入れ替えなきゃいけないんですよ。 その時に次の上映のこともあるから,1回リール抜いて,予備のリールに全部前のやつを巻き取って,頭とお尻をもう一回逆にして,次のリール入れてやるから,最低でも5分,長ければ10分ぐらい時間がかかるんです。かなり時間費やされるんですよ。でそれでも大ヒットして,ここに新聞記事が載っています。でこの交代時間…リールを交代する時に,説明士…活弁士って後に言われた言葉で,彼らは自分たちのことを「説明士」とか「説明者」って言ってたんですけど,説明士が,このリール交換の時に,これまでのまとめ話してくれるんです。10分ぐらいの訳のわからない海外の無声映画を観て,生演奏があるから音楽だけはついてるんですけど,で,それが終わると,ここまでもまとめての話してくれて,この先の展開も大体ざっと話してくれるんです。「アントニーの運命やいかに…」とか。あと当時の時代背景も説明してくれるんですね。「当時,エジプトはローマ帝国の支配にあって,女王クレオパトラはそこで捕虜になって,一回ローマに連れてかれたんだけども,絨毯の中に隠れて,アントニーが出てきて,そこでラブラブになっちゃうんだよ…」っていうのが説明される。これシェイクスピアが戯曲で書いて,ヨーロッパアメリカでは,そのシェイクスピアをエリート層は教養として読んでるし,舞台も観てる。『アントニーとクレオパトラ』って,当時の日本人にとっての『忠臣蔵』の討ち入りものとか,現在の日本人にとっては『ちびまる子ちゃん』や『ドラえもん』の基本設定みたいなもんですね。知ってて当たり前のもんなんですね。だから海外では映画として成立するんですけども,東洋の果ての日本では,誰もシェイクスピアとか読んでる人は禄にいないんですよ。だから,本当はこんな大衆の街浅草に人々が詰めかけたところで,絶対ヒットするはずがないんですよね。 なので,ヨーロッパとかアメリカでは,この『アントニーとクレオパトラ』が作られて上映されて58分の映画やった時は,説明士いなかった。あの,ちょっと言っとかなきゃいけないのは,説明士活弁士って日本特有の文化だった。当時,日本の影響化にあった,当時の日本の植民地だった韓国とか台湾とか,一部の東南アジアの国では,映画上映された時に日本と同じように活弁士が出てきて「…どうなるでしょうか?」ってやったんですけども,日本以外の国では,映画上映で誰かが出てきてストーリーを説明するとか全くないんですよ。 日本だけなんです。映画誕生当時は,最初は活弁士あったんですよね。 エジソンのキネトスコープにしても,フランスのリュミエール兄弟にしても。なんせ,フランスにリュミエール兄弟がやってる映画なんて,工場の出口から女の人が仕事が終わって出てくるというのを撮っただけの映画なんですよ。5分もないわけですよ。 それを金取って観せるわけだから,持たないんですよ。 5分だから尺がないので,どの国も日本もそうなんですけど,まず口上というのやるんです。 「さて,ここに取りい出したるは,かのエジソン翁が発明してましたる,頗る非常な世紀の大発明でありまして,モーション・ピクチャア,日本語で活動写真と申し上げます…」みたいなことを30分喋べる。30分喋ってみんなが「早く観せろ」ってなって,「フランスの工場から婦人たちが…」って,これもう世界中でそうだったんですよ。 なのでその黎明期はトークというのがついてて当たり前だった。当時のエジソン社が作ったフィルムってのも,エジソン社の庭に水を撒くというだけのフィルム。 一応ギャグが入ってて,水を撒いてると,途中のホースを子供が踏んでで,水撒いてる人が「あれ?水出なくなった」と言って顔向けた瞬間に,子供がホースから足を外して顔にバシャってかかって,ここで一笑いが起こる。これも本当に数分しかないフィルムなんですけど,これを公開するのにやっぱり,「これは何なんだろう? 」ってなるから「これははホースといって,管から水が…」って言わないと観客はまあまあよくわかんないわけですね。 なので,映画の説明者っていうのは最初は世界中にいたんです。尺を繋ぐ問題もあるし,内容を説明する必要があったんですけども,フィルムがどんどんどんどん長くなっていくんですね。そして映画の中に字幕が入るようになって,ストーリーが語られるようになると,説明者解説者というのはいなくなった。 日本以外では。ところが日本だけは唯一残ったんですね。
日本で活弁士が残った理由は何かっていうと,地方巡業が多かったっていうことが一因じゃないか。この本にはあんま書いてないですよ。何故日本だけ活弁士が残ったのかっていう,その明確な理由って,それぞれの説あるんですけど,書いてないんですけども。日本では,最初見せた,いろんなフィルムをまとめた1枚のポスターありましたけど,あんな風にいっぱいいろんなものを見せなきゃいけなかったんで,中継ぎで説明をいっぱいする必要があったと。だから,まず日本では真ん中の説明が盛んだったんですね。で,これを真ん中の説明「中説(なかせつ)」っていう風に当時から言われるようになりました。映画と映画の間で「このフィルムはこのようです,さて,次はこんなフィルムなんですよ」っていうのを説明することを「中説」って言うんです。で,それに対して, 映画の前に「さてここに取りい出したる,映写機というものをご存知でしょうか?電気の力で動きます…」という,映画の前にする前説明,これが略して「前説(まえせつ)」と呼ばれる。今僕らが,お笑いの現場とかテレビとか,そういう所でよく聞く「前説やらせてもらってました」とかよく言うじゃないですか?僕もよく言いますよね。1番最初に生放送が始まる時にですけど,前説っていう風に言うんですよ。前説っていう言葉ですね。このルーツは,実はこの活動映画からですね。ところがこの『アントニーとクレオパトラ』みたいな40〜50分尺の映画作品になると,活弁士というのが一切姿が消す。で何故日本だけ活弁士が残ったのか?とか,一応,この本の中身をまとめた説明後でやります。
で,さっきも話した通り『アントニーとクレオパトラ』は58分あって,でも欧米で当たり前のですね。ローマ帝国,エジプト,海上の戦闘とか,そういう常識が日本人は全くありません。で,一応映画の途中とか合間とかに,活弁士が思いっきり説明しないともう本当に話がチンプンカンプンなんですね。 なので,日本は映画といえば,活動写真といえばスクリーンの横で弁士が付きっきりでずっと喋ってるのが当たり前だったんです。で,弁士によってセリフが違うんですよ。これも当たり前ですね。正確なセリフの台本が来るわけじゃないから,みんな想像で喋るんです。で「お茶の子さいさい…」「任せろ合点だァ…」とか,日本語の符丁もガンガンガンガン入れる。だから弁士によって面白さが違うんですよ。 同じ『アントニーとクレオパトラ』でも,この人がやると世紀の悲恋の物語,ところがこっちの人がやると大爆笑の喜劇にしてしまう。当時の世相をテーマにパロディとかをやった,今でいう爆笑問題がやってるような世相漫談みたいなものにしてやってしまう弁士もいたそうです。当時の日本の首相とか,陸軍の大臣とか,或いはなんか笑い話があったらそれを巧みに話の中に盛り込んでやるということもやってたそうです。で,それが理由で映画よりも弁士の方が人気があった,そういう時代だったんですね。
で,その時代に, 明治から大正にかけて日本一と言われたのがこの駒田好洋ですね。1877年(明治10年)7月1日生まれですから,僕と同じ誕生日です。 やっぱりペラペラ喋るヤツっていうのは同じ運命の星ですね(笑) 明石家さんま,駒田好洋,岡田斗司夫,全部7月1日生まれで,全部言ってることは半分言い加減で全部ペラペラ喋るっていうヤツですね(笑) ウィキペディアによると,映画の興行するばかりではなく,日本初の商業公開用の映画を制作し,さらに日本初の劇映画も作ったということで知られているそうです。そこそこ新しいフロンティアを切り開いたんだけど,それで大儲けしたわけではないというところもそっくりですよね。生まれたのは大阪です。で実家は呉服屋なんですけども,15歳で家出して,そのままアメリカへ行く。神戸の舶に乗って密航で行ってしまいます。で2ヶ月間アメリカ放浪したんですけども,まあまあ仕事もなくて,貧乏で浮浪者になってたのを警察に捕まっちゃって,日本へ強制送還されました。はっきり言えばこの家出は大失敗だったんですよ。ところが日本に帰ってきた好洋は,「アメリカでもうほとんど乞食やってましたとか,ホームレスやってました」っていうのを「アメリカでエジソンの弟子になった」って嘘を言う。嘘っていうか,これ駒田好洋の自伝って本当にわかんないそうなんですよ。ていうのは,本人自身が乗って書いて,面白いようにどんどんどんどん盛って話すから,ある人は「ほとんど嘘だ」と言うんですけど,ところがとことん調べてみると割と本当だったっていう。ここら辺もなんか俺親近感覚えるなーって思うんですけどもですね。
で,「エジソンの弟子だ」と言ってるのは,これは100%嘘だと思います。で,日本に強制送還された後,次は実家の呉服屋に帰らずに東京に逃げるわけですね。で,東京に逃げたら,まあまあそういう大阪での悪い評判伝わってないので,「神戸からアメリカに行って,エジソンの弟子になった」っていうホラ吹いて,そのプレゼン能力が買われて,東京一のチンドン屋さんの会社「ひろめ屋」っていう,話を広める,宣伝を広めるから「ひろめ屋」っていうところに店員として入店しました。でさっきも話したように,この時代,駒田好洋が始めた映画興行のポスター。無料の最後も見せたこのポスターですね。元々チンドン屋さんなんで,こういう風に自分たちのことをものすごいように書いて盛り上げて,で街へ入る時も普通に入るんではなくて,街の少し前でトラックを降りて,パレードしながら街に入ったそうです。で,自分から「天上天下唯我独尊」っていう風に言っちゃったんですね。 日本での活動ですね,「元祖・頗(すこぶ)る非常に大博士」って言います。で,駒田もやっぱり活弁士という風に言われるのを嫌って,自分のことを「映画の教育者」「フィルム教育者」という風に名乗ってました。
駒田が優秀だったのは何かっていうと,やっぱチンドン屋さんのちょっと大きくなった広告代理店ぽくなるんですけど,「ひろめ屋」の一部門だった映画興行部門を,その得意の大ボラと名調子でどんどん大きくしたことだと思うんですよね。 で,活動写真が流行る前,普及される前にして,すでに日本では実はスライドによる上映店が流行ってます。スライドで上映で日露戦争の戦争写真とか,あとは日本の様子みたいなものをスライド写真を投影してお客さんにトークするのはすごい流行ってたんです。で,この駒田は,この語りが頗る非常に大得意で,芝居小屋を次々と活動写真の専門館,あるいは併用館に変えた。つまり,普通の芝居小屋より暗くしなきゃいけない。芝居小屋なら,普通の芝居もやって役者の顔が見えるように明るく作る。明りもいっぱい灯けて,そんなにドアも閉め切らない。 それを完全に締め切れるようにして,前にデカい幕を置いて,何より大事なのが映写機から割とでかいノイズがあるので,映写機を入れるブースみたいなのを作る。トイレみたいな小部屋を映画館の後ろの割と真ん中に置かなきゃいけないんですね。そういう風なものを作らせる。で,これは芝居小屋とかが嫌がることもあったんですけども,とにかく映画やったら,活動写真やったら客が入るもんで,駒田のプレゼンの上手さもあって,日本中の芝居小屋がどんどんどんどん少なくとも映画も上映できるようになっていった。もう早めに映画館に切り替えちゃった芝居小屋も多かったんですけどね。
■ 東京市の人口の5倍の観客が押し寄せる
で駒田の活躍でどんな変化が起きたのか?ですね。 東京都の観劇者人数の推移のグラフでみると,明治40〜45年,この時期に映画だけでなく,お芝居舞台を観に行く人の数っていうのは340万人>>520万人>>730万人>>ってなってますけども,この時の明治40年前後の東京市の人口はたった250万人なんです。これ変でしょ?たった人口が250万人なのに何故お芝居に行ってるのが340万人もいるんだ?730万人もいるんだ?それだけ異常だったんですよ。それだけ当時,芝居とか映画が大ブームだったんですね。しかし本当にすごいのが,こっから先の伸び率なんです。明治45年が270万人って,これ戦争とかで一回ちょっと東京市の人口が減ったからなんですけども,大正になって,いきなり1200万人って,いきなり3倍に増えちゃうんですよ。で,この3倍に増えた理由が明らかに映画なんです。東京市の人口変わんないですよ。人口250万人のままで,活動写真の影響でその人口の5倍の人数が映画館に行くという事態になってるんですね。 で,これ何故かというと,明治天皇のお葬式映像があったからです。明治天皇のお葬式映像があって,で次の新しい大正天皇の映像とかスライドがあったので,みんな本当に「行かにゃいかん」って行ったんですよ。これを見なきゃいけないという風なことで,かつての東京オリンピックの比ではないですね。いわんや『鬼滅の刃』の比ではないです。とりあえずこれを観なければ日本人であるはずがないという風なぐらい盛り上がって,それでみんな映画館に詰めかけたわけですね。で,それ以上に…明治天皇のお葬式以上って言ったらもう失礼になるかわかんないですけど,それよりもヒットしちゃったのが,この大正元年の『怪盗ジゴマ』でした。『怪盗ジゴマ』,本当にこれメガヒットした。
で,東京都の人口はさっきも言ったように,ほとんど変化がないので,もう今で言うとコンビニ行くぐらいの頻度で,とにかくポケットに今の値段で言うと200円以上ある人は全員行ってたぐらい映画に行ってるんですよ。で,このさっきも話した,東京市の人口の5倍行ってる,3倍に増えた映画人口,劇場人口って,まるまる映画の観客層なんですよね。で,東京に住んでる人は大体,大人も子供も,家庭の主婦も老人も,みんな週に1回か少なくとも月に2回,映画に行ったって言われてます。で,この辺りは江戸川乱歩なんかの小説を読んでみると,どんなに当時の人が映画に当たり前のように行ってたのか,芝居を観なくなって,映画に当たり前に行くようになったのかっていうのを書いてあります。で,その行った人のほとんどが,駒田好洋を始めとして,映画よりも活弁士で観るものを選んでいた,そういう時代でありました。
■ 活弁のルーツを辿る
何があったんだろう?って本当僕も思いますよね。で,後で紹介しますけど,じゃあその『怪盗ジゴマ』って面白いのか? 今もYouTubeで観れるんですけども別に面白くないんですよ。 ただ何故それに皆そんなハマったのか?っていうのが,今日の話なんですけどもですね。「今でいうカリスマYouTuberみたいな感じ?」…そうですね。 もう本当に登録人数500万人超えのYouTuberを10人集めたぐらいの知名度とヒットと,あと皆の陶酔度,本当にその人の話を聞きたくて聞いたことだと思ってください。それが結構頻繁にどの村にも来るんです。駒田好洋が去ると次は誰それが来る…ってことで,毎週のように新しいその活弁士が自分のチームを率いて自分の村に来るんですね。大体何人かの楽団を率いて来る。で,前半の時代劇の古い映画,忍者映画とかそういうやつでは声色活弁士を使って話をしたりしてるんです。でも後半の,ちょっと高級なアメリカ映画,ヨーロッパ映画,イタリアやフランスの映画とかだと,フロックコート着た超かっこいい活弁士がやる。それを聞いてそれが去ると,また,次の週には新しい活弁士が観たことないフィルムを持っていく…そういう風な時代だったんですね。
じゃあ何故その日本人はその映画,海外のようにフィルムそのものを観るんではなくて,活弁士で観るっていう方法を選んだのか?ですね。これは今,僕らが現にYouTubeでどんな動画を観てるのか?っていうアナロジーで考えると分かりやすいと思います。大体みんなYouTubeでどんな動画観るかって言うと,ニュースですよね。あとまとめですよね。これどうなってんだ?っていうまとめとか,あと切り取りですよ。まァひろゆきとかそういうのがどんなこと言ったって切り取り。ここら辺観るんですけども,これ要するに,それはもう僕ら皆同じで,「面白いかどうかわかんないことに無駄な時間を使いたくないから」なんですよ。つまり時間的なコスパをよくするために,まずはまとめとかを観ると。テレビでニュースを観るんではなくて,その「観たい部分のニュースだけをタイトルつけて,YouTubeで公開してくれたらニュース観るわ」っていうやつですよね。で,これ現代人気質じゃないんですよ。江戸時代からの当たり前なんですよね。「江戸ッ子は気が早い」って言ってるんですけども,日本人ってその江戸の頃から気が短くて,YouTubeのまとめとか観るのは別に現代人だからではなくて,それはもう江戸で本当に僕ら日本人として当たり前なんですよね。落語ってあるじゃないですか。あれ,僕,落語家になろうと思ったことが20年ぐらい前にあって,その時に落語家の起源調べたんですよ。で,よく本に載ってるのは「落語の起源っていうのは,豊臣秀吉が持っていた御伽衆(おとぎしゅう)っていうのがいて,その御伽衆が色々な面白い諸国の話をしてくれて,その中に曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)という,実はそれは忍者の一派で諜報活動みたいなのをしていて…」って載ってるんですけども,実際に実は落語の起源っていうのは何か?っていうと,芝居の幕間にショートカットするの役割だったそうですね。当時,江戸時代半ばぐらいから,お芝居のストーリーがどんどんどんどん長くなっていった。で一つの話を連続で観せようとしたら3時間以上超えるのが当たり前だったんですね。で,当時その琵琶法師とかが三国志とか語るわけですよ。 語るんですけども,もう三国志を語り始めて2週間か3週間経つ頃に,ビラをいきなり出して「今夜より諸葛孔明登場」って書くんですよね。そこまで諸葛孔明出てこない。つまり,その1人の演者がガーっと話して,お芝居の内容っていうのは話しても,話し終えるのに3週間とか4週間ぐらい語るような,それぐらいの分量。話の蓄積がすごく多くなってきた。なので,芝居に行くっても一日仕事になっちゃうんですよ。お芝居の幕の内弁当っていうのを幕間に食べるというのは当たり前で,朝から行って,下手したら暗くなるまでずっと観てるのがお芝居だったんですよ。で,こうなると観る方も疲れるし,大変になってきますよね。 でやる方もとりあえず予算もかかるし,疲れて1日に1回しかできないから大変だということで,面白い部分はやりますと。だし人気がないんだけど,必要な部分どうしようかってことですね。そこで説明士が生まれるんですね。これが後の落語家で,そのAパートやったら次Bパートやるんですよ。 で,BパートとCパートは口でペラペラしゃべるんですね。 でこれが,その舞台の真ん中に座布団を敷いて,話して,で,一応お芝居話すもんだから,右左話分けをやって,お芝居みたいなものをやるっていうのが,これが落語家の始まりだっていうのを,僕20年ぐらい前に調べてそうだったのかってすごい!びっくりしたんですけども。
だから噺家が生まれるのは,日本人が話のうまい人の語りを聞くっていうのがもう大昔からあったからなんですね。なので,これ分かりやすいのは,日本人のYouTuberっていうのは語りで観せる人結構多いんですよ。でも海外のYouTuber観たら,実演主義なんですね。つまり何かやってみせて,その合間に話をするっていうのは,海外のYouTuberの特徴なんですけど,日本のYouTuberって,割とカメラ目線でずっと話してっていう人が結構いるじゃないですか?あれって日本人のYouTuberの特徴なんですよ。海外のYouTuberって観せて話すんですよ。観せながら実演しながら。ところが日本人のYouTuberにももちろん実演系はいるんですけども,でもそれより多いのが,話すだけっていう人。話すだけを退屈せずに聞いちゃう。 それが日本人の観客層の特徴なんですよね。
「絵解き」っていうのがあるんですね。 「絵解き」っていうのは鎌倉時代よりもっと前の平安時代中期ぐらいからあったそうなんですけども,説話画っていうのを見せながら僧侶が説明するのを「絵解き」って言うんですけども,説話画って分かりますか?仏教のありがたい絵のことですね。地獄とか描いてる場合もありますし,お釈迦様の誕生の話もあります。「お釈迦様が悟りを得た時にこんな事件がありました」みたいの,あるじゃないですか。そういうありがたい説話を,巨大な絵を見せて,偉い徳のあるお坊さんがそれについて庶民に話をするっていう,これを「絵解き」という風に言ったんですけども。 この時代は極楽浄土とか地獄とかいう,本当に仏教的な話だったんですよね。しかし鎌倉時代ぐらいになってくると,もう偉いお坊さんである必要ないんです。それよりはトークがうまいヤツがいいんですよ。なので,お坊さんのコスプレをしただけの大道芸人がやるようになったんですね。 さらに室町時代になると,もうもはやコスプレもしなくなったんですよ。ただ単にちょっと派手な格好した婆娑羅な歌舞伎な格好した元気のいい若者が,ハイテンションで喋るっていう,本当にYouTuberみたいになったんですよ。もう室町時代になると,話す内容ももう絵解きじゃなくなったんですよ。絵は使うんですけど,仏教のあり方のお話しじゃなくて,有名人の話をするようになった。例えばその楠木忠重の生涯をイラスト化したものを持ってって「泣けるねっていう風に話したり,「オイオイオイ…赤穂浪士が討ち入りしたって言うじゃないか,あれ,実はこんな話があってな…」っていうようなニュースの裏話みたいな。本当にYouTuberと同じような事を,その一応ボードを使って説明しながら話すっていう。で,あと「絵解き比丘尼(びくに)」っていうのが室町に現れた。「比丘尼」って女性の尼さんのことですね。女性の尼さんのことなんですけども,ちょっとエロい絵解きをやってるんですよ。極楽の図に裸が描いてあったり,地獄の図に裸が描いてあるんですね。 そのちょっとエロいヤツを「ああ,そんな無体なことを…」「エイ!まだ吐かぬか!そうなればこうやってキリキリ攻めてやる」「はあァ…」みたいなことをエロ声で言って,で絵解きが終わったらそのまま売春するっていう,すげえ職業があったんですけど,こういう文化が,日本には江戸時代の前からあったんですよね。
で,こんな感じで,江戸時代は完全に僧侶による元々の説話画っていう文化が衰退して,それと分離して,本当に面白い事件,みんなが関心を持ってる出来事を絵にして,それを前にして声色を使って話してっていう,ほとんどアニメとかYouTuberに近いような芸能として,日本では完成してた。これもやっぱ他の国にはないんですよ。この日本という国の特殊なところって,どの辺がよくわかんないですけど,こういうのがどんどんどんどん進化していくんですよね。で,絵解きのポイントというのは,もう絵というのはもう途中からどんどんどうでも良くなってるんです。「解き」なんですよ。つまり説明なんですよ。説明がポイント。でこれをその戦後,日本の娯楽がない時代に復活させたのが「紙芝居」。紙芝居というのは,実は室町時代の絵解きにすごい近い。大体あれぐらいのサイズの絵を見せて,ゆっくりと話しながらチラチラ見せながら「続き観たい人はアメ買っておくれ」っていう,あれは,その語り部として室町時代の絵解きっていうものを復活させたというポジションになってます。 すなわち落語とか講談っていう話芸の大元っていうのは絵解きだったんですね。
しかし,江戸中期になると絵解きより芝居が増えてくる。古臭い絵よりも豪華な舞台で観たい。舞台でイケメンや美女が演じるのを観たい,それで芝居が人気になって,絵解きは廃れていく。ところが芝居は,話が長くなって,登場人物も増えていく。で江戸ッ子は気が早いから,舞台に30人上がったら35人上げないと満足しない。そうやって芝居の規模が増えて,しかも人気役者が引き抜かれたり死んじゃう事もある。それどころか,人気役者が下手すると,ただ単に年をとっただけで人気が落ちてくわけですね。だから,本当に安定的な収入限ではないんですよね。そんな中生まれたのが人形浄瑠璃と写し絵です。 人形浄瑠璃って関西のルーツなんすけど,何が面白かったって,操り人形なんですよ。で,操り人形にハードな恋愛話とか恨み節をさせるんですよ。つまりお芝居では割とスタンダードな「このままでは…いっそ一緒に死のうか」みたいなものをお芝居でやるんですよ。ところが人形浄瑠璃では「一緒に死のうか…」と言って,実は男は死にたくなかったので,女をこっそり殺すと,赤く変わった女の人形が「この恨み…」みたいなドロドロの話になるんですよね。 つまり江戸時代の『まどか☆マギカ』や『ひぐらしの鳴く頃に』だと思ってください。 「萌えキャラだからドロドロが面白い」,これが人形浄瑠璃のポイントだと思っておけば,古典芸能をちょっと面白く観れると思うんですけど。萌えキャラにきつい話をさせるのがすごい流行ったわけですね。
写し絵っていうのは,この人形浄瑠璃よりさらにコストを下げるわけですよ。 コストを下げて,もっと見せ物として楽しくしようとした。人形浄瑠璃の方は,人形だから手間はかかるというのもあるし,操作も大変なんですけども,どんどんどんどんお話がドロドロになっていってちょっと楽しく見るような話じゃないんで,もっとドラえもんとかポケモンみたいな楽しい話にできないの?っていうことですね。江戸末期に登場したのが写し絵ですね。 これは歌川広重が描くいた『流行浮世写絵』っていう版画じゃなくて肉筆で描いた絵画ですね。 プリントですけども1867年,江戸の末期に描きました,この時代の流行を書いたやつなんですけども,観客が観てるのは,イラストじゃないんですよ。世界初のアニメーションなんですね。 写し絵の原理って,観客がいたら間にスクリーンがあって,裏側に箱を持った人がいっぱい立ってるんです。で,スクリーンに要素は写ってません。 ダルマとか花とか,1つ1つごとに実はスライド映写機があって裏から投影してるんですよ。これが世界初のアニメーションなんですけど,おまけにこのスライドの機械見ると,カシャカシャと切り替わるようになって,つまり絵を動かすことができたんです。で明りは油です。映写器の中にロウソクとか油が入っていて,それをレンズで拡大する。大体,江戸時代中期ぐらいに西洋から渡ってきたギアマン,ガラスを磨いて作ったレンズです。当時日本でもガラスは作れた。 それを使ってこういう風なものをやってた。で,これってスクリーンの裏側からスライドを映して,キャラごとに違うプロジェクターを手持ちで動かしてアニメーションを作ったわけです。きっかけは,さっき話したオランダから入ってきた新しい素材ギアマンガラスですね。で,江戸の地域には,このギアマン製の風輪とかコップもあったという風に言われてまして,かなり一般的だった。ギアマンを使ったスライド自体を発明したのは2世紀の中国です。 それが17世紀ぐらいになって,ヨーロッパでスライドショーが大流行したんですよ。 で,ただこれ日本では,このヨーロッパで流行ったスライドを,小回りのできる携帯プロジェクター「風呂」,お風呂と同じ風呂っていう字ですが,風呂に進化させました。 風呂と種板は,今の時代に復元されたんですけど,風呂と言われる,光源が入った,明りが入った箱に,レンズが何枚かついていて拡大できます。 で,この種板と言われるガラスの板が入ってます。この種板ってよく中見るとこのだるまが上下逆さに投影されるから逆さになるんですけど,上下逆さのだるまの,ちょっとずつ違う絵がガラスの上に直に描いてあるんですね。これを切り替えることで,まるで動いてるように見せるわけです。中にはこの種板の端の部分がリング状にくり抜かれてて,そこに円盤型の種板と周りの縁が埋め込まれて,糸が張って,でこの糸を引っ張ると種板がくるくるっと回転する。つまり中に入っている人物キャラクターがトンボ返りをしているように見える。そういう種板もあったんですよ。 本当にもうアニメーションなんですね。 で,さっきのあの最初に見せたやつに戻りますけども,舞台上にまず巨大な和紙が貼ってあるんです。巨大な和紙に水をかけて透明度を上げます。 で,観客と和紙との間に簡単なセットを組んでる。もうミニチュア特撮の原理ですね。舐め物としてのセットが組んであって,この間で煙を炊いたりして雰囲気を出す。でこれ,1969年の少年マガジンで大友庄司さんが解説した機構なんですけども,まず岸辺の風景だけを映すのに風呂が1台。これ,固定式です。 川の水を移すのに移動式の風呂が2台用意してあります。で,この船を写す専門の風呂ですね,で,船の上に乗ってる船頭さんを動かしたり,映すのにまた風呂1台で…
で,この写し絵っていうのは,実は20世紀の半ばぐらいまで,欧米には伝わってなかったんですね。なので,今現在映画の歴史が,実はヨーロッパの世界でも書き変わってて。エジソンとかフランスのルミエール兄弟より先に,日本で本当に大衆向けに公開された興行としての世界初のワイドスクリーン映画であって,世界初のアニメーションであると。 そういう風に研究が進んでる。まだヨーロッパのウィキペディアでどうなってるのか僕知らないんですけども,徐々に徐々に写し絵って言葉が出てきてるそうです。
で日本人ってその渡来した鉄砲を,オランダとかポルトガルから渡ってきた鉄砲を異常に進化させたんですけど,同じようにスライド映写機とかスライドフィルム自体,ガラス板自体を徹底的に改良進化させたわけですね。
で,こういう写し絵なんですけど,やっぱり弱点はセリフがないんですよ。 で説明士が要る。一説によると,吉原の口上師ですね。「ここの界隈はここここだよ」「お兄さんお金がこれぐらいしかないか,だったらここのお店がおすすめだよ,みんな性格良くて器量良し,嗅いでから匂いなんて,本当にすっと鼻から入ってきて…」みたいなことをいう口上師って,吉原にはその口上を言うだけの口上師っていたんですけど,そういうのを引き抜いて,この写し絵の説明士として使ったそうですね。これ江戸末期なんですけど,で,江戸が終わって明治が始まる頃,芝居小屋ではお芝居以外のいろんな見せ物をやる総合エンタメ施設になってたんですよ。 そして進化するしかなかった。っていうのは,さっきも話したように,お芝居は本当にコストも手間もかかるんですね。なので,怪しげな見世物をやったり,落語やったり,歌歌うだけの歌謡みたいなものをやったり,踊りやったり,ひどいところは,服はだんだん脱いでいく,ストリップの原型みたいなことをやったり,あと,パノラマを見せる,いわゆる海外の風景とか,そういう風なものをミニチュアでジオラマも作ってそれを覗かせるパノラマっていうのも流行ったそうです。で,それぞれに口上師が必要なんですね。説明が必要なんです。 で,それで面白さとか見所っていうのをみんなに説明するわけですね。 で,今例えばセブンイレブンで新製品のお菓子とかサンドイッチが出ると,YouTuberが安いだの,おいしいだの,スカスカだとか詐欺だとか騒ぐじゃないですか?なんかああいう紹介があるのと全く同じで,そのYouTube文化って僕ら思ってるものは,実はその江戸時代から明治時代に渡るメディアの進化っていうのをきっちりなぞってるんです。全く同じような進化を遂げてるところが面白いと思います。
■都市型ホラー『怪盗ジゴマ』
話戻って,そんな時代に輸入された最新の見物が,シネマスコープとシネマグラフなわけですね。で,これも説明士を必要としたんですけど,やっとここで話が繋がるんですけど,日本では,その平安時代の絵解きから始まる口上文化,説明士文化,語り部文化があるので,西洋では説明士が必要なくなった後も,日本ではずっとその方が面白いからという理由で活弁士は生き残ってたわけです。映画だけを観るよりは情報量として,横でずっと内容と関係ない話とか脚注みたいなものをどんどんどんどん話してくれる方が情報量として高い。それを処理する能力があるっていうことですね。日本人は映画というフィルム情報だけでなく,音楽って音楽情報だけでなく,さらに耳からストーリーとか雑学みたいなものをどんどん取り込んで,同時に楽しむっていうような文化を楽しんでいたんですね。独自の進化を遂げていた。 そのこそ大正の世を揺るがした『怪盗ジゴマ』なわけです。まァここまででもう1時間半喋ってるからここで終わりっていうのもできるんですけど,それではなんか『怪盗ジゴマ』をまだ話をしない方終わっちゃうんで,続けさせてください。
さて,初期の活動写真では,説明士が不可欠だったわけですね。最初言ったように,エジソン社の庭撒きとか,リュミエール兄弟の,汽車がこっちへ向かって走ってくるというだけの映像見せたもんだから,これ何か?って,まず汽車というものの説明も必要だったわけなんですけども,興行がヒットするようになると,さっきも言った通り,次第に説明士,口上師目当てでお客様が来るようになった。 弁士にファンがつくようになって,追っかけみたいなことも行われるようになったと。で考えてみたら,お芝居っていうのは同じ演目を誰がやるのかで観たりするんですよ。歌舞伎もそうですよね。ストーリーがみんな知ってるんですよ。お話はみんな知ってるんですけども,その知ってる話を誰がやるのか,誰が演じるのか,誰が喋ってくれるのかっていうので観に行く。海外のシェイクスピア劇とかも同じですね。知っているものを演じる人がどのように解釈つけて演じるのかっていうのを観に行くわけなんですね。 だからある意味,言い換えればネタバレしてから観に行くっていう,リスク回避とあとコスパ上げてると全く同じ行為なわけです。もう定番で知ってるお話,誰がやっても面白いと決まってるものをどんな風にさらに面白くしてるのしてくれるのか?と観に行くわけですから。これはもうやっぱコスパを上げる行為になってんですよ。リスク回避とでコスパで駒田好洋はこの活弁士として大成功しました。で,その人気をさらに押し上げたのが『怪盗ジゴマ』です。
現存するフィルムに残っているシゴマですね。 悪そうな顔けども何がそんなにヒットしたのか? 舞台はパリです。謎の強盗や殺人事件が続発し,その現場には必ず「Z」の1文字が。私立探偵ポーランは,怪しい車を尾行すると偶然そこは見つかりそうになりながら,ちょっとドタバタあった後で彼らZ団は一斉に車で移動してパリの一流ホテルの宴会場で「我々の悪事は大成功した」っていうんでZ団のなんか大パーティーが始まるわけです。「Zの文字,それはジゴマのことだ」みたいな,もう分かりきったのがあって,ジゴマがいい調子でみんなにこういいこと言ったりして,悪そうな顔で笑ったりしてるっていうのをポーランが見てるという。 ポーランはパリ市警に連絡を取って,その宴会場に踏み込みました。 しかしその怪盗ジゴマは変装の名人であって,おまけに部下も全員変装の名人なんです。部下が階段降りてる最中に他のお客さんの後ろにすっとしゃがみ込んで,次のシーンで立ち上がると全員服が違うんですよね。これ僕YouTubeで観てちょっとおかしかったんですよ。コマ落としの簡単なトリックなんですけど,しゃがんでるともうみんな服が違う。そうするともうポーランも警官もわかんなくて「あ?Z団はどこ行った?ジゴマはどこ行った?」って逃しちゃうんですね。 で,ポーランは階段降りて降りて,ここにもいない。ここにもいないと降りてって階段の1番下まで行くと,Z団は上からグランドピアノをポーランの上に落とすんですね。むちゃくちゃなことをするわけですよ。で,ポーランはやられてしまった。 高笑いをする怪盗ジゴマ,ポーランはどうなってしまうんだろうかというところで前編終わりなんですけど,これで30分ぐらいあるのかな? 映画が終わるんですけども。第2部ではこのポーリンがですね‥ポーランとポーリンと2つ記載があるんです。で,今の大体研究ではポーランだそうなんですけど,ポーランはもう死にかけてですね。 上からグランドピアノ落とされたから死にかけて病の床にあるのを,私立探偵ニック・カーターが引き継ぐ。「もうこれからのことは心配なさらないでください,あなたの悔しい思いあなたのこの意思はきっとこの私立探偵ニック・カーターが引き継ぎます。 」みたいなこと言う。 本当にもうドイツ表現主義,考えてること全部体で表現しなきゃいけない。でニック・カーターはジゴマの敵を討つために潜入していってジゴマの彼女を味方につける。ジゴマは彼女がいるんですけど,それでそっから情報得て,ついにジゴマは倒されるのであった…って話になってるんですけども。さてジゴマっていうのが変装の名人で実は配下っていうのがいて,私立探偵の1人が追いかけていって…というところで敵に殺されてしまう。 その意思を受け取って,私立探偵ポーランが死んだ後,ニック・カーターが引き継いで,ついにはその部下ですね,ジゴマの彼女であったり,部下みたいなものをだんだん攻めることによって,ジゴマの正体を特定して,そしてジゴマをやっつける…って,この話で何かというと『デスノート』なんです。デスノートの元ネタなんですよね。このデッキ,僕どっかで見たことあるなと思ったら,そうか,それでLとか引き継ぎやってんの,これなのか? という風に思ったんですけども。
でジゴマの怖さ。電車の中でジゴマが強盗する話なんですけども,それまで紳士みたいだったジゴマが変装剥ぐと怪しい人間になって,拳銃を持ってて,でこの同じ列車の中にいる貴族たちからお金取り上げたり言うこと聞かないと銃で撃ったりするんですよ。でこれが怖いって言われた。何故怖いって,吸血鬼とかゾンビの怖さ。あなたの隣人もジゴマかもしれない。変装の怖さ。川戸炭治郎の時代にはない怖さ。村の人はみんな知ってる人で,家族はみんな知ってる人でっていう世界にない恐怖ですね。都会にのみ出てくるホラーの話なんですよね。電気で街が明るくなると,都会の恐ろしさの話が出るんですよ。実際にそのロンドンが怖くなったのはガス灯の光で夜も明るくなったロンドンの時代です。切り裂きジャックやシャーロック・ホームズの時代のロンドンなんですよね。切り裂きジャックとかジキルの都市型の犯罪者が出てきたのが,夜明るくなった街なんですよ。で,それは何故変装が恐ろしいのかっていうと,おそらく身分社会の崩壊と,来る市民社会全体に不安があるんだろうなというのをざっとわかるんですけども,その変装の名人っていう設定自体は,例えばモーリス・ル・ブランのルパン・シリーズですね。 ルパン・シリーズとかでアイデアはあったはあったんですけども『怪盗ジゴマ』はその変装の名人っていうのを映画化映像化することでルパンより有名になっちゃう。だから当時の日本人で教養人っていうのは,全員やっぱりジゴマの名前憶えてるんですね。 で,そういう都市の時代に,文明が開いた時代に怪人とか悪役のシンボルになりました…
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