■パソコンの登場
しかしダウンサイジングの主役はいまや超小型機種のミニコンではない。もっとコンパクトな,パソコンやワークステーションと呼ばれる卓上機や卓上に乗るほど小さなコンピュータである。成り立ちからいえば全く新しいコンピュータと言った方が適切かも知れない。パソコン,ワークステーションの歩みは大手主導の歩みから寄り道したところで始まったものだからだ。
半導体開発はIC時代を迎えて,ますます集積化が進み,LSIから超LSIへ,さらに超々LSIチップ(半導体の小片)へと歩みを進めていった。
その過程でひとつの製品が生まれた。ひとつのチップの上に,コンピュータの基本的な能力である演算処理機能を詰め込んだ「マイクロ・プロセッサ」と呼ばれるものである。このマイクロ・プロセッサを中心に作られたのが,個人用のコンピュータ「パーソナル・コンピュータ」つまりパソコンである。
マイクロ・プロセッサが一回にデータ処理できる能力によって,パソコンは4ビット,8ビット,16ビット,32ビットのものが実用化されている。現在の主流は16ビットで32ビットはパソコンの上位機種で使用されている。
「高性続コンピュータを開発するためには,演算素子に優れた半導体を必要としたが,逆に高性能な半導体から生まれたコンピュータが「パソコン」なのである。ありていに言えば半導体のお化けがパソコンである。
そのパソコンの頭脳マイクロ・プロセッサを1971(昭和46)年に開発したのが米国の大手半導体メーカー・インテルである。
■Apple
しかし実際にパソコンを開発し,そのブームの火付け役となったのは半導体メーカーでもIBMなど大手のコンピュータ・メーカーでもなかった。米国の半導体産業のメッカ・シリコンバレーには半導体メーカーやコンピュータ・メーカーだけでなくコンピュータの力の虜になった個人が引き寄せられていた。「ハッカー」と呼ばれたコンピュータ・
マニアたちは,シリコンバレーに集まっては各人の手作りコンピュータの品評会のようなものを開催したりして交流を続けていた。彼らの関心はメーカーのお仕着せのコンピュータではなく,自分たちに必要なコンピュータ,個人が無料で利用できるソフト開発など誰もが使いうるようなコンピュータを誕生させることであった。
そのようなコンピュータ・マニアの中にスティーブン・ウォズニアックとスティーブン・ジョブスという二人の若者がいた。彼らこそが世界最初のパソコンを開発し社会に送り出した張本人である。
ウォズニアックが最初に開発した「アップルI」は回路基盤だけのコンピュータだったが,仲間の間ではさいわい高い評価を得た。そこで二人はアップ
ルの商用化に乗り出すことにしたのである。
1977年,ジョブスが愛車を,ウォズニアックが計算機を処分して得た千数百ドルを元手にニ人は「アップル社」を設立した。パソコンが個人的趣味からベンチャービジネスに変化した瞬間である。会社の研究所兼事務所はジョブスの父親のガレージを改造したものだった。
そしてそのガレージからパソコンの大ベストセラー機「アップルII」がその年の6月に誕生した。軽量プラスチック製の本体に,洒落たデザイン。それまでの手作りコンピュータとは全く違った新しい機械だった。パソコンが「商品」として社会に登場したのである。
アップルIIは,誰もがコンピュータを使えるようにしたという点において画期的な製品であった。発売以来アップルIIはパソコンの愛好者を開拓しまたたく間にパソコン市場を席巻した。 アップル社はガレージ企業から10億ドル企業に急成長しパソコン界のIBMとまで言われるようになった。
パソコンが普及するにつれ,それまでコンピュータが持っていたイメージはがらりと変わった。何か得体の知れない貴重で高価な機械,あるいは大企業の奥の部屋にデンと据えられている計算機で,使用する者はわざわざその部屋まで出向かなければならないというのがそれまでの一般的なイメージだった。しかしパソコンは個人の机の上に乗り使い方も夕イプライターに似たキーボードを叩くだけで使える。機器というよりも日常的な道具であっ
た。それゆえ親しみ易いイメージを持たれるようになった。
1981年4月,「黄金の80年代」の始まりとともにIBMはパソコン市場への参入を発表した。それまでパソコン事業には進出しないと公言していたことを考えるなら,大型汎用機を中心にビジネスを展開してきたIBMにとって,当初はパソコンはコンピュータの玩具にしか思えなかったのであろう。
■IBM-PC
スタートが遅れたものの,IBMが市場に送り出したのが新型パソコン「IBM・PC」だった。3年後,IBMはパソコン市場で業界トップのアップル社のシェアを抜いた。コンピュータ業界の巨人の底力を新興メーカーに見せつけた瞬間であった。
IBMのパソコン分野参入は,とかくマニアの世界の遊び道具と受け取られがちであったパソコンをビジネス分野の製品として社会に認知させる役割を果たした。「あのIBM」が事業として取り組んだという事実が,パソコンに社会的な意味づけを行う効果をもたらしたのである。それにともないパソコン市場には新規参入が相次いだ。
■MS-DOS規格登場
IBMの成功にはいくつかの伏線があった。なかでもパソコン分野に新規参入するさい,従来とは全く違う手法を用いたことである。IBMはパソコン事業を担当するセクションとしてIBMの経営組織に束縛されない一種の独立部隊を編成した。そのうえで全
ての権限を与えたのだった。IBMは本社→地域統括会社→各国IBM(現地法人)という経営組織をタテ軸にして世界120ヵ国以上の営業拠点を統括するとともにビジネスを展開していた。またIBM本社に直轄される形で世界市場を製品別に担当する開発・製造組織がヨコ軸として大型機種,中型機種,小型機種,周辺機器といった分野を担当する開発・製造のセ
クションが全世界のそれぞれの市場に対して責任を持つわけである。IBMでは「マトリックス」とよばれる組織編成である。
マトリックス編成は縦横の相互チェックを行い安定した品質の製品を市場に送り出すことが出来るが,反面決定まで時間がかかるという致命的側面も持っていた。素早い対応が求められるような新製品開発などの場合にはもっとも不向きな体制であった。
その点マトリックス経営から離れた 独立部隊にパソコン市場参入の全権を与えたのはIBMの見識であった。それまでと違って不安定な個人需要の動向を常に注目しながら,身軽な方向転換を要求されるパソコン市場ではIBMの独立部隊はもっとも相応
しい組織といえた。
その軽快な経営組織が選んだ戦術は,これもまた従来のIBMからは考えられないきわめて異例なものであった。IBMは「自前主義」を原則としている。米国の他のコンピュータ・メーカーと違って,システム/360以来,半導体部門を内部に抱え半導体を自前
で開発してきたように,全て自社製品でコンピュータを生産しているのである。だが,パソコンでは基本ソフトの開発を自前で行わなかった。独立部隊であるがゆえ既存の開発組織を利用しにくいという面もあっただろうが,それにしても選んだ基本ソフト「MS-DOS」は、ビル・ゲイツという20代の青年が社長を務める新興ソフトメーカー「マイクロソフト社」の開発したものだった。その頃はパソコン用の基本ソフトとしては,デジタルリサーチ社の「CP/M」が君臨していた時代である。実績,安定性からいえばデジタルリサーチ社の基本ソフトを採用するのがベターな選択であろう。しかし独立部隊はマイクロソフト社を選んだ。そのうえパソコンの頭脳であるマイクロ・プロセッサも自前のものでなくインテル社が開発したものを使用したのだった。
しかし独立部隊の開放主義はそれにとどまらなかった。IBM本社の閉鎖主義とは反対にIBM-PCの仕様までも公開したのである。IBM互換機を認めた,いや積極的に推進したのである。皮肉なことに汎用機部門で互換幾叩きを始めたIBMが,パソコン部門ではなんと最初にオープンシステムを実現したメーカーになっていたのである。
独立部隊が示したこのオープン性によって,パソコン市場は一挙に活性化した。巨人IBMのパソコン市場参入を契機にパソコン・メーカー各社もMS-DOSを採用し一斉にIBM互換機を開発しだしたのである。まさに勝ち馬に乗れというわけだ。たちま
ちIBM-PCとその互換後はパソコンの完全な基準となっていた。.....
ー覇者の誤算,講談社文庫,立石泰則
yhjjuj pc